6.禁じられたワード

 先輩は、体感距離五メートルほど先でリムジンほどもある妹の足が振り下ろされるのを呆然と眺めていた。
 自分でも何が起こったかは把握しきれていない。ただ確かなのは、妹のスニーカーが先輩の身体を無視して地面との距離をゼロにする寸前に、何かに吹き飛ばされて助かったということだった。
 自失していると、体が急に持ち上がった。急速なGにめまいを覚えつつ見上げると、襟から二本のなめらかな白い柱が伸びているのが見え、先輩は一日の小人経験から自分がつまみ上げられているのだとわかった。
(蹴飛ばされたりつまみあげられたり、本当に石ころ同然だな)
 後輩かはたまた妹か、誰が自分を救出したのか確かめようと先輩は首を上へ向けた。
「……誰?」
 それは、見知らぬ誰かだった。

 *

「先輩、先輩、どこですかぁ」
 妹は、姉の居場所を知らないか問いただすために近寄った後輩が、急にその人を呼びながら腰をかがめてあたりを見渡し始めたので唖然としていた。
「ちょっと、後輩さん」
「先輩ぃ〜っ」
「後輩さん!」
 ハッ、とした様子で後輩は妹を振り向き、妹に手を引っ張られるままに横断歩道の向かい側へと歩いて行った。後輩は涙すら浮かべていた。とても普通の精神状況には見えない。
「その……先輩に似た人を見かけまして、あのその」
「お姉ちゃんをぉ?」
「そ、そのええと、勘違いだったみたい! 私は用があるからこれで」
「あ、ちょっと!」
 後輩は逃げるように走り去って行った。妹は追おうとしたが、すぐに後輩の姿は人ごみにまぎれて見えなくなってしまった。
(……怪しすぎる)
 後輩の言う通りだとしても、先輩を探すのにあんな姿勢になる必要はない。まるで子犬かなにかでも探しているようだった。
(何か知ってるんじゃないの、あいつ?)

 *

 先輩の身柄は謎の人物の手のひらに包まれて、路地裏まで護送された。彼は後輩よりもはるかに、小さな人間の扱いについて慣れているらしく揺れに酔うこともなかった。
 掌の上からじっくりと観察してわかったが、彼は後輩はおろか妹よりも年下の、性に未分化な年ごろの幼い子供と言ってよかった。実際、少年なのか少女なのか先輩には判別がつかない。ので、暫定的に彼と呼ぶことにした。
「……君は誰なんだ。私みたいな小さい人間を見て驚かないのか?」
「ぼくはワーデン、そう呼んでくれればいい」
 骨のように白い顔に乗った、ブルーベリーのような唇が動いた。梢がかすれるような声だった。
「しかし、君のほうから名乗るのが礼儀だと思うけどね」
「す、すまない」
 先輩は名を名乗った。
「ありがとう、ワーデンがいなかったら私は今頃踏みつぶされ——」
 そう言いかけて寒気がした。一歩間違えれば実の妹に蛙のように踏みつぶされていたところだった。それも、妹が気付かないうちに。先輩はあらためて、自分の存在のちっぽけさを思い知った。
「ま、ぼくは、君みたいな小人にはなれているからね。君よりも小さい人とも毎日のように接している」
「まさか……」
 先輩はその先を言いかけてやめる。あまりにも失礼であると思ったからだ。
「それこそまさかだよ。ぼくは望みもしない人間を小さくしたりはしない。しかし、君を小さくした原因なら知っている」
「知っているのか!」
 先輩は、ワーデンの手のひらの上に手をついてすがるように懇願した。
「頼む、教えてくれ! 私の体を元に戻す方法もあるんだろう!」
「ああ、教えよう。だけど、ここは少し空気が悪い」
 ワーデンが先輩を手に乗せたまましばらく歩くと、雑居ビルの裏口のドアにたどりついた。
 ワーデンが首から提げ、シャツの中に潜ませていたエメラルドの雲型定規のような鍵を取り出し、ドアの鍵穴に近づけると、エメラルドの鍵は吸い込まれるように鍵穴に入り込んだ。
「それは?」
「『ゴーストタウン』への入り口さ」
 ワーデンの言葉とともに、光をあふれさせながらドアは独りでに開いた。

