Skeb納品用に書いたものです。リクエストありがとうございました。


1.
 誰もいない放課後の教室で、目の前の机に、火織さんの体操着の上下があるという事実。
 ぼくは試されているんじゃないか、という思いに駆られた。

 火織(ひおり)さんのことを意識し始めたのは、確かお弁当を忘れた(嘘。ふだんからお弁当なんて持ってきたことはない。みんながお弁当持ってるの羨ましいなと思って、ぼくは忘れているだけのことにした)ときのお昼休みだったと思う。
 お小遣いもたまたま持ち合わせがなかったから、購買でパンすら買うことができなくて。
 周囲がお昼を貪る中、教室を抜け出して屋上に行って。フェンスにもたれかかってカバンの中に入れていた文庫本の小説を読むことでひたすら耐えていたら、火織さんが近づいてきたんだった。
 よかったらお弁当、ちょっと食べる~? なんて。
 そんなことを言いながらお弁当を広げて、お箸でウィンナーをつまんでぼくの口に入れさせようとしてきたものだから。
 今まで女の子にとんと縁のなかったぼくはいっぺんに好きになってしまったし、火織さんのほうでもぼくのことが好きなんじゃないかと思い込んでしまうぐらいだった。
 それが勘違いだというのは、一週間後ぐらいに別の全然関係ない男子に似たようなことをやっているのを目撃したからだった。拙い字で書いたラブレターは、自室の引き出しの奥底に封印されることになった。
 ようするに火織さんは言ってしまえば誰にでもそういう事ができる、距離の近すぎる人なのだ。
 思い上がりをわからせられてはしまったが、別に彼氏がいたとかそういう話は聞かないし、相変わらずぼくは火織さんのことが好きだった。その気さくさから火織さんには友達が男女問わず多い人気者だったから、ぼくのような根暗は、遠巻きにそれを眺めるぐらいしかできなかったけれども。

 閑話休題。

 別に火織さんの体操着が目当てで、放課後の教室にやってきたわけじゃない、というのは言い訳しておきたい。
 机の中に入れっぱなしになっていたノートを取りに来ただけだ。
 放課後、夕日が差し込む無人の教室。窓際の自分の机から、目当てのものを回収して。帰ろうか。
 振り返ると、目に入るのは机の上に無造作に脱ぎ散らかされた体操着の上下だ。
 適当に置かれすぎてて、今にも机の端から落ちそうになっている。

 持ち主が帰ってきた時、床に落ちていて、ホコリにまみれていたら嫌だろうな。
 そんな親切心が働いて、それに近づいてつまんで机の中央に戻してあげようとする。
 そうしたら──見つけてしまった。白い体操着の胸の部分に“火織”の刺繍があることに。
 その瞬間から、体操着は特別な意味を帯びてしまった。

 今日の最後の授業は体育だった。
 脱ぎっぱなしにして、足早にバスケ部に行ったんだろう。
 この体操着を着て運動着に励んでいた火織さんの姿を思い出す。
 きっとしっかり汗を吸っているんだろうな。

 周囲を見渡す。
 中途半端な時間だから、誰もいない。廊下にも人気はない。
 バスケ部の活動が終わるまでにはしばらくかかるだろう。
 そんな計算を数秒のうちにしてしまう。

「……ちょっとだけ」

 別に、裸を覗くとかじゃない。持ち物を舐めたりとかするわけじゃない。
 単に、匂いを嗅ぐだけだ。
 内心でしょうもない言い訳を繰り返しながら、そっと、小さな生き物をそうするみたいに、両手で慎重にすくい上げるみたいにして体操着を持ち上げる。

「…………」

 どきどきと、胸が高鳴ってうるさい。
 最初に気まぐれで、火織さんに声をかけられた時、いやそれ以上に。
 最初に、裾の部分に鼻を近づける。
 それだけで終えるのだと言い聞かせて。

「!」

 つん、と甘酸っぱい匂いが鼻腔を抜ける。
 それだけで頭が痺れるような気がした。
 ぼくの火織さんへの好意を差っ引いても、悪いとは思わない。
 でも、人には決して積極的に嗅がせようなどとはしないだろう。
 そういった恥ずかしい匂いを嗅ぐことで、親密な距離に近づけた、そんな気がする。
 もちろん、そんなわけはないのだけれど。

