私の涙が作る湯面の波紋を、マリー・クリケットは、しばらくの間眺めていた。
そして不意に私の顔を見上げたかと思うと、表情を変えないまま、そっと左手を伸ばした。
鋭い目は更に鋭利さを増し、きゅっとつぐんだ唇は静かに、しかし雄弁に、マリー・クリケットの怒りのさまを物語っていた。
私はあわてて右手を差し出した。
マリー・クリケットは、やはり表情を変えないまま私の人差し指をつかみ、やや勢いよく、コップから出た。
私はズボンのポケットからハンカチを取り出し、マリー・クリケットに手渡した。
抱きかかえるようにハンカチを受け取り、それを体に巻きつけた後、マリー・クリケットは私に背を向けた。
細く長い尻尾の先端が天井を指して、ゆらゆらとゆれている。それが何を意味しているのか分からなかったけれど、私には、マリークリケットの怒りを表しているのだと思えた。
「アリス」
マリー・クリケットが私を呼んだ。静かで重たい声だった。私は返事をすることができなかった。返事をした後に返ってくるマリー・クリケットの言葉を恐れたのだ。
「アリス」
マリー・クリケットの声が少し強くなった。しかしそれでも、私は応えることが出来なかった。
とにかく、許してもらいたい。
どうやったら、許してもらえるのだろう。
マリー・クリケットの大好きな角砂糖がキッチンにあったから、それを持って来るべきだろうか。チーズの欠片を持っているから、それを差し上げるべきだろうか。それとも、このまま泣き崩れてしまおうか。子供のように泣きじゃくれば、マリー・クリケットは、私を慰めてくれるのではないだろうか。
そこまで考えて、私は気づいた。
私は全く反省をしていないではないか。このままでは本当に、いつか私の卑しさに愛想を尽かし、マリー・クリケットがいなくなってしまうかもしれない。
涙は、もう止まらない。私は袖口で涙をこすり拭きながら、とにかくもう一度謝らなければと思った。ひざまずき、心の底から謝るのだ。
そう思い、私が膝を折ろうとした、そのときである。
マリー・クリケットがくるりと振り返った。
「アーリスっ」
まるで子供が友達に声を掛けるかのように、弾んだ声だった。切れ長の目をパッチリと開き、上目遣いで私の顔を覗き込むように見ている。
私は固まった。マリー・クリケットは、しばらくその可愛らしい瞳で私を仰ぎ見て、不意に声を出して笑った。
「君の困った顔を見ることが私の活力の源だと認めざるをえないな」
まるで悪戯を成就した子供のような、無邪気な顔だった。
マリー・クリケットは、体に巻いていたハンカチを取り払った。
私はあわてて、ズボンのポケットから小さな布袋を取り出した。中には、マリー・クリケットの変えの服が入っている。
失礼でないように細心の注意を払いながら、袋をマリー・クリケットの前に置いた。
ダーク・グレーのスーツである。
真紅のスーツを好んで着るマリー・クリケットだが、正直に言って私は、ダーク・グレーのスーツが一番似合うと思っている。
「アリス」と、服を着終えたマリー・クリケットは言った。
ごく自然に「はい」と私は返事をした。
マリー・クリケットは、薄っすら目を細めて、顔を少しうつむけた。
「よろしい。それでは、魔女狩りに興じよう」
「はい。宜しくお願い致します、マリー・クリケット」
私は、俄然いきり立った。
「犯人を見つけるのですね。どうしましょう。船の乗客の聞き込みから始めましょうか? それとも、現場の再調査を致しましょうか?」
私が言うと、何故だろう、マリー・クリケットは怪訝な表情を浮かべた。そして、私の顔を上目遣いで、しかし、先ほどのように甘えた表情は浮かべずに、何か珍しいものを見るかのような表情で見た。
「もしかして、アリス。君は何も気がついていないのかね?」
「気づく? 何にですか?」
マリー・クリケットと私は、数秒間見つめあった。
その間に、マリー・クリケットの顔は呆れたような表情に変わり、その意味を把握できない自分は、ますますとぼけた顔を浮かべた。
沈黙を破ったのはマリー・クリケットだった。
「いくつかヒントがあっただろう。そして、そのヒントをつなぎ合わせれば、自ずと答えは浮かんでくるのだ。いいかね、アリス。我々が次にすべきことは既に決まっているのだよ」
「既に決まっている?」
私はますます混乱した。
「申し訳ございません。私には、マリー・クリケットが何を仰りたいのか……」
「分からないかね?」
「はい。全然」
「君は少し洞察力が足りないね。もう少し野菜を食べなさい」
野菜と洞察力の関連性は良く分からないが、私に洞察力が足りないのは確かである。
自覚している。
しかし、あの貨物室での出来事に、矛盾などあっただろうか?
