「な、なんだあれは!?」

誰かが空を指差して叫び、それにつられて周囲の人々も空を仰ぎ見た。
見ればそこには青い空からゆっくりと降りてくる二人の少女の姿。
女の子が落ちてくると叫ぶ者もいたが、その背中から広げられた一対の真白い翼が羽ばたく度にそう口にする者は減っていった。
人間ではない。あれは…天使。
二人の天使が降りてくる。
人々は呆けたようにその天使の少女たちを見上げていた。
白のワンピースの様な服を着て手をつないだその姿は無垢の幼子を思わせる。
遠めに見た限りでも、その少女たちが人間で言うところの10歳かそこらの容姿をしていることは確認できた。
まさか、天使などと言うものが存在しようとは。
彼女たちは我々にいったい何をプレゼントしてくれるのだろうか。

そうしている間にも彼女たちは降りてきていた。
そろそろ地表に降り立てるのではないか。
二人はどんどん降りてきて、その姿も距離が近付くに伴ってだんだんと大きくなってくる。
しかし、一向に地表に降り立てる高度にはならない。
彼女たちの大きさから測る距離からしてそろそろ地表に着いてもいいものだが、姿が大きく見えるようになるばかりで降り立ちはしない。
何故だ?

大勢の人が違和感を覚え始めたときだった。
二人の天使をよく見ようと、マンションの屋上に上っていた野次馬の一人がある種その違和感を解決するに近い疑問に抱いた。
何故、自分はマンションの屋上にいるにも関わらずあの天使の足下にいる様な感覚を覚えるのか。
まるで、寝そべって人を見上げたときのようなあの感じ。それをマンションの屋上で感じている。
何故? どうして?
野次馬はあまりに非現実的な現象に目の当たりにし回らない脳を無理やり回転させてなんとか自分を納得させるだけの結論を出した。
そして導き出された答え。

「と、とてつもなく…でかい…」

その時既に、彼の視界は巨大な天使の足の裏で埋め尽くされていた。


 *
 *
 *


 セラ:「とうちゃ〜く!」
 ルネ:「うわぁ、ひろ〜い」

二人の天使、「セラ」と「ルネ」は地上に降り立った。
地面に着いたにも関わらず、彼女たちは地表の全ての建築物を見下ろし、人々はどんな高層ビルの屋上にいても彼女たちを見上げた。
降りてくるまでに見えてた印象と違わず、二人の天使は子どものようだ。
白いワンピースに白い翼。
靴もサンダルも履かず、そこが草原ならすばらしい絵になったことだろう。
だが彼女たちの足下にあるのは青々とした草花ではなく、石とコンクリートでできたビルや家々。
そう、地表に降り立つまでは他のものと比較することが出来なかったので誰もが気付けなかったのだが、彼女たちはとても大きかった。
それも桁外れに大きい。
彼女たちの指はそのつま先の前にある家よりも大きいのだ。
勘のよい誰かの目測によれば、二人の身長は1400メートルほど。
人の、1000倍の大きさである。


 *


 セラ:「ここが人間の住む世界かぁ」
 ルネ:「見てみてセラちゃん、足下にいっぱい家があるよ」
 セラ:「ホントだ。くすくす、ちびっちゃ〜い」


『セラ』と呼ばれた天使はしゃがみ込むと人差し指を伸ばしそこにある家の一軒に近付けていった。


 セラ:「ルネ、凄いよ。人間の家、私の指先くらいの大きさしかないよ」


セラは笑いながらその家に触れてみる。
しかし、指が何かに触れたと感じたときには既にその家は潰れていた。


 セラ:「あ、潰れちゃった♪」
 ルネ:「あーセラちゃん。人間さんの家はとっても弱いんだから触るんなら注意しないとー」
 セラ:「そうだね。でも面白〜い」


セラは次々と家を潰していった。

 プチプチプチプチ


 セラ:「あははははは!」

間一髪家から飛び出し難を逃れた人は、
自分の家が天使の、それも幼い少女の指先によって簡単に潰されてしまった様子を見て何を思ったのだろうか。


 ルネ:「もう、セラちゃんだけ遊んでてずるい!」
 セラ:「あはは、ゴメンね」

立ち上がったセラは舌を出して謝った。


 *
 *
 *


営業に出歩いていた一人の営業マンはその巨大な天使達の姿に腰を抜かしていた。
マンションや自分の会社を踏み潰して地面に降り立った天使の少女たちは辺りを見渡しながら楽しそうに騒いでいる。
これが現実か?
自分の会社を含め沢山の家々を片足で踏み潰した巨大な天使はしゃがみこむと小さな家々をその巨大な指で押し潰し始めた。

 ズドン! ズドン! ズドン! ズドン!

