ジャンルはミステリー×ファンタジーです。
 えっちぃのは、たぶん出てきません。


 宜しくお願いします 

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 魔法使いの掟はただ一つ。秘密を暴かれないこと。つまりは、バレなければ何をしたってかまわない。




 カモメの鳴き声が消えたかと思うと、すぐに雨が降ってきた。
 町の上空を汚していた工場の黒い煙は雨粒に溶け、今度は町全体を舐めるように汚していった。
 私は傘を持っていなかった。だから私もこの町と同様に、黒ずんだ雨でまんべんなく汚されていった。

「世界は、どうしてこうも汚れているのだろうねぇ」

 鼠のマリー・クリケットは、私の手の平の上で海を眺めながら、呟くように言った。
 彼女は傘を持っていた。真っ赤な傘だった。しかしその傘は小さくて、とてもじゃないが人間である私が一緒に入れる大きさではなかった。
 羨ましげな視線を送っていると、それに気が付いた彼女に冷笑を向けられた。

「人間はどうしてもこうも欲深いのだろうねぇ」

 鼠のマリー・クリケットは、今度は私の顔を眺めながら嗜めるように言った。

「アリス。君はこの非力で矮小な鼠の傘を奪い取るつもりかね?」
「何故そのようなことを仰るのですか、マリー・クリケット。滅相も無い。そんな恐れ多いこと……出来るはずが無いでしょう」 
「出来るさ。君は鼠の私なんかよりもずっと強くて大きいのだからね」

 優雅な動作でマリー・クリケットは傘を畳み、それを私に向けて差し出した。
 雨が彼女の身体を叩いていった。濡らしていった。
 特別にあつらえた彼女用の真紅のスーツも、ズボンも、麗しい黒髪も、しなやかな肢体も、切れ長な瞳も、長い尻尾も、大きな耳も、全てを汚していった。

「しかし、私は君に幻滅したくない。君のことをずっと信頼していたい。だから、君に奪い取られる前にこの傘を君にあげよう。使いたまえ、アリス」

 差し出された傘を、しかし、私はつまみあげることが出来なかった。

「ごめんなさい。お許しください、マリー・クリケット。どうか、私をいじめないでください。ああ、お体が濡れてしまいます。どうか傘をお差しください。どうか、どうか……」

 私は泣いた。マリー・クリケットは、私の両目から溢れる大粒の涙を満足げに見取ってから、再び海に目を向けた。傘は閉じられたままだった。
 遠くで汽笛の音がした。
 魔法使い達を乗せた客船が、ゆっくりとした速度でこの港に近づいていた。


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「私は、この瞬間だけは、自分が鼠であることに感謝するのだ」

 自分と同じくらいの大きさのパンを抱きしめながら、マリー・クリケットは甘えるような声を上げた。
 そこはかとない嫉妬心を、私は、美しいマリー・クリケットに抱擁されるパンに対して、抱かずにいられなかった。 
 マリー・クリケットは鼠である。しかし純粋な鼠ではなく、人間の形をした鼠である。
 体長はちょうど私の手の平と同じくらいで、鼠の尻尾と耳を持っている以外は、殆ど人と変わらない外見をしていた。
 私たちは客船に乗っている。とはいっても、この場所は客室ではなく貨物室である。
 パンに抱きついたまま、マリー・クリケットはちらりと私のほうを見た。私は深く頭を下げる。

「申し訳ありません、マリー・クリケット」
「何故謝るのかね、アリス」

 アリスとは私の名前である。姓は無い。

「私に力が無いばかりに、貴女をこのような、粗末な場所に……」
「ふふん、まったくだ」

 マリー・クリケットは悪戯っぽく笑った。
 そして、ひょいっとパンの上に跳び乗って、まるで木に登って町を見下ろす子供のような仕草で周囲を見渡した。

「かび臭い事この上ない。それに湿っぽい。きっと……ふふふ、きっと鼠がいるぞ。ほおら、あの木箱の影からこちらを見ている。このか弱きマリー・クリケットをさらってしまおうと、卑しい鼠がこちらを覗き見ているぞ」

