『冬の名物 「足臭大会」』



冬休みに入った俺たちは何となく散歩に出てきていた。冷たい風が吹き抜ける川沿いの土手の上を他愛の無い会話を続けながら。
俺はテキトーに相槌を打ちながらチラリと横を並んで歩いている幼馴染の春香(はるか)を見た。
ダークブラウンのコートを羽織り首元には温かそうな毛糸のマフラーを巻いていた。
コートの隙間から覗く、この季節は寒そうに見えるチェック模様のミニスカートがそこから伸びる黒いタイツに包まれた脚の動きによってヒラヒラと揺れている。
黒く長い髪は後ろで大きなリボンで縛られポニーテールされ、春香が歩くとそれは左右にフリフリ動く。
幼馴染である事を贔屓しなくてもかわいい方だと思える顔は笑顔で、楽しそうに喋るその口元では薄く紅を差した唇が動くたびに、そこに雲のように白い吐息が吐き出されていた。
暫く俺の視線は、その動く淡い口元に釘付けになっていた。

「……くん? まーくん? どうしたの?」

名前を呼ばれハッと気づくと、春香は俺の前に回り込み俺の顔を覗き込んできていた。
きょとんとした表情で「?」と首をかしげる春香。
やや前かがみになり下から上目遣いに見上げてくる春香から、俺は慌てて視線を逸らした。

「な、なんでもない!」
「…? ならいいんだけど…。なんか今日のまーくんボーっとしてるから熱でもあるのかと思って…」

春香が心配そうな表情でコートの先から僅かに出て手を伸ばし俺のおでこに近づけてくるのを見て俺は両手を顔の前で振って否定した。

「い、いや大丈夫だって! やっぱ冬は寒いな~っとか考えてただけだから!」
「そっか」

春香はにこっと笑った。
そんな春香の顔を見て、俺はまた顔を背けてしまう。

春香の顔をまっすぐ見られなかった。
それと同時に、きっと赤く染まっているであろう自分の顔を見られたくなかったから。


そうやって歩いていると川の向こうの運動場で何やら催し物が開かれているのが見えた。
まだ距離があり何をやっているのかわからない。今日は何かのお祭りだったか。

「なんだろうあれ? 何かやってるのかな?」

春香も気づいたようだ。
元々アテも無く散歩をしていた俺たちはそこに行ってみる事にした。


  *


大きな橋を渡って着いた運動場。
かなりの人が集まっており、一部の出店には行列ができていた。

その入り口に立っていた大きな看板を見て俺は顔をしかめた。



  『足臭大会!』



「げ…」

俺がげんなりする横で、春香はきょとんとして看板を見上げている。

『足臭大会』とは文字通り足の臭いを競い合う大会である。
この時期、保湿性の高い靴を履くことを多いからこその企画。
ちなみに、女性限定。

エラい場所に来てしまった。俺はうんざりしながら横にいる春香に話しかける。

「なぁ…他行かないか?」
「え? 面白そうじゃない?」

どこが…。
俺がため息をつく横で春香は看板の横に書いてあった説明文を読んでいる。

「あ! 見て見てまーくん! 入賞すると賞品も出るって書いてあるよ!」

ぱむっと手を叩いて嬉しそうに言う春香。
いやどうせロクでもないものなんだろ。てかこんな大会で入賞するって…。
俺は目の前に立つ看板を見上げた。

と、そのとき。

「いらっしゃいませー。あなた方も参加なさいますか?」

スタッフと思わしき人が声を掛けてきた。

「いや俺たちは…」
「はい、参加します」

俺が否定しようと口を開いたところで、春香のご機嫌な声が被さってきた。
俺はうんざりしながら春香を見た。

「お前なぁ…」
「大丈夫だよ。がんばって入賞するよ」

春香はにっこりと笑みを返してきた。
いや、この大会で入賞するってことはつまり足が滅茶苦茶臭うってことだろ。
昔から色々なことに前向きだったが、もう少し分別してもいいんじゃないだろうか…。
俺はため息をついた。