人間の住まいである家があっさりと潰されてゆく。
重機など比べ物にならない力強さだ。
巨大な天使の存在に気付いた人々が次々と家から飛び出てくる。
だが何人かは玄関のドアを開けた瞬間にその指先と家の瓦礫の下敷きになっていた。

いったい何故こんな事に…。

営業マンはその巨大な天使を見上げた。
その愛くるしい顔はとても嬉しそうに家々を潰している。
次々と家と人々が駆逐されている。
我々が何かしたのだろうか。これは天罰なのだろうか。

だがその答えを彼が知ることはできなかった。
家を一軒一軒潰すのに飽きた巨大な天使が指で住宅地に線を引いたからだ。
彼の身体はその指と地面との間で一瞬ですり潰された。


 *
 *
 *


二人は街中を散歩していた。
翼は折りたたまれ歩く際の抵抗にはならない。
その翼で飛べば良いところを歩いているので、足の下では無数のものが犠牲になっていった。
住宅街に一歩を踏み下ろせば数十の民家が踏み潰され、更にはその振動と衝撃と突風で足周辺の民家も粉砕される。
10階ほどの低層ビルも、民家と同じ様に足の下に埋葬された。相対3㎝ほどにしかならないのだ。親指よりもやや大きいようなビルである。次の一歩のとき、知らぬうちに親指に激突され、蹴り砕かれていた。
住宅街にある小さな公園もその親指を許容できるほどの広さは無く、親指の接地と同時に無数の遊具ともども地面へとめり込まされた。そこに残された足跡の親指のところにはくしゃくしゃになった遊具たちの成れの果てが横たわる。
ある小学校の上に足が降ろされた。天使達の片足は校舎よりも大きく全体がその巨大な足が作り出す大きな影に包み込まれ、内部で右往左往する生徒や教師達をその頑丈な校舎と一緒にくしゃりと踏み潰した。残された足跡の中には粉々に粉砕された校舎の瓦礫。足は何事も無かったように去って行った。

 セラ:「くすくす、みんな弱っちいね」
 ルネ:「あ、見てセラちゃん。なんか長いのが動いてるよ」

ルネが指差した先を走るのは電車。数百人の避難民を乗せて街を脱出しようとしている途中なのだ。規定の速度を大幅に上回る速度で走っているが、天使達にとってそれは芋虫が這うような速度だった。二人はあっという間に電車に追いつくとその電車を左右から挟むように立ち、走る電車と平行して歩き始めた。かなりゆっくりとであるが。

 ルネ:「ほらほら、かわいい〜♪」
 セラ:「そう? のろくておもしろくないじゃん」

言いながら二人は暫く電車を追いかけて回った。
その間、電車に乗っている人々にとってそれは生きた心地のしない恐怖の時間であった。山の様に大きな天使達の巨大な4本の脚。それがこの高速で走る電車を挟むように追従してくるのだ。彼女達が一歩歩くたびに電車は振動に揺られ、それでも懸命に走り続けている。超満員の電車の窓からは、巨大な足が、そこにある家や人間を踏み潰す様をじっくりと何度も見る事が出来てしまい、乗員達は半狂乱と化していた。悲鳴をあげ、血眼になり、涙を流しながら逃げ惑う人々の上にあっさりと降ろされる巨大な足。その持ち主はこの電車を見下ろしながらもう一人の天使とおしゃべりをしている。足の下で踏み潰している人間の事などまるで眼中にない。線路に沿って無数の巨大な足跡が残されその足跡の中や周辺は大災害を被っていた。
その時、突然電車が止まってしまった。
乗客の大半が急な失速で前方に向かって倒れこみ負傷し更には自分達の乗っている電車の停止に恐怖した。

 セラ:「あれ? 止まっちゃった」
 ルネ:「あ! セラちゃん足元!」

ルネが指差す先を見てみるとセラの片足、その小指が線路を寸断していた。レールも送電線も電車よりも太い指によって完全に断ち切られ、電車は停止してしまったのだ。
折角のおもちゃが動かなくなってしまったことにルネは落胆した。

