『妖精枠』
※人間と縮小された人間、少女同士の性愛表現あり。

 志穂に消しゴムのカスと一緒に机から払われたのは、今日で二度目になる。
 乗用車のようなまるっこい手に突き飛ばされ、十階建ての高層ビル相当の高さから落ちるのにもすっかり慣れてしまった。……というのは嘘で、今でも怖い。最初は声を上げて泣いていたのを歯を食いしばって耐えられる程度になるだけだった。妖精用にしつらえられたマント状の上着が広がり、数グラムほどの体重のぼくに浮力を与える。ゆっくりと落ちて行く中、塔のようにそびえる志穂が休めずに板書を続けているをぼくは見上げていた。ぼくを落としてしまったことにはまだ気づいていないようだ。

 すとん、と教室の床へ降り立つ。タイルのマス目ひとつが、いまのぼくには小さな部屋ぐらいの大きさに見える。遠くから教師の声が聞こえてくる。教室のみんなはそれぞれ志穂と同じように板書を続けていたり、居眠りをしていたり、となりの子としゃべっていたりしていた。誰もぼくが泣きそうな目にあっていることに気づいていない。机と椅子のパイプとハイソックスに包まれた脚の柱たちはどこまでも無表情に立ち並んでいる。同じ部屋にいるはずなのに、ぼくだけが違う世界に取り残されてしまったよう。

 ぼくのこえはここからでは届かない。隔絶感を覚えながら机の下へと潜り、志穂の左足へと近づく。右手に落とされたのだから本来ならば右足のほうが近いのだけど、いまの彼女は足を組んでいたので接地しているのが左足しかない。そんなだったのでぼくの位置からでは志穂のスカートの中身が丸見え……と見せかけて、何しろ机の下で明かりが遮られているので真っ暗で中身はよくわからない。それでもどこか背徳的であることは確かで、ぼくは少しいやらしい気分になる。

 薄く汚れた白い、ベッドのような上履きが目の前に鎮座している。ときおりつま先が上げられ、かかとがくねくねするのが少し怖い。そのまま叩いても上履きの硬さに阻まれてしまうため、ぼくは靴底の赤いゴム部分に足をかけてよじ登る。畳一畳分になる、ソックスが露出した部分をぼくは叩く。これだけのことで汗だくだ。
 ぶん。上空で巨大なものが動き、前髪が揺れる。続いての地響きでぼくの全身が揺れる。先程まで天井として存在していた、志穂が組んでいた足を外したのだとわかった。ぼくを数人まとめて踏み潰せるような、肉がみっちりと詰まった健康的な足。

 志穂が椅子を引き、小刻みな振動が起こる。光が差し込み、上空にぼくを覗き込む志穂の顔が現れる。クレーンのような指先が僕に近づき、マントの襟元を摘み、そのまま持ち上げる。
「ぐぇ」
 首が締め付けられて苦しい。子猫でもつまむようなぞんざいな扱い方だ。昔は手のひらに載せて優しく運んでくれたものなんだけど。

 でも、本当に怖いのは僕のことを見つめる志穂の目だった。ぼくのことを心配しているわけでも、苛立っているわけでもない、まるで落ちた消しゴムに対するような無感動な視線だった。その目で見つめられるたび、ぼくは自分で気が付かないうちにちっぽけな文房具に変貌してしまったかのような錯覚を覚える。
 ともあれ耳が痛くなるスピードでぼくは持ち上げられ、机の上へと復帰した。二度目、といったように志穂はなんども間違ってぼくを落っことす。それこそ消しゴムのように。

「ねえ」
 カリカリ。
「ぼくを持ち上げるとき、もう少し優しくしてほしいんだけ、ど……」
 カリカリカリ。
 志穂は板書を続けていたので、なんにも言えなくなった。ただでさえ小さいぼくの、控えた弱々しい声は一番近い人間にも届かない。
 近くに転がっているひと抱えほどもある消しゴムが視界に入る。気づいて、使ってもらえるだけぼくよりも消しゴムのほうが立派なのかもしれないと思った。
 志穂の愛用する水色のシャープペンシルは、ぼくの倍くらい背が高い。
 