(もう、がまんできない)

 持っている体操着をずらして、鼻先に胸元部分あたりがくるようにする。
 汗染みは腋か、首筋、胸元あたりが一番濃いものだ。
 “火織”の刺繍が視界を横切る。
 火織さんは背丈が女子の中でも低くて、中学生にも間違えられそうなぐらいで。
 それでいて胸の発育が豊かだから、余計その大きさが強調される形になる。
 それを包み込んでいたのが、この柔らかく、湿った布。
 
「っ、はあっ」

 思わず声が出る。
 くしゃくしゃの体操着の胸元はまだ汗が乾いていなくて、くっつけた鼻先が濡れてしまう。
 体熱を失いつつある汗の匂いは、饐えたものでありながら、いくらでも嗅げてしまう魔の魅力がある。確かに生きている、火織さんのにおい。

「ん、すーっ、すーっ」

 体操着を広げる。白いポリエステルの布地全体で顔を包み込むように。
 腋や首筋の部分も貪っていく。
 視界にはもう何も見えていない。
 まるで自分が小さくなって、体操着の中に閉じ込められているような、そんな錯覚すらある。
 だから、教室に誰かが入ってきていることにすら気づけなかった。

「その匂い、すき~?」
「ん、ウォッんっ」

 犬が吠えるみたいな声を上げて飛び退ってしまった。
その姿はさぞや無様だっただろう。
 顔を覆っていた体操着を剥がして、どこか楽しそうな声の出処に視線を向けると、こちらをどこか楽しそうに覗き込んでいる、バスケ部の黒いユニフォーム姿の小柄な女子と目が合った。
 弾むようにやんちゃな、ビーグル犬を思わせる、みんなの人気者。
……火織さん本人。

2.
「あ、いや、これは、違くてっ」
「違うの? じゃあなんで、これ嗅いでたの?」

 なんの言い逃れも出来ないのだが、反射的に否定してしまう。
 悲鳴を上げられてもおかしくなさそうな状況だが、火織さんはそうせずに、くりくりとした、好奇心を隠さない栗色の目でこちらを見つめてくる。痴漢の現行犯というよりは、物珍しい生き物を見つけたときの目。

「わかるわかるっ、わかるよ。女の子の汗って、いい匂いするものね。わたしも更衣室でみんなの汗と制汗剤の匂いに包まれてるとき、なんとも言えない気持ちになるもん。さすがにこんな話、誰にもしたこと無いし……」

 まさか直で人の服を嗅ぐ人がいるなんて思わなかったけど、と火織さんは笑った。
 その性癖の暴露を、どれぐらい素直に受け止めていいものかわからなかった。ほんとうにそうなのか。ぼくを許す理由を探しているのか、ぼくという変態に恐怖して、同調しようとしているだけなのか。どう反応するのが正解なのか迷って、そうなんだぁ、と間の抜けた曖昧な笑みを返すにとどまった。

「ね、わたしの体操着、いいにおいだった?」

 しかし、そんな直球な問いには、少しの沈黙のあと、「うん」と、頷くほかなかった。
 なんの言い逃れもできないのだから。

「じゃあ、さ。もっといい思いしてみない?」

 肩を抱き寄せる。普段なら考えられないような馴れ馴れしい距離で、取り出してみせたのは小瓶だった。平べったいビスケットのような不思議な形をしていて、噴霧口がついている。
 それをぼくの顔にかざすと、シュッ、と吹きかけた。思わず目をつむり、噴射されたそれを思いっきり吸い込んでしまう。

「けほっ、え、これ、何」
 すぐにわかるよ。そう微笑む火織さんの顔が、ぼくの目線の高さにある。あれ? 瞬きした次の瞬間には、見上げることになっている。

「え? 何? なんか変なこと起こってない?」

 徐々に火織さんの身体が、せり上がっていく。いや火織さんだけではない。等間隔に並ぶ机も背が高くなって、すぐに教室を見渡すことができなくなる。壁も天井も蛍光灯も、遠くなっていく。

