※女の子が女の子を五センチぐらいに縮めたりいじめたりします。
※特殊な嗜好向けの不愉快かもしれない表現があるかもしれません。

5.ミルクとクリーム

 濃密な一日の夜が明け、全国的に日曜日の、縮小二日目の朝。
 遠くで雀がさえずっていた。そして近くでは、引いては寄せる波のように緩やかで、しかし包みこむような大気の動きを感じる。
「んっ……」
 体を起こして目をこすっていると、視界がはっきりしてくる。
(ん……? ここはどこだ? 妹は?)
 そこは普段妹とともに寝ている四角い部屋ではなく、すり鉢のように底が狭い空間だった。周囲は白いシルクで敷き詰められている。なんだかいい匂いがした。さっきから、風が鳴く音にしては定期的で、なおかつ低い音が響いている。何か巨大な生物が寝息を立てているようだった。
 クリーム色の天井が、やけに遠い。空間のヘリの半分を、肌色の有機的な壁が覆っていた。つついてみると弾力があった。
<ん、ん……>
 そうしていると、さっきからこのすり鉢場の空間に響いていた息づかいが一瞬やみ、悩ましい声とともに壁がゆっくりと回転する、しかし、すぐにまた再開される。
 先輩は、ようやく自分がどこで寝ているのか思い出した。
(そうか……元に戻れなかったんだ)
 少し落ち込む。そんなに甘くはないだろうと薄々はわかっていたが、それでもかすかな希望の一つが潰えたのはこたえる。
 すり鉢ーーバスケットの壁を登り、ひょこんと顔を出すと、白いシーツの不毛の砂漠に、色鮮やかな丘陵地帯のように後輩が寝ていた。掛け布団や後輩の体勢は寝入ったときと比べると大きく乱れており、後輩の枕元に位置していたはずの先輩の寝床はなぜか後輩の胸元まで移動しており、後輩の両腕に抱きかかえられていた。相当寝相が悪いらしい。バスケットの中に手をつっこまれたりしなかっただけ、運がいいのか。
 遙か遠く、ベッド上方に置かれたデジタル時計は起きるべき時間が近づいていることを教えていたので、先輩は後輩を起こすことに決めた。
 寝床から脱出しようとして、バスケットの縁をまたがったところで、自分の着ている寝間着の恥ずかしい部分がじっとりと塗れていることに気づいた。
(うわぁ……)
 連鎖的に、先輩は今日見た夢を思い出した。口に出すのもためらわれるぐらい、どうしようもない夢だった。
(後輩にばれたら、怒られるかなこれ……)
 ともあれ出ようとしたところで、バスケットの縁からシーツの地表までは結構な高さがあることに気づく。先輩の主幹で三メートル程度だろうか。怪我はしないだろうが、飛び降りることをためらう程度には十分な高さだった。
 他にちょうどいいところはないかとあたりを見渡して、寝床を抱く後輩の腕の存在に思い当たる。
(しかし、すごいスケールだな、今更だけど)
 先輩を囲うバスケットの古着の寝室を、後輩の腕が包み込んでいる。同年代の少女に二重に包まれるという状況を、この圧倒的なサイズ差が実現させていた。
 先輩は後輩の指によじ登り、手の甲に立つ。伸びた後輩の腕は、手から肘にかけて緩やかな傾斜を形成していた。
先輩は、小学生の頃階段のスロープで遊んでいた男子たちを思い出しながら、彼らがしていたように、後輩の白い手首にまたがり、両手を腕から話した。
 しゃーっ。
「ははっ」
 くすくす。
 先輩はあっというまに肘にまで滑り降りた。二の腕に激突して転び、腕の側面に転落したが柔らかかったので特に怪我はない。肘の側に立っていると、シーツが肘の重さに引っ張られて大きく凹んでいるのがわかる。試しに肘から先輩の尺度で数メートル離れてみたが、全くシーツは凹む気配を見せなかった。それどころか、肘に引っ張られてできたシーツの皺で転んでしまった。
 先輩の重量は、昨夜後輩が言ったようにふつうサイズの人間の二七〇〇〇分の一しかなかった。計算してみると、現在の先輩は一グラムか二グラムかといった程度である。
(こ、硬貨より軽い……)
 恐る恐る後輩の、肉が余っててやわらかいはずの二の腕をつついてみたが、指が肉に食い込んだりはせず、弾力を持って先輩の指を無慈悲に押し返した。
(そりゃ、後輩の腕で滑り台しても起きないわけだ……)
 意外な形で自分の非力さを思い知らされ、先輩は嘆息する。
 しかし、小さな体というのも悪くはない。
 五センチの体になると、何でもないはずの人間の体がさまざまな表情を持っていることがわかり、なんだか感動してしまう。自然の雄大さに感動する学者の気分だった。
 しかし、バスケットから後輩の体を眺めていたときは、いくら丘のように巨大とはいえ距離があったために全体像を把握できたが、これほど近づくと人間という認識は失せ、ただの隆々とした地形にしか見えないし思えない。
 人々が昔から大自然の雄大さに感動し、尊大さに畏怖していた背景には、全体像が把握できないことの未知の恐怖に由来しているのではないかと先輩は思った。
 今度は肘から服の袖をよじ登り、後輩の肩を目指す。肩から後輩の顔まで向かうつもりなのだ。皺を手がかりに、全身を利用して肩に上りきると、後輩の体を再び一望することができた。後輩の静かな寝息で、肩の上はかすかに揺れている。
(人間が自然に見えるというより、人間にはもともと自然が含まれていて、小さくなったことでそれが顕著に見えるだけってのが正しいのかな)
 肩の上から見える、突き出た丸みを帯びたヒップ。腋の下に潜む、先輩数十人分の肉を秘める乳房。みずみずしく柔らかそうな唇。そのすべてが、人の手にはなし得ぬ神の与えたもうた芸術品だった。
(って、神とか自然とか大仰な単語を使ってモノローグったのはいいけど、結局注目するのはそこかよ! ……後輩の弁じゃないけど、オヤジじゃないか)
 先輩はぶんぶんと頭を横に振って煩悩を追い払おうとする。ブロブディンナグ記には、小さいと人の醜い部分ばかりに目が行くと書いてあったものだが、名作もあてにならない。
(小さくなってからまだ丸一日と経過してないけど、どんどんいやらしくなってる気がする。いつまでもこの大きさでいるとおかしくなってきそう。早く後輩と同じサイズに戻りたい)
 先輩は後輩の肩の上で、どこにいるともしれぬ神に祈った。
 彼女はまだ知らなかった。
 五.四センチという消しゴム程度のサイズが、どれだけ大きかったのか。
 彼女はそう遠くないうちに知ることになる。
 こびとになった日後輩のポケットの中で見た、女の子の指の厚みにすら届かなくなる悪夢がまぎれもない正夢だったと。

