世界が一変していた。
 数人の男たちと一緒に、おれは天を仰いでいた。
 真っ黒く隆起した荒野が広がっていて、神を模した巨像のごとき存在感の物体が、おれたちを見下ろしている。冷酷に。
 おれはこいつらとは違うと言いたかった。
 でも、見下ろす少女の巨人にとって──区別などつけられなかったかもしれない。
 おれたちは一様に虫けらのように小さかったのだから。

 *

「おまえと一緒なら安心だよな」

 口癖のようにそう言っていた。
 恋なんてしないほうがいいに決まっている。
 砂上(すなうえ)ライセはそういう意味で安心だった。
 おれが好きになるはずなんてないって思っていたから。
 なにしろおれの好みはおっぱいが大きくて背が高いむちむちの美人で、ライセはその正反対だったから。
 そういうわけでおれとライセはよくつるんでいた。
 少なくとも中学まではその考えに間違いはなかった。

 *

「でも、あんまりああいうことはしないほうがいいよ」
「どうして。ボクらともだちだろ? 最近、キミってなんだかよそよそしいよね」

 校舎の昇降口を出て少し歩いたところで、おれはライセにダメ出しをしていた。

「一応さ、おまえって女子なわけ。男連中の中にそういうのが間に入ってくると、ビビるんだよ」

 そのときおれたち男衆は胸を強調した女性の写真が大写しになっている表紙の雑誌をネタに盛り上がっていた。そこに文字通りに首を突っ込んできたのがライセというわけだ。

「納得行かないなあ……ボクなんて全然女の子っぽくないじゃん。実質男と言っても過言ではない」

 かといって男らしいかと言えばそれはまた別だ。胸は薄い、髪は短い、背が低い、筋肉はついていない。小学生のような見た目だった。中性的と言うのだろうか。

「キミもそう思うだろ?」
「え? ああ? うん……」

 自然に返事ができたかどうかは怪しい。ライセの表情は感情に乏しく、長い付き合いであるおれにも読める自信がない。むしろ、昔のほうがもっとわかりやすかった気がする。

“あいつっていいよな”
“え、砂上が? ありえないだろ……”

 男たちの間だけでかわされていた、駆け引きとも言えない稚拙なやりとりや目配せを思い出していた。女らしい女にはだいたい男の影がある。砂上にはそれがなかった。

 *

 その日は、たまには別の道を通って帰ろうかと思って、いつも曲がらない道を曲がってみることにした。スマホで地図アプリを開かずに歩いていると、まったく自分の家にたどり着かないでいる。
 それはライセの帰り道だった。
 他校の生徒だろうか。知らない男──それも複数人に、ライセが絡まれているのが見えた。
 おいおい。おれは呆れた。
 あんなメリハリのない体型のライセでも男にモテるんだな、と。
 テレビでもやっていた気がする。案外地味な女のほうが痴漢やナンパ男にはモテるのだ、と。
 少なくともこれがライセにとって望ましい状況ではないことは、彼女の表情を見ればわかった。

「あのさあ。ボクのことを気に入ってくれるのはいいんだけど、今日はちょっと忙しくてさあ……」

 男たちは、似てるよな、ああやっぱ似てる、連れて行こうぜ、いやほんとだったらやばいだろ、みたいな要領のつかめないことを口々に言っている。そのうちの一人が、とうとうライセの腕を掴んだ。
「あ」
 と叫んでおれは飛び出した。そんなにかっこいいものじゃなかった。掴みかかることも、ライセの手を取って逃げようともしていなかった。ただ飛び出しただけ。それでも、少なくとも不埒な男たちの注意は惹けるのではないかと思ったが、そうはならなかった。それよりも驚愕するべきことが起こっていたからだった。