 *

「え、え?」
 先輩は自分の目を疑った。
 ワーデンとともにまばゆい光に飛び込んだら、四十メートルほどの高さから、家々の立ち並ぶ町を眼下に見下ろしていたからである。自分の暮らす町によく似ていた。頭上には絵の具で塗ったような青空に太陽がさんさんと輝いていた。
 いつのまにこんなに高い場所に、と思ったが未だに自分はワーデンの手の上にいた。同時に、自分が普段いかに高い場所にいるかを実感し、怖じ気付いて手のひらのくぼみで小さくなってしまう。
 しかし、何かがおかしい。
「どういうこと?」
「すぐにわかるさ」
 ワーデンは、身を屈めて先輩の乗る手のひらを町へゆっくりと下ろした。
 手のひらから町へ降り立つと、違和感の正体を先輩は理解した。
 この町は小さい。
 町に近づいている途中、自分はいつの間にか元の大きさに戻っているのかと喜びかけたが、それは違った。
 電柱や二階建てほどの家屋が、先輩の背丈ほどの大きさしかない。
 ここに来るまでは小指サイズの先輩が、この町では五メートル以上の大女に変貌していたのだ。

 三十分の一から三倍の縮尺になったということは、町が百分の一に縮んだか、自分が百倍の大きさになったかのどちらかを意味している。
 しばらく、大通りのはずなのに学校の廊下ほどの広さしかない道を歩いてみたが、見える景色は同じだった。
「どういうこと?」
 本日二度目の問い。あまりのサイズのギャップにとまどい、よろめき、尻餅をどすんとつく。わずかに家々が振動した。
 すると、小さな家や建物の扉が次々と開き、そこから小さな人々が何十名と姿を現した。いずれの人も、尻餅をついた先輩よりも背が低い。先輩の三分の一程度の背丈だろう。彼女の大きさが変わってないとしたら、一〜二センチ程度だ。
 小さな人々は、若くて十かそこら、上は二十前後と、全体的に年若いのが特徴だった。彼らは町に現れた巨大(五.四センチだが)な少女を見上げ、思い思いな言葉を口にする。
 なぜか、若い男の中には下半身に両手を添えて前かがみになっているものもいる。
「やあ、新入りかい?」
「いや、それにしては大きい。管理人さんの使い魔か何かじゃないか?」
「あのブレザー、私が通ってた学校と同じだわー」
「おねーちゃん、ぱんつみえてるー」
 最後の幼女の言葉に先輩は自分が巨大なM字開脚をしていたことに気づき、あわてて脚を直した。その拍子に道の脇の小さなガードレールが乗用車の衝突をくらったかのようにひしゃげた。
 前かがみになっていた若い男はようやく姿勢を正すことができた。それを見て、先輩はなぜ彼が前かがみになっていたのかを理解して、さらなる羞恥に顔を荒げた。
「み、見たなっ」
「そっちが見せつけてきたんじゃないかっ」
 男も怒鳴り返すと、小さな群衆は笑いに包まれた。
 なんだか、自分のような(相対的に)巨大な人間の存在にはすっかりなれてしまっているようだ。
(……ん?)
「おい、そこのパンツ見てた男、ちょっとこっちに来い」
 先輩は男に向かって手招きをした。体が相対的に大きいせいか、自然と態度が大きくなっている。そんな自分に気付いて恥じるとともに、後輩が自分に対して強気に接せているのにも納得がいった。後輩とはこのサイズ比の十倍は違うのだ。
「な、なんだよクマさんパンツ女」
「やかましい!」
 そんなことを言いながらも男は不承不承先輩の靴下に触れることができるくらいまで近づいた。先輩は、靴を履いていなかった。つねに後輩に運搬されているため履く必要がなかったのだ。ともあれ、彼の顔を先輩ははっきり確かめることができた。——見覚えがあった。
「やっぱり」
 先輩は座ったままかがみこみ、男のわきの下を抱えて抱き上げた。ぬいぐるみサイズだった。思ったより軽い。
「おまえ、一年前後輩に振られた男じゃないか!」
「そういうお前はあいつの『彼女』!」
 思わぬところで運命的な再会を果たした先輩と男は、お互い顔を見合わせて苦笑いを浮かべた。

 *

 サイズ差こそあるものの、同じように小さな人間がお互いに対する一年間の空白を埋めるべく試みようとしたところ、突如あたりが暗闇に包まれた。巨大な影が町を覆ったのだ。
 先輩を除く人々は一様に空を見上げ、手をついて地に伏せた。
「ワーデン様!」
「ワーデンちゃんだ!」
「ワー様あ!」
 この町の尺度で、東京タワーほどに巨大なワーデンが見下ろしていた。家や電柱が、彼のかかとほどもない。狂った縮尺に、先輩は頭がおかしくなりそうだった。いつのまにか、ワーデンの装いは半ズボンからスカートとニーソックスという女装? に変わっていた。どういうこだわりなのだろうか。
 ワーデンは平伏する住民をよそに、ゆっくりと膝を曲げて町に腰を下ろした。その過程で、彼の足下にあった家屋が巻き込まれて押しつぶされ音を立てて崩れていったり、多くの建物が彼のスカートの下に隠れてしまったりしていたが、それを気にとめる様子すらない。
 ワーデンは先輩を町から拾い上げ、手のひらに乗せた。町がどんどん遠ざかり、小さくなっていく。
「ここは『ゴーストタウン』。ぼくの作りだした空間型の『グッズ』さ」