 *

 その女子校には「妖精枠」と呼ばれるものがあった。
 -型リ・アリス症候群に罹患した人間――「妖精」は、一般の学校に在学することはできない。教員が妖精の対応に慣れていないこと、PTAから寄せられる「うつる」という誤解に基づいた抗議のためだった。
 しかし、妖精の転入・入学をほぼ無条件に受け入れている学校は各地にちらほらと存在した。
 ぼくが今通っている女子校もそのうちの一つである。一ヶ月前に発症したぼくの済む地域にはそこしか妖精枠がなく、選択の余地はなかった。かくして身長一六二センチ、体重五〇キログラムの人間男子だったぼくは身長約四十ミリ、体重八グラムの妖精女子としてその中学校に通うことになったのである。

 べつに、リ・アリス症候群にかかっても性別が変わったりすることはない。ただ、ぼくの外見は縮小とともに女子のそれに近くなっていた。妖精女子用のブレザーとスカートが嫌になるほど似合うくらいには。専門家のうさんくさい話によれば、細胞が減ったせいでより体のつくりが単純化され、外見が中性的になってしまうのだということ。もし、このまま身長がもとに戻っても、志穂とは姉妹にしか見られないのではないだろうか。

 志穂はぼくの幼なじみだった。そして、ぼくの初めての片想いの相手でもある。いくじのないぼくの想いが告げられることなく、志穂とぼくは別々の中学校に上がってしまった。それから二年後、彼女と同じ学校に転入したぼくを、志穂が「妖精係」として面倒を見ている。
 これは、はたして幸運なことだったのだろうか? 今のぼくには、正直わからない。

 *

 妖精は板書をしなくてもいい。というより、板書できる環境にはなかった。たとえ妖精サイズの筆記用具があったとしても、いつ払い落とされるかわからない状況で震えながらではとても書けやしないだろう。ノートは志穂のを見せてもらうことになっていた。ぼくはきちんと授業を聞くことに専念する。

 ところで、いつ払い落とされるかわからない状況は当然緊張する。いままで怪我をしたことはなかったが、それは注意していたからで不意に落とされたらこの身体でも大怪我をしかねないのだ。ぼくはつねに神経を過敏にし、志穂の挙動に気をつける必要があった。
 つまりその……緊張に緊張を重ねた結果、下腹部に関するある欲求を抑えきれなくなっていた。

 とことこと机の上を歩き、志穂の右袖部分に近づき、くいくいとひっぱる。
「ねえ。……ちいさいほう、なんだけど」
 志穂はそれだけで全てを理解してくれる。少し迷惑そうに眉を寄せて、スカートからポケットティッシュを引っ張り出し、数枚を僕の前に重ねておく。
「……」
 志穂が、肘をついてこちらを凝視している。恥ずかしい。本当は後ろを向いていて欲しいのだけど、机の上のものを汚してほしくないのだろう。ぼくはたたまれたティッシュの上に乗り、下着を下ろす。一ヶ月前よりも、相対的にも絶対的にも小さくなったぼくのものが姿を現す。

 とんとん、と志穂が指先の爪で机を叩く。その音はぼくにはやたら大きく聞こえ、ぼくを追い立てる。
 ちょろちょろ。ぼくの足場のティッシュが湿っていく。その様子を、志穂が遥か上から冷酷ともいえる目付きで眺めていた。
 止めたいけど、止めるわけにはいかない。溜まっていたのもあって、ぼくの放尿は長く続いた。地獄だった。
 用を足し終わるのを見て、志穂はティッシュを取り上げる。そして、丸めて何事もなかったかのように再びポケットに収めてしまった。たくさん出したつもりでいたけど、数枚のティッシュから漏れるほどの量も出していなかった。

 志穂だって、最初はぼくを教室の外のトイレまで連れていってくれたものだ。便座に座ることなんてできないから、志穂に持ってもらって用をたすことになったので、それはそれで恥ずかしかった。でも、今のように普通の場所でティッシュにするなんて、とても人間のすることじゃない。まるでペットだ。
 ……でも、志穂に面倒を見てもらえるなら、志穂の顔つきを変えることが出来るなら、ペットでいいのかもしれないと最近は思いつつある。

