『エナ・ボックス』

 そこはひとつの楽園の形だった。終わることが前提にあった、としても。

 *

 隆太郎は、夢を見ていた。自分と、年下の女の子が一緒の部屋にいる。ふたりは服を脱ぎ、いっしょのベッドへと入る。そこでなにをしているのか、自分でもわからない。ただ、温かくて、気持ちよくて――

 *

 高いアラーム音が、いっさいの攻撃性を排除した、円形のクリーム色の部屋に響く。窓からは、白い光が差し込んでいる。太陽光ではなく、人工的に照射された明かりだ。
 中央のベッドで眠っていた隆太郎は、緩慢な動作で枕元の目覚まし時計のスヌーズを押し、起きあがる。午前六時。規則正しい、気持ちのいい目覚めだった――股間の違和感を除けば。

「また、やっちゃった……」
 掛け布団をどかし、寝間着のズボンを下ろすと、トランクスがべっとりと白いもので汚れていた。憂鬱な気分でそれを脱ぎ、手近なビニール袋に入れて縛る。これの処分を考えるのは後にしようと隆太郎は決めた。
 両親によるとこれは夢精と言うらしく、病気ではないらしい。ここ最近、数日に一度はこれに悩まされていた。
 洋服ダンスから着替えを取り出し、寝間着からそれに着替える。

 スライド式の自動ドアを越え、リビングへと向かう。テーブルには、すでに隆太郎の父と母が着席していた。二人とも、絶やさずやさしげな笑みを浮かべている。
「おはよう、隆太郎。朝ご飯できてるわよ」
「おはよう、お父さん、お母さん」
 毎朝どんなに早く起きても、不思議なことに両親が朝食を用意していないことはなかった。いただきますの挨拶をすませ、三人はトーストにベーコンエッグというごく標準的な朝食を摂る。
「ごちそうさまー」
「ごちそうさま」
「それじゃ、今日も勉強がんばるね」
「ええ」

 食事をすませると、隆太郎は席を立ち、参考書とノートを詰めた鞄をしょい、家の玄関へと向かう。学習の時間だ。
 玄関を出ると、そこには美しいが人工の芝生が一面に広がっている。少し向こうにはきれいな人口の泉が、その反対側にはドーム状の小さな建物が見える。そこが『教室』だ。
 上を見上げても、そこには空はない。太陽のかわりの球体状の照明が、これまたドーム状の天井の頂点で輝いていた。
 隆太郎は『教室』のドームへ入る。そこには、学習机やPC、テレビにプロジェクターやステレオスピーカー、図鑑の詰まった本棚など、およそ学習に必要なものはすべてそろっていた。
 隆太郎はひとつしかない机へとつき、参考書とノートを広げて今日のカリキュラムへと取り組みはじめた。

 *

 六浦隆太郎は、学校に行っていない。それどころか一度もこの『函』と呼ばれる、半径百メートルほどの大きさになるドーム状の空間から出たことがない。物心ついたときからずっと、である。
 隆太郎は先天性の重大な病にかかっている、というのが両親の説明だった。隆太郎自身にはその自覚はないのだが、両親が言うからにはそうなのだろうと納得している。
 感染のリスクがあるために今は郊外に建設された施設、『函』に隔離され、治療法が確立されるまでは外に出られないらしい。小動物や虫といったあらゆる生物は函にはいない。これは、抵抗力の低い隆太郎がさらなる病にかかるのを防ぐためだという。
 治療法の調査の一環で隆太郎は毎日両親の手で血液や尿を採取させられ、毎日試薬を投与されていた。だが、これまで良い意味でも悪い意味でも、隆太郎の身体に変調は怒らなかった。

 そんな境遇に、隆太郎は不幸を感じることはなかった。『函』内に限定された生活を退屈に思うことはあれど、孤独ではない。両親は常にやさしいし、友達だっている。勉強だってできる。
 一度でいいから『函』の外の世界を知りたい……そう夢想しないわけではなかったけれども。

 隆太郎は学習の間の休憩時間に、無線ヘッドセットをつけてコンソールを操作する。するとブン、という音とともに部屋の隅の装置が起動する。数秒後、そこにはひとりの、十歳ぐらいの年頃のロングヘアの女の子が現出していた。
 隆太郎と同じようにヘッドセットを着けている。タンクトップにスパッツという、スポーティーな格好が長い髪と少しアンバランスだ。隆太郎の今朝の夢に出てきた少女が、同じ姿をしていた。
「おはよう、隆太郎。今日の勉強、調子はどう?」
「うん、おはよう。今日もばっちりだよ絵那」
 二人は挨拶を交わす。実際に絵那と呼ばれた少女がワープしてきたわけではない。よく見ると、絵那の姿は少し透けている。精巧なホログラムなのだ。彼女は別の場所に実在しているが、隔離された『函』の中に入ることはできないため、立体映像を伴う通話で隆太郎と会話をしている。ホログラム通話は電力の消費が激しいため、一日に三十分までと規定がされていた。

