とある晩秋の日、山奥の寂れた道場に男が一人佇んでいた。
細身であるが筋骨隆々と鍛え上げられた上半身を惜しみなくさらし、
足にはカンフーシューズのようなものを履いている。

男の名はフェイロン。
彼はすでに一世を風靡した映画俳優でありながら、
なお真の格闘家への道をも究めんとして
ストリートファイトの世界へと足を踏み入れていた。

いつからか、どこからか。
ファイターたちの間では奇妙な噂が流れていた。
曰く、その道場には闘いの神が祭られている、と。
そこに足を踏み入れた者はすべて偽りの力を丸裸にされ、
ただ格闘家としての真価のみが問われることになる、と。
そして、この世ならざる光景を目の当たりにすることになる。と。

フェイロンはただ、呆然と立ち尽くしながらそのことを思い出していた。

彼の目の前には今、ひとりの女が立ちはだかっている。
肉付き良い体格。鍛え上げられた見事な脚線美。
チャイナドレスのような独特の衣装を身にまとい、
ひと目で格闘家のそれとわかるオーラを全身に漲らせていた。
そして彼女は、あまりにも巨大だった。比喩ではない。
フェイロンが小さくなったのか、彼女が大きくなったのか、
あるいはその両方か。いずれにせよ尋常な光景ではなかった。

女は先ほど春麗と名乗った。

フェイロンには聞いたことのない名前で興味もなかったが、
彼らふたりがこれから何をするのかはよくわかっていた。
格闘家ならば言葉は不要。ただその拳で示すのみ。

(だが、あまりにも大きすぎる…)

(このようなデカブツ相手に一体どう戦えばよいのか)

フェイロンが心の中で反芻している間にも、
その巨大な女、春麗は無言でじりじりと距離を詰めてくる。
圧倒的な存在感と圧迫感。
まるで夢のようにあり得ない光景なのに、
今このときが確かに現実であるということに疑念を挟むことができない。

やがて、フェイロンの眼前まで間合いを詰めたところで
春麗は不敵な笑みを浮かべながらゆっくりとしゃがみ込もうとしている。
小さいフェイロンにとってはまるで小山やビルが自身に迫ってくる感覚だった。
このままではまずい。
一瞬の逡巡の後、春麗の呼吸に合わせてフェイロンは足払いを見舞った。

「ホリャ!」

バキッ。

「きゃっ」

どすーん。

辺りはすさまじい地響きと土埃に見舞われた。

見事に決まった。格闘技は力だけの世界ではない。
これほどの巨体でも角度と呼吸のタイミングさえあれば、
逆に相手の力を利用して難なく浮かせて地に伏せることができる。
これが、フェイロンという男の真骨頂である。

「……しかし、なんてでかいんだ」

彼の目の前にはみっともなく投げ出された巨木のような二本の脚があった。
こんな脚で蹴られたらひとたまりもないだろう。

「うーん……」

むくり、と春麗が起き上がった。
彼女にとってはなにげない動作でも
小さいフェイロンにとっては大地が膨れ上がったような錯覚を抱かせる。
春麗の瞳は、このようなネズミか子猫ほどの小さな相手に
転ばされたことに対する不快と、同時に目の前の男の格闘家としての
卓越した技量に対する感嘆が入り混じり、複雑な色を見せている。

(ふふ、かわいいわね)

彼女は数瞬の後、いたずらっぽく笑いながら再びフェイロンを掴まえようと
しゃがみ込んで手を伸ばしてきた。

「覚悟はいいわね?」

全身の力で跳躍し、ひらり、とかわすフェイロン。

「お前に、俺を掴まえることはできない!」

春麗はすこしむっとした表情になり、巨大な脚を彼に方にブンブンふりまわした。

「くっ、虫けらみたいにチョコチョコと……!」

まともに当たれば、即、死。一瞬足りとも気を抜かず、ただかわし続ける。
やがて春麗の攻撃は止まった。その表情には軽い侮蔑があった。

「男のくせに……女の私が怖いのかしら?」

フェイロンの表情が急変した。

「なんだと……?」

「貴様、女の分際で……なめるなよ!」

「ホワチャ!」

言うと同時にその小さな肉体からは想像もつかないほど
空高く跳躍し、あっけに取られた春麗の顔面に渾身の踵落しを見舞った。

ペチッ。

「きゃっ」

クリーンヒットし、春麗の巨体が仰け反った。
頭に血が上り、冷静さを失った彼は力のみに頼っている。
尋常な相手ならばそのままノックアウトすることもできたであろう。
しかし、今は相手が悪い。

「よ……くも、女の顔を足蹴にしてくれたわね……」

春麗はすぐさま体勢を立て直し、
強張った表情で哀れな小男を睨み付けながら、
思いっきり上半身を沈めて腰をねじった。

(うわっ……)

その刹那、フェイロンの眼前に広がるのは、
自身の肉体の倍はあろうかという巨大な女の尻。
衣装のレオタードが褌のようにきつく食い込んでいる。

「やっ」

ずどん。

「ぐはぁっ」

間欠泉のごとく地下から天高く突き上げるように、
強烈な春麗の後ろ蹴りが炸裂した。
力任せの一撃。フェイロンはぼろ雑巾のように宙を舞う。

うすれゆく意識の中で彼は全身の骨が砕ける音を聞いていた。