深呼吸をしてから、顔を拭う。
やっと全て終わった。いや、まだやることがあった。追手を振りい払わなければならない。
体のサイズという一番の問題が解決したのだ。そう難しいことではないだろう。
さっさと森に身をくらませてしまおう。

 慣れぬ隣町ではあるが、幸い当てがある。
町に降りてしばらく捕まらなければ良いのだけれど。

 木々に紛れてすぐ、差し込んだ赤い光に振り返ると、既に数台のパトカーが駐車していた。
どうやら、関心は平常時より数cmも下がった水位にあるようで、思わぬところで目くらましになってくれたようだ。
見たところ湖に居る以外に捜査員はいないようで、当人たちも不思議がりはするものの、乗り気ではなかった。
この件に関しては考える必要がなさそうだ。

 森を抜けると、線路沿いに住宅地が広がっていた。目的地は駅近くにあるから、直に見つかりそうだ。
そこへ向かうまでの間、終始人目が気になった。
森を出るまでに服を絞ってはおいたものの、全体的に湿った女子高生がとぼとぼ道路沿いを歩いているというのは不自然極まりないわけで、
ひとしきり辺りを見まわしながらの移動になった。

 着いたのはオープンテラスのある小洒落たケーキ屋で、日替わりのセットメニューのサンプルが入り口前のテーブルに展示してあるのが特徴だ。
本日のセットは甘さ控えめの紅茶に無花果のタルトと夏らしい物だった。
裏口に回って勝手口のドアを叩く。
少しドタバタと音がした後、開いたドアから顔を覗かせたのは、私によく似た顔だった。
ここは私の母が働くケーキ屋だったのだ。
本来、母の勤務時間は過ぎていたから、母の知り合いを当てにしていたのだが……。

「ま、恵じゃない。心配したのよ、遅くなるって電話したら出ないんだもの」

 言いながら、母は私を抱き寄せ、頭をなでてくれた。

「全身ずぶぬれなんて、不思議なこともあったものね。まずは家に帰ってゆっくり休みましょうか」

 私の身に起こった様々な顛末を、全て説明できるほどの心の整理がついていなかったから、
何の詮索もせずに受け入れてくれた母の顔を、私は見つめ返すことができなかった。
母の車に乗る時も、いつもの助手席ではなく、後部座席に乗り込んだ。まだ何も、話す準備は整っていない。

「今日ね、恵の誕生日でしょう。それも18の。だからね、お母さん職場の人にお願いして特別に誕生日ケーキ作らせてもらったのよ」

 私が喋ることが出来ないほど憔悴していると察してか、母の方から会話を持ち出してきた。
母は私が幼いころからパティシエをやっていて、自宅でつくるお菓子はみんなに人気だった。
みんなのお母さんがこぞって母にお菓子の作り方を教わりに行ったくらいだ。
今年の誕生日は特別だから、設備の整っている職場を借りて作ってくれたケーキは、さぞ良い出来なのだろう。
声のトーンからしても、間違いはなさそうだ。

「それでねぇ、作ってる間に思い出しちゃったのよ、お母さんの18歳の誕生日の事」

 ちょうど今日と同じでね、と少しはにかんで言う。不思議なサプライズがあったのよ、と。

「聞いたら驚くでしょうね。お母さんだって未だに信じられないし、夢だったのかなって思うわ」

 そんな話、今まで一度も耳にした事がない。
喋りたがりで御節介焼きの母は、うれしい事おどろいた事、全部私に話してくれた。
同窓生と10年ぶりにばったり会ったとか、たまたまた買った宝くじが当たったとか。
だからこそ、不思議だった。心の底から嬉しそうな声を出して母は何を話すのか。
私が生まれてから18年、ずっと胸にとどめてきたサプライズとは何なのか。

「最初はね、朝起きて、ちょっと体がだるいなぁて思ったのよ。でも、熱もないし良いかなって学校に出たの。
1時間目2時間目って何事もなく済んだんだけどね、3時間目の体育の時、急にめまいがしちゃって」

 起きたら、どうなっていたと思う?問いかける母。
分からない。そう答えつつも、母は私を誘っているように思えた。
恵がその答えを知っていない筈がない。そう言いたげだった。
私が答える気がないのを知ってか知らずか、母は自分から語り出した。

「なんとお母さん大きくなってのよ、体が。校庭で大きくなったから被害はなかったんだけど」

 思わず、体が強張った。
バックミラーからそれを察した母は、先ほどよりおどけた調子で続けた。

「もちろんびっくり仰天、もうパニックになっちゃってね。周りにいた子のほうが冷静で、ひんひん泣いてる私が慰められちゃう始末よ」

 突然巨大化したクラスメイトに辺りが混乱してもおかしくないのだが、周囲以上に錯乱している母を見て、慌てている場合じゃなかったとのことだ。

「ひとまず体育館に避難してね、私も回りもいっぱいいっぱいで落ち着くまで一晩かかったのよ。もちろんそれまで飲まず食わずで、もう死にそうだったわ」

 急遽予定を変更し、学食の食料を総動員して食事が作られた。味と量だけを考えて作られた食事は、ぱっと見食べ物だと見えたものではなかったらしいが、
既に限界を迎えていた胃袋は構わず平らげていった。
そして、浄水タンクいっぱいの水を飲み干した時、変化が起こったのだという。それは私の身に起こった現象と同一の物で、気付けば元の大きさに戻っていたという。
残されたのは歪んだ床板と、用意された大量の食事だったらしい。その食事はその場に居合わせ料理の手伝いをした生徒及び職員に配られ、事態は無事終息した。

 学校側の配慮により、この事件は隠蔽された。結果として、母や後に生まれた私が特殊な施設に引き取られることはなかった。
全てがあたかも夢のようであったから、そこにいた人々の口にも戸がたった。
互いにその場にいたはずなのに、互いに信じてもらえないからと、心の奥底にしまいこんだのだ。
 
「それから22年、ずっと気がかりだったの。いつかばれるかもしれないし、お母さんが生んだあなたも同じ体験するかもしれない」

 いつの間にか自宅についていた。台所に入って私を席に座らせると、母はコップ一杯の水を差しだした。

「それにね、お母さんまだ体が大きくなる症状、治ってないの。いつも水飲んでるのもそのせい」

 出された水を一口飲むと、喉元にかすかな痛みが走った。

「少し痛むでしょ?お母さんもいつもそう感じてる。1日飲むの忘れただけで、次飲んだ時はしばらく動けないくらい」
 
 母は、ずっとこの痛みに耐えてきたのか。それに、今までずっと私に水を飲む習慣をつけさせてきたのも、この日この時のためだったのか。
私は急に不安に襲われた。この先、母と同じように耐えきれる自信がない。
自分では強い人間であると信じてきたのに、その自信はそこに元からなかったかのように消えていた。
22年、拠り所なく独り耐え続けてきた母が、ずっと遠くにいる存在に見えた。

「そんな思いつめた顔しなくても大丈夫よ。私がついてる。恵は一人じゃないの」

 そっと、私の体を抱き寄せる。母の強さは、いったいどこからやってくるのだろう。考えれば考えるほど、すうっと意識が遠くなる。
抱き寄せられた体をそのまま母に委ね、私は落ちるように眠った。





 あれからどれほどの時がたったのだろうか。
私の横に夫がいて、腕の中には無事に生まれた我が子がいた。
すやすやと安らかな寝顔を見せるわが子に、私は母として果たすべき特別な役目を感じていた。
これから18年、母が私にしたように、私が子にするべきこと。

 一体何代に渡って続くのかも分からないこの体質。
門外不出の秘法として、この手で守らなければいけない。