「我々は,この地上にネコという悪魔が存在していることによって,多大なる被害と犠牲とを宿命付けられている.
だが,それももはや過去の歴史となる.
我々が,今この手でその宿命に終止符を打つのだ」
 一同の前で高らかに声を張り上げるネズミ族の男性は,そこで力強く拳を握った.
周囲の何十と言う同胞からは,興奮の乗った歓声と拍手が沸き起こっている.
その勢いに押されるように,薄暗い会場を照らすロウソクの明かりが揺れ,男性の影が大きく揺らめいていた.
「じゃが——」
 暫くして会場の興奮が落ち着くと,一人の老鼠の囁きにも似た小さな声が会場内に伝わった.
「あのネコ族の娘に鈴をプレゼントしてやるというのが,お主の意見のようじゃが…….
それはこの中の誰が引き受けてくれるのかね?」
 老鼠の萎むような声が,そのまま会場全体の空気に伝播する.
先程の興奮から一転,多くの者が当然の問題に口をつぐんでしまった.
誰もが一瞬にして夢から覚めたような,落胆の色に沈んでいる.
 その時,一人の若者が一堂の中央に歩み出てきた.
「それなら,俺が引き受けよう」
 皆の視線が,磁石のようにその若者に注がれる.
「それはありがたいことじゃ.しかし,いいのかね? あの娘は満腹というものを知らん.もし失敗すれば,お主も地獄の釜行きじゃぞ」
「やって見せるさ.俺は一度だって,連中に物音を聞かせたことはないんだからな.今ならあの悪魔も深い夢の中のはずだし,そこから俺の音を捕まえることはまず出来ないだろう」
 老人は少し唸っただけで,返事は返さなかった.
若者は満足したように,男性の方へ向き直って武器となる鈴を受け取った.
それに呼応するように,会場内が再び歓声で包まれていた.

 若者は言葉の通り,物音一つ立てずにネコ族の少女のベッド脇にまで来ていた.
後は垂れ下がったシーツを登り,背中に背負ってきた鈴を首に巻きつけるだけである.
ベッド下からでも少女の寝息が聞こえるあたり,少女は熟睡している様子だった.
 若者は器用にシーツを掴んでは離し,瞬く間にベッドの上にまで登った.
そこはもう視界を覆わんばかりの少女の寝顔のすぐ傍だった.
少女の体温と若干の湿り気を感じさせる寝息が若者に当たってくる.
うつ伏せになっている少女の口は少し開かれていて,その中に何人の同胞が消えていったかを想像すると,勇敢な若者の中にも恐怖する心が頭をもたげてくるようだ.
 若者は息を一つ吐き,自分の使命を頭の中で繰り返した.
そして,背負っていた鈴をゆっくり,静かにその場に降ろした.

 悪夢は,その時目覚めた.

 若者が視界の隅で動く影に気付いた時,その小さな身体は高々と吊り上げられ,真下には意地悪く笑みを浮かべる少女の顔があった.
「いらっしゃーい……」
 僅かな夜行を照らす少女の目が,地獄への門に掲げられる灯火のように輝いている.
若者は慌てて身体を揺さぶっていた.
しかし,少女の指に摘み上げられた身体は揺れはしても,そこから逃れることは出来なかった.
「なぜ気付いた……!? 物音は一つもさせてなかったはずなのに!」
 若者が叫ぶ.
少女は,ゆっくりと自分の腹の辺りをさすりながら答えた.
「あたしね,鈴のたかぁ〜い音が,耳障りなの……」
 そう言うと,少女は口を大きく広げながら若者を摘んだ手を降ろし始めた.
徐々に若者の前には,少女の白く,鋭く,整った,健康的な歯と,肉厚な赤い舌が迫ってくる.
「チクショウーー」
 若者は最後の叫びを残すと,少女の口内へと姿を消した.
後には,少女の満足そうな表情と一つの鈴だけが残っていた.

