※【ぼ…】


   『 10倍妹 ペディキュア 』



ソファに腰掛け雑誌を読む妹は、視線は雑誌に向けたままそこにいるであろう兄に声を掛ける。

「ねー、まだ終わらないわけ?」
「も、もうちょっと!」

すぐに兄の慌てた声が返ってくる。
だが部屋の中に兄の姿は無い。
当然である。兄は妹の10分の1の大きさしかないのだから。

兄は今、ソファに座る妹が床に下ろしている足の前でせっせと働いている。
仕事といっても、やっているのは妹の足の爪にペディキュアを塗っているだけだが。

兄の前には妹の素足が揃えて置かれている。
全長2m40cm幅90cmの足だ。
その全長は、兄が横に寝転んでかかとの位置を揃えても妹の足の指の位置にも届かない。
足を乗せられてしまえば、兄のすべてはその下にすっぽりと収まって外からは見えなくなってしまうのだ。

兄は、そんな大きな足の前に跪いてその爪にペディキュアを塗っていた。
10倍。ペディキュアを塗る。
これが、口にする以上に辛い。

妹が普通の大きさの女性なら何のことは無い。
この作業も数分、あるいは十数分で一通り終わり、あとは乾燥を待つだけだろう。

しかし妹は常人の10倍の大きさを持つ巨人だ。
当然、足の爪も10倍の巨人のそれになる。

兄は妹のつま先の前に跪いて足の指の爪にペディキュアを塗っていた。
しかしただの爪も、10倍の妹のそれは面積で言えば100倍の大きさになる。
10倍×10倍で100倍だ。つまり妹は爪一枚で常人の爪100枚分の広さがあるのだ。
そこには兄の掌ほどの大きさの爪がある。
そんな爪に、兄は常人用のペディキュアとブラシを使用して液を塗っている。
この広大な爪を、この小さなブラシで塗っていくのは正に苦行だった。
通常の爪の広さを長さ幅共に1cmと仮定した場合、妹の爪の広さは10cm×10cmとなる。
これに、幅せいぜい数mmのブラシで液を塗っていくのはキツイ。
広大な爪に、赤い筋が一本残る。その一筋の、なんと儚いことか。
これをこの爪一枚全部に、しかもそれを10本の足の指すべてに。
こんなの、ただの拷問でしかない。

妹はペディキュアのムラを嫌った。
ならもっと大きなブラシを使えとも思うがそれも嫌った。
だから兄は、瓶付属の小さな小さなブラシを使うしかなかった。
巨大な爪を前には、なんとも心許ない武器だ。
このか細いブラシで、ムラが出ないよう慎重に丁寧に、それでいて急かされないよう迅速に塗っていかなければならない。

更に、兄にとって苦痛なのはこれだけではない。
妹の爪を塗るのに使用されているペディキュアはすべて兄の金で購入されている。
妹は常人100人分の広さの爪を持っている。
たった一回の塗りでも使用される量は凄まじく、兄の横にはすでに空になった瓶が2つほど転がっていた。

そして更にもう一つ、兄にとってキツイのが、その臭いだ。
シンナー特有とも言えるあの臭いが、周囲にはムアッと立ち込めていた。
広大な爪に塗った大量のペディキュアから湧き上がっているのだ。
これが兄に、健康を害する恐れのあるレベルで襲い掛かる。
ペディキュアを塗った妹の爪は凶器なのだ。横に置いた扇風機の力だけでは到底吹き飛ばし切れない凄まじい臭いだ。

それから暫くしてようやくすべての爪を塗り終わる。
横には空になった瓶が4つと使いかけの瓶がひとつ。
兄の目の前にある10枚の巨大な爪はすべて赤く染まっていた。

しかしまだ兄の仕事は終わらない。
これからこれらのペディキュアを乾燥させなければならなかった。
そんなものは時間を待てばいいのだろうが、妹はそれも嫌った。

兄は扇風機を爪へと向け、同時に自身の顔も爪に寄せ、そして「ふー」と息を吹きつける。
すべての爪に。それらが乾くまで何度も。
ふー! ふー!
兄は頬が痛くなり酸欠になる寸前まで息を吹きつけ続けた。


  *


ようやくすべての工程が終わった。
兄が汗水垂らして塗った爪は光沢を放つほど見事に塗られている。
これが妹の求める及第点である。これ以下の塗り方をすれば即座にやり直しだ。手間と時間と金だけが余計に掛かる。