 私は手元にある蝋燭を掲げて、部屋の隅に積み上げてある木箱を照らした。
 すると、小さく黒い塊が光の届かない部分に、ちょろちょろと逃げていくのが見えた。
 マリー・クリケットは、弾ける様な音を鳴らして傘を広げた。そして、その上にポタリと雫が落ちて初めて、私は自分が涙を流している事に気がついた。
 自分の知らぬ間に涙を流してしまうのは、私の悪いくせである。

「申し訳ありません……マリー・クリケット」

 私の声は涙声だった。あまりに情けなくて、私の瞳は更に涙を溢れさせていく。
 しかし、マリー・クリケットが鼠にさらわれて私の前からいなくなってしまう事を考えると、悲しくて悲しくて、涙を流さずにはいられなかった。
 マリー・クリケットは傘の下で声を抑えて笑っている。小さな肩が、とても意地悪そうに揺れていた。
 暫く時間が過ぎた。
 海は穏やかなのだろう。船に乗れば必ずといっていいほど船酔いに襲われていた私だったが、今回ばかりは、船に乗っているということを忘れてしまいそうなほど緩やかな航海だった。
 マリー・クリケットは、パンの上に腰をかけている。
 私の涙の雨は既に止んでいるというのに、赤い傘は差されたままだった。私は、傘の下にある彼女の表情を覗き見たい衝動に駆られた。
 それがどんなに無礼な事であるかは心得ているつもりだ、が、しかし私は欲深い人間なのである。
 そっと、彼女に気付かれないように腰を曲げようとした、その時。

「何か聞こえるね」

 マリー・クリケットの呟きと共に、傘がパチンッと閉じられた。

「どうしたのかね、アリス」

 慌てて姿勢を正した私に怪訝な視線を向けるマリー・クリケット。
「ふむっ」と小さく声を漏らして、彼女は視線を左にずらした。そして、すぐに得心のいったような表情を浮かべて、言った。

「ははぁ。パンが欲しいのだね?」

 見当違いの答えだった。しかし、私にとっては幸いな事で、この答えに便乗する事にした。

「はい。先ほどからは腹の虫が騒いでおりまして……一口、よろしいですか?」
「いいよ。一口と言わずに全部、今すぐ、残さず食べたまえ」

 言いながら、マリー・クリケットは左手を私に差し出した。私も、右手を彼女に向かって差し出す。
 私の人差し指を強くつかんで、彼女は私の右手に飛び乗り、そしてそのまま腕を上って私の内ポケットの中にすいっと入り込んだ。
 それを見届けてから、私はマリー・クリケットが腰をかけていたパンを手に取る。
 あまりお腹は減っていなかったが「腹の虫が云々」と嘘を吐いたからには、それを真実にすべく、大口でパンに齧り付く。
 三口で全てを口内に収めると、内ポケットからくつくつと密かな笑い声が聞こえてきた。

「よほどお腹が空いていたと見える。悪かったね。気が付いてあげられなくて」
「んぐ。ひへ……いえ、滅相も、ない」

 口内の殆どを占領したパンに邪魔されながら、私は必死に言葉を紡いだ。
 マリー・クリケットは何かを言おうと顔を覗かせたが、しかしすぐに引っ込んで、私の胸を三回叩いた。
 私は、右腕の袖裏に忍ばせてあるナイフを手のひらに落とし、ゆっくりと立ち上がった。
 がたんっ、と大きな音が突然響いた。客室へと上る階段からである。
 そして、その音は途切れることなく、ずどん、ずどん、とけたたましくとどろき渡り、最後に、特に大きな音を立てて、止んだ。

「階段から何かが転げ落ちたようだね」

 マリー・クリケットが言った。ほんの五秒間の静寂の後「人、ですかね?」と私が問うと「人だろうね」とマリー・クリケットは、即座に答えた。

 一粒の汗が私の頬を伝う。
 正直に言おう。こうなることを、私は分かっていた。マリー・クリケットが船に乗ったのだ。
 誰も逃げることの出来ない海上の密室の中に、マリー・クリケットが存在しているのだ。
 何かが起こらない、分けがない。
 重たい罪悪感が私の心の中に姿を現し、そして圧しかかってきた。数秒前までは、まるで煙のように希薄だった罪悪感である。
 こうなることを予測できた私は、当然、こうなることを回避させることも出来た。しかし、マリー・クリケットはそれを望まないだろう。
 ならば、私に選択の余地はない。
 マリー・クリケットの望みが私の望み。マリー・クリケットの喜びが私の喜び。マリー・クリケットこそが、私の全てなのだ。
 ずるり。
 ずるり。
 貨物室の暗闇の中に、水分を含んだ何かがはいずる音が溶け込んできた。