 * * *

「……という話もありますから,あなた,気をつけて行ってきてくださいよ」
「分かっているさ.
何も布団の上にまで失礼するわけじゃないんだから.
今日も上手くやってくるさ」
「お願いしますね」
 ラットンは妻のコリーに見送られ,広大な四畳半の板張りの床の上に出てきた.
この散らかり放題の部屋から,持てるだけの食料を拝借するのがラットンの仕事だった.
普段から暗がりに住んでいるラットンの目は夜に適応するのが早く,部屋の主であるネコ族の娘・マオの寝姿もはっきりと見えていた.
 さっきコリーからされた話は,ネズミ族の間では有名な寓話である.
要点を掻い摘めば,何が自分自身に不幸を呼ぶのか分からないので,常に油断する勿れ……ということだ.
特にネズミ族の天敵であるネコ族が相手となれば,捕まることは即ち死を意味している.
つまり,油断は直接死に繋がっているのだ.
 だが,ラットン夫妻が密かに居を借りているアパートには,食料を調達できそうな相手はこの娘一人だけだった.
あとは部屋の整理整頓もされていれば,食べ残しを放置することもないのだ.
もっと穏やかな種族を相手に出来ればいいのだが……と思ったのは何度目か知れない.
 ラットンはいつものように恐々としつつも,いつものように素早く移動して手前にある小さなテーブルによじ登った.
登りはテーブルの四つ足を使うので骨が折れるが,降りは座布団が置いてあるので,そこに飛び降りればいいため楽だった.
 テーブルの上には,これもいつものように開いたままのスナック菓子の袋に食べ残しがあった.
他にあるものは,即席麺の空の器であったり,アルコールの匂いだけを残す空き缶であったり,半ページ分がテーブルから垂れ下がっている雑誌であったりした.
いつもながら,これが女子大生の生活なのかと,マオの生活については一言言ってやりたい気分だった.
ただ,そのお陰で食べ物にありつけるのも事実で,言わないほうが身のためになることもある.
ラットンは度々この自問自答を繰り返していた.
 ラットンがスナック菓子の袋の様子を見ていたとき,不意に暗がりの中で物の擦れる音が聞こえた.
それと同時に,マオのうめくような声がラットンの耳に入る.
ラットンは咄嗟に,スナック菓子の袋へと身を隠した.
「ふにゅ〜……」
 パチッという音と共に,部屋が急に明るくなる.
ラットンの心臓が強く鼓動を打ち始める.
ラットンは寓話を思い出していた.
気付かない間になにか音を出していたのではないかという不安.
或いは,この鼓動の音で気付かれるのではないかという焦り.
ラットンはただ,脂ぎったスナック菓子の袋の中で息を殺していた.
 マオは何事か寝言のようなものを言いながら,別の所へ歩いていった.
暫くしてそれがトイレだと分かると,水の流れる音と共にマオが再び部屋に戻ってきた.
どうやらトイレで目を覚ましたらしい.
そう思ったラットンは一時は安心したが,次の瞬間には袋ごと宙に飛び上がり,夢中でバランスを取ろうとしてガサゴソと音を立ててしまっていた.
しかし,寝ぼけ眼でスナック菓子の袋を手にしたマオは気付かず,そのまま袋のふちを口へと持っていった.
 その大きな口へ最初に入ったのはラットンだった.
「んぐ?」
 予想外に大きな異物が入ってきたため,マオは思わずラットンを吐き捨てていた.
幸運にもラットンは座布団の上に落ち,怪我一つ無く無事であった.
ただ,マオに見つかったという点では,無事では済まなかった.
「な,なに,アンタ? いつの間にこんな所に……!」
「わ,わ,わしは……」
 ラットンは弁解しながら,本能的に逃げようとした.
展望台のような高みから見下ろしてくるマオに圧倒され,酷く慌てていた.
そのせいか,柔らかい座布団の上で足を踏み外し,そのまま床に転げ落ちた拍子に足を挫いてしまった.
ラットンは,突然襲ってきた痛みに足を取られ,そこから動けなくなったのだ.
 一時はその様子に呆気に取られていたマオだったが,暫くして落ち着くとその場にしゃがみこんで,更にラットンの様子を伺っていた.
長袖シャツにズボンという姿だったので,スカートの中を覗かれるという心配はない.
そして,ラットンが足を痛めて逃げづらそうにしていると分かったので,マオはラットンを摘み上げてそのままテーブルの上へと運んだ.
「アンタだったのね.最近,残しておいたお菓子とかが頻繁に無くなってた原因は」
 マオがラットンに迫りながら,そう問い詰めてきた.
ラットンはただ黙っていた.
正直に答えれば,盗られた分を返してもらうとばかりに自分自身が食べられてしまうかもしれない.
嘘をついて誤魔化しても,信用されずに報復として食べられてしまうだろう.
どちらを選んでも食べられてしまう.
ならば,どっちつかずの"答えない"という選択肢を取るしかなかったのだ.
無論,これとて相手が焦れてしまえばそれでお終いだった.
 ところが,マオは少し時間を置いた後に前屈みになっていた身体を引いてしまった.
顔には不満げなものを浮かべていたが,一旦欠伸をすると,明かりを消してそのまま布団へと引き返していったのだ.
ラットンは虚を突かれた様に,突然の暗闇の中でその様を見ていた.
「お前さん……わしになんもせんのかね?」
 既にマオの胃袋の中で溶かされる様を想像していただけに,ラットンには今の状況がまるで飲み込めていなかったのだ.
マオは,顔だけをラットンに振り返らせると,半開きの目のまま答えた.
「ネズミの肉……好きじゃないの」
「……はぁ」
 その答えに呆然としていたラットン.
暫くしてマオから静かな寝息が規則正しく聞こえるようになると,ようやく兎に角も助かったということが分かってきた.
単に目の前の娘が好き嫌いをしたに過ぎない事だが,それでもラットンはマオの喉を通ることは無かったのだ.
 ラットンは,もはや気力がなくなっていた.
しかし空腹が場をわきまえずにやってきたため,やはり食べ残しのスナック菓子は貰っていく事にした.