 *

 先輩は後輩の首を伝い、顎を上り、横顔を歩き、苦節十分、後輩の耳へとたどり着いた。耳はベッドぐらいの大きさで、穴にすっぽりと体が入ってしまいそうだ。
 別にわざわざ後輩登りに観光せずとも、顔の前まで行って鼻をくすぐったり目を瞼の上からたたいたりしても良さそうなものだが、先輩はなぜかそれをためらった。
 後輩の口から遠ざかりたいという無意識が先輩にそうさせていたのだが、それには先輩はまだ気づけない。
 先輩は、大きく息を吸い込んで、ぐっすりと眠り込む後輩の耳に向かって、ロバ耳の王様のように叫んだ。
「後輩ーっ! 起きろー!」
 反応はすぐにあった。
<ん、ん〜?>
 寝ぼけた声とともに足下が地響きとともに大きく揺れて、先輩は転びそうになる。後輩が口を開けたのだ。
「んにゃ〜」
 足場がどんどん傾いていく。後輩が寝返りを打とうとしているのだ。
(まずい、このまま後輩から落ちたらそのまま寝返りに押しつぶされる)
 そうなれば『ぺったんこ』ではすまないだろう。そんなことを考えている間にもどんどん耳の傾斜は激しくなっていく。先輩は落ちる寸前に、なんとか座布団のような耳たぶを両手で掴んだ。
(フー、助かっ)
「ひゃん?!」
 急に敏感な耳たぶを引っ張られて感じてしまった後輩は、二グラム弱の人間の存在にはまったく気づかずに、思いっ切り跳ね起きてしまった。
(——ってない——ッ!!)
 ジェットコースターのような加速に耐えられるわけもなく、耳たぶから手を離した先輩はヒモなし逆バンジーを結構させられていた。
「お、おひゃようございます、先輩……」
 誰も入っていないバスケットにお目覚めの挨拶をする後輩の姿がどんどん遠く小さくなっていく。
(ぁぁぁあああぁぁぁ)
 体感高度で二十メートルを超過したあたりで先輩の体は落下を始めた。
 このときほど先輩がスキージャンプ選手を尊敬したことはないだろう。
 しかし、ジャンパーも体験しない領域はここからだった。落ち初めているが、X方向への移動速度はまだ衰えておらず、どんどんベッドを南下していく。
(あれ? 私このままだと、まさか)
 そのまさかだった。
 後輩に発射された先輩の体は、柔軟性に富んだベッドのシーツの領域を越えようとしていた。
 予想落下距離に倍率ドン。ビューン。私は死んだ。
(け、K点突破)
 生死の瀬戸際でもつまらないギャグは思い浮かぶらしい。
(この速度で堅いフローリングの床に落ちたら、私、死——)
 もふっ。
 何か白くやわらかいものにぶつかり、それも衝撃を殺しきれなかったのか再び宙へと跳ね返されてフローリングへと墜落したが、それでも五メートルほどの落下ですんだので捻挫一つなかった。便器落下事件の時でわかったが、この程度の高さなら無傷でいられるらしい。重量がないことにこんなところで救われていた。
 いや、何より救われたのは。
「ありがとう、ピカチュウ」
 先輩の命の恩人は白い腹を上に向け、物言わず仰向けに寝転がっていた。その誇り高い態度に、先輩は思わず頭を下げてしまう。
 ドスン! ドスン!
 巨大なものが先輩の後ろに、地響きを立てて落下する音がきっかり二回響いた。先輩はその衝撃に三十センチほど浮き上がり、尻餅をつく。
「せんぱいっ、せんぱーいっ」
 上空から半狂乱となった後輩の声が降り注いだ。三十メートルほど先で、攻城兵器のような後輩の素足がぐねぐねと動いている。
「おーい、こっちだこっちー」
 テレビや映画で遭難者がそうするように、先輩はネグリジェを脱いで旗のように振って声を張り上げた。
 ——もう、下手に後輩に近づくのはやめよう。