そんな俺たちを見ていたスタッフの人がくすくすと笑いながら言う。

「ふふ、では彼女さんはこちらの参加者控えへ、彼氏さんはあちらの審査会場へどうぞ」
「か、彼氏!?」

思わず声がひっくり返ってしまった。
顔が耳まで真っ赤になる。

「あら? 違いました?」

スタッフは相変わらず笑顔だ。わざと言ってないか?
真っ赤になる俺の横では春香がにこにこ笑っている。

「えへへ、彼女だって」

ぎゅ。腕を組んできた。

「ば、バカ! そんなことしたら勘違いされるだろ!」
「いえいえ、ちゃんと分かってますから」

スタッフはご馳走様と言わんばかりの笑顔だ。

「ああもう、わかったから行って来い」

俺は腕を振り払って春香と離れる。
コード越しに感じられた女性的膨らみは非常に魅力的だったが、そういうのがあるから恥ずかしくなるとも言える。

春香はスタッフに連れられて控室らしきところに入っていった。

「彼氏さんは審査会場の方へどうぞ」
「いや俺は外で待ってるんでお構いなく」
「何言ってるんですか。彼女さんの晴れ姿が見られませんよ」

晴れ姿…。俺的にはこんな大会で入賞したら黒歴史ものなんだが…。
だが俺はスタッフのあの手この手に絡め取られ、結局審査会場に連れて行かれる事となった。


  *


「…なんだこれ」

審査会場と言われ通された場所は運動場だった。
その広さ大体東京ドーム一個分。約200m×200m。
会場には人がいるだけで何かしらの施設が立っていたりステージがあったりとかはしない。
ただの運動場だった。

「これでどうやって審査するんだ…」

大会の存在は知っていたが、実際にどうやるかは知らない。

そうやって時間だけが流れていると段々と人が集まってきて気づけば会場の中はほぼ満員になっていた。
よくもこれだけ人が集まる。
これはこの集まった人らがそういうのを好むからなのか、偏にスタッフの手腕によるものか。

俺が唖然と佇んでいるとやがてアナウンスが流れてきた。

『えーお集まりいただきました皆様方、お待たせいたしました。間もなく第168回『足臭大会』を開催いたします』

ワァァァァァアアアアア!! と湧き上がった歓声に圧倒されつつ俺はこの大会がすでに168回に達している事に驚いていた。

『それでは早速参りましょう。エントリー№1の方、どうぞ!』
『はい!』

  ズウウウウウン…!

突如地面が大きく揺れ重々しい音が轟き、俺は慌てて周囲を見渡した。
すると会場の一方に、馬鹿でかい女の子の姿があった。
100倍。超高層ビルの様な大きさだ。

「…なんだこれ」

呆れ返る俺を除き、湧き上がる歓声はより一層強くなった。

『えっと、それじゃあ会場に入りますね』

言うと女の子は履いていた靴を脱いで白い靴下に包まれた足でこの会場に踏み入ってきた。
足が落下するであろう場所にいた人々はサーッと引いてスペースを作る。手慣れている!?
足が下されると地面がまたズウンと揺れた。
更に女の子は数歩の歩行と地響きを継続し、審査会場の中央まで来ると足を止めた。

『はい、好きなだけ嗅いでください』

女の子は足元の審査員(全員男)達を見渡して言い、それを皮切りに男達が歓声を上げながら女の子の足に群がっていった。
男達から見る女の子の足は24mもの大きさであり大型バス2台分の大きさがある。
全幅も倍だ。
単純計算、大型バス四台分の面積を踏みしめているのである。
それが2つ…。

俺は女の子の白い靴下をはいた足に群がる男達を呆然と立ち尽くして見つめながらそんなことを考えていた。

男達は口々に臭いの感想を語っている。
誰も彼もご満悦と言った感じだ。
女の子もそんな男達を見下ろしてくすくすと楽しそうに笑っている。

男達が靴下越しに足をぺたぺたと触り臭いを嗅ぐために顔を近づけクンクンする。

『やぁん。くすぐったいですよ~』

言って女の子が足をもじもじ動かすと足に取りついていた男達が跳ね飛ばされた。
嬉しそうな歓声が起こる。

少女の足周辺には大勢の男達が群がっているが、それでも全体から見ればほんの一部だった。
密集しすぎて足に近づけない男達は悔しそうに歯噛みしていた。
つい今しがたまで運動靴に包まれていた足はほんのりと温かく足の周囲にはむわっとした空気と臭いが立ち込めた。
ソックスに包まれた巨大な足の指に顔を近づけてその臭いを目いっぱい吸い込んだ男達はあまりに強烈な臭いにひっくり返って気を失ってしまった。
とても幸せそうな顔だった。
少女の足の周辺で男達がバタバタと倒れてゆく。
それが、少女の足の臭いの威力を表していた。
流石に少し距離のある俺のところまでは臭ってこなかったが。