「キミたちをキミたちのふさわしい姿に変えてあげよう」

 いつのまにか、ライセはきらびやかな装飾がほどこされたステッキを握っていた。
 それが振るわれる。星のように瞬く光が散る。
 世界が歪んだ。

 *

 小さくされていた。
 どれほどとんでもないことが起こっていても、簡潔な文字情報にまとめると大した事が起こってないように思えてしまう。
 気がつけば、おれはナンパ男連中とともに、地べたに這い回る虫のようにされていた。
 摩天楼のような巨人がひとりだけ、おれたちを見下ろしていた。
 最初は事態を飲み込めていなかったおれを含む小人たちは、巨人の存在に気がついてパニックになった。固まって動けないもの、一目散に逃げ出していくもの。何を狂ったか、足元に向かうもの。
 いずれも、しゃがみこんだ巨人の手に捕まってしまった。どれだけ走っても、巨人にとっては一歩でまたげるような距離しか稼げていなかったらしい。
 おれのほうにも、巨大なそれが近づいてくる。緩やかな地響きを立てながら。
 大型車両のごとき、焦げ茶色のローファーに轢き潰されるかと恐怖したが、それは目の前で停まる。そして、手が降りてくる。どれだけ必死に走っても、巨人の一歩の歩幅にも、巨大なシェルピンクのクレーンの迫る速度にも勝てなかった。
 中学の修学旅行で見た大仏などとはまったく異なる、生きた存在が放つオーラのようなものをおれは感じていた。生ぬるい空気を柱のような五指が掻いて、その側面をおれたちにぶつけるようにしてくる。関節にぶら下がりながら、下を見下ろすと、遥か下には黒い荒野──もといアスファルトの地面。その間には、万が一にも落とさないようにだろう、教室のように広がるもう片方の手のひら。その上には、何人ものナンパ男たちが乗せられている。
 おれたちを小さくしてしまった張本人であるライセはもちろん大きさなんて変わっていなくて、つまりおれたちの数十倍の巨人として君臨していた。
 最初はそれがライセなのかわからなかった。
 おれたちは指の間に捕らわれたまま、ライセの淡い色の制服へと近づけられていく。暴れても、指の力にまるで逆らうことはできない。
 視界が闇に包まれる。
 制服のスカートのポケットに入れられたのだ。
 
「出してくれ!」

 布の檻の中でもがくおれを、ライセの指が上から押し付けた。ライセの指は柱のように太く大きく、おれなどは指一本だけで押さえつけられる程に力強かった。
 そうではなく、おれがネズミのように小さくなっていたのだった。さっきのナンパ男たちは、まとめて反対側のポケットに詰め込まれている。

「ごめん、きみもヤカラかと勘違いしちゃって……とりあえず、安全なところまで運ぶから……」

 いっしょくたに狭い場所に押し込められていないあたりは、いちおう特別待遇らしい。ポケットの中はいい香りがした。制服がいいかおりがするのか、女の子というのはそういうものなのか、おれにはわからない。
 
「間違えて踏み潰しちゃうところだったんだよ? なんでスカートの中なんて覗こうとしたのさ……」

 何を言ってもくだらない言い訳にしかならなさそうなので、おれは黙秘権を行使した。

 *

「レイズグレイズ?」
「そう。それがボクのフェアリーズとしての名前」

 この国には魔法少女とも、フェアリーズとも呼ばれる存在がいる。
 きらきらふわふわな衣装をまとった、不思議な力を持つ、少女たち。
 猫探し、迷子の道案内から、“敵”……悪人退治、災害救助まで、活動は手広い。
 その活動は撮影されてDVDやブルーレイに収められ、広く販売され、売上は彼女たちの資金源になっているのだとか。
 まさかライセがそれだったとは思っていなかったが、聞かされてみれば、それはあまり意外ではなかった。

 *

 ライセの部屋は小さなアパートにあった。
 思ったよりも生活感があって雑然としている。メモ書きがいくつも貼られている冷蔵庫。整理された学習机。窓を覆う外界からの干渉を拒むような黒いカーテン。

「ボクみたいなオトコオンナがフェアリーズだなんて、びっくりした?」
「え? ああ、うん……?」

 考えもしなかったけど、結構しっくり来たが、そういうことを言える空気でもなかった。どうしてだろう。
 
「もとに戻せないのか?」
「縮小の魔法は破壊的なんだ。ボクの技量では無理」

 そんなことを悪びれもせずに言った。
 本心が伺いにくいライセのことだから、仕方ないのかもと思った。

「……あ、無理って言ったのはすぐには、って意味ね。ちょっと実験とか、準備に時間がかかりそう、かな……ってぐらい」

 どれくらいかかるのかは教えてもらえなかった。それなりにかかるのだという。ともかく、それまではライセの家で世話してもらうことにお互いの合意が取れた。
 他になかった。

「別のフェアリーズに世話してもらうのもいいけど」
「知り合いいるんだ」
 まあ当然か……
「うん。このアパートは時々他のフェアリーズも来るし……酒とか置いてくのもいる」
「フェアリーズの飲酒がバレたら問題になりそう」
「今もっと世間にバレたら問題になることしてるよ」

 おれは彼女の机に置かれる。
 輩たちはカーペットの床に置かれて、いつ踏み潰されてもおかしくないような位置にいる。
 待遇の違いだというのはわかる。
 でも、足元から見上げるライセの神々しさを味わえないのが、少し残念だった。

