◆01・侵略者アカミちゃん


 巨大侵略者の初侵略から2週間が経つ頃、羽白煉瓦はいつものように警察署のオフィスに出勤していた。
「ん……。おい、羽白! ちょっと来い」 
 オフィスの奥に座る中年──煉瓦の所属する《警護課》の課長が呼びかけて来た。
「なんでしょう」
「上からの直々のお願いだってよ」
 そういうと、持っていた封筒を羽白の目の前に投げ置いた。羽白は「上から」という言葉に疑問を覚えながら封筒を拾い上げ、糊付けされてない口から中を覗く。手前の方に『調査』という単語が見えた。
「……《警護課》とは関係ない仕事に見えますが?」
「それだけおまえが期待されてるんじゃないか」
 ここ《陸中警察署》は陸中市の安全を守る警察官たちの拠点である。ビルの密集地の中にあるだけあって、高さ70mのビルで、中には《殺人課》、《交通課》、《国際課》、《危険物課》などの様々な課がある。その中でも煉瓦が所属する《警護課》は、要人を安全を守るのが本来の仕事のはずだが、今回のようにそれとはまったく関係のない仕事がときどき舞い込んでくることがある。
 だが、そもそも煉瓦は1年前に《警護課》に異動してから、一度も本来の仕事をしたことがなかった。別に世の中が謝って済むほど平和な訳じゃなく、仕事が彼を避けるように、同じ課の警察官に分けられただけである。その理由は彼自身、よく分かっていた。
 煉瓦は自分のデスクに散らかる、ゴミの隙間を手で払いのけて、ペンケースぐらいしか入っていないバックを置く。煉瓦のデスクは蠅が寄りつきそうな異臭がするカップ麺やスナック菓子の食い散らかしや、用済みの書類が不法投棄物の山のように積もっていた。ただし、そのほとんどは彼のものではない。舞い上がる埃にとなりの刑事が厭そうな顔をするが煉瓦は気にしなかった。多分それだけではないだろうが。
(期待されてる? ありえない)
 バックを置いて、立ったまま封筒の中身を取り出した。中には“調査”について書かれた文章が1枚あるだけだった。概略を読み込むと確かに“期待”されていたようだ。
(……僕のそれが狙いというわけか)
 羽白はバッグを持ち直し、すぐさまオフィスから出ていった。誰にも見送られることもなく。


      *   *   *


「覚えてなさいよ~! ……えっぅ」
 侵略者はまたも侵略に失敗し逃げ出した。今日で4回目である。
 煉瓦は街の外れの農地のバス停にいた。陸中市北部の大平野に作られた農地である。すでに廃線のバス停であった為、車掌が見つけるべき看板が撤去されている。煉瓦は所々塗装が剥げたベンチに座り、好物のアップルパイを味わいながら、ラジオの芸人混ざりに繰り広げられる“侵略実況”を聴いていた。側にはスポーツ誌で見かけるような姿をしたダークブルーのバイクが立てかけてある。
「やっぱり、弱いね……」
 煉瓦はぼそっとつぶやく。煉瓦は何本か怪獣など巨大な生物が登場して街をめちゃくちゃになる映画やマンガを何作か見たことがある。どの作品の生物もあの侵略者の大きさには及ばないもの、街を破壊し、人をパニックに陥らせ、人類最強の武力である軍隊と激闘を繰り広げた。
 しかし、この侵略者はまるで真逆。
 2回目は、勇敢な一人の警察官の蚊の刺されに及ばないはずの、射撃に泣き出して逃げた。
 3回目は、散歩中の可愛い犬代表のチワワに、吠えられまくって泣き出して逃げた。
 4回目は、群がる男たちの、カメラ責め(主な被写体はパンツ)に泣き出して逃げた。
 映画とは逆にパニックに陥らされ、マンガとは逆に武力に圧倒され、挙げ句の果てには、畏怖するはずの住民達からも翻弄される。そのため世間では、侵略者を見るためだけのツアーができてたり、写真集が出版されたり、“侵略実況”のように侵略者の愛らしい様子を、ひたすら語り続ける番組までできていた。ほんの二週間で本人の知らず知らずのうちに、ピチピチの売れっ子アイドル以上の人気者になっていた。
 だが、保安が目的である警察や軍隊は侵略者の存在を許してはならなかった。
 そう、羽白煉瓦刑事の任務、それは“侵略者の調査”である。
 彼が受け取った命令書は“侵略者の拠点を見つけ、今後の計画について調べる”ということだけが書いてあった。ただし、それ以上の詳細や期日については一つもなく、ただ調べてこいということである。本来なら軍の諜報部がやりそうな任務を、なぜ、警察官である煉瓦に任されたのかは疑問には思った。それでも、煉瓦にとっては、最近の自分の待遇を考えれば予想がつくことだった。おそらく僕の殉職が狙いだろう、と。
 そして、この任務。彼にとっては利害が一致した。
(警察官らしく、終われそうだ……)

