浅い微睡み.
室内にこだまするバタバタとした足音.
幾度かの若い女性の声.
扉の閉まる,金属同士がぶつかる響き.

 ラットンが目を覚ましたとき,四畳半の広い部屋には誰もいなかった.
マオに見つかってから数日が経つが,まだ七時前という早朝からマオがいなくなっているのは初めてのことだ.
いつもならラットン夫妻の方が少し早く起き,布団にくるまっているマオに声をかけて起こしているはずである.
夜更かしをした次の日には,昼時まで寝ていることもあった.
いずれにせよ,今朝の四畳半にはすらりとした塔の如き娘の姿はなく,だだっ広いただの四角い空間があるだけだった.
 マオに見つかってから,ラットン夫妻は結局この家に居候することにしたのである.
それは,押入れ内の穴を塞がれると食べ物を拝借する相手がいなくなるという問題への対処だった.
また,冬が近づいている今,暖かい居住空間を確保するのは死活問題でもあり,これも理由の一つとなった.
居候についてはマオから提案されたことでもあり,ラットンはこれを越冬のための好機と考え,受け入れることにしたのである.
そのために最も苦労したのは,コリーを説得することだった.
コリーはネコ族に恐怖していたため,いつかは食べられてしまうと思い込んでいたからだ.
それはラットンも懸念していたことだが,マオと直接会話を交わしたラットンには,マオに対してはその心配は無いと感じていた.
事実,マオは他のネコ族のようなネズミ好きではないと言っていたし,真っ当に会話も出来る.
勿論,コリーはそのことを聞いた上でもネコの好き嫌いなどいつ変わってもおかしくないといい,中々曲がらない.
しかし,最後にはラットンの辛抱が勝利をおさめることになったのだ.
そして今は,南に面した窓の下に置かれた,二段の本棚の一段目に場所を貰っていた.
 少し後にコリーも目を覚ました.
コリーは,空のティッシュ箱にハンカチを詰めたベッドから身体を起こすと,ラットンに話しかけた.
「おはようございます,あなた.もう,マオは起きたんですか?」
「おはよう,コリー.どうやらそうらしい.布団が乱暴に畳まれているからな」
 コリーはベッドから本棚の一段目の床に降りると,畳の上に出ていたラットンの傍に歩み寄ってきた.
少し寒さが残っていたため,コリーはハンカチの布団を一枚,肩にかけたままだった.
そこに来て,コリーは部屋の中が薄明るい沈黙の中にあること気付いた.
「あら,あの子はもうどこかへ出かけたんですか?」
「うん.わしもついさっき起きたんだが,どうもマオが玄関を閉めた時と同じタイミングだったようだ」
「まぁ大変」
 コリーが驚いたように返事を返した.
細く痩せた手を口に当て,そして頭を振って続ける.
「いえ,あの子がいないのは結構なんですけどね.わたしはまだ,あの子の音に慣れてないものですから.ただ,わたしたちが今日食べるものが,見たところ無いみたいで……」
 コリーが不安気に,虚ろな四角い空間に目を走らせた.
ラットンも同様に見渡したが,最初に見た印象と同じように,そこは何も無い四畳半であった.
正しく三つ折りになっていないために斜めにだらけている布団.
底に僅かなお茶が残ったペットボトルの乗ったテーブル.
押入れの襖は重厚に閉ざされており,ずっと向こうにあるコンロ台の下には丸々とした青いゴミ袋に,底の深い格子状の洗濯かごと沢山の洗濯物.
ざっと見えるものといえば,そのぐらいだった.
どこにも,夫妻が口に出来そうなものは無い.
「マオが,出かけるときにわしらのことを忘れて行ったみたいだな」
 ラットンはしばらく考えていたが,やがて重々しくそのことを認めた.
「まぁ,それじゃ,今日はどうやって過ごすんですか? 今日一日,あのお茶だけで過ごすんですか?」
「それはないさ,コリー.マオが今夜どこかに泊まるんでなければ,夜には帰ってきているはずだ.なんせ,ここがあの子の家なんだからな」
「それはそうでしょうが……」
「しかし,ただ待つというのも腹が減るだけだ.少しばかりこの部屋を探ってみるかな」