 狩生絵那は、隆太郎が両親以外で唯一コミュニケーションをとれている人間である。両親が、同年代の友人を作れない隆太郎を不憫に思い紹介してくれたのが彼女だ。
 隆太郎より五つも年下なうえ異性ではあったが、絵那とはすぐに問題なく打ち解けあい、以後数年にもわたってこうしてホログラム通話をしている。幼なじみといってもいい。
「ねえねえ見て見て隆太郎。ラメ入れてみたのー」
 言われて絵那の指を見てみると、確かに桃色のきらきらとしたものが爪に貼られている。小学生なりのお洒落、ネイルアートだ。絵那によると、小学生ですでに本格的な化粧を始めている子もいるらしい。
「うん。かわいいよ」
 隆太郎はあたりさわりのない答えを返しながら、絵那の頭をなでる。なでると言ってもそこに本当に絵那がいるわけではないので、触感もなく素振りだけである。それでも絵那は嬉しそうにひとなつっこい笑みを見せる。
「えへへ、ありがとー」
 正直、女の子のお洒落なんてよくわからない隆太郎だったが、ちょっとしたことでも宝物を自慢するように話す小さな絵那の姿が、隆太郎には愛らしかった。

 などと、普段のようにたわいもない会話をしていると、ふいに絵那がじとっとした目付きになる。
「ところでさあ隆太郎、なんだか最近ちょっとボクを見る目つきが妖しくない?」
「え、えっ?」
「なんというかさー、おっぱいとか、おしりとか?」
「ご、ごめん……。いやだった?」
「うーん、嫌っていうか、まあ、一般的には失礼にあたるよね?」
「そうだったのか……ごめん」
 絵那は肩をすくめてみせる。隆太郎は、一般的な教養は修めているものの、どこかふつうの少年とはずれているところがあった。それは特に、男女間において顕著になる。

「ひょっとして……今日も、しちゃった?」
「……うん。夢には、絵那が出てたよ」
 隆太郎は、少し気まずそうにしながらも正直に話す。
「……それって、やっぱボクに欲情してるってことだよねえ」
「そうなるんじゃないかな。アレするようになったのって、絵那のおっぱいやおしりの発育がよくなりはじめてからだし……」
「……隆太郎って、いくつになるんだっけ?」
「十五。もうすぐ、誕生日がくるから十六、かな」
「ご両親には教えてもらってないの? それぐらいの歳の男の子がボクみたいな歳の女の子に欲情するのって、世間では病気って扱いなんだよ」
「病気」
「そう。心のね」
「そんな……ぼくは、こんなにも絵那にさわりたいのに。これも、悪いことなの?」

 隆太郎が苦悩する。彼は、両親から様々なものを与えられてきたが、与えられなかったものもある。それは、ポルノだ。男女の交友について教えてくれたのは純愛ものの恋愛小説やマンガ程度で、互いに愛することについてのすばらしさを漠然と知った程度だ。
 思春期に得るはずだったものを得られなかった彼は、自分にとって唯一の異性であるようやく第二次性徴を迎えた少女に対して、初めての性的欲求を向けるほかなかったのだ。

「だってさ、絵那。考えても見てよ。ぼくは、ここにいながらにして西欧の建築様式も、南米の野生動物のことだって学ぶことができる。だけど、いくら学んだって女の子のおしりとか、おっぱいとか。そういったものの手触りについては、一生わからないんだ」
「隆太郎……」
「別に、ぼくはもうあきらめてるし、十分に幸せだと思ってる。だけどもしぼくが病にかかっていなかったら、絵那に触れることだってできたんだろうなって思うと、少し、寂しい」

 隆太郎の吐露に、絵那は眉尻を下げる。少し考えて、絵那は提案した。
「……ねえ。キスしてみない?」
「えっ?」
 驚いたように絵那の顔を見つめる隆太郎。心なしか、ホログラムの彼女の顔は赤くなっているように見えた。
 唾を飲み込み、絵那のホログラムの前に向かい合う。正面に立ってみると、彼女は小さく、華奢な体つきだ。自分と違って、あらゆる体のパーツが曲線で構成されている。
 これは、お互いの年齢の差だけでは決してない。男の子と、女の子の違いだった。保健体育や生物の学習をしていなければ、自分と絵那は違う種の生き物なのではないかと疑ってしまいそうなぐらいだ。

 マンガで見たのと同じように、隆太郎は絵那の小さな肩へと腕を回す。質量を持たない立体映像なので、実際に腕を乗せることはできず、空中で停止させるような形になる。
 ぎこちなく、ゆっくりと二人の距離がせばまる。隆太郎の心拍数はどんどんあがっていく。きっと絵那もそうなのだろうけど、ヘッドセットは胸の高鳴りまでは拾ってくれない。もちろん、匂いだってしない。
「ねえ、ボク、ちゃんと隆太郎に対してまっすぐ正面に向けてる? 映像の送信側だと、隆太郎に対する厳密な位置や向きってわからないんだよね」
「うん。大丈夫だよ、絵那」
「そう、よかった」
 そう笑うと、絵那は背伸びをして、隆太郎の唇に唇を合わせ――背後へと、すり抜けた。

「はい。おしまい。――満足、した?」
 隆太郎は少女の映像へと振り向く。満足そうな笑みを浮かべていた。
「うん。とても」
「……もし、病気が治って外に出られたら。そのときはいくらでも触らせてあげるよ。キスだって、おしりだって、おっぱいだって、……だって」
「え、最後なんて?」
 返事はなかった。彼女のホログラムは消えていた。一日三十分の期限が終わったのだ。
「……ありがとう、絵那」
 音も匂いも触感もない、ままごとのような口づけだったけれど。