「ひっぐ…………うぅぅっ」
 今日も圧倒的な惨敗(敗因はまたもや犬)を喫した侵略者が、情けない泣き面をしながら、煉瓦のいる農地に踏み入れた。巨人はバス停から畑数十枚ほど、離れたところにいた。だが、抑えられているとしても一歩一歩がダイナマイトの爆発のような足踏みは、バス停のまで響かせていた。とはいえ煉瓦は一度、侵略者のすぐ足下でそれを体験しているため、たじろぐことはなかった。
 情報通り、侵略者は《照道山地(てるみちさんち)》の方へ向かっていった。照道山地とは、陸中市の北に見える景色を一人占めする、広大な山地である。基本的には、自然学者以外の人が奥の方に行くことがないし、山地内に集落が無い。だから、人が居ることはまずない。
(なるほど、そこなら拠点を置くのは持って来い場所だね……)
 煉瓦は、侵略者が泣きべそをかきながら、山地に駆け込んでいくのを見届けると、最後の昼食のアップルパイの余韻があるうちに、フルフェイスのヘルメット被り、スターターを回し、バイクを走らせた。まず、侵略者が残した足跡を確認しに向かった。煉瓦は足跡で侵略者の進路を追うつもりだ。
 足跡に近づくと、その巨大さがはっきりわかる。長さ約20mはする足のクレーター。セダン車を5台、縦に並べたのとほぼ同じだ。侵略者は道路の上を歩いていたようだったが、横幅が足りず、はみ出した分畑を踏みつぶしていた。
「やっぱり大きいな……」
 煉瓦はその侵略者の巨大さに改めて驚嘆する。これだけ巨大で力がありそうなのに、どうしてあんなに弱いのだろうかと不思議に思いながら、バイクを足跡の進行方向に向ける。これが人生最期の仕事。すがすがしく死にたい。心にそうつぶやきながら煉瓦はエンジンを吹かした。

 麓の山森の中に入った。自生している木は、どれも空を突き破るように高く伸びており、そこから生える枝葉によって、差し込まれる日光もわずかしかなかった。その木の屋根の中で、帯状の露天になっていた部分があった。足跡と足跡を結ぶ線のちょうど真上にあったから、侵略者が払いのけてできたものだろう。おかげで足跡の間隔が長くて、次の足跡を見つけるのに苦労しなくて済む。路面も根っこで盛り上がってるところを避ければ、楽に走ることができた。
 追跡をしながら、煉瓦は自分の死に方について考えていた。
(あの足に潰されるのだろうか……)
 煉瓦は最初の侵略による被害を思い出してた。目と鼻の先に落ちてきたあの足。そういえば、侵略者の無惨に地面と同化したテーブルチェアー。木製だったから壊れるときは“パキッ”と爽快に感じる悲鳴がするはず。あの時は聞こえただろうか。──いや、頭の“パ”の音も聞こえなかった。悲鳴を上げることもなく、あの木の道具達は死を迎えている。なら苦痛も感じなかったのか? あんな瞬きする暇もないすぐのことだ。感じなかったに違いない。苦痛を感じないなんて安楽死のよう──だが任務中に強大な敵の前で死ぬのだから、遺書代わりに大女優と結婚するぐらい幸福な死に方だろう。
(死の際に、なんて贅沢をしてるんだろうね……)


