世界を朱に染め上げて、葵は英雄の事を待っていた。
 紅蓮の歩の宇賀断ちを染め上げている。
 地獄そのものの光景の中で、それでも彼女はただ一途に彼を待つ。
 その光景はまるで、太陽でもその場所に落ちたかのような光景だ。
 香が求めた太陽のような少女。
 日向葵。
 彼女は、香の求めに従い地に堕ちて、大地を赤く染め上げる。
 そして、彼女自身が望む本物の太陽のような少年をただ待ち続けていた。


「遅いな、神代君」


 呟いて、手持無沙汰の自身を慰めるように崩れかけていたビルを軽く蹴飛ばす。
 既に半壊していたビルは、彼女の軽い蹴りに耐えることは出来ず、粉々に砕け散った。
 少女がビルを蹴り壊すなんて言う悪夢のような光景。
 それを成した瞬間に待ち人が来る。
 英雄だ。
 みたま、香と打ち倒した稀代の人。
 その男が、彼女を止めるために大地を疾駆し、その場所へとたどり着く。
 そんな彼を認めて、葵は柔らかな笑みを浮かべた。
 廃墟の中で、この地獄を作り出した張本人が浮かべる笑みにしては余りにも暖かで穏やかな笑み。
 その笑みを浮かべた少女を見て、英雄の激怒は灼熱を宿す。
 激情が胸を焦がし、抑えられぬ敵意が葵を貫くように彼女を叩く。
 そんな感情を向けられても葵は浮かべた笑みを消さなかった。
 それどころか、ようやく表れた待ち人に、まるで恋人に向けるような笑みを送る。
 そして、たどり着いた英雄を祝福するように声をかけた。


「遅いよ、神代君」


 その言葉に英雄は自身の激情を飲み込んで努めて平静に言葉を返した。


「悪いね、葵さん。これでも急いだつもりだったんだが」
「そうだね。私を前に二人も女の子を満足させてきたんだもんね。そりゃ、遅くもなるよね」
「ああ。そうだな。そして、その事を少しだけ後悔しているよ」
「あはは。後悔なんてしなくてもいいよ。どうせもう、手遅れだったんだから」
「いや、まだ間に合う。最後に一度だけ君に願おう葵さん。こんなことはやめてくれ。元の君に戻って欲しい。お願いだ」


 そう言った英雄の言葉に葵は微笑をもって回答とした。
 その笑みを見て英雄は、やはり間に合わなかったことを理解する。
 あるいは、最初から分かっていたのかもしれない。
 彼女と出会った時から、出会う事こそが間違いの始まりだったのだと。


「君は太陽のような人だ」
「それを君が言うんだ。私の望んだ太陽のような人」
「だからこそ、まだ間に合う。一度沈んだ太陽は、もう一度上るように、君もまだかつての正義を取り戻せる」
「あはは。そんなことは出来ない事を一番よく理解している君がそれを言うんだ」


 葵の言葉に英雄は沈黙した。
 彼女の言いたいことが英雄にはよく理解できる。
 太陽のような少女。
 彼女は太陽そのもののような少年と出会う事で、自身がどうあがいても本物にはなれない事を痛感させられた成れの果てだ。
 陽光のような輝きを宿していた少女は、烈日が如くの少年に出会って、その光をかき消された。
 彼女が元の光を取り戻すことはおそらくもう二度とない。
 あるいは取り戻したところで、その光にはけせない影が宿る。
 それは当然だ。
 輝きは、さらなる輝きをもって打ち消され、その最果てに彼女は堕ちきった。
 かつて、一人の少女を孤独の闇より連れ出した少女の輝きは、さらなる輝きによってかき消され、そして闇に沈んだのだから。
 だからこそ、英雄は彼女を言葉では引き戻せない事を悟る。
 今の彼女は堕ちた星だ。
 燃え尽きた成れの果て。
 輝きの果てに待つ、光さえ飲み込む闇の形。
 それは、寿命を迎えた恒星がブラックホールへ転じるが如く。
 輝いていた彼女の絶望は、何もかもを飲み込む深淵のように自身を黒く染め上げた。
 だから。


「ああ。神代君。私が望んだ英雄さん」
「……」


 歌うように紡ぐように葵は英雄の事を呼んだ。
 その呼びかけを無視して、英雄は剣を抜き放つ。
 彼が抜き放つは太陽の輝きを宿す聖剣だ。
 その抜き放つ様があまりにも似合っていて、葵は嫉妬の感情さえ抱けない。
 ただ、目の前の少年を玩具にしたいという黒い欲望だけが彼女の中で渦巻いている。
 その欲望の強さは信じ難いほどに強力だった。
 しかしそれも当然か。
 何せここは現実世界。
 あるいは、それに最も近い夢と現の狭間。
 街を逃げ惑う小人達の絶望が、そんな中にあって勇敢に立ち向かう英雄の覚悟が、葵の欲望をますます刺激させる。
 絶対的な正義の味方。
 それが目の前の男が背負う宿命だ。
 そんな男を、悪の化身である自分が蹂躙したときの絶望感はきっと、どこまでも甘美なのだろう。
 それを、自らの手に引き寄せるために葵は拳を握った。
 それは、グリムグリッターの中で握った拳とはまるで意味合いが違う。
 正義のために、或いは少女を救うために握られたはずの拳は、ここに来て自らの欲望をつかみ取るためだけに握られた。
 いつものような必死の表情では無く、どこまでも自らの愛欲に濡れた表情で葵は拳を握り英雄と相対する。
 その様が、英雄にとっては余りにも悲しい。