 彼はこの街——ゴーストタウンについての解説を始めた。
 いわく、このミニチュアの町は、理不尽な事件や事故によって死に瀕したこの世に未練のある人間、社会に居場所のなくなった人間の魂を見つけては半自動的に回収し、一センチほどの小さな人間にして住まわせているらしい。
 その人間に近いうちに訪れる死の運命を含めた『未来の可能性』をスポイルすることで、この町にいるかぎりの不老不死を実現しているらしい。
 老うことも死ぬことも、現世に関わることも忘れた死にゆくべきはずのものーー幽霊の住まう町、つまりは『ゴーストタウン』というわけだった。
 淡泊だった印象の彼は終止早口で饒舌で熱を帯びていた。この町は彼が作ったらしい。きっと自慢なのだろう、そう思うと少し微笑ましくなった。
『ゴーストタウン』なる奇妙な存在はにわかには信じがたい話だったが、今自分がなんらかの理由で小さくなっていることを考えると、受け入れることはそう難しい話ではなかった。
「ふうん。——で、肝心の私を小さくしたものはなんなんだ? どうやら、この町とは関係ないみたいだが」
 自慢の逸品をふうんで片づけられ若干ワーデンの表情が濁るが、気を取り直して彼はそれについての説明を行う。
「『ハンドトゥハンド』。目に届く範囲の、自分の把握が及ぶ対象ひとつ——ものでも、人間でもなんでもだ——を念じることで自分の手のひらサイズまで縮めて、自分の手のひらのなかに転送することができる忌々しいグッズだ。君を小さくしたものはそのレプリカだが、オリジナルは一度に複数の対象を小さくすることができて、それを持った狂った人間の享楽のため何十名もの人間の命が失われた」
 不機嫌になっているのは先輩の態度だけではないようだった。ゴーストタウンを語ったときのようにワーデンは饒舌だったが、そのときとは逆に忌々しい表情を見せていた。
「誰がそんなふざけた道具を使って私を小さくした?」
「残念だが、それはわからない。あれは私の知り合いが制作したグッズだから反応を詳しくは追えないんだ」
「こんなオーバーテクノロジーというかファンタジーなしろものを作ったワーデンなら、私の体を元に戻せないのか?」
「結論を言うと、君の体はハンドトゥハンドでしか元に戻せない。グッズの使用は多くの場合、使用者の感情の強さがコストで、コストに費やした感情に比例した強力な効果を発揮する。あまりにも強い感情が君の体のサイズを呪縛している。ぼくには不可能だ」
「むう……」
 つまり、自分の体を小さくした張本人に元に戻せと頼むしかないらしい。ばかげた話だ。
 事態は何一つ好転していない。
「ああ、そうそう」
 ワーデンが思い出したように言った。
「ハンドトゥハンドのレプリカは、腕時計の形を取っているらしい。実物を見た訳じゃないから、ぼくには何ともいえないが」
「腕時計ねえ」
「ぼくは、レプリカの製作者を探してくる。しばらくはこの町で休んでて。ここは安全だ、誰にも踏まれたりけ飛ばされたりすることもないだろう」
 そう告げると、ワーデンはそっと先輩を町へ下ろした。
「もし何かあったら、頭の中でぼくの名前を三度呼んでね」
 彼がスカートを翻し、エメラルドの鍵を天にかざすと、まばゆい光に包まれた。光が消えると、そこには何も残っていなかった。

