(1)
夢だった小学校の教師となって早4年。
私ももう二十代後半だが、いまだに子供たちから学ぶことは多い。
素直な子もいれば、生意気な子もいる。それぞれ違った個性に触れ、時には叱り、時には一緒に笑うことによって
私自身も少しずつ成長していっている実感がある。
本当にこの職に就いてよかった。心からそう思う。
そんな私は、受け持ったクラスに必ず一つだけ同じ大切なことを教える。
それは『食べ物に感謝する』ということだ。
生物は他の生物の命で生きている。
生きることは奪うことだとも言い換えられる。
その奪う行為が食事なのだ。
残酷かもしれない、しかし生きるためには絶対に必要な『食事』という行為の大切さを私は生徒に伝え、
そして食事のために犠牲になった命に感謝することを教える。
だから私のクラスでは給食の食べ残しは許さない。
すべて食べきるまで、その生徒の食器は片づけさせない。
時には昼休みが終わっても食べるきることが出来ない生徒もいた。
そんな時は、午後の授業は中止して、クラスの皆でその生徒を励ますのだ。
どんなに嫌いなものがある生徒でも、こうしてやると必ず食べてくれた。
そうして遂に完食出来た際は、盛大に褒めたたえるのだ。まさにクラスが一つになった瞬間だ。
やり過ぎ、虐待。
そうやって批判されることもあったが、クソくらえだ!
食べ物となった命へ感謝することすら教えられず、何が教育者か。
こちらが正面からぶつかってやれば、必ず子供たちも答えてくれる。
私は今までそうやってきたし、これからだってそうするつもりだ。
「皆、食べ終わったか?それじゃあ、手を合わせて!ごちそうさ――」
「せんせ~、北条さんがまだ食べ終わってません!」
ある日の給食の時間。
いつものように私がごちそうさまの号令をとろうとしたとき、一人の生徒がそれを遮った。
「ん、どうした?北条」
そう言いながら名を呼ばれた少女の皿を見ると、なるほど、確かにメインの魚が全く手を付けられずに残っていた。
明らかに食べ残しだった。
「よし!じゃあ北条以外、手を合わせて、ごちそうさまでした!」
「「「ごちそうさまでした!」」」
ガタガタと子供たちが立ち上がり、食器を片づける音で一気に教室が騒がしくなる。
私は一人座ったままの北条の席の前に行くと
「北条は魚が嫌いだっけ?」
と優しく語りかけた。
北条さおり。
出席番号28の女子生徒。
きれいな長髪が特徴的な、小学4年生にしてはかなり大人びた容貌をした生徒で、あまり人と関わらない物静かな子だ。
しかしクラスから孤立しているといったわけでもなく、むしろ一目置かれているような雰囲気のある子だった。
成績も優秀でこれといった問題もない生徒だが、はて?今まで何度か給食で魚が出てきたときはあったが彼女がそれを残そうとしたことは無かったはず……。
「いいえ、先生。私好き嫌いはありません」
小さく首を振りながら、北条はいつものように落ち着いた口調で答えた。
やはり、と何故?、の両方の思いが私の頭に浮かんだ。
「じゃあなんでだ?腹でも痛くなったのか?いや……違うか。魚には全く手を付けてないけど、他はきれいに完食しているものな」
彼女の机の上のトレーに置かれた食器を見ながら、自分で言った可能性を自分で打ち消す。
ますます分からない。なぜ北条は魚だけ残したのだろう?
「先生」
ふと彼女に呼ばれ、机から目をあげる。
瞬間、ゾクッと背筋に何か冷たいものが走った。
彼女は、北条さおりは微笑んでいた。
それは子供らしい無邪気な笑みとはかけ離れた微笑。
妖艶で、酷薄で、まるで何かをいたぶることに快感を感じているような……。
「先生は今日の道徳の授業で、食事への感謝を教えてくれましたよね?」
ハッと我に返る。
「あ、ああ。だから、食べ残しはダメだと分かってくれるよな?」
目の前の北条はいつも通りの大人びて落ち着いた表情をしている。
だがそれは、あくまで小学生にしては、だ。
私は何を考えているんだ。
いくら大人びているとはいえ、小学4年の、十歳の女の子があんな表情をするはずがない。錯覚だ。そうに違いない。
北条が箸をとり、それを魚の方に持っていくのを見て私は安堵する。
そうだ、この子は物わかりのいい子だ。話を理解して、ちゃんと残さず食べてくれるなら何も問題は――。
ザクッ
ザクッ
ザクッ
ザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザク
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魚に突き立てられた箸は引き抜かれ、しかし彼女の口に向かうことはなく、再び魚に突き立てられる。
何度も何度も、繰り返し行われるその行為は、少しずつ、少しずつ、魚の肉を抉り、潰し、バラバラにしていく。
「なっ、なにを……」
私は今、なにを見ている?
この子は今、なにをしている?