 ルネ:「動かなくなっちゃった…」
 セラ:「別にいいじゃんこんなの」

しゃがみこんだ二人はまた電車が動き出さないものかとしばし観察していた。
乗客たちは大混乱である。動かない電車にいつまでも乗っていられるものではないと、動かなくなったドアを必死に開けようとしていた。
しゃがみこみ小山の様になった天使達に挟まれた電車は完全に影に入ってしまい、それは袋のネズミである事を表している。ふと、影が一段と濃くなった。

 セラ:「ほら、動きなさいよ」

セラは電車の最後尾を摘み持ち上げると目の高さまで持ってきた。
10両編成、全長おおよそ200mの電車は倍近い太さのある指によって楽々と路線から攫われ縦に宙吊りとなった。当然、内部では多数の犠牲者が出ていた。
全長20㎝ほどの太いヒモのような電車をぶら下げて観察するが、すでに最後尾は指と指の間でほとんど潰れていた。それをぶらぶらと揺さぶってみる。密閉され圧縮された空間に響く無数の断末魔など二人には聞こえない。だがやがて連結部が壊れた電車はそのまま数百mを飛び地面へと墜落した。民家を巻き込み炎上する電車を見ながらセラは立ち上がり指についたゴミを落としていた。

 セラ:「あ〜あ、終わっちゃった」
 ルネ:「あたしが見つけたのにぃ」
 セラ:「また見つければいいじゃん。ほら、あそこにいっぱいあるよ」

先には駅。
避難しようと集まった人々で溢れかえった街の最大の駅だった。
数歩でそれに接近するとまた二人はそれを挟むように立った。このときセラの片足がロータリーに踏み下ろされ、そこに停車していたバスを含む数十台の自動車を踏み潰していた。

 セラ:「ふふ、チビな芋虫がいっぱい。好きなの選んだら?」
 ルネ:「うん。どれにしよっかな〜」

と、ルネが電車の物色を始めようとしたとき、いくつかの電車が動き出した。巨大天使の侵略に対し出来る、唯一の抵抗でもあった。ドアが閉まりきらないままに逃走を開始し中にはまだ余裕がある。それは運転手が恐怖に駆られ自身の保身へと走った結果である。…が─。

 ルネ:「逃げちゃだめー」

片足を持ち上げたルネはその進行方向にある線路をズシンと踏み潰した。駅から離れておらず8本ほどの線路が平行していたがそれらは全てルネの片足によって寸断された。走り出そうとしていた電車達は停止。すでに走り出していたものは止まりきれずにルネの足に激突して脱線した。その脱線した電車を摘み上げる。

 ルネ:「わぁほんとに細いや〜」

摘み上げている一両目を覗き込んでみると先端はぐしゃぐしゃに潰れていた。自分の足にぶつかっただけでこうも簡単に潰れてしまうのか。うん、確かに。そっと挟んだつもりなのに摘んだ部分が潰れ掛けてしまっているところをみるととても柔らかいのだろう。目の前にぶらんとぶらさげて観察してみる。こんなに細くて小さいのに細かいところまで良くできているのは人間も小さいからなのかな。

 コネコネ

ルネは電車を持っている手をすり合わせ始めた。するとぶら下げられていた電車がそれに巻き取られてどんどん短くなってゆく。やがて最後の一両までもセラの手の中に丸め込まれ、ルネが手を開いてみるとそこにはひとつの小さな鉄球があった。

 ルネ:「見てみて、こんなに小さくなっちゃった」
 セラ:「これがさっきの長いの? やだ、全然わかんない」

セラはルネの手からその鉄球を摘み上げてみた。大きさは指先ほどか。あの長いのがこんな小さな玉にかわるなんて。

 セラ:「面白いわね〜」

と、指先でくるくる弄んでいたらつい力が入ってしまいその玉をメリッ捻り潰してしまった。

 ルネ:「あー! あたしがつくったのにー!」
 セラ:「ごめーん、ちょっと力いれただけだったんだけど…」
 ルネ:「もう、セラちゃんったら!」

ルネはぷんぷん怒りながらまた別の電車を拾い上げてこね始めた。


 *
 *
 *


 ルネ:「あれ? 何か飛んでくるよ?」

ルネが指差した先、小さな虫のようなものがたくさん飛んでくるのが見えた。

 セラ:「『せんとーき』じゃない? ほら、前にシロが言ってたじゃん、人間の武器だよ」
 ルネ:「え? これが?」

無数の『せんとーき』は自分達の周囲を飛び回りぱたぱたと何かを自分達に飛ばしてくる。その飛んでくるものは自分達の身体に当たると小さく爆ぜて消えた。『せんとーき』。人間の武器。でも、これが武器なのだろうか。

