ハンド・トゥ・ハンド

※小さくなった女の子が女の子とアレします。
※特殊な嗜好向けの不愉快かもしれない表現があります。



1.ああっ女神様!

 初夏の昼下がりの公園に二人の少女がいた。近くの学校の指定制服であるブレザーを着ていることから、そこの生徒なのだろう。
「せ、先輩ッ! 明日にはもう引っ越して都の学校に行っちゃうってほんとなんですかっ」
「ああ、そうだ後輩。誰から聞いたんだ?」
 はぁ、はぁ。
 後輩と呼ばれた少女は走って来たらしく、肩で息をついている。もう片方の先輩と呼ばれたほうは、そんな彼女のほうへ振りむこうともしない。
「……その、先生からたまたま話を聞いて。ひどいですっ、なんで私たちには言ってくれなかったんですか」
「そうやって、騒がれるのがいやだったんだ。どうせ数か月もすれば忘れるよ、私のことなんて」
 冷水のような言葉を浴びせて、先輩はすげなく去っていく。最後まで後輩のほうを向くことはなかった。
「……う、ううっ」
 後輩は、しばらく呆然としていた。傷心に、ふらふらと数歩後ろに下がるとそこには自動販売機が存在を誇示していた。
 後輩は財布から小銭を取り出して乱暴に自販機に突っ込んで、ボタンを二連射した。スチール缶のコーラが音を立てて取り出し口に落ちる。数分後には、自販機そばのくずかごには二つのコーラ缶が増えていた。
「うわーん!」
 はしたなくも大きなげっぷをする。しかし、彼女の悲しみがそれしきで癒されるはずもない。
 次に後輩が目をつけたのは公園中央の小さな噴水だった。
「女神様仏様、私の願いをいるならかなえてくださーい、なんて」
 後輩は財布から取り出して使わなかった百円玉を噴水に投げてみた。ぽちゃりと沈む。
 すると、噴水の中央から泡を立てはじめた。
「えっマジで」
 噴水の中から現れたのは、小さな女の子だった。等身自体は後輩と変わらないが、縮尺がおかしい。身長は十五センチほどだろう。一糸まとわぬ姿で、背中からは小さな虫羽を生やしている。両腕には、さきほど後輩が投じた百円玉を大事そうに抱えていた。
「お呼びとあらば即参上、あなたの街の女神様でーす」
「え、えー。いやどう見ても妖精じゃないの」
「いいえ、女神です!」
 小さな胸をツンと反らせる自称女神。
「本当はグラマーぼいんぼいんで身長ももっとあって背中からは尊大な白鳥の翼が生えているはずなんですけどね。みんなが私のことを忘れちゃったからこんなにせこいからだになっちゃったのです」
「はあ」
「ともかく、お困りなんでがんしょ? 迷信浅い現代人が銭投げてよこすってことはさ。この百円玉のお礼に何か願いをかなえてあげましょー」
 やたらフランクなのも信仰を失ったからだろうか。むちゃくちゃな状況だが後輩はなんとなく受け入れる気分になっていた。あまりに唐突過ぎてどうすればいいのかわからないのだろう。まあ夢なら夢で。
「じゃあ三億円ちょうだい」
「はい」
 女神がパチリと指を鳴らすと、足もとの舗装された床が割れて盛り上がり、モリモリと札束が出てきた。
「えっマジで」
「そのセリフ二回目ですよ」
 ひとつかみ手にとってパラパラとめくってみる。しかし小市民である後輩風情にはこの万札が本物であるかを判断することは難しかった。
「これ、本物」
「スカシも通しも問題ないよん。まあ三十分経てば土に還るエコ仕様だからその間に使い切ってね」
「無理ッ! クーリングオフ! キャッシュバック!」
「贅沢ですねぇ、これだから現代人はぁ」
 もう一度パチリ、すると札束は細かい土くれとなって後輩の指の間をすり抜けていった。残ったのは足もとに開いた大穴ぐらいか。
「ほかにも『舐めると性転換する飴玉、ただし指先だけ』とか『触れたものが黄金に変わる手ぶくろ、ただし触っている間だけ』とかありますけど?」
「微妙〜……」
「女神様は女神様でもせこくなった身の上ですからぁ」
「幻覚に頼るのが間違いだったなぁ」
「まあ、待ちなさいって。あなたちゃん、本当のお願い事言ってないでしょ?」
「……えっ」
「はい、これ!」
 女神が魔法のステッキでも振るように何も持たない手を動かすと、いつのまにか後輩の右手首には真っ赤な原色の腕時計が巻かれていた。
「それは、『ほしいものを何でも手に入れられる魔法の腕時計』でーす!」