私は、一つずつ思い返してみる。
船に乗り、貨物室に通され、死体を発見し、貨物室での悶着。しかし私は、やはり矛盾など感じなかった。
「あの男は何者かね?」
突然、マリー・クリケットが声をあげた。
あの男とは、きっとあの、無礼な男のことだろう。
あの男は、その言動から察するに、おそらく警察組織の人間なのだろう。あの男が持っていた本は、危険な魔法使いを記した文書に違いなかった。
あの男が魔法使いか否かはわからない。しかしあの男が、警察組織の人間としてこの船に乗っていることは、その言動から明らかだった。
「警察組織の人間、ですね」
私が言うと、マリー・クリケットは嬉しそうにうなずいた。
「よろしい。では次だ」
そこで言葉を切って、マリー・クリケットは人差し指を立てた。
「彼は偶然乗り合わせていたのか否か? 偶然でないのなら、何故あの男は船に乗っているのか? さあ、思考したまえ」
言われた通り、私は考える。
あの男がこの船に偶然乗り合わせていたのかどうか、判断する材料はないだろうか?
この船は魔法使いを乗せる船である。とすれば、あの男が魔法使いでないのならば、何か特別な事情があってこの船に乗っていたと言えるのではないか。
いや、そうとも言い切れない。
現に私達は、普通の人間としてこの船に乗った。この船は魔法使いを乗せる船だが、魔法使いしか乗せないわけではないのだ。
「大切なのは洞察力だよ、アリス」
マリー・クリケットが言った。
どうやら、私は試されているらしい。
期待にこたえるべく、私は更に頭を捻る。
貨物室での出来事を思い出してみよう。
例の首無し死体は、突然貨物室に現れた。
私はマリー・クリケットの許可を得て、客室に人を呼びに行き、その人間を連れて貨物室に戻った。
その人間は、責任者を呼ぶと言って貨物室を出て行った。マリー・クリケットが死体を調べようとした矢先、ほとんど間を置かずに、先ほどの乗務員と共に、あの男が降りてきた。
「あっ」と、私は声をあげた。
ほとんど間を置かずに、とはどういうことだ。
もしあの男が偶然この船に乗り合わせていたのならば、現場に呼ばれることはないはずである。
仮にあの男が、自分を警察組織の人間だと乗務員に伝えていたとしても、全く無関係の人間であるのならば、貨物室での出来事があの男に伝わるまでにある程度時間を要するはずだ。
それなのに、ほとんど間を置かずに、あの男は現れた。
まるで、最初から打ち合わせをしていたように。
何かが起こるということを、最初から知っていたかのように。
それはつまり。
「この船の中で事件が起ころうとしている。あの男は、それに対処するため、この船に乗っていた」
「ふむ、悪くない」
マリー・クリケットは腕を組み、にやりと笑った。
「そこで新たに疑問が生まれる。何故我々は、この船に乗ることが出来たのか、という疑問がね」
そしてまた、マリー・クリケットは人差し指を立てた。
「この船は魔法使い専用の船だ。普通の人間を乗船拒否することは、なんら不自然ではない。この船で事件が起ころうとしているのならば、なおさら、得体の知れない人間を乗せることはしないはずだ。それなのに、我々はこの船に乗ることが出来た。はて、どうしてだろう? 思考したまえ」
私は考える。
我々が船に乗りたいと乗務員に伝えたことは、おそらく、あの男の耳にも届いたはずだ。
だとすれば、許可を出したのはあの男。事件に関わりないと判断したのだろうか?