「ちょっとこいつらの相手をするけど、恥ずかしいことをするから見ないでね」

 そう言われて重たい布団のようなものをかぶせられた。これもまた、どこか女の子特有の、ミルクのような香りがした。
 数分をかけて、ハンカチの檻から抜け出す。
 机の崖の端から見下ろすと、ちょうどライセが小人たちをかき集め終わっているところだった。
 ビルの展望スペースから町並みを見下ろすと人間たちが小さく見えるというが、まさにそれだった。違うのは、実際に小さくなってカーペットの上に固まっていると、本当に惨めな虫の集まりに見えてしまうというところだった。吐き気がするのをこらえる。

「ボクなんかをナンパする性欲に狂ってしょうがないキミたちには相応の報いを受けてもらうよ」

 抑揚のない声で、例のステッキを振り上げる。
 瞬く光が部屋中を照らす。

「キミたちの内なる欲望を増幅する魔法をかけたよ。自分たちの罪をせいいっぱい噛み締めてね」

 衣擦れの音。
 ライセが制服のブレザーに手をかけて脱ぎ始めた。ジャケット、ブラウス、その下の黒いスポーツブラの上下までも。
 うわ、と声を上げそうになって口元を抑えた。見るべきではないとわかっていても、巨大な脱衣に目が離せない。出歯亀を続けていると、またしても奇妙なものが目に入った。胸、腋の下、腹、靴下。あらゆるところから虫のように小さなものが出てくる。それはもちろん虫ではなくて、同じように小さくされた小人たちだった。

「まずはこいつらを交換して」

 部屋の隅に積まれていたいくつかの透明な箱──アクリルの虫かごに、出てきた小人たちを入れていく。ここからではよく見えなかったが、カゴには几帳面な字で書かれたシールがそれぞれ貼られていた。あとで、ライセの体の部位──該当する小人が閉じ込められていた部位だとわかった。
 どういうことだ? 意味がわからない。自分の体に人間を閉じ込めるなんて。気持ち悪いだけじゃないのか?

「それで、これからキミたちがどこなら魔力を一番出してくれるかを検証するから、大人しくしてね」

 すっかり一糸まとわない姿になって、体育座りになって座り込むと、大雑把に小人たちを掴んでは、口に運ぶ。
 食べるのか!? と思ったら、そうではなかった。幼児のように唇に押し付けたり、口の中に含んだりしているようだった。ひょっとしてそれはキスなんじゃないか? と思い至るには、動転しているおれには時間が必要だった。
 かと思えば、太ももや胸、腹にも押し付ける。足裏で踏みつけることさえしはじめた。

「まあ、やっぱこっちかな……」

 ……脚の間にも運ぶ。

 巨大な体を誇示するような行為が恐ろしくないはずもないのに、小人たちは逃げる気配すらなくなっていた。例の魔法のせいだろうか? 内なる欲望をどうとか、という……
 口や脚はまだしも、胸や股に押さえつける行為は、童貞のおれでも、オナニーに類するものなのではないか、とようやく気づいた。気づくのが遅れたのは、やっているライセ当人が、全く表情を赤らめている様子がないからだった。踏みつけにされたり弄ばれたりしている小人は、あんなに嬉しそうにして……嬉しそうに? 虫のようにされて、自慰の道具にされて、嬉しい? そんなことがあるのか?
 
「……うん、だいたいわかった」

 ライセはふいにそう言って、例の虫かごたちを横倒しにして中の小人を解放すると、全裸のままカーペットの上に寝そべった。小人たちは我先へとライセの体に群がっている。いずれも男で、彼らが集まっている場所は、虫かごにラベルされた身体箇所と一致していた。
 おれがライセと同じような大きさだったら、ためらうことなく彼らを手で叩き潰していただろう。今のおれは吐き気をこらえるので精一杯だった。
 
 *

「フェアリーズとして活動するための魔法には魔力が必要なんだけど」
「うん」
「そのためには男たちに触れられる必要があるんだ」

 初級者のうちはもっと面倒くさいことする必要があるんだけどね、とライセは付け足した。素肌に触れさせないといけないというのはわかるが、あんなに扇情的なことをする必要はないはずだった。“ちょっと面倒なこと”が必要なのだろう、とわかった。

 おれも手伝えればいいんだけど……とはさすがに言えなかった。まるで踏んだり押し付けたりしてほしいみたいじゃないか。……そうされたいんだろうか? 巨大なライセに、虫を見るのと同じ冷たい眼差しを注がれたいのだろうか。