 *

 二人が『キス』をしてから一ヶ月後、隆太郎に十六歳の誕生日が訪れた。両親はそれを豪華な食事で祝った。
 パーティが終わった後、片づけの終わったリビングのテーブルに、隆太郎は着席させられていた。対面する両親は、いつになく神妙な顔をしている。
「隆太郎、改めて十六歳の誕生日おめでとう。もし、隆太郎の病気の治療方法が見つからないままこの日を迎えた場合、父さんたちは隆太郎に伝えなければならないことがある」
 髭を蓄えた、中肉中背の隆太郎の父親が言った。
「何それ?」
「一つは、父さんと母さんのこと。……今まで隠していてすまなかったが」
 父は一度、ここで言葉を切る。
「私たちは、本当の親ではない。隆太郎の両親は、おまえが物心ついたときにはすでに不幸な事故で死んでいる。私たちは……それに似せて精巧に作られた、ロボットなのだ」

「……は? 何それ? 言ってる意味がわからないよ」
 本当の親じゃない? ロボット? まるで絵空事を耳にしているかのようだ。
「いいから聞きなさい。いままで私たちは、本当の両親に変わっておまえを世話し続けていた。しかし、それも今日で終わる。『父』と『母』は今日、『函』とともにすべての機能を停止する」
「ちょっと、冗談はやめてよ。ねえ、母さんも何か言ってよ!」
 隆太郎は『母』のほうを見る。だが、穏和そうな『母』はそこに座って以来ずっと、口一つ眉一つ動かさない。まるで精緻に作られた人形のように――
「……先に、機能を終えたようだな。『母』は」
「そんな……」

 愕然とする隆太郎を後目に、『父』は言葉を続ける。
「第二に隆太郎、おまえの病気は原因不明、治療法不明というところまでは真実だが……空気感染する、というのは偽りだ」
「ええっ!?」
 さらなる混乱が隆太郎を襲う。
「隔離される真の理由は別にあるのだ。両親は、おまえに人間らしい生活を知ってもらうことを、望んだ」
「どういうこと!? ぼくは外じゃ人間らしい暮らしができないって言いたいの?」
「そうだ」
 父親は一時沈黙する。大量の秘密を明かされた隆太郎が、少しでもそれらの意味するところを把握できるように時間を与えたのだ。

「……それから?」
「……だが、ずっとここにいさせるわけにもいかないであろう、とも思っていた。そして、今がそのときなのだ。外に出ろ、隆太郎。覚悟が決まったら行くがいい。ここからの出方は絵那が知っている。おまえが『函』に隔離された意味がわかるはずだ」
「……」
 そこで、正真正銘『父』は停止した。二人は、隆太郎がいくら揺すっても叩いても呼びかけても、再び動き出し、隆太郎の為に笑いかけることも、抱きしめてやることも、食事を用意してくれることもなかった。隆太郎は、泣くことすらできなかった。

 *

 隆太郎は『教室』へと行き、ヘッドセットを頭につけ、コンソールを操作した。
<ハロー、隆太郎。誕生日おめでとう>
 絵那の声が聞こえてきた。映像情報は切り、音声のみの通話だ。誰かと顔を合わせたい気分ではなかった。
「ねえ、絵那。絵那は、知ってたの? ぼくの両親と、病気のこと」
 返事はなかった。が、それが雄弁に物語っていた。
「そっか。……みんなで、ぼくを騙してたんだね。産まれたときから、ずっと」
<違う。隆太郎を傷つけないために>
「うん……わかってる。でも」
 二人は押し黙る。

「『外』は、どんなところなのかな」
<それは……わからない。だけど、ボクはいるよ>
「絵那に? 会えるのかい。さわれるのかい」
<うん。約束したよね。そこを出られるようになったら、キスでもなんでもしてあげるって>
「……」

 *

 隆太郎はヘッドセットはつけたままに、『教室』の外に出、芝生が広がる『函』の中心部へと移動する。そう絵那に指示されたのだ。
「こんなところでどうするの?」
「そこでじっとしててね」
 しばらくそこで待っていると、不意にドームの天井の照明が外側から順番に徐々に消えていった。時刻が夜を刻んでもうっすらとは残る明かりが、容赦なくすべて消え、周囲が完全な闇に包まれる。それは、『函』の終焉を暗示しているかのようだった。
 隆太郎が途方にくれていると、ガコン、と頭上で音がすると共に『函』全体が揺れる。見上げると、天井に沿って白い線が走っているのがわかった。

 が、がががが。
 小刻みな音と共に、その白い線はだんだん太く広がっていく。――『函』が、開いているのだ。天頂から。
 天井の隙間はみるみるうちにスライドしていき、真っ白な光を取り込んでいく。眩しくて何も見えないが、そこには絵那のいる『外』が広がっているのだろう。
 数分をかけて、『函』の天井は完全に消える。降りそそぐ光が『函』全体を包み込んだ。

<……あ、いた。はじめまして、隆太郎。直接視認するのは、これが初めてだね>

 光と共に降りそそぐのは、あまりにも聞きなれた女の子の声だった。声は不自然に、スピーカーを何重にも通したように大きい。
「絵那! 絵那なの? きみはそこにいるの? 姿を見せて!」

<ボクだよ。絵那だよ。ボクはずっとここにいたよ。きみを見守っていた>

 徐々に隆太郎は、光の眩しさに慣れてくる。『函』の遥か彼方の高さに、ぼやけた像が焦点を結ぶ。
 ……そこには、確かに絵那がいた。

「……え?」
 隆太郎は最初、それを普段通話しているような立体映像のようなものだと思った。そう考えないとどう考えてもおかしいからだ。
 隆太郎が見上げる空には……『函』の中を覗き込む、とてつもなく巨大な、絵那の顔があったのだ。

