[killma 03.]




 諸君にとっての『幸せ』とはなんだろうか?
 平穏な家庭、命を賭けた戦い、金銀財宝……人それぞれに答えの異なる話だと思う。

 僕にとっての幸せは、食べたあと寝ることだ。
 キルマが用意してくれたシチューをお腹いっぱい食べさせてもらって、その後自宅二階のベッドでごろりと横になる。
 ああ、幸せだ。食べた後眠くなってしまうのは、誰だって同じだ。
 食べてすぐ寝ると牛になるという俗説があるが、その場合僕は牛魔王になってしまうのだろうか。
 まあ、どうでもいいか。

「ま~お~う~さ~ま~」

 低い声が響く。
 窓の外を見ると、巨大な赤紫の瞳が僕のことを覗き込んでいてどっきりする。
 キルマが巨大なのではなく僕が小さいのであり、自宅というのはすなわちテーブルの上に置かれたドールハウスなのだ。
 いかに小さかろうとドールハウスにそのまま住むことはできないが、コレは特注の品なので魔界電気がちゃんと通っているため、問題なく生活することができる。
 
「魔王さま、最近ほんと食っちゃ寝ばかりで……
 太っちゃいますよぉ。弱くなっちゃいますよぉ」

 不満そうな声に、脇腹をつまんでみるとちょっと肉が余り始めた、そんな気もする。
 まあしかし今の僕にぶっちゃけ食っちゃ寝する以外のことは出来ないし……。
 ドールハウスの外に居るとキルマがちょっかいかけてきて相手するのがちょっとしんどい、というのもあるにはある。
 キルマはかわいいしかまってあげたいんだけど、ちょっと距離を取りたいことだってあるのだ。
 例えば自慰する時とか。

「運動しましょう、運動。
 次にっくき勇者と対決した時、運動不足で負けたらかっこわるいですよぉ」

 ぷくーっと頬をふくらませるキルマ。
 勇者。
 あれ以来本当に姿を見せていない、不倶戴天の敵。
 しかし今こんなミニマム状態だし、別に万全の状態だとしても、本気で殺しにこられたら普通に負けるだろう。

 そんな正しさではキルマは納得しそうにないけど。
 ましてや、そこまで敵視もしていない、かなわないならかなわないでいい、と言えるはずもない。
 魔王としては許されない発言だからだ。

「わかったわかった。今お腹いっぱいだから明日ね……」

 布団の中に潜り込んで、キルマの姿と声をシャットアウトする。

 * * *

 小刻みな揺れで目を覚ます。
 少しは膨れていたお腹もへっこんだようだった。

「キルマ……?」

 揺らすものがいるとすれば、彼以外にはないだろう。
 窓から見える外(室内だけど)の景色も、なんだか違う気がする。
 揺れはだんだん激しくなってきたので、あわててドールハウスの外に出るべく歩き始める。

「うわ」

 扉を開いて外に踏み出すと、ドールハウスはテーブルの上にはすでになかったことがまずわかる。
 そのはるか下、絨毯敷きの床の上に直置きされているようだった。
 目の前にはなめらかに曲線を描いて黒光りする壁がそびえている。

「おはようございまぁす」

 どこか楽しそうな声に見上げると、塔のように巨大なキルマが腰に手をついて僕を見下ろしていた。スカートの中身が丸見えである。
 片脚は僕のすぐそばに下ろされて、もう片方の脚はドールハウスを踏みつけにしている。揺らしていたのはそれだろう。
 履物は、威圧感のある黒いハイヒールだ。僕の前にあった壁は、キルマの靴だった。

「……ど、どうしたの。キルマ」
「いくらずぼらな魔王さまでも、ぼくの足に蹴飛ばされたら走り回るんじゃないかと思いまして!」

 おそらくはにっこりと笑ったのだろう。
 おそらく、というのは、この場所からの視界ではキルマの全身は腰のあたりで遮られてしまうのだ。
 それぐらいに僕にとってキルマというのは大きかった。
 巨人、という言葉でも生ぬるい。山だろうか。いいや彼は人型の生き物であり、山ではない。
 それが僕の脳に多大な違和感を生じさせる。

「それじゃ、いきますよー」
「ちょ、ちょっとちょっと待って」

 僕の目の前で黒い壁――パンプスがゆっくりとせり上がった。
 あっけにとられて見上げると、それはやがて平らな靴底をいっぱいに見せた。
 僕を二人ぐらいは並べても余りありそうなそれが、スローモーションで迫ってくる。

 踵を返して走りだす。
 走りだしてわかったことは、このじゅうたんは小人の僕にとってはあまりにも走りづらいことだった。
 なにしろこのふかふかの絨毯の毛は僕の膝のぐらいまであるのだ。

 何分走っただろうか?
 足裏がどれぐらいまで迫っているのかわからなかったが、それを確認しようと振り返るいとまも勇気もなかった。

「あっ」

 やがて足が毛に絡め取られて前のめりに転んでしまう。
 風が巻き起こった。
 靴底が破城槌めいて振り下ろされたのだ。その質量の起こす風と衝撃に、反対側の方向に吹き飛ばされた。