「照らしたまえ」

 マリー・クリケットが言った。私は足元にあった蝋燭を拾い上げて、床をはいずる「何か」に向けた。
 それは人だった。さらに言えば、それは死体だった。何故死体だと断言できるかのかと言えば、その死体には首が無いのである。
 首無し死体が床をはいずっているのだった。
 私は怖気立ち、息を呑んだ。

「魔法だね。それも相当に性質の悪そうな魔法だね」

 マリー・クリケットが言った。悲しそうな声だった。



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「ちょっと、困りますよ。客室には上がらないって約束でしょう。魔法使いでない方は、本来なら、この船に乗せるわけにはいかないんですからね」
「すみません。でも緊急事態なんです。貨物室で人が殺されたんです」
「人が殺された?」
 
 首無し死体は、あれからすぐに動きを止めて、本来あるべき姿に戻った。マリー・クリケットの許可を取り、私は船の乗務員に事態を伝えるべく客室に上ったのである。
 船の乗務員は、私の言葉を聞いて怪訝な表情を浮かべた。

「とにかく、来てください」

 半ば強引に私は乗務員を貨物室に連れて行った。貨物室に入った乗務員は、首無し死体を前にして「ひっ……」と小さな悲鳴を漏らした。

「せ、責任者を呼んできます」

 そう言って、乗務員は逃げるように走り去ってしまった。

「アリス、君の言葉は一つ訂正しなければならないね」

 マリー・クリケットが言った。 

「君は貨物室で人が殺された、と言ったが、貨物室で殺されたわけではないよ。別の場所で殺された死体がここまではいずってきたんだ」

 私の胸ポケットから顔を出して、マリークリケットは死体を覗き込む。

「彼らが戻ってくる前に少しだけ調べておこうか。降ろしたまえ、アリス」

 私が左ポケットに手を添えると、マリー・クリケットは身軽な様子で私の右手に飛び乗った。私は、マリー・クリケットを死体のそばに降ろした。

「男のようだね。なかなか上等な服を着ているじゃないか」

 マリー・クリケットはゆっくりと歩きながら死体を見て回る。

「酷く濡れているね」

 マリー・クリケットは死体の服にしみこんだ水を指に付けて、ぺろりと舐めた。

「ふむ、どうやら真水のようだ。しょっぱくない。となると、雨が振っている場所で殺されたのか、あるいは……おや、これは」

 そう言って、マリー・クリケットは唾液を自分の手の平に吐き出した。

「すす、だね。口の中がじゃりじゃりするよ」

 と、その時、マリー・クリケットの大きな耳がピクリと動いた。
 マリー・クリケットは私に向かって左手を伸ばした。私もすぐさま、マリー・クリケットに向かって右手を差し出す。

「やれやれ、随分と早いじゃないか」

 言いながら、マリー・クリケットは私の人差し指をつかみ、腕を駆け上がり、内ポケットの中に入り込んだ。
 足音が三人分聞こえた。
 下りてきたのは三人の男だった。
 悪い予感がした。階段を降りてきた男の中の一人が、赤い背表紙の分厚い本を手に持っていたのである。
 三人の男のうち、一人は先ほどの乗務員だった。もう一人の中年の男は、この船の責任者なのだろうか。乗務員と同じ服装をしていた。
 問題はもう一人の男である。身なりの良いこの若い紳士は、手に持っている赤い拍子の本をぱらぱらとめくり、そして私の顔をじろりと睨んだ。

「お前の名前を聞かせてもらおうか」

 男が言った。どうやら、悪い予感は的中したようである。あの赤い背表紙の本の中には、きっと私の名前が書いてあるのだろう。
 そして、私の名前よりもずっと大きな文字で、マリー・クリケットの名前が書いてあるに違いない。