 *

 朝食は、面倒くさがりな後輩らしいコーンフレークだった。
 普段の朝食は和食がほとんどだった先輩にとって、この手のアメリカンな朝食は新鮮だった。もっとも、この状態で食べて新鮮でないものなどないだろうが。
 皿は先輩と後輩とで共有だった。後輩は椅子に座り、後輩はシリアルの盛られた深い皿のふちに座る。夕べのカレーよりさらにお手軽な食事だったために、別の皿を用意するほどの気にもならなかったのだろう。
 フレークのひとかけらをたっぷりと牛乳につけてふやかしたのを、煎餅のように手づかみでかぶりついている側で、後輩は大鍋のようなスプーンでおびただしい量の牛乳とフレークをすくい、口に運んでいく。その様子を先輩はぼーっと観察していた。今の一口の半分だけでも、先輩の腹はパンパンに膨れてしまうだろう。
「何こっち見てるんですか先輩。早く食べないと先輩の分なくなっちゃいますよー」
 後輩が先輩の額を指でつついた。後輩にしてみれば軽い気持ちだったのだが、先輩にしてみれば急に現れた指にしたたかにどつかれたに等しい。
 結果として、先輩はミルクとフレークを湛える海に落ちた。
「うわわすいません先輩!」
(なんだこれ……私には水難の相が出てるんじゃないのか?)
 ミルクは先輩にとっても膝を濡らす程度で、おぼれる危険性はなかった。
 ぼやきながら立ち上がり、皿の外に脱出しようとするが水気を吸ったネグリジェが足に絡みつき、今度は顔から転んでしまう。ごてごてした服の重さは、濡れたときに凶悪になる。
(めんどうくさいもの着せやがって)
 のたのたと這いずって皿から出ようとしたとき、先輩は自分の足下をなにかが通り過ぎるのを感じた。とその直後、重力を感じた。自分の体が持ち上げられている。
「けがはないですか、先輩?」
 気がつけば、後輩の心配そうな顔がすぐ前にあった。が、彼女の指は近くにはない。手のひらですくわれたわけじゃないのか、と足下を見る。
 銀色の地面に、自分の顔が映っていた。地面からは、細長い棒が伸びており、その先は肌色のオブジェーー後輩の右手へとつながっていた。先輩の体は、後輩のスプーンによって救出されていたのだ。
(まったく、まるで人を食べ物みたいに——)
(食べモノ——)
 はっ、と気づいて後輩の顔へ視線を戻す。その瞬間、後輩の閉じた唇からぬっと巨大ななめくじのような舌が現れて、下唇をぺろりと濡らした。
 意識しての行為ではない。だがしかし、今の精神状態の先輩は、その舌なめずりに実に雄弁な解釈を生んでしまった。

 牛乳をたっぷりと吸った白いネグリジェは、まるでふやけたフレークの固まりのようだった。

「————!!」
 先輩は絶叫とともに、せっかく脱出した眼下のミルク皿へと自ら投じた。

 *

 難を逃れたことに一瞬安堵するが、無表情に見下ろす視線に気づいて再び全身に緊張が走る。まだだ、やつの目の届かない場所に! 皿の中を必死に走り回ると、手つかずのフレークの山を先輩は見つけた。他に逃げ場所はなく、ここでやり過ごすしかないと判断した先輩は、その身をフレークの中へと突っ込ませた。
 