 *

 後輩は全力で走り、アグレッシブに近道して先輩より先に駅に回り込んだ。駅に向かうと知っていたわけではない。バス亭、橋、この町の出口はほかにもいろいろあったので、そこから移動するのであったならアウトだった。その時は金輪際諦めるつもりだったが、どうやら運命の女神は後輩へほほ笑んでいたらしい。
 ほどなくして、後輩はいままさに改札をくぐりぬけようとしている先輩の姿を目視する。
「せんぱーいッ」
 先輩は声に振り向く。後輩には食傷しているのか、眉をひそめていた。
「またか後輩。電車が行ってしまう、用が残ってるなら早く済ませてくれ」
 ……言わなきゃ。
 返答次第では、『これ』を使うつもりはなかった。
「今だから言いますけど、わ、私先輩のことが、す、す、す」
「酢豚? 私の昨晩の夕食のことをよく知ってるね」
「そうじゃなくて、す、すす、すき」
「スキアヴォーナ? テニスの選手かい」
「そうでもなくて、」
「ああ、ほら、もう電車が出る」
「すす、す——」

「好きなんです、先輩のことが!!」

 それに対して先輩がどう答えたかは覚えていない。後輩も、先輩自身も。それは好都合なことだったろうか。
 後輩は泣きはしなかった。下くちびるを噛んで、のどの奥から漏れる嗚咽を抑え込んだ。
 右手首には、慣れない感触が転がっている。

 *

「……『ただし』は?」
「そうですね、ためしにあそこの自動販売機なんてどうでしょうか?」
「私あんなもんほしくないんだけど」
 中身なら欲しくないことも……いや欲しくない。やけ飲みしたコーラがおなかをタプタプと鳴らしている。
「今だけ自動販売機が好きなあなたちゃんでいてください! えーとですね、その右手を自動販売機にかざしてみてください。あ、拳は握ったまま。これ重要」
「ふんふん?」
 全く話を聞く気配のない女神に呆れつつも、言われたままに握りこぶしを自動販売機に向ける。人は入っていない。
「『うおおー自動販売機ほしい! 俺は自動販売機と結婚するぞー!』と叫びながら右側面にあるポッチを押してください」
「う、うおおー自動販売機ほしい、おれは自動販売機とけ、けっこんするぞー」
 ポチリ。
「まあ叫ぶ必要はなかったんですけどね」
「ないのかよ! って、あれ?」
 気がつけば自動販売機はあとかたもなく消えている。
「では、右手を開いてみてくださーい」
 右手を開いてみると、……自動販売機があった。全長五センチぐらいの。
「ほらね! 手に入ってるでしょう! 文字通り!」
「『ただし手の平サイズ』ッッ」
「おやー、何かご不満でも」
「こんなちっちゃいんじゃ意味ないじゃん!」
 思わず右手に力を入れると、ちっぽけな自販機は中身もろともメチャリと粉々になってしまった。
「あーあ壊しちゃって、それもう元には戻りませんよ」
「ともかくこれもクーリングオフ! つまらない期待させて、ほんとに!」
 拒否の意を示すために腕時計を巻く右手を突き出すが、女神は宙に浮かんだままにたにたと笑っている。
「……いらないんですかぁ、ホントに? それ、私の出せるアイテムの中では破格の出来なんですよお。手を放しても元には戻らないし、放っておいても土くれには戻らない。手のひらサイズでもいいから欲しいものって、あなたちゃんにはあるはずですよね? ……いや、手のひらサイズなのが、逆にうれしいことだってあるかも? かも?」
 後輩は、手首を突き出したまま沈黙した。
「……よろし。では、そのアイテムのオプション機能をお教えしておきましょう」