「あは。遅すぎません? ぼく、一歩しか動いてないんですけど」

 上体を起こして彼方を見れば、確かに、キルマのもう片方の脚はドールハウスの傍から動いていなかった。
 どうやらひいこら言って数分かけて僕が走った距離は、キルマの大またぎの一歩と同程度であるらしい。

「どっこいしょういち」

 魔界で一世紀ぐらい前に流行ったギャグ(キルマなら何となく許せる)を言いながら、キルマの身体がなんと縮んでいった。
 縮んでいったというのは僕の誤認で、膝を折り曲げてその場に腰を下ろしたために半分程度に全高が低くなっただけだ。
 それでももちろん僕にとっては大きすぎるのだが、顔を見ることはできるようになった。
 向こうからも僕のことを視認しやすくなっただろう。

 双つの脚の塔が中途で折れ曲がり、丸みを帯びているけれど魔界ガスタンクのごとき質量を誇るお尻が絨毯に着地して、再びの縦揺れに僕の身体が転げた。
 尻もちをついたまま前かがみになったキルマの顔が僕を覗きこむ。
 周囲は、キルマの身体の作る影に覆われて薄暗い。

「さーてと、全然がんばってない魔王さまには、お仕置きしてさしあげないと」

 呆けていると、キルマが口をすぼめ――とろりと、唾液をこちらに落としてきた。
 すわ、また淫魔名物フクトカースか。まともにそれに包まれてしまう。
 しかし服が溶けることはなく、唾液はすぐに乾き――かわりに、キルマが大きくなっていく。

「淫魔はミニマムをこんなふうに使うんですよ。ふふん」
「ふふんじゃなくて。僕すでに十分すぎる小さいんだからもう小さくしないで欲しい」
「でもほらもうこんなに小さいんですよ」

 こんなに。そう言うとキルマは脚を上げてヒールを僕のすぐそばに落とす。
 地の文では簡単に描写しているけどキルマがこういう適当な所作をするたびに砲弾が至近に落ちてくるような衝撃があってマジヤバ(魔王ですら・冗談にできないぐらい・ヤバいの略)なのだがいちいちそれに触れているとちょっと話が進まないという魔王的判断により割愛しているがこれを読んでいる人は僕がいかな脅威に晒されているか具体的に知りたいのかもしれないなぁと思うしどうしたものか。
 ともかく僕が言いたいのは怖すぎる寿命が縮むということだ。身体はもう縮んでるがな! ワハハ。

 こんなに。そう言わんとするところの意味はすぐに理解できた。
 さらに半分ほどに縮められた僕の背丈は、まっすぐに気をつけをしてもキルマのヒールの高さにかなわないのだ。
 今ならこのパンプスの下を簡単にくぐり抜けられそうである。
 靴に目を奪われている僕の頭上で、愉快げに微笑む気配があった。
 
「はぁ」

 なんだか全身をじっとりとした疲労感が包み込んで、つるつるのパンプスの側面に寄りかかってしまう。
 勇者にてひどい目に合わされ、キルマにはこうして振り回され、しかしあんまり動じず受け入れられていることに我ながら驚く。
 これが魔王としての胆力なのかもしれない。やっぱ僕ってすごいんだなぁ。

「魔王さま、結構余裕じゃないですか? 魔王さまとしての胆力ですか?
 もっと酷い目に合わせていいですか?
 ケシ粒みたいな大きさにして指に乗せていいですか?」
「……いや、ごめん、いっぱいいっぱいだからやめて。
 でも真面目な話、これしきで動じているようじゃ魔王はつとまらないでしょう」
「もっとぼくのことを怖がってくれてもいいんですよ?」

 僕のことを見下ろして、哀れみとも蔑みともつかないような笑みを浮かべるのだった。
 柔らかそうな巻き毛が、オーロラのように垂れている。

「キルマが小さくなりすぎた僕のことを敬えないのは別にいいけど、
 僕はキルマに対する扱いを変えるつもりはないよ。
 どれだけ大きく恐ろしいものになったとしてもキルマは僕の良い子分だよ」

 いたって平静にそう告げると、キルマは僕を大きな指でつまみ上げてその顔の前まで持ってきた。
 うわっ高い。手に乗せられるのとは全然違う怖さだ。両足がばたばたと揺れる。

「愚かなベレムフェムト。だからあなたはベレムフェムトになったんだ」

 そう口にしてキルマは僕の下半身を柔らかな唇で挟み込んだ。これはきっとキスなのだろう。
 ベレムフェムト。当代の魔王、つまりは僕の名である。
 しかし不思議とその名前が僕のものであるという実感がわかない。
 まあ、ずいぶんとカッコイイ名前なので、僕の名前で間違いないだろう。

 キルマ。僕はそう叫んだ。他に言うべき気の利いたセリフも思い浮かばなかった。
 キルマの声が、表情が、澄んだ悲しみに満ちていたからだろう。
 どうして?



〈続くといいなぁ~〉