 * * *

 翌日は,昼頃に帰って来たマオが珍しく部屋掃除をしていたこともあり,夕方頃まで騒がしさが続いていた.
尤も,夕方頃には来客が来ていたため,それはそれで話し声の耐えない騒々しさはあった.
その間,ラットン夫妻は昨夜の貰い物だけが唯一の食事だったため,常に空腹と共に過ごしていた.
 それでも,少しばかりの希望がラットンにはあった.
来客はどうやらマオの友人らしく,何かを食べながら談笑しているらしいことが分かっていたのだ.
マオのこれまでを考えれば,来客が今日のうちに帰ってくれるならば,昨夜よりもいい食べ残しがあるかもしれない.
それを期待していると空腹が更に増してくるが,全く期待が無いよりは少しはマシというものだった.
 そうしてただ待っている時,突然キィンッという音と共に大きな輪っかが二人の許に転がってきた.
床下の暗がりの中では色までは分からないが,大きさはラットンの胴回りと同じぐらいのものだった.
硬い金属質のものらしい.
 すると,俄かにマオの部屋の辺りから慌てたような雰囲気が流れ込んできた.
来客の落ち着いていた声が少しばかり困惑したものになっている.
話し声の内容から察するに何かを落としたらしいことが分かり,ふと,この輪っかがそうではないかとラットンは気付いた.
 念のためにマオの部屋に続く穴の付近に行こうとすると,コリーがラットンの袖を掴んで引き止めてきた.
「およしなさいな.あなた,足を悪くしてるでしょ?」
「いや,このぐらいはなんとも無いよ.それより,上の様子が」
「良いじゃないですか.わざわざ食べられに行くようなものでしょう.折角,昨日は逃げおおせたって言うのに……」
 コリーは酷く心配しているようだった.
それは仕方の無いことで,コリーは自らマオの部屋で食べ残しを漁ることが出来ないからだ.
それは単に勇気の問題ではなく,もしも勇気の問題であれば,空腹に耐えかねたコリーは颯爽とマオの部屋のテーブルの上に登るだろう.
コリーは意気地が無いのではなく,プライドが高かったのだ.
そのプライドのため,マオのような粗野な巨猫に生きたまま呑み込まれるのが,想像するのでも耐えられなかった.
丸呑みにされ,ぬめった食道を降り立ち,強烈な酸に肌も骨も焼かれ溶かされるのは死ぬよりも辛い.
或いは,腕を噛み潰され,足を噛み切られ,ベトベトの舌の上で転がされ,血と唾液とにまみれて死んでいくのは,屈辱的な拷問だ.
そのため,それをも覚悟しているラットンを失うことは,コリーにとってあってはならないことだった.
 しかし,ラットンは出て行かざるを得ないことを感じていた.
「もしかしたら,この穴の中に落ちたのかも……」
 マオの来客が,ラットンの使っているマオの部屋への出入り口に気付いたからだ.
ここで何もしなければ,少なくとも自分達にとって良い状況にはならないと予想されたのである.
第一に,よほど大事なものであれば,日を改めてでも床下を確かめに来るだろう.
それがいついつになると分からない限り,落ち着いてこの場所に居座ることは出来ない.
第二に,さほど大事なものでなければ,来客は落し物を諦めて帰るだろう.
その後は,マオがネズミの出入りを防ぐために穴を塞ぐかもしれない.
勿論そうなれば,以後はマオの部屋に食べ物を拝借しにいけなくなるのだ.
すると,どこから食べ物を貰ってくればいいというのか.
 ラットンは,コリーの細腕を強く握り締め,諭すように言った.
「大丈夫だ.あの娘は,わしらを食べはせん.あんな酷い生活のものが,好き好んで嫌いなものを口にしたりはしないさ」
「それなら,もう一人の方はどうなんです? もしかしたら,あたし達が大好物なのかもしれないじゃない」
「礼儀次第,だな.もしもこの輪っかを探しとるんだったら,それを届けたわしをその場で食べはせんだろう」
「でもですよ……」
 コリーは言いかけたが,ラットンの説得に渋々従うことにした.
ラットンは,妻を一度自分の胸元に抱き寄せると,輪っかを転がしながら穴へと向かった.