暫くするとアナウンスが流れた。

『はい終了です。ただ今の記録は32人でしたー』

わーパチパチ!
周囲からまた歓声が沸いた。

『うー残念。もうちょっと行くかもって思ったんだけどな~』

女の子も失敗失敗といった表情で頭を掻いている。

「しかし何が32人なんだろう」

『臭いを嗅いで気絶した人数です』

「…」

答えられた。
そして数は気絶した人数だった。

『この大会は足の臭いでどれだけ多くの審査員を気絶させられるかを競い合います』

そんなもん競ってどうすんだよ。
俺は顔を押さえてため息をついた。

『では次の方、どうぞー』

一人目の女の子が去った後、次の参加者を呼ぶアナウンスが流れた。
再び巨大な女の子が会場に入ってきて男達がそれに群がり始めた。
白い靴下は僅かに汚れており、普段から使い込まれているのがわかる。運動系の部活にでも所属している子なのだろうか。短めの髪にボーイッシュな印象を覚える。

男達は我先にとその白い靴下に包まれた足に取りつき、荒い繊維を手で掴み体を固定させ顔を近づけて思い切り息を吸い込む。
やはりつま先の方が臭いが強いらしい。息を吸い込んだつま先周辺の男達がパタパタと倒れてゆく。それでなくとも足の周囲では気絶する者が続出しているのに。
使いこまれた靴下は臭いが染み込んだりしているのだろうか。汚れが目立つ足裏周辺は特にそれが強いらしく、男達は足の下に顔をねじ込もうと地に這いつくばっていた。

『ん? なんだ? 足の下に入りたいなら入れてやるのに』

その女の子が足元に群がっていた男達を見下ろした。

『ほい』

突如、男達の群がっていた足の一角であるつま先がガバッと持ち上がり、そこに群がっていた男達は支えを失った事で今まで足の指があった部分に倒れ込んだ。
指が持ち上げられたことでそれを包む靴下の裏側がはっきりと見えた。足の指の形に薄い汚れが残っていた。
そのあとすぐに足の指は下りてきて、倒れ込んでいた数人の男達の上に覆いかぶさった。100倍の大きさとなった女の子の足の指は男達の身長の倍ほどの長さがあり、靴下に包まれた足の指が乗せられてしまうと、外からは見えなくなる。
その数人の男達は、靴下に包まれた巨大な足の指の圧力によって押し潰されそうになっていた。靴下に包まれている分、隙間が埋められ逃げ場がない。
女の子の5本の指は、指の本数よりも多い男達を押さえつけ、決して逃がそうとはしなかった。
足の指の下から悲鳴が聞こえてきた。歓喜の悲鳴だ。
地面と足の指の間に挟まれる男達の嬉しそうな悲鳴が俺のところにも聞こえてきた。
周囲の他の男達は心底悔しそうな表情をしている。
一部の男達は指の下敷きになるのを諦め、土踏まずの下に体をすべりこませていた。


『はい終了です。ただ今の記録は58人でしたー』

『ちぇー、そんなもんか』

女の子は残念そうに呟き地響きをたてながら会場から出て行った。
女の子の巨大な足がどけられると何十人もの男達がその場で気絶していたのだが、俺はその男達を見てふと思う。

「あれ? 58人以上倒れてないか?」

『足の臭いで気絶した人だけがカウントの対象になります。他の方々は踏まれて気絶されたので対象外です』

「…」

また答えられた。
ていうかこんなアレな企画でそこまで厳密に審査するのか。それともアレだからなのか。

『では次の方、どうぞー』

アナウンスは次の参加者を呼んだ。
まさかこれを延々と繰り返すのか。なんて無意味な企画だ。
というかわざわざ巨大化する必要はあるのかよ。いや、そうでもしないと女の子の足にムサイ男が顔をこすり付けて臭いを嗅ぐと言う犯罪的な企画になるが。
まぁ参加者も審査員も同意の上なんだからいいんだろうけど…。

その時である。

 ズドオオオオオオオオオオオオオオオオン!!