 ルネ:「これってあたしたちを攻撃してるの?」
 セラ:「そうなんじゃない? 武器って言うくらいだし」
 ルネ:「でも全然痛くないよ」
 セラ:「人間は弱いから武器も弱いんだよ。ほら…」

言うとセラは無造作に手を振った。するとその動きに巻き込まれた戦闘機が数機なぎ払われ叩き落された。

 セラ:「簡単に落ちちゃう。これで武器ってんだから笑っちゃうよね」

セラの笑い声が響くと同時に周囲の戦闘機の攻撃は更に激しくなった。明らかな抵抗の意思に対抗しているのだ。無数の弾幕にさらされながら二人は話し合う。

 ルネ:「う〜ん、痛くないけど…ちょっと邪魔だなぁ」
 セラ:「まぁね。でも私はほっとく。みんな必死にがんばってるのに無視されちゃったら悔しいよね〜くすくす」

適当なビルに目を付けたセラはそれに向かって歩き出した。途中ではまた小さなビルや逃げ惑う人々がセラによって踏み潰された。更に目の前に戦闘機がいようといまいと関係なく歩くセラの巨大な身体はそこを飛んでいる戦闘機に次々と激突していった。白い巨大なワンピース。巨大な脚。腕。それらの表面で次々と小さな爆発が起こる。自分のほっぺで小さな戦闘機が爆発したのを感じたセラは口元をゆがめた。無力な人間達を蹂躙しながらたどり着いたビルを、腰を屈めて手を伸ばし、その表面を掴むと土台ごと引っこ抜く。ビルはあっという間に1000も上空に攫われた。セラの指はビルの表面に食い込み、無数のヒビを走らせガラスを割りつくしていた。

 セラ:「ほんとチビな家。これに何百匹も住んでるなんておかしいったらないね」

きっと今、自分の手の中にあるビルの中にはたくさんの人間がいるのだろう。それを片手で持ち上げている自分とそのビルの中にいる人間達との大きさの違いはもう笑うしかない。

 セラ:「くくく、きっと怖がってるんでしょ。あんたたちから見れば大きな家に隠れて。でもそんなの関係無いから」

  グシャ

セラの指がビルに更に食い込んだかと思われた瞬間、セラの手が握られた。その手に掴まれていたビルはその部分を握り潰され、残っていた部分は原型をとどめつつも瓦礫になり地面へと落ちていった。拳を解かれたセラの手にはただの瓦礫の砂の山。それは「ふっ」と吹き付けられた息で消えてしまった。

 セラ:「さぁ次いこ、次」

セラは次のおもちゃを探して歩き始めた。振り注ぐミサイルを無視し足元に無数の人間を巻き込みながら。
ルネも次のおもちゃを探していた。だが周囲を飛び回る戦闘機と絶えず当たるミサイルのせいで集中出来ないでいた。

 ルネ:「邪魔だな〜」

いくら払い落としても全然いなくならないし、飛ばしてくるものはぶつかるとチクチクする。いい加減イライラしてくる。

 ルネ:「いいやもう、消しちゃお」

バサリ。白い翼を広げるルネ。そしてその翼を一度、大きく羽ばたかせた。

 ゴウゥゥゥウウウウウウウ!!

瞬間、凄まじい突風が吹き荒れて周囲の戦闘機はたまらず叩き落されていった。一瞬で戦闘機は全滅したが、それに留まらない威力はルネ周辺の地面にも襲いかかった。ルネが翼を収めたときには、ルネの周辺はまるでクレーターの様になっていた。ビルなどは凄まじい突風の中ですり潰されたり吹き飛ばされたり、地面さえも削り取られまるでガラス化や塩化してしまったかのように。ルネを中心とした半径5㎞は一瞬で砂漠になってしまった。

 ルネ:「ふぅ。でもこれでみんな消えちゃった。別の場所いこーっと」

言うとルネは、今しがた自分が作り出した砂漠の上をザクザクと歩き出した。


 *
 *
 *


 青年:「くそっ! いったいなんだってんだ!!」

ビルが倒れ、道路が裂け、まるで大震災を被ったかの様な道で俺は車を走らせていた。
ボロボロの地面は乗用車を走らせるにはキツイ。
崩れた建物の瓦礫や乗り捨てられりべこべこに潰された車が散乱し、まだかろうじて立っているビルからは無数の破片が降り注ぐ。
前も後ろもわからない。何処へ行けば安全なのかすら。
とにかく車を止まらせまいとでたらめにハンドルを切っている。

その時だ。
突然進行方向上の左側のビルが砕け、その破片すらも粉々にして巨大な肌色の物体が道路へと突っ込んできて鎮座した。

 青年:「ッ!?」

慌ててブレーキを踏む俺。
しかしトップギアで走っていた車をすぐに止められるはずも無く、距離も何十mも無かったのだ。
俺の車はその進路を遮る肌色の壁に激突した。

 ドガシャーーン!!