 穴から顔を出すと,二つの巨大な身体があった.
一つはマオで,女っ気の無いジーンズ姿だった.
もう一つは逆に,穏やかなワンピースに身を包んだ女性の身体だった.
ただ,その女性はマオよりも遥かに身体が大きかったため,ラットンはその差に驚かされていた.
「あれ,この穴って,もしかしてネズミさん達のお家なのかしら?」
 大きな方の女性が言った.
大きいと言っても,スタイルという点で言えばマオと変わらないものだった.
ボリュームのある髪などから,ライオン族なのかと予想された.
「あぁ,そうみたいね.あたしも,昨日初めて見かけたから知らなかったけど,押入れの下に巣を作ってたなんてね…….あたしは嫌いだから,テリシャ,良かったら食べる?」
「え?」
 テリシャと呼ばれた女性は戸惑っていた.
同じように,ラットンも焦った.
有無も言わさず食べられてしまってはどうしようもないからだ.
ラットンは急いで,足元の輪っかを持ち上げて二人に見えるように掲げた.
「あ!」
 テリシャが叫んだ.
その声を聞いたと思った時には,ラットンは輪っかごとテリシャに持ち上げられていた.
気がつけば足のつく床ははるか下に広がっていき,ラットンは急激に浮上する視界に惑わされそうになった.
と思うと,突然の急停止によって輪っかを掴んでいた手が離れ,そのまま空中に投げ出されていた.
 ラットンの背中に衝撃が伝わったのは,その直後だった.
衝撃というには柔らかかったが,それはテリシャの掌の上だったからだ.
テリシャの掌は,マオにとっての四畳半ぐらいの広さに思われた.
ただ,その位置は床からは遥かな空中にあり,ラットンはその場から逃げられなくなっていた.
「あぁ,これです.この指輪です!」
 上からテリシャの声が響く.
ラットンが見上げると,月のように大きな両の目が濡れており,一点にラットンに視線が注がれていた.
その次の瞬間,ラットンを乗せていた掌が急浮上し,ワンピースの壁が目の前に迫ったかと思うと掌とに挟まれ,ラットンは身動きが取れなくなっていた.
「ありがとうございます.一時はどうしようかと……」
 テリシャが感激するように声を漏らしていた.
ラットンはその声を聞きながら,テリシャの巨大な手と胸とに挟まれ,もがくことも出来ずに窒息していた.