 ラットンは言って,コリーをその場に残させると,手始めに中央に置かれたテーブルに登り始めた.
四本ある木製の脚のうち,一つはラットンが以前に登りやすくするためにつけた小さな傷があった.
ラットンは少し息を切らしながら,楽にテーブルの上に立っていた.
 テーブルにはお茶のペットボトルが立っているだけだった.
雑誌は本棚の二段目にしまわれたらしい.
数日の間に,マオにも少しは整理整頓の意識が植え付けられているようだ.
ただ,そんなマオの成長よりも,食べものを見つける方が大事である.
残念ながら,そっちの方はラットンも見つけることは出来なかった.
 ラットンは落胆しながらも,サッとテーブルから飛び降りると,衝撃に任せて畳の上に転がり込んだ.
ちょうど建物の二階ぐらいの高さだったが,若い時には三階の高さにも怯まなかったラットンには易しかった.
とはいえ,年齢的にそろそろ控えておいたほうが良いということには,ラットンも気づいていた.
「やはり,あの冷蔵庫を調べるしかないか」
 遠くで心配そうにしているコリーを安心させると,ラットンは再び流し台の方に向き直った.
本棚とは向かいの位置には,コンロ台に流し台のキッチンスペースがあり,その横に冷蔵庫と玄関があった.
冷蔵庫の窪み型の取っ手はちょうど流し台の高さに合っていて,そこに立てれば取っ手に手が届きそうだというのが分かったのだ.
ラットンは早速,半畳と半畳で一畳分の距離の凸凹を渡り,畳から板張りの床の上に移動した.
 白い冷蔵庫は,宝でも守っているかのように分厚い扉を固く閉ざしていた.
ラットンが冷蔵庫の足元から頑張ったとしても,到底開きそうにない重量感である.
まるでラットンに挑戦しているかのようなその重々しさに,ラットンは改めて自身の小ささを感じていた.
しかし,それで退散するはずもなく,ラットンは左手の方にある洗濯かごへと足を向けた.
その洗濯かごは容量が大きく,流し台の半分ぐらいの高さまであるのが見えていた.
格子状に作られていたので,中に押し込まれている服やら下着やらの類がよく見える.
その格子に足をかけることで,ラットンは容易くかごの上へと辿りつけた.
 洗濯かごからは,むっとするような生臭さが立ち上っていた.
洗濯機がないため,洗濯は一定期間に一度だけまとめて行うようにしているが,もうじき洗濯の日が来るという今日には,洗濯かごはもうすぐ溢れるところまで洗濯物を内部に蓄えていた.
ラットンはその匂いに若干眉をひそめながら,次の足場を見るために顔を上げた.
 それは,流し台下の扉の取っ手だった.
取っ手は縦に長いもので,洗濯かごの縁からは容易に手が届く位置にある.
取っ手自身は糸を巻いたような造りなので足がかりが多く,上の部分は流し台のところにごく近いため,ラットンは無理をすることなく登ることが出来た.
流しの中には何枚かの皿が水に浸かっていたが,ラットンは構わずヘリを伝って冷蔵庫の傍までやってきた.
 冷蔵庫は,テーブルからの見立て通り近かった.
触ってみるとやや暖かく,ラットンは床の上が今いる場所よりも寒いことに気が付いた.
本棚の下を見ると,コリーはハンカチの布団を肩にかけたまま,近くをフラフラしているようだった.
ラットンは冷蔵庫に向き直ると,力を一杯にして扉と冷蔵庫本体とを引き離そうとした.
だが,強力な磁石はラットンの努力を寄せ付けず,頑として冷蔵庫の中を見せない.
ラットンは息切れし,少し休んだ後にもう一度挑戦したが,やはり磁石の強さの前に屈服するしかなかった.
三度目には,手が滑った勢いで流し台から落ちる恐れにも構わずに全力を尽くした結果,わずかに扉から光が差し込むまでになった.
ただ,その時点でラットンの馬力が尽きてしまい,結局扉は磁石の導きに従って光を閉じ込めてしまったのだ.
 この扉を開けられれば,食べる物があるかもしれない.
だが,扉はその希望を真っ向から跳ね返していた.
ラットンは四度目の挑戦をする前に,体力と気力の限界を悟った.
ふと,マオならばその大きな手で容易く扉を開けられるだろうという想像がよぎった.
ラットンの半身を軽く収められる巨大な手は,この冷蔵庫の取っ手である大きな窪みに適していた.
ラットンなどは,その窪みに手を引っ掛けるよりも,むしろ窪みの中に入る方に適していた.
それどころか,マオは冷蔵庫を開けるのにわざわざ流し台に登る必要もなく,床に足をつけたままで手が届くのだ.
ラットンが床を見ると,そこは建物の五階ぐらいの高さであった.
 ラットンは仕方なく冷蔵庫を諦めることにし,登ってきた流し台下の取っ手の所に戻った.

