『第二図書室の魔女』

 その日も、いつもと変わらないホームルーム開始の風景がそこにあるように見えた。しかし、木原の隣の机についている人間がいなかった。
「……佐藤は欠席か? 珍しいな」
 担任の教師が出席を取るのを一瞬だけ止める。佐藤の家から連絡はないらしい、とだけ告げ、またすぐ取り始める。こうして佐藤の不在は日常へと埋没した。
 木原は、怪訝な顔で体育袋がかかりっぱなしの無人の机を眺めていた。

「なあ桜田。きみ、佐藤について知らない?」
「……えっ?」
 授業の合間の休憩時間、木原はハードカバーを読むクラスメイト、桜田葉子に声をかけた。最近右目の調子が悪いらしく白い包帯を巻いている。背が高校生とは思えないほど小さく、着ている学校指定の紺のブレザーも袖が少しあまり気味だ。
「実はさ佐藤、昨日帰りに図書室寄って本返し忘れたって言って別れたきりなんだよね。携帯にかけても連絡ないし。これ外泊とかじゃなくて、なんか……事件に巻き込まれた、とか」
 木原の真剣なトーンに桜田は読んでいた本に栞を挟んで閉じ、椅子を鳴らして立ち上がる。
「……見てないよ。確かに昨日は第二図書室にいたけど、佐藤君は来なかったなあ」
「そうかあ……ん」
 木原に向かって立つ桜田の背は女子平均より著しく低く、高校二年生男子の平均よりやや高い木原よりも頭ひとつ小さいため、会話は自然と桜田が木原を上目遣いに見上げる形になる。

 なでなで。

「ちょ、ちょっ。恥ずかしいでしょ?」
「いや、毎回思うんだけど桜田の頭って撫でやすいところにあるよね。つい」
「っばかにしないでよもう!」
 手足を動かしてわたわたと暴れる桜田と彼女の頭を撫でる木原の姿は、高校生の兄と中学生の妹という風情だった。それを周囲が微笑ましい視線を注いでいる。
 
 *

 非日常的な事件に少しの憧れを持つタイプの少年だった木原は、佐藤の件でそれを期待し独自に調査を始めて見はしたものの、結果は芳しくなく、今は疲れて学校の廊下で壁にだらしなくもたれかかっている有様だ。
「なあ、妹よ。成果はどうだ?」
「ないに決まってるでしょ」
 いかにもやる気のなさそうに返事をするのは彼の高校一年の妹、理沙だ。木原の指示で理沙も聞き込みの真似事に参加させられていたのだ。喉が渇いたらしくペットボトルのお茶をごくごくと飲んでいた。飲み終わった後にぺろりと自分の唇を舐めるのが彼女のクセで、それが蠱惑的と言えなくもない。

「で、お兄ちゃんのほうは?」
「んー、あるにはあったけど」
 聞き込みの真似事をした結果、どうも急に行方不明になったのは佐藤だけではなく、校内に他に数名いるということが判明した。ただ、肝心の佐藤について、黒服の男に囲まれていたとか、異次元の裂け目に飲み込まれていたとかそういった決定的な証言を得ることはできなかった。
「黒服の男とかいるわけないでしょ。漫画じゃあるまいし」
「うーん、でも現実は小説より奇なり、って言うじゃないか。ひょっとしたらおれたちの隣には魔法使いや異世界人が座ってるかもしれないんだぞ?」
「ラノベの読み過ぎだよそれー。あー、もうこんな時間だ。わたし先生に手伝いあるって呼ばれてるんだよね」
「……そうかい。薄情な娘だよ」

「おにいちゃんも適当なところで切り上げて帰りなよー」
 兄の戯言など素知らぬ顔で、ぱたぱたと理沙は廊下の向こうへと走っていった。木原はそれをただ見送るばかりだ。
「……やっぱ、事件は現場、なのかね」
 ぼそりと彼はひとりごちる。

 *

 木原が聞き込みを諦めたとき、すでに陽は沈みかけ校内の人はまばらになっていた。疲れた足取りで木原は第二図書室に向かう。
 引き戸を軋ませながら開ける。明かりはついていた。第二図書室は第一図書室には入り切らない専門的な蔵書を詰め込んだ教室となっており、一般生徒はレポート課題を済ませるとき以外はめったに立ち寄ることがない。

 第二図書室にほとんど足を踏み入れたことのない木原は、狭い教室にみっしりと敷き詰められた本棚とそれに並ぶ固く重苦しく分厚い表紙の本に圧倒される。
 窓が少ないことも、この部屋の独特な圧迫感を助長していた。明かりがついているということは人はいるのだろう。静謐な空気のなか、絨毯の上を音を立てないように気を払って奥へと進んでいく。
 本棚に隠れて入り口からは影になっている空間にある机で、桜田が本を読んでいた。脇にはピンク色の魔法瓶と、それから注がれたのであろう温かいウーロン茶が湯気を立てていた。

「……ん? どうしたの木原くん。佐藤くん探してるの?」
「よくわかったな」
「木原くんがこんなところに来るなんて、それ以外考えられないよ」
「それもそうか」
 木原は桜田の向かいの椅子へと座る。片目だけで本を読むのは辛くないのだろうか、と彼女の顔を覆う包帯を見ながら思う。
「なんか何人も佐藤みたいにいきなり消えてるらしい。怖い話だよなあ」
「……ん。そうかもね」
「なんか人事みたいに言うな」
「そりゃ実際人事だもん」
「お前自身がさらわれちゃったり、とか考えないのか」
「どうしたの木原くん。何が言いたいのわたしに」
 桜田は本から目を離し、片目だけで不愉快そうに木原を睨みつける。
「昨日、ずっと桜田はこの第二図書室にいたんだよな?」
「うん。放課後はずっとここで本を読んでたんだよ」
「……佐藤がこの第二図書室に入って、出てきたのを見てないって言ってる奴がいたんだよ」

 互いに目を合わせたまま、沈黙が続く。木原は緊張に汗を握った。
「……なにそれ?」
「だからさ。佐藤をさらったのは、ええと、お前が……」
 だが、木原は言葉を続けようとするとそのあまりのバカバカしさに声がしぼんでいった。学校に拉致を繰り返す謎の犯罪組織が潜んでいて、桜田がそれの手引きをしているなんてひどい妄想だ。口に出すのも恥ずかしい。
「はいはい、言いたいことはわかったよ」
 桜田はもはや呆れて笑いさえ浮かべている。
「でもそんなこと、わざわざ『犯人』の前で解説しないほうがいいよ。後ろに黒服の男が棍棒構えてるかもしれないよ?」
「その……すまん。今言ったことは忘れてくれ。」
「いーよいーよ別に。面白かったし」
 けらけらと笑う桜田は、学校指定のブレザーを着るというより着られているような小さな少女だった。木原は自嘲する。こんなのが犯罪に加担しているなんてのはフィクションの世界だけだ。