「どうした。答えられないのか?」

 押し黙っている私に向かって、男が言う。
 マリー・クリケットが内ポケットの中で私の胸を二回叩いた。どうやらいたしかたないようである。私は観念して、

「アリスです」

 と答えた。

「やはりな。人喰いアリス。人間を喰らうおぞましい化け物め」

 男は、私を睨みつけながら言った。

「お前がここにいるとなると、お前の飼い主である、あの汚らわしい魔女も近くに潜んでいるんだな」

 汚らわしいというのは、マリー・クリケットの事なのだろうか。だとすれば、なんという侮辱だ。
 私は怒りをもって男の顔を睨み返した。すると、男はさも可笑しそうに微笑を浮かべた。

「ああ、そうか。悪かった、言い直そう。お前のご主人様は、醜くおろかなドブネズミだよ」

 私は、右袖に潜ませてあるナイフを静かに手の平に落とす。殺してやろうと本気で考えた。
 それとほとんど同時に、マリー・クリケットが内ポケットの中からひょいと顔を出した。

「おぞましいとか醜いとか、随分と失礼な物言いじゃないかね。紳士ならば、我々のようなレディに対しては、もう少し気を使ってくれたまえよ」
「くだらん。何故、人喰いの化け物と魔女なんぞに気を使わねばならんのだ」

 男は本に視線を移した。そして、いかにも不遜な口調で言った。

「災厄のマリーだな」
「いかにも。マリー・クリケットとは私のことだよ」

 男は本を閉じると、今度は足元に転がる首無し死体に目を向けた。

「ペットのしつけがなってないな、災厄のマリー」
「待ちたまえよ」

 マリー・クリケットが身を乗り出す。私はあわてて、左手をマリー・クリケットの前に差し出した。 

「まさか君は、アリスがこの男を殺したとでも言うのかね」
「違うとでも?」

 マリー・クリケットは私の左手に飛び乗って、やや大げさに両手を広げた。

「馬鹿馬鹿しい。私のアリスが、どうして無闇に人を殺すというのかね」
「人喰いアリス」

 男は再度、本に視線を移し、ゆっくりとした口調で言った。 

「災厄のマリーの使い魔で、人を喰らう怪物。しかし、見た目は人間と大差なく、肉眼での判別は難しい。しかし、性格は凶暴で食欲は非常に旺盛」
「マリー・クリケット仕込みのマナー作法は完璧、と付け加えておいてくれたまえ」

 マリー・クリケットは、少しおどけた様子で言った。しかし男は、まったく気に留める様子もなく、今度は私に視線を向けた。

「おい、化け物。こいつの首は、お前が齧ったんじゃないのか?」

 あざけるような口調だった。マリー・クリケットへの暴言もあり、私はこの男に腹を立てていた。
「違います」と、普段よりもずっと強い口調で返したのは、そのせいである。

「私なら、一口で丸呑みにします。食べ残すことはありません」
「丸呑み?」

 男は、首無し死体に目をやり、すぐにこちらを向きなおした。私がわざとらしく舌なめずりをすると、男はほんの少しだけ、たじろいだ。

「どうやって?」

 男が言った。私は一歩、足を進めた。

「教えてあげましょうか? あなたの体を使って」

「止めなさい」と、マリー・クリケットが言った。

「無闇に人を脅かすものではないよ。それに、この人間を喰い殺したら犯罪になる。それとも、この船ごと丸呑みにするつもりかね? もしそんな事をすれば、私は君を嫌いになるぞ」

 優しく諭すような口調だった。私の怒りは急速に収まり、代わりに後悔の念が頭を支配した。

「申し訳ございません、マリー・クリケット」

 私が言うと、マリー・クリケットは小さく首を振った。そして、

「私が犯人を捕まえよう」

 と、張りのある声で言って、男を指差した。

「この災厄のマリーが、君の前に犯人を突き出して、みごとアリスの無実を証明して見せようじゃないか」

 マリー・クリケットの言葉を聴いて、私の目から涙がこぼれた。しかし、左手にはマリー・クリケットが乗っていて、右手にはナイフを隠し持っている。
 涙は床にぽたりと落ちて、床に小さなしみを作った。