<ホログラムじゃないよ>

 オーロラのようにそびえる絵那が口を開くと、数瞬遅れて彼女の声が響き渡る。彼女が言葉を口にする、ただそれだけのことで『函』がびりびりと振動し、隆太郎は立つことができなくなり芝生へと這いつくばる。
 絵那がすっと顔の前に右手の立てた人差指をかざし、それを下に向けゆっくりと隆太郎のいる『函』へと下ろしていく。

 大気が悲鳴をあげる。巨大な質量ある肌色の物体が隕石のごとく、轟音とともに隆太郎の頭上にまっすぐに迫ってくる。世界の終わりのようなその光景を、隆太郎は這いつくばったまま首だけを上に向けて見ていた。
 落ちてくる肌色の柱は隆太郎が暮らしていた家ぐらいの径があり、隆太郎のいる場所はそれの影に収まっている。このまま落ちてくれば確実に命がないが、隆太郎の手足は動き方を忘れたかのようにぴくりとも動かない。彼は死を覚悟した。

 だが、巨大な柱が隆太郎を押しつぶすことはなかった。それは数十メートルほどの頭上で微妙に方向を転換した――隆太郎の住んでいた家へと。
 あっという間のことだった。有機的な肌色の巨柱の先端が隆太郎の家のてっぺんに触れたかと思うと、コンクリートでできた堅牢な建造物は瞬きする間に粉々に砕けてしまった。
 どれだけの圧力と重量がその一瞬の間にもたらされたのか、隆太郎には想像もつかない。圧倒的な『本物』の迫力に、彼は圧倒されていた。
 柱はそれだけでは飽きたらず、砕けてしまった家を押しつぶした上、そこ軸に回転し始めた。凄まじい破砕音で隆太郎の聴覚がおかしくなりかける。丹念な圧潰作業の地響きに隆太郎の身体も翻弄された。

 数時間の長さにも錯覚する数秒が経過したあと、柱がすっと宙へと浮く。その下には、細かい瓦礫が地面へと同化し、ぺったり張り付いているだけという、破壊の痕跡しか残っていなかった。柱の先端に付着した砂礫が、ぱらぱらとそこへ落ちている。
 隆太郎は愕然とする。十六年もの間、両親とともに毎朝起きてご飯を食べて暮らしてきた自分の家が、ものの数秒で跡形もなくなってしまったのだ。両親の亡骸とともに。
 たっぷりとさらに数秒をかけて、隆太郎は自分の帰る場所と両親が消されてしまったことを理解する。我知らず涙がこぼれてきた。どうして、こんなことに。
「絵那! どういうことなんだこれは、なんなんだよこの柱は!」
 隆太郎は、すべてを知っているはずの天空にそびえる絵那の姿に怒鳴った。

<そんなに声を張り上げなくても聞こえるよ。このヘッドセットがあるから>

 隆太郎を見下ろす絵那はうっすらとした笑みを崩すことはない。それは嘲笑や愉悦といったものではなく、受容の笑いだった。姉が弟へ、母が子へと向けるような。

<教えてあげるよ。今、隆太郎の家を押しつぶしたのは……ボクの、人差し指>

「……え?」
 何を言っているのか、言葉の意味はわかっても実感ができない。指? 今の、建物を何重にも連ねたような太く巨大な柱が?
「なにそれ? ジョークにしても笑えないよ。それが本当なら、絵那、君がぼくの暮らしてた家を潰したってことになるよ。指だけであれだけ大きいなら、君自身はどれだけ大きいっていうんだよ!」

<うん。そうだよ隆太郎。ボクが君の棲んでた家を潰したんだよ>

 絵那の言葉に、冗談や偽りの気配はまるでなかった。巨大な柱が落ちてきた時とはまったく別種の恐怖が、隆太郎の中に満たされていく。隆太郎は立ち上がり、あの忌々しい柱をもう一度観察する。柱は家を潰した場所から、まだ移動していない。
「人差し指……って言ってたよな」
 そういえば、絵那がかざしていたのも人差し指だったような気がする。隆太郎は自分の右手の人差指を下に向け、柱と見比べてみる。赤みがかった肌色と、緩やかに曲線を描く有機的なフォルム。
 側面の第一関節と第二関節にあたる位置に走る筋。見れば見るほど、それは人間の人差し指に酷似していた。あまりにも、スケールが違いすぎるだけで。
「嘘だ……嘘だ」
 隆太郎がわなわなと震え出す。こんなことが。あるわけが。

<まだ信じられない? なら、証拠を見せてあげる。>

 絵那がそう言うと、柱――巨大な指が向きを変えた。隆太郎に対して正面を向けたのだ。そこにあったのは、逆さ向きの泉のように広大な爪だ。横幅だけで十メートル近くはあるだろう。
「ああ、あ……!」
 この大きすぎる指が、絵那本人のものである証拠を隆太郎は見つけてしまった。その爪には、桃色のラメが入っていた。それはホログラム通話で見せてもらった絵那のものと、全く同一だった。

<ボクの爪のこと、かわいいって褒めてくれてうれしかったよ。これでわかったよね、これが正真正銘ボクの指だってこと>

 隆太郎は口をぽかんと開けたまま、膝から崩れ落ちた。
「……わかった、わかったよ! でも、じゃあなんできみはそんなに大きくなってしまったんだ。意味がわからない……」
 絵那はその言い草に、思わず噴きだしてしまう。

