村娘の変身/女神の誕生 その3
作:爺

7.英雄皇帝の転落
帝都エンシャント、人と物とが行き交う帝国の中心地は、今日はいつにも増してガヤガヤと騒がしかった。鍛冶屋も靴屋も両替商も皆が店を開け、城壁の向こうを見つめながら、不安げに言葉を交わしている。
その視線の先は、堆く積み上げられた石垣を突き破るようにして伸びる巨大な人影に占有されており、さらに時折、街の喧騒をかき消すかのようにそこから

ゴロゴロ、ゴロロロロロォォォオオオオ!!!

と、雷でも落ちたかのような爆音が響いてくるのだった。
英雄皇帝の治めるこの街で、このような非常事態に出くわした事のない民衆はすっかりパニックに陥り、一度途切れたざわめきも、さらに騒がしさを増して静まる兆しは見られない。
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そんな帝都の動揺を遥か上空から見下ろす二つの瞳には、その巨躯の持つ威圧感には似合わぬ涙が浮かんでいた。

(もうっ、なんでこんな事に……お腹の音、皆に聞かれちゃったよぅ)

両手で忌々しい音の出所を必死に押さえつつ、顔を真っ赤に染め上げて羞恥に打ち震えるアネットの姿がそこにはあった。
いがみ合っていたノーブル、ルブルグ両家の仲を山のように大きな娘が取り持ったと言う評判を耳に入れた英雄皇帝が、その功績を称えるために彼女を直々に呼び出したのである。
湖の水を口にしなければ、空腹を満たすのにどれほどの食事が必要か知れないアネットには気の進まない話だったが、皇帝の頼みとあっては断るわけにもいかない。
蝸牛のようにのろのろと進む馬の後を日の沈むまで何も食べずに歩いて、あと一週間はかかると聞かされたときには絶望しかけた彼女だったが、翌朝嫌がる使者を掌に乗せて歩き出すと、なんと二人は日も昇りきらないうちに帝都へ辿り着いてしまった。
国境線での大立ち回りから二週間、今や常人の二百倍近くの大きさとなった彼女はたったの一歩で川をも跨ぐ歩幅を誇り、ただ歩くだけで何者も追いつけぬ速さをも、知らずのうちに手にしていたのである。
予想外の到着の早さに、「まず陛下のご予定を確認してくる」と、彼女を街外れ(といってもアネットにとってはせいぜい城門から五、六歩といったところだろうか)に一人残して城へと向かった使者を見送ってから、既にたっぷり小一時間は衆目に晒され続けた彼女は、

(ただの村娘が調子に乗って馬鹿なマネを仕出かすから、こんな恥ずかしい目に遭うんだわ……)

と、自分の行いを悔いていた。戦場での自分の、なんと思い上がっていたことか!あの時感じた高揚感も、今の彼女には捨て去りたいものでしかなく、ただただ恥じ入るばかり。

(とにかく……罰だと思って我慢して、陛下のお言葉を頂いたらすぐに村へ帰ろう。それまでは辛抱よ、アネット!)

パン!と頬を叩いて気合いを入れた彼女は、その音で眼下の都に悲鳴が木霊するのを憂鬱な気持ちで眺めながら、再び門が開くのを待っていた。

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城門がゆっくりと開き、一頭の軍馬が駆けてくるのが見えたのは、それから更に一時間が過ぎようとしていたころだった。ゴミ粒のように見えたそれが数歩先からジリジリと近づいてゆくにつれ、その背中に人が乗っているのが辛うじて見えてくる。
アネットの足元、親指と親指の間あたりまで近づいて馬を下りたその人物は、上を向き、遥かな高みにある彼女の耳にも響く大声で語りかけてきた。

「いやはや、噂に違わぬ大きさよ!これでは目を合わせて礼を言うこともできん!
すまんが娘よ、余をそなたの目の前まで運んではもらえないだろうか?!」

言われるがままに彼女が右手の掌を地に着け、そこに飛び乗った男を持ち上げると、めいっぱい顔まで近づけたところでようやく、彼が何者なのかを知ることができた。
英雄皇帝ゴードフロワ。光り輝く金の鎧に身を包んだ若き勇者が、巨大な村娘の顔に些かも怯むことなく悠然と立っていた。二十代半ばにして数々の武勲を打ち立て、既に魔王腹心の部下を幾人と屠ってきた彼の身体は一分の隙もなく鍛え抜かれており、溢れんばかりの覇気がこちらを見返す瞳を爛々と輝かせている。数多の英雄伝に伝え聞く、偉大な王の姿そのままだった……ただ一点を除いては

(なんて、小さいんだろう……私の小指の爪とおんなじくらいかな……?)

