第8話 〜 今日は100000倍 〜


気が付けばそれはそこにあった。
幾つもの街の全ての人間がそれを見上げていた。
誰しもが目の前の現実を受け止めることができず、ただただ呆然とするばかり。
空が2色に染まった。
一方は綺麗な青、美しい青天であった。
だがもう一方は肌色。どこまでもどこまでも上に向かって肌色の壁が続いている。
多くの人間がそれが何であるか理解はしていた。
巨大だがその形容、遙か遙か頂点には五つの巨大な柱がかろうじて見える。
そう、これは巨大な、とてつもなく巨大な足だ。
足の裏だ。
なんという大きさか。
具体的な高さが測れない者たちでもそこにある存在を見るだけで、またどれだけ背の高い人間が手を伸ばしたところで
絶対に触れることはできない雲があの足裏の半分もない高さを漂っているという事実だけで、
目の前に計り知れない大きさの巨人が横たわっているという現実を受け入れた。
陽光に照らされたそれは美しく健康的な色を放っている。
誰が見ても分かる実に綺麗な足裏だ。
そのスジの人にはたまらない光景だろう。
1部の人間が計器や雲の高さから予想してあの足のサイズを調べていた。

「約23000m(23㎞)………普通の足のサイズを23㎝として……10万倍!?」

10万倍…。
大きすぎてもう何がなんだかわからない。
いったいアレは何なんだ?
いつの間にどこからやってきた?
あれほどの大きさのものが近付いてきたら分からないはずがないじゃないか。
というかあんな巨大な人間が存在するわけがない。
多くの人々が当然の謎を解明するために首をひねった。
しかし、行き着く先は皆同じだった。
あり得ない大きさの巨人が現実にあり得ている。
逃げるしかない。
あの巨人が動き出せば自分たちなどひとたまりもない。
あの大きさから察するにあの巨人から我々は微生物のようなものだ。
砂粒にも負ける。
この大きさの差を考えて逃げられるものではないがそれでも逃げるしかない。
人々は我先にと逃げ出した。
皆てんでばらばらの方向に向かって。


 * * *


巨人の存在は衛星からでも確認できた。
衛星から送られてきた写真を見て局員たちは一瞬、計器が壊れたかと錯覚した。
送られてきた写真はまるで、あどけない少女の寝ているところを写したスナップ写真のようだった。
学校の制服を着込み、片膝を立て、気持ちよさそうに眠っている。
だがこれがスナップ写真であるわけがない。
現に少女の横には山が写っているではないか。
拡大してみれば少女の周りにはたくさんの街が写っているではないか。
つまり無数の街がこの少女の下敷きになっているということだろう。
これは何を意味する?
無数の街が潰されているということは無数の家が潰されているということだろう?
無数の家が潰されているということはそこに住む無数の人々も潰されているということだろう?
この少女がただ昼寝をするためだけに。
馬鹿な!!
これが現実だというのならこんな馬鹿げた話はない。
寝転がっているだけで幾つもの県を跨いでいるなんてあり得ない。
局員はすぐさまこの写真と情報を政府に送った。
あれこれと理屈をこねる政府にしてはその後の行動は迅速で、すぐさま自衛隊の出動が命じられ国連に対しても救援の要請がなされた。


 * * *


足方面に向かった空軍の一団に配属された隊員は嫌でも視界に入ってくるそれを見て、自分が夢でも見ているのではないかと思った。
雲を突き破って突き出ているその超巨大な足裏。
それが間違うことなく人間の足裏だったからだ。
報告によればこの巨人は少女だという。
そして眼前に広がる超巨大な足裏。
我々空軍は、たかが少女の足裏と戦うために駆り出されたのか…。
だが実際に計器は高度20000mを指している。
にも関わらずその巨大な足の指は、戦闘機に乗っていながらにして首を曲げねば頂点を見る事はできなかった。
高速で足の裏に向かっているので、パイロットは、まるで今、自分が踏み潰されようとしているかのような錯覚に陥った。
既に隊の何人かが呆けたり発狂したりして基地に強制帰還させられている。
誰もが本当ならこの場から逃げ出したいだろう。
だがこれも命令である。
残りの機体は目の前の足裏にミサイルを叩き込むため速度を上げた。
そして十分な距離に近付き皆が操縦桿のボタンの上に親指を合わせる。
ここまで近付くと目の前は肌色の壁で埋め尽くされる。
距離感がまるでない。すぐにでもその壁にぶつかってしまいそうだ。

「発射!!」

    ボシュッ…!!