これまでのよりも遙かに大きな揺れが会場全体を揺さぶった。
慌てて周囲を見てみればそこにはこれまで同様巨大化した女の子。
ただしその倍率は、それまでとは桁が違う。

実に1000倍。身長1600mの女の子がそこに立っていた。
それまでの100倍の、身長およそ160mほどの女の子たちの10倍の大きさである。
雲を衝かんばかりの巨大さの、金髪ツインテの女の子が足元の会場を見下ろしていた。

「ひゃ、100倍限定じゃなかったのか…」

唖然とする俺の視線の向こう、空の彼方から見下ろしてくる女の子はつまらなそうな表情のまま言った。

『あーあ、面倒ったらないわ。ま、でも、賞品は欲しいし、仕方ないわね』

ため息とも取れる呼気は、この寒空で一気に冷やされそこに雲を作り出した。女の子の顔の周囲に雲が浮かぶ。

そして女の子は左足で右足の靴の踵を押さえると右足を靴から抜き放った。
巨大なスニーカーから、全長240m幅90mにもなる巨大な素足が現れた。
その巨大な足が、この会場に下される。

 ズウウウウウウウウウウウウウウウウウウン!!

凄まじい揺れが会場全体を襲い、男達は皆地面の上を転がった。
何百人もの男が足によって踏み潰された。
巻き起こされた突風がこの冬の冷たい空気と合わさって刃の様な鋭さを見せる。
つま先が会場のほぼ中心に来るように下されたので、かかとはこの縦横200mの会場からはみ出て近隣の住宅街を踏み潰していた。いいのかこれ。
更にもう片方の足も靴を脱ぎ捨てこの会場へと踏み下された。
200m×200mの会場は、1000倍の女の子が両足で立つには狭すぎる。
つま先は中央よりもやや前方に位置している。つまり会場は、会場の面積のほぼ3分の2をこの巨大な足に占められてしまったことになる。
俺は会場の出入り口部分の壁際からほとんど動いていなかったから難を逃れたが、それでも、前方に10本の巨大な足の指が鎮座する様は圧巻だった。
ここからあの足の指までは100m近い距離があるが、それでも、まるで手の届く位置にいるかのような錯覚を覚えた。

『さ、好きなだけ嗅ぎなさい』

会場のほとんどを踏みしめて立つ女の子が言うと男達は歓声を上げながらその巨大な素足の指に駆け寄っていった。
足の指の直径は15m近くある。普通の家屋の屋根よりも高い。それが十本。特に親指は20mほどの高さがあった。
男達が巨大なつま先に群がっていた。
ある者はその巨大な足の指にへばりつき、ある者は指の間を通り、指の間で臭いを嗅いでいた。
指に上ろうとする者もいたが、丸みを帯びた指の肉は、なんの装備もない男達の登攀力では登る事が出来なかった。
指に登る事も出来ない。数百という男達は、ただただ女の子の足の指の周囲に群がっていた。

『ちょ、ちょっと! くすぐったいわよ!』

女の子の声と共に、その巨大な足の指が動き出した。
女の子がもぞもぞと動かした足の指はその狭い会場の中では暴れる怪獣の様なものだった。
巨大な足の指が一斉に動きだし、貪るように大地をゴリゴリと削る。地面がグラグラと揺れる。
足の指に群がっていた男達はそうやって暴れる指に巻き込まれていった。地面と指との間に挟まれ一瞬で見えなくなった。
女の子が指のもぞもぞを止めたときには男達の数は5分の1以下にまで減っていた。

俺は最後まで、会場の壁際であの巨大な指が暴れ終えるのを戦々恐々しながら待っていた。

『はい終了です。ただ今の記録は126人でしたー』

『うっそ!? そんだけなの!?』
「え!? そんだけなのか!?」

俺と巨大な女の子の声がハモった。
この会場にほぼ満員にいる審査員の男達。総勢数千人規模のはずなのに。

『はい。どうやら審査員の方々は臭いを嗅ぐ前に気絶されてしまったようですね。今 気絶されてる方のほとんどが単純な衝撃によるショックのようです』

巨大な女の子の足の指の周囲にはまさに数千人の男達が死屍累々と言った感じで倒れまくっている。
が、確かにそれはあの巨大な足の指が動いたときの衝撃で気絶した人々だった。
というかこの女の子の足が会場の3分の2を埋め尽くしている時点で、男達の3分の2は踏み潰され気絶していることになる。