<ああ、隆太郎にはボクが建物みたいなとんでもない巨人みたいに見えるんだね。いや、建物みたいな、なんてレベルじゃないか……。でもね隆太郎、ボクが大きいわけじゃないんだよ。……きみが、小さいんだよ>

 ズシン、ズシン!
 再び『函』が揺れ始めた。今度は絵那の指が原因ではない。その断続的な叩きつけるような震動は、時間と共に徐々に大きく、近いものになっていく。
 隆太郎が驚いてそちらのほうへ目を向けると、巨大な人影のようなものがこちらへと近づいてくるのがわかった。近づいてくるほどに、隆太郎はその全貌を視界に入れるためには首の角度を上へと上げなければならなかった。やがてそれは『函』中心部へと踏み込む。文字通りの意味で。
「うわああっ!」
 それは、巨大な――といっても絵那ほどではないが――少女の姿をしていた。絵那によく似た、だけど少し大人っぽい感じのメイド服をまとった女の子。
 隆太郎は知っていた。彼女のことを。だが、隆太郎が知っている、その少女は――

 *

『函』でのある一日、隆太郎はホログラム通話を行なっていた。いつもは絵那が送信側なのだが、今回は珍しく隆太郎が送信側となる。普段とは逆に、絵那の部屋に隆太郎の立像をお邪魔させるのだ。視覚情報は絵那の部屋の隅に取り付けられたカメラが中継してくれている。
 絵那の部屋は十歳の女の子らしい部屋だった。四角い部屋に机とベッドと衣装棚があり、机とベッドにはぬいぐるみやマスコットの類がちまちまとかわいらしく並べられている。
 机の隅には白い半球状のよくわからない物体がずっとあったが、絵那に訪ねてもはぐらかされて未だに答えてもらったことはない。

 部屋の隅に隆太郎の映像が現れたのを見て、絵那はうれしそうにとたとたと駆け寄る。その肩に、見慣れないものが載っていた。それは、古風なエプロンドレスのメイド服姿をした小さな女の子だった。妖精みたいだ、と隆太郎は思った。
「これは……?」
 カメラを操作し、その女の子をアップで映す。彼女は絵那とよく似ていた。しかし絵那とは違い機能的なショートカットの髪型で、顔立ちや体つきは絵那に比べて少し大人っぽい。十二歳ぐらいだろうか。

 しげしげと見ていると、突如として人形が口を開き始めた。
<これ、とは失礼ですね>
「うわっ、喋った!」
<ベタな反応ありがとうございます、隆太郎さん。はじめまして。私はニナ>
 肩から絵那の掌にぴょこんと飛び移り、おじぎをする。
<ニナは、ボクの小間使い用に作られた生体アンドロイドなのさ。似てるのはボクの遺伝子から作られているからだよ。かわいいでしょ>
 自分で言うのか? とは思いはしたものの、確かにニナと呼ばれたアンドロイドはかわいい。小さいものには無条件で庇護欲が湧いてしまう人間の習性なのだろう。
「かわいいけど……そんな大きさで役に立つのかい?」
 メイド服を纏っているが、人形サイズの彼女がどれぐらいメイドらしいことを出来るというのだろうか。隆太郎は首をかしげる。
<ふふふ。少なくとも、あなたよりは使えると思いますよ>

 *

<こんにちは、隆太郎さん。絵那お嬢様の所有する、-型リ・アリス症候群患者介護用アンドロイドのニナです。あらためまして、どうぞよろしく>
 
 エプロンドレスの裾を少し持ち上げ、ぺこりと(隆太郎にとっては「ぐおんと」)一礼する。間違いなく彼女はホログラム通話で見た絵那の所有するロボットだ。だけどその時はおよそ十センチ、手のひらサイズしかなかった。だが目の前のニナは、逆に隆太郎を指でつまめそうなほどに壮大だ。
「あああああ……。狂ってる。もう嫌だ!」
 隆太郎は弾かれたように走りだし、『教室』へと逃げこもうとする。ニナはやれやれと言った表情でかがみこみ、隆太郎へと手を伸ばす。
 あそこで身を隠せば安全なはず。狂ったサイズの少女たちを目に入れずに済む。建物を掴めそうなほど大きい、白い手袋に包まれた手が迫る中隆太郎は必死の思いで駆ける。
 十メートル、五メートル、一メートル。間一髪、手が追いつく前に『教室』の扉を開け、中へと転がり込むことに成功した。迅速な動作で隆太郎は扉にロックをかける。
 室内は絵那とニナの起こした地震で散々なことになっていた。壁と一体化しているラックからは書類や各種メディアが残らず落ち、床にぐちゃぐちゃに散乱している。扉が壊れていないのが奇跡のようなものだった。

<隠れてないで出てきてください、隆太郎さん。話が進められません>

 ニナの声が響くが、もちろん隆太郎は耳を貸さず、じっと目をつぶっていた。そうしていればやがて巨大な少女たちは消え、平穏な日常が帰ってくると思っているかのように。『外』を見たいという気持ちは、すっかり消え去っていた。

<仕方有りませんねえ>

 隆太郎がうずくまっていると、『教室』が揺れ始めた。あわてふためいて隆太郎が立ち上がり、窓から外を見ると、どんどん景色が上昇していくのがわかった。ぬっ、とニナの顔が現れ、隆太郎と同じぐらい大きい瞳が室内を覗き込む。――『教室』がニナに地面から引き剥がされ、両手で持たれているのだ!