各々の機体から無数のミサイルが白煙を噴きながら足裏に向かって飛んでゆく。
持てるミサイルの大半をこの一撃につぎ込んだ。
機体を退避させる1団。
だがそのうちの1機が操縦を誤り足指に激突してしまった。

    ドーーーン!! ドーーーーン!! ドカーーーーン!!

無数のミサイルが着弾し次々と爆発を起こす。
これだけやれば例え大統領官邸といえど決して無事ではないミサイル量だ。

    ゴゴゴゴゴゴゴ……

濃い白煙が着弾地点を覆う。
幾ばくかのときを待ち、そこから現れたのは傷一つない綺麗な素肌だった。
微動だにする様子もない。
あの量のミサイルを蚊に刺されたほどにも感じていないのか。

「き、効いていないのか…!?」

隊長の口から畏怖の声が漏れる。
その時、一機の戦闘機が隊列から離れ、足裏に向かって直進していった。

「あいつぅっ!! よくも俺のダチをぉぉぉおおおおっ!!!」
「待て!! 隊列を崩すな! 戻れ!!」

隊長の制止も聞かず、その機体は巨大な親指と人差し指の間に向かっていった。
何百mも幅のあるその空間の、指の付け根。
彼はそこを弱点と判断して、ありったけのミサイルを放った。

「死ね死ね死ね死ね死ねーーーー!!!」

 ドドドドドドドド…!

全てのミサイルが遙か下の指の間に向かって飛んでいった。
機体はそのまま2km以上ある指の間の洞窟を抜け反対側から抜けた。
その後、彼の脱出を待っていたかのようなタイミングで、ミサイルは目標たがわず全て指の付け根に着弾した。
彼の目算は見事だった。
見事に少女の弱点を見抜き、的確な攻撃を行ったのだ。
問題はその威力であった。



妹はくすぐられるのが苦手だった。
例え何処であろうとも半端な刺激に微妙な痒みを覚えるのが嫌なのだ。
だが唐突にそれはやってきた。
わざわざ手を伸ばすのも面倒と、妹は足の指を少し動かした。



指の間を抜けた機体の後ろから突然肌色のガラスの様なものが追いかけてきた。
爪だ。幅2000メートル以上もある巨大な親指の爪が自分を追ってきたのだ。
そう、彼の目算は見事だった。
見事に少女の弱点を見抜き、的確な攻撃を行ったのだ。
問題はその威力であった。
弱ければ妹は何も感じず、強ければそれはそれでただの一瞬の痒みとして放置するか、遠方から手を伸ばしてきたことだろう。
だが彼の攻撃は弱く、それでいて強かった。
半端な威力が彼女の嫌う半端な痒みを生み出してしまったのだ。
妹は痒みを駆除するべく足指を少し動かしたのだ。
そして今、機体の背後から巨大な親指の爪が超高速で迫ってくる。
ブースターを最高に吹かしているにも関わらず爪との距離は全く広がらない。
パイロットは、自分の機体が空中で止まってしまっているかの様な感覚を覚えた。
それほどの速度差だった。
ガラスのように光る壁が迫ってくる。
そして…

    グシャッ

亜音速で飛ぶ戦闘機は、その何倍もの速度で迫る親指の爪に追いつかれ粉々に砕け散った。
彼の機体が爆発した時に発生した煙もコンマ1秒と経たぬうちに指によって吹き散らされた。
そしてもうこの時には、足に向かった空軍の一団は全滅していた。
妹が親指を体の方に動かしたときそれ以外の指は足の裏の方に動いでいたのだ。
残りの空軍も、親指によって叩き落とされた一機と同じように、突然押し寄せてきた人差し指や中指の腹に激突して砕け散った。
これらの出来事はすべてほんの一瞬の間に行われている。
結局のところ空軍は、妹が足の指をピクリと動かしただけで全滅してしまったのだ。