しかし、そうだとしても、船には乗せないはずである。マリー・クリケットの言う通り、この船は魔法使い専門の船なのだ。乗船拒否することのほうが、自然である。
「ヒントをあげよう」
マリー・クリケットが言った。
「あの男が貨物室に降りてきて最初に何をした? 君のポケットの中から覗き見ていた私でさえ、覚えているのだ。じかに見ていた君が、覚えていないわけはないだろう?」
貨物室に降りてきたあの男が、最初に行ったこと。
私は必死で思い出す。
あの時、あの男は本を持って降りてきた。そして、パラパラと本をめくり、すぐに私を睨みつけて、名前を問うた。マリー・クリケットの許しが出たので、私は名乗った。
降りてきて、最初に行ったこと。
それは、本をめくったこと。
「あれ?」と、私は思う。
降りてきてすぐに、本をめくった?
あの本の中には、私のことが書かれてる。きっとあの男は、私のことが記載されているページを開いたのだろう。
何故、そんなことが出来る。
私が名乗った後ならばともかく、私が名乗る前に、何故ページを探り当てられる?
答えは一つ。
あの男は、私のことを知っていたのだ。
少なくとも、私の顔を見て名前が分かる程度には。
警察組織の人間ならばありえることである。そして私を知っているのならば、当然、マリー・クリケットのことも知っていたのだろう。
マリー・クリケットは災厄の魔女。不幸を呼び寄せる存在。男は、それを承知の上で、私を、そして、マリー・クリケットを船に乗せたのだろうか。
何故?
私は自問し、出した答えを口にする。
「事件が起こって欲しかったから」
マリー・クリケットは、満足そうに笑みを浮かべた。
「よろしい。そして思惑通り、事件は起こった、と言うことさ。では、何故そんなことしたのか、本人に直接聞きに行こうじゃないか。犯人に関する情報も聞きだせるだろうよ。それに、我々をだしに使ったのならば、少しお仕置きをしてやらねばね」
言い終わると、マリー・クリケットは私に向かって右手を伸ばした。
私は、左手をマリー・クリケットに差し出す。マリー・クリケットは私の人差し指をつかみ、腕に上った。そしてそのままゆっくりと歩き、私の胸ポケットに納まった。
お仕置きをしてやらねば、とマリー・クリケットは言った。実行するのは私の役目だろう。果たして、どんなお仕置きをしてやるのが良いか。考えるとたまらなくなって、私は思わず身震いをした。
そして私は、部屋を出るためにドアを開けた。そのときである。
不意に右足に、何かがぶつかった。見れば、それは幼い少女だった。
「あ……」
小さく声を漏らし少女は私を見上げた。
透き通るような白い肌に金髪の髪。目の色は青く、着ているのは純白のワンピース。
年の頃は七、八歳と言ったところである。天使のような、という言葉がしっくりと来る、美しい少女だった。
「大丈夫?」
私が声を掛けると、少女は小さく頷いた。なんとなく、おびえている様な表情に見えた。
そこで私は気がついた。
この少女、靴をはいていない。
不審に思いつつ、私は少女の顔を見た。少女は目を背け、そして、私の足をすり抜けるようにして走り去ってしまった。
マリー・クリケットが、私のポケットからひょいと顔を出す。そして、少女の後ろ姿をじっと眺めて、
「嫌な予感がするね」
呟くように言った。
私はどきりとした。マリー・クリケットの勘は鋭い。彼女の嫌な予感の的中率を、私は知っていた。
私は急いで、男の部屋に向かった。ドアに手をかけると、鍵はかかっていなかった。
ああ、と思う。
これもまた、災厄。
ドアを開ける。
「魔法という言葉は便利だな」
部屋を見たマリー・クリケットが言った。
「悪魔的な所業がなされたときに、その一言で片がつく。まったく、わけが分からんよ」
しかし、私はその言葉が耳に入っていなかった。あまりの凄惨な様子に、一瞬、気が遠くなりかけたのである。
男は死んでいた。
ぺちゃんこになって死んでいた。
まるで車に引かれた虫のように。あるいは、巨人に踏み潰された人間のように。
ぐちゃりと潰されて、死んでいた。