『はぁ、時間を無駄にしたわね…』

女の子はため息をつき、会場から足を退けると置いておいた右足用の靴に右足を滑り込ませ、脱ぎ捨てたために2kmほど遠くに飛んで行ってしまった左足用のスニーカーの元へと歩いて行った。
スニーカーが落下した部分は住宅地だったが全長240mの足を入れるためのスニーカーが高速で落下してきたために隕石が落ちたかのように壊滅していた。
更にそのスニーカーのもとに女の子が歩いて行ったために、靴を履いた右足と素足の左足が途中の家々も踏み潰していたという。本当にいいのかこれ。

『では次の方、どうぞー』

そしてアナウンスは当たり前のように次の参加者を呼ぶ。
たった今まで気絶していた男達もすでに復活し臨戦態勢だ。すげぇなお前ら。
っていうかこんな事を春香がやるのかと思うとちょっと思うとちょっとどんよりする。
臭いの測定…。足の臭いを嗅ぐというのがすでにアレだが、春香の臭いを他の男達に嗅がれるのが嫌だった。
べ、別に俺たちは特別な関係だったりするわけではないが、それでもなんか気分のいいものではない。
でも…春香の匂いだったらちょっと嗅いでみたいかも…。

と、そんな事を考えていると…。

『はーい。いきまーす』

巨大な声が轟いた。春香の声だ。
とうとう春香の順番かと思い、俺は複雑な心境のまま顔を上げ参加者の入り口の方を見上げた。
が、何かがおかしい。
これまでの女の子と同じように春香も巨大化している。しているのだが…。


俺は入り口の方を見上げた視線を、そのまま更に上へ上へと向けて行った。
上へ上へ、上へ上へ…。気づけは顔は真上を向いていた。
見れば遥か遥か上空からこちらを見下ろす春香の笑顔が見えた。
やんわりと霞んでしまっている。

「…は?」

俺はもう一度視線を正面に向けた。
そこには確かに春香の足の履くブーツがある。
で、真上を向けば確かにそこに春香の顔がある。

もう一度視線を正面に戻す。
この会場のある町の向こうには低い山々があるのだが、春香の履くブーツはその山々の向こうに見える。
というより、その山々ですら、ブーツのつま先部分の高さにも満たない。
そしてブーツの足首ほどの高さまで来るころには、すでに雲が漂い始めている。
ブーツの足首部分ですでに雲の高さ。ではその先に延びる、黒いタイツに包まれたスラッとした脚から先は、いったいどれほどの高さがあるというのか。

「はぁぁぁぁああああああああああああああああ!?」

俺の絶叫は、太陽の様に輝く春香の笑顔のあるこの冬の寒空に吸い込まれていった。

『えへへ、ちょっと頑張って10万倍の大きさになってみました。それじゃあいきますね』

言うと春香は、エベレストよりも巨大なブーツからタイツに包まれた右足を抜いた。
全長24km幅9kmの足が、会場のある町の上空に翳される。
会場を含めた町の広範囲が、足の作り出す巨大な影に包まれ夜の様に暗くなった。
その巨大な足が、つま先部分を会場目掛けて下してくる。
会場はすでにそのつま先の目の前にあるような感覚に陥っていたが、それでもまだ足は遥か彼方にあった。
足が近づくにつれ、その足が更に巨大化してゆくような錯覚を感じていた。

超巨大な足が、途中にあった雲を蹴散らしてゆっくりと会場の上に下りてくる。
既に会場の上空は、その巨大なつま先の、ほんの一部によって埋め尽くされようとしていた。
足はまだ数千mも上空にあるが、すでに空はタイツによって黒く染まっていた。
春香はさっき10万倍と言った。
ということは春香から見ればこの200m四方の会場は2mm四方の大きさでしかないという事だ。
足の指の一本だけでも、この会場の十数倍の面積を覆う事が出来る。
すでに俺からは、春香が近づけてきたタイツに包まれたつま先の、その人差し指のほんの先端の部分しか見えなくなっていた。
巨大化したタイツの向こうに、その巨大な指がはっきりと見えた。
直径1500m近い足の指の先端だ。
春香はいったいどうするつもりなのか。まさかこのままつま先を会場に押し付けるつもりなのか。だとしたらこの数千人のいる会場だけではない、周囲の住宅地さえも、あの超巨大な指先で押し潰されてしまう。しかもその指は、他に4本もあるのだ。とてもじゃないが、この会場だけでどうにかなる問題ではない。