 *

(発想も行動も、すっかり小動物になっちゃったね。やっぱり脳の大きさって関係あるのかな)
 自分の手のひらほどの、三さじぐらいで完食できる大きさのフレークの固まり——先輩にしてみれば小山なのだけど——に隠れているつもりになっているのに、後輩はそんな感想を抱いた。昔見たカートゥーンを思い出すが、アレの逃げる役はこれほど頭は悪くなかった。自分から食べものへと潜り込むなんて、そう扱ってほしいのだと言っているようにしか思えない。もちろんそんなことはしない。終わらせる気などなかった。
 昨晩、先輩の痴態で四回ほど行為に至った後輩はわりと冷静に状況を観察できていた。先輩のいとおしさに対して内側からふつふつと快の感情が発酵していたのはもちろんのことであるが。
 皿を持ち上げ、左右にシェイクするとまたたくまに山は崩れ、呆然とした先輩の顔が現れる。後輩は先輩の首根っこを掴むと、風呂場へと走った。
 風呂場にたどりつくと、蛇口を強くひねり、乱暴に先輩の身体を洗った。
「いた、いたたたたた!」
 強烈な水流に、先輩は身がちぎれるかと恐怖した。
「何をす……」
 先輩の抗議しようという意欲は、後輩の目を見て失った。
 付着した牛乳やフレークをおおかた洗い流したことを確認すると、後輩は先輩の小さな体を足もとに投げ捨てた。
「あたっ。そ、そんな乱暴に」
「私に子守をさせないでください」
 後輩の声はいつになく冷酷だった。
「優しく扱ってほしいというなら、わざわざ食べ物で遊んだり洗濯の手間を増やさせるようなことはやめてください」
「だ、だけど……」
 後輩は大きく片足を上げ、それを呆けて見上げる先輩のすぐそばに大きく振りおろした。先輩は、何か爆弾が爆発したのかと思った。足を振りおろした衝撃だけで、風呂の壁まで吹っ飛ばされていた。
「返事は!」
「は、ハイ!」
 頭を打ったのか、先輩は側頭部を痛そうにさすっている。
「服を脱いでください。洗えませんから」
「う……」
 高圧的な視線にさらされて、水分で重くなったネグリジェを脱いでいくと、先輩は生まれたままの姿になった。
 ふたたび先輩の体をつまみ上げ、乱暴にすすぎ荒いする。
「ふう、きれいになりましたね」
「なあ、後輩、あの、その……」
「?」
「と、トイレ……」
 先輩は、後輩の手の上で小さい体をますます小さくしていた。先輩の家で朝食にパンが出ない理由を、先輩は忘れていた。
「わかりました」
 後輩はその場にしゃがみ込み、排水口の近くに先輩の体を下ろした。
「ここでしてください」
 先輩は、背後のヘリポートのような排水口と、しゃがみ込んでもなお目線がはるかの高さにある後輩を代わる代わる見比べた。
「ねえ、せめて、後ろを……」
「私の見えないところでベッドから転落したのは誰なんですか。早く出してくださいよ。手伝いましょうか? ちょうど、座薬代わりになりそうなものはいくらでもありますし」