 * * *

 次に目を覚ました時には部屋にはマオだけがいて,テリシャは帰宅した様子だった.
テーブルの上には缶ビールと摘みとなる煮干しだけがあったが,その他の食べ物類は全く見当たらない.
もしかしたら,テリシャが帰る際に綺麗に片付けてしまったのかもしれない.
 ラットンが起き上がると,下には白いハンカチが敷かれていることに気づいた.
さらに,今いる場所が小さな本棚の上で,自力で降りられる場所ではないことにも気付いた.
「あのー……」
 ラットンは,控えめにマオに声をかけた.
マオは一人で缶ビールを口にしている所だった.
「あ,起きたんだ.身体とか大丈夫なの?」
 マオは顔だけを向けながらそう言い,持っていた缶ビールをテーブルに置いた.
テリシャがいなくなったからか,それとも遅い時間になっているのか,マオは眠そうに欠伸を繰り返している.
「降ろして,もらえませんか?」
 ラットンは,恐々とマオにそう頼んだ.
「良いよ」
 マオは意外にあっさりと承諾していた.
マオの手はテリシャと比べると小さかった.
それでも本棚からテーブルに運ぶ時には,落ちないようにという心遣いなのか,両手を使ってくれたので落ちる心配はなかった.
 しかし,テーブルの上にいるのでは床下に戻れない.
テーブルに降りたラットンはすぐに床との距離を見たが,怪我無く降りるのは無理そうであった.
昨日はあった座布団も,今日はキチンと隅に片付けられているのだ.
「おじさんは,お酒飲むの?」
「え?」
 マオの急な質問に,ラットンはキョトンとした様子で振り返った.
マオは空いた缶を床に置き,テーブルの上に空きスペースを作っているようだった.
「もし飲むんだったら,あたしの飲みさしで悪いんだけど,あげるよ.あ,あと煮干しも」
「はぁ……」
「それとも,あたしの酒は飲めない?」
 マオが,煮干しを口にしながらラットンに問いかける.
煮干しはマオの口の中でパリパリと音を立てながら,口の中へと消えていった.
「あ,い……いただきます」
「ん.じゃ,コップはこれ使ってくれるかな」
 そう言って,マオはペットボトルのキャップをラットンの前に差し出した.
そして,どこからか取り出したストローを使い,缶ビールの残りをキャップの中へと移していた.
ペットボトルのキャップとはいえ,ラットンにはタライのようなものだった.
なみなみと注がれた残り物のビールは,到底ラットンが一人で飲み干せるものではなかった.
 ラットンが難儀しているのを見ながら,マオは一人酒を進めていた.
そのマオが,不意に言葉を口にした.
「結婚って,良いわね」
 黄昏るようなその響きに,ラットンは思わずマオを見上げた.
マオはいつの間にか,窓の外を眺めていた.
窓からは,淡い月が見えていた.
「指輪見つけたアンタなら気付いてるかもしれないけど,あの娘,婚約したのよ.相手は同じライオン族らしいけど」
「はぁ」
「昔は結構怖かったのよー.
テリシャってば力が強いからさ,一度怒らせると何が飛んでくるやら.
普段は優しいし面倒見もいいから,あたしもアルバイト先でお世話になってたんだけどね,
根が几帳面だからかしょっちゅう言い争いなんかしててさぁ」
「へぇ……」
「それが,良い人が見つかった途端にあんな感じ.
今じゃすっかりあたし達みたいにネコ被っちゃって,可愛らしくなっちゃって……」
「ほぉ……」
 ラットンはとりあえず返事をしていたが,内心ではどう聞いていればいいのかが分からなかった.
マオの言わんとすることが見つけられず,かといって聞かないでいると後が怖そうだった.
今のところ,マオが一人でしゃべっているので問題は無いが,そろそろ問題が起きそうな気配があった.
「あたしもさ,良い人がいれば変われるかな」
 マオが遠くに目を映しながら,尋ねてきた.
返答方法が分からないラットンには,とりあえず黙っているしか出来なかった.
すると,マオがラットンのほうに向き直り,身を寄せるようにして再度尋ねてきた.
「ねぇ? アンタ,どう思う?」
 真っ直ぐラットンを見下ろしてくるマオの瞳.
そこには冗談でも言っているかのような無邪気な輝きがあったが,ラットンには冗談を言っているという感覚は無かった.
 ラットンは少し考えた後,マオを見上げ直した.
「あんたが,その気になれば変われるだろうな」
「その気って?」
「その気は,変わる気だよ.
その人のために変わろうっていう気持ち.
その人に出会えるために,変わろうっていう気持ち.
形は,いくらもあるだろうな」
「ふーん.
そんなものかなぁ」
 マオは煮干しを三尾手に取り,口に運んだ.
ポリッというキレのいい音がマオの口から聞こえてくる.
「あんたは,どう変わりたいんだね?」
 ラットンも煮干しの尾ひれをねじ切り,一口試してみた.
やや苦味が強く,それほど好きになれる味ではなかった.
「あたしはねぇ,……んー,どうなんだろ」
「ん,まだ,よく分かっとらんのかね?」
「漠然と,今のままじゃダメだなーって思ってるんだけど,具体的にどうなりたいかっていうのは……」
「まぁ,まだ焦る時期でもないんじゃないかとは,思うね.ただ……」
「ただ?」
「今の生活は,間違いなく改善すべきだろうな.あんた,ものは良いんだから,このままだと腐らせてしまうだろうよ」
「やっぱそうかぁ.……ん? でも,あたしが生活改善したら,アンタのほうが困るんじゃないの?」
「まぁ,困らんとは言えんが.しかし,あんたもいつまでもコレを続けてるわけにもいかんだろう?」
「そだねぇ.じゃ,手始めに押入れの穴塞ぎからやろうかな.なんかみっともないし」
 マオがテーブルに肘をかけてきたので,テーブルが僅かに傾いた.
「それで提案なんだけどさ」
「うん?」
 頬杖のまま,マオがラットンを見下ろす.
瞳にはさっきの無邪気さが浮かび上がっていた.
「アンタの方が良ければ,ここに住んでてもいいよ.
あたしに踏み潰されないように気をつけてくれればね」
「……どういうことだね?」
「あたし,根が怠け者だから誰かに見られてないと続かないと思うの.
強制はしないけど,監督してくれると助かるなーってね」
「わしのようなもんが意見して,あんたは素直に従うだろうかね?」
「さぁ」
「さぁ,では困るな.わしらにも命がある.しかも一つだけのな」
「うん.だからおじさんの方でよければ,ね.ただ,何となくおじさん,いい感じがするからそう思ったの」
「いい感じかい」
「そ」
 言って,マオは思いついたように立ち上がった.
それまでそこにあったマオの顔が,急に天上にでも飛び上がったかと思うほど遠くなっていた.
すぐ傍で見上げているからか,マオの足は長く,モデルのようだとさえ思えた.
 マオは空いた缶をまとめ,それを両手に持って玄関の方へ歩き出していた.
その途上,マオは半身を振り返らせて言った.
「だから考えてみてよ.穴塞ぎはそれからにするから」
「一つ良いかね?」
 ラットンは,急に閃いたように尋ねた.
マオがキョトンとして立っていた.
「あんた,酒の勢いでそう言ってるんじゃなかろうね?」
「お酒? 全然! あたし,酔ったことないもん.っていうか,割と真剣なんだから冗談で返事とかしてきたら,おじさんもおつまみにしちゃうからね」
「……分かった,分かった.よく考えてみるよ」
 そして,マオは少女っぽい笑顔を見せると,玄関の方へ姿を消した.
ラットンは,少し息をついて思った.
「こりゃ,旦那になる人は大変そうだな……」