妹の爪を塗り終わった兄は床の上に大の字に転がり、乱れた息を整えていた。

「ん? おわったの?」
「お、おわったよ……」

ハァハァと息を乱れさせながら兄はなんとか答えた。

「そ。ありがと」

妹は雑誌を閉じてテーブルの上に放り出すとソファから立ち上がって部屋を出て行った。
妹の大きな足がフローリングの床をドシンドシンと大きく揺らすのを全身で感じる兄。空の香水ビン達が床を跳ね回ってカラカラと音を立てる。
やがてその振動も小さくなってゆき、最後には静かになった部屋に兄だけが残された。
妹の足が引き起こした地震で倒れた扇風機だけがガリガリと音を立てていた。


  *


暑さとシンナーの臭い、そして一点への集中による疲労から、兄は暫く床の上に転がったままだった。床の冷たさが心地良い。

なんとか息を整えた兄が床に寝転がったまま見る世界は、とてもとても巨大だった。
遥か遠くにある天井。巨大なテーブルの脚と巨大なソファを見上げられた。広大な床の上に、家ほどの大きさの家具がゴロゴロしている。
10倍の妹に合わせて作らせた家。中のものはすべて10倍サイズで作られている。
この家の中にいると、常人サイズである自分こそが縮んだのではないかと錯覚する毎日を送ることになる。
すべてが自分よりも大きな世界。
少なくとも、今この部屋の中で自分のサイズに合うものは床に散らばった空瓶たちと扇風機だけである。
彼らだけが、自分こそが普通サイズであると認識させてくれた。


  *


ふと、そんな彼らが再びカタカタと揺れ始めた。
自分でも、再び床がグラグラと揺れ始めたのを感じていた。
理由は簡単。妹が戻ってきたのである。
床に寝転んだままの兄が首だけ動かして足音のする方を見ると、広大な床の地平の向こうから巨大な妹が床をズシンズシンと踏みしめながら歩いてくるのが見えた。
そのつま先の爪は、真っ赤に彩られていた。

「あれ? まだいたの?」

手に何かしらの容器を持った妹は、さして驚いた風も無く言った。
そのまま止まることなく歩いてきた妹は大の字になる兄の横に足を踏み下ろした。
足が床に落下した瞬間、兄は自分の体が少し浮いたような気がした。扇風機や空瓶が音を立てている。
そんな扇風機たちは妹の大きな足で横に蹴飛ばされ、ソファの下の空間に消えていった。

妹が上半身を倒し手を伸ばしてきた。
床に横たわる兄の体は妹の手によってあっさりと宙に持ち去られる。
あっという間に10m超の高さにまで連れ去られた兄。目もくらむような高さだ。

「まーいいや。一緒にアイス食べよ」

兄を持ったままソファにドフッと腰掛ける妹。
兄からすれば、車くらいならぺしゃんこにできる妹の尻が遠慮なく落下した衝撃に激しく揺さぶられるばかりだ。
ソファに座った妹は兄をデニムのショートパンツを穿いた自分の股間の上に下ろした。
妹の股間の上に腰を下ろして足を前に投げ出し背後にある妹の腹を背もたれに妹の上に座る兄。
そこからだと、上を見上げても大きく盛り上がったタンクトップの小山に邪魔されて妹の顔は見えない。
妹が兄を覗き込む格好になって、初めてその小山の向こうに妹の顔が現れる。

ソファに腰掛ける妹の腹に腰掛ける兄。
そんな兄の前に、巨大な容器が現れる。アイスの入ったカップだ。
巨大なカップに巨大なスプーンが突き刺さり、アイスを乗せると兄の顔の前に移動してきた。

顔の前に寄せられる巨大なスプーンと巨大アイス。
兄はそんなアイスに恐る恐る顔を近づけると一口(頬張り)だけ口に含んだ。それでも、スプーンの上に乗っているアイスの全体からすればほんのちょびっとである。

兄がアイスを口にしたのを見て妹はスプーンを自分の口に運んだ。
パクッ。兄の一口では100分の1も頬張れなかったような量が一瞬で口の中に消えた。

「んー冷たい」

言うと妹は再びカップにスプーンを運び、アイスを乗せて兄の前に運んだ。
兄はと言えばまだ口の中にアイスが残っていたが、それを無理やり呑み込んでまたスプーンの上のアイスにかじりついた。
そしてまた再びアイスは妹の口に運ばれる。
それが繰り返された。
兄からすれば食べても食べてもアイスがやってくるというお腹にキツイ状況である。

しかし、妹のズボンの上に座る兄は知らない。
兄がアイスにパクつく度に、床に下ろされた、爪を赤く彩られた足の指たちが嬉しそうにキュッと握られるのを。