 流し台のヘリから取っ手に降り立ったとき,水の弾ける音がラットンの不意を突いた.
それは蛇口から滴が落ちただけだったが,ラットンは焦って足を滑らせてしまい,身体を中に投げ出してしまった.
「あっ」
 身体から重力が消える.
遠ざかる流し台.
下から上へ流れる取っ手.
ラットンが落下していることに気づいたとき,突然背中に柔らかい衝撃が伝わってきた.
思わず舌を噛みそうになったが,ラットンは洗濯物に守られて傷一つ負うことはなかった.
 一瞬の間を置き,無事であることに気づいたラットン.
徐に洗濯物を掘り返し始めると,篭もっていた生臭さが嬉しそうに外に飛び出してきた.
長袖のシャツやトレーナー,ランニングショーツなどを引っ張っては横に追い出し,さらに底に向けて掘り進める.
時には肌着や下着類などに出くわすこともあったが,避けて通ると余計に労力がかかるため,やむを得ず同様に引っ張り出す.
ブラジャーが突然抜け出てきた時には全身を覆われたりもして,この作業は中々に重労働であった.
それでもなんとかやってのけると,ラットンは最後にベージュ色のチュニックを引っ張り出し,ポケットの中に潜り込んでいった.
そこには,まだ封を切られていない二枚組のビスケットがあった.
落下時に聞こえた微かな音の正体である.
 ビスケットを外に取り出すと,今度は洗濯かごの格子の間にそれを押し込んでいく.
格子はビスケットよりほんの少し狭く,そのままでは力押しに押しても格子の間を通すことは出来なかった.
そこでビスケットを少し傾けて押すと,ビスケットはラットンの力に応じて格子の間から少しずつ出て行った.
 ようやく一仕事終えたラットンは,生臭さが漂う場所ではあるが,少しだけ呼吸を整えるために格子の壁に寄りかかっていた.
ふと横に追いやられているマオのブラジャーが目に入り,一度は全身を呑み込んだそれが,やはり大きいということに改めて気付かされていた.
ただ,あまり目のやり場のない洗濯かご内を見ていても仕方が無いので,ラットンは天井を見上げるようにして時間を潰していた.
 しばらくして,ラットンは洗濯かごから脱出した.
先に床の上で待っていたビスケットを抱えると,重い足取りでコリーの待つ本棚の辺りまで運んでいった.
コリーは嬉しそうにラットンのもとに駆け寄ってきたが,それは流し台から落下したラットンの無事を喜んでいたものだった.

 二人は,ビスケットで当座の食事を終え,ペットボトルの底に残っていたお茶で喉を癒した.
ビスケットは苦労した結果見つかったものだが,お茶の方は飲むまでが大変だった.
それは,まずテーブルの上からペットボトルを落とすという労働に加え,桶のような蓋を開ける仕事があったからだ.
蓋を回そうとするとペットボトルまでが転がるため,まずはそれを押入れに押し付けることが必要だった.
そうしてペットボトルを固定すると,ラットンとコリーが協力して蓋を開けたのである.
さらに,お茶をペットボトルの口の部分に誘導するため,ペットボトルの底のあたりから少しずつ持ち上げていく.
この作業が最も体力を使うもので,ペットボトルの蓋に十分なお茶が入っている頃には,ラットンの額からも十分な汗が流れていた.
「ご苦労様ですけれど,汗はちゃんと拭いておいてくださいね.冷えてきて身体を悪くすると,後が大変ですから」
 コリーに促されて,ラットンはタオルで汗を拭いとった.
このタオルは,マオの古着からコリーが繕ったものである.
コリーは日常の無聊を慰めるため,他にも衣服などを繕っている.
まとまった素材がある今のうちに,今後必要になるかもしれない衣類などを拵えたいという事だった.
ラットンの方でも,高所への足がかり用に紐梯子を製作中である.
材料の麻紐はマオが引越しをしたとき以来放置されていたもので,貰ったときには少し毛羽立っていた.
そのため,本来は蝋引きしてから使いたかったのだが,マオが蝋を持っていなかったため断念してそのまま使うことにしたのだった.
 二人は,時々外で自動車の走る音などを聞きながら,静かな部屋の中でそれぞれの仕事に取り掛かった.