「……桜田も遅くなる前に帰れよ。行方不明の生徒がいるってことは事実なんだから」
 ばつが悪くなり、木原は背を向けて足早に第二図書室を後にしようとする。
 クラスメイトを疑った後ろめたさに少々うつむき気味に歩いていると、薄紫色の絨毯の上に何かゴミが落ちているのを見つけた。普段人の立ち入らない第二図書室のような部屋は、埃をかぶることはあっても目立つゴミが落ちていることは少なく、それが違和感を木原に感じさせた。思わず屈みこみ、摘み上げる。
「……?」
 それが何であるか、木原には一瞬わからなかった。糸くずや布切れのたぐいではなかった。数秒して、それが木原が教室に置きっぱなしの黒カバンにそっくりであることに気づいた。
 ただし、大きさは一センチ程度である。精緻なミニチュアだった。
 なんで、こんなところにこんなものが?
「なあ、桜田――」
 木原が振り返ると、いつのまにか近づいていたのかほんの数メートル後ろに桜田が立っていた。右手で、顔の包帯を外して。覆うものがなくなった彼女の右目は、紫色の眼光を放っていた。それを目にした瞬間、木原は胸がざわつくのを感じた。

「見つけちゃったんだ、それ」
「……右目悪かったんじゃ」
「なんでかなあ。なんでこうなっちゃうのかな?」
 無表情のまま桜田は木原へと近づいていく。彼女の右目は、反射と言うより発光していた。言葉も忘れじっとそれを注視していた木原は、突発的なめまいに襲われ、身体をよろめかせる。
「大丈夫? まあ、最初はちょっと感覚がおかしくなるんだよね」
 その声はたしかにクラスメイトの桜田のはずなのに、木原にはまるで別人が喋っているように聴こえた。めまいがおさまり、再び桜田へと向き直る。
「桜田……そんなに背、高かったか?」

 最初、木原はめまいで自分が膝立ちになってしまったのかと錯覚したが、彼は両足でちゃんと立っている。それは桜田も同じだった。背伸びをしているわけでも、何か台の上に乗っているわけでもなかった。
 それなのに、木原と桜田の目線は同じ高さにあった。少し前までは、木原のほうが頭ひとつ高かったはずなのに。悪い夢でも見ているように、足場がぐにゃぐにゃと揺らぐような気持ちの悪い感覚を木原は覚える。
「違うよ。木原くんが小さくなってるんだよ」
「そ、そんなことがあるわけ……」
「実際に小さくなってるんだからしかたないよ」
 再びのめまい。それは最初のよりも軽いものだったが、異常な事態が起こった。桜田の身体が、目の前でゆっくりとせり上がっていく――巨大化していくのだ。背が同じぐらいだった桜田は、今や木原を見下ろしている。
 木原の目線は桜田の胸元にあった。それだけではない。天井や本棚がどんどん高くなっていた。つまり、木原の視界の全てのものが巨大化しているのだ。自分が縮小しているのを認めざるを得なかった。

「ふふふ、かわいい大きさになったね。木原くん」
 桜田は手を伸ばし、難なく木原の頭をさすりはじめた。
「えへへ。なでなで」
 木原は、女の子に見下ろされながら頭をなでられるという倒錯的な状況に意味不明な恥ずかしさを感じ、顔を赤く染めた。呼吸が乱れる。逃げ出そうとするが、背中に左手を回され抱きとめられてはそれも構わない。桜田の表情は愉悦に歪んでいる。
「は、離せよ!」
「だーめ逃げちゃ。木原くん、会う度いつもわたしのこと撫でるんだから、こうして撫で返されたって文句は言えないでしょ?」
 そんなことを言っている間にも、桜田の顔や胸はゆっくりとではあるが上昇していく。木原の縮小が進んでいるのだ。ひと撫でされるごとに小さくなっていくような錯覚に、木原は必死になって逃れようとするが、小さな女の子の片腕にも抵抗できないでいた。

 桜田の腕が背中から後頭部へと移動し、木原の顔が桜田の小振りな胸へと押し付けられる。呼吸が苦しくなる。
「いっつもいっつも小さい小さいってばかにしてたよね。あれすごくいやだったんだよ。木原くんはやめてくれなかったんだけどね。入場券買う時だって制服着てなきゃ小学生扱いされるし。友達の妹には年下呼ばわりされるし。こんな歳不相応の身体じゃ彼氏なんてできるわけもない」
 桜田の吐き始めた恨み言は本気の情がこもっていて、木原の背筋を寒くさせた。首筋に添えられた桜田の左手に込められた力が強まり、痛みを覚える。
「ねえ。いつも見下ろしてた女の子に逆に見下ろされて頭をなでなでされるって、どんな気持ちなのかな。恥ずかしい? 悔しい? いつもわたしが感じてたのより強い?」
 木原は何も言い返すことが出来なかった。万力のような力――それは桜田の片腕の力なのだ――で顔を押さえつけられしゃべることが不可能だったからだ。鼻と口を桜田の胸に塞がれ、呼吸すらままならずもがく。
「くすぐったいなあ」
 桜田は撫でることをやめ、頭から手を離し両腕を木原の尻と背中に回す。がっしりと掴まれ、木原の両脚が地面から離れ、浮き上がっていく。

 顔が胸から離れ、ようやく呼吸ができるようになった木原は全力で酸素を取り込む。桜田から発せられる女の子特有の甘い香りに胸が一杯になる。桜田の大きな顔が、そんな木原の様子をいとおしそうに見つめている。
「もうやめてくれよ木原、離してくれよ! も、もう満足しただろ!」
 桜田はゆっくりと、小さな子供に語りかけるような口調で言った。
「……ねえ木原くん。きみ、今どれぐらい自分が小さくなってるかわかる?」
 その言葉に木原は戦慄する。自分が、桜田に抱きかかえられてることに気がついたからだ。慌てて両脚をばたばたさせてみても、地面をかすることすらできない。全体重を桜田の両腕に預けていた。
「赤ちゃんみたいだね、ふふっ」
「は、離せよ!」
「いいよ」
 桜田はぱっ、と両腕を離した。支えを失った木原の身体は投げ出され、絨毯へと落ち、全身を打ちつけてしまう。
「何すんだよ!」
「離せって言ったのはそっちじゃない」
 桜田は仁王立ちで、仰向けに倒れた木原を見下ろしていた。直立する桜田の姿が木原には一瞬ビルのように大きく見えたが、それが錯覚なのかもう木原にはわからない。
 ただ、桜田が怖かった。そのままの体勢であとずさって少しでも距離を取ろうとして……なにかが、どかんという音と共に木原のすぐ側へと落ちてきた。
 それは、A4サイズほどに巨大化した桜田の携帯電話だった。頭に当たっていたらどうなっていたことだろうか。本来なら指先サイズのうさぎを模したストラップが、手のひら大ほどにも大きく見える。つややかなダークブルーの塗装が、恐怖に固まる木原の表情を映していた。