 * * *


こちらは巨大少女の顔に真横から向かっている空軍一団である。
見せられた写真では愛くるしい寝顔をしていた。
その顔にミサイルを撃ち込まねばならないと考えると少し心が痛む。
だが眼前に見える少女の巨大な横顔を見る限り、
自分の持てるすべてのミサイルをつぎ込んだところで少女を傷つけることなどできはしないのではないかという疑問も浮かんできた。
山をまるで枕代わりか?
いや枕にすらなっていない。
山が少女の頭の重みで潰されてしまっている。
雲が少女の耳にかかり、その雲の上に出ている巨大な顔は、まるで雲海に浮かぶ島のようだ。
目は閉じられ、その睫毛だけでも何百メートルあることか。
形のいい鼻は我々から見れば山よりも高い。
その横にはピンク色に縁取られたかわいい唇が見える。
横から見ただけでもその美しさは分かる。
もしもあの唇でキスを迫られたら断る男などいはしないだろう。
もっとも、実際にあの巨大な唇で迫られたら何万人という男がキスという名目のもと一瞬で潰されてしまうのだろうが。
そのあと我々の血はあの綺麗な唇を彩る赤い口紅となるはずだ。
だが、彼女の唇を塗りつくすとしたらいったい何十万人の人間を用意すればいいのだろうか。
あの口はどこまで開くのだろう。
大きさから見るに、街などペロリと飲み込んでしまえるに違いない。
噛む必要なんてないだろう。
彼女の巨大な舌に舐めとられた瞬間に、街なんてボロボロに崩れ去ってしまっている。
街の人間は大半が舐め取られた時点で死ぬ。
次にその舌が口内に運ばれる時の急激な気圧の変化と強烈なGによって生き残っている人間の更に大半がはじけ飛ぶ。
口内に入ったら押し寄せる唾液の波に呑まれて更に大半が溺れ死ぬ。
ここまでに生き残っているたった一握りの人間が彼女の喉を唾液と共に降りる権利が与えられ、
途中のひだに引っかからなかったほんの数人が彼女の胃液で溶かされることを許される。
卑小な人間なんか彼女の胃液に触れた瞬間に消えてしまうだろう。
ジュッという音と共に骨すらも残らぬほどに。
いけないいけない、あまりに現実離れした光景に変な考えが浮かんでしまう。
今はそんな場合ではない。
これ以上彼女の犠牲になる者を出さぬために、ここで彼女の息の根を止めなくてはならないのだ。
だがもう彼は、彼女の息の根を止めることなど半ば諦めていた。
その時、緊急の通信が入った。

「迂回しろ! 真横から顔に向かっては駄目だ! 第32大隊の二の舞になる!」

第32大隊。
彼のいる隊の少し先を進んでいた隊である。
その隊は彼女の顔の下半分に対して空爆を行う予定であった。
しかし顔に近付いた途端彼女の呼吸によって作られる急激な気流に吹き飛ばされ一瞬にして全滅してしまったそうだ。
彼の隊は進路を変更して、胴体の方から顔の上空に進入し爆撃を行うこととなった。

