白い壁が息をしている。 そんな風に思った。 風通しの悪いこの場所で、背後の白い怪物の吐く熱気に蒸されて、じりじりと汗を掻く。体力が奪われていく。 左右に広がる肌色の壁と蛇腹状の黒い天井が、ぼくの行動域を制限する。床は、天井のものと同じ、黒い素材だ。 白い壁の反対側は何もない。足場の縁から見下ろせば、はるか下にベージュの大地が広がっている。今のぼくにとっては十メートル近くある高さなのだろう。飛び降りる気にはなれない。 閉じ込められて、独特の甘酸っぱい空気をかがされ続けていると、頭がおかしくなりそうになる。スマホの電波は通じない。誰も助けには来ない。ここは魔女の領域だった。 より客観的に記述するなら、ぼくは数十分の一という大きさに縮小されて、桜田葉子という椅子に座っているいち女子高生の股間に閉じ込められているのだ。 * 第二図書室はいつだって人がいない。放課後も昼休みも。 このぼくと桜田先輩以外は。 ある昼休み。 引き戸をきしんだ音を立てて開くと、カウンターの向こうで椅子に座って本を読んでいた桜田先輩と目が合う。そばには蓋をしめられるタイプのマグが置かれていた。いつものようにホットの烏龍茶でも入っているのだろう。それから、分厚いハードカバーも。 「こんにちは。青浜くん」 桜田先輩の微笑みは、最近笑い方を覚えた人形のようだった。身体も華奢で小さく、学校指定のブレザーに着られているような有様で、指が袖から出きっていないようだった。真っ黒な髪が、肌の白さを強調している。 「今日もお昼寝に来たの? ここは本を読むところなんだけどな」 「こんなところで本を読む人なんて、先輩ぐらいですよ」 「うーん、たしかに。でもどうしてだろうねえ」 先輩がとぼけて笑う。 第二図書室は一般生徒はあまり読まない分厚い図鑑や専門書がみっしりと収められている。だから必要がない限りは、普通の生徒はまずここに立ち寄りはしない。 「お昼寝する前に、あの本取ってくれる?」 「はいはい」 それもまた日常茶飯事。指し示された先にあるのは、本棚の一番高い場所にある本。 踏み台でも何でも使えばいいだろうに、ぼくが来るとぼくに頼る。 もちろんぼくにはそういうものは必要ない。普通に背伸びして、命令されたとおりに分厚い本を取ってあげた。 そうして本棚を見ると気づくのは、ところどころ歯抜けがあるということだ。先輩以外にも借りるものがいるのだろうか? 先輩に本を渡すと、ご苦労とねぎらって、そなえつけのソファにごろんと横になって本を読み始めた。上靴のない、ニーソックスの両脚がゆらゆらと揺れる。 先輩は少なくとも図書室では、上靴を脱ぐ習性がある。靴が合っていないのだとか言いながら、ベージュのカーペットの肌触りを足裏で楽しんだりする。最高にだらしないときは、寝っ転がってじたばたしていたものだから、足をつかんでくすぐってやろうとしたら思いっきり蹴飛ばされたものだ。 ぼくもそこ座りたいんですけど。と言うと、青浜くんのくせになまいきだぞ~、などと分けの分からない供述をしてから、身体を起こして片方に寄ってくれた。ぼくは先輩の慈悲に感謝し、そのとなりに座って、購買で調達してきたメロンパンをほおばりはじめる。 「青浜くん。第二図書室は食べ物の持込み禁止ですよ」 「いります? メロンパン」 「うん」 「はい、あーん」 いつものやりとりだ。 先輩の小さなお口に、ちぎったメロンパンのかけらを近づけると、緩慢な仕草で口を開かれて、もそもそと食べ始める。子リスのような食べ方をするものだから、収まりきらないメロンパンのかけらがぽろぽろとベージュのカーペット敷きの床にこぼれていくのだった。それがまたおかしい。 「なんか、浮かない顔してますね。先輩」 そんな風に歓談していたのだけれど、今日の先輩はどこか気もそぞろで、ため息が多い。本を読んでいたかと思えば、足元とか窓とか、視線があちらこちらにさまよう。気にしないほうがいいのかとも思ったけど、気にしろといわんばかりの態度だったのでつい尋ねてしまった。 「魔法でも失敗したんですか」 「そんな感じ」 適当な相槌が帰ってくる。 