 *

(まだ人間には、試したことが)
 改札に切符を通し、ホームへと向かう先輩の後ろ姿に、後輩は腕時計の見えない照準を合わせていた。気分は少年探偵だ。いや、犯人?
(射程は何メートル?)
 開いた右手のひらを改札の向こうへと突き出しているその姿は滑稽だったが、忙しい人々はそんなものにかかずらってはいなかった。
(射程は心。精密性は認識。元に戻すことも可能。されど元に戻せしとき、二度と手中には手に入らず……)
 後輩は女神の説明を復唱していた。
 まだ取り返しがつく。すこし異常な人間が傷を作った、それだけのお話で済む。
 本当にこんなものに頼ってまで手に入れなければならない存在なのか、彼女は?
(うるさいっ)
 後輩は右腕の震えを無理やり抑えつけた。
(覚悟はとうに決めた。二度の安全弁を通り抜けた。いまさら躊躇してどうするっ。ここでクーリングオフしたら一生後悔する、そんなのはいやだっ!)
 歯を食いしばり、拳を握りこみ、腕時計のボタンに手を伸ばした。
 その瞬間、彼女は一陣の風が吹いたような感覚を覚えた。
 一瞬、駅構内が無音に包まれ、すぐにその喧噪を取り戻す。
 後輩がまっすぐに見つめていた先輩の姿は忽然と消えていた。誰も気づかない。完全犯罪の成立だ。
 彼女は手の中の未知の感触に戸惑いつつ、頑なにしかし力を入れすぎないように握ったまま、人気のない女子トイレへと駆け込んだ。手のひらの中身を誰かに見られたら、夏の幻のように溶けてしまいそうな気がして。

 *

 大きな滝のような音に、先輩は目覚めた。最初に気づいたことは空気がいままで味わったことのないものになっていたこと。全身が何か柔らかなもので包まれて、その中で眠っていたということ。体を起こすと、ぼんやりとした視界に、ただひたすら白く広い大理石の空間という解釈に困る光景が広がっていたので、ああこれは夢なんだなと思った。灰色の空には、まっ白く細長い太陽が輝いている。白と薄灰色の景色の中数歩踏み出すと、足場は途切れていた。
「きゃっ!」
 そこは絶壁だった。
 危うく落下するところをどうにか白い大理石の足場のヘりを掴むことでしのいだ。下を見るが、地表は遠すぎてその輪郭をつかめない。あいまいだった意識はとっくに覚醒していた。
 映画ではよくこういうシーンで難なく這い上がっているものだが実際にそういう立場に立たされてみると、腕一本で自分の体重を持ち上げるのは案外難しい。推定数十メートル下を見てしまっているならなおさらだ。
「誰か、助け……」
 掌に汗がにじみだし、焦りが加速し始めたその時、あまりに大きすぎて景色としか認識できていなかった何かが動いた。『何か』は、先輩の視点では黒い丸い塊のように見えていた。

 *

 握っていた手を、一本一本慎重に指を開いていく。中身を落とさないように慎重に。
 小指と薬指を開いて見えたのは、マッチ棒よりも細い脚。
 中指を剥がして覗けるのは、指先よりも華奢な腰。
 最後に、親指と人差し指をどかして拝めたのは、自分の瞳よりも小さな頭と、愛らしい寝顔。
 夢にまで見た先輩の無防備な姿が、文字通り後輩の手中に収まっていた。心臓の鼓動が早鐘を打つことを止められない。
 人間に腕時計の効果を使った場合、意識を失わせるという副作用もあったようだ。
(夢じゃ……ないよね)
(夢にしますかぁ?)
(いいところなんだから黙ってて!)
(クーリングオフはいつでもぉー)
 女神は遠く見えないところから後輩を見守っているらしいが、頭の中に直接話しかけられると脳内に住み着かれているような錯覚を受けるのでやめてほしい。
 先輩の身長は目算で五センチぐらいだろうか。左手を「ファックユー」の形にして自分の中指と先輩とを比べてみたが、長さはだいたい同じだった。その太さでは中指が圧勝していたが。
(す、スカートめくっちゃってもいいかな……)
 ぴろっとスカートの端を指先でつまんでみたが、さすがに変態じみてきたのでやめた。
 その気になれば、いや、意図せずとも扱いを誤れば先輩の身体をザクロのようにつぶしてしまうだろう。どれほどこのファンタジックな存在に正しく物理法則が適用されるかはわからないが、落っことしてしまっても取り返しがつかない。かけがえのない命が自分の手、いや指先にゆだねられていることを自覚し、後輩の緊張は増す。決して落とすことのないよう、先輩の全身を両手で包みこむ。
「……う、ん」
 苦しそうに寝がえりをうつ先輩を見て、自分の手が汗でじっとりとしていることに気づいた。まだ季節は初夏だが、小さな彼女にとって汗ばんだ手のひらの中というのは蒸し暑いだろう。スカートからポケットティッシュを取り出し、その中に先輩を入れて便器の後ろにある、自分の胸ほどの高さにある荷物棚に乗せた。
(そっか……私のポケットに入っちゃう大きさでもあるんだ)
 一仕事終えたことによる緊張感からの解放か、後輩の身体は尿意を訴えていた。あんなにグビグビ飲むべきではなかったと軽く後悔する。
(ちょうどおトイレだし……しちゃおうか? でも、先輩がなあ)
 まあ、当分起きる気配はなさそうだからいいか、と後輩は便座に腰を下し、速やかにすることを済ませた。二回ほど念入りにレバーを引いて水を流す。
(これから……どうしよう?)
 先輩を『手に入れる』ことばかり考えていて、その後どうするかは全く考えていなかった。
(引っ越しも転校もできないし……迷惑だろうなあ)
 スカートと下着をおろしたまま、便座に座ったままそんな微妙にズレたことを考えていると、頭上——荷物置き場からかさりとかすかに何かがこすれるような音がした。
(起きた?)
 緊張にそのまま数秒固まっていると、さらに小さいが「きゃっ」という悲鳴が確かに聞こえた。
 首だけを動かして後ろを見ると、小さな人間が大理石の荷物棚の縁にぶらさがっていた。今にも落ちそうだ。
 声にならない悲鳴を上げ、後輩は小さな人間——先輩を助けるために立ち上がった。