      *   *   *


 木漏れ日に赤みがかかるころ、地形は最初とは一変していた。
(あ、甘く見てた……)
 まずいことに、見上げれば木々の高さが麓のものより、かなり高くなっており、根本を見れば直径が10mもありそうな、自然遺産レベルの巨木だらけになっていた。不都合なことに帯状の露天が無くなり、足跡の発見が難しくなっていた。今のところ3回も足跡を見失い、もと来た道を戻っている。また、地面も起伏が大波のように激しく、バイクがモトクロス以上の激しく跳ね動き、今まで慎重さと疲労が重なってペースがかなり落ちていた。標高の変化と日暮れによる気温低下も、いつもの春服の体にストレスを貯めていた。この森に何度も来たことがあるという自然学者が、トップアスリートのような体格だったことを思い出し、タフさがなければこの大森林を巡ることはできないと、煉瓦は全身で痛感していた。
「ん?」
 ふと目の前に、巨大な黒い物体が見えた。同じような風景の中を休まず走っていた煉瓦にとっては、一筋の光に見えたかもしれない。
 煉瓦は目の前まで寄り、ヘルメットを脱いで、バイクを降り、物体を調べるために直接近づいてみた。その物体は少し光沢がある黒色で、家一軒より巨大だった。煉瓦はこの物体が見たことがあるような気がした。上の方を見ても模様らしいものがなく真っ黒だった。見下ろすと、下の辺に楔形のような切り欠けに気付く。
「……コレは靴かな?」
 煉瓦は思い出した。侵略者の足下で見たものを。これは侵略者の靴の片方であると確信したが、同時に疑問が浮かぶ。
(持ち主はどこに?)
 その疑問は間もなく解決した。
「ふっふっふ。引っかかったね、こびとさん!」
「──!」
 背後から聞き覚えのある声。ここのところ、コミュニケーションが減っている煉瓦が、聞き違えることはなかった。
(侵略者だ) 
 不意を突かれながらも、冷静さを取り戻し、すぐさま彼は後ろに首を振る。しかし、対象が見つけられなかった。
 だが、それは突然落ちてきた。
 隕石かと錯覚させた、巨大な黒い物体。侵略の靴が履かれていないほうの足──黒のニーソックスに覆われた右足が視界を埋め尽くした。この足が煉瓦の足場を震わし、立つことがままにならず、尻餅を付いてしまった。
 一度間近で体験したとはいえ、この巨人の存在感には改めて絶句するしかなかった。そこら中の巨木なんて、引っこ抜いてバットのように振り回してしまえそうだった。自分のことを『こびとさん』と呼ばれ、実感できた。
(そうだった。この侵略者は巨人なんだ……)
 侵略者から見れば、この青年など地面を這う虫程度しか見えないだろう。街中の泣き虫っぷりを吹き飛ばす、圧倒的な迫力に、煉瓦はまた冷静さを失いつつあった。
 立ち上がって見上げれば、ビル以上の高さの先にある巨人の顔が、愚者を見下すようにのぞき込んでいた。夕暮れのせいで、可愛いと評判の顔も影に塗りつぶされ、獲物を虎視眈々と見つめる怪物にしか見えない。
 怪物は、上から凄むように話しかけてきた。
「こびとさん、さっきからわたしのあと付けてたでしょ。最初からバレバレだったよ」
「な……。どうして?」
 煉瓦は仕事の癖で、率直に聞いてしまった。
「だって、ブルンブルンって音がしてたし、それと焦げっぽいにおいがしてたし、ずーっと後ろから聞こえてたんだよ」
「臭いと……音で」
「そーだよ。すごいでしょ♪」
 侵略者は侵略始めのように強気で上機嫌であった。先ほどまでぼろぼろに泣き叫んでた様には見えない。
 なんて感覚なんだろうか。少なくとも煉瓦は2km以上は離れて追跡していたつもりだった。バイクだって爆音が響くような改造はしていない。サバンナアニマルのように優れた感性だ。これだけの怪物なのに、これだけのモノを持っているのに、何故、侵略に失敗するのだろうか。
「あとね、キミが何をしに追いかけてるかだって分かるよ」
「何をしに……だって?」
(まさか、人の心まで読みとる感覚まで備わっているのか?)
「ふふふ。教えてあげようか?」
 侵略者は胸を張って言い切った。