「教師に目をつけられたんですか? こうして先輩が第二図書室を私物化できているのは、結界魔法を維持しているからですよね」 もちろん、本気で言っているわけではないけど、第二図書室は不人気な場所で片付けられないぐらいには人が訪れる気配がない。 怪談じみた噂話がある。 第二図書室には妖術を用いる魔女がいるという。 そんなばかな、という荒唐無稽な話だけど、笑い飛ばせない根拠もある。 桜田葉子という生徒は、十一年前にもいるという話。 第二図書室に行って、帰ってこない生徒がいるという噂。 日本人とは思えない、真っ赤な両の瞳。 なにより、ぼくが最初に第二図書室に脚を踏み入れたときの、言葉にし難い圧迫感。 実際、先輩が誰か他の生徒と仲良く喋っていたところなど、ぼくは見たことがない。 先輩を独り占めできているのはぼくだけだなどと、普段は能天気に考えたりもしているが。 「それとは違うかな」 ぼくの目を見て、先輩は否定する。 「ペットがね。死んじゃったんだ。私が大切にしてたペット」 「ペットが……」 告げられて面食らう。先輩がペットを飼っているなんて話は始めて聞いた。まあ、別に不条理な話ではない。ぼくになんでもプライベートを話すわけもないからだ。 「ご愁傷様です。どんなペットだったんですか?」 「えーと、鼠とか、ハムスターとか、テントウムシとか? そんな感じ」 「……なんで曖昧なんですか?」 「どれとも実は違うから」 適当に煙に巻かれているのだろうか。 首を傾げていると、内緒にできる? と囁いてきたので、ぼくは頷いた。 「ほんとうは、人間を飼っていたんだ」 「え」 「これぐらいの、大きさの人間」 目の前で、メロンパンの一欠片を指でつまんで見せてくる。ほんの数センチ程度だろうか。 それを、あーんと開いた口の中に運ぶのを思わず目で追ってしまった。うさぎみたいに小さな先輩でも、もちろんそんな大きさのものを口の中に納めるなんてわけがない。頬袋を大きくしたり小さくしたりしながら、咀嚼してこくんと飲み込む。メロンパンを味わって食べているだけの姿が、そのときは妙に生々しかった。 「何言ってるんですか」 「青浜くん、わたしの言う事信じない?」 「信じますけど」 先輩が眉根を下げてそんなことを言うものだから、思わずそう答えてしまった。 「ねえ」 先輩の赤い目が夕日よりも強くひときわ輝いた。 袖に包まれた手が、ぼくの頬を挟むように伸ばされる。ソファの上、身体をのけぞらせると、あろうことか先輩はそのままぼくの上体に覆いかぶさってくる。 こうしてのしかかられても、重さは感じない。ぬいぐるみに乗られているような気分だった。先輩の顔が近い。この甘い香りは、さっき先輩が食べていたメロンパンのものだろう。 「わたしのペットにならない? 優しくして、あげるから、さ。みんな最後には、喜んで、わたしに飼われてくれるんだ」 表情をそう変えないまま、とっておきの秘密を打ち明けるようにささやく。先輩のりんごのように丸い頬が、わずか赤みを帯びている。 飼われて、喜ぶ? 無茶苦茶だ。でも、冗談を言っているようにも見えない。 じわじわと、先輩が重さを増していっている気がした。 女の子の漂わせる独特な香りが、強くなっていく。 少しずつ目線が落ちてきて、意識していなかった女の子の柔らかさ、膨らみが、存在感を強くしている。 「あ、あのっ、あの……」 先輩が、ぼくの手に手を重ねる。 「ね。ほら。小さくなってる」 え? 見れば、もみじを思わせる先輩の掌は、ぼくの握りこぶしを簡単に包めるぐらいになっていた。柔らかさはそのままに。手を広げてみる。先輩のてのひらの指の付け根までの範囲に、ぼくの広げた手の爪の先までが収まってしまった。 何かがおかしい。 違和感の正体を突き止める前に、先輩の手がぼくの手首を握って、無理やり立たせる。 「わ、あ、あ」 手首が折れるかと思った。先輩にそんな力があっただろうか。いや、違う。 立たされているはずなのに、膝をついているような目線になっている。 ぼくの目の前に、スカートに覆われた先輩の腰がある。 