「まだ逃げちゃだめだよ。立って」
 木原はのろのろとその場に立ち上がる。縮小は終わっていなかった。木原の目線は、もう桜田の腰ぐらいだ。
「こうして比べてみると木原くんの小ささがよくわかるね。わたしは大きなお姉さんかな」
 あれほど小さかった桜田は、今や四メートル以上の巨大な少女と化していた。桜田は立っているだけでまだ何かをしようとしているわけではないのに、その存在に圧倒されていた。それほど今の彼女は木原にとって大きいのだ。
「……なんで、おれを小さくするんだよ」
「見ちゃったからね。わたしの遊びの証拠を」
「おれは言いふらしたりなんてしない!」
「信用出来ないよ。それに、もう木原くん、わたしのことを友達だなんて思ってくれないよね」
 桜田が目を細める。
「事故だった。最初から小さくするつもりなんてなかった。佐藤くんだって、この遊びを見られてたりしなければ。……彼氏にも、友達にもなれないなら」
 見下ろす桜田の瞳がきらりと怪しく輝く。

「……玩具にするしかないよね?」

 全身に走った悪寒を、木原は縮小の前兆であることに気づいた。動悸が早まる。
「また……どこまで小さくするつもりなんだよ!」
「木原くんは、どこまで小さくされたいのかな? リクエストがあったら聞くよ。もっとも、わたしの目で見える範囲までだけど……あたし、この右目で見ないと誰かを小さくしたりできないし」
 木原の角度では、顎に遮られてもう表情を伺うことはできない。それが彼の焦りと恐れを増幅させる。
「ふざけるな、やめてくれ……もう、小さくしないでくれ!」
 桜田が自分の唇に人差し指を当てる。きっといたずらっぽく、愛らしい表情をしているんだろうなというのが木原にも察せられた。
「んー。わかってないよね、木原くん。きみはもう、命令もお願いもできる立場じゃないんだよ? きみ、今いくつだっけ」
「じゅ、十七……」
「高校二年生かあ。わたしも同じだよ。だけど、そんなに小さい高校二年生っているのかな? いま、木原くんは確実に身長一メートルかそれ以下だよね。さっきまで私が読んでた本、『学校保健統計調査』って言うんだけど、これによると高校二年生男子の平均身長は百七十センチなんだって。わたしだって中学一年生女子の平均以下だし、個人差はあるにしてもあまりにもかけ離れすぎてると思わない?」
「だ、だってお前が」
「言い訳はいいの。で、幼稚園児・小学生の項目を見るとね。五歳児の平均身長は一一○センチなんだって。幼稚園児より小さいんだよ? お相撲なんてとったら絶対勝てないよね。つまり今の木原くんは、幼稚園児以下ってこと」
 興奮した様子の桜田は、木原のことを同じ高校生として、いや同じ人間として見ているかどうか怪しかった。
「ま、これからもっと、赤ちゃんよりもちっちゃくなっちゃうんだけどね」

「うわあああああ!」
 発狂したような叫び声を上げて、木原は桜田へと突進した。より正確に言えば、桜田のスカートから伸びる、黒いニーソックスに包まれた両脚へと。本当に頭がおかしくなってしまったのか、「見えない相手を小さくすることはできない」と桜田が言っていたからその死角へと逃げたつもりなのか、それはわからない。
 もしかしたら、押し倒すつもりでタックルを仕掛けたのかもしれない。なんにせよ、全力の突撃は桜田のからだを少し揺らしたぐらいだった。背丈が桜田の半分ほどになってしまった木原の頭は、彼女のスカートに頭をすっぽり隠せてしまう。
 脚は片方だけで木原と同じぐらいの大きさがある。木原の顔が触れている桜田の下着は、かわいらしい水色のショーツだった。
「ちょっと、そこから離れてよ、えっちー」
 桜田の声はまったく動揺が見られない。木原の必死な行動も、彼女の目には戯れのアクセント程度にしか映っていない様だった。スカートの中身を見られているのも気にならないらしい。
「ま、いいんだけど」
 桜田は少し身を屈ませて、スカートの中にいる木原の姿を視界にとらえる。すると、彼の身体がみるみるうちに小さくなっていった。

「やめてくれえ!」
 木原の叫び声がスカートの内側にこもる。縮んでいくことを実感しながら何もできない。木原は必死で桜田の脚へとしがみつく。そうすれば落ちていく感覚に対抗できると思ったのかもしれない。だが、彼なりの努力には関係なくショーツの天井は遠ざかり、目線はどんどん下がっていく。小さくされる度に、人間性が剥奪されていく。そう木原は感じていた。
 悪寒が収まり、縮小が止まる。木原は、自分が脚に抱きつきながら何かに腰掛けていることに気づいた。全身がスカートの影になっていて暗かったが、それが桜田の少し灰色に汚れた上履きだとわかるにはそれほど時間はかからなかった。
 木原は言葉を失う。以前、教室掃除の時に桜田が机に乗って蛍光灯をハタキではたいていたのを思い出した。その時見た彼女の脚は掌に包めそうなほど小さく、なぜかそれにドキドキしたりもした。
 それが今は、木原が座れるほどに大きい。いや、彼女の足と同じぐらいに小さいのだ。靴下と上履きに二重に包まれた桜田の足は、木原が全体重を乗せてようやく少したわむ程度には強靭だった。目線はちょうど彼女の膝ぐらいの高さにある。