「魔法のおくすりだよ。小さくなっちゃうの」

 小さくなる? ぼくが?
 しかしそう言われると、すとんと納得してしまう。でも理由がわからない。どうして。
 普段から嘘ばかりついているから、嘘みたいな光景を見させられているのかな。
 腰をかがめて、火織さんがぼくを見下ろす。もっと幼い小学生ぐらいだった頃、見上げた大人を思い出す。つまりはそれぐらいの背丈の差になってしまっているのだろう。服も身体と同じように小さくなっているのは、魔法だからだろうか。

「ちょ、やめてよ……っ」
「え? やめていいの? 本当に?」

 きょとんとした様子で、かがみこんだまま、ぼくに両手を伸ばして、腋の下をよいしょと抱えて持ち上げてしまう。かんたんに、床から脚が離れていく。わっわっ。落ち着かない。足がぶらぶらと揺れる。

「こういうことも、してあげられるのに」

 温かい腕に抱えられて、ゆるく抱きしめられる。こんな風に抱っこされるなんていつ以来だろう? 胸、やっぱ大きいな。ユニフォームなんかじゃ全然それが隠せない。ふくらみの下半分に、額が押し付けられて、いやでも柔らかさと暖かさを堪能させられてしまう。いや、それが主目的なんじゃない。髪や服に染み込んだ汗の匂い。それを嗅がされている。ぼくが小さくなって向こうが大きくなったぶん、より濃密になっていた。

「自分より大きい男の子にこうされるとさすがに怖いけど、今ぐらいちっちゃいなら、こうされても全然大丈夫。ふふ。よかったね、小さくなれて」

 わたしのおかげだよね? とでも言いたげな声色。
 まずいことをしている。我に返って顔を上げて胸元から離れようとして、おおきな手がぼくの後頭部を覆って、同じ場所に押し付ける。汗じみに鼻頭が濡れる。運動部と帰宅部という違いなんて生易しいものじゃない力の差。女の子の小さな手のひらにさえ逆らうことが出来ないのが、今のぼくということらしい。
 小さくされて年少のこどもみたいに抱え上げられて無理やり汗の匂いを吸わされているこの状況。ええと。つまり火織さんはどうしようもない変態ってことだ! 

「変態!」
「それ、きみが言うの~?」

 あっけらかんとした返事。胸に押し付けられながら言ったせいで、もごもごと響いて火織さんはくすぐったそうにした。力ずくで変態行為に巻き込まれているということ。女の子の柔らかさ。体臭のかぐわしさ。好きな女の子に触れているということ。いくつもの要素がぼくを混乱させる。

「あのねえ、この魔法のおくすり、興奮して血が上ると全身に回って、どんどん小さくなっちゃうんだって。……ふふ、今もやらしい気持ちになってるんだよ、きみ」

 はっとなる。密着しているので分からなかったが、手足が火織さんの身体に吸い込まれるように縮んでいくのが、彼女の腕と自分の手足の太さを比較して解る。両腕で抱えあげられる幼児大だったぼくは、今や片腕で持てるぬいぐるみサイズだ。

「ねえねえ。わたしのおっぱいで興奮してるの? それとも、汗のにおい?」
「ぼ、ぼくが悪かったから。許して。どっちだっていいでしょっ」
「許すとか許さないとかじゃないのにな。
だって本気で抜け出そうなんて、してないでしょ?」

 違う。ぼくはもがいている。ぼくが小さすぎて、相手が大きすぎて、抵抗だと認識されていないだけだ。……でもどうなんだろう。ぼくは本当に、抜け出したいと思っているんだろうか。自信がなくなってくる。

「ほーらっ。どんどん吸って……どんどん、小さくなっちゃえっ」

 胸だけでは終わらない。やわらかいお腹、ユニフォームでは隠れない、きつい匂いのする腋の下。むっちりとしたふとももの間。いろんなところに火織さんはぼくを案内して、そのたびぼくが小さく情けなくなっていくのを、にこにこと観察する。興奮し喜んでくれるのがうれしいのか、縮んでいくのがおもしろいのか。