視線を落とす。ぼくの上靴に向かい合う、ソックスに包まれた先輩の脚。 まるで軽自動車を前にしたダンプカーのようだった。 「どう? じつは、私は魔女だったのです」 誇らしげな先輩もかわいい。 悪夢みたいな状況だったけど。 後ずさる。そうすると背中に硬いものが当たった。 振り返ってみれば、図書室の戸。 手を欠けて引くところが、ずっと高い場所にある。 認めざるを得ないようだった。ぼくが超常的な力で小さくされているという現実を。 「あー、ちょっと、逃げないでよ。 逃げようとしたらおしおきしちゃうよ?」 逃げる。逃げるという選択肢があるのか。 先輩から逃げる必要なんてあるのか? 「……それ、逃げてみろ、って意味ですか?」 聞きたいことはそれこそ山のようにある。 先輩がこっちに、ゆっくり、ゆっくりと迫ってくるのが見える。 それに背を向けて、戸に向き合った。 確かに、逃げたほうがいい気がする。 ぼくのニ倍ぐらいの背丈になった先輩は、かわいさはそのままで、恐ろしかったから。 戸の取手に手をかけるのに、背伸びしなければならなかった。 「ん……!」 重い。まるで鍵でもかかっているかのように、びくともしない。 もちろん、そんなわけはない。 背伸びしていてはうまく踏ん張れないとはいえ、身体が小さくなっただけでこんなに力がなくなってしまうものなのか。 カーペットに、どす、どすと足音を立てて、先輩が接近してくるのを感じる。わざと足音を大きくしているのだろうか。 「もう、鍵なんてかけてないよ? 弱くてかわいいね、青浜くん」 天井の蛍光灯を遮って、先輩の影がぼくを覆う。 ぼくの背中越し……もとい頭上越しに、先輩が手を伸ばす。 あれだけ頑固だった戸は、片手の力だけで簡単に、からからと開いてしまう。 ぼくの両手を合わせたよりも広い面積の、先輩の掌。 それがぼくの頭に乗る。 「じゃ、おしおきするから。こっち、向いてね」 命じられた通りに、振り返る。 至近距離だと、もう先輩のスカートしか、ぼくの視界には収まらない。 「ずっとスカート見てるね。 中に興味ある? それとも、脚のほう?」 普段なら言わない過激なことばかり言っている。 怖くて、先輩の顔が見れずにうつむいていると、視線がそういう感じになってしまうのだ。 「じゃあ、こういうのはどうかな」 ぼくの頭をなでていた手が、後頭部へと移動する。 そして空いている手でスカートを捲りあげて、ぼくの頭をその中に強引に突っ込んだ。 「っ、な、っ」 「ふふっ……。青浜くんの鼻息が当たってくすぐったいね……」 薄暗い空間。顔が、柔らかい絹の生地に包まれている。その奥、ふっくらとした肌の感触もあった。花のような香りに加えて、どこか甘酸っぱいような、生生しいにおいがまじる。 「ほらっ、暴れないの」 「あぐ!」 先輩の足が浮いて、ぼくの足の甲を踏みつけた。骨がみしりと音を立てる。ほんのつま先部分だけで、ぼくの足の甲全体を覆うことができていた。 さらに体全体を押し込められて、両側から脚で挟み込まれる。お人形さんのように細っこいはずだった先輩の脚は、もがいてもまるで押し返せない。 信じがたいごとに、ぼくの全身が、先輩の脚だけで囚われていた。 こんな状況だというのに。顔を下着で覆われて。柔らかくはりのある脚で挟まれて。ぼくの男性部分は反応していた。 「まだ、これだけしか小さくなってないのに、全然抵抗できないんだね」 圧迫する力が弱められる。腰をぐい、と前に突き出されて、ぼくは尻もちをついてしまう。解放されたわけではない。 先輩が脚を持ち上げて、ぼくめがけて振り下ろしてくるのが見えた。両手で上半身をかばうが、無意味なことだった。 「わ、ああああ、っ」 再び視界が暗闇に包まれる。今度は足の裏だけで押し倒されて、仰向けになる。 先輩の小さな足が、ぼくの顔を踏みつけてなお、余っているらしく。丸い踵が、ぼくの胸をぐりぐりと突いた。 「青浜くんが、わたしに懐いてきたときから、ずっとこうしようって思ってたんだ。もう、我慢できなくなっちゃって。