「いつまでそこにいるの?」
 不意に木原の身体が宙に浮く。前屈の姿勢になった桜田が、両手で木原の両脇を抱え上げ、持ち上げたのだ。木原の身体は、とくに苦労もなく木原の目の前、胸の高さあたりまで運ばれる。
「あっはは、子猫みたい」
 桜田は楽しそうに笑っていた。実際、木原に対する扱いも子猫、あるいは赤ん坊に対するそれのようだった。
「離……せ、よ」
「んー、今度離したらさっきよりもっと痛いと思うんだけど。記憶野も子猫スケールになっちゃったのかな?」
 そう言われて下を見ると、絨毯の地面がかなり遠い。五メートル近くあるように木原には感じられた。
「た、たかっ……」
「高くないよ? 人間にとってはね」
 そう言いながらゆっくりと木原を抱える両手を頭上へと持ち上げていく。
「や、やめろ、高い、高い!」
「え? これが本来の木原くんの視点なんだけど。木原くんは元の大きさに戻りたくないのかな。子猫みたいにちっちゃいままでいいってこと?」

「ち、ちが」
 確かにその高さは木原のかつての身長だった。かつてと違うのは、両脚が地面からはるかに遠くにあること、小さな女の子に軽々と抱え上げられているということ。それよりも、木原は先の発言に気になる所があった。
「も、戻せるのか……? 大きさを」
「んふふ~。戻そうかな。戻してあげてもいいんだけどな~」
「戻してくれよ! 頼む!」
「それは木原くんの態度次第かなあ。じゃあ今のうちにこの高さに慣れておかないとねえ」
 そう笑い、桜田は木原から手を離し、上向きに放り投げた。
「わああああああっ!」
「そーれ、たかいたかーい!」
 何度も木原はボールのように桜田の両手と頭上を往復させられた。何度も全身がひっくり返り、ズボンのポケットに入れていたハンカチや携帯電話が落下する。

「……おっとっと」
「ひいいっ!」
 木原が情けない悲鳴を上げる。桜田が手を滑らせ、両手で木原の身体を受け取りそこねたのだ。幸い、木原の手首をつかむことには成功したので、墜落することはなかった。
 自分の手と桜田の手の大きさを比べさせられる格好になる。太い指だ。今の木原の手では握ることもできないだろう。全体から見れば少女らしい白く、もみじのように小さな手だというのに。
「やれやれ。木原くんにはまだ人間の高さは無理だったみたいだね」
 桜田は木原を抱え直し、机へと戻り椅子へと座り直す。もう、桜田が歩くだけでみしり、みしりと床を軋ませる音が木原には聞こえるようになっていた。実際には音として聞こえないほど小さいのに、縮んだ耳には増幅されてそれが聞こえるのだ。
 桜田は木原の身体をスカートの上、お腹の前に置いた。遠目からは人形をお腹に抱いている、何の変哲もない少女にしか見えないだろう。
「それじゃ、もっと小さくなってみようか。猫よりも小さく……そうだね、ねずみさんみたいな大きさはどうかな?」
 桜田は、そっと優しくおなかの上にいる木原の頭に掌を添え、撫ではじめた。
 もはや抵抗する気力もない。撫でられる度に木原は、桜田の身体の温かさと甘やかな体臭が濃くなっていくのを感じた。視界がぼんやりとにじむ。頭に乗せられた重みも、少しづつ強く大きくなっていく。机の上端が遠ざかっていく。

 ふと、首を上に向けると巨大な手があった。さっきまでは自分の頭より少し大きい程度だったものが、扉のように大きなものへと変貌していた。自分を片手で鷲掴みできそうだ。
「ねずみみたいにちっちゃくなった感想はどう?」
 桜田が天井になっていた手をどける。木原は立ち上がり、数歩膝の方向へ後ずさる。体重をかけてもたわまない深さ数十センチはあるスカートの皺が、歩行の妨げとなる。
「いや、まだねずみよりはちょっと大きいかな……十センチぐらい?」
 声がライブ会場のスピーカーを通したかのように大きく低く響く。仰ぎ見た桜田はとてつもなく大きい。上半身だけで小さな建物ぐらいあり、その影に木原の周囲はすっぽりと包まれていた。全身ではどれぐらいあるのか、考えたくはない。
「なあ……おれを、これからどうするつもりなんだ?」
「えー、何? 聞こえないよ!」
 桜田に大声で叫び返され、耳が割れそうになる。どうやら、ここまで小さくなってしまうとボソボソとした喋り方では桜田の耳には届かなくなってしまうらしい。不条理さを感じながら、同じ内容を木原は叫び直した。
「あ、別に殺したりなんかしないよ? これ以下の大きさになっちゃうと、ちょっとしたことで首の骨が折れたりしちゃうから、気を遣わなくちゃいけないんだよね」
 けろっとした顔で物騒な言葉が飛び出してきて、木原は震え上がった。本人に怖がらせようとする意図はない様子だ。邪気の感じられない桜田の笑顔が、木原には逆に恐ろしい。
「こ、ころ……?」
「うん。何回かね」
 罪悪感を感じています、と言わんばかりに桜田は眉根を下げる。
「思ったより小人さんって華奢で、死んだりしなくても骨を折ったり潰しちゃうことってよくあるの。でも、小さすぎるのが悪いんだよ……? わたし、弱っちい女の子だもん」
 嘘の気配の感じられない桜田の口調に、木原は確信した。狂っている、と。
「木原くんをどうするか、って? そうだねー、うちで飼ってあげようかな? そんな大きさだとわたしが世話しないと生きて行けないもんね。いま、うちの水槽空いてるからそこでいいよね? ちゃんとトイレの世話もしてあげるよ」
「も、戻しては……」
「くどいなあ。あんまりうるさいと、もっと小さくしちゃうよ。叫んでも声が聞こえないぐらいにね」
「や、やめて!」
 そう絶望的なやりとりをかわしていると、本棚の向こうから戸を開く音が聴こえた。

「!?」
 桜田が身体を揺らして驚愕する。
「だ、だれかいますかー?」
 遠くから響く声は聞き間違えることもない、木原の妹、理沙だった。
「ちょっと、どういうことなの? 木原くん」
 桜田は明らかに狼狽していた。
「理沙ーッ! おれはここだー! 助けてく――」
「バッ」
 木原の全力の叫びは桜田の巨大な指に口を塞がれ、遮られた。
「木原くんって本当にばかだよね」
 呆れと苛立ちの混ざったような表情を桜田は見せた。木原を小さくしてから、始めて見せた怒りを含む感情だ。桜田は閉じていた太ももを開き、その間に木原を落とす。
 ふとももが壁になり、木原の姿はより外から見えづらくなる。ショーツが丸見えというレベルではないが、お互い気にしていないようだ。スカートをまくりあげ、椅子の上にいる木原が見えやすいようにして桜田は話す。
「助けてくれるって期待したんでしょうけど。そんなことは絶対にありえないんだよ。いざとなれば木原くんの妹を小さくしちゃえばいいんだから」
「!」
 狼狽するのは今度は木原の番だった。