 先輩が再び町に戻ると、住民は自分の家に戻るものと物珍しげに中途半端な巨人を眺めるものの二つに分かれた。前者の方が多かったが、例の男は後者だった。
(踏まれる心配はともかく、踏む心配はありそうだな……)
 先輩はとてもやすらぐという気分にはなれなかった。この街のサイズが狂っている、というのはもちろんある。休めるような建物がなく、地べたに座り込むしかなさそうだというのもある。だが、それよりも何よりも、この街には『あるもの』がなかった。それがなんなのかは、先輩はこの時点では思いつけなかった。
 先輩はぺたりと路面に座り込み、再度男を抱え上げた。一度しか顔を合わせていないいけすかない知り合いではあったが、先輩は自分よりサイズの大きくない知り合いに飢えていた。話がしたかった。
「で、でかいなあ」
「お前が小さいんだよ。で、何でこんなところにいるんだ」
「……あの後、おれがあいつをレイプしようとしたって噂が流れた。停学食らうし、ダチからは軽蔑されるし、親もぜんぜんかばってくれねーし……どうしようかなー、死のうかなーって布団の中で考えてたら、気がついたらここにいた」
「あー……その、なんだ、うちの後輩が悪いことしたな」
「いや、今の生活が気に入ってるからいいけどな。もう現実世界には戻りたくないし」
「ネットゲーム中毒患者のようなことを」
「でも、わかるだろ? あいつみたいにかわいい子がべたべたしてきたら、その気になっちゃうって」
「まあ、確かに後輩はかわいいな……って何を言わせるんだっ」
「ま、今はワーデンちゃん一筋だけどなっ」
「堂々とショタだかロリだかわからない奴の好意を示されても。第一あいつお前にとっちゃ百倍もでかいんだぞ」
「バカ野郎! そこがいいんじゃないか」
「変態だー?!」
「でも、なんだか安心するんだよ。自分よりはるかに巨大な存在に守られてるって実感できると。おまえも小さくなって、そう思わなかった?」
 先輩は言葉に詰まった。それは確かに思わなかったわけではない。そうでなければ、後輩のポケットで安心しきって眠れるわけがないのだ。
 だが、全てを預け切るには、自分が人間であるという矜持が邪魔をしていた。
「思わなかったわけじゃないけど、おまえみたいに同じサイズの人間が周囲にいるわけじゃないしな。だんだん本当に自分が人間だったのか思い出せなくなってきそうでつらいよ」
「む……そうか。早く戻れるといいな」
「おまえいい奴だったんだな、実は」
「あんたには負けるよ、センパイ」
 男は笑って、大玉サイズの先輩の胸を両手でそれぞれ一つずつつっついた。
「ひゃん!」
「うーん、でっかくても後輩より小さ」
「死ねぇー!」
 先輩の胸からはじきとばされた男はくるくると竹トンボのように回転しながら飛んでいき、電柱と頭を衝突させて気絶した。死んではいないだろう。もともと死んでいるようなものだ。
(そうだ、今のうちにあれを使おう)
 先輩は上着のポケットから携帯電話を取り出し、開いた。電源をオンにする。不在着信と何通もの新着メールを知らせるアイコンが、待ち受け画面で自己主張をしていた。
 感度を伝えるアンテナのアイコンは、きっちりと三本立っていた。

 *

 もし、ちゃんと通信が行えることを後輩が知ったならば、取り上げられていたかもしれないという可能性があった。先輩は家族にどうにか無事だけでも伝えておきたかったのだが、後輩はそれを許していなかった。
 また、後輩の立ち振る舞いに若干の危険を感じていたのもあった。万が一の事態に備えて切り札を隠しておくことは悪くない考えだと先輩は思った。この二つが、後輩をささやかに欺くに至った理由だ。

 *

 不在着信と新着メールは家族と業者のものだったが、そのうちほとんどが妹のもので占められていた。電源を切っている間にひたすら連絡を取ろうと試したのだろう。心配をかけていることに、先輩は一抹の罪悪感を覚える。
 なれた手つきで三度ほどボタンを押し、妹の携帯に電話をかける。三度ベルが鳴るのを待たずにつながった。
「もしも——」
「お姉ちゃんっ! お姉ちゃんなの?!」
 鼓膜をつんざく大声が右から左へと通り抜けた。反射的に耳を離し、改めて耳をつけてしゃべりなおす。
「ああ、私だ、お前の姉だよ妹。私は無事だよ、心配するな」
「どこで何してるの」
「……それは秘密だ」
「後輩さんはいるの? 代わって」
「後輩は今はいない」
「ねえ、無事なのはわかったけど、いつ帰ってくるの。ちゃんと帰ってくるよね? ちゃんとご飯は食べられてる?」
「ああ……」
 いつ帰れるのだろうか。いつ、自分は元の大きさに戻れるのだろうか。
 ……もし、自分が元に戻れないとわかったとき、はたして後輩は家族のもとに戻してくれるのか?
 ばかな。先輩はかぶりを振った。
「いつになるかは約束できないけど、必ず帰る。安心しろ」
「安心できないよ! いつ帰ってくるか約束して」
 電話の向こうの妹は、今にも泣きそうだった。胸が締め付けられる。先輩に責任はないのだが、それでもなぜかつらかった。
「一週間だ。それまでには必ずお前に顔を見せる。あと、警察沙汰にはしないでくれ。お願いだ」
「一週間ね。絶対だよ!」
 通話を切る。
 一週間で戻れる保証はもちろんどこにもなかったのだが、もし戻れなくても後輩に頼んで家族に打ち明けさせるつもりだった。一週間で元に戻れないようならすでに後輩の手に負える事態では(もともとそうだが)ないのだ。わがままなところのある、後輩だが、それには納得してもらえるだろう。
 などと期待していると、突如視界が歪んだ。どこかに吸い込まれそうな、そんな感覚なのにどこにも動かないし、動けない。
(この感覚、どこかで)
 数秒後、先輩は意識とともにその姿を失った。