私のことを、単にちっちゃくてかわいい女の子だって思っていたでしょ? 魔女だなんて、知らずに」 息をしようとすれば、柔らかい足裏が吸い付いて。まるで先輩のソックスを吸っているようになってしまう。 「ふふ。青浜くん、わたしの足を一生懸命吸っちゃってる。どう。このにおい、好き? 前からわたしの脚、興味あったもんね」 上靴に閉じ込められ、蒸れた先輩の足。独特な匂いを放っていた。それはいい匂い、とはいえないはずのものだった。 「嬉しくなってる? わたしのこと、本当に好きなんだね。うれしいな。いつまで、好きでいられるかな?」 こんなのは、いけない。 いいようにされている、命の危機も感じていた。 でもそれだけじゃない。 ぼくは先輩と、こんなふうなことをしたかったわけじゃない。 そのはずだ。 どうして先輩は、こんなことを? 足がどかされる。 先輩がしゃがみ込んで、仰向けになっているぼくに馬乗りになる。 下半身が挟み込まれて、動けない。 「お、重いよ、せんぱい……」 「女の子に重いなんて言っちゃいけないんだよ?」 「そういう、問題じゃ、なくて」 あえぐ。足にかかる重さが、すでに痛みに化している。 地震で本棚やタンスが下半身に倒れこんでくるよりはマシなのかもしれない。 本棚やタンスはこんなにいい香りはしないし、柔らかくもないから。 「こんなこと、いけないですよ……。ぼくは、こんなこと、したかった、わけじゃ、なかった」 「そう。私はそうじゃない。これまでの時間はいつわり。今がほんとう」 これが先輩にとってのほんとう? 無茶苦茶な話だけど、なんとなくわかる気がした。 もしこんな荒唐無稽な力を持っていたら、ごく普通の人間とのやりとりなんて、茶番としか思えなくなるだろう。 だからといってこんなことを彼女のほんとうにしていいわけがないとぼくは思った。これも、無意味な考えかもしれない。 「いやだ!」 もちろんそんな憂いはこの切羽詰まった状況下で言葉の形をなさなくて、ぼくが発せた声はそれだけだった。 「何がいやなの。この大きさが? こうして小さな女の子に乗られて、身動きが取れない、ちっちゃな自分のみじめさが?」 「そ、そうだよ。いやに決まってるだろ!」 どことなく誘導されているような気がした。 「じゃあ」 先輩の瞳が輝く。それと同時に、ふっ、と圧迫が消えた。 一体何が起こったのか。緩めてくれたのだろうか。 そんなことを考えるヒマもないまま、転がるようにして立ち上がり、息せき切らせて駆け出した。 扉がダメなら、他に抜け道はないか。地窓とか。 そう思って、出口の反対、本棚の方へと向かう。 おかしい。 こんなに本棚は大きくなかったはずだ。 それに迫ってくる先輩の足音も、さっきよりも大きい気がする。 嘘だ。ありえないこんなこと。なんて言葉を何度繰り返した? 「逃げたりしなければ、その大きさで許してあげるのに」 巨柱が起こす風に煽られる。 見上げれば、先輩があっけなくぼくをまたぎ越しているのが見えた。 蛍光灯の光を背負って、身体を傾けてぼくの表情を覗き込んでいる巨大な先輩の姿があった。 影になっていても、唇が笑みの形を作っているのがわかる。 さっきは目線の高さにあったはずのスカートが、まるで屋根のようにそびえている。 「えい」 「ぎゃっ」 間抜けな声が出た。 ハンマーに顔をぶん殴られたような衝撃を受けて、後ろにひっくり返った。カーペットに転がる。 「わたしのパンツ見てたでしょ」 それが単に、先輩が膝をかくんと曲げてぼくにぶつけただけだというのは後からわかった。 「ね。もう終わり? おとなしく飼われる? それなら、これ以上小さくしないであげるよ」 ずん、と音が響いて、周囲が揺れた気がした。 膝立ちになって見下ろす先輩。 まだ、顔がじんじんと痛む。頭の中が揺れている。 「は……」 影の中で、先輩の赤い瞳だけが、らんらんと輝いている。 あの目だ。 あの目で見られると、小さくなってしまう。 もう、先輩に対する気持ちとか、裏切られた悲しみとか、そんなものが吹き飛んでしまっていた。 「はっ、は」 少しでも先輩から逃れようと。遠ざかろうと。 