「はぁ…はぁ…」

人々は疲弊していた。
そこにいるのは何十、何百の人々。
サラリーマンの男性。OLの女性。学生服を来た男子。ランドセルを背負った女子。麦藁帽を被ったおじいさん。三角巾をつけたおばあさん。黒いスーツにサングラスをかけた危なげな雰囲気を醸し出す男と制服ミニスカ姿の婦警さん。
老若男女まるで関係無く関連性も皆無。それこそ街中の人間をてきとーにチョイスしたかのような組み合わせ。

そんな人々は今、目の前に聳える絶壁を登ろうとしていた。
高さにして40m。とっかかりも無いつるりとした壁。
幾つかの場所には手がかりとなり壁の上へと通ずるところがあるが、それでも40mの垂直のクライミングであり当然命綱等のセーフティなど存在しない。
そしてこれに挑戦できるのも若い男性と女性のみ。老人と子どもは挑むこともできない。
更にその若い男女の、数十人だけがこの命懸けの崖のぼりに名乗り出ていた。
何故、こんな危険な行為に挑むのか。
それはこの危険な崖が、ここから脱出するための唯一の道だからである。
崖以外を見渡せばやはり全面壁。背後には暗黒の空洞がありその向こうは行き止まりである。
唯一空の見える天井の穴へ通ずるこの崖こそが、最も危険で唯一つの出口なのである。

始まり突然だった。
彼らのほとんどが街を歩いていて一人の女の子に声をかけられた経緯を持っていた。
どこかの学校の制服を着た、おそらく女子高生の女の子だった。
話の内容は無いに等しい。声をかけられ、そして女子高生は自分の身体を値踏みするように見回して一人得心していた。
そしてその女子高生がうんと頷いたかと思うと声をかけられた人は意識を失い、気付けばこんなところにいたのだという。
数百人の人々がざわめく閉鎖された空間。
突然の理解を超えた現象を前に人々はただただ混乱し戸惑うばかり。
広大な空間に散って出口を探そうとする人々の中で、何人かは自分達がどこにいるのかを閃いた。

ここは、巨大な靴の中であると。

あまりにも馬鹿らしい発想。
他の人々は彼等は突然理解を超えた事件に巻き込まれて狂ったのではないかとさえ思った。
だがその数人は次々と明確な事実を言い当ててゆく。そして極めつけは、その内の一人である女子高生が自分の履いていたローファーを脱いで、その形が自分達を取り囲んでいるこの空間と酷似しているのを告げたことである。
その女子高生が手に持っている靴の内部と、周囲の風景はあまりにも似すぎていた。
もう一つ、理解できたことがある。
その大きさである。
かたや、女子高生が手に持っている大きさ。かたや、自分達を内包してありあまる大きさ。
見比べ、目測して、この巨大なローファーはおよそ1000倍。
自分達は、1000倍の女子高生の履いていたローファーの中にいるのである。
気付けばどこか汗のすっぱい臭いも感じられる。

現実を前にして人々のとった行動は考えることではなくここから脱出すること。
どう見てもどう転んでもこれが友好的な現象であるはずが無い。
この頑丈な靴に穴を開けることは不可能。そして彼等が通れる程度の穴さえない。
ならば脱出はあの天井の穴から抜けるほかにない。
一部の勇敢な若者達が次々と、ローファーの縫い目部分を伝ってその絶壁に挑んでいった。
すでに数人が失敗し転落。骨を折るなどの重体であった。酷いものは首の骨を折り命を落とした。
人々が目を背ける。子どもや老人は泣き崩れた。
女子高生の履いていたローファーの淵にも届かない高さから落ちて命を失う。これほど、惨めな死に方を誰が想像しただろうか。
見守ることしか出来ない力の弱い者は、ただ勇敢な若者達に祈りを捧げていた。