 *

 奇しくもワーデンがゴーストタウンへの扉を開いた同じ路地で、後輩が握った右手首の腕時計に手を添えて念じていた。
 数秒後、後輩が手を開くとそこには先輩が眠っていた。あちこち蹴られたらしく擦り傷を作り、服はすすけていたが大した外傷は見受けられなかった。後輩は胸をなで下ろす。思わず、キッスなんてしちゃったりしてみる。やわらかい唇が、先輩の顔全体を抱きしめた。起きる気配はない。
(ちゃんと対象を認識できていれば見失っても簡単に手に入れ直せるんですね。どこにも逃げられませんよ、先輩)
 自分の心の中の言葉がつぼにはまったのか、うふふ、うふふと後輩はしのび笑いをもらした。
(そーだ、先輩がおやすみ中にあの機能を試しておこうっと)
 後輩は、腕時計——ハンドトゥハンドの文字盤を見た。時刻を表すための円型の目盛りはなく、かわりに計器に使われる半円型のものがあった。
 針は『五.四』を指していた。
 初めて先輩に撫でられたときのように高まる胸の鼓動を押さえながら、後輩はダイヤルを回す。

 *

「うう……?」
「あっ起きましたか先輩っ」
「のわっっ」
 視界いっぱいに広がっている後輩の顔におののいて、先輩は後ろの壁にしたたかに頭を打ちつけた。デジャブを感じる光景だ。ここは居間のテーブルの上で、例のバスケットに入れられているようだった。後輩の長い髪がシルクに敷き詰められた寝床の内側に蔦のように垂れ下がっていた。体にはあちこちガーゼが巻かれている。手当をしてくれたらしい。
「あれ……?」
「先輩は、ポケットから地面に落ちて気を失ってたんです。本当にごめんなさい、雑に扱ってしまって」
 後輩の目は少し赤かった。白い頬には涙の跡が残っている。
「そうか……夢、だったのか」
「夢?」
「いや、こっちの話」
 先輩は、シルクの敷物に寝そべって後輩の黒い髪を梳くように触った。なんだか気分が緩む。ゴーストタウンにない妙な居心地の良さがここにはあった。
「悪いな、私が小さなばっかりに後輩には迷惑ばかりかける。今までの恩を思えば、このくらいどうってことないさ」
 本当は死の覚悟をするくらいにはどうってことあったが、後輩の前では少しはかっこつけなければ気が済まなかった。
「先輩ぃ」
 両目を潤ませて、後輩は胸の前で両手を組んだ。その右手で、派手な色の腕時計が光る。
(ハンドトゥハンドは、腕時計の形状を)
「……後輩、その腕時計はなんだ? いつからつけはじめたんだ」
 あっ、と口に出したりはしなかったが、後輩の目があらぬ方向へと泳いだのを先輩は見逃さなかった。
「いーじゃないですか。私がたまにはちょっとオシャレな腕時計に挑戦してみたって。先輩はお母さんか何かなんですかぁ」
「母と言うよりは姉なつもりでおまえには接しているけどな」
「妹より小さな姉よりおらぬ!」
 軽口を叩いたかと思えば、後輩はすぐに笑みを消す。
「私って、先輩にとっては妹……みたいなものですか?」
「そうだな、手の掛かる妹だよおまえは。サイズが三十倍くらい違う今でもな」
 先輩は悪意なく笑った。
「そうですか、妹ですか」
 なので、後輩も屈託のない笑みを作ってそれに応える
「あはは。先輩の妹かあ、うれしいなあ! 私、お姉ちゃんがほしかったんです」
「実の妹で手いっぱいだからなあ」
 けほっけほっ。
 せき込んで、先輩は自分の喉がからからに乾いていることに気づいた。
「悪い、何か飲み物をくれ。喉がかわいた」
「あ、はいすぐに持ってきますねー。見せたいものもあるので」
 フローリングを後輩は台所へと小走りに駆けていった。一〇〇〇トン以上もの重量の上下移動がバスケットをテーブルごと断続的に静かに揺らした。揺れが収まったとき、後輩の姿は見えなくなっていた。