 * * *

 気がつけば昼下がりをとうに過ぎていた.
ビスケットの残りで空腹を満たしたものの,飲み物はもう無かった.
念のために部屋内を見回ったラットンだが,やはり目ぼしい物はなかった.
玄関前の間仕切りの後ろまで確認したところで,ラットンは失望と共に座り込んだ.
 マオはいつ帰ってくるだろうか.
いつもの通りだと,あと三時間ぐらいかかるかもしれない.
三時間ぐらいなら,まだ我慢できるだろう.
だが,もし帰ってくるのが遅くなるとしたらどうだろうか…….
 ラットンは高く聳える冷蔵庫と流し台とを見上げた.
飲み水を得るため,もう一度あの高みに登る必要がありそうだ.
ラットンはそう思い決めると,重い腰をゆっくりとあげて板張りの床を歩き始めた.
 カチャリと,鍵が回る音がしたのはその時だった.
ラットンが何事かと玄関を見ると,ドアノブが自然に回ったその扉は,軽く軋みながら外側に開かれたのである.
それと同時に,女の子の可愛らしい声が部屋の中に響いた.
「お姉ちゃーん,いるー?」
 そこにいたのは,紺のカーディガンに白の制服を覗かせたネコ族の少女だった.
チェック柄のスカートの下は,この時期にもかかわらず黒のニーソックスのみである.
首に巻いた赤のマフラーは,二重に巻いてなお少女の片腕ぐらいの余裕が残っていた.
その姿から言えば高校生ぐらいだろうか.
ただ,見た目や声などの雰囲気には,もっと幼くあどけない印象があった.
「お姉ちゃん,入るよー?」
 その声を聞いたとき,ラットンは本能的に身の危険を感じた.
と同時に,少女は手早く靴を脱ぎ去っていた.
少女の黒靴下の足が,一歩板張りの床に踏みしめられる.
そして逆の足が空中に浮き上がった.
ラットンは少女を凝視していたが,少女と目を合わせていなかった.
少女はラットンに気づいていない.
だが,見つかることを恐れる本能が足を床に固定してしまっている.
黒い足の裏がラットンの頭上に滑ってくる.
ラットンは思わず頭を抱えてうずくまった.
 ドシン,という音が響く.
左から埃と共に風がラットンを撫で付けた.
足音はさらに何度か遠ざかりながら聞こえていた.
「あれ? お姉ちゃん,まだ帰ってきてないのかな」
 少女の幼い声が後ろから聞こえてきた.
ラットンは震えながら両手を頭から離すと,恐恐と後ろを振り返った.
マフラーを手にしたままテーブル付近に立っていた少女は,その瞬間,本棚を見下ろしながら歓声をあげていた.
「あー,ネズミ見っけー!」
 そう言って少女がしゃがんだのと,その奥から悲鳴が聞こえてきたのはほぼ同時だった.
コリーが見つかった.
ラットンは瞬時にそれを理解すると,物を考える前に畳の上を走っていた.
少女が腕を上げたときには,すでにコリーが数本の指に捕まっているのが見えていた.
テール状の後ろ髪をさらに下げながら,少女は自分の顔の上にコリーを運んでいく.
「お姉ちゃんの代わりに駆除してあげるね.いただきまーす」
「いや,止めてっ! いやぁーー!!」
 コリーの必死の叫びが辺りに響いた.