屈強な男たちばかりの帝国軍の中でも頭一つ飛び出る偉丈夫とされる彼が、アネットの掌の中では蟻のようだった。帝都まで使者を乗せて運んだ時もその小ささに驚かされた彼女だったが、伝説の英雄ですら指先サイズという事実に戸惑いを隠せない。

(って、私ったら今なんて失礼なことを考えて……っ!それにこの御方は魔王を倒すべくしてお生まれになった勇者、身体だけ大きくなっちゃった私なんか目じゃない力をお持ちなのよ、きっとそう!)

そんな彼女の動揺を知ってか知らずか、皇帝は気さくに話しかけてくる。

「なんだ?そう緊張するでない、そなたはこの国の再結束に一役買ってくれた恩人なのだからな!
それにしても驚いたぞ!到着は一週間後と聞かされていたものだから、ずいぶんと待たせてしまった。しかし、その足でならこの速さも当然か……なにせ余の宮殿すら踏み潰せてしまえそうな大きさだからな、ハハハハハ!!」
「……お褒めにあずかり、光栄の至りに存じます。」

この身体になってから気にしていた体重のことが話題に上がり、顔の引きつるアネットだったが、「陛下に失礼があってはならない」と何とか作り笑いを浮かべて礼を述べる。
その後も皇帝が無遠慮とも取れる言葉で彼女の大きさを褒め称えたため、空腹もあいまって彼女のストレスは溜まっていった。

「大恩人のそなたへの礼として、余に出来ることなら何でも一つ願いを叶えよう。さて、どうしてほしい?」

と問われた時には内心で、

(何でも願いを聞いてくれるなら、早く私を解放して村に帰らせてよ!)

などと願っていたが、そんなことを口にしたら帰るどころの話ではなくなってしまう。そこはご機嫌を取って

「陛下によって魔王が討たれ、一日も早くこの国に平和が取り戻されること、それが望みで御座います。」

と答えることにした。
すると彼女の思っていた以上に、この言葉は皇帝を喜ばせたようだった。

「そうかそうか!待っておれ、その願いはすぐに叶えられるであろう!
自分で言うのもなんだが、余にとって獅子身中の虫であった諸侯の不仲、それが解消されれば魔王など恐るるに足りん!」

上機嫌な彼の様子に安心したアネットだったが、次の瞬間、これまでずっと我慢してきた空腹によって胃袋が鳴動しようとしているのを感じ取り、頬を染めて俯いてしまう。

(よりにもよって何で今ここで?!駄目よっ、陛下の前でお腹鳴らしちゃうなんて、そんなの恥ずかしすぎるぅ~!!)

得意げに打倒魔王軍の計画を語りだす皇帝の言葉に耳を傾ける余裕もなく、彼女はただ黙って自らの肉体と格闘するのだった。

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「……して、配下の兵どもを惹き付けたところで世が単身奴の居城に乗り込むわけだ。
魔王め、噂によれば巨大化の秘術すら扱うらしいが、幾多の怪物どもを切り伏せてきた我が剣には適うまい、顔まで駆け上りその眼を一突きにしてくれようぞ!
…………。ちょうどこのようにして……なっ!!」

そう言うと、突如皇帝は剣を抜きアネットの腕を駆け抜けた。
どうやら彼もアネットが自分の話を聞いていないことに気がついたらしく、折角の自分の計画が聞き流されたことへの不満とちょっとした悪戯心から、彼女に襲い掛かるふりをして驚かしてやろうとしたのである。
人の十倍以上の大きさを持つ竜や一つ目鬼と戦った経験のある彼は、その巨体の上を移動する術にも長けていた。鎧や剣の重さも感じさせず、不安定な足場にあっても三歩で人の速さの限界に到達する。超人的な力を持って生まれたわけではない、自身の肉体を最大限に活用する技術、それこそが彼を勇者たらしめているのであり、その技術を支えた努力の才こそが彼に与えられた天賦の才能なのであった。

(この巨大な娘に尻餅でもつかせてやれば、不安げな目で余を送り出した者達に勇者たる者の力を誇示し、出陣に先駆けて部下を鼓舞することも出来よう。
呼び出しておきながら見世物にされるこの娘は気の毒だが、人の話を聞かないばかりか目も合わせようとしないのは気に食わぬ。少しばかり懲らしめてやらねば!)
そう理由付けて巨大な腕を駆け抜ける皇帝であったが、くの字に折り曲げられた急勾配を折り返し、上りに差し掛かったあたりで歴戦の戦士の本能が警鐘を鳴らす。

(それにしてもなんと巨大な腕よ、流石に勝手が違うか?いや、いくら大きかろうが相手はただの娘。余の打ち倒してきた怪物どもに比べれば…… ……?!!!)