「それはやめてくれ、頼む!」
「んー。どうしようかなあ。絶対にバレるわけにはいかないんだよね」
 木原が泣きそうになりながら懇願している間にも、理沙の足音はどんどん近づいてくる。桜田と理沙が対面するのは時間の問題だった。
「お、おれのことならいくらでも小さくしていいから、妹だけは!」
「へえ」
 桜田が口の端を釣り上げるのを見て、木原はとんでもないことを口にしてしまったと気づくが、もう遅い。
「木原くんのこと好きだったし、それぐらいの大きさで勘弁してあげようかと思ったんだけど。小さくしてくれ、だなんて頼まれちゃあしょうがないよね。それにそのほうが、見つかりにくいし」
 木原を見下ろす桜田の右目が、凶暴に輝いた。何度体験しても慣れない、浮遊感を伴うめまい。狭かった両脚の間の空間が余裕のあるものになっていく。ぎりぎりよじ登れそうなぐらいだったふとももの丸い壁が、どんどんせり上がっていき、そそり立つ城壁のごとくとなる。

<そこでおとなしくしてなさい>

 桜田の小さな、しかし大きなささやき声とともに、ばふっ、とテント布を広げるような音と共にまくり上げられたスカートが元に戻される。周囲が暗闇へと包まれた。完全にスカートの内側へと隔離されている。

 *

「あのー、この教室にお兄ちゃんが来ませんでした?」
 桜田を発見した理沙が彼女に問いかける。桜田は包帯を再び巻き付け、椅子に座って読書中ですというポーズをとっていた。傍目からは、何の不審な点もない。
「え? わたしはここでずっと本を読んでいたけど、男子が入ってきたらすぐ気づくよ」
「おかしいな。お兄ちゃんなら最終的には事件は現場だ! とか言ってここに来るかと思ったんだけど。携帯も繋がらないし、どうしちゃったんだろ」
 途方にくれた様子で理沙は桜田の側面の椅子を引いて、それに座る。校内を歩きまわって疲れたのか、額には汗が浮かんでいた。
「たまたま電波の通じないところにいるんじゃないかな」
 涼しい顔で桜田は言う。もちろん、実際のところは携帯が木原ごと縮小されたせいで、電波の周波数が合わなくなっているだけである。
「まったくもう、探偵ごっこに付き合わされたこっちの目にもなってよね」
 辟易した様子で理沙は悪態をつく。兄が本当に行方不明事件に巻き込まれているとは想像もできない。一般市民とは、そういうものなのである。

 *

 スカートの内側の空間というのは思春期の男子が一度は夢想する空間だろう。しかし、小さくされてそこに閉じ込められた当人にとってはそれほど喜ばしい場所とは言えなかった。
 巨大な少女の代謝による熱気が逃げ場なく閉じ込められているため、身長三センチほどの小人にとっては非常に不快指数の高い場所なのだ。
 スカートの天井に覆われて数分、ようやく目が慣れてきた。両側のふとももの壁は五メートル近くあり、さらにこちらがわへ向けて反り返っているので登るだけで苦労するだろう。
 登り切った所で、スカートに遮られてそれ以上できることはない。正面方向のショーツにしてもそれは同じ事だった。
 興奮していないわけではなかった。両脚の肉に挟まれ、ぎっちりとショーツを盛り上がらせる巨大な陰部が鎮座ましましているうえ、少女の股間から発せられる体臭がフェロモンとなって木原のいる空間に充満しているのだ。だが、当の桜田本人がまったく気にしていないという事実に由来する、男、いや人間扱いされていないという屈辱感がそれに優っていた。

「くそっ!」
 腹いせに、ふとももやショーツを思いっきり蹴ってみる。だがそれは少しも凹むことはなく、逆に強靭なそれらは木原の蹴りを跳ね返した。巨体が身動ぎする様子すらない。あまりにも無力だった。
 耳をすませると、どうやら桜田と理沙は打ち解けてたわいもない会話をしているらしい。くぐもってよくわからないが、木原に関する愚痴を言い合っているようだ。腹は立ったが、そんな場合でもない。
 木原はここで座して桜田に囚われたままになるつもりはなかった。桜田が理沙に気を取られている今を逃せば機会はない。地面となっている、スカートの裏地の上を股間の反対、膝の方向へと走る。
 椅子の端から下を覗くと、数十メートル下へ地面が見える。ぞっとしない眺めだが、怖がっている場合ではない。同級生の少女のほうが、よほど恐ろしい。

 木原は意を決して、桜田の左脚、正確には左脚を覆うニーソックスにしがみつく。繊維に両手両脚をひっかけ、膝の側面部分からゆっくりと地表を目指して降りていく。ニーソックスを履いていてくれて助かった、と木原は思う。もし普通の靴下であったなら摩擦の少ないすべすべの脚を相手にすることになっただろうから。
 できるだけ下を見ないようにして、着実に脚を伝って進む。脚に接触することで脱出に気付かれないかが不安だったが、その様子はない。小さすぎて感じられないのだろう。
 前に公園でアスレチックを遊んだことがあるが、しがみつくソックスごしのやけどしそうな体熱と、スカートの内部ほどではないがほんのりと漂う独特の体臭が、これが無機的なアスレチックではなく女の子の体の一部なのだと教えてくれる。遠目に見れば、今の自分の姿は女の子の脚に取り憑いた卑しい虫けらなんだろうな。
 そう自嘲して木原は悲しくなる。オーバーハングになっていて足をかけにくいふくらはぎの部分は、正面に回りこむことでやりすごした。
 数分のようにも数時間のようにも感じられる降下のすえ、地上数メートルほどまで降りた所で足の甲の上へと飛び降りた。部屋ほどの広さの足の上から、そのまま側面へと転がり落ちることに木原は成功した。多少身体は痛いが、問題ないレベルだった。