手を床について身体を起こし、立ち上がり、よたよたと歩き出す。 こんな巨人の近くに、もうできるだけいたくなかった。 せめて、あの本棚の陰まで走りたい。 ああでも、あんなに遠いはずがあるだろうか? 本棚を横切るだけで、学校のグラウンドを全力疾走しているようだった。 後ろから響く足音も、どんどん大きくなって。 ずん! すぐ横にとてつもなく重たいものが振り下ろされて、当たってもいないのにその衝撃で吹き飛ばされた。 びりびりと、余韻が体に残る。 建設用重機を思わせるそれを、見上げる。 奇妙に歪曲した黒いラインが、地面から伸びている。高さを増すにつれ、太さと力強さが増している。 新築のマンションを後ろから見たときよりも無表情で無慈悲だった。 それは先輩のニーソックスに包まれた脚だった。 傾いた脚のあの丸い膝まで、どれだけ手を伸ばしても届かない。 「どうしたの青浜くん。 わたしはただ、かがんで君を見下ろしてるだけだけど。 まるで人間じゃない何かが近くにいるみたいに、おびえちゃってるね」 現代建築のような膝の向こうから、赤い瞳がのぞき込んで、ぼくに語り掛けてくる。 現実を受け入れられない。 こんな巨大な生物がぼくを認識して、話しかけてくるという状況に耐えられない。 「だいぶ小さくなっちゃったね。 今ならもう、青浜くんのこと、丸ごと踏めちゃうかも。 まだ無理かな?」 丸ごと踏む、ってどういう意味だろう。 そう考えるまえに、物質的な現象が迫ってきていた。 のっぺりとした黒い天井が、ぼくに対してゆっくりと落ちてきたのだ。 「あ……!」 「ふふ。まだちょっと、余っちゃうね」 ぼくの胸から下が、すっぽりと先輩の足に飲み込まれていた。 重い。苦しい。まともに息ができない。自由に動けるのは、はみ出した首ぐらいだ。 先輩の指のそれぞれが、ソックスの中で爪を、ギロチンのようにとがらせていた。 「重い? 苦しい?」 「……」 うめきしか漏らせないぼくを、つまらないと思ったのか、かわいらしくも巨大な足の親指が、ぼくのあごをちょいちょいと器用につついた。舐めろとでも言わんばかりに。 「でもね、わたし、全然体重かけてないの。それどころか、体重がかからないように、重心をもう片方の足に寄せてるんだ。つまり、ちょっと乗せてるだけなんだよね。この意味わかる? わたしがちょっと体重をかけたら、どうなっちゃうか、わかるかな……?」 「あ、あ、ああああ」 体が絞られるような圧迫がかかる。全身がはじけてしまうのかと思った。これほどの力でさえも、この口ぶりでは、彼女にとってはほんのわずかに体重をかけているだけにすぎないのだろう。帯びている熱気となめらかさが、建造物でも巨大重機でもなく、女の子の一部分であるという現実を、いやがおうにも教えてくる。 「それにしても、わたしの足からはみ出るぐらい大きいなんて、生意気だね」 また、先輩の目が光ったかと思うと、ぼくにのしかかる脚が膨張して、たちまちぼくを飲み込んでいった。何が起こったのかわからなかったが、圧迫はうそのように消えていた。 「はあ、はあ、はあっ…」 重量から解放されて、必死に呼吸をする。圧迫を受け続けていた胸骨が息をするたびに痛む。狭いところに置かれていた。下に広がるのはカーペットの毛。頭上を覆っているのはぼくをさっきまで苦しめていたのと同じはずの、黒い天井。狭いが動くだけの余裕はあり、ぼくから見て左右に抜け出す隙間が開いていた。何が起こったのかはうすうすわかった。認めたくはなかった。 「あ、まだ生きてた。元気?」 空間から脱出すると、ぼくを見下ろして先輩が手を振っていた。 もう、首を痛くして見上げないことには、先輩の顔を拝むことはできない。 「もう、十センチちょっとってぐらいかな? すっかりわたしの足にも隠れるぐらいになっちゃって」 さっきまでいたのは、先輩の土踏まずの下だ。 縮みすぎて、そこで動ける余裕ができるほどになってしまったのだ。 そう理解すると同時に、めまいが襲った。 「どうしたの? 逃げないの? ペットになってもいい、って思った? それとも、もう逃げる元気もなくなっちゃった?」 