 *

 先輩と後輩は、縮小の現場である駅へと徒歩で向かっていた。
 じっくりと、あの場所を捜索してみれば何か手がかりは見つかるのではないか、という後輩の発案だった。他に方策のない先輩はそれに追従し、昨晩のうちに決定した。ちなみに、先輩はブレザーを着ていた。本来の予定ならドレスだったのだが、着せ替え人形を楽しむ心の余裕は後輩にはなかった。
 まあ、手がかりなんて見つかるわけないのだけれど、と右手に腕時計のようなものを巻いた後輩はほくそ笑む。
「先輩、元気出してください。私が悪かったですから」
「……」
 人のまばらな通りを歩きながら、後輩は胸ポケットに話しかけてみるが、おびえた瞳がこっちを見返すだけだ。
 先輩が、朝の一件以来まともに口をきいてくれない。昨晩とはレベルが違った。
 自分があれほど怒りに耐性がないとは予想外で、つい激しく感情をぶつけてしまった。怒りと言うよりは不快感かもしれない。目の前を小虫が飛び回っていたら手でたたき落とすような、そんな暴力をふるったのかもしれない。
 それにしても、あの先輩が一日でここまで弱々しくなってしまうとは。腕時計は体を小さくするのみに止まらず、誇りすらをも矮小にしてしまうかのようだった。
(いや、違うか)
 圧倒的な力の差は、巨人の吐息のように体裁や外面を吹き飛ばす。その後に残るものがその人間の本質なのだとすれば、先輩の本質というのはずいぶんと弱々しいものだったのかもしれない。
 後輩は、男から自分を救ってくれた時のようなクールさが好きだった。あらゆる悲しいことから守ってくれる自分だけの騎士様のように感じたこともあった。でも、その強さは見せかけだけのものにすぎなかった。百年の恋が冷めるというわけではないが、その事実は後輩の胸に小さな、しかし無視できない気泡を残した。
 そんなことを考えているうちに、件の駅に着いた。中途半端な時間帯のため、それほど人は多くない。後輩はSuicaで改札の内側へと進入し、ちょうど先輩が縮小された場所で立ち止まった。
「先輩、着きましたよ」
「……」
 返事はない。見かねた後輩は胸ポケットの下から手を押し当て、先輩の体を無理矢理ポケットの外に出した。
「ほら、先輩もなにか変なものがないか探してください」
「……!」
 だが、落とされると思ったのかまた怒られると思ったのか、先輩は後輩の手のひらに全身で抱きついて離れようとしない。自らの矮小さを、彼女は自身で助長させていた。
(先輩はその姿がよくお似合いです。ずっと、その大きさでいましょうね)
 断念して先輩を胸ポケットに納めると、後輩は嗜虐心にあふれた笑みを形作る。
 五センチでもなお大きいかもしれないな、ぐらいに思ってしまう。
(これからいじめていけば、もっと先輩は小さくなって、かわいくなってくれるかな)

 後輩は、駅を意味もなくうろついて、手がかりを探索するふりをしておいた。

 *

「ねえ先輩、そのへん散歩しませんか。と言っても、歩くのは私だけですけど」
 駅構内から出て、後輩は胸ポケットに声をかけたが身じろぎするような反応すらない。
 怪訝に思ってポケットの中を見ると、いつのまにか先輩はすやすやと寝顔を見せて眠っていた。昨日もポケットの中で眠っていたことを鑑みるに、そこが先輩のフェイバリットスペースなのかもしれなかった。
 後輩は、胸ポケットの外からさするようにして先輩を起こした。
「……ん」
「先輩、散歩に行きません? ソフトクリームでも食べて、気分転換しましょう」
 後輩は、猫をあやすような精一杯の優しい声色を作って呼びかけた。それが功をそうしたのか、ソフトクリームにつられたかどうかはわからないが、
「……うん」
 先輩は、家を出てから初めてまともな受け答えをした。

 *

 後輩の足は自然と例の公園に向かっていた。なぜかはわからないままに、(噴水には近づかないように)目的もなく広い都市公園を歩く。先輩は揺れを楽しみながら、時折ポケットから目が露出する程度に頭を出してジャングルのような雑木林を眺めていた。途中、運動広場にたまたま停まっていたソフトクリームの移動販売からバニラ味を一つ購入し、街を一望する展望台へと向かった。
 ポケットに手を伸ばすと、のそのそとポケットから這いずり出た先輩が後輩の指を両手でつかむ。そのまま引っ張ると、ころんと小さな先輩が掌の上に転がる。
「先輩、先輩、ソフトクリーム食べましょ」
「ん、私はチョコレートのほうが……」
 先輩は掌の上で女の子座りのまま、目をこすりながら答えた。また眠りかけていたようだ。
「わがまま言わないのっ」
 後輩は先輩のいないほうの手でソフトクリームをずいと突き出した。先輩の目の前で、背丈ほどもある黄色いコーンに白いクリームが渦を巻いて、日光を浴びてキラキラと輝いている。先輩のぽかんと開いた口から、よだれが垂れた。
「後輩は食べないの?」
「私は後でいただきますよ」
 先輩をね♪ じゃなくて。
「夕べ、大きなケーキに全身でダイブしたいみたいなことを言ってましたよね。あれ、やってみたらどうです? ケーキじゃなくてソフトクリームですけど」
 それを聞いた先輩の目がぱあっと星のように輝いた。
「ほんと、ほんとにやっていいのかそれ! 憧れてたんだそのシチュエーション! ありがとう後輩!」
 今にもクリームの塔へ飛び込みそうな、まるで幼子みたいにはしゃぐ先輩を、後輩はに満ちた目で見つめていた。
「でもお洋服はちゃんと脱いでくださいね」
「はーい」 
 後輩がベンチの上に先輩をそっと置き、ポケットティッシュを取り出してカーテンのように先輩を覆ってあげると、服を脱ぎはじめるのがティッシュの影でわかった。
 そうして一糸まとわぬ姿になった先輩は、喜びいさんでプールに飛び込む小学生のようにソフトクリームに突撃してーーコーンに頭をぶつけた。
「後輩ー!」
「はいはい」
 いつものように後輩が空いてる手を差し出すと、先輩はせっかちに飛び乗り、待ちきれないとばかりに手のひらの上で飛び跳ねた。楽しみすぎて、後輩に裸を見られていることすら気にしていないようだ。
 後輩は苦笑いしてゆっくりとエレベーターのように手をソフトクリームの上までスライドさせると、先輩は中指の第二関節を蹴って眼下のクリームの山へと飛び込んだ。食べ物へと飛び込んだのは二回目だったが、前回とはまるで反対だった。
「うひゃー、冷たい!」
 先輩はコーンの上、全身をクリームまみれにしながら、小さな体を存分に使ってクリームを貪っていく。ときおり、クリームの中からちょこちょこと小枝のような手足が飛び出す。
 後輩は、先輩ごとクリームを舌でなめとりたくなる衝動を必死におさえていた。
 そうしているうちにも、クリームは徐々に中央へ凹んでいく。
「ぷはあ!」
 やがて、クリームの頂上からぽこりと先輩が息継ぎに顔を出した。顔や頭には大きいクリームの玉がついている。先輩は後輩と目が合うと、にかっと無垢な笑みを見せる。
「どうだ、私がうらやましいだろ!」
 歯を剥いて得意げに笑う先輩の姿は本当に楽しそうで、なぜだか息が苦しい。
「先輩、ほっぺたにクリームがついてますよ」
 思わず後輩は先輩の頬についていたクリームをぺろりと舐めとってから、ハッとして顔を離す。やってしまった。また泣きわめかれると面倒だ、というぐずる赤ん坊を持つ母親のような憂いを感じたが。
「ははっ、くすぐったいよ後輩」
 先輩は笑っていた。
 笑っていたのだ。