「それにしても、でかいな」
 桜田の小さくかわいらしい足は、木原にとっては乗用車のように大きい。上履きを含めた足の厚みだけで二メートル近くはある。そこから伸びる脚はちょっとしたビルのようだ。数十メートル離れたところには、桜田とは別の、同様に巨大な脚が並んでいる。おそらくは理沙のものなのだろう。彼女も巨大になっているということは、やはり自分が小さくなってしまったのだと考えるほかない。木原は、まるでどこかの神殿に迷い込んだような錯覚に囚われる。
 机の下の広大な空間と、そこにそびえる二人の少女の脚が、例えようもなく荘厳に見えた。あまりにもこの空間は、木原の知っている日常とは隔離されている。ここがただ、二人の女子生徒が会話をしている足元というだけだなんて思えなかった。
 呆けている場合ではない。木原は薄暗い机の下の空間を、妹――の足を目指して歩き出す。

 木原はこう考えた。一人で第二図書室を脱出するのは自分にとって気の遠くなるような距離を歩かなければならない。脱出できたとしても、こんな虫のようなサイズで生き延びることができるはずもない。
 ならば、妹にくっついて運んでもらうしかない。気づいてもらうのが一番だが、桜田の目の前でそれは妹を危険に晒すことになる。
 気づいてもらうのは、妹が桜田の目の届かないところまで行ってからでいい。妹にくっつくちっぽけな兄、という想像に別のベクトルで惨めさを覚えるが、それについては割り切らないといけない。
 障害となったのは、木原の腰ぐらいにまで生えている草原のように広がる絨毯の毛だ。かき分けて進もうにも、意外と強靭でなかなかうまくいかない。強く力を入れないと毛を曲げることもできない。しかし、桜田と理沙、二人の足元を見るとこの頑丈な絨毯の毛を押しつぶし、毛の中に上履きが埋め込まれているのが遠目にわかる。いかに自分がちっぽけな弱い存在になってしまったかを再確認させられ、惨めな気分にさいなまれる。

 そんな苦慮と苦難を重ねつつ、どうにか木原は理沙の足元至近までたどり着く。両者に感づかれている気配はない。チャンスだった。
 理沙の雑な性格を反映して、彼女の上履きは桜田とは違い所々が黒ずんでいてやや汚い。靴下はくるぶしまでを覆うガーリィな薄桃色のソックスで、この露出した脚を登っていくのはかなり難しいだろう。木原は理沙の右上履きへと取り付き、よじ登り、足の甲の上で息をつく。あとは、理沙が席を立ち、帰路につくのを待つだけ――
 と木原が安心仕切っていると、いきなり木原のからだは宙へと投げ出された。数メートルの空中遊泳のすえ、地面へと落下する。柔らかい絨毯の毛がクッションになり、怪我はない。
 何が起こったのかと理沙の脚の方を見ると、彼女は右足を組んでいた。木原の存在に気づいたわけではない。ただ脚を組むという妹の何気ない行動に、木原が翻弄されただけだ。

 めげることなく木原が左足へとアタックしようとして、組まれた右足が頭上で奇妙な揺れ方をしていることに気づく。不気味な動きに木原が警戒していると――くぐもった轟音とともに、木原は吹き飛ばされた。
 木原が身体を起こして爆風のした方を見ると、すぐそこに例の上履きがあった。理沙が、脱ぎ捨てたのだ。もし、もう少し木原が前進していたならそれの下敷きになっていただろう。
 しかし、木原を襲う理沙の無意識の行動はこれで終わらない。木原が呆然としていると、上履きを脱いだ理沙の右足が、ゆっくりと木原めがけて迫ってきていたのだ。頭上の靴下に包まれたベッドよりも広い妹の足裏に、木原は身動きひとつとれないでいた。人間は、本当に恐怖すると金縛りにあったかのように動けなくなる。
 今の彼も同じだった。理沙の右足は所在なさげに空中でぶらぶらと揺れた後、固まっている小さな兄の上へとのしかかった。

 妹の足の下で銀杏の果実のようにすり潰される、ということはなかった。彼女はさして体重をかけていなかったのだ。だが、それでも木原は彼にとってとてつもない重量に圧迫され、骨を軋ませ誰にも届かない呻きをあげていた。木原を苛んでいるのは足の重さだけではなかった。数時間校内を歩きまわった理沙の足は汗をかき、上履きの中で蒸れていた。
 普通の人間が接しているぶんには気にならない程度の汗臭さなのだが、指先ほどの小ささになった木原の嗅覚にはそれが数十倍、数百倍にも増幅されて届く。それを至近距離でかがされているのだ。つんとした臭いが鼻を刺すどころではなく、全身を切り裂くように『痛い』。肺の中が妹の汗で湿った空気でいっぱいになる。
 意識は朦朧とし、昼に食べたものを吐き出してしまう。涙と鼻水がとめどなく流れる。のた打ち回りたいが、身体を押さえつける理沙の足がそれを許さない。
「理沙! おれが小さくなってここにいるんだ! 足を、足をどけてくれ!」
 そう妹に向けて叫びながら、自由になっている手で岩盤のような足裏を痛くなるぐらいに叩く。妹を巻き込まない、という殊勝な気持ちは消えていた。いつまでもここで妹の足に責め続けられていたら本当に命が危ない。
 だが、拳がすり切れるぐらい殴っても、弾力のある足裏の肉と靴下の二重の壁に阻まれ、ちっぽけな木原の存在は理沙には気づかれない。
 無意識の行動が兄を地獄のような環境へ送り込んでいることなど、妹は知る由もない。

 *

 理沙は、桜田と会話しながら空になったペットボトルを未練がましく口の上で逆さにして振っていた。歩きまわったら喉が乾いてしまったのだが、もう中身のお茶を飲み終わってしまったのだ。
 桜田の中身の残っていそうな魔法瓶がちょっと羨ましい。なんで兄のためにこんな苦労をしているのだろう。足も蒸れてしまったし、最悪だ。右の上履きを机の下で足だけを使って脱ぎ、足の裏を絨毯に擦りつけて掻く。足裏のかゆいところに、見えないが何かゴミのようなものが当たっていてちょうどいい。右足をそこを中心に往復させていた。

 そうしていると桜田がいきなり立ち上がった。かと思うと机の下に何か落としたのか、屈んでのぞき込んでいる。
「理沙ちゃん、ちょっとその足どけて」
 はしたなく足をこっそり掻いているのを見られ、少し恥ずかしいが言われたとおりにどける。四つん這いに机の下に潜り込んだ桜田は、それを摘み取った。
「ありがと。消しゴム落としちゃって」
「あ……すみません」
 先輩の文房具を足蹴にしていたことに申し訳なくなるが、桜田は特に気にしていない様子でつまんだものをブレザーのポケットに放り込んでいた。
「ちょっと、お手洗いに行ってくるね」
 