ぼくをまたいで立つ。ふたつの巨大な柱が集合する場所を見上げると、白い布が恥ずかしいところを覆っているのが見えた。それがゆっくりと落ちてくる。 ぼくの上に座ろうとしていた。 「……!」 「え…? ゆるしてください、って言ってるの? すごいね。女の子の下着に向かって、つぶさないでくださ~いって、叫んじゃうわけ? おもしろいねえ!」 叫びは、白く厚みのある布に覆いかぶされて、吸収される。 「やっぱり小さくなった男の子っておもしろ~い。あれだけ見たがってたものが怖くなっちゃうなんてね。 ……んっ。ほらっ。カーペットと、わたしのショーツの間で、青浜くんがもがいてるのが、わかる……わたしの柔らかい場所に埋まっちゃってるねえ……ぇ、ふふ……っ」 恥ずかしい箇所であるはずのそこを、すべやかな布越しに押し付けられて。 熱と匂いで、甘ったるくヤスリがけされて。 入念に思い知らされた。 ぼくは先輩に逆らうことはできないと。 * 「じゃ、きみの好きそうな場所に案内してあげる」 そうして、ぼくは白い壁と黒い蛇腹の壁が作り出す空間――もとい、スカートの内側に閉じ込められる運びとなった。 ぼくがまったく抵抗できず逃げることもできなくなったのを見て、“合意の形成”と見たらしい。そんなわけはない。先輩の想定しているシナリオに、ぼくをつきあわせているだけだ。 「先輩……」 多分、図書室の椅子に座って机で本を読んでいるのだろう先輩に呼びかける。 「確かに、うれしくないって言ったらウソです。先輩に触れて、……パンツも見せてもらって。でも、ぼくは、対等な人間として……」 反応はない。 「先輩?」 ぐい、ぐいと、白い壁……ショーツをこぶしで押す。へこむ気配すらない。ぼくを踏みつけていた時もそうだけど、すっかり下着をさらすことに抵抗を見せない様子だ。本当に同じ人間だと思っていないのだろう。 「先輩……」 (好きなだけ触っていいよ?) そんなことを、この空間に閉じ込めるときに先輩は言っていた。 (かわいいペットだからね。それぐらいさせてあげる) そんなふうにも。 こぶしで触れているショーツごしに、じんわりとしたぬくもりを感じる。 先輩の体温と香りがするこの大きな柔らかい布に、全身で飛びついたら、どれだけ心地いいだろうか。先輩の香りにすっかり酔わされて、そんなことをまじめに考えるようになってしまっていた。いや、だめだ。そんなことは。それこそ、自分自身を、虫のような存在に貶めることになってしまう。 「先輩! ぼくは、あなたのことが……」 かわいそうだと思います。 いつ、そんな力を持ってしまったのかわかりませんけど。 そんな力を持ってしまっているから、対等な人間関係を築くことが、できないのかと思うと。 そんなことは言えなかった。 歯向かって罰されるのが怖かったのかもしれない。 先輩を万が一にも傷つけてしまうのが恐ろしかったのかもしれない。 (にしても、さっきから本当に何も言ってこないな) 読書をしているはずだったのに、ページをめくる音すら聞こえない。 リズム正しい、呼吸の音だけが静かな図書室に響いている。 (まさか、寝ている?) だとしたら、脱出のチャンスなのかもしれない。 上はスカートの天井でふさがれている。降りるしかない。 意を決して、ぼくは先輩のニーソックスにしがみつく。 巨木の幹のような存在感を放っているが、これもまた、先輩の体の一部分にすぎない。 繊維に指をかけ、下を見ないようにしながら、ゆっくり、ゆっくり、と、降りていく。ぼくひとりの体重がぶらさがっても、まるでびくともしない。もう、虫同然の重みしかないのだろう。 「……肌ざわり、いいな」 小さくつぶやくことで、余計意識してしまう。 降りながら、途中でバレたら。 少しでも足を動かされたら。 そんなことにおびえながら、必死で、少しずつ、降りていく。 降りさえすれば、なんとかなると思ってた。 そんなわけはないのに。 どれぐらいの時間をかけただろう。 ぼくは、なんとか、降り切った。 ほんの数十センチのはずの高さを、汗だくになって。 