 ぽつり、ぽつりと降ってきた水滴が顔を濡らし、自分を包むクリームへと溶けていったので最初雨が降り始めたのかと思った。しかし実際のところはそうではなかった。
「……どうして泣いてるんだ、後輩」
 後輩の嗚咽と涙が、先輩へと降り注いでいた。涙の粒は、先輩の手のひらほどの大きさがあった。
「わからない、わからないよぉ」
 嗚咽はやがて号泣へと変わり、先輩入りのソフトクリームを持つ右腕は崩れ落ち、ソフトクリームはベンチの上に無残に横倒しとなる。
「あ、ごめ……」
 後輩がベンチに座ったまま横に手をついて倒れたソフトクリームを覗き込むと、先輩がクリームの中から這い出てきた。ケガはないようだ。
 先輩は倒壊したクリームの山に両手を突っ込んで、ひと抱えのクリームを取り出した。後輩から見ればそれはビー玉程度の大きさでしかないのだが。ベンチの上にかがみこむ後輩の顔の前まで小さな歩幅で歩いていき、それを差し出す。
「ほら、食べな」
 後輩はしゃっくりをしながらそれを数秒の間眺めた後、お辞儀するように頭を差し出してクリームを先輩の両手ごと口にくわえて、吸い取った。口を離した後には、クリームはひとかけらも残っていなかった。
「これぐらいの量じゃ、全然足りませんよ、先輩」
「もっといるか?」
 全身クリームだらけの先輩は、後輩を元気づけるように鷹揚に笑った。ので、後輩もそれに応えて笑った。
「いえ、今はいいです」
「落ち着いたか」
「わりと」
 後輩は思いっきり体をそらし、背もたれに体重を預ける。ぎしり、とベンチがきしんだ。
「後輩、すまなかった」
 唐突な謝罪の言葉が聞こえてくる。
「お前に何の連絡もなく、ただ去ろうとして。私はあまりにも冷たかった」
 身体を戻すと、太ももの厚みほどの背丈もない先輩が、申し訳なさそうに、しかしまっすぐと後輩を見つめていた。何度も口を開こうとしては閉じる。先輩は言葉を選んでいたようだった。
 長い言い渋りの果てに、先輩はけして聞き逃されることのないよう、大きくはっきりと口を開いて言葉を紡ぐ。
「言い訳をさせてくれ、この身体はあまりにも小さい。後輩には迷惑ばかりかけてる。お前の苦しみは、私にはわからない。だけど、お前がおかしくなってることは知ってる」
(弱いくせに)
「だけど、私はお前の力になりたい。こんな体じゃ、お前の頭を撫でてやることもできないけど」
(弱いくせに!)
 後輩は、暴発した感情を吐き出したりしないように、壊れそうなぐらいに顎に力を入れて歯を噛みしめる。
「行っちゃうくせに……私を置いて……」
「すまん」
 ベンチにつかれた後輩の手の甲に先輩はそっと手を触れる。
 後輩の涙が再びこぼれた。
(本当に苦しいのは先輩のはずなのに)
 言われてみて、自分がつらく感じていることに気づいた。どうして今まで平気だったのだろうか。気づかせてしまった先輩を憎む。
 異常な状況が虚飾を取り払い、浮き彫りにさせるのは醜さや矮小さばかりではない。刺すような穢れなき笑顔が脳裏に刻まれている。差し出された、指先ほどもないわずかなクリームの暖かい甘さが、まだ口に残っている。春の日差しのような無条件な優しさが茨のように心の奥底を締め付ける。
 惚れたのは並の男ではかなわないかっこよさと強さ。でも、好きになったのは?
(優しくしないで!)
 どうせ壊してしまうのだ。文字通り、踏みつけにしてしまうのだ。そうできるだけの力を持っているから。舐められてくすぐったがる先輩の、幼く、無力で、無防備で、全てを疑うことのない無垢なあの笑顔。本当に見たかったのはあんな顔ではなかったのか。
 本当につらいのは、それでもなお、先輩を思うがままにしたいと思っている事実。それは消すことができないねじれた欲望だった。自らの感情が先輩を通り越して自分へと槍の刃先を向ける。
 いつか恋は終わりが来るのだとしても。
「先輩! 行かないで! ずっと私といっしょにいて、お願い!」
 クリームまみれの先輩を、ぎゅっと抱きしめた。
「行かないよ、私はどこにも」
 どれだけの意図が伝わったのだろうか。胸元ごしに、小さな声が伝わってきた。
 ソフトクリーム、だめにしちゃってごめんなさい。またいっしょに食べましょうね。
 いっしょに歩いていっしょにソフトクリームを舐めるなんて、まるでデートみたいでしょう。