「ま,待てぇ!!」
 ラットンは,コリーに負けない程の全力で叫んでいた.
それを聞き咎めた少女の耳が一瞬ピクンと動くと,少女は不思議そうにラットンの方へ振り返った.
ラットンは息を切らしながらその場に止まり,少女の紅い目を真っ直ぐに睨みつけていた.
「あ,あなた,助けて!」
「待ってなさい,コリー! 今は,大人しくしてるんだ」
 懇願するコリーに,宥めるラットン.
少女はなおも不思議そうに,畳の上と自分の手元とを交互に見ていた.
「え,何? キミたち,もしかして知り合い?」
 少女が,両方に問いかけてきた.
しかし,すっかり怯えてしまったコリーには,少女とまともに向きあうことも出来ない状態だった.
ラットンは,出来るだけ少女の気に障らないような調子で答えた.
「そうだ.今あんたが手にしているのは,わしの妻なんだ」
 すると,少女が赤い視線をラットンに向けた.
目にはわずかに好奇心のような,無邪気な輝きが見えていた.
「折角のところで悪いんだが,そういうわけだから,離してやってくれないかね? 恐らくだが,他の食べ物なら,あの冷蔵庫の中にでも入っているだろうから」
「……じゃあ」
 突然,少女のもう一方の手がラットンに迫ってきた.
ラットンが動揺する間に指が身体に絡みつき,強い力で締め付けられるやグンと少女の顔の近くにまで引き寄せられていた.
「キミたち,二人とも駆除しちゃうね.お姉ちゃんはだらしないからキミたちに気づかなかったみたいだけど,私は放っておけない性格だから……」
「な,なら,わざわざ食わんでもいいんじゃないか.玄関からでも,窓からでも,外に放り出しさえすれば……」
「ううん,そんな事しないよ」
 少女が首を振って答える.
その口元に,邪悪な笑みが浮かんでいた.
「だって勿体無いじゃない.ちょうどお腹空いてるところだったし」
 まるで友達と会話しているかのように,少女は言った.
それが極当たり前のことだと言わんばかりの笑顔だった.
ラットンが答えに窮していると,少女はラットンから先に口元へ近づけた.
「じゃ,いただきまーす」
 そう言うと,少女の肉厚な唇が上下に大きく開かれた.
ラットンの前に迫ってくる暗い洞穴.
湿った風,赤くぬめった地面,真白い岩.
上下の歯の間に数本の唾液の糸が伸び,一個の生き物のように動く舌が気味悪く待ち構えている.
 ラットンはもがこうとしたが,両腕までが少女の拳に握られていてほとんど動けなかった.
ただ,後ろからコリーの叫び声が聞こえるだけで,為す術なく処刑場へと運ばれていく.

 だが,少女の口までの距離が手を伸ばせば届くほどになったとき,急に少女の手が止まった.
「……あれ?」
 やや間をおいて,洞穴の奥から音が響いた.
と思うと,今度は逆に少女の口から遠ざけられていった.
「もしかして,キミたちって"ラットン"とか"コリー"って名前だったりする?」
 少女が,再び二人に問いかける.
ラットンは状況が呑み込めなかったが,この質問が今までと異なる雰囲気であることにだけは気付いた.
少女の真意は分からなくとも,ラットンはその問に頷いて答えた.
瞬間,少女の紅い目はそれまでの悪魔のような――ただの食べ物を見るような――ものではなく,優しく無垢なものになった.
「なぁんだ.それなら早くそう言ってくれないと〜.危うく食べちゃうところだったじゃないのぉ」
 困ったように笑いながら,少女は言った.
そして二人をテーブルの上に降ろすと,両肘をついて二人を見下ろしながら,続けた.
「二人ともごめんね,怖い思いさせちゃって.てっきり野良ネズミかと思って」
「い,いや……」
 ラットンが曖昧に返事をすると,少女はコリーの細腕よりも太い人差し指で,未だ恐怖に取り憑かれているコリーの頭を撫で回してきた.
するとコリーがラットンのもとに逃げてきたため,ラットンは少女の視線を一身に浴びることになった.