机の下の空間まで、たどりついた。 (大きい……) この大きさで、落ち着いて下から見上げると、自分がいかに小さく、相手がいかに大きいかというのがわかる。 ネズミぐらいの大きさだろうか? いまのぼくは。 冷静に考えて、この大きさで外に出て、どうしようというのだろう。 時間が経過したり先輩から離れたりすることでもとに戻れるみたいな、そんな甘い話があるんだろうか。誰かに、人間として認めてもらえるのだろうか、こんな姿で。 もう一度先輩、もといその下半身を仰ぎ見る。 動くことのない二つの柱がそびえている。指の一本ですら、両腕で必死に抱えなければいけない大きさになっている。存在するだけで、格の違いを見せつけられるよう。 ぼくが降りるのに使ったのは先輩の左脚(向かって右)。左脚は垂直に地面に立っているのだけど、右脚(向かって左)は外側に少し広がっていて、足が横倒しになってぼくにソックスの裏を見せつけるような形になっていた。 なんだか、少し寒い気がする。 小動物はエネルギーを失うのが早いみたいな現象がぼくの身にも起こっているというのか。 それとも。 もう、逃げるのはいつでもできる。 そんな言い訳を誰にというわけでもなく口にして、ふらふらと、先輩の右足へと近づいていく。このときもう、ぼくは正気を保てていなかったのだと思う。 横倒しになった足裏の高さは、およそ今のぼくの身長と同じぐらい。 丸みを帯びた指のひとつひとつが、愛おしく美しく見えた。 五指に身体を添わせ、ひときわ大きい親指に頬を寄せる。 「先輩、すきなんです。先輩、どうして」 語りかけていると、それに応えるかのように、目の前で先輩の足の親指がうごめいた。わっ、と叫ぶヒマもなく、親指と人差指(足の指もそう呼ぶのだろうか?)の間にぼくの頭が巻き込まれた。 「あ、あ、っ」 何の前触れもなかった。不随意の動きだろうか。自由になっている手で叩いても、指をこじ開けようとしても、首を引っ張り出そうとしても、いずれもうまくいかない。ただただ足指の力を思い知るだけ。ぎゅうぎゅうとぼくの頭を挟み込む力がどんどん強くなっていく。溺れかけの魚のように、じたばたと脚が動く。何の意味もない。くるみのように、ぼくの頭が割られてしまう。女の子の指の力だけで、簡単に、ぼくの命が潰えてしまう。叫ぼうと開いた口に、ソックスの生地が入り込んで塞ぐ。匂いと、味。体温。ダイレクトにそれが入り込んできて、包んできて。ぼくは。あ、あ、あ。 (せんぱい、せんぱいせんぱい、せんぱい) 虫のように。足裏にへばりついて、指で挟まれて、窒息しそうになっている。そんな惨めな状態で、ぼくは。 (あ、あ、あ、あ、……) 制服のズボンを濡らしていた。 痙攣しながら、ぐったりと脱力していく。 ぼくを挟み殺そうとしていた指から力が抜けて、ぼくは糸クズのようにカーペットに落ちる。見上げた足裏には、ぼくの出した湿り気はついていなかった。 「全部見えてたよ」 空気を揺るがす声がした。 学校の校舎のようなスケールの椅子が唸りを上げて後方にスライドしていく。 かがみ込んだ赤い目が、ぼくを覗き込んだ。 「あ、せんぱ、あっ」 「きみは、自分がひとりの人間だと思っているよね」 「え」 「それは違うよ。きみは虫だよ。言葉ではどれだけわたしのことを思ってても、やれたことは、今までわたしが飼ってきた、あさましいペットと変わらないのだもの」 仰向けに転がったまま。 湿った下着が肌でこすれる、情けない感触を感じていた。 何も言い返せなかった。 「おおきいわたしのこと、好き?」 「…………」 「じゃあ、もっと大きくなってあげる。それから、今の、もう一回やって」 赤い目が輝いた。 * そう。 もちろんわたしは全部気づいていたよ、青浜くん。寝たフリしてただけだもん。 もっともーっと、小さくしてから、また踏んづけてあげた。 最初は足からはみ出るぐらいだったのに、もう指一本の下に隠れるぐらいかわいくなっちゃったね。 あ、違うか、そもそも最初はわたしよりも大きかったんだっけ? ともかく、踏んであげたらまた勝手に射精しちゃった。