 気がついたら、ぼくはもう、どうやら子猫みたいな大きさになっているみたいだった。

3.
「ふふっ。結構かわいくなったね」

 机の上に乗せられて、つん、と丸太のような指でつつかれる。
 なんだかとても恐ろしいことになっている気がするけれど、あまりにも荒唐無稽な出来事に、ぼくはこれが現実であることを半ば認識できていなかった。それは相手にしたって同じことかもしれない。
 親しげにじゃれついてきているつもりなのだろう火織さんに、ぼくはへとへとになってまともに返事をすることもできず、小さく呻くばかりだった。あれだけ火織さんの身体に押し付けられ蒸されていては当然だ。小さなおもちゃで遊ぶのと、遊ばれる小さなおもちゃの疲労はぜんぜん違う。

「もう小さくなるの終わり?」

 机に突っ伏してぺたんと頬をくっつけて、ぼくを間近で眺める。大きなふたつの目が、無邪気そうに輝いている。まだまだ遊び足りない。人懐っこい犬、ただし超巨大。そんな感じ。机と彼女の身体の間に挟まれた二つの膨らみが重さと圧力で歪んでいる。そのうちの片方にぼく一人分はゆうゆうと入れてしまいそうだ。

「も、もう、勘弁して。戻して」
「ええ~」

 不満そうな声。

「嘘はよくないよっ。もっと吸いたいんでしょ? わたしともっと遊びたいって、思ってるんでしょ?」

 この目に見覚えがあった。あの日の屋上で半ば強引にお弁当を押し付けてきたときの、喜ばれないはずはないという、どこか思い上がった気持ちを映した瞳。弱く、隅っこに追いやられた個体を慈しみ、その反応を喜ぼうという驕り。

「……」

 ぼくは沈黙を貫くことにした。またしてもぼくは、どう答えていいのかわからなくなっていた。

「あ、そ」

 無言を否定と解釈したらしい火織さんは、ほっぺを愛らしく膨らませて唇を尖らせる。おもちゃが思い通りにならないことが気に食わないのか。畳のように大きな手のひらがぼくに迫り、胴体を拘束する。そうして椅子に座ったまま、ぼくをゆっくりと床に下ろした。

「……?」

 何をするつもりなのか、と思って神妙に見上げていると、火織さんは立ち上がる。十倍近い大きさになってしまった火織さんは、通学路で見上げる街路樹のケヤキを思わせる。こんなに大きい生き物に、ぼくは遭ったことがない。
 そのケヤキの樹が、ぼくの直ぐ側で足踏みをし始めた。
 上履きの底が隕石のようにぼくに降り注ぐ。

「あ、わ、ひっ」

 ズダン! ズダン! 潰されてしまえばぺしゃんこになってしまうだろう。振動に足を取られ、上履きの上に逆に乗り上げたりしながら、彼女の作り出す脚の影から逃げる。小柄な女子に踏み潰されないように逃げるなんて、こんなにみじめなことはないだろう。文字通りほうほうの体で、椅子の下という安全地帯に逃げ込む。椅子の裏側が、天井のように広がっている。避難訓練のときは机の下に逃げろと言われるけど、いまのぼくには椅子の下で充分だ。彼女の存在はネズミ大の生き物には災害も同じというわけだ。

「な、な、な、何をっ、ひお、ひおりっさんっ」
「何って、着替えてるんだけど。帰るから」

 踏み潰されないように逃げ惑っていたからわかなかったが、いつのまにか火織さんはユニフォーム姿をやめて、ブラウスとチェックのスカートの制服姿に戻っていた。足踏みをしていたのは、ユニフォームの下のほうを脱ぐためだったようだ。
「これ以上無理にきみを付き合わせてもよくないもんね。わたし、帰るよ。またね」
「ちょ、ちょっと待って」

 かばんを背負って、教室の出口へと火織さんは向かい始める。本当に帰宅するつもりなのか? だとしたらぼくはどうなる。こんな大きさのまま取り残されるのか?