 *

 お昼休み、志穂にあーんしてもらってごはんを食べる。うれしい。

 *

「せんぱい、それ、貸してくださいよ」
 ぼくのつかの間の平穏は、尚子の到来によって崩れた。それ、というのはもちろんぼくのことである。ぼくは最近、近しい人間に名前で呼ばれることが少なくなっていた。「それ」とか「これ」とか。「妖精さん」みたいな呼び方もあまり好きではないのだけど、あまりに無味乾燥なそれらよりは幾分ましであると思う。

 尚子はぼくと志穂の一年後輩だ。妖精のぼくに大しては無遠慮であるうえ、露骨にマイナスの関心を持っていて苦手どころの話ではない。それでもぼくは彼女を拒絶できるような立場にはいなかった。
 一年生の彼女が二年生のぼくたちの教室までわざわざ来るのは、彼女がぼくをそれだけ「気に入って」いるからなのだろう。ある意味では志穂よりも。

 ぼくは尚子の手に乗って、女子トイレの個室にまで連れてこられる。
「脱いでよ」
 嗜虐的な笑みを貼りつけて、尚子はぼくに命令する。彼女はぼくを上級生どころか同じ人間としてみなしていない。
 命令の通り、ぼくは制服を脱ぎ始める。命令には抵抗出来ない。逆らっても結局尚子はぼくを強引に脱がせる。整えられきれいな女の子らしい爪も、ぼくにとっては鋭利な刃に見える。そんな恐ろしい指で触れ回られたくはなかった。

 服を脱ぎおわり一糸まとわぬ姿になる。ぼくの情けない男性自身は、興奮か恐ろしさのあまりか勃起していた。ずいぶんと男性ホルモンが抜けてしまったらしく、かつてのぼくの平常時よりもそれは小さい。尚子の手のひらに脱ぎ捨てられたぼくの制服は、まるで布くずのようにみすぼらしく見えた。
 尚子が、ぼくへと顔を接近させてくる。思わず後ずさる、が逃げ場などない。
 ぺろり。ぼくの制服が舐めとられた。尚子が舌の上のぼくの制服を見せびらかすように舌を出し、そして収める。ごくり、喉が鳴った。
「……あ」
 ぼくが無言で表情を濁らせるのを、尚子は楽しそうに眺めていた。再び開かれた口の中には、もうぼくの服はない。尚子はこういう嫌がらせをたびたびする。家に帰るまで、ぼくは全裸でいなければならなくなった。妖精用の制服の値段もばかにはならない。最悪だ。
 それにしても、彼女がぼくのものを食べる時、妙にドキドキするのは、なんでだろうか……。

 彼女がこの程度で満足するわけもない。彼女の舌が、逃げ場のないぼくの全身を舐めまわし始める。
「ひゃ、ぁ」
 脇の下を、お腹を、おしりを、両足の間を、執拗に熱い舌で舐め回される。敏感なところをぬめった舌で撫でられて、ぼくは後輩の手のひらのうえで踊る。なめられるだけではなく、ぼくのふとももやお腹に唇を押し当て、強く吸ったりもする。骨が折れるかと思うくらいに痛い。彼女が口を離すと、そこには焼印のように唇の跡が出来ていた。こんな恥ずかしい姿を、志穂の前で晒せというのか。

 消耗してぐったりと手のひらで横たわるぼくに、尚子はふうっと息を吹きかける。
「うひゃう!」
 ぞくぞくとした感触と共に、ぼくはあれだけ熱っぽくなっていた身体が冷めていくのを感じていた。小さな身体は体積に対する表面積が大きく、熱しやすく冷えやすいのだ。かたかたと身体が震えてくる。
「さむい、寒いよぉ」
「温めて欲しい?」
 尚子はぼくをトイレの床に下ろす。手のひらよりもそこはずっと冷たく、痙攣しながら転がりまわる。
「じっとしててよ。踏まれたいの?」
 そう言って彼女は足を持ち上げる。上履きの靴裏の溝にたまったほこりがぱらぱらと落ち、ぼくに降りかかった。本当に踏まれるのかと思ったがそうではないらしい。