大幅な進路変更の末、彼らの隊は胴体の上を飛んでいた。
丁度へその上あたりだろうか。
首元付近は呼吸の気流が渦巻いており横からの侵入は危険と判断された。
頭方面からの侵入は爆撃後の離脱で鼻に背を向けることになり、後ろからあの強風を食らうことなり却下。
故に遠回りではあるが、胴体方面から顔に向かうこととなった。
爆装しているため高高度を飛ぶことができない。
もっとも安全なのが、気流に対して正面から向かっていくこのルートだと判断されたのだ。
途中、別の隊と合流し総数は3倍近く100機以上の編成になっていた。
正面には布に包まれた巨大な二つの山が見える。
これが乳房か。
我々は少女の胸の谷間を通過しているのか。
左右にそびえる巨大なおっぱい。
富士山よりも高いその山は、少女がその気になればすぐさま我々に襲い掛かってくるだろう。
少女がほんの少し胸を寄せるだけで、我々の隊は胸の谷間でペシャンコに潰されてしまう。
我々はこの巨大な乳が襲い掛かってこないようただただ祈りながらこの少女の谷間を通過するしかなかった。
そしていよいよ正面には少女の顔が見えてくる。
それと同時にあの強大な威力の気流がギシギシと機体に襲い掛かる。
爆走しているせいで出力が上がらない。
これ以上の強風には耐えられない。
だが爆撃の目標地点は鼻と口の間であり、そこには今以上の強風が待ち構えているのは火を見るより明らかだ。
しかしそれが命令である以上こなさなければならない。
彼等は顔への侵入を果たした。
形の良い顎を越えて、正面には先ほど彼の想像したあの巨大な口が現れた。
幅はいったい何千メートルだろうか。
ピンク色の唇で縁取られた巨大な口がぽっかりと開かれている。
穴の中はヌメヌメと赤く光っており奥は闇に包まれて見ることができない。
まるで地獄に繋がっているようだ。
実際に堕ちればそこに待っているのは地獄だろう。
少女が口を開けたまま寝ている姿はなんともほほえましいものだが、
実際にその口の上を飛んでみるとこの巨大な地獄への穴が
今にでも我々に襲い掛かってくるのではないかという想像による恐怖にかられる。
一刻も早く通過したい。
全隊の中でも先行していた彼の隊はこの口の中間あたりに差し掛かった。
そのときである。

「ふぁ…」

彼等の隊はこの世から消えていた。
妹が寝ながらにして漏らした吐息によって、口の上を通過していた空軍は一瞬にして粉々に吹き飛ばされてしまった。
彼等が危惧した、地獄の穴に飲み込まれる、という事はなく、逆に地獄の穴から出てきた吐息によって天へと運ばれていった。
幸いにもまだ口の上に到達していなかった後方の隊は、損害は大きかったものの全体の戦力を維持したまま生き残ることができた。
さらに現状を重く見た本部から「核」使用も許可された。
万が一にと積んできたこの核を使うことになるとは。
核爆弾を搭載した機体を中央に据え、残った機体は隊列を整え再びあの巨大な口へと侵攻した。
この核を口の中に落すことができればいかに巨大な人間といえど無傷では済むまい。
強風を乗り越え前へと進む一団。
ボロボロな機体にさらに負荷がかかり、何機もの機体が彼女の呼吸の嵐に巻き込まれ堕ちてゆく。
彼等だけではない。
既に何百という兵がこの少女の為に命を落としている。
この仇は必ずや討たねばならない。
核を搭載した一団が少女の口の上空へ差し掛かった。
核の投下準備に入る。

「終わりだ! 化け物!!」

ボタンが押され、巨大な爆弾が少女の口内に落とされた。
誰もがこの瞬間勝利を確信した。
だが再び、その時である。

「すぅ…」

少女が、今度は息を吸ったのである。
口の上にいた数十機からなる一団は、今度は吹き飛ばされるのではなく、その暗い口内へ吸い込まれた。
一瞬の出来事であった。
彼等は、起きた出来事に対して疑問を抱く前に、その急激な気流に飲み込まれ口内に消えて行った。
もちろん爆弾も一緒にである。
そのあと、少女の口はパクンと閉じられてしまった。
口内に吸い込まれた者が無事であるはずがない。
皆口内の壁や舌に叩きつけられて大破しているか、呼吸により発生した口内の凄まじい乱気流によって空中で粉砕された。
もっとも爆弾も一緒に飲み込まれたのだ。
生存は望めないだろう。
人々は、固唾を呑んでその爆弾の爆発を待った。
そして…