 *

 桜田は女子トイレの個室に入ると、扉を閉め施錠し、ポケットから木原を取り出すと、足元へと置く。その姿は、消しゴムに隠れられそうなほど小さい。
「妹さんの足裏は気持ちよかった? 木原くん。涙流してよがってたみたいだけど」
「……」
 三センチの大きさになって見上げる直立した桜田の姿は、まるで摩天楼のようだった。背後の扉の下の隙間から逃げられそうな気もするが、とてもそんな気力も勇気も木原には残っていなかった。
「お、おれの負けだよ桜田。お前のペットにでもなんでもなるから、許してくれよ……」
「それが、ご主人様に対する態度なの? 違うでしょ、木原くん」
「え……?」
 桜田の表情は木原には高すぎて伺うことはできないが、サディスティックな笑みを浮かべているだろうということは容易に察することができた。
「もっと、わたしに飼われる喜びを表明したりしないの?」
 木原の目の前で、桜田の巨大な右足が爪先立ちになり、これみよがしにくねくねと動き出した。その動きに巻き込まれただけでも、木原の命はなくなるだろう。

「ぺ、ペットにしてくれてありがとう、桜田……さん」
 ドスンッ! 轟音。桜田が右足を踏み鳴らしたのだ。その振動で、木原は立てなくなりピンクのリノリウムの床へと這いつくばる。
「違うよね。考えてみてよ。目上のものに、そんな気安い言葉なんて使うかな? もう一回チャンスを上げるよ、復唱してごらん。『虫のようにちっぽけな僕を飼っていただき、ありがとうございます、ご主人様』ってね」
 木原は、恐怖と緊張で喉がからからに乾いていた。本当に殺される。そう予感した彼は、何も考えることなく、それを復唱した。
「虫のようにちっぽけな僕を飼っていただき、ありがとうございます、ご主人……様」
「おー、えらいえらい、よく言えた。拍手拍手。撫でてあげよっか? と言っても、今の木原くんを撫でたりしたら潰れちゃうねえ。指よりもちっちゃいんだもん」
 木原は、自分の中の人間性が無の闇へとかき消えていくような感覚を覚えていたが、弛緩した雰囲気の桜田に、もうこれ以上ひどい事をされることはないと油断していた。
「さてと、めでたくわたしのペットになれた木原くんだけど――」
 言うなり、桜田は右目を覆う包帯を再び取り払った。
「罰を与えなくちゃね」
 もう何度目かわからない悪寒が、木原の全身を駆け巡った。

 *

 ついさっきまでの木原は、桜田の胸元までを視認することができた。それより高い身体部位は、もやがかかったようにしか見えなくなっていた。身体の大きさに対する認識能力の限界なのだろう。それが今は、ちょうど桜田の膝よりも上がぼやけている。

<これが逃げようとした罰だよ>

 桜田の声ももう、どこから響いているのかわからない。上からなのは確かなのだが、左からであるような気もするし、自分の内側から発せられているようにも思える。
 上履きの厚みは、もう木原の身長の何倍にもなっていた。片足だけでタンカーのように大きい。膝部分までだけで高層ビルの如き大きさだ。
 地鳴りのような音が上空から響く。それは、桜田が屈み込むことに伴う衣擦れと大気が移動する音だった。教室のように広い顔が一気に認識可能な距離にまで近づいてきて、それだけで木原は恐慌状態になる。
 上を向いた掌が、木原の前に差し出される。乗れ、ということらしい。最初、木原は側面から厚みが自分の体長ほどもあるそれを登ろうとしたのだが、掌の丸みが作るオーバーハングが思いの外きつく、何度も挑戦して無理だと悟った。
 その様子を、天にそびえる桜田がにやにやと見守っていた。指先側へと回り込んだ。小指から、丸い爪の裏側を足がかりに、なんとか登ることに成功する。
 道路のような広さのピンク色をした小指を掌方面に歩き、指の付け根の肉の盛り上がりに足を取られそうになりながら、ようやく中央付近のくぼみへと到達する。それだけで木原は汗だくになっていた。石鹸の匂いがただよう。桜田の手のものだろう。
 木原を乗せた手がゆっくりとせり上がる。桜田が立ち上がったのだ。木原の身体よりも大きい桜田の瞳が、教室のように広々とした掌の中心にいる木原を見つめていた。

<指先よりちいさいね、木原くん>

 桜田のささやき声が、お椀状に凹んだ掌の中に鈍く反射する。木原の頭が割れそうになる。

<もう、木原くんがどんな顔してるのかわからないや。三センチぐらいのときは、まだかろうじて人間だってわかってたのに。ねえ、わたしのこと、怖い? わたしはただの高校生の女の子なんだよ。だけど、木原くんみたいにちっぽけだと大怪獣みたいに見えるのかもね。……木原くんが、今ちょうど十ミリメートルぐらいの大きさだとしたら。だいたいわたしは身長二百メートル以上に見えるってことかな。すごいね、東京タワー並だよ。女の子の掌がそんな見晴らしいい場所になるなんて、ちょっとうらやましいかな。……ねえ、聞いてる木原くん? 返事できないの?>

 桜田の一方的な暴風雨のような声に、木原は返事できないでいた。ただ喋られるだけでも苦痛だった木原は、喉が枯れそうになるぐらいに声を振り絞って桜田へ叫んでいた。あまりにも小さすぎる木原の声は、桜田の可聴域の外にあったのだ。

<はあ、ちょっと小さくし過ぎちゃったのかな。反応がわかりにくすぎるや。……もう、木原くんをペットにするのはやめよう。妹さんに、返してあげる>

 ペットにするのはやめる、そう聞いて木原の顔が一瞬だけ希望に明るくなる。それは本当に一瞬のことだったけれども。

<だから、もっともっと小さくしちゃお!>

 木原の絶望の叫びが、虚空へと吸い込まれる。

 *

 歩きにくい程度だった掌のでこぼこが、今では丘のように姿を変えている。知能線や生命線が谷道のようにどこまでも伸びている。遥か彼方にそびえる数十メートルの高さの四つの塔は、一本一本が折り曲げられた指だ。

<んー、何回か試したんだけどここまでが限界なんだよね。人間を小さくできるのって。これ以上は認識不可能になっちゃうからかなー。今の木原くんの大きさ、ゴマ粒とどっこいどっこいだもん。……一ミリぐらいかな? さっきの十分の一だね>

 ごう、ごうと、嵐のような風が吹いている。それは、桜田が言葉を口にするたびに、息をつく度に木原へと襲いかかる。木原は桜田の吐息に吹き飛ばされないように、小さな体をさらに小さく屈めなければならなかった。