別に気持ちよくさせてなんてあげてないんだけどな。小さくなると脳が変になっちゃうのかな。 つまみあげて、スカートのポッケの中に一円玉があったから、それと背比べしてもらった。一円玉のほうが背が高かったよ。一円玉未満のアリさんだね~って笑ったら、泣いちゃった。かわいそ。 それで、またスカートの内側に閉じ込めてあげた。今度は、足の付根のところ……鼠径部っていうの? そこに乗せた。もう、わたしのショーツのワンポイントみたいなちっちゃさになっちゃったね。そこからスカートの裏側に降りるだけでも、一苦労みたいで。ひっしにショーツにへばりついて降りてた。射精もしながら。もっと大きかったときは我慢できてたのにね。せんぱい、せんぱいだいすき~って言いながら。バカみたいだよね。小さすぎてわかんないって思って大胆になってるのかな? 学ばないんだねえ。 それから、脚を伝って降りるやつ。さっきできたんだからもう一回できるだろってわたしは思うんだけど、高すぎて怖くてできないとか泣いてた。おもしろすぎてほんとに大笑いしちゃった。もう何度聞いても飽きないよね、小人のナマの泣き言って。 でこぴんの形で指を近づけたら、ごめんなさいって謝って、また私のニーソックスに取り付いた。今度はちんちんこすりつけてる余裕はなかったみたい。 もたもたしてるから、ちょっと焦らせようと思ってニーソックスの端を引っ張って傾けたら、そのまま転がり落ちていっちゃった。弱くない? うーん。 早くも飽きてきちゃったな。 そろそろ終わりにしようかな。 「うーん、ごめん。小さくしておいてなんだけど、ちょっと小さくしすぎちゃったね。ペットにするのも難しいから、お別れしようか。そろそろ、昼休みも終わるし……」 脱ぎ捨てていた上靴を拾って履く。ソックスならまだしも、靴を履いちゃったらもう手加減、いや脚加減はできない。 「最後に、うーんと小さくしてあげる」 青浜くんはその場から動いていなかった。わたしの目の力で、それをもーっと縮小する。一ミリぐらいかな。その上に脚を振り下ろして、ぐりぐりと躙った。 足を裏返してみても、血すらくっついてなかった。 うーん、感触すら無いのも命が終了する瞬間としてはあっけなさすぎて興奮するけど、ちょっとやりすぎたな。次は小石ぐらいの大きさにしようかな。 * 去っていくのを、ぼんやりと眺めていた。 戸の向こう、廊下に完全に姿が消えるのを認めて、ふうう、と息を吐く。 ベージュのカーペットだから、裸になると小人はそれに紛れてしまう、ということに正気なときに気づけていた。 靴を履いてぼくから目をそらしたスキに、上着を脱ぎ捨てたら、案の定そちらをぼくだと思ってくれたようだ。なんだかんだ言って、小さすぎると、ぼくのことを認識するのはなかなか難しいのだろう。それとも、あえて見逃してくれたのかもしれない。ぼくに対して、まだ情が残っていたりして。 とにかく、殺されなくて、よかった。 殺されたらもう、先輩の足指に触れることはできないから。 あのまま踏み潰されていたら、どれだけ気持ちよく死ねるかとも、思ったけど。 次の昼休みには、きっとまた先輩がここにくる。 いつものように上靴を脱いで。 そうしたら、晒されたソックスに、飛びついて堪能しよう。 ぼくの弱さを、非力さを、思い知らせてほしい。 上靴の中に入り込むのも面白いかもしれない。 そうしたら、先輩のおうちまで持ち帰ってくれるかもしれない。 先輩に見つかるかもしれない。 生き延びたぼくを褒めてくれるだろうか。 もう一度踏み潰そうとするだろうか。 つばを吐きかけて、溺れさせてくるだろうか。 これからの日々を考えるだけで、胸が躍った。 少なくとも、もう一度は、大好きで大きな先輩を拝むことができる。 先輩の前で、あさましい虫になれる。 「せんぱい。好きです。先輩」 先輩だけがあれば、どうでもよかった。 先輩の食べこぼしの、ぼくよりも大きいメロンパンのかけらに近づいて、まさに虫のようにかじりつく。 先輩の唾液が少しだけ残っている気がして、おいしかった。 (了) |