(さて)
 それを確認して、先輩はワーデンの名前を心の中で三回唱えた。
<呼んだかい>
 頭の中に聞き覚えのある中性的な声が響いた。周囲を見渡すが、誰もいない。頭の中に直接話しかけているらしい。
(夢じゃ、なかった)
「なんで私はいつのまにか戻ってしまったんだ」
 虚空に問いかけると、数秒して答えが返ってきた。
<考えられるのは、ハンドトゥハンドの対象縮小に伴う力だ。あれは認識した対象を自分のもとに引きよせることができる>
「ハンドトゥハンドの力だと?」
 無意識に握りしめられていた手のひらに汗がにじむ。その言葉が意味することは一つしかなかった。
<つまり、>
「いや、もう黙ってくれ」
<え?>
 声色がきつくなってしまったことに気づき、先輩はあわてて言い繕う。
「その。ありがとう、用は、済んだよ」
 彼の言い分にあれ以上耳を貸す意味はなかった。後輩を疑うようなことはしたくなかった。そもそも、あのワーデンという得体の知れない少年? と、一年以上の付き合いである後輩とどちらが信ずるに足りるかなど、愚問であるとしか言いようがない。
 それきりワーデンの声が聞こえてくることはなかった。やけに素直だが、こちらに過剰な干渉をしたくないのかもしれない。
 先輩は、それ以上ハンドトゥハンドとその所持者についての思考するのをやめた。

 もし、自分の家に閉じ込めるために後輩が自分を小さくして、しかもそれをひた隠しにして欺き続けているという事実を認めてしまったら、自分は狂ってしまうのだろう、ということには気づかずにいた。

 *

 後輩は冷凍庫から取り出したロックアイスをボールにぶちまけ、氷を数個掴んで口にバリバリと噛み砕いた。それでは満足できず、両手をボールへと突っ込む。引き裂かれるような冷たさが後輩の激情を鎮めていく。
 激しい感情に襲われ、早急に落ち着きを取り戻さなければならないとき後輩が行う儀式だった。
(妹、妹だと?! クソックソックソッ!)
 手をボールから引き揚げ、冷たく濡れた手で自分の頬をぴたぴたと叩く。
(あの憎々しい妹め! いつも幼児のごとく私の先輩にべたべたとしてて気に食わないんだ! 今回も、あいつのせいであわてて先輩を危険な目にあわせてしまった! そんなものと、比べられるなんて、屈辱、屈辱!)
 顔面の温度が下がるにつれ、後輩は冷静さを取り戻していった。
 飲み物の準備をすませ、戸棚を開け『見せたいもの』を取り出す。
 先輩もだんだん勘付いてきてしまっているらしいし、そろそろ第二段階を始めるときだろう。

 *

 ワーデンとの会話を終えてからもしばらくひとりの時間を楽しむゆとりがあるくらいには、後輩の帰りはゆっくりとしたものだった。トイレにでも行っていたのだろうか。
「お待たせしましたー」
 だんだんと大きくなるゆるやかな地響きとともに後輩は駆け戻ってきた。寝床がいきなり傾いて、先輩はそこから転がり出る。傾いた上のほうの縁が巨木のような後輩の腕から伸びる指につままれていた。
 目の前には、風呂に入った時に使ったのと同じタライ、もとい一抱えほどもあるペットボトルのふたに麦茶をなみなみと注いだものが鎮座していた。これをチョイスした後輩に悪意はないはずだが、それでもこれを見るたびにうんざりしてしまう。
 まずこれ、見た目より重い。最初これが出たとき、さかずきのように両手で持ち上げて中身を飲もうとしたのだが、不可能だった。意地になって顔が真っ赤になるほど力を込めて持ち上げようとしたが、せいぜい先輩の尺度で数センチ浮くぐらいだった。もちろんそれでは飲むことなどできない。もともと腕力に自信はないほうだったが、小さくなっているとはいえペットボトルのふたすら十分に持てないのはショックだった。後輩が指先でつまめるようなものが、自分では全力をもってしても持ち上げられない。
「先輩、知ってますか? 蟻は自分の数倍の重さの物を持ち上げられるんですって」
 なんて、学校の成績には係わりのない類の雑学には詳しい後輩が前に言っていた。今の自分は、力だけならアリんこ並なのではないだろうか。
 力を入れすぎて痺れた両腕をだらんと下げ、膝をついてぜえぜえと呼吸していると、テーブル(先輩の立つ大地)に肘をついて見守っている後輩のフフッという鼻から抜ける笑いを敏感な聴覚が捉えてしまったりしてますます情けなくなる。思わずキッと睨みつけたら、申し訳なさそうに後輩が眉を下げたので、こっちが申し訳なくなった。悪いのは後輩ではなく、笑ってしまうぐらい無力な先輩なのだから。
 したがって、しゃがんで直接飲み物に顔をつけて飲むことになるだろうが、これがまた屈辱的だ。先輩としては、『まるで皿の水を舐める犬か猫みたいだな』と思って内心暗く笑っていたのだが、後輩に、
「前に飼ってたカブトムシ思い出しました。昆虫ゼリー舐めてるみたいでかわいいっ」
 などとミリほどの悪意も感じられない明るい声で無邪気に言われてしまったので、先輩の自尊心は一時的にミリほどまで失われた。もう後輩へ怨みがましい視線を向けることはしなかった。またあんな泣きそうな顔をされてはかなわない。適切なサイズのコップや湯飲みを用意しない後輩が悪いのではなく、コップに収まってしまうほどに小さい自分のサイズが悪いのだから。