 *

 後輩は、駅前のロータリーの横断歩道前で、真っ赤な顔で空を見上げながら——うつむくと胸ポケットの先輩を見てしまう——信号が変わるのを待っていた。まるで告白みたいなことをしてしまって、まともに先輩を見ることができない。先日の最初の告白のことを考えると、また別の意味で胸が締め付けられる。先輩は告白だという可能性はみじんも考慮していないようだったが。
 あのあと、先輩はもう一度駅の探索をすることを提案した。今度は、自分の目でしっかりと確かめてみたいという。
 その言葉に従い、駅へと歩を進めていた。赤信号が青信号に変わり、人々が動き出す。もちろん後輩も。
 と、上を向いて歩いていた後輩は、誰かと正面衝突してしまう。
「きゃっ!」
 ぶつかった人物は小柄な後輩よりもなお小さな(もちろん人間サイズの)、ボブカットの少女だった。年のころは中学一年生ぐらいだろう。後輩よりいくつか年下だ。
「す、すみません」
「ちょっと待ちなさいよ」
 後輩が軽く会釈してすれ違おうとすると、その背後から彼女に呼び止められる。
「あなた、お姉ちゃんのお友達じゃない」
「!」
 驚いて振り返り、顔をよく見てみると、それは後輩もよく知っている顔だった。先輩と一緒に遊んだこともある、先輩の妹その人だった。
「ねえねえ、あなたなら知ってるんじゃないお姉ちゃんのこと? 昨日からいないのよ!」
 物おじしない彼女はずんずんと年上である後輩へ強気に詰め寄っていく。めんどうくさいことになった、そう感じて適当なことを言い繕って逃げようと思ったところ、胸ポケットから声が上がった。
「妹! 妹じゃないか! 私だよ!」
 あろうことか、先輩が自分の存在を大声で主張し始めた。
「ん? あなたポッケに何入れてるの?」
(まずい!)
 イレギュラーな事態に後輩はパニックを起こした。今家族に先輩の存在を知られるわけには。
(先輩は隠れてて!)
 小声でささやき、胸ポケットの先輩をスカートへと移動させようと手を突っ込む。
「うわわっ」
 だが、あまりにあわてた後輩はスカートのポケットに先輩を入れようとして手が滑った。
 後輩の顔がわかりやすく青ざめた。