しかし少女には悪意はなく,コリーが嫌がっていたことを素直に認めると,眉をハの字にした困った笑顔を浮かべて謝ってきたのである.
ラットンには,今の少女は"話せる"相手であるという確信が生まれていた.
「……まぁ,わしらも一応無事なことだし,それについてはもういい.だが,次からはこんなこと,しないでもらいたいかな」
「大丈夫.私,クラスメートの名前覚えるの得意だもん.二人のことももう覚えたからさ,今度からはちゃんと気をつけられるよ」
 少女が子供っぽくウィンクをする.
ラットンはその雰囲気に,多少の安堵を覚えた.
「それならいいんだ.ところで,あんたはわしらのことを,どうして知ってたんかね?」
「お姉ちゃんから聞いてたの.最近知り合ったネズミの子たちがいるから,間違っても食べたりしないようにって.だから,もうちょっとでお姉ちゃんに怒られるとこだったの」
「そう,か.なるほど」
 アハハ,と少女は笑っていた.
"食べる"ことがラットンたちにとってどれほど重いことか,あまり理解していない笑顔だった.
ラットンはそれを,苦い思いで見ていた.
しかし,ここでそれを忠告したとしても少女がすぐ理解することもないだろう,とラットンは思っていた.
捕まったときの少女の目が,ラットンを食べ物として見ていたことが頭の中から消えないからである.
 ラットンはその光景に負けないよう,気を強く持って少女の目を覗くように見上げた.
「あんたは,わしらのことを知っとったわけだ.なら,わしらにもあんたの事を教えてくれんか.マオの妹さん……みたいな様子だが,名前はなんて言うんだね?」
「あぁ,私はユウ.ユウちゃんって呼んでくれていいよ」
 そう言うと,ユウはニコッと笑顔を二人に振り注いだ.
二人を捕食しようとしたときとは対照的な印象である.
「それで,ここには時々遊びに来てるんだけど,今日はお姉ちゃん,まだ帰らないの?」
「いや,それはわしらも知らんのでな,何とも言えん.まぁ,いつもの通りならそう遅くはならんと思うが」
「ふーん」
 ユウは生返事をしながら,部屋の中を改めて見回していた.
ラットンは,このユウのことを朧気ながら記憶の中に持っていたことを思い出した.
マオは,少なくとも自宅ではずぼらを体現したような生活をしているが,それでも生活が出来ているのはユウのおかげなのだ.
ユウは定期的にこの家に訪れては,散らかった部屋の掃除だの,大量の洗濯物の始末だの,次に来るまでの保存食だのを世話していくのだ.
そうであるからマオが自立しきれないという見方もできるが,少なくとも,ユウはマオの実質的保護者という立場にあった.
要約すると姉思いの良妹なのである.
実際に面と向かい合ったのはこれが初めてだが,先の捕食時の雰囲気を除けば,概ねラットンが持っていたユウのイメージと合致する様子だった.
 その時,ラットンの腕に力なくすがり寄る影があった.
コリーである.
「すみませんが,わたし,少し休みたいんです……」
 その声はか細く,顔色も優れない様子だった.
ラットンは承知したが,しかしここはテーブルの上である.
コリーが自力で降りることは不可能だった.
 ラットンはユウを見上げると,声を張り上げて呼びかけた.
「すまんが,このコリーを降ろしてやってくれんか.ちょっと,疲れとる様子なんだ」
 ユウは振り向くと,コリーの弱々しい雰囲気に気づいて早速摘み上げようとした.
それをラットンが慌てて制止すると,ユウもその意図に気付いて掌に乗せる形に変更していた.
コリーはユウの掌に乗るのを躊躇っていたが,ラットンが説得することで了承させることが出来た.
そして,テーブルの縁からユウの掌に移ったコリーは,そのままラットンの依頼通りに本棚の傍で降ろされていた.
コリーは,無事にティッシュ箱のベッドに戻ったようだ.
「ありがとう,助かったよ」
 ラットンが礼を言うと,ユウは笑顔で返してきた.