「なにがそんなに嫌なの?」
「え」

 机の上からライセたちの行為を見下ろすおれは、彼女に見咎められるほどに嫌そうな表情をしていたらしい。

「見なければいいのに」

 ライセの指さしたそこは、金属製のラックを加工して、さらに布で覆いをかけたものだった。最初はこっそり天幕の隙間から行為を覗いていたのだが、すぐに見咎められたのでおおっぴらに見るようになっていた。見せたくないのならばライセならばおれを無理やり閉じ込めるなり拘束するなりできそうなものだが、そうはしない。強引に縛り付けることに抵抗があるのだろう。
 彼女も恥ずかしがっていたのだが、すっかり慣れてしまったらしい。
 ここに何日居続けることになっているのかもわからない。

「だって他に……見るものもないだろ」
「それもそうか……」
 感情の薄い顔に眉を寄せて思案顔になるライセ。かわいい。

 ちょっと待っててとライセが告げて、部屋の外に消える。それから戻ってくると、居住スペースに何やら物を入れてきた。
 黒いモノリスを思わせる巨大な板。
 ライセが操作すると光が灯る。

「使わなくなったスマホだけど……」

 アングラな配信サイトだろうか。
 そこには喘ぎ声を上げて乱れる女性の姿が大写しになっていて、おれは笑ってしまった。

「うわ、なんだよ、これ」
「キミの求めている物ってこういうのじゃないの?」

 スマホという大画面に写っているのは、黒くて長い髪の、豊満な身体を持つ女体だった。

「え……なんかの冗談?」
「欲求不満になってるんでしょう?」
「……まあ、ありがとう」

 蛍光灯を反射するAndroid端末の中の女の喘ぎ声が、どこか空々しく響く。これほどまでに生々しい声もないのに、非現実的なのが不思議だった。
 おれはそれから、日がな一日寝転んで過ごしていた。昔読んだ漫画のように、サルのように手淫に明け暮れるだけの日々……ということはなく、アダルトなコンテンツ以外にニュースや楽曲、アニメなども見せてくれたので、社会とのつながりを完全に失うことはせずにすんだ。もっとも、助けを呼ぶことはやめてほしい、と釘を差された。強く禁じるトーンではなかった。それでも今の状態を正直に伝えたとしても頭がおかしいやつ以上の扱いはされないだろうし、仮に警察や学校関係者が訪れてライセと引き離されてしまったりでもしたら困るのはおれなのである。家族には心配ない旨を伝えるだけにとどめた。
 そのころはあまり危機感というものがなかったのかもしれない。
 
 *

 その日は来客があった。
 
 同僚の魔法少女が時々訪れるというのは本当らしい。
 居住スペースの覆いの隙間から覗いた、切りそろえられた淡い色の髪のその子は、ショートスリープの苺がプリントされたシャツと、明るい色のキュロットスカートを穿いていた。ボタンダウンシャツとカーゴパンツという男性的な装いのライセとは対象的だ。
 彼女はフラン、と呼ばれていた。

「お、知らないカゴなのです。ライセの新しい〈ピクシー〉なのです?」

 近づいてくる。ライセのものではない、弾むような足音。足音にも個性があることを、小さくなって知った。
 フランによればピクシーというのは、フェアリーズが作る魔力供給用の小人、らしい。
 居住スペースを覆っていた金属のラックの格子ごしに、丸く幼い瞳が、覗き込んでいる。ライセもそうなのだけれど、格子を隔てていることで、存在としての格差を見せつけられるかのようだった。そして、ライセが特別巨大なのではなくて、おれが小さくなってしまっているのだということも。
 ライセもフランもおれなんかとは比べ物にならないぐらい大きかったが、小柄なライセよりもフランは小さい。おそらくは小学生かそこらなのではないだろうかと思った。

「フラン。彼は〈ピクシー〉じゃないよ。ボクの友達」
「え? じゃあなんでこんなにチビなのです?」

 初対面の人間、それも年上であろうおれを前にして、チビと呼ぶことを憚らない。思わず声を上げそうになって耐えたが、目つきはごまかせないらしかった。

「なんだか生意気そうな目つきをしているのです。教育がなってないのです!」

 全体としては小動物を思わせる雰囲気の女の子がぷりぷりと怒っているのは、一般的に言ってかわいらしいはずだった。おれのことを物理的にも精神的にも見下しているという状況がなければ。
 足音にも個性があるのと同じで、視線にも色があるのだと痛切に実感する。フランがおれに向ける目は、同じ人間に対するものではない。温かみに欠けるように思えていたライセのものとは、はっきりと異なっていた。