 どさ、と紺色の布の塊がぼくのそばに落ちてきた。口がぼくを向いて開いており、独特な臭気を発している。
「脱ぎたてだから、温かいよ」
 ――尚子は、脱いだばかりのハイソックスに入れというのだ。
 抗うことに意味が無いとわかりつつも、進んでそれに飛び込みたくもない。年下の女の子の、靴下に入るなんて、そんな。
 しかし、なにもしないからといって尚子は情けをかけてくれたりはしない。それに、以前ここで受けたひどい「温め方」よりはこれはずいぶんとましだった。

 身体が言うことを聞いているうちに、ぼくは這って靴下へと潜り込んだ。より熱がこもっている奥の方へ、必死になって進む。行き止まりにたどり着き、鼻孔が少女の足の臭いに満たされる。ぼくは身体を温めるため、懸命に唾液で湿った全身をソックスの内側に押し付けた。

「あははは、おもしろい。好きなんだねえ、女の子の下着」
 天地が逆さまになる。尚子が足首部分を掴んで持ち上げたのだ。繊維の隙間から見える視界から、顔の高さまで持ち上げられたことが伺えた。
「好きなんでしょ?」
「……」
「私、質問してるんだけどな」
「……はい。好きです」
「何が好きなの?」
「女の子の……下着が、大好きです」
「そう!」
 尚子は笑っていた。とても楽しそうに。
 ぼくが全身をこすりつけたとき、耐え切れなくなって放出してしまったのを悟られないことを祈った。きっと、大丈夫だろう。ぼくの出したものは、靴下に出来た汗じみよりも小さいのだから……。

 ぼくは靴下に入れられたまま運ばれ、キスマークと唾液にまみれた無様な姿で志穂に返却された。

 *

 尚子がぼくをしばしば性的なおもちゃとして使用することを志穂は咎めるようなことはしなかった。それどころか、喜んでいる節すらある。
 彼女の遊びに使われた後、いつも志穂はぼくをいたわるように汚れた全身を舌できれいにくれるのだけど、その表情がぼくに大してとは思えないほどに艶めかしい。好きな人のことを考えているときの顔だった。ぼくという共用のおもちゃを通して、志穂は尚子を味わっているのだ。そうとしか思えなかった。

 *

 授業が終わり、ぼくと志穂はおうちに帰る。ぼくは志穂の部屋で泊まっていた。
 志穂は最初、プライベートな場所にぼく(一応男なのである)を住まわせることを恥ずかしがっていたけど、すぐに慣れてしまった。それどころか、ぼくがいる場所で平気で服を着替えたり、ぼくといっしょにトイレに入ったりする。ぼくのほうが恥ずかしい。
 帰ってそうそう、ぼくは睡魔に襲われていた。あれだけ動き回れば疲れもする。いつもなら、志穂の匂いがするハンカチにくるまって、志穂になでられながらゆっくりと寝るのだ。だけど、今日という日は事情が違っていた。
 今日は、尚子が来るからだ。
 
 これもまた日常の一部だった。
 尚子は志穂をベッドの上に押し倒す。ぼくは志穂の手からベッドへと転げ落ちる。二人の体重できしむベッドの上に僕は立つことすらできないでいた。すぐ近くで、ビルのように巨大な少女二人が互いを求め合っている。あまりにも途方もなく、天変地異のように僕には感じられた。

 二人の角度が変わり、ぼくは引っ張られたシーツに足を取られ志穂のほうへと吸いつくように転がる。志穂の上に乗る尚子と目があった。危険な雰囲気を漂わせる尚子の前に、ぼくは蛇に睨まれた蛙のように動けない。尚子はその体勢のまま挑発的な笑みを浮かべ、器用に志穂の制服を脱がし、自らも脱いでいく。たちまち、志穂はショーツだけ、尚子は全裸となった。
 どすん。前触れなしに尚子の手の甲がぼくのすぐ横に振り下ろされ、比喩でなしに飛び上がる。乗れ、ということなのだろう。ぼくは尚子の手のひらへとよじ登る。すると手のひらは動き、志穂と尚子の間にまで戻る。志穂はベッドに両手をついて状態を起こしていた。