 そんな先輩なりのちっぽけな苦悩を押し殺して麦茶を飲み、三分の一を飲んだところで先輩は顔を麦茶の水面から離した。先輩にとって、ふたいっぱいの麦茶はとても多くて飲み干せないのだ。飲み残しは後輩が「間接キスですねっ」などとほざいて口に放り込んで始末する。後輩にはこの量、口の中を湿らせる程度にしかならない。
 数メートル前方に何かが落ちていた。近づいてみると、それはベルトであるらしいことがわかった。あまりに精緻な小人サイズの作りだったが、器用な後輩のことだからと先輩は納得した。実際は後輩がハンドトゥハンドの力で実寸大のベルトを小さくしたものだったのだが。
 ベルトを手に取ってみると、その真ん中には赤い綱が結ばれていた。綱に見えるだけで、実際には裁縫用の糸と言ったところだろう。綱の先を視線で追うと、それは曲がりくねった末やがて天へと伸び、最終的にそれは、天に浮かぶ五本の列柱のうちの右端の一本へと結びついていた。
「これが先輩に見せたいものです」
 列柱の持ち主の声が響いた。後輩が先輩に渡したものは、後輩の小指にはめた指貫と糸でつながったベルトだった。
「そのベルトを服の上からでいいので巻いてください」
 先輩が言われたとおりにベルトを巻き、留め金を留めると後輩は何が面白いのか口をゆがめて声なく笑い始めた。耐えきれなくなったように手で口を覆い、背を向けて笑っている。
「何がおかしい」
「いや、その、すいませんツボに入って」
「……?」
「ええと、これは先輩の安全を考慮するために私が用意したものです。ほら、先輩ってよく落ちてるでしょ? 昨日もおトイレに落ちちゃったし、今日も今日で」
「……ああ」
「これがあればそんな危険からおさらばなんです! すごいでしょ」
 後輩が得意げに胸の前で両手をクロスし、糸にひっぱられた先輩が数歩引きずられ、転んだ。
「あ、すみませんっ」
「なるほど、でも、これまるで……」
 その先を口に出すのを先輩の無意識が拒んだ。
 これさえあれば致命的な高さから転落したり、昼の一件のように後輩とはぐれるというリスキーな事態に陥らずにすむ、ということだろう。しかし。
「後輩には悪いけど、これはいらないよ。今後私が気をつければすむことだし」
「気をつけててもすまないことだってありますよ」
 突如、先輩の数メートルそばに先輩の数十倍の質量を持つ物体が落下してきて、その衝撃に先輩は数十センチ吹き飛ばされて尻もちをついた。後輩の左手がお椀状に曲がって、先輩の身体に狙いを定めていた。
「ほらほら、私のおててが先輩を食べちゃいますよー」
 ピンク色のやわらかそうな肉壁が小刻みにテーブルのつややかな地面をずりずりとこすりながら先輩に近づいてくる。小刻みと言ってもそれは後輩の尺度で、先輩にとってみれば一メートルずつ、かなりのスピードでにじり寄って来ていた。
「ひいっ」
 先輩は立ち上がり、手と反対方向に逃げようとするが数メートル走ったところで足をもつれさせて転んでしまう。手のひらはそれ自体がひとつの生き物であるかのように指をうねらせながら容赦なく近づいて、先輩の身体をダンゴムシのように転がした。
「あ、ああ」
 いつのまにか、先輩はテーブルの縁にまで追い詰められていた。下を覗き込む。三十メートル下のカーペット敷きの地面がぼやけていて、背筋が寒くなった。
 後ろを振り返ると、感情を持たない後輩の手のひらがすぐ近くにまで迫っていた。女の子らしい小さな手のひらだが、尻もちをついた先輩の二倍ほどの高さがある。
「やめて!」
 先輩は手のひらに向かって懇願したが、あいにく手のひらは人間の言葉を解さなかった。
 ずり。
 無慈悲に迫った軽乗用車のような手のひらが先輩の身体を弾き飛ばす。
 十階建てのビルに等しい高さから、先輩の身体は宙へとダイブした。
「いやああああ!」
 悲鳴を上げる。
 落ちたのはこれが初めてではないが、これほど自分が『落ちる』と理解させられてから落とされたことはなかった。もちろん心の準備などにはならず、ただ恐怖が増大されていただけだった。
 先輩の身体が、カーペットの上で弾む寸前で宙に停止し、跳ねた。カエルのような悲鳴が口から洩れる。腹を思いっきり圧迫された。吐き出すか漏らすかと思った。どちらも決壊しなかったのは幸運というほかない。
「ね、安全でしょう?」
 後輩の声がはるか遠くから聞こえる。今は白い二本の、ゆるやかな曲線を描く巨大な柱しか見えない。これは後輩の両脚だろう。
 先輩が腹をさすると、そこには革の感触があった。ベルトの存在を、すっかり忘れていた。後輩の突き出された小指から、マリオネットのようにつりさげられていた。
「……こ、う、は、い」
 回転する視界の中、自由な右手を上げ、見下ろしているはずの後輩の顔に指を突きつけ、絶え絶えな声で呼んだ。いままで軽い気持ちで命にかかわる弄ばれ方をしていたが、もうごまかされない。もう許さない。そんな決意があった。
 糸が巻き取られ、視界の回転がおさまり、先輩の身体は再び後輩の手のひらに収まる。あれほど無慈悲に先輩を追い立てていた手のひらは、今はやわらかく先輩を包みこんでいた。
「後輩……ッ!」
「ごめんなさい、先輩!」
 いきなりの謝罪に先輩の決意はくじかれた。
「調子にのっちゃいました。ごめんなさい、先輩を怖がらせるつもりはなかったんです。このベルト、うまく作れたんで、先輩に自慢したくって」
 手のひらがさらに上へと上がる。後輩に近づきすぎて、その顔ですらもはや全体を把握できない。背伸びして手も伸ばせば、後輩の頬に触れられそうだった。
 先輩が視線を上に向けると、自分の頭よりも大きそうな後輩の瞳がうるんでいた。今にも泣きだしそうだ。
「本当ごめんなさい、本当私って」
 戸惑うかのように開閉を繰り返す後輩の口から漏れ出た、生暖かい吐息が先輩の身体を覆った。後輩の口臭を、聴覚と同じく鋭敏化した先輩の嗅覚は不快とはとらえなかった。むしろ甘く、いつまでも包まれていたいくらいに心地よいものですらあった。どうして後輩の口の匂いなんかでこんなに満ち足りた気持ちになれるのだろう。そうおかしく思ったが、大したことではないとすぐに考えるのをやめた。先輩は、とっくにゴーストタウンになくて、ここにあるものに気づいていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「いいよ、私のことを考えてくれたんだもんね。このベルト、とってもいい。これからちゃんと着けるよ」
 大きな女の子の媚薬のような芳香に包まれながら、繰り返される呪文のような詫びの言葉を聴いていると意識が蕩けてきて、先ほど決意していたことがばかばかしく思えてきた。心なしか、口調も気の抜けたものになっている。
「ありがとう、先輩だいすきっ」
 視界が真っ暗になり、気持ちのいい香りで胸がいっぱいになる。前と後ろの柔らかい感触に、自分が全身で後輩の胸の中に抱き締められているのだと先輩は理解できた。後輩の身体は、こんなに小さな自分の身体も傷つけることなく、優しく受け止めてくれた。
「私も大好きだよ」
 我知らず言葉がこぼれて、先輩は暗闇の中顔を赤くする。きっと、小さな自分の小さなささやきなんて聞こえていないだろうけれど。