「生意気だねえ、フランは……いちおうフェアリーズとしては、ボクが先輩なんだから、敬ってほしいな」

 言うほどには立腹していない様子のライセは、お茶を淹れてくると言い残して、キッチンへと向かう。
 部屋にはおれと、巨大少女もといフランが残された。
 値踏みするような目つきでしばらく睨んできたあと、フランはおれに手を近づけてくる。居住スペースを埋め尽くせるような巨大な手──ペールオレンジの指が、容赦も遠慮もなく入り込んできて、おれをつまみあげた。虫のように。首根が絞まる。
 すんすん、と間近で鼻を鳴らして、匂いを嗅いでいるのがわかった。

「ふうん……たしかに、魔力を絞られた痕跡がないのです」

 ぺ、と指が離されて、おれはデスクの上に墜落する。

「……痛い……」
「反抗的な目つきが気に入らないのです」

 指が再び迫ると、デスクの上でおれを押し倒す。
 ずっと年下だろう彼女の指の力にも敵わない。簡単に指に手足を押さえつけられる。

「そこは魔力を吐き出したくて、たまらなさそうなのに」

 服の上から、柔らかく太い指が身体をなでつけてくる。胸。腹。下腹部……

「やめろっ、やめてくれ」
 
 せめて、……

「せめて、ライセにやってほしい、のです?」

 にたあ、とフランの唇が弧を描き歪んだ。優等生が、悪さをしているのを見つけた時の、意地悪な表情。おれが気が付かないふりをしていた気持ちを、初対面の小さな女の子に掌握されている。

 *

 天幕の外から、ティーカップやカトラリーの鳴る音が響く。
 女神たちが歓談しているいっぽうで、おれは居住スペースの中でぐったりと横たわっていた。

「先輩って言いますけど、ライセ、いつからフェアリーズになったのです?」
「中学に入った頃かな。そのとき才能がある、って言われてオファーを受けたんだ。フェアリーズに入れば、もっと女の子らしくなれるかな、って思って」
「女の子っぽくなりたかったのです?」
「でも、なんでかそうはなれなかったんだよね……」
「ライセってクールな見た目でかっこいいのです。フランはそのままでいいと思っているのですよ」
「うん……」

 言ってしまえば安っぽい励ましに、ライセの返事はぼんやりしたものだった。

「ねえ、そろそろ元気出た? ケーキ食べようよ」

 シルエットになったライセの手が、天幕をつつくのが見えた。
 重たい身体を持ち上げて、のろのろと居住スペースから出ていく。
 ライセの手のひらに乗せられて、テーブルの上にご案内。
 二人の少女と、おれよりも背の高いティーカップやショートケーキに見下されるお茶会。

「ほら。食べな」

 おれを簡単に串刺しにできそうなフォーク……に乗せられた、ケーキの破片がずい、と近づけられる。小人用の食器の用意はないようだった。
 なんだか餌やりみたいだな。いや餌やりそのものなのか。
 ちびちびとスポンジやクリームを食む様子を、ライセは楽しいのか面倒に思っているのか、判別し難いむすっとした表情で、ずっと見下ろしていた。

「おいし……」

 おれの周囲を影が覆い、どん! とすぐ側に大重量の物体が落ちてくる。顔になにか……クリームがかかった。
 ショートケーキから引き抜かれた苺が、おれのすぐそばに落とされたのだ。
 ライセのそばに座っていたフランの指によって。

「あはは~。苺なんかにびびっちゃって、ちび虫はかわいいのです~」
「…………」

 おれにとっては、ショートケーキの苺ひとつといえども、ロッカーのように巨大だ。怖がらないはずもない。フランの物騒ないたずらに、ライセも呆れた様子だった。

「魔力絞るわけでもないのに、そんなふうにいじめる必要はないでしょう……というか、きみの〈ピクシー〉じゃないんだから、あんまり勝手なことしないで」
「も~。カタいこと言うななのです。フランはフランなりに、ちび虫と仲良くなりたいだけなのですっ!」

 少なくとも対等になりたい相手に対する呼び方ではないと思う、ちび虫は。

 *

 ぼんやりとした疑念は確信に変わりつつあった。フェアリーズは、少女の都合のいいことを囁いて、戻れない悪の道へといざなおうとしているのではないだろうか。フェアリーズの真実は世間に知られれば不都合であるから、オファーを断った少女を“消している”だけかもしれない。