ギュォォォォオオオオッッッ!!!

凄まじい突風とともに肌色の壁が信じられないほどの速さで迫る!その光景を目にした瞬間、彼の思考は停止した。

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(鳴るな鳴るな鳴るな鳴るな!我慢我慢我慢我慢……っ!!)

胃袋が震えだすのをなんとかして堪えようと必死のアネットの意識からは、皇帝の声も姿も外へと追いやられていた。目は地面のただ一点を見つめ、耳は鳴り出した瞬間にすぐさま抑え付けるべく、腹にだけしか向けられていない。
今の彼女には、不意に途絶えた話し声も、こちらを伺う視線にも気づく余裕はなかった。
そして……

(あれ、なんか腕がムズムズするような……?)

右手を伝う微かな感触に違和感を持ったアネット、その目の端に何かが映る。
ソレは彼女にとって蟻のような大きさで、蟻のようにチョロチョロと、彼女の二の腕を這い上がっていた。

「いやぁっ、虫っ?!」

その姿を視界の中央に捉えるよりも速く左手が伸び、掌でソレを払い除けた。すると右腕のむず痒さは納まり、ホッと息をついた彼女はそこでようやく自分が皇帝の相手をするのも上の空でいたことに気がついた。

「へ、陛下っ!私としたことがボーっ、と、……して……、……え?」

慌てて謝罪の言葉を述べるが、右手の上にいるはずの彼の姿が見あたらない。

(なんで……?私が目を離した合間に、どこへ……)

記憶を遡って彼の居場所を突き止めようと試みる、するとすぐさま、彼女の脳裏に恐ろしい考えが思い浮かぶ

(“虫”にビックリして、それを払った時には陛下は私の手の上にいたかしら……だめ、思い出せないわ)
(……でもおかしい、考えてみれば今の私に虫なんて見えるわけがないじゃない)
(だって今の私って、ものすご~く大きくなってしまったんだもの)
(それこそ、普通の人が虫みたいに見えちゃうくらいに大…きく……)
(そう言えばさっきの“虫”、キレイな金色の体をしていたような……っ!!)

そこから先を想像することが怖くなり、彼女の顔が真っ青になる。
しかし、頭の中で何度も繰り返し再生される先ほどの光景が、望まずとも彼女に現実を突きつける。

(そんな……やだ……私、虫と間違えて陛下を……っ?!)

結論に到達するまでには恐怖のあまり時間が掛かったものの、そうとしか考えられないと判断してからの彼女の行動は早かった。身を屈め、輝く金の鎧を頼りに皇帝を探す。
無礼どころでは済まされない所業に、どんな罰が下されるのかは想像するだけでも恐ろしかったが、何より彼女を震えさせたのは、魔王を打つ勇者の身を危険にさらしてしまったという事実であった。

(一刻も早く、ご無事な姿を確認しないと!きっと大丈夫、陛下なら私なんかの手で怪我されるわけがないじゃない!
きっと話を聞いてなかった私をからかって、わざと落ちられたのよ……ええ、きっと!)

皇帝の無事を信じ、巨大な両目で周囲を見回すアネット。その瞳に、ついに小さく金色の光が映った。

「陛下!ああ、私ったらなんて事を……っ!!よくぞご無事……で……?」

ただ、そこで目にした彼の姿は、彼女の希望を大きく裏切るものであった。

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皇帝ゴードフロワは虫の息だった。
自慢の金の鎧は粉々に砕けて四散し、彼の肉体もまたボロボロに傷ついていた。アネットの振るった左腕に先んじて到達した風圧によって弾き飛ばされ、手の下敷きとなることは回避したものの、両足は着地の衝撃であらぬ方向に折れ曲がり、全身の傷から吹き出た血が辺りを赤く染め上げている。
それでもあの高さから落下して人の形を保ち、さらに生きていること自体が奇跡的だった。ここに吟遊詩人がいたなら、間違いなく彼の生還を勇者の御業と讃え、英雄皇帝はまた一つ武勇伝を増やすこととなっただろう。