 *

 巨大すぎる後輩の動作はいつも彼女が思っているより先輩にとって性急で酔ってしまうことが多いのだが、今回はいつもよりもはるかに急激な動作だった。一瞬何が起こったか分からずに呆けた先輩はあたりを見渡すと、そこは灰色の地面が広がっていた。後輩の気配はしない。
 目の前には桃色の流線型の台から肌色の柱が橋げたのように二本伸びていた。それが、後輩の二本のミュールをはいた足であることを悟るにはしばらくかかった。
(落とされた?)
 それを理解すると同時に、風を切る轟音とともに先輩は横合いからの衝撃に吹き飛ばされた。
「?!!」
 灰色の地面——アスファルトの上を何回転もして、何かにぶつかってようやく止まった。ぶつかったものを確認すると、やはりこれも柱だった。しかし、今度は黒色の台に布に包まれた肉の柱。ゴミか何かとでも思われたのかその柱が今度はこちらに向かって迫ってきた。再び地面を転がる先輩。
(ちょっと待てよ、これ……)
 口が切れていた。なんとか身体を起こす。しかし、とても嫌な予感がして再びその場に倒れこむ。巨大なハイヒールが、うなりを上げてさっきまで先輩の上半身があった空間を通過した。
(け、蹴られたんだ……!)
 気がつけば、先輩は無数の人の脚という、殺意なく暴力ある柱に囲まれていた。
 小学生の頃、クラスメイトたちと一緒に下校するとき、なんとなく道端の石ころを蹴ってみる。すると、他のクラスメイトたちもそれを追って蹴る。蹴り返す。そんな遊びを帰宅するまで続けたことが何回かあった。
 今、自分はその石ころ役になっている。
 つっかけが、ミュールが、スニーカーが、ローファーが、ブーツが、サンダルが、人のかかとほどの身長しかない哀れな小人の命を刈り取るには十分すぎるほどの速度を持って先輩の身体をかすめ、ぶつけ、転がした。
 先輩は声を上げることも忘れ、必死にその質量の移動から逃れようと身を縮めて動く。再びまともにそれに巻き込まれたら、命の保証はない。
 自分の名前を呼ぶ声が聞こえたが、この喧しすぎる雑踏ではわからない。
(後輩は、後輩はどこだっ)
 恐怖に涙すら浮かべながら、方向感覚を見失わないうちに必死にもといた場所へ戻ろうとする。
(いた!)
 見覚えのある脚を見つけ、それに飛びつこうとして——今度は後ろから、誰かの軽トラックほどもある大きさのローファーのつま先に突き飛ばされた。
 予想外からの方向の衝撃に無力に先輩は転がる。後輩の両足の間をくぐりぬけていった。視界の隅に、白いショーツが見えた。
「ふべっ」 
 なんとか衝撃を殺し、その場に食いとどまる。満身創痍の身体に鞭を打ち、立ち上がって上を見上げる。白いスニーカーとソックス、華奢な(しかし先輩にとっては桜の木のように太い)脚。
(妹だ!)
 しかし身内だ。助かったことには変わりがない。今朝後輩に対してやったように、上着を脱いで旗にし、はるか頭上の妹に向けて呼びかけようとする。
 
 眼前の、肌色の柱が動いた。

「え?」
 何もかもがスローモーションで動いていく。柱——妹の右足は天に向けて上昇し、先輩の身体はその影に包まれた。スニーカーの裏にガムがへばりついているのが見えた。脚の向こうには、猫がいた。正確には、ショーツに描かれた猫が。
 先輩は、その場に硬直して動けなかった。今から起ろうとしている現実を理解できなかった。妹の足の裏が、狙いを定めたかのように自分の頭上で止まったように見えた。
 最初見えた妹の視線の先を思い出す。そこには確か後輩がいたはずだ。
(気づいて……ない……)
 妹の足の裏は、土踏まずの前後どちらかでも先輩の背丈でおつりがくるほどの広さだった。

(……踏ま、れる)

 普通サイズの人間の体重は先輩の二七〇〇〇倍だ。妹が四十キロと仮定して一○八〇〇〇○キロ。一〇〇〇トンだ。
 それだけの質量が自分へと襲いかかればどうなる?

(踏みつぶされる)

 いや、その質量の全てを費やす必要はない。たった一パーセントでいい。力をかける必要すらない。それだけで、先輩の身体は『ぺったんこ』になる。煙草の吸い殻のように。吐き捨てられたガムのように。
 その現実を認識してなお、先輩は動かない。
 動けないのだ。走れないのだ。膝が笑っている。

 妹の一パーセントに、自分は押しつぶされる。

(うそだろこんな簡単に)
 妙にゆっくりと迫ってくる妹の靴は、妙に広大に見えた。どれだけ走っても、彼女の足の裏からは逃れられない、そんな錯覚を植え付けるくらいに。

(たすけ、て)

 *

 先輩の妹は、横断歩道の真ん中で突如狂ったように姉の名を呼んで中腰でうろつきまわる後輩を追おうとして、何気なくその一歩を踏み出した。

 とすん。