 *

「なあ……おれもその、魔力がどうとか、ってやつに協力させてほしいんだよ」
「あのね……自分の言っていることの意味、わかってる?」

 清水の舞台から飛び降りるような気持ちで切り出したが、その返事はにべもないものだった。
 もっとも、おれにとっては今乗せてもらっているライセのデスクが、清水の舞台に匹敵する高さなんだけれども。清水の舞台は高さ13メートルらしいので、多分体感ではもっと高い。
 何気なくデスクの上に置かれたライセの握りこぶしは、バラック小屋ぐらいの存在感がある。

「もう、魔力補充って何をやっているか、フランから教えてもらったでしょう?」
「おおよそは……」

 辟易とした受け答えに、おれはたじろぐ。少なくともおれから見て、照れとか引け目といったものはまるで見られなかった。
 
「あのね……ボクみたいなのに、キミが興奮するわけがないでしょ。言っとくけど、わざわざヌいてあげるつもりなんて、ないから」

 はっきりと嫌そうな表情を見せられれば、自分の中での勇気──と呼んでいいものかどうかわからないそれが、しおれていくのがわかる。彼女になにか報いたいとか、他の〈ピクシー〉と比べて、おれだけ何も出来ていないのが嫌だとか、……そういった殊勝と言えそうな気持ちはあるにはあった。それだけではない。では性欲なのかと言われると……そうとも、言い切れないような。でもそれをそのままぶつけたところで、ライセにはまるで通じないだろうということが解る。

「……そんなことはないだろ!」

 そうなると出力はこのようなものになる。

「……つまりどういうこと?」

 そして、静かに訊ね返されて、言葉に窮するのだった。
 ライセに性欲を感じるとか、ライセを自分のものにしたいだとか、この状況でそのまま告げてどうなる? どうにもならない。
 よくわからない。けど、とにかく耐えられない。現状に。
 ライセに、自分をそういうふうに、言ってほしくない。

「欲求不満だったり、やることがなくて暇だったりするんなら、そう言ってよ。なにか考えるからさ。ボク、キミのことを馬鹿な〈ピクシー〉たちと同列に扱いたくないんだよ」

 その言葉とともに吐き出したため息には明確な疲れがあった。
 うつむいた彼女の表情を伺うために、デスクの上を歩く。もっとも、普段と変わらない仏頂面だ。デスクの上に鎮座する手にも近づくことになる。白くて、すべすべしていて、触り心地の良い手。おれはその感触を知っている。

(あの指で、男たちは、日夜……いや、指以外の、あらゆる場所でも……)

「どうしたの。ボクの手をじっと見て……」
「あ、いや」

 怪訝な眼差しを向けてくるライセに、おれは咳払いをする。見下ろしているぶん、思ったよりもはっきりとこちらの動向がわかるのかもしれない。

「あのさ……」
「うん」
「フェアリーズなんて、やめちゃえよ」
「……」

 憤るでも頷くでもなく、ライセは無言でこめかみを揉んだ。

「そしたら、ボクは魔法なんか使えなくなっちゃうし、キミは一生その姿だよ」
「はは……面倒見てくれるか?」
「ごめんだね」
「傷つくなあ」
「ボクはちゃんとした大きさのキミのことが好きだから」
「……そう」

 更に歩いてライセの手に近づく。
 遠く威圧感を放つライセのかんばせとは別の迫力が、至近の手には存在する。

「さわっていいか?」
「いいよ、友達なんだから。手ぐらい、許可は必要ないよ」
「ありがとう」

 指のちからが緩んで、少しだけ開かれる。ほのかに汗の香りがした。
 恐る恐る手を伸ばす。巨岩のような手に、しかし、まるで壊れものにでも触れるような慎重さをもって。ぺたり、ぺたりと、手のひらで触れる。繊細な質感の、シェルピンクの、布張りのような手触り。

「それだけでいいのかい?」
「うん……」

 ふいに周囲が暗くなる。
 見上げれば、ライセの手のひらが広げられておれに覆いかぶさろうとしていた。思わず悲鳴を上げかけて、耐えた。
 重たい手の檻が、やわらかく、おれの全身に乗る。指が首の後ろを、頭を撫でる。いたわるように。氷を融かすように。花を愛でるように……
 汗の香りとまじる、密やかで控えめな、花の香りがおれを包む。
 
 やめてくれと叫びたかった。やさしくされることに何故か耐えられなかった。
 男でなければいいと思った。女ならいいと思った。
 男には男の国があり、女には女の国があって、お互いの領土を侵せない。
 ライセはそれをわかっていたのか?