    ドォォ…………ォ……ォ…ン…

…今のが核爆弾の爆発した音なのだろうか…。
まるで何重にも何重にもフィルターを張ったかのようにか細い音であった。
少女には何の変化もない。
口からは光も煙も漏れてこない。
まさかまた効いていないのか? 
核爆弾さえも効かないのか?
だがその時、少女に変化があった。
彼女の頭部が動き出したのだ。
口がゆっくりと開かれていく。
その隙間から、うっすらと煙のようなものが吐き出された。

「うわぁん、しょっぱ〜〜〜〜〜〜〜い」

少女は、本当なら使用した核爆弾から聞こえるはずだった爆音よりもはるかに強力な音量の声を発した。
周囲の雲はその声による空気の振動でかき散らされ、建物は吹き飛び、人間は空気の振動に耐え切れず、粉々になった。
少女の目元を飛んでいた一団が強力な衝撃波にさらされ大半が空中で爆散した。
生き残った機体も一目散に空域を離脱しようとしたが、うねりをあげながらやってきた少女の手にぶつかって皆叩き落された。
少女は目から漏れた涙を拭っている。
幸いにも少女の手が来た方向とは逆の方面を飛んでいた一団は、
目の前で動く山よりも大きな手が必死に目をこする様を見せ付けられていた。

    ゴォリ…! ゴォリ…!!

あんなものに触れてはたちまち粉々になってしまうだろう。
それにここはまだ少女の顔の上だ。
いつ反対の手がこちらの目をこすりに来るかも知れない。
急いで脱出しなければ。全速力で少女の顔の上を飛ぶ一団。
ふと見れば下には閉じられた少女の目がある。
その幅だけでも3キロメートル以上あるのではないか?
そしてその目の周辺には1000メートル近い長さの無数の睫毛がはえている。
仮にあの一本にぶつかったとしてもこの戦闘機は砕けてしまうだろう。
おそらくあの睫毛はこんな小さな戦闘機がぶつかった程度の衝撃ではしなることもあるまい。
核爆弾を口の中で爆発させられながら、あの程度の効果しかないのだ。
人類のどんな兵器をもってしてもこの少女を倒す事は無理な相談なのだ。
とその時、眼下にある巨大な目がカッと開かれた。
ギョロリと周囲を見渡している。
まるで湖のような大きさだ。
その瞳の径だけでも1000メートルはある。
恐ろしい。
巨大な湖のような目がその上を飛ぶ自分たちを見つめている。
いやきっと見えてなんかいないだろう。
こんな巨大な少女に我々が見えるとは思えない。
ただ視線の先にある空を見つめ、その途中に我々がいるだけだ。
突然その目が更に大きくなるような錯覚に陥った。
が、それは違った。
その巨大な目が近付いてきたのだ。
少女が頭を起こしたのだろう。
我々の存在になど気づきもせず、目がどんどん近付いてくる。
眼下が少女の瞳で埋め尽くされる。

「やめろ! ぶつかるぞ! うぁあああああああああああ」

    パシャ ペシャ パシャン

機体は水面に叩きつけられた。
少女の目に激突したのだ。
隊員たちは少女の目に捕らわれの身となった。
瞳の周囲、いわゆる白目と言われるところだ。
機体のうちの何機かはぶつかった時の衝撃で大破してしまったが、大半が無傷のまま少女の目を覆う膜に捕らわれた。
屈強な男たちは、機体内に浸水してくる少女の目の粘膜で溺れまいと必死に手足を動かしていた。