<虫みたいにちっぽけだって自分で言ってたけど、虫さんに謝ったほうがいいと思うよ。アリさんやダンゴムシさん、木原くんのことを見たらエサだと思っちゃうよ。ちょうちょは旅客機みたいな大きさになるのかな?>

 空気を切り裂く唸り音とともに、ロケットのような大きさの左手の人差し指が腹を上に向けて迫ってきた。潰される、と思った木原だが、そのすぐ目の前で巨指は静止した。

<妹さんのところまで運ぶから、爪の中に入って>

 選択権などないことは思い知らされているので、木原は素直にそこへと入る。汚れと汗の臭いがきついものがあったが、妹の足裏ほどではなく、かろうじて耐えられそうだ。手に登るとき足がかりにした桜田の爪は、テラスのように広々としている。
 見渡すと、爪の左右の端にヘドロのような黒いどろどろとした物質が溜まっていて驚くが、すぐにそれは桜田の爪に溜まった垢だろうとわかった。桜田にとってはわずかな垢でも、埃のような大きさの木原にとってはこれほど禍々しく映るのだ。

<傾けるよ。しっかりつかまっててね>

 その言葉とともに、世界が揺れ動く。木原は必死に爪の端っこにしがみつく。そうしなければ、左右に溜まる垢の塊に落ち、同化してしまうだろう。それだけは絶対避けなければいけなかった。やがて、爪の入り口が完全に上を向ききったところでがくんと急停止し、その衝撃で木原は爪のヘリから手を離し、指の肉の床へと落ちる。白い爪のスクリーンの向こうに、桜田の顔がぼやけて見えた。

<あっはは、これが木原くんかあ。爪の垢みたいだね!>

 *

 妹へ返してもらえる。何かおかしいことを言われているような気がするが、あまり考えないほうがよさそうだ。
 木原は、何度も反故にされた桜田の言葉をとても信じることは出来なかったが、信じるしかなかった。木原の生存の道は、それしかないのだから。
 この大きさで妹の元に戻ったとして、その先どうするのだろう。妹に飼わ……世話されることになるのだろうか? 桜田の代わりに、山のように大きな妹を見上げながら生涯を過ごすのだろうか。手乗り兄、いや、この大きさだと指乗り兄と言うべきかもしれない。ばかばかしい。
 そんな無意味な思索に爪の中で頭を巡らせているうちに、桜田は第二図書室へと戻った。

「あ、おかえりなさーい。紹介してくれたこの本面白いですね。借りてもいいですか?」
 理沙が座ったまま、『ゾウの時間、ネズミの時間』と題された新書を掲げていた。
「うん、いいよ」
 桜田は笑い、自分が座っていた席の前に放置した魔法瓶を手に取り、蓋のカップへと中身のお茶を注ぐ。ややぬるくなっているらしく、湯気は立たない。
「ところで、これ飲む? さっき、これを物欲しそうに見つめてたけど」
「あ、気づいてましたか、恥ずかしいなあ。喜んでいただきます」
「ええ」
 桜田は右手にカップを取り、さりげない動作で左手の人差し指をその上でくるりと回した。

 *

 木原は状況を把握するのに幾許かの時間を要した。あたりの風景が一瞬にして、爪の中から巨大なプールへと変化していた。プールの岸は数十メートルの高さがあり、溜まっているのはお茶の香りがする温かい湯――木原は、カップの中に落とされたのだ。
 岸壁の端には、桜田の巨大な唇の跡がついている。それは、木原がこれからたどることになる未来を暗示しているかのようだった。

<はい、理沙ちゃん>
<どうもー>

 波打つ水面に、溺れないように必死に泳ぐ。頭上には、視界を埋め尽くす巨大な妹の顔がある。返すとは、そういうことだったのか。木原はついに自分の運命を悟ることとなった。
「理沙、おれはここにいるんだ! 気づいてくれ!」
 彼の叫びも虚しく、カップが上昇し、やがて傾けられる。カップの岸にのしかかるように、電車のように巨大な薄紅色の怪物が現れた。それは理沙の上唇だった。
「やめろ、飲むな、飲まないでくれぇ――!!」
 探している人物がまさか自分の手に持っているカップの中で泳いでいるなどとは想像もつかない理沙は、何の容赦もなくカップを傾け、ずずずとお茶をすすっていく。
 昔テーマパークで体験した急流下りの比ではない。木原は口とは反対方向に泳いでできるだけ離れようと試みるが、カップの中でどれだけもがいても無意味である。角度がどんどん急になり、ぷにぷにと柔らかそうな唇と硬質なカップの間から口の中身がちらりと見える。そこは入れば二度と出られない漆黒の洞窟だ。

 だが、驚くべきことに木原はまだ諦めていなかった。逆側に泳ぐことをやめ、自分をお茶ごと吸い込もうとする妹の上唇をじっと見据える。そして、飲み込まれるその瞬間、木原は最後の力を振り絞って建物のように巨大な唇へと飛びついた!
「……やった!」
 理沙がお茶をすするように飲んでいたからこそ成功した作戦だった。眼下では、自分がいたカップに残っていたお茶が一滴残さず理沙に飲み込まれていた。満足したようで、理沙はカップを机に置く。よかった。助かった。木原の全身から力が抜け――

 鯨のように巨大な、唾液に濡れぬらぬらと光る赤い舌がぬうと姿を現し、唇に張り付いていた木原を反応する間も与えずかっさらい、再び口の中へと消えた。

 *

「にしても、お兄ちゃん、どこに行っちゃったのかなあ」
 その兄をたった今嚥下した理沙は、誰にともなくぽつりとつぶやく。それを桜田は肩肘ついて冷酷に眺めていた。あの大きさでは、食道にひっかかりすらせず胃へと真っ逆さまだろう。
 そして今頃は理沙の胃酸で骨も残さず溶かされているはずだ。愛する妹の一部となって死ねたのだから、マシな逝き方だと言えるだろう。かっとなって小さくしすぎたのは本当に失敗だった。三センチぐらいに留めておけば、それなりに長い間飼って楽しめただろうに。
 まあしかし、小人のことなんて知らない女の子に不要なペットを処分させるのはなかなか面白い。今度は女子更衣室で脱いだ下着に放置してみるのもいいアイデアかも知れない。

(そのためには、わたしの遊びを目撃したり、背丈を馬鹿にするひとをまた見つけないとね)
 くすくすという忍び笑いを、桜田は漏らした。

(了)