 尚子は志穂のショーツの前部分を引っ張り、右手のぼくにむかってにっこりと笑いかけた。何をするかは明白だった。ぼくは抗議をする暇もなく、そこに放り込まれる。
「うれしいでしょ?」
 ぼくがちょうど志穂の秘所の前まで落ちたところでショーツは閉じられた。それはもう、自分の意志では脱出できないことを意味している。
 ひどく蒸し暑い。そして、志穂のむせかえるような女性の臭いがこもっている。どうにかなりそうだった。
 世界が暗くなり、肉の壁に押し付けられる。ぼくの湿った身体がさらにべしょりと濡れた。湿ったショーツの布地が透けて、尚子の口元が見えた。舐められたのだ。

 志穂がよがると、ぼくの世界全体が揺れる。尚子は、ぼくの身体を志穂のいやらしい肉にぬりこめようとするかのように下着越しに舐め続ける。志穂の下の口に飲み込まれる恐怖と、近づく尚子の口に食べられそうな恐怖の両方がぼくを支配していた。
 志穂が絶頂に達し、溢れさせたものがぼくを溺れさせるまで、それは続いた。

 *

「命令ですよ。明日のえっちまで、その子を穿いたままにしておいてくださいね」
 尚子はことを済ませたあと、かならず何か命令を志穂へと残していく。それはつねに理不尽なものだったけど、今回は軍を抜いていた。
「……ごめんね」
 シャワーを浴び、新しいショーツを穿いた志穂が、お腹の上に座り込むぼくへと詫びる。でも、頭の中は尚子との情事についてでいっぱいなのか、その瞳はとろんとしていた。ぼくへのお詫びの言葉なんて、ごはんに対していただきますって言うぐらい空疎だった。

「ねえ、志穂。ぼくは志穂のことがすきだよ。結婚して欲しい。ぼくのことだけを見ていて欲しいんだ……」
 ぼくは、志穂の顔を見ずうつむいたままそう言った。何の反応もなかったので、きっと聞こえていないんだろう。
 志穂は尚子がそうしたように、自分のショーツの端をつまんで引っ張り、持ち上げる。ぼくの目の前に、どこまでも続きそうな暗闇が広がっている。永遠の暗闇も、志穂にとってはたったの十センチ余りだけど。

 尚子と違うのは、ぼくを無理やりそこに押し込んだりしないことだった。逆に言えばそれだけである。じっと暗闇を見つめているぼくを、志穂は寝かされた手のひらで押す。申し訳なさそうに谷底へ突き落とされたって、なんだって同じだ。でも、いいのだ。
 志穂が尚子に惚れているのは分かりきっていた。惚れているから、尚子には逆らえないのだ。
 ぼくはせめて自分の足でそこへと向かう。途中志穂の毛で足を取られ転びそうになりながら、深淵の終点までたどり着く。はるか上方で、冥府の門が閉じられる音がした。

 こんな劣悪な環境の中で、ぼくはあらためて睡魔を覚える。
 ぼくは人間であるということを失ってから、あらゆるものを持てなくなった。それは鉛筆と消しゴムであり、志穂の手であり、自由であり、恋である。
 ぼくは人間と会話することができない。ぼくは人間のような姿をした虫けらだから。ぼくの声は、志穂へ届かない。ぼくは志穂の恋人になれない。志穂が尚子に奪われいいようにされているのを眺めていることしかできない。違うレイヤーにいるぼくと彼女らは、いくら近づいても近づけない。

 でもよかった。志穂と毎日お風呂に入れるのも、志穂のトイレに同席できるのも、そして志穂の大事なところで眠れるのも! ぼくだけの特権なのだ。だから、幸せなのだ。これでいいのだ。
 ねえ、志穂。ぼくを捨てないでね。人間になんて戻れなくていいから。ずっとぼくをペットとして飼っていてくれればいい。ぼくはきみに見てもらえているだけで、幸せになれるから。
 しあわせだから。

(了)