「わたしの家に忍び込んでパンツをクンクンしたり、寝てるとこ襲ってイチャイチャするつもりだったんでしょっ!」

 煉瓦はまた絶句した。
 さすがに人の心までは読めなかったという事実。
 そして、一番の理由は、この予言の内容だった。
「パッ……ぼ、僕がそんなフシダラなことをするわけがない!」
 できなくても、自分の人間としての尊厳を守りたかった。
 だが、侵略者は確信していたようで、
「ふんっ。ウソはダメだよ。わたしに近づいてくるこびとさんはみんなパンツ目当てだったんだから!」
「確かにそうかもしれないが……」
 そういえば、犬に驚いてパンツが丸見えになったとき、ムードが一気に和んだような。煉瓦はあの視覚を支配した神秘的な光景を……。
(……って、今はそんなこと!)
「あー! 今わたしのパンツのこと、考えてたでしょ!」
「あ、い、いや! ちが」
「そんないけないこと考えるこびとさんは、特別に……わたしの靴下でペシャンコにしてあげる!」
「ちょ、ちょっとまがふっ」
 一方的な言い掛かり(一部除く)を弁明しようとするが、前から等身大の黒い鉄球のような足指が、跳ねて当たった。煉瓦はその衝撃をもろとも食らい、後ろに倒れてしまう。
 空の向こうから死の宣告が響く。
「ふふふ。さようなら、ヘンタイさん♪」
 侵略者の足がゆっくりと煉瓦に降ろされる。
 最初に感じたのは臭い。日中ローファーの中で蒸らされたはずなのに、ほんのり甘い匂いがした。
 次に感じたのは柔らかさ。なま暖かい毛布が包み込むよう覆われ、快楽に浸ろうとした。
 そして、最後に感じたのは、このすべての心地よさを忘れるほどの圧力だった。
「っ!」
 煉瓦は思わず噛みしめた。徐々に力が強くなる。布団の上に人が次々とのし掛かってきてるようだ。自分の骨髄があげる悲鳴をにダイレクトに感じる。いままでには味わったことのない中からの痛み。声を上げたくても口鼻が塞がれている。自分の小さな吐息すら、抜け出すことなど出来ない。全ての衝撃が、煉瓦の体の中に閉じこめられ、暴れていた。たい焼きを焼く型に本物の鯛が入り込んだら、きっとこんな感じだろう。そして、どちらも最後には死に迎えられる。
 結果的には、煉瓦の思い通りになったのだが、
(ヘンタイ扱いで、死ぬなんて……)
 生涯、正義の警察官として最期を迎えたかった煉瓦にとっては、この終幕は棺桶の中にエロ本と一緒に入れられるぐらい酷かった。
 だが、抵抗しようもなかった。
 仕方がない。もう、逃げられはしないのだから。
 煉瓦は自分のすべてを死に委ねるつもりで、目を瞑って、力を抜いて、五感が無を感じるのを、静かに待ち続けた。



 ……………………



 ………………



 …………



 ……



(……あれ?)
 妙だ。
 だいぶ待ったはず。
 まだ死んでいない。
 いつまで待っても痛みが加わり続いている。
 走馬燈効果で感覚がスローになっているのだろうか。
「……!」
 突然、圧迫がなくなった。
 侵略者が足を持ち上げたのだ。
 煉瓦は生きていた。元の原型もとどめていた。
(何が……?)
 煉瓦は何が起きたかを把握しようとしたが、痛みが残る身体では瞼を持ち上げることすら叶わなかった。
 暗闇から侵略者の声が響いた。先ほどよりも、驚くほどひっそりした声量だった。
「……起きないかな」
 心配しているような口調で語りかけてくる。
「……」
 侵略者は何やら辺りをがさこそと、手を伸ばして捜し物をしていた。そして、擦れる音が止むと、煉瓦の隣に見つけた何かを置いた。
「……ちゃんとおうち帰れるよね」
(……?)
 さっきとは態度がひっくり返っているようだ。あの圧倒的威圧感がどこにも感じない。
 その様子のまま侵略者はすくっと立ち上がり、
「……よーし、帰ってお風呂はいろーっと♪」
 と一仕事を終えたように気持ちよく鼻歌を歌いながら、この場を去っていった。