時が流れた。
更に十数人の犠牲者を出しながら、ついに一人の男性が壁を登りきることに成功した。
40m超の高所。落ちれば原型無く潰れてしまうかもしれない。
それほどの高所に、彼は遂に登り切った。
あとはここから脱出し、ロープなどを探してきて残された人々の救助を…。

と、思って周囲を見回した彼の動きが止まった。
見回した光景に見覚えがある。
全面を高い壁に囲まれ空洞の先は行き止まりで暗くなっている。
つるりとした壁面の一部には生地の縫い目となる部分。
見覚えがある。無いはずがない。
あの縫い目は、たった今、命からがら登って来たこの巨大なローファーと同じなのだ。
それが、また目の前に存在するのだ。
だが今回は、この超巨大ローファーのかかと部分の淵の上、靴底を合わせて高さ50mのところにいるというのに、目の前の光景は、この靴の底から靴の中を見渡したときと同じだった。
見下ろせば確かにそこは目も眩むビルよりも高い場所。
しかし目の前は靴の底辺と同じ光景。
若者は唖然としてしまった。
1000倍の超巨大なローファーから何十人もの犠牲者を出しながらようやく脱出に成功して外に出てみれば、そこは更に1000倍の大きさのローファーの中だったのだ。

その超々巨大なローファーの空にも匹敵する入口の向こうに、あの女子高生が現れた。
これだけの大きさがありながら霞みもしない超々巨大女子高生は腰に手を当てて笑いながら自分を見下ろした。

「出てこれたみたいね。どう? 私の右足のローファーの中の1000分の1の大きさに縮めた左足のローファーの中に更に1000分の1に縮められて入れられてた気分は?」

若者にはもう言葉を理解することができなかった。
絶望し、その小さな超巨大ローファーの外へと身を投げ出していた。
超々巨大なローファーに目に見えないほど小さな赤いシミとなった。

「あらあら、そんなことしなくてもいいのに。でも、自分が100万分の1しかない細菌みたいな大きさだと思うと死にたくもなる? くす、そこまで小さくないか」

超々巨大女子高生の笑い声がローファーの中に木霊するが、内部の誰一人その笑い声を聞くことはできなかった。
息絶えてしまったわけではない。
常識を突破した大きさの違いに音が聞き取れなかった。
ローファーから脱出できたあの若者以外は、まだ外で何が起きているのか分からなかった。

「じゃあもういいわね。もう十分絶望したでしょ?」

巨大女子高生の右足がローファーの中に入れられる。
100万倍の、長さ240㎞幅80㎞の靴下を履いた超々巨大な足が、女子高生から見ればわずか0.24㎜の左足のローファーの入った
右足のローファーの中にである。
その0.24㎜のローファーの中の0.002㎜以下の人々は突然薄暗くなった空を仰いだ。
それが女子高生の足であるなどと気付けるはずもない。

「ばいばい、本当にちっぽけな小人さんたち」

ストン。
足はローファーにぴったりとおさまった。
そしてつま先をトントンと軽く慣らした。
それだけで、このローファーの中にいた人々の運命は決定された。

実際には、左足のローファーは潰れてはいなかった。
たかが0.24㎜など靴下の繊維を通過してしまうからだ。
ローファーは靴下の繊維に挟まり、しっかりと原型を保っていた。
だが、内部の人々は別である。
100万倍の足が突っ込まれ、それが秒速数百㎞で動けば、弱い人々などあっという間に弾け飛んでしまう。
その小さな巨大ローファーの中の壁面に叩きつけられ一人の生きて帰ることは無かった。



女子高生はローファーを脱ぐとそれを1000分の1に縮めた。
もうほとんど目に見えない大きさ。
ふぅっと息を吹きつけてやった。
点の様な大きさだったローファーはあっという間に消えてしまった。
もう二度と見つかることはないだろう。それでいい。もう用は無い。

「くすくす、きっと悔しかったでしょうね。次は街ごと小さくして入れちゃおうかな。その時は靴下も脱いで…ふふ、楽しみ」