おしまい









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【あとがきらしきもの】
ふと思いついたネタで短編パート (・ω・)o <ツー
今回のモチーフは,イソップ童話の「猫に鈴」「ライオンとネズミ」の二つです.
「猫に鈴」は,猫に鈴をつければ危険が回避出来るじゃん!っていう提案はいいが,誰が鈴をつけるの?っていうお話.
「ライオンとネズミ」は,最初ライオンに捕まったネズミが命乞いの末に助けられた後,猟師に捕まったライオンを,縄を噛み切ることで助けたっていうお話.

最初に思いついたのが「猫に鈴」だったので,人物もそのようになってます.
マオは猫の中国読みだし,ラットンは"ラット"から来てます.
まんまですね(´∀`)
冒頭の作中の寓話のように,もとはマオに鈴をつけようかと思ったのですが,割と中身を持たせた会話をする(=知能がある)という状況では,鈴つけてどうするのかって所で詰まりまして,今のような依存関係?になりました.
作中の寓話は,それでも鈴入れたいなーって事で,なかば無理やりに挿入したものです.
かなり童話そのままの展開なので,単なる擬人化な気もしますが,皆さんの印象はどんなだったでしょうね(^ω^)

書いてる途中で思ったのは,また借り暮らし屋?っていうものでした.
少なくとも,ラットンとコリーのセリフは影響受けまくりな気がします.
ポッドとホミリーですな(´∀`)
(つか,コリーの出番少ないw)

なお,マオは今のようなぐうたら娘にするか,令嬢みたいな清楚なお嬢にするか,ちょっと迷いました.
ただ,食べ残しがあるって時点で,もうぐうたらのイメージが脳の底にこびりついてたので今のようにしました.
ぐうたらで酒好きでちょっと可愛げのあるお姉さんキャラ,好きです(・ω・)
マオはそういう嗜好もあって姿を成したんでしょう.