<早く出てきてくださいね。あまり手間をかけたくないので>

 ガツン! ガツン! という大きな衝突音とともに、ぴしぴしと天井にヒビが入り、やがて大きな穴が空き、瓦礫が室内へと落ちる。隆太郎は恐怖に顔を蒼白にさせたところで、衝撃と震動は止む。

<指でつっついて穴を空けました。出てきてくれないなら、ここから指を突っ込んでほじくり出しますよ>

「わかった。出るよ……」
 隆太郎は、ニナの言いなりになるほか選択肢がないことを理解した。

 *

 隆太郎はロックを解除し、自ら『教室』から外に出る。そこは白い丘になっていた。そこが、ニナの手を覆う白い手袋で自分はニナの手のひらの上にいるのだということはすぐにわかった。ニナの手は、建物をひとつ乗せてしまえるぐらい巨大なのだ。
 ニナは隆太郎が出てきたことを確認すると、手を少し傾け載せていたドーム状の『教室』を滑り落ちさせた。
『教室』はニナの膨らんだふわふわのエプロンドレスをクッションにして落ち、それを滑り降りて地表へと帰還した。

<ね、小さいけど、役に立つでしょう?>

 ニナは手のひらにいる隆太郎に向けてにっこりと微笑む。年下の、十二歳ぐらいの少女の掌に乗せられてじっくりと観察されるというのはいかにも恥ずかしく、隆太郎はうつむいてしまう。そんな様子がおかしいらしく、ニナはますます笑いを深める。
 いまさら、隆太郎は絵那がニナを用意した理由を理解した。隆太郎は小さすぎて傷つけずに触れることすら難しい絵那のかわりに、隆太郎を『函』から回収するためにスケールダウンした大きさの助手が必要だったのだ。
 そのことを絵那は一ヶ月以上も前から予見し、用意していた。今の自分の境遇は、予定された運命なのだろうという自覚を隆太郎は深める。

<隆太郎の確保ご苦労様、ニナ。じゃ、ボクの手に乗って>

 上空から絵那の声が響き、『函』全域を覆い尽くしてしまいそうな絵那の掌がニナの前に差し出される。ニナは隆太郎が落ちにくくなるように、彼を載せる右の手の指を内側へと折り曲げる。
 隆太郎にしてみれば、一本一本が自分よりも太い大樹が四本もせりあがってくるような迫力だった。
 ニナが『函』の地面から、ふわりと絵那の掌へと飛び移るのを、隆太郎はニナの掌の上から眺めていた。ホログラム通話で見た絵那とニナのサイズ比とまったく同じだった。あの時の光景と違うのは、ニナの掌の上には隆太郎が乗っているということ。

 絵那にとってみれば、ニナは十センチない程度の手のひらサイズのお人形。そして隆太郎は、そんな小さなニナの指の上に乗ってしまいそうなほど小さい小人なのだ。ニナからすれば、隆太郎はたった一センチぐらいの小虫にしか見えていないだろう。
 頭がおかしくなりそうだった。絵那にとって、自分はどれぐらいの大きさに映っているのか、それを考えるのは怖い。本当は、自分は絵那よりもお兄さんで、はるかに背丈も高いはずなのに。
 本当? 本当とは何だろうか。『函』の中が偽りだとするなら……。

 絵那の掌がニナと隆太郎を乗せて『函』から離陸する。どんどん隆一の視点での高度が高くなっていく。半径百メートルのドーム内でずっと過ごしてきた隆太郎にとって、どこまで行っても果てが無い空間というのは初めてで、不思議な気持ちになる。

<楽にしていいよ、ふたりとも>

 急に上向きのGがかかる。ニナが絵那の掌に座り込んだのだ。と同時に、ニナの手が傾き隆太郎の身体は白いエプロンの上に落とされる。洗濯したての、糊の香りが隆太郎を包んだ。

<どこから話そうか。まずは、隆太郎の『病気』のことからかな>

 絵那が、ニナのエプロンの上にいる隆太郎を見つめ、話しかけてくる。凄まじい声量にはそろそろ慣れてきた。
 先ほどニナの手の上に乗せられて見つめられていたときは気恥ずかしいものがあったのに、今絵那に同じ事をされていてもあまりそういう気分にはならない。スケールが違いすぎて、同じ人間と言うより風景にしか思えないのかもしれない。
 絵那は、一度すっと軽く息を吸い込む。そして、用意された書類を読み上げるかのように流暢にネタ明かしを始めた。

<隆太郎の病気は『-型リ・アリス症候群』。通称縮小病。これは罹患すると身体が小さくなっていってしまう病気なの。小人症や矮人症と呼ばれるものと違うのは、原因がわかってないこと、身体の比率はそのままで縮むこと、良くて一メートル、最悪で一ミリメートルまで縮んでしまうこと。ちなみに "Re-Alise" というのは、『現実化したアリス症候群』という意味合いでRealとAliceをもじって付けられた病名だよ>

 一ミリメートル、その言葉に隆太郎は反応する。
「ひょっとして、ぼくの本当の身長って……」
 
<うん。『函』内で行われた健康診断では百六十センチメートルってことになってるけど、正確な体長は一.六ミリメートル。隆太郎の過ごしてた医療装置『函』は健常者の生活空間を千分の一の大きさで再現してるの。だからあそこでは隆太郎くんのような重度の発症者でも人間と同様の生活を送ることができた。そこにいる間ずっと、医学チームは隆太郎のリ・アリス症候群の治療法を探していた。『函』から送られる血液データや遺伝子情報を元にね>