「ま、待ってっ、待ってよっ」

 机の下を出る。今度は逆に、あの恐ろしい火織さんの脚にまとわりつかなければいけなかった。

「もとに戻してよっ。こんな大きさ、やだっ」
「ちょっと、やめてよ」

 火織さんはうっとおしそうに、片脚を振った。ぼくはあっけなくふっとばされて、机の脚に激突する。ぎゃん、と声が出た。

「さっきから、わがままばっかり」

 周囲が影に覆われる。火織さんがかがんだことでその巨体の作る影が濃くなったのだ。はあ、はあと弱々しく息をしながら、手招きする火織さんの眼の前まで、のろのろと歩いていく。どれだけみじめでも、火織さんに従うしか無い。

「どうしてこんなことになってると思う? きみが悪いんだよ。きみが体操着の匂いなんか、ワンちゃんみたいに嗅ぐから……先生とかに告げ口してもよかったところを、わたしと遊ぶだけで許してあげる、って言ってるんだよ。わからないの?」 

 火織さんの口調は、悪いことをしたこどもにたしなめ言い聞かせるものと、全く同じだった。たしかに、ぼくが悪いのかもしれない。でも、いくらなんでも、やりすぎなんじゃないだろうか。そんな反発心も、見下ろしてくる火織さんと目が合えば、しなびてしまう。しゃがみ込んだ姿勢の彼女は、立っているときとはまた違う迫力があった。

「わかった? わかったら、ちゃんと返事して」
「……はい」
「今のきみは、わたしがお世話してあげないと、なにもできない」
「……はい」
「だから、きみはわたしと遊ぶの。いい?」
「……はい」

 ぺこ。ぺこ。ぺこ。お辞儀するだけの機械になる。穏やかな口調からは、圧迫感を覚えずにはいられない。逆らおうという気持ちが、溶けるように消えていくのがわかった。もう少しだけ彼女に付き合えば、元に戻して、解放してくれる。そんな希望にすがる他無かった。

「うん。いい子。わたしと遊びたいんだよね、本当は。素直になってくれてよかったな」

 火織さんはようやく機嫌を取り戻したのか、にっこりと微笑む。それじゃあそこにいてね、と告げて、火織さんは再び立ち上がると、ぼくをまたぐように立った。紺のソックスと上履きに包まれた巨大な肌色の柱が曲線を描いて、ぼくの頭上で合流している。つまりスカートの中が丸見えである。

「火織さん、なにを」
「いいから」

 頭上で衣擦れの音が大きく響く。まさか、と思った次の瞬間、黒い天井が、ぼくを覆うようにして垂直に落下してくる。逃げられるはずもなく、ぼくはそれに押しつぶされた。
 視界が真っ暗闇に閉ざされる。死んだかと思ったがそうではないらしい。なにかに全身が押しつぶされている。柔らかく肌触りがいい材質ながら、まとわりつくように重く、立ち上がることができない。黒い布だ。それも湿った。這い回って、出口を探す。呼吸しようとすると、口や鼻に、甘酸っぱいような、塩辛いようななんとも言い難い匂いが入り込んで占領してくる。まるで、黒い海のなかに投げ込まれたようだった。

「ふふふ。どう? 居心地いい?」

 外から、火織さんのくぐもった声が響く。

「……あ、ひょっとしてわからないかな?
 それね、わたしの……」

 何かを考える余裕ができれば、ぼくにも理解できる。さっき、スカートの下に立っていた時、一瞬だけその中身が見えた。そう、これは彼女が穿いていた、
 ──黒いスパッツ。

「あ、あっ、あ、出して、出してっ」

 半狂乱になってもがく。下着に包まれていることが、嫌だからではない。むしろその逆だった。こんな場所にいたら、嬉しすぎて狂ってしまう。
必死に這い出ようとしていると、浮遊感に包まれる。火織さんがスパッツごとぼくを持ち上げたのだろう。その拍子に、ぼくはスパッツの底まで転がってしまう。何度即席の斜面を登ろうとしても、似たようなことの繰り返し。蟻地獄に囚われた蟻のようだった。火織さんの直穿きのスパッツ。授業中はもちろん部活中もずっと穿いて、生きた匂いを染み込ませた布の檻。服の上から押し付けられて嗅がされたのとはわけが違う。一日かけて熟成させられた、何百倍も濃密な匂い。さっきまでこれに触れていた火織さんの肌の熱気が、サウナのようにぼくを包んで蒸す。