 *

 ずぉぉ……。
 大気を攪拌する轟音とともに『それ』はせりあがり、やがては先輩のつかまる足場をはるかに見下ろす高さにまで達した。自分とその周囲が彼女角度の問題でそう見えていただけで、それは黒い塊などではなかった。黒い塊があるのは『それ』の頭頂部だけだ。
 あまりに巨大すぎるために、先輩は『それ』の全体像をなかなか認識できなかった。
 次に思ったのは、『それ』は仏像のような紺色の巨大なオブジェではないか? ということだ。しかしそれも違った。
 はるか下を見下ろすと、『それ』はローファに白いソックスを穿いていることが認識できたからだ。なんだか見覚えがある。もう一度視線を上に戻すと、その紺色の胴体部にはボタンやポケットが散らばっている。こっちには確かに見覚えがあった。なぜならそれは今自分が来ているような学校指定のブレザーとそっくり同じだったからだ。——あまりに寸法が違い過ぎるだけで。
 ここまで何秒を費やしただろうか。最後に、恐る恐る頭上を見上げる。
 ……月よりも巨大な少女の顔が、自分の視界を覆いつくしていた。——しかもそれは、別れを告げたはずの後輩の顔にそっくりだった。——ただ、あまりにもサイズが違いすぎた。
 その大きな瞳の焦点が自分で結ばれていることに気がついたとき、先輩は悲鳴を上げて縁から手を離した。