『どうですか、みなさん?』

すでに顔を見る事も出来ない春香の声が轟いた。
気付くと、この会場の中、男達がバタバタと倒れ始めていた。
指はまだ3000mほど上空にあるが、それでも、そのつま先から香る臭いはこの会場まで届いていた。
更につま先が降下してくる。すると倒れ行く男達の数が爆発的に増えて行った。
まるで連鎖反応でも起こしているように俺の視界内の男達が倒れてゆく。
やはりブーツは蒸れるのだろうか。足が近づいてくると、あの冬の寒さが消え、逆に人の体温ほどの温かい空気が押し寄せてきた。
きっと春香の足の体温によって暖められた空気だろう。あの足の周囲は春の様な暖かさだった。
上空を足指の一本のほんの一部分が埋め尽くしている。
周囲はやや蒸し暑いくらいの気温になったが、先ほどまでの冬の寒さがあると心地よくさえ思える。

男達はバタバタと倒れて行った。
あっという間に会場にいた男達は全滅した。
しかも会場内だけではなく、周囲の住宅地の人々も次々と倒れて行った。
更に、指先の高度が1000mを切ったくらいで、春香は、そのタイツの中で足の指をもじもじと動かしたのだ。
すると超巨大な足の指が動いたことで大気が轟々とかき混ぜられ、より濃密な足の臭いが突風と共に広範囲へと拡散した。
春香が足の指を動かした瞬間、街中の人間が気絶した。


他のすべての人間が気絶した中、俺は春香の足の臭いと体温を伴う突風が吹き荒れる会場の中、ひとり、上空を埋め尽くす巨大な足の指先を見上げていた。
この会場を、指先のほんの一部分で埋め尽くしてしまえる指。
春香の感覚にしたら1cmも無い至近距離、その至近距離に俺はいる。
春香の濃密な足の臭いを、直に嗅いでいる状態。だが、決して不快ではなかった。
甘酸っぱいような香り。それは、幼い頃か知っている春香の香りだった。
何も変わっていないわけではない。ただ、自分が知っている頃より大人っぽくなっていた気がした。


やがて上空を埋め尽くしていた超巨大なつま先が消え、再び空の彼方に春香の顔を見上げる事が出来るようになった。
足をブーツの中に戻したあと、春香がしゃがみこんできた。

『あ、まーくんは気絶しなかったんだ』

笑顔の春香。
タイツを穿いた脚が折りたたまれ、ほとんど真下から見上げるような俺にはスカートの内側がはっきりと見えてしまっていたが、春香はそれを気にしたようなそぶりは見せない。

『うーん、でもどのくらいの人を気絶させられたんだろ。入賞できるといいなー』

俺の頭上で、春香が周囲の町を見渡しながら呑気に言っている。
というかこれはもう企画がどうのと言うより災害レベルなのでは…。

『スタッフさん、どうですか?』
『そうですね、とりあえず10万人はオーバーしてると思いますよ』

あんた無事だったのか。
というか10万!? は!? 10万ッ!?
10万とかその辺の町の人口の倍以上の数だぞ!

『でも彼女さんの大きさを考えたら妥当な数かもしれませんよ。小さな町は彼女さんの片足分の面積もないので』

「…」

心読むなよ。
あんたいったいどこにいるんだ…。

『これで彼女さんの審査は終わりですね。では控室で待っててください』
『はーい』

スタッフと春香の呑気な声が俺以外意識のある者のいない街の上に轟いた。


  *


結局のところ、春香が優勝した。
以降の参加者も(春香の時に気絶した全男達は次の女の子の時には復活していた)奮闘するも、春香の桁違いの記録を抜くことは出来なかった。
会場を後にした俺たちは来た時と同じ川沿いの土手の上を歩いて帰路についていた。
俺の横を歩く春香は小さなクマのぬいぐるみを抱きしめご満悦と言った感じである。