 青年:「ぐぅうッ!!」

フロント部が完全に潰れた。
ガラスは割れ、エアバックと抱き合う俺。
強烈な痛みが呼吸させる事すらも拒み、口から漏れるのは声にならない苦悶の叫びのみ。
その叫び声すら、全身の骨が軋む音に遮られ、俺の耳には入ってこなかった。
シートベルトが身体に食い込みギリギリと締めつけてくる。
まるで薫製の肉の様に縛り上げられた俺はその激痛から微動だに出来ず、一秒でも速くこの痛みが引いてくれるのを待つ事しか出来なかった。

突然、周囲が暗くなった。
陽光が遮られガラスの割れた窓から見える一帯が雲の下に来た様に影に包まれている。
同時に、車の両サイドに巨大な肌色の物体が降りてきた。
それらは挟み込む様にこの車に近付いてくる。
逃げようにもまだ痛みがひいていないしシートベルトもかけたまま。ドアも変形していて簡単には開きそうにない。
俺は、その物体が近付いてくるのをただ見ている事しか出来なかった。

その肌色の物体が車に触れた。
グラリと車が揺れ、外装のへこむ音が車内に木霊しドアが更に変形する。
車の左右から挟まれ変形するその様はまるでプレス機にかけられた廃車の様だ。
確かにもう廃車同然だが、中には俺が乗っている。そう、まだ人が乗っているのに、このままでは潰される。
車の左右のガラスの無い窓はその全てが挟んできた肌色の物体の所為でピッチリと閉じられており車内はより一層薄暗くなっている。
フロントのウィンドウからは拉げたボンネットと薄く汚れた肌色の壁。
左右の窓にも押し潰さんとせまってくる肌色の壁。
唯一光を取り入れているのは後ろのガラスの割れたリアウインドウのみ。
最早脱出が不可能な薄暗い鉄の棺桶と化したこの車の中で俺は潰されてしまうのか。

と、思っていたが突然ドアの変形する音が止んだ。
肌色の物体もその動きを止めた様だ。
すでに身体を動かす事も出来ない程に潰され狭くなった車内で俺はこの絶望的状況からどうやって脱出するかを考えた。
が、その思考もすぐに中断された。
車がジェットコースターよりも遙かに速い速度で急上昇し始め、俺はシートにめり込む様に押し付けられた。

ルネは足の小指に何かが当たってきたのを感じた。

 ルネ:「?」

見下ろしてみれば小さな車が小指にぶつかって煙を噴いている。
ルネはゆっくりしゃがみこむと慎重にその車を摘み上げ掌に乗せた。

意識が飛ぶ程に強力な上昇Gが突然止んだ。
Gから解放された肺がまるで貪る様に酸素を求めている。
痛みに悲鳴を上げる身体を気遣い、ゆっくりと上体を起こし周囲を見た。
車の三面を塞いでいたあの肌色の物体は消えていた。
開いた窓から見えたのは青い空と肌色の平原。

 青年:「ここは…?」

首を巡らせ見た正面には、青い空ではないものが見えた。
なんだこれは。どこかで見たことがある様な…。
疑問を浮かべながら身体を乗り出し、窓からそれを仰ぎ見た。

 青年:「ッ!?」

それはあの巨大天使の顔だった。

掌の上の小さな車を覗き見るルネ。
自分の小指の爪程の大きさも無いそれはまるで虫の様だ。

 ルネ:「ちっちゃ〜い。や〜んかわいい〜」

自分の掌にちょこんと乗っているそれは抱き締めたくなる程に可愛い。
無論こんな小さいものを抱き締めるなんて不可能なのはわかっているし、
出来たとしても自分の足の小指にぶつかって潰れてしまう様な脆いものが、抱き締められてその原型を保っているはずも無い。
きっとペッチャンコになって自分の胸に張り付いてしまう事だろう。
そういえばぶつかってきたのだから、中には人間が乗っているはずだ。大分壊れてしまっているが無事だろうか。
ルネは尋ねた。