 ようやく、残痛が抜けた煉瓦は体を持ち上げ、周囲を見渡した。目の前にバイクがあった。侵略者が隣に置いていったものだろう。
(……潰されなかった?)
 侵略者は街中でいろんな物を踏みつぶしている。広場のベンチ、テーブル、屋台、道路にある標識、木、自転車、車まで、あらゆる物(人が含まれないのは奇跡だろうか)を地面にめり込ませ、ペーストにされてきた。たとえ、それが人だとしても例外ではないはず。地面を見渡すと、陥没によってできるはずの段差が殆どなかった。
(手加減されたのか……)
 侵略者の呟きによれば街に帰って欲しいようだったが、いまさら帰る気など毛頭無かった。また、そのまま森林奥深くで誰にも見つかることもなく、土に還ろうと考えたが、
(変態扱いで終わりたくはない……!)
 と、どうしてもあの巨人の思い過ごしを改めたくなった。
 身も心も風前の灯火であった煉瓦は、自分の最後の贅沢を叶えるべく、よろけながらも立ち上がった。


      *   *   *


 煉瓦は再びバイクで侵略者の後を追っていた。日もだいぶ落ちていて、足跡の識別が難しくなっていた。途中で背丈以上の草むらが立ちはだかり、回り道が出来そうになかったので、バイクを置いて擦れ切れそうな生身で進むことにした。直接草むらをかき分け、ボロボロの身体を前へ前へを押し出す。
 ふと、煉瓦の目に光が写った。夕日そのものでも、その反射でもない。植物のすき間から、うっすら見える。
(まさか人里があるのか?)
 まさか、そんなはずは、と思いつつ足を一つ一つかき分け進む。近づくにつれ光の輪郭がわかるようになっていた。そして煉瓦と光の間に立つ巨木とくらべて、明らかに巨大な光だ。
(縦に……すごく長い)
 光の発生源を確かめようと、とにかくかき分け進んだ。そして、障害をすべて越えると、その正体がわかった。
 ヘリコプターを使っても乗り越えられなさそうな、高くそびえる岩壁に、見上げても頂点の模様が全く見えないほど、巨大な穴があった。巨人が立ち入るには丁度良い大きさだ。
(きっと……侵略者の住処だ)
 煉瓦は早歩きになって洞窟に入った。穴の内外の境が平坦だったので苦なく進むことができた。
 そして、10歩歩くと、そこは世界一大きいドーム球場より大きい、岩壁の中とは思えないほどの、超巨大な岩の部屋だった。
 床は奇麗だし広い。地面は大理石の床のように、しっかり磨かれていて、自宅を歩くような感じだ。そのような床が、隅が見えないところまで広がっている。陸中市の住民が、全員集まっても収まるのではないかと思わせるほどだ。
 天井を見ると、ランタンのようなものが一つ、吊り下げられており光を発していた。大きさは比較物がなかったのでわからないが、この広すぎる部屋を端から端まで、太陽のように明るく照らしていた。外から見えた光の正体はあのランタンだろう。
 ほかには巨人が使うと思われる、木製のテーブルとイスが見えた。あたかも、自分の身体が縮んで、こぼれたパンくずを拾う虫になったと思えてしまう。この部屋にいると、いろんな感覚が狂ってしまいそうである。だが目的がある煉瓦の目には、それらは隅にある物にしか写らなかった。
(侵略者はどこだ?)
 煉瓦が通った入り口以外にも、道が2つあった。そのうち、片方は白いカーテンで、先が隠れている。もう一方はカーテンはないもの、先が洞窟の外と同じくらいに暗い。煉瓦は2つの道を見比べていると、
「~♪」
 カーテンの向こうから鼻歌が聞こえてきた。侵略者だ。
 煉瓦は、気持ちを前進モードから交渉モードに切り替えようと、深呼吸した。
(……ふう、よし。問題はこれからだ。どうやって説得するかだけど。……うん、出来るだけ奴の下着が見えないところで話を進めよう。これは絶対条件。……で、場合によっては相手から要求があるかもしれないから……、そうだね、これは全部通すつもりで。よし、後は…………)
 煉瓦の得意な脳内会議、つまり考え事がまとまった。あとは時を待つのみ。全ては自分の死のため、全ては自分の名誉のために、全てをぶつける準備が出来た。
「~♪」
 呑気に歌い続ける侵略者は、とうとうカーテンの前に立つ。そして、幕が引かれた。
(よし、来い! …………え?)
 交渉人、羽白煉瓦は戦慄した。
 そこには、街で見た黒ずくめの衣装ではなく、何一つ覆われていない、全身艶やかな肌色をした、高層ビル以上に壮麗な女性の裸体。
 街中では、少しばかりスレンダーな印象であったが、理想的な肉付きであり、特に乳房は、顔と身体、相応の大きさ、カーテンオープンでぷるぷると揺れ動くほどの大きさだった。