「ガボ…お、俺たちこれからどうなるんだよ!」
「知るかよ。機体だって全体が水に、この粘膜に沈んじまってんだ。飛べるわけねえだろ」
「いったいなんなんだよこの巨人は! なんでこんなにバカでかいんだ!!
 核喰らってもなんともねえし、空軍1団をこうやって目に入れちまうんだぜ!」
「ガホ…出撃前に見た写真だと大分幼そうな感じに見えたけどな…」
「実際幼いんだろ。それでもこれだけ大きいんだ。
 視界に入らない奴を眼中にないって言うけど、眼中に入っててもこの巨人の女の子には見えないんだぜ。
 分かるか? 普通、砂粒が目に入ったら痛みを感じるのに、未だにまばたきしたり目を擦ったりもしない。
 俺たちはこの巨人になんの感触も与えちゃいないんだ。俺たち全員合わせても砂粒以下なんだよ」
「止めろ! それ以上何も言うんじゃねえ!」
「あぁ…さっきからこのほぼ垂直の粘膜に捕らわれてるから、上下感覚がなくなってきた…」
「おい、向こうを見ろよ。俺たちがあの巨人の目にいるってことは、これがこの巨人の見てる世界なんだぜ」

そこにはまるで別世界が広がっていた。空が遙か下にあり、目の前には宇宙が広がっている。地平が完全に丸く見える。

「…これでもきっと、座ってるだけなんだろうな」
「宇宙に飛び出してるのか…そういえばなんだか酸素が薄くなって…」
「機体が頑丈につくってあってよかったな。それに、よく分からないけどこの粘膜のせいもあるんだろう。
 気圧の変化と真空から俺たちを守ってくれてるんだ」
「真空? じゃあなんでこの巨人は平気なんだよ」
「知らないよ。核にも耐えたんだ。真空に耐えたって別に驚かないよ」
「おいどうすんだよ。ボンベの酸素だって無限じゃないんだ。いずれなくなっちまうぞ」
「…どうしようもないよ。俺たちはもうこの目から逃げられない。見ろよあっちを」

隊員のうちの一人がある方向を指した。何百メートルか先から壁の色が違う。

「見えるだろ。俺たちがいるところが白目なら、あの茶色いところが瞳だ。
 あそこまで行って俺たちの存在をこの巨人の女の子に伝えれば、1兆の1兆乗分の1の確率くらいで助かるかもしれないけどな」
「行けるわけないだろ! この真空の世界に飛び出して、何百メートルも無呼吸で泳いで、それで瞳の前で踊りでもしろってのか!」
「そうだよ。分かっただろ? もう俺達が地上に戻るのは無理なのさ。あとはいかに苦しまずに死ぬかを考えて終わりさ」
「ふざけるな! 俺は嫌だぞ! 絶対に生き残る!」
「お、俺だって嫌だ! こんな子どもの目ん玉の中で死にたくないよ!!」
「た、助けてくれ…! 誰か助けてくれーっ!! お母——————」

    パチ

ほんの一瞬の出来事だった。
一瞬にして、彼等と言う存在が目の表面から消えてしまった。
なんの事はない。
彼女がまばたきをしたのだ。
もちろん痛みや痒みを感じたからじゃない。
ただ目が乾いたと感じた脳が無意識にやったのだ。
高速で動いたまぶたに絡め取られ、粘膜とまぶたの間で彼等はずたずたに引き裂かれてしまった。
まさにまばたきをした瞬間に彼等は消えていたのだ。
だが幸いにも彼等には苦しむ時間は与えられなかった。


 * * * 


体を起こし、寝ぼけ眼を擦りながら擦りながら周囲を見渡した。
自分の目と同じ高さに星空が見える。
足下には白い雲が漂い、地面は色とりどりの不思議な模様をしている。
地平線は丸く、自分の目に止まるような大きなものが何も無かった。

「ふぁ…寝てる間に大きくなっちゃった…」

まだ覚めきっていない頭でそんなことを考えた。
確か公園で昼寝をしていたはずだが。
…まあいい、とにかく自分が今普段よりもはるかに大きくなっていることは分かった。
そろそろ家に帰る時間なのだろうが今は何時なのだろうか。
時計は持っていない。
日の傾きを頼りにしようにも、見えるのは宇宙ばかり。
だが周囲が暗くないことから見ても夜ではないだろう。
とにかく家に帰らなくては。
妹は立ち上がった。