 ルネ:「ねぇ、中に乗ってる人間さんは大丈夫なの?」

その声が車内で反響して俺は耳を塞いだ。
塞ぎながらに理解した。俺は今、あの天使の掌に乗せられているんだ。
ますますもって逃げ場が無い。
これからいったい何をされるのだろうか。

 ルネ:「あれ〜? 返事が無いね〜」

出来る限り顔を近付けて車内を覗き込んでみたが如何せん小さ過ぎて中の人間の状態はわからなかった。
ルネは指でつついてみた。

 ツン ツン

 青年:「うぉお!!」

突然現れた巨大な指が車の横からぶつかってきた。
幸いにも助手席側だったので更に変形した車体で身体が傷付く事は無かったが、車の衝突にも勝るその衝撃は車体を大きく揺さぶった。
その時、シートの下にあった発炎筒が外れ転がってきた。
アレを使えば、上手くすればあの天使に自分の存在に気付いてもらえるかも知れない。
だが発炎筒は激しく揺れるこの車内を縦横無尽に飛び回り、掴むことが出来ない。
ベルトで固定された身体を必死に動かし小さな発炎筒を追い回していたら再び声が響き渡る。

 ルネ:「そっか、運転手の人は死んじゃったんだね。じゃあ車も潰しちゃおう」

不穏な台詞が耳に飛び込んできた。
見れば再びあの巨大な指がこちらに向かってくる。
急げ! 早くしないと車ごと潰される!
今、発炎筒は運転席の足下。つまり俺の足下だ。
身体をよじり手を伸ばすが、最後の最後までベルトが俺の邪魔をする。
フロントの向こうはすでに指が視界を埋め尽くさんとしている。
生への執念か。この時俺は超人的な身体能力を発揮し、足で発炎筒を蹴り上げそれをキャッチ。開封して車の横方向に思い切り投げた。

 ルネ:「?」

ルネは指を止めた。
突然車から小さな赤い光が飛び出てきたのだ。
それは掌の上を転がるとやがてもくもくと煙を立てた。
まだ指は車には触れていない。つまり自分以外の誰かがあの煙の出るものを投げた。誰が投げた? それは車の中の人しかいない。
止めた指を動かしてルネは車を摘み上げ、目の前に持ってきてその車内を覗き込んだ。

俺は再びあの強烈なGに晒された。
さっきほど長い時間ではなかったが苦しい事に変わりはない。
そしてその超重力が止んだとき、目の前には巨大な瞳があった。

 青年:「な…——」
 ルネ:「中の人は生きてるの?」
 青年:「ぐあ…!」
 ルネ:「どうしてさっき話しかけた時返事してくれなかったの?」
 青年:「うぐぅ…!」
 ルネ:「? どうしてそんなに苦しそうな顔してるの?」

畳み掛けられる言葉。
それら全てが激痛を伴う程の爆音なのだ。

 ルネ;「もう、ちゃんと言ってくれないとわからないよ」

言ったところで聞こえるのか?
大きさの差から見るに当然の疑問が浮かぶが、このままでは声に殺される。
ままよと俺はありったけの声を絞り出して叫んだ。

 青年:「お前の声がでか過ぎるんだよ!!!」

 ルネ:「そっか」

聞こえた。

 ルネ:「なんだ〜、そうなら最初に言ってくれればいいのに〜」

先ほどまでより随分と小さな声。俺は変なところであっけにとられた。
この大きさの違いで声が届くとは。

 青年:「…き、聞こえたのか」
 ルネ:「うん、ちゃんと聞こえるよ。あんなに叫ばないで今みたいに小さな声で喋ってもね」

馬鹿な。
常識的にありえない。
声とは音であり音は振動だ。振動は鼓膜を震わせて始めて音となり声となる。
これほどの大きさの違いがあって、俺の声がこの天使の鼓膜を振るわせられるとは思えなかった。
…だが、すでに目の前の存在そのものが常軌を逸脱している以上、何の理屈も通らない。

 青年:「こ、こんなに大きさに違いがあるのに…」
 ルネ:「天使は耳がいいんだよ。足の下で潰れる人間さんの悲鳴だって聞こえるよ」
 青年:「…」

にっこりと笑うルネ。
するとそこにセラがやってきた。

 セラ:「さっきから何やってるの?」
 ルネ:「あ、セラちゃん。見て見て、人間さん」
 セラ:「はぁ?」

差し出された指を覗き込むセラ。
たしかにその指の間には小さな虫のような何かがつままれている。
良くは見えないがこの中に人間がいるのか?