「あーあーあー。こんなにちっちゃくなると、もう女の子のスパッツにも閉じ込められちゃうんだね。それとも、出たくないだけなのかな?」

 心の底から楽しそうな声が響く。
 やがて黒い天井が切り裂かれ、暗闇に光が差し込む。スパッツを開いて、火織さんがぼくの様子を覗き込んだのだ。

「……? いつのまにか裸になっちゃったねえ。脱いじゃったんだ。それに、何してるの? わたしのスパッツに、身体を押し付けて」

 スパッツの奈落の底にいるぼくを、女神のように見下ろす火織さん。彼女の姿が、もっと大きくなって、スパッツという世界ももっと広大になってぼくを閉じ込めていた。
 なるほどねえ。火織さんは笑って、スマートフォンを取り出すと、ぼくに向けてかざす。(あとでわかったことだが)ルーペの代わりにしてズームしながら動画を撮っていたのだ。

「きみは、虫みたいに小さくなって、同級生の女の子に見られながら、脱ぎたてのスパッツと、セックスしたかったんだね。ごめんねえ。それはさすがにわたしもわかんなかったや。ほかほかのスパッツとセックスできるなんて、きみみたいな小人さんにしかできない特権だもんね」

 ぼくを辱める火織さんの言葉も、半ば耳に届いていなかった。ぼくは夢中だった。もうベッドマットのように広いスパッツの底のクロッチは汗だけではない、性と生の、濃い匂いがして、ぼくの脳を熔かしていた。

「体操着を嗅いでたのが、きみでよかったな」

 スマートフォンをしまって、火織さんは目を細める。

「だって、きみがいなくなったって、誰も悲しまないものね」

 再び、世界が闇に閉ざされる。火織さんが、スパッツを再び折りたたんで閉じただけだ。逃げ場を失った火織さんの体臭と恥臭が、ぼくの穴という穴から入り込むようだった。

「それじゃ──わたしに握りつぶされて、虫になっちゃえ」

 その言葉とともに、周囲の黒い壁がぼくに迫ってくる。動けるだけの空間のゆとりが消え去り、全身が押しつぶされる。口の中に汗に湿った繊維が押し込まれ、服に守られない肌という肌がこすりつけられる。火織さんが片手で、スパッツごとぼくを握りしめているのだ。

「あ、あっ、あ、ああああああああ────っ」

 押しつぶされながらぼくは何度も何度も痙攣して果て、火織さんのスパッツを汚した。
 そのたび、その体を縮めながら。

4.
 どれだけの時間が経っただろうか。
 世界が傾いて、気を失っていたらしいぼくは、スパッツの牢獄から転がり落ちる。
 落ちた先は、隆起した肌色の地面。這いつくばって触れるそれは、人肌の暖かさをしていた。

「ほんとに虫みたいにちいちゃくなっちゃったねぇ」

 ひそめられた声が、大音量となって叩きつけられる、奇妙な現象。
 肌色の大地──手のひらの上のぼくを見下ろす火織さんは、もう首から上だけで、スパッツに閉じ込められる前の火織さんの背丈と同じぐらいになっていた。人間を丸呑みできそうな大蛇のような指が、ぼくの傍へと迫って並べられる。わかる? 指と比べてこんなに小さいんだよ、と。折り曲げられる指はゆうゆうとぼくの背丈を追い越して、爪の先に見下されることとなった。

「こんなに小さくても、ちゃんと人間の言葉わかるんだね。怖がってるの? かわいいね、おちびくん。ほら。立ちなよ」

 指の腹がずどん、と追突してくる。向こうとしてはかるく突いているだけのつもりだろう。そうじゃなかったら、とっくに潰れているはずだ。もう抵抗する気すら起こらない。突かれるまま教室のように広い手の上を転がり、端に追い詰められ、あわや落ちそうになったところで、もう片方の手指に挟み込まれ、宙に連れ去られる。
指の腹だけで、ぼくの下半身がむっちりと包まれ、覆い隠されてしまう。裸になってるせいで、こうしてつままれるだけでも、気持ちよくて、ひん、と甘えるような声が出てしまう。指に乗せたところで重量なんて感じないだろう。本当の蟻のような大きさになってしまった。こんなに弱いのに、ぼくの自認がまだ人間のままなのが、不思議なぐらいだった。子犬のような火織さんを見下ろしていた記憶が、もはや別人のもののように思えてきた。