 * * *


「うわああああああああああ! 動き出したぞーー!!」

巨人の足が突然動き出したのだ。
足裏の周辺の町の、まだ残っていた住民たちが悲鳴を上げる。
その肌色の壁は後方に引っ張られるようにして飛んでいった。
巨大な足の裏が突然上空に何千メートルも、距離はそれ以上に移動したのだ。
まさに飛ぶと言うにふさわしい。
踵の周辺の町は足の裏が動くと同時にその巨大な存在が動いたことで発生した空気の激流によって家が、車が、人が、
果ては町の一区画までもがまるごと地面から引っ張り上げ3000メートル以上も上空に放り出された。
巨人が伸ばしていた足を手前に引き寄せたのだ。
くの字に折曲げられた膝は遙か天空にそびえる山となりそこに現れた。
ミニスカートから伸びるその健康的な脚は、そのクチの人によっては一度はお相手したいと願わずにはいられないだろう。
しかしそれは無理な話だ。
あの脚に触れるためには数万メートルを上らなくてはならないのだから。
まさに登山である。
だが世界にこれほど高い山は存在しないだろう。
そしてそれが人の脚である以上登山道具も使えない。
もっともそんなもので彼女の肌を傷つける事はできないだろうが。
引き寄せられたつま先は当然その後地面を踏みしめるだろう。
長さ23kmの足裏がそこにあった街の上にかざされた。


 * * * 


市長は空を仰いでいた。
だが、事態は最早彼の理解できる限界を越えていた。
突然陽光が遮られた。
空が消え、代わりに巨大な足の裏が上空を占領した。
雲さえも散らしてどんどん迫って来る。
まだ街の中には避難できていない住民が大勢いる。
そんなことおかまいなしにそれは迫ってくる。
先ほど政府から公表された情報によれば、この超巨大な巨人は女の子だそうだ。
ネットには少女の全体像が映し出されたサイトもあった。
本当にこれが少女なのか?
街の全体を覆ってなおあまるこの巨大な足裏の持ち主が、本当に少女と呼べるのか?
いったい何故、何が目的でこの巨人の少女はこの街を踏み潰そうというのか。
私の切り盛りしてきたこの街を踏み潰そうというのか。

「止めろ! 潰さないでくれ!」

彼はひとり自分の執務室で悲鳴を上げた。
しかしその足裏は降りることを止めはしなかった。

まだ避難できていなかった住民は一様に空を仰ぎ、それを見上げていた。
病院や学校では医師や教師が先に逃げ出してしまい、ひとりでは動けない患者や子どもたちが取り残されていた。

「だ、誰か助けてくれ! 私を置いていかないでくれ!」
「先生、先生は何処ですか!?」
「うわーーん!! うわーーん! ママーー!!」

そしてその巨大な素足は地上に触れた。

    ずううううううううううううううん………!!

それだけで幾つもの街が完全に消滅してしまったのだ。
当然そこにいた人々と共に。
もっとも残っていた人々は足裏が地面に触れる前に吹き飛んでいたが。
足裏が地表に迫ってきたときに膨大な空気を圧迫したので町の気圧が急激に増加し、人々はその気圧に耐えることができず破裂したのだ。
小学校などでは教室に取り残された生徒30人が一斉に弾け飛び、教室の中が一面真っ赤に染まってしまったほどだ。
そしてその巨大な足も地表に触れただけでは止まらず2000メートルほども地面を沈下させ、やっとその巨体を安定させた。
だがそれで終わりではない。
少女がこの場所に足をつけたのは立ち上がるための準備だ。
当然その準備が終わったら、次は立ち上がるだろう。
そして、その時はきた。
少女は両手を地面に着き、その超巨大な肉体を持ち上げた。
右手では二つの街が、左手では標高2000メートルほどの山が潰された。
街のひとつは手のひらで押し潰され、もう一つの街は直径1000メートル以上もある少女の指によってすり潰された。
少女の指に触れた瞬間にビルなど粉々に吹き飛んでしまう。
そこにいた人々はその指から突き出た何百メートルもある爪を見上げるだけでも、空を仰がなければならない。
直径1000メートル以上もある指である。
街一番の高層ビルであってもあの爪にはとどきはしない。
3つの学校が少女の小指の先で潰された。
山はまるで砂でつくられていたかのように少女の手を支えることもなく地面の底へと沈んでいった。
標高2000メートルの山はあっという間に深さ2000メートルの窪みとなった。
そして少女は立ち上がった。
二本の巨大な脚でその巨体を支え大地の上に立ったのだ。
なんという大きさだ。
地面についている足の指を見上げるだけでも首が痛くなる。
更にその上、その先は最早地上の人間には見ることができなかった。

    ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ…!!