 所々、滴る水玉が、ランタンの光で眩しく輝く宝石となり、この巨大美少女を国立美術館の大取りを飾る以上に華麗に仕立てた。
「ぉぉ……」
 突然の芸術披露に、小さな客はうっかり感動を漏らしてしまった。
「ん? ……ーっ!」
 唐突の客人の声に気づき、巨大裸婦は自分の赤髪以上に紅潮した。濡れた赤髪を一束ずつ丁寧に、タオルで拭いていた手が止まる。
 互いにしばらくの硬直の後、先に放心から脱出した侵略者は、慌ててタオルと手で、乳房と股間を隠した。
「こ、こ、こびとさん……。どうして、ここにいるの?」
「そ、それは……」
 煉瓦は何かを言おうとしたが、余りに衝撃の出来事に脳がパンクしかけていた。
「……ふふふ。そっか、そうなんだ」
 侵略者吹っ切れたように頬を釣り上げて、口を開いた。
「ヘンタイさん。あなたはどうしてもわたしに潰されたいみたいだね。……いいよ。あなただけ特別大サービスで、この手でぷちってひねり潰してあげる!」
 怒りを含ませた巨人は、家をも掴めそうな巨大な右手で拾い上げようとしてきた。
(……ひねり……潰す)
 放心しかけで思考ができなかった煉瓦は、あっさりと摘まれた。
 巨人の暖かく柔らくて、手を円周の半分しか回せないほどの巨大な指。煉瓦は人差し指に寝かされ、親指で豆粒を押しつぶすように、全身を容赦なく押しつけられる。
「…………ッぐご!」
 全身からの激痛に煉瓦は目覚めた。さきほどの足よりは緩いもの、自分の体の中に埋まる骨、内蔵が上げる悲鳴を煉瓦は感じていた。
「ふふふ。ぐ~りぐ~り♪」
 指の圧迫はまだ、じわじわと強まり、煉瓦の身体が、練り物のように弄くり回される。巨人の指は一部分を徹底的に揉みくちゃにし、男の悲鳴が小さくなったら、攻め場所を少しだけ(彼から見れば胸から足)ずらして、練り直す。煉瓦はまったく動けない。マリオネットのようなら素人に逆らえる。
 その様子が楽しかったのか、巨人は自分の裸体を見られたことは、ほとんど忘れていた。
「ふふふ、苦しいでしょ? 痛いでしょ? ヘンタイさん。もし『アカミ様。これからは一生アカミ様の忠実なしもべになります』って言ったら、許してあげるかもしれないなぁ♪」
 巨人のご機嫌な忠告と反対に、煉瓦への虐げはまったく緩めていない。
「ぐ、はぁ……」
「それとも、『アカミ様の言うことはなんでも聞きますので命だけは助けてください』って言ってもいいよ♪」
 一応、煉瓦の耳に届いているが、彼には救いを求める道理がなかった。
 逃げ道があるのに無抵抗を貫く煉瓦の姿に、侵略者は怪訝な顔になりだす。
「じゃあ『アカミさまの足をキレイさっぱりなるまで舐めさせてください』でもいいから……ね?」
「ぅう……」
 全体的に力が慰め程度だが緩み始める。指の上の男の様子は変わらない。
「『アカミさま、裸を見てしまってごめんなさい』だけでもいいから……」
 また緩める。それでもまったく変化がない。
 いつまでたっても降参しない無力な男に、侵略者は涙目を浮かべ、ついに痺れを切らした。
「……『アカミちゃんのパンツをくんくんしたいです!』でも許してあげるかもしれないよ!」
「……っ?」
 この侵略者は一気に潰すつもりはなかった。煉瓦は朧気に条件を聞いていたが、巨人の指に圧迫されながらも口調の変化に気づくことができた。彼は最後の使命を思い出し、口から肺から気から声を絞り出した。
「……じゃ、じゃあ……これだけは…………っ、言わせてもらえないかな」
「あ。やっと降参するんだ♪」
 侵略者は曇った顔を晴らして、煉瓦が何十m下の地面に落ちない程度に力を緩めた。巨人のくりくりとした目に見つめられた煉瓦は、肺いっぱい息を吸い込んで全身全霊で訴えた。
「僕は警察官として君の目的を調べに来た! 断じて……断じて下着をあさったり、夜這いをしに来た訳じゃない!」
「…………けーさつかん?」
 一部、理解できなかったようだが、それでも本命は伝わったと煉瓦は思っていた。それでも、侵略者の疑念は晴れてなかった。
「……でも、着替えてるところ見たよね」
「それは偶然だ!」
「ふーん」
 煉瓦の必死さとは対照的な素っ気ない返事。
「……こびとさんはヘンタイじゃない」
「その通りだ」
「でも裸は見た」
「そ、そうだ」
「…………うーん」
 険しそうな顔をして考え込みだした。じっくり推理する巨人に被疑者は無罪判決を祈り、固唾を呑んで見守るしかなかった。
「──そっか! わかった!」
 そして、判決の時が訪れた。