「あのね。元に戻す方法は、ないよ。魔法のおくすりを買った人からそう教えてもらったの。きみは一生その大きさで、踏み潰されないか怯えながら、生きていくの」

 風景が急速に動く。指で摘まれたまま、ぼくの身体が眼前まで運ばれる。女の子の顔の高さが、高層ビルの屋上ぐらいに思えた。落とされたらきっと命はないだろう。

「……うれしい? 小さくなれて」

 理屈で言えば、うれしいはずがない。自由と尊厳を奪われて、いいように弄ばれて。この先ずっと戻れず、弱い姿で生きていくなんて。小さな虫や獣が持っているような生存術は、小さくされた人間には存在しないというのに。
 けれど、ぼくは、自由になっている首で、うん、と頷いてしまった。

「うん。うれしいよね。こんなに、表情もわからないぐらい、消しゴムよりも小さくなって。わたしじゃなかったら、いまのきみのこと、人間だなんてわからないよ。野原に放したら、雀さんにだって食べられちゃうかも」

 ふふ、と火織さんは小さく笑った。だから、わたしに守ってもらわないとね。
唇の蠢き一つですらも、ぼくにとっては恐ろしい。かすかな息遣いでさえ、湿った風となって叩きつけられる。いちご色の舌が、夕陽に照らされて、官能的に光った。

「どこに入れて運んであげようか迷ったけど」

 ここばっかり見てたもんね。おちびは。
 そう告げて、ぼくをつまんでいないほうの手でブラウスの前を開く。ふたつの大きなマシュマロを包み込んだ黒いスポーツブラが、鯨の肌のような光沢を見せていた。
 
「いっぱい味わってね」

 なんの躊躇もなく、ぼくをつまんだ指がブラウスの奥に突っ込まれる。ブラの端が指で引っ張られ、そこに出来た隙間から、ぼくの身体は指ごと押し入れられ……指が去っていくと、ぼくという闖入物だけがブラの中に、取り残され閉じ込められる。
 衣擦れの音。ブラウスが閉ざされて、ぼくのいる空間は完全に外界から隔絶された。
 全身ではつらつと育った肉の巨球の下半分と、強制的に抱き合わされる。いや、底にへばりつくと言ったほうが適切だろうか。薄暗く湿り、体熱で蒸し暑いこの空間。まさに鯨の腹の中に落とされれば、こんな感じになるのだろうか。肌の下、血管を血で流れる音、心臓の鼓動が、直に伝わってくる。
 汗が染み出して、重力に従い、胸の底にいるぼくのほうへと流れ落ちる。大きな汗の珠がぼくの顔にまとわりついて、溺れそうになる。必死に顔を揺さぶって、それを振り払う。少し飲んでしまった。

「セックスしていいよ。わたしの胸と」

 世界が動き出す。縦に規則的に揺れる。ぼくを閉じ込めた胸も、ゆさゆさと。そのたびハリのある肌にぼくという小虫は押し付けられて、全身の骨をきしませながら、また快楽に脳が支配される。死んじゃう。潰されて死んじゃう。ぜんぶが火織さんに奪われる。喜びによって。こんなものはセックスでもなんでもない。だって火織さんは、ただ歩いているだけ。人間がただ歩くだけで小虫は、絶頂と絶望の間を振れ動く。

「ふふ。おちびが嬉しくなってるの、伝わってくるよ。おちびは、同級生の女の子のおっぱいで潰されるのが、大好きだもんね」
 
 世界が暗闇に包まれる。火織さんが胸を、手で覆ったのだろう。背中をさするような手つき。狭くて蒸れて暑くてどうしようもなく不快な空間から、もうぼくは逃げ出そうなんて思えなくなっていた。

「いい? わたしのちび虫さん。
 おっぱいでぷちって潰されちゃ、だめだよ。おうちに帰ったら、いっぱい遊ぶんだから」

 慈愛に満ちたその声を聴きながら、ぼくは目を閉じた。

(了)