 セラ:「人間? この中にいるの?」
 ルネ:「うん。今ひろったの」
 セラ:「うそ。良く見せなさいよ」

セラはルネの指先から車を奪うとそれを指先に乗せて覗き込んだ。

この間、俺は死にかけていた。
もう一人現れた巨大な天使の声は先ほどの天使の声よりも大きかったのだ。
もともと声量が大きいのだろうか。だがそのせいで、あの巨大な口が声を発するたびに、俺は自分の鼓膜がギチィと破れそうな音を聞いた。
更にはその声の振動はそのまま物理的な衝撃となって俺を打ちのめした。
振動の波が俺を痛めつける。
車内で反響するのだからたまらない。
呼吸すらできなかった。

と、今度は突然車が凄まじい速度で動き出した。
シートにめり込む俺。
身体がメキメキと音を立て、やがてシートは俺の体重と重力に耐え切れなくなって壊れてしまった。
動く間へこんだ車内に頭をぶつけ血が流れる。
揺れが収まり、軋む身体を震わせながら外を見てみると、また巨大な目が俺を見つめていた。
先ほどと違い、睨みつけるような鋭い視線だった。

 セラ:「あーいたいた。確かにいるわ。でもこんなの拾ってどうするのよ?」
 ルネ:「えへへー、持って帰って飼うの」
 セラ:「飼う? 人間を? 馬鹿じゃない!? 人間なんてすぐ死ぬのよ」
 ルネ:「そんなことないもん! ちゃんと世話するもん!」
 セラ:「そんなの関係ないわ。だいたいこんなチビな生き物どうやって世話するのよ。持って帰って死んだってゴミになるだけなんだからここで捨ててきなよ」
 ルネ:「やだ! 絶対飼うの! もう返して!」

ルネはセラの手から車を取り返した。

この時俺は、天使たちの凄まじい怒鳴り合いの中で右の聴力を失い、吹っ飛ぶように動く車内で片脚の骨を折っていた。
もう、動く気力すらなかった。
肋骨すら異常を来たしているようだ。
苦しかった。
いっそ、楽になってしまいたいくらいに…。

ゴゴゴゴ…。大地が鳴動し始めた。
大地と言ってもここはあの天使の手のひらの上だ。そしてこの車の周辺が濃い影に包まれていくのがわかった。
何をするつもりだ。

 ギャチィ!

凄い音がした。鉄が拉げる音だった。巨大な何かが、車の屋根を左右から挟みこんだ。

 ギチ…ギギギギギギギ…

それはこの鉄のリーフをメリメリと押し潰してゆく。
やがて車の屋根は完全に挟み潰され、車から屋根が消え去った。
巨大な何かが去ってゆく。
遠くに行くほどにわかってくるその屋根を潰した物体の正体は、あの天使の指の爪だったのだ。
屋根の無くなった天井の向こうにはその巨大な笑顔をはっきりと見上げることができた。
再びあの巨大な指が迫ってきた。
指は、今度はこの車を左右から挟み、摘み上げた。
20mほど持ち上げられた車は逆様にされるとぶんぶん振られた。
ジェットコースターよりも強力な動きが絶え間なく車を振り回す。
ベルトでシートに縛り付けられた俺の身体に、そのベルトが食い込み血が滲む。
何度も何度も振り回され脳みそさえもぐるぐるかき混ぜられ吐き気を覚える中、身体を縛っていたベルトが緩んでゆくのに気づいた。
そして車体が一際強く振られたとき、俺の身体はシートとベルトの間から抜け出してはるか下の肌色の地面、天使の手のひらに向かって落ちていった。
どさっ。
5階建ての建物から飛び降りたような衝撃で俺の身体はぐちゃぐちゃだった。
かろうじて在る意識も朦朧としていてもう自分が死ぬのだと悟った。

 ルネ:「あ、出てきた出てきた」
 セラ:「ほらもう死に掛けてるじゃん。もうダメだよ」
 ルネ:「そんなこともんね。ねー人間さん遊ぼー?」

言いながらルネはその倒れている人間の身体の上に指を乗せてくりくり動かした。
俺は自分の身体が巨大な指で潰されてゆくのを感じていた。
痛みは感じない。ただ自分の身体の感覚が無くなってゆくのだけがわかった。