 隆太郎は、すっかり小さく遠ざかった『函』を見下ろした。絵那とニナによって破壊されたドーム上の空間は、絵那の巨大な机の上に乗せられていた。
 広大に思われていた隆太郎の居住空間は、実のところは絵那の机の片隅、半径十センチほどの面積を占める程度でしかなかった。
「どうして……ぼくはその病気を?」

<遺伝だよ。隆太郎の両親、六浦夫妻は-型リ・アリス症候群にかかっていた。二センチほどの大きさになった。それと同時に、きみの妻が子供を身ごもっていることが発覚した。夫は出産に反対した。発症者が産む子供は生まれながらに発症者になるんだもの。だけど妻は子を産んだ。両親よりも重篤な、千分の一サイズで産まれた子。それがきみ、隆太郎>

「……」
 絵那の口から明かされる十六年越しの真実を、隆太郎は食い入るように聞き入っていた。
「……そうだ、ぼくの両親はどうなったの!? 『お父さん』は死んだ、って言ったけど」

<五年前に、彼らなりのやりかたでお金を稼いでる最中に不慮の事故で亡くなったよ。ふたりとも同時に>

 絵那は事実を淡々と述べる。
「……!」
 隆太郎は息を詰まらせた。

<六浦夫妻は、医者であるボクのパパと契約を交わした。パパは一家三人の縮小病を治療するための研究を行い、隆太郎の『函』での生活費を工面する。『函』には両親は暮らせず、代わりに精緻に似せられた小型のロボットを住まわせた。『函』にいたら治療に必要なお金が稼げないもの。この契約は、十六年経ったこの日まで続いた>

「……なぜ、今日なの?」

<隆太郎の治療費に使われていた、両親の遺産が今日で底をつくから>

「それって、どういう意味」

<そのまんまだよ。医療だって慈善事業じゃないもの。それに、十年以上続けても完治の希望がほとんど見られない治療なんて、とても続けてられない……というのが、パパを含める医学チームの見解みたい。だから、隆太郎の治療は、ここで打ち切り>

「そんな……!」
 隆太郎の顔が悲痛に歪む。
「つまり、ぼくはこのままずっと小さなままだってことだろ!? 虫みたいに!」

<虫みたいに、じゃなくて。隆太郎くんは虫より小さいんだよ>

 絵那は冷徹に訂正する。現実を知ってもらう必要が、彼にはあった。ニナのエプロンの上にいる黒っぽい点。そうと知らなければ埃だと思って息で吹き飛ばしてしまいそうな小さな存在。それが隆太郎なのだ。
 そして……彼に告げなければいけない事実はまだ残っている。

<契約の内容はこれで終わらない。治療を打ち切られた隆太郎は、もう『函』でぬくぬくと暮らすことはできない。『函』は医療装置だからね>

 そう言うと、絵那は空いていた左手の人差し指を隆太郎の前に見せた。その指の上に、指先サイズの『教室』が載っていた。そしてそれを、開けた口に放り込む。
 ごっくん。
「あっ……!」
『教室』は何の抵抗もなく呑みくだされる。喉がドーム状にちょっとだけ盛り上がり、そしてお腹の方へと消えて行くのが見えた。

<これで隆太郎の帰る場所、本当になくなっちゃったね>

「何するんだ……よ……」
 隆太郎はまず怒りに顔を赤くし、続いて戦慄に青くする。建物をまるごと丸呑みにできるということがどういう意味を示しているのか気づいたからだ。

<ごめんね。こうしたほうがわかりやすいの>

 まず隆太郎との力の差を見せつけ、立場の違いをわからせる。そして、戻る場所を奪うことで覚悟を決めさせる。絵那がわざわざしなくてもいいのに指先で家を潰したり飲み込んだりしてみせているのは、そんな意味合いがあった。
「言ってる意味がわからないよ。絵那にとっては指で潰せるぐらいちっぽけなのかも知れないけど、ぼくの十六年過ごした思い出の場所なんだぞ! 絵那が壊す権利なんてあるわけが……」

<いいんだよ。ボクは隆太郎のものを壊しても>

「へっ」

<治療の見込みなしと判断された発症者は自動的にすべての権利を剥奪されるんだよ>

「なんで」

<まだわかってないんですか?>

 隆太郎の周囲を影が覆った。振り仰ぐと、手袋に包まれたニナの指先が迫っていた。なすすべもなく彼は押さえつけられ、全身を白いエプロンの布地に沈みこませる。必死に力を入れて逃れようとするが、ニナの指の圧迫はまったく消えない。

<ほら、私の指先にも勝てないんですよ。これでも手加減しているんですけどね、潰しちゃうわけにもいかないから。当然食い扶持なんて稼げるわけがない。私から見てもこうなんですから、お嬢様のような普通の人間からすれば塵か埃みたいなものでしょうね。指紋の幅にも負けてるんじゃないですか? そんなあなたを、誰が人間扱いしてくれると思ってるんです。少し指を載せただけでこの世から消えてしまう、あなたのことを>

 絵那はニナの指の下から抜け出せない隆太郎のことを憐れみの視線で見つめていたが、ニナの言葉を否定することはなかった。それは動かしようのない真実だったから。
 隆太郎がもがくことをやめたところで、ニナは指を離す。青息吐息の彼へ、彼女は解説を続ける。