「こびとさんはいつもはヘンタイじゃなかったけど、今日からヘンタイなんだね!」

「…………」希望が潰えた。
「だからこびとさんは、ヘンタイじゃないけどヘンタイなんだ! エッヘン、わたしってばスゴい♪」
(……お見事だよ名探偵)
 彼は訴え続けたかったが、満足げに胸を張る侵略者を呆れ返ってほめるのが精一杯だった。
 最後の主張すら流され、一方的な暴力で憔悴しきった彼は、目の焦点すらまともに合わせることもできない。
(もう潮時か……)
 もはや壊れかけのスピーカーのようになった煉瓦は、正真正銘、最期を迎える決意をした。
「……言いたいことは言わせてもらった。さあ、ひと思いにやってくれ!」
「……え」
 満面の笑みが一気に曇り、悪い電報を見たかのように侵略者は驚く。
「潰して……ほしいの?」
「……」
 志願者は頷く。
「…………なんで?」
「……死にたい。そう、死にたいからさ」
 煉瓦は狂ったように息を荒げながら語りだす。
「そうだ。僕はキミに潰され死ぬためにここに来たんだ。キミはあの時、僕に生きて帰って欲しかったようだったみたいだったね…………だけど、僕にはもう……、帰って……生きていく場所がないんだ。もう生きるのがイヤなんだ。その指でひねり潰すんだろう? もう未練はない。だから……」

「侵略者よ、僕を潰してくれ」

「──だよ」
「……え」
「──メだって……」
「…………?」
 口ごもっていて良く聞こえない。
「だから……」目に涙を浮かべながら、巨人は叫んだ

「『死にたい』って、……言うのはダメ!」

 今まで見たこともない、侵略者の悲痛の叫びに、煉瓦は耳を疑った。
 涙を呑みながら侵略者は、もう一度、口を開いた。
「だって……死んだら……もう、いなくなっちゃうんだよ。……好きな人に、もう……会えなく、なっちゃうんだよ……っ…………。だからね……だから……死にたいとか……ぐっ……言っちゃダメだって……」
「…………」
「ふぅー……っぐ…………」
 煉瓦は目眩がしながらでも、侵略者の顔を捉えることができた。
(……この表情)
 煉瓦はその表情に見覚えがあった。
 刑事である彼が少し昔に、何度も見たもの。
 犬が怖いとか、鉄砲に怯えてるとかじゃなくて、 親しい人が亡くなって、悲しくて、泣いてる顔。
 晴れた日も、雨が降った日も、
 朝でも、夜でも、
 現場でも、取調室でも、
 霊安室でも、葬式場でも、
 何度も何度も、彼の生涯の中で見てきたものだ。

 自分の顔を汚そうとする涙を、巨人は必死にこぼさぬようにこらえている。
「……えっぐ……ぐすっ」
「ど、どうし…………」
 煉瓦は話しかけようとするが、全身全霊が完全に抜けきった身体を支えることができず、
(…………た?)
 ゆっくりと、巨大な女の子の暖かな人差し指に、倒れ込んでしまった。