ただ、アネットの目にはそうは映らなかったらしい……

(なんでこの人、こんなに傷ついているの?魔王を倒す勇者なんでしょ……?
私はただ軽く手で払っただけなのに、それでこんな大怪我しちゃうんだ……英雄皇帝様が、ね……。)

それまで信じてきた彼への失望と憐れみ、自身の力への戸惑いと、それを上回る自信と優越感。様々な思いが渦巻いてアネットの頭はグルグルと回りだし、やがて彼女の中で何かが弾けた。

「……何、それ?」

ポツリと呟いた彼女。その瞳は、様々な感情が溢れ出しているようでありながら無感情のようでもあり、表情も読み取れない。ただ、一言で言い表すのならそう……これは狂気だ。

「あなたは英雄で、この国の王なんでしょう?それが私の手で蟻みたいに振り払われて、今じゃまさしく虫の息ってわけ!
そんなことって……そんなことが、あっていいはずがないじゃない!私はもう三年もあなたが魔王を倒してくれるって信じてきたのに……っ!!」

理不尽な怒りに駆られたアネットの人差し指が、満身創痍で動くことも出来ない皇帝の上に容赦なく押しつけられる。

「さあっ、まさか女の指先一つ動かせないなんてことはないでしょうね?私はなんにも力を入れないわ。
さあっ、勇者様らしいところを見せてよ!お願いだから!!」

激情に任せて叫ぶアネット。しかし、その指先には何かを押さえつけているという微かな感触はあるものの、向こうから押し返す力は微塵も感じられない。もはや英雄皇帝には、わずかに抵抗する力も残ってはいなかったのだ。

「……呆れた」

冷たくそれだけ言い放つと、なんの前触れもなく彼女は皇帝に息を吹きかけた。

ヒュゥゥゥウウウウウウッッッ

突如巻き起こった暴風に彼の身体は舞い上がり、地面に激突するとそのまま土の上をゴロゴロと転げ回る。来た道を跳ね戻されながら、やっと最後の一回転を終えて仰向けの姿勢に戻り、激痛に顔をしかめたその耳に大音量の笑い声が響いた。

「アッハッハッハ、可笑しいったらないわ!!私はただ、ふぅと息を吹いただけなのに、あなたったらゴミ屑みたいに転がっていくんですもの!!
…………ふぅ、あなたに期待した私達が馬鹿だったわ。か弱い女の私にいいようにされて何も出来ない弱虫に、魔王の相手が務まるわけがないじゃない。三年間も戦いが長引くはずだわ。」
「どう?悔しかったら何か言ってごらんなさいよ!……言えるわけないか、すっかり怯えちゃって可哀相っ。魔王は私が倒してきてあげるから、あなたはあの立派なお城に閉じこもっているがいいわ。
それじゃあね、弱虫毛虫のおチビさん」

そう言ってアネットが指を弾くと、皇帝の身体は再び吹き飛ばされ、今度は城門の側にポトリと落ちた。しかし彼女は、自分が今弾き飛ばした“虫”にもう何の興味も示すことはなかった。
早く帰って渇きと飢えを癒したい、そして……

(勇者ですら今の私には手も足も出ない……なら魔王が相手だって……きっと)

自分や世界を恐怖に陥れてきた魔王に、今度は自分が恐怖を叩き込んでやる。つい今しがた勇者を蹂躙したことで、そんな妄想すらするようになった彼女は、高揚感に足取りも軽く村へと引き返していった。

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ズズゥゥゥウウウン、ズズゥゥゥウウウン……!!

その巨大な足音が徐々に遠ざかるのを感じると、皇帝は吐血するのも構わず吼えた。
城門に仕切られていたおかげで、踏み躙られる自分の醜態を晒すことこそなかったが、あの大音量で騒ぎ立ててくれたのだ。民衆も何が起きたのかを悟っただろう。
ただの村娘に手も足も出ずに打ちのめされ、地位も名誉も、魔王を倒すという自身に課せられた使命すら奪われた彼は、唇を千切らんばかりに噛み締め、痛みと屈辱に耐えるのだった。









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蛇足ですが、アネットの身長はもとの人間の姿で160cm、最初の巨大化で50m(31.25倍)、国境線の争い時には約160m(100倍)、今回で300m(187.5倍)程とお考えください。
ファンタジーな世界観でメートルなどの単位を使うことに抵抗があったため、作中では●●倍といった表記を用いました。ややこしくなってしまい、申し訳ございません。