<あなたのご両親が結んだ契約の最後の項目はこうです。人として生きる権利を失った隆太郎さんを、狩生家の長女である絵那お嬢様の所有とさせること>

 隆太郎は頭をガン、とハンマーで殴られたような気分になった。
「え、絵那がぼくを所有……?」

<うん。隆太郎、きみは本日をもって法的にボクの持ち物になるんだよ>
<わかりやすく言うと、ペット、でしょうか。もっともあなたの大きさでは『寄生虫』と呼んだほうがしっくりくるのかもしれませんが>

「ぼくが、絵那の、ペット……」

<勘違いしないでね。隆太郎のことを、人間扱いしないわけじゃない。だけど、ボクたちにとって一ミリメートルの人間はそういう存在なんだってことをわかっていてほしい。そうしないと、後々不幸なことになるから>

 それは隆太郎もわかっていた。『函』の外の世界の真実を教えたのは、絵那なりの優しさなのだろう。けれど……。

<ねえ、隆太郎。教えて欲しいのだけど……ボクのこと、嫌いになった? ボクは、隆太郎のこと、今でも大事に思ってるけど……>

 絵那は隆太郎に、おずおずと問いかける。
「そ、そんなことはないよ……たとえこんなに大きくても、絵那は絵那だよ」
 言いながらも、自分でも少しわからなくなっていた。爪の幅だけで十メートルもある絵那は、全長にして千メートル以上は優にある計算になる。ホログラム通話では自分の肩ほどまでの背丈しかない愛らしい女の子だったのに、今では同じ人間どころか同じ生物なのかすらも疑わしく見える。
 
<なら、隆太郎。ボクにキスしてよね>

 絵那は掌を自分の顔のすぐそばまで移動させる。ほぼ顔に触れるような距離まで近づくと、彼女の顔は隆太郎の視界には収まり切らない大きさになる。唇が、鼻が、目が、単体で大パノラマを形成していた。かつては愛らしく見えたそれらも、これほど大きくなったものを間近に見せられては怪物と間違えそうになる。
 ニナは手で隆太郎をすくいあげ、絵那の唇へ向けてつき出す。そうしなければ、数センチ――隆太郎の尺度では数百メートル彼方への唇へはとうてい届かない。

 隆太郎は少しの躊躇のすえ、立ち上がりニナの掌の中央から唇のほうへと歩き始める。手袋の地面はすべすべで、隆太郎は何度も転びそうになりながらも、余裕で両足をつけて立てるほどの幅を持つ中指の上を歩いて近づいていく。
 ごおう、ごおうと規則正しいリズムで吹き荒れる風が隆太郎のいる少し上をかすめる。上を見ると全体からすれば小ぶりな、しかし隆太郎にとってはトンネルのような大きさの真っ暗な穴が二つ、上空に見える。この暴風は、絵那の鼻息なのだ。

 指の先端部分まで歩くと、城壁を思わせる大きさの絵那の下唇が左右に広がっている。桜色のみずみずしい唇だ。この年下の少女は、身体のパーツの一つ一つが、隆太郎の暮らしていた家よりもはるかに大きいのだ。
 隆太郎が絵那の唇に圧倒されていると、突然それが動き始める。『函』が開いたときよりもはるかに巨大なスケールで上唇とした唇が離れ、怪物のような赤い舌が覗く。
 そして少し遅れて。むせ返るような、どこか甘ったるい唾液の臭いがむわりと隆太郎を包み込む。絵那は特別息の臭い子ではなくむしろ清潔なほうなのだが、あまりにも小さな隆太郎は生き物として最低限の口臭を感じ取ってしまうのだ。
 湿った空気の中、隆太郎は絵那が唇を動かすのを見る。

「ハ」
「ヤ」
「ク」

 そう形を作った。発声しなかったのは、声だけで隆太郎が吹き飛ばされてしまう恐れがあるからだろう。
 ごくり、と唾を飲み込む。心臓はバクバクと脈を打っていた。絵那がどんな表情をしているかはわからない。だけどもう、待たせるわけにはいかない。それはいろいろなものを剥奪された隆太郎に、最後に残された人間としての矜持だったのかもしれない。
 意を決して、隆太郎はそれに飛びついた。湿った唇は隆太郎の全身を貼り付けさせて離れなくさせる。じっとりと温かい。柔らかくぷにぷにしていそうな唇だけれども、隆太郎の全体重をかけても凹みすらしない。
 地鳴りのような音が、どこか遠くから唇を通して隆太郎へと伝わる。これは、絵那の心臓の鼓動の音だ。彼女も、自分と同じように、緊張と興奮を感じているのだ……。

 隆太郎は口を近づけ、絵那の唇のほんの一部分をぺろり、と舐める。味はしない。キスをしているという実感は、正直なかった。絵那にしたって、舐められるどころかいま自分が唇の上にいることすらわかっていないだろう。
 それでも隆太郎はいいと思った。ホログラム通話が見せた小さな女の子の姿は幻で、本当は唇に乗れてしまうほどの大巨人だったけれども。ここには絵那のほんとうがあった。
 絵那のぬくもりが。息遣いが。口臭が。心臓の鼓動が。すべてあった。ようやく確信できた。自分は、絵那のことが好きなのだと。
 はらはらと、我知らず隆太郎の双眸から涙がこぼれる。絵那のことを、知れてよかった。

「ありがとう、絵那」

(了)