「怪物に堕ちるのか君は」
「怪物でいいよ。それで、君を手に入れられるのなら」
「怪物に成り果てなければ、俺の心は君に囚われただろうに」
「怪物にならなければ、君の全てを手に入れられない癖に」


 そう言って葵は軽く英雄に向かって一歩を踏み出した。
 大地が揺れる。
 身長八十メートルの怪獣が武術と言う武器をもって襲い掛かる。
 その事象のあまりの理不尽さに英雄はため息をもって足を動かした。
 握られた拳のたった一撃で、彼が立っていたビルが砕かれた。
 次の足場になるビルへと飛び移る英雄を、葵の優れた動体視力は確かに収め、彼のいる場所へとその握りこぶしを叩きつける。
 常人ならそれだけで三回は死んでいるであろう絶望的な状況の中、英雄は次の足場となるビルへと飛び移ることで、再びその一撃をかわして見せる。
 にこやかな笑みを浮かべる葵の視線と、どこまでも苦み走った表情を浮かべる英雄の視線が絡み合った。
 間髪入れずにビルを葵が蹴り砕く。
 その衝撃を見事に殺し切って、英雄は彼女の足の上へと着地した。
 そして、そのまま彼女の足を伝って葵の元へとひた走る。


「ふふ、まだまだ」
「チィ」


 それを見ると同時に葵はサマーソルトキックを繰り出して見せた。
 足の上にいた英雄はその曲芸染みた動きに舌打ちを一つ零して、足の上より体を移動させる。
 ふわりと、地面に着地して、空が暗闇に覆われた。
 サマーソルトキックで中空にとんだ葵がそのままの勢いでヒッププレスを繰り出したが故の暗闇。
 押しつぶされることを避けるために、その場より全力で退避する。
 大地に凄まじい振動が響き渡り、周囲の無事だったビルが崩れ落ちた。
 崩れ落ち行く瓦礫の山。
 その瓦礫の山に身を隠すように英雄は動き、そして葵の死角を縫って再び彼女へと近づいた。
 死角より即座に跳躍。
 数十メートルの高さに一瞬でたどり着き、手に持つ聖剣を真横に振り抜いて見せる。
 防ぐこと叶わずの聖剣は、されどギリギリのところで英雄の接近に気が付いた葵によってかわされてしまう。
 確かに手ごたえはあったが、彼が斬り裂いたのは彼女の上着の一部分だけだった。
 あるいは、彼女を守る一番最後の守りだけだったというべきか。


「エッチだね神代君」
「戦いの最中にそんな事を気にしてられねーっての」
「それにしても、人のブラジャーのフロント部分だけを斬り裂いていくなんて……そんなに私のおっぱいが見たかったの?」
「濡れ衣だな」
「でもいいよ、君になら全てを見せてあげる」
「話を聞いてくれもしない。……いや、それは最初からか」
「あはは。それは、そうかもしれないね」


 戦いの中で二人は軽口を言い合う。
 本当に、こんな出会い方をしなければ。
 そんな後悔が英雄を襲う。
 グリムグリッターが無ければ、或いは恋人同士にだってなれたかもしれない二人。
 されど、その前提には意味がない。
 あり得たかもしれないもしもを斬り捨てるように、英雄は瓦礫まみれの大地を疾駆する。
 次の一撃で決める。
 それのみを念頭に置いて、英雄は聖剣を葵に向かって投擲した。
 その一撃を受けてはならないと直感した葵が、ギリギリのところで剣を回避する。
 金属音が響いた。
 葵の頭部を掠めた聖なる剣が、彼女の髪飾りを掠めたその音だ。
 割断される彼女の髪飾り。


「あ」
「さようならだ、葵さん」


 その髪飾に一瞬だけ気を取られた彼女は、英雄の姿を見失った。
 そして、次に彼に気が付いたのは英雄が葵の顔の前で拳を引き絞るその瞬間だった。
 サイズにして葵の五十分の一の少年。
 その少年の右ストレートは狙い違わず、葵の額を痛打した。
 葵の目の前を星が散った。
 僅か一撃。
 額を撃ち抜かれた少女は、その一撃で意識を消し飛ばされた。
 溶けるように葵の姿が、消えていく。
 夢と現に再び境界線が引かれていく。
 そして、後に残るのは何もなかった。
 今までの事が夢であったかのように、世界は事もなく。
 平穏の時を取り戻した。






To Be Continued