指をどけてみたルネ。
人間の身体の周りは赤く染まり、それは自分の指にもくっついていた。

 ルネ:「動かないね。どうしたんだろう」
 セラ:「だから死んでるんだって。あーあ、手が汚れちゃった」
 ルネ:「え? もう死んじゃったの?」
 セラ:「あんたが潰したんでしょ。人間は弱っちいから触っただけでも潰れるの。ったく、ほら手ー出して、拭いてあげるから」
 ルネ:「えーいいよ。この人間さんは生き返らせるから」

言うとルネは手のひらの上の小さな人間の身体を指先でぎゅっと押し潰した。
そしてぐりぐり押し付けた後、指をどけてみると、そこには青年が元の姿で倒れこんでいた。

 青年:「あ、あれ…?」

青年は目をぱちくりさせていた。
確かに自分は今、意識を失ってゆく中であの巨大な指に押し潰されたはずなのに。
起き上がって身体を見回してみるが、どこにも骨折や出欠は見られない。健康そのものだった。
見上げてみると、巨大なの二つの天使の顔が自分を見下ろしていた。
 
 ルネ:「えへ、大成功」
 セラ:「あーまたそんな無駄な事して。どうせまたすぐ死ぬよ」
 ルネ:「そしたらまた生き返らせればいいもん。ね? 人間さん。さ、遊ぼ」

再び、あの巨大な指先が迫ってきた。
今しがた自分を潰し、そして蘇らせた指が。
青年の身体が、指先の作る影に包まれる。

そのときだった。


「あなたたち、なにをやっているの」

街中に、声が轟いた。
その声に身体をビクリと震わせるセラとルネ。
そして一瞬、空が輝いたかと思うとそこから巨大な人影が現れ地面へと降り立った。
身に纏うは薄い布。足首と手首には装飾を施されたリングを付け、布に包まれた豊満な乳房は胸板から前へと突き出し、長くサラサラなブロンド色の髪は膝ほどにまで伸ばされ、くびれた腰と尻のギャップは密着した布越しの流線型に容易に見ることができ、美しい素足は地面を踏みしめていた。
それら完璧な美の持ち主は二人を見下ろしながら言った。

 *:「人間界に来てはダメだといつもあれほど言っているでしょう」
 セラ:「ご、ごめんなさい…」
 ルネ:「すみません、女神様…」
 女神:「まったくあなたたちは…!」

女神と呼ばれた女性は腰に手を当てた。
で、彼女は二人の天使を見下ろしているわけだが、その天使達でさえ人間の1000倍の大きさなのである。
だが天使達の大きさは、目の前にある女神の足の指ほどの高さも無かった。
女神は、天使達の更に1000倍の大きさなのである。
つまり人間から見れば、100万倍の大きさなのだ。

女神は腰に手を当てたまま身を屈め二人を真上から見下ろすようにしながら言った。

 女神:「いったい何度言えばわかるの。あなたたちは人間にとってとても大きな存在なの。そんなあなたたちが好き勝手に遊びまわれば人間はとても迷惑するのよ」
 セラ:「えー確かにあたしたち遊んだけど、女神様ほど迷惑かけてないよ」
 ルネ:「うん。女神様、人間さんの街踏んでるよ」
 女神:「え!? うそ!!」

女神は自分の足を見下ろしてみた。
確かに自分の足は人間の街の上にしっかりと踏み降ろされていた。
持ち上げてみると、自分の足跡はいくつもの街を塗りつぶしていた。
当然である。長さ240㎞の足なのだから。
人間から見れば地平線の果てまで見ても、それら全てがこの女神の足跡になるだろう。
巨大な天使達から見ても、巨大な足跡だった。
天使達からは、持ち上げられた女神の足の裏から街だった地面がポロポロと落ちているのが見えた。

 女神:「あちゃー…。…まぁ今回は許してあげるから。ほら、とっとと帰るわよ」

女神は屈みこんで二人の前に手の人差し指を差し出した。
太さ10㎞を超える指だ。
天使達はその白い翼で飛び上がると女神の指先へと降り立った。

このときルネは、例の人間を手に乗せたままだった。

二人を乗せたことを確認した女神は立ち上がり、やがて光とともに消え去った。



全てが終わり静寂が訪れた。
残されたのは瓦礫と化している街とその中に残された無数の巨大な足跡。
そして、それらの災害をすべて無に等しく見せるほどの、街をいくつもその中に内包した、地平線まで続く、超巨大な足跡だった。



おわり。


※昔途中まで書いて止まっていたのを再執筆しました。確か書き始めたのはクラナよりも前です。なのでところどころ書き方やルールが食い違ってたりしますがスルーよろしくです。…なお、この話は読者の人気やリクエストに関係無く続きます。