 静かな部屋の中で,奇妙な鳴き声が響いた.
音源はユウのお腹の辺りである.
「そうだ,お腹空いてたんだっけ」
 そう呟いたユウが一瞬チラッとラットンを見たため,ラットンはその瞬間に総身が凍りつくような感覚に襲われていた.
しかし,ユウは単にラットンに視線を送っただけで,特別な意図があったわけではなかった.
ユウは硬直しているラットンを気にすることなく,冷蔵庫の中を確かめるために立ち上がった.
 冷蔵庫を閉めたユウの手には,一つの缶詰が見えた.
ユウは別の手でこめかみを擦りながら,不満げにテーブルへと戻ってきた.
ラットンのすぐ横に置かれた浴槽ほどの大きさの缶詰には,サバ塩焼きと書かれている.
「冷蔵庫の中,これしか無かったよ.お姉ちゃん,ちゃんと食べてるのかなぁ……」
 不安げなユウからはため息が漏れる.
それに呼応するようにユウのお腹の虫が鳴り出す.
ユウは気恥しそうに頬を赤くしながら,箸と皿を取りに再び台所へと向かった.
 ユウが戻ってくると,カパンッという切れのいい音の後にサバが皿の上に取り出された.
「いただきます」
 ユウは礼儀正しく両手を合わせて言った.
その後は,ユウが箸を繰り出すたびにサバの身体が抉られ,一塊の肉がユウの口に消えていく光景が続いた.
ラットンはそれを眺めているうちに食欲がなくなっていき,同時に寒気が募っていくのを感じた.
この巨大な生き物たちは,何て食欲旺盛なのだろう.
ラットンとコリーが一日かけても食べきれないようなサバを,ユウは一人で食べきろうとしている.
場合によっては,その食欲がラットンのような者をも呑み込んでしまうことさえある.
今回ラットンやコリーがユウに食べられずに済んだのは,単に運が良かっただけで,一歩間違っていれば今頃は二人ともユウの胃の中でドロドロの一塊になっていたかもしれない…….
「ごちそうさまでした」
 ユウが両手を叩いた.
その音は,想像の胃の中にいたラットンを現実に引き戻していた.
ユウが少しホッとしたように息を吐くと,その紅い目はチラと部屋の隅にあるゴミ袋に向けられた.
そして立ち上がろうとするユウにラットンが声をかける.
「すまんが,わしも床に降ろしてくれんかね.ここにいたんじゃ,何にも出来んのだよ」
「あ,いいよ」
 ユウはテーブルに掛けていた手を離し,テーブル横に添えるように掌をつけた.
ラットンがその上に乗ると,ゴンドラのように掌が滑空していく.
急に動いたためラットンがバランスを崩すこともあったが,ユウが素早く別の手で庇ってきたので転落することはなかった.
ラットンがゴンドラから降りると,ユウはそそくさとテーブルに戻って空き缶と食器を手に台所へ向かって行った.
それを見ながらラットンは本棚に戻ると,コリーが熟睡している様子を確認して,再び紐梯子の仕事に取り掛かった.
 直後,ユウのぼやき声がラットンの耳に届く.
「お姉ちゃん,またゴミを分けてない……」
 ラットンがふと見ると,ユウは引き出しから新たなゴミ袋を取り出していた.
丸く太ったゴミ袋から中身の一部を選択し,それを薄っぺらいゴミ袋へと移していく.
暫く時間をかけてゴミは正しく分別され,一仕事終えたユウは満足そうに笑みを浮かべていた.