「ごめんね。ボクじゃキミを何処かに連れていくことなんてできない」

 そして、おれもおまえを何処かに連れて行くことなんてできない。
 おまえがどうしようもなく弱いのと同じで、おれはこんなに小さいから。

 *

「ええ~。それで終わったんです? 魔力供給は?」
「しない、よ……」

 フランはライセと違って、かなりおれに対する扱いが雑だった。
 手のひらに乗せたかと思えば、つまみ上げたり、ひっくり返したり、膝の上に乗せたり、とにかく気ままだ。

「もっと丁寧に扱ってくれ……おれはこんなにか弱いんだからさ……」
「ええ~? ちびのくせに生意気なのです」
「ライセとおまえ、どっちがフェアリーズの平均に近いんだろうな……」

 ライセはおれを手のひらに乗せることすら稀だった。
 彼女なりのおれへの気遣いだったのだろうと、フランと接しているとわかる。
 こんなふうに遊ばれていると、いつ骨が折れるかもわからない。
 ライセがいなくなったとき、隙を見計らって、フランはこうやってちょっかいをかけてくる。迷惑千万だが、おれにとっては貴重な、顔を突き合わせてしゃべることができる相手だった。多分、ライセだけとしか喋れていなかったら、息が詰まって死んでいただろう。

「フランは……」
「おまえとか、フランとか、不敬なのですっ。ちび虫は身分をわきまえるのです。フラン様って呼ぶのです」
「はいはい、フラン様……」

 いかにも子供らしい全能感のあらわれだったので、案外反発はなかった。もっとも、フランは本当におれにとっては全能の支配者になれる力があるのだが……

「ちび虫がもっとぐいぐい行ってアタックすればいいのですよ~」
「ぐいぐいってなあ」
「草食系なのです? アオムシさんなのです?」
「机の上から降りられないのにぐいぐい行くも何もないよ……」
「ぷぷー。ちっちゃいってみじめですねえ」
「バカにしたいだけか?」
「机の上から降りられるようになったら、どうです?」
「どうです、って……?」
「そういう魔法を、ちび虫にかけてやることもできるのです。アオムシからチョウチョに華麗に転身、なのです!」
「空を飛ぶ魔法、みたいな……?」

 そういう魔法があるなら、たしかに少しはできることがあるかもしれない。少なくとも、机から降りられなくてもじもじすることはなさそうだ。

「かけてほしいのです?」
「え? あ、うん……」
「じゃ、魔力、出すのです」

 指がおれの両脚を無理やり開かせる。

「あっ、おい、うっ、やめろーっ」
「ちび虫がなにか言っているのです。よく聞こえないのです~」

 このガキは性格が最悪だなと思った。

 *

 夜。
 天幕の中で小さなクッションを布団代わりにして横になっていた。
 眠っているわけではない。眠ったふりをして、ライセの目をごまかしただけだ。
 完全に静かになったのを確認してから、忍び歩きで天幕を抜け出す。
 別に足音を殺さなくたって、小さなおれの立てる音なんてライセの耳には届かないだろうけど。
 
 デスクの端にたどり着く。
 部屋の反対側に設えられたベッドで横になって眠っているライセが、そこから見下ろせた。
 流石に眠っているときまでは、小人たちの相手をしてはいないようだった。
 見えていないだけという可能性もあったが、少し安心する。

 最低限の淡いランプだけが照明の部屋で、ベッドで寝ている同級生を見下ろしているだけなのに、小高い山から街を見下ろしているような錯覚にとらわれる。空気感が、もとの大きさのときとは、全然違っていた。

「よし、いくぞ……」

 フランの説明通りなら、ここから飛び降りれば、魔法が発動するということだった。
 結構な高さだった。もし騙されていたら落ちて死んでしまうのかもしれない。
 おれが勝手に事故死してほしいのかも、という可能性はあったが……
 すがる相手は他にいない。

「ええい、ままよ!」

 助走をつけてデスクから飛び出す。すると、ふわりと重力に逆らう感触。
 見えない翼のようなものが背中に生えた感触があった。
 ゆっくりと降下しながら、ベッドに近づいていく……

「ちょっと待って……これ、高く飛べない!」

 確かに飛べている。しかしおれが期待したものとは違って、単にハングライダーのように滑空できるだけだった。
 しかも慣性を制御しきれず、うまく狙った方向に飛べない。
 じわじわと高度が下がっていく。
 床に落ちることだけは絶対に避けたい。
 今のおれの大きさでは、ライセのベッドによじ登ることすら難しいし……
 ライセが起きて歩きだしてしまえば、踏みつけられるかもしれない。
 なんとしてでもベッドに着陸しなければ!