「先生、私可笑しくて可笑しくて。だって先生ったら大真面目な顔して『感謝して食べれば、食べられた生き物も嬉しいはずだ』なんて言うのだもの」
魚を弄ぶ行為は止めず、空いた左手は笑いで歪んだ口元を隠すかのように唇に当て、北条は言った。
「そ、それの何がおかしい?」
私はそう言うのが精一杯だった。
こんな行為はすぐに止めさせるべきなのに、体が金縛りにあったように動かない、いや、動かそうと思えない。
目だけが、彼女の右手の動きを追い続け、コマ送りのように少しずつバラバラになる魚を捉えていた。
「本当にわからないんだぁ」
嬉しそうに彼女はそう言うと、ピタッとその右手を止めた。
そして皿を持ち上げると私に突き出すかのように差し出した。
目が吸い寄せられる。
そこにあるのは元の魚の原形をとどめない、残骸。
「先生……。食べられる側からすれば、感謝して食べられるようが、こうしてぐちゃぐちゃのゴミにされようが大して変わらないんですよ。
きれいに食べるのが礼儀だとか、食べ物で遊ぶのは失礼だとか、そんなの全部、自分が食べられる側になる筈がないって思ってるから言えるんですよ。
奪われる側からしたら全部一緒。それとも先生は、食事のためだったら殺されても平気なんですか?」
「そ、それとこれとは話が――」
「私知ってますよ。そういうの難しい言葉で『欺瞞』とか『偽善』っていうんですよね?」
頭の奥がカッと熱くなる。
その熱が、私の顔全体を赤く染める。
「でも私、先生みたいな人は好きですよ。自分の恥ずかしさに全く気が付いてないところとか、可愛そうなくらい可愛くて」
パンッ、と乾いた音が教室に響いた。
プラスチックの皿がカランカランと床を転がり、その中にあった魚の残骸をまき散らす。
右手に残る衝撃と、教室の端まで跳んだ皿を見て、自分が何をしてしまったのかにようやく気付く。
私は、北条の頬を思い切り叩いていた。
「あっ……!?違っ、いや、すまない北条!大丈夫か!?」
後悔が水面に波紋をつくるかのように大きく心に広がっていく。
違う、と私は言いたかった。
私は感情に任せて子供に、それも少女に手をあげるような人間では無かったはずだ。
無かったはず……なのに。
叩かれた衝撃で横を向いた北条の顔は、泣き出すわけでも驚くわけでもなく、不自然なほどに静かな表情を作っていた。
「ほ、北条?」
叩かれた衝撃で魂が抜けてしまったかのような、その微動だにしない横顔に私が恐怖を覚えかけたとき、北条の唇からツゥーと一筋の紅い線があごに向かい垂れた。
「ち、血が……!」
私は慌ててティッシュペーパーを取り出し、それを拭こうとした。
が、それより数瞬速く、北条はその血の線を掬い取るように人差し指で拭ってしまった。
真紅に染まった指先をじっと見つめる北条。
そして彼女はおもむろにその指先を口へと運ぶと、深紅の色をした舌を出し、丹念に、嬲るようにそれを舐め始めた。
紅い舌がチロチロと揺れる。
絡み、舐り、愛撫し、そして名残惜しむ唾液の糸を引き、再び口中へと収まる。
私は聞いた。
クラスの生徒は誰も聞こえないだろう小さな声、だが私にだけはしっかりと聞こえた小さな声。
「おいしい……」
北条さおりは確かにそう言った。
(2)
「本当に……、申し訳ありませんでした!」
私が北条にケガをさせたことはすぐに問題となった。
体罰が取りざたされている今、女子児童の顔を殴って問題にならないわけがない。
事を大きくしたくない学校は、その日のうちに私と学年主任、そして教頭の3人で北条の家に謝罪へ赴くよう決め、こうして今、私は北条の母に頭を下げている。
申し訳なく思っているのは本当だった。後悔もしている。
しかし、それ以上に私の脳裏には、北条の豹変や不気味な行動への何とも形容し難い感情がひしめいていた。
「そんな、先生方。どうか頭を上げてください」
穏やかで優しげな声。
ゆっくりと顔をあげた私の目に入ったのは、困ったように笑う北条の母だった。
美しい人だ。それが私の北条の母に対する第一印象だった。
落ち着いていて上品な顔立ち。涼し気な目元と流れるような黒髪は北条さおりにそっくりで、きっとあの子も将来はこんな美人になるのだろう。
「いえ、わが校の教師の軽率な行動でさおりさんにケガをさせてしまったことは本当にお詫びのしようもありません。
ましてや、さおりさんは女の子。女の子の顔に傷をつけるなど……」
教頭の言葉が私に重くのしかかる。
「傷だなんて、ちょっと口の端を切っただけですから。そんなに謝られてしまうと、なんだか私が逆に申し訳ないですわ。さおりも全然気にしていませんし」
「そ、そうですか。さおりさんも気にしていませんか」
教頭と主任の緊張がふっと和らぐのが隣からでも感じられた。
「それに、あの子からいつも話を聞いています。今回の担任の先生はすごく教育熱心で面白い先生だって。」
面白い先生……か。
本来なら喜んでもいい言葉なのに、あの子が教室で見せたあの挑発的な顔や言葉のせいで、素直に褒め言葉として受け取れない。