 見届けたラットンが自分の仕事に戻ってからも,ユウはその場にしゃがんだまま動かなかった.
気になってラットンが顔を上げると,ユウは何かを自分の胸に当てているらしいのが見える.
それが何なのかは,本棚の傍からでははっきりと確認できなかった.
不意にユウがラットンの視線に気づき,瞬間,ユウは慌てたように何かを洗濯かごに押し込むと,何事もなかったかのように姿勢を正していた.
 その時,玄関から鍵を開ける音が聞こえてきた.
ユウの耳が鋭く反応し,ドタドタと玄関へ急いでいく.
ラットンも玄関の様子を見ようと,本棚の前に出て間仕切りより奥が見える位置に移る.
玄関が開くと,その先にいたマオの姿を見るなりユウがその胸に飛び込んでいった.
「お姉ちゃん,お帰り〜」
「わ? って,ユウ? アンタ,もう来てたの?」
 マオは買い物袋で手が塞がっていたため,擦り寄るユウを見つめるだけだった.
一方,ユウはマオが玄関先で動けないでいるのにつけこみ,コートの上から顔を押し付けていた.
ユウはマオよりも頭一つちょっと背が低いくらいのようだ.
 暫く苦笑しながら様子を見ていたマオだが,遂にはしつこいユウを制止するように注意するに至った.
ユウは嬉しそうに笑いながら,片方の袋を持って先に部屋に上がっていた.
「あ,そうだ,ユウ.もしかして,ここにいたネズミ君たち,見つけちゃった?」
「ん? 見たよ〜」
「二人とも?」
「うん」
「……」
 マオの表情が,あからさまに渋くなっていく.
ユウはキョトンとした様子で,その変化を見守っていた.
が,その原因にすぐ気が付いたようだ.
「勿論,何もしてないよ? お姉ちゃんから聞いてたからね.お姉ちゃん,私が食べちゃったんじゃないかって思ってるでしょ」
「え,そりゃ……ね.昔からアンタ――」
 妹の追求に目を逸らしたマオが,不意にラットンの存在を捉えた.
その瞬間,言いかけた言葉を飲み込むようにして言葉を切っていた.
「……まぁ,何もなかったんならいいわ.それより,いつ来てたのよ.暇だったんじゃないの?」
「ううん,暇でもなかったよ.ちょうど,そこのゴミを分別し終わったところだったし」
 ラットンが見ていると,マオとユウはテーブル付近に三つの白い袋を置いた.
思わず,ラットンは逃げるように本棚の一段目に入る.
「ゴミ?」
「うん.いつも言ってるじゃない.燃える物と燃えない物はちゃんと分けておかないと,出すときに大変だよーって」
 ユウに促されて台所の隅を見たマオは,生返事と共に頬を擦っている.
ラットンは本棚の中から様子を伺っていたが,黒と茶の塔の上を見上げるのはかなり首に負担がかかる作業だった.
そこへ,マオが急に何かを思い出したように振り返り,ラットンの方へ向き直ったのである.
ラットンは一瞬マオと見合っていたものの,不意に身の危険を感じて目を反らせた.
床から見上げることで,スカートの下から覗いていると勘違いされるのを恐れたからだ.
そう思うラットンの傍へ,マオが歩みを寄せてくる.
「お姉ちゃん,今から始めるからゆっくりしててね.あ,もし何かリクエストあるなら聞くけど?」
「ん,ユウの作るものなら何でも良いわ」
 一瞬,マオの歩みが止まった.
マオが台所に行ったユウに振り返った隙に,ラットンは本棚の奥へ逃げこむ.
本棚からはマオのタイツを履いた足しか見えず,それが一度は台所へと向き直るのが見えた.
「ね,もし手伝えることがあったら手伝うけど」
「大丈夫.お姉ちゃんは何もしなくていいから,そこで大人しくしてて」
「……うん」
 ユウの返事はやや強い調子だった.
そのためか,マオの語気は弱くなっていた.
そして,再びマオが本棚へと歩み寄ってくる.
マオの影が本棚を覆ったとき,マオはスカートを畳に付けて両足を片方向に流すようにして座り込んだ.
「ラットン,コリー,いるでしょ?」
 マオが呼びかけてくる.
ラットンには素直に出ることに一瞬の躊躇いがあり,すぐには出ていけなかった.
すると,マオが身体を曲げて覗き込んできたため,ラットンは否応なくマオと目を合わせることになった.
「ん? コリーは,寝てるの?」
 マオが目を合わせて尋ねてきたので,ラットンは仕方なく首を縦に振った.
そのついで,マオに頼んだ.
「出来るなら,静かにしてやってくれ」
「う,うん.それは良いんだけど,ちょっと,出てきてくれない?」
 マオが手招きする.
ラットンは不安を感じながらも,断る理由がないため素直に出て行った.
目の前に聳えるマオの身体.
変に視線を動かすと疑惑を強めそうなので,ラットンは首が痛んでもマオの顔を見上げるよう努めた.
だが,マオはラットンを軽く掴むと,躊躇いなくスカートの上に乗せてきた.
戸惑うラットンの前に,今度は一抱えもあるチーズが置かれる.
「今朝,何も置いてかずに出てっちゃったからさ.そのお詫びっていうか,なんかね.チーズが好きかどうかは,買ってから気づいたんだけど」
「いや……」
 ラットンは困惑したまま,真上を見上げた.
マオが二山の向こうからこちらを覗いているのが見えた.
ラットンにはマオの顔が半分ほどしか見えてないが,マオからはラットンの姿が良く見えているだろう.
「チーズなら,わしもコリーも大好きだよ.ただ――」
 ラットンは少し考え,改めてもう一度見上げた.
「こんなにも多くを食べ切るには,相当の時間がいるだろうな」
 そう言ってラットンはマオに笑いかけた.
マオの方でも,柔らかい笑顔を返してきた.




--おわり--


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【あとがきらしきもの】
僕の頭の中にマオが住み着いたようです(・ω・)
ってことで2話目書いてみた.

折角なので間取りとかも考えてみたりしてね,一人暮らし経験も無いのに勝手に書いてました(´∀`)
まぁまぁ楽しかったですな.
マオの布団とかにお邪魔してみたいとか考えながらニヨニヨしてましたよ.

妹のユウがここで登場してます.
姉が「猫」の中国読みでマオなので,ユウもやっぱり中国語絡みなんですね.
とはいっても,発想はたまたまです.
ネコ科でいいのがないかと探してる時に思いついたのがマングースで,中国語にしてみたら「猫鼬」という結果になってね.
鼬ねぇ……(・ω・)
イタチといえば,「小人の冒険シリーズ」にも出てきてましてね.
その時の印象と組み合わさって,「猫鼬(マオユウ)」から「ユウ」といった具合です.

それはそうと,服装考えるのは大変です…….
なんせファッションには全く関心がなく過ごしてきたものでねぇ(´・ω・`)
可愛らしいって言っても,どんなのがどう可愛らしく見えるんだろうなー.


……と,なんかまとまりないけど,最後までお読みくださってありがとうございました!


なんて,無理やり締めくくってみる(´∀`)