 先輩は、後輩がしばしば男たちを思わせぶりな態度で誘っては気持ちを弄んで男たちの怒りを買っているのを知識としては知っていたが、そのうちの手段の一つに「泣き落とし」があったのは知らなかった。

 *

「大好きだよ」
 その声は小さかったが、自分の胸と腕を伝って間違えようもなく後輩の耳へと届き、彼女は笑う。先輩に見せるような、太陽のようなほころんだほほえみとは違う。策謀する肉食獣の、歯を剥き出しにした獰猛な笑いだ。
 傍から見れば情緒不安定としか見えない自分の態度を先輩に納得させ、こんな言葉を引き出すことができたという成果の興奮に舞い上がりたくなる。
(いくらこの体格差があるからって、先輩をここまで洗脳できちゃうなんて)
 ハンドトゥハンドの効用に、後輩はいたく感動していた。
 自称女神の「ほしいものを手に入れられる」という解説は、諧謔でも比喩でもなんでもなかった。
 この調子だ。
 この調子で、先輩を自分の手のひらの中でしか笑えなくさせればいい。
 この調子で、先輩を自分の手のひらの中でしか泣けなくさせたい。
 この調子なら、先輩は自分の手のひらの中にしかいられなくなる。
 それはとても素晴らしいことだ。
 それを望んでいたのだ。
 それを願っていたのだ!
 それは愛だ。
 それが復讐なのだ!
 自分が思ってやまない先輩への!
 自分を顧みることのなかった先輩への!
 は、は、はははははははははははは

「……ごめんなさい」

 大きな自分のその言葉は、小さな彼女には届くはずもなかった。