「こ、これが大会の優勝賞品…」

俺は春香の腕と胸に抱きしめられるクマを見て顔が引きつった。
こんなもんの為に10万人もの町民が犠牲(?)になったのか…。

「かわいい~。あ、そうだ。この子の名前は『くまー君』にしよう。どうかな、まーくん?」

クマを見つめていた俺に春香が「えへへ~」と笑いながら言ってきた。
その笑顔を見てると、なんかもうどうでもよく思えてくる。

「でも、他の人は気絶しちゃったのにどうしてまーくんだけ気絶しなかったの?」
「うぇっ!? い、いやぁ、べ、別に嫌な臭いじゃなかったし…」
「そっか」

俺は慌てて視線を前に戻していた。

「でもよかった。ホントはまーくんまで気絶させちゃったらどうしようって思ってたんだ」

川沿いの土手の上、春香が言った。
冬の気の早い夕日が土手の上を赤く照らし俺たちの影をどこまでも伸ばす。
俺の赤く染まった頬も夕日の赤さの中に溶けていた。

「き、気絶なんかしないさ。お、お前の臭いは好きだから…」
「ふぇ?」

瞬間、俺は顔が燃え上がるように熱くなった。
頭、というか顔に血が大量に流れてくるような感覚。
顔がトマトみたいになっているのが容易に想像できた。
やばい破裂する! 爆発する!

「な、何言ってんだろな俺! わ、悪い! 変なこと言って…!」

俺が取り繕おうと慌てて春香を振り返ると、そこに立っていた春香はきょとんとしていた。
そして再び「えへへ~」と笑うと腕を俺の腕に絡めてきた。
腕にまるっこくてやわらかいものを押し付けられる。

「だからまーくん好きー」

右腕にクマを、左腕に俺の腕を絡める春香が笑いながら言う。
俺はと言えば今 先の自分の発言以上に顔を赤くし緊張していた。
夕闇に沈みつつある冬の冷たい風も、俺や、俺たちを冷ますことは出来なかった。
ただこの風のお蔭で、俺たちは自然とこうしていられる。
この冷たい風は、今まさにオーバーヒートしそうな俺にとって最高の清涼剤。これがなければ倒れてしまいそうだ。

「次の大会も頑張るからね」
「ま、また出るのか…」

笑顔で見上げてくる春香を俺は引きつった顔で見下ろした。
他の男に春香の匂いを嗅がれるのも嫌だが、そもそもあの大会の意味がわからん。なんでそんな前向きになれるのか。
俺は腕を絡めたまま歩く春香のその足に視線を落とした。
暖かそうなブーツ。その中には、先ほどこの街の上空を埋め尽くしたあのタイツに包まれた足が入っているのだろう。
この小さな足が街の空を占めていたかと思うととんでもない大きさだったことが今になってようやく理解できてくる。
あの時の春香から見れば、俺なんて足の指にくっつく砂粒以下の存在だったに違いない。
実際あの会場が春香にとって2mm四方の広さでしかなく、俺はその中にいる数千人の内の一人だったのだから。
もしもその足の指の上に乗せられてしまったら、俺はどうなってしまうのだろうか。
直径1500mの緩やかに湾曲した肌色の大地。それらすべてが春香の足の指のほんの一部で、それが全部で10本とあり、そしてそれすらも、春香全体のほんの一部でしかない。
春香の肌という地面と春香の香りしかしない空気の世界で生きていくことになるのか。
馬鹿げた妄想だが、決して不可能ではない。

頭を冷まそうと考えた雑念のあまりのバカらしさで俺は僅かに冷静になれた。
が、そうやって春香の足を見ていたことを春香に気付かれたようだ。

「どうしたのまーくん? 私の足に何か付いてる?」

首を傾げた春香は足を止め自分の足を見下ろした。

「あ。それとももしかしてまた臭いを嗅ぎたくなっちゃった?」

言うと春香は笑いながら右足をブーツから抜いた。
先ほど街の上空を埋め尽くした、黒タイツに包まれた足が再び現れた。

「ち、違う! 違うから!」
「あはは」

俺が顔を真っ赤にして否定すると春香は楽しそうに笑った。