 *

 後輩の姿を目にした先輩は、驚きのあまり荷物棚の縁から手を放して落下したが、その少し下でちゃんと手のひらで受け止めてあげたので無事だった。もちろん少しというのは後輩の尺度であるので、先輩にとって見れば数メートルを落下したことになる。
 後輩は落ち着くために、手のひらに先輩を乗せたまま恐る恐るトランプタワーを運ぶような動きで便座に座りなおした。さすがにショーツはちゃんとはいたものの、スカートに回す余裕はなかったらしく個室の隅に脱ぎ捨てられていた。
「……え、あ、あ?」
 先輩は掌の肉の弾力に何度かつまづきながらも(それを眺めていた後輩はなぜか背筋にぞくぞくするものを感じた)、なんとか立ち上がり、巨大すぎる後輩とコミュニケーションをとろうとした。
「……こ、後輩、後輩なんだよなっ……。なんで君はそんなに巨大なんだっ……説明してくれ」
 普段堂々としている先輩がおどおどとしているのがおかしくて、後輩はおもわず笑いをこらえた。
「えっ?! 何て言ったんですか? もっと大きな声でお願いします」
 ここは仮にも公共の施設であるので、後輩としてもそれほど大きな声で言ったつもりはなかったが、先輩にとってそれはコンサートホールの大音響にも匹敵した。
 先輩はめまいをおさえながら、それでも巨大な後輩の耳(手のひらから後輩の耳までは何十メートルになるだろうか)には自分の声は満足に届いてないことを理解し、大声を張り上げて自分の意思を伝えようとしたが、声が出なかった。疲労と緊張を強いられて、喉が乾ききっていたのだ。
「き、聞えません! もっとはっきり!」
「ひっ」
 焦った後輩は思わず手のひらの後輩に頭をずいと近づけてしまった。自分の身長の数倍の直径を持つ後輩の頭が高速で迫ってくるのを見た先輩は、情けない声を上げて数歩後ずさってしまった。いかに先輩が小さな体といえど、少女の手のひらはそこまで広くはない。先輩は再びあっけなく足場を失った。
 ここで後輩がスカートをはいていればその皺が先輩の身体を受け止めていたのだろうが、あいにく現在彼女がはいていたのは木綿のショーツだけだった。落下した先輩は露出した後輩の太ももに激突したあと、両脚の作る隙間からさらに下へ——便器の中と落ちていった。後輩は思わず太ももを閉じようとしたが、そんなことをすれば先輩がどうなるかわかったものではない。
 ぼちゃーん。便器内に張られた水は現在の先輩がぎりぎり足がつく程度の深さだった。大滑落を演じた先輩だが、幸いにもそれほどの怪我はなかった。水は流されたばかりで、汚れていないのも彼女にとっては幸運だった。
 先輩はなんとか便器から這い上がろうとするが、濡れた陶器の斜面は彼女にそれを許さない。ずるずると便器内部の水たまりへと落ちて行った。ざばん。便器内に十分な光があれば、先輩は見上げることで白い下着の三角地帯(痴帯?)を見ることができただろうが、ここは暗黒だった。
 ふいに、先輩はバランスを崩して転んだ。知らず知らずのうちに便器中央の『深み』に足を運んでしまっていたのだ。哀れな先輩は水たまりの中でばしゃばしゃともがいた。彼女にとっても深いわけではないし泳げないわけでもなかったが、後輩の肉体によって作られた真っ暗な閉鎖空間という環境が先輩の冷静さを失わせていた。
 もっとも、この期に及んでもまだ先輩はここが女子トイレの個室で、今自分が閉じ込められているのが後輩の座る便器だとは気付けていなかったのだが。
(たいへん、早く助けなきゃ)
 後輩は両足を開き、座ったまま屈みこんで便器の中を覗き込み、先輩の位置を確認しようとした。差し込んだ蛍光灯の光が先輩の姿を映し出す。
 便器の中でおぼれ、もがいている先輩の姿がそこにはあった。
(助け——)
 手を伸ばそうとし、小虫のようにはいずりまわる先輩の姿を見て、妖しいひらめきが脳を駆け巡った。
(もし——このまま、私が『大』のレバーを引けば?)
 ……先輩に、抵抗するすべはない。どこか遠く、下水管の中でおぼれ死ぬだろう。誰にも気づかれることのないまま。
 さらに愉快な発想へ至る。

(もし——この場で、私がショーツをおろして、『し』ちゃったら?)

 それは甘美な妄想だった。先輩の頭上で太ももが閉じて再び暗闇に包まれる。そこにあるものはぎりぎり足が届く程度の深さの水、そしてひくひくと蠢く天井の『何か』の気配だ。先輩は後輩がショーツを脱いで『それ』をしようとしていることを理解するが、何もできない。つるつると滑る陶器の壁を登ることができるわけもないし、登ったところで出口は巨大な尻でふさがれている。そうして途方に暮れているうち、『それ』が始まり、先輩は絶望のうちに『それ』の水圧に押し流され、『それ』に溺れてしまう——そんな情景が一瞬で脳内で再生される。
(——そうでなくても)
 気づいてしまった。自分の股の下で、恐怖に溺れる先輩の姿がどれほど自分にとって甘美に映るか、を。
「……先輩、つかまって」
 楽しみはせいぜい冷え切らせておこう。
 後輩は必死ににやつきをおさえながら自分の股の下に指を伸ばした。しかし、内心を悟られまいとする努力は必要のないものだった。先輩からは後輩の表情をうかがい知ることは出来なかったのだ。
 やがて人差し指の先に何かがつかまる感触がすると、股の下で先輩の立てる水音も止んだ。
(——安心したんだ、安心してるんだ、私の指につかまれたことで! 今の先輩には、私のほそっこい指が、蜘蛛の糸……いや、丸太みたいに頼もしく見えてるんだ)
 後輩は自分の中心にある何かがきゅんと跳ねることを自覚した。
(ありがとう女神様、最高の贈り物を。私、せい一杯楽しむよ)
 もう二人は、元通りには戻れない。
 これは、ゆきてかえらぬ物語。

(続く)