立ち上がった少女の巨体を支えきれず、大地が悲鳴を上げた。
あまりの重さに大地が沈下し始めたのだ。
マントルにも影響しているのかも知れない。
まさかこの少女ひとりの重さのために日本が沈没してしまうだろうか。
だが日本が完全に沈下する前に少女は歩き出した。
長ささ23kmの巨大な足を雲よりも高く持ち上げ、はるか先の大地へと踏み降ろしたのだ。

    ずううううううううううううううん………!!

この一歩のお陰でまた新しく幾つもの街が潰れた。
それは先ほど起き上がるときに足が地面に付けられたときとはまるで違った。
あれはただ膝を立てるために足を着いただけ。
その時足にかかっていた体重はわずか足の1本分でしかなかった。
それだけでも多くの街を簡単に押し潰したが、今度は違う。
移動するに伴いその体重もその足へとかけられる。
少女の体重の大半を乗せてこの足は大地を目指す。
そして何より遠慮がない。
足が大地を踏みしめた瞬間、周囲の街はその足裏が圧迫し放った空気と衝撃波によって、
まるで砂でも吹き散らすかのように粉々に吹き飛ばされた。
街も森も一瞬にして。
山はその大半を吹き飛ばされた。
強大な一歩はその場に、隕石が落ちたかのようなクレーターを作った。
その直径は50キロメートル以上ある。
深さは何千メートルか。
富士山を逆さに入れても足りない。
そして地面を極限まで圧縮して止まったその足は次の一歩のために少女の体重をすべて受け止め、さらに地面は沈下する。
そしてもう片方の足が同じことをやる。
これが少女が歩き続ける限り何回も繰り返されたのだ。
地上には無数の、それでいて規則的に並んだ巨大なクレーターだけが残された。
クレーターの内部にいたものは当然助からない。
その周辺にあった街はビルや家でさえ、少女が起こす隕石の衝突以上の地震で数百メートルも宙に浮かびあがった。
またその地震は日本を震源に巨大な津波を発生させ、周囲の国々を飲み込ませた。

途中、妹は東京の街を踏み潰した。
こまごまとビルだの何だのが立ち並び、日本の首都としてシンボルである東京タワーを有したこの街も、
妹にたった一歩で踏み抜かれてしまった。
高さ333メートルの東京タワーも、妹から見ればわずか3ミリ程の大きさだ。
足の小指の半分の高さもない。
踏み潰したところで気づけるかどうか疑問だ。
実際周囲の高層ビルと一緒に小指で踏み潰してしまったが、妹は気づいた様子もない。
高さ100メートル超の展望台から見上げる大きさ1000メートル超の小指はどんな風に見えたのだろうか。
妹は、足の小指に東京タワーを貼り付けたまま東京を後にした。

妹が去ったとき、日本は無数の大穴が地面にあけられ、星の数の街が巨大な足で踏み潰された。
また発生した津波は沖縄などの島々を飲み込んだあと、日本周辺の国々を洗い流した。
妹が眠りから醒め、家へと帰るために歩いただけで、日本は人口の半数を失い、その他周辺諸国も甚大ではない被害を被った。

家に帰った妹は、何千万という人間を消し去ったとは気づきもせず、兄との会話に花を咲かせていた。
その日のニュースで、世界地図が新しく更新されると発表された。
新しい世界地図では、沖縄、北海道等日本の島々と周辺の国がなくなり、本州には幾つもの巨大な足型のクレーターができていた。

 END