「うわあああ!」

 ライセの顔のほうに移動しようとして……重心が狂って。
 ぐるりと向きが変わり──ライセの、足のほうへと墜落してしまう。
 ばしん!
 靴下を履いていない、布団からはみ出したライセの、シェルピンクの右足。
 その親指の側面に激突して、転がるようにして、シーツの上に不時着した。

「…………」

 ライセの手は、元の大きさだったときにいくらでも見てきた。
 けど、足裏は?

 *

「まあでも、気をつけるのですよ、ちび虫。」
 〈ピクシー〉になる魔法をかけられた時点で、フェアリーズの意思に関係なく、ちび虫は支配されているのです」
「…………え、……?」
「〈ピクシー〉の本能が、ご主人さまを好きになってしまうようになってしまうのです」

 少なくともフランはそう信じているのです、と高らかに。

「そうじゃなかったら、こんなこどもに、お尻ぺんぺんされただけで、泣きながらイッたり、しないのです……?」
「あっ、あ……ああああっ!!」
「お、魔力出たのですね~。その調子なのです」

 *
 
 うまく立てないでいる。
 四つん這いの体勢では、かかとを下にして、垂直に立てられている足の裏は、ビルのように高い。
 この位置では、脚に遮られて、ライセの顔どころか、上半身すら伺うことが出来ない。
 これが卑小な虫の視野というわけか。
 他の小人たちから、精をむしりとるときに、この足で踏みつけたりしたりもしていた気がする。あまつさえ、靴下の中に閉じ込めるのも見ていた。そこから具体的にどうしていたのかまでは、わからなかったが。
 手と同じ、汗の混じった、さわやかで健康的な少女の香りがする。
 ただ、きめ細かく、柔らかくハリがあってすべやかで美しいだけではない。
 歩行を繰り返し、力を加えられて、表皮が固くなった箇所もある。
 おれは見惚れていた。
 友達の足の裏に。
 まるで変態だ。でも……
 他の小人たちは、毎日のようにこれで、触れられているというのか。
 それを考えて、我慢できなくなる。
 這い寄る。そして、ライセの右の足裏──というよりは、かかとの丸みに、抱きつく。

「ら、らいせ、ライセ……っ!」

 起こしてしまうかもしれない。いや、こんな虫の声など、ライセには届かないかもしれない。
 少女の体温を感じる。自分自身を押し付けたかかとの表皮は、硬くざらざらしていて、そこがまた気持ちよくすらある。
 恋人にするように、口づけをして。撫でて、舌で舐めさえして。
 けれどもこの行為の対象は恋人でもなんでもない、一方的なもので。
 それが苦しくて、動きが早まっていく。

「うわ……!」

 ず、とライセの足裏が回転し、横倒しになる。シーツを巻き込んで、おれは足を取られて転んでしまう。起きたのかと思って息をひそめたが、ただの寝返りだったのだろうと、数十秒後に結論づけた。

「あ……」

 見れば、足の向きが変わったことで、つま先が、おれでも触れるような高さにやってきている。
 できることがある。そうなると、おれにはもう、そうしない選択肢はない。
 数十メートルの距離、シーツの上を歩いて、つま先の方へと移動する。
 丸みを帯びた、一つ一つが、両腕で抱えられそうな太くたくましい、かわいい指。

「はあっ」

 はしごのようになっている五指。
 そのうち一番地面に近い小指に足を引っ掛けて、残りの指に身体を埋める。
 かかとよりも生々しい、入浴しても取り切れない、生物的な匂いが、鼻をつく。でもそれすらも愛おしくて、口と鼻で吸い込んで、胸いっぱいに取り入れる。。
 あたたかい。
 どれほど卑しい振る舞いをしているのか。
 何も考えられない。
 友達と呼んでくれた女の子の、足で、勝手に気持ちよくなって。
 急に、おれが抱きついていた指が動く。
 ぎゅ、と挟まれて握りしめられる。
 ねじ切れて潰されるかと思うような力。
 その痛みすらも、苦しさすらも、快楽になる。

「ああ、あ……らいせ、らいせえええ……っ!」

 弾ける。熱さ。脱力。滲み。

 ライセの指に、身体を預けたまま、しばらくぐったりとしていたが。
 やがて、世界全体が震えるような地鳴りが起こる。

「わ、あ……!?」

 慌てて、ライセの指から離れようとする。しかし、それもかなわない。
 ぱ、と白い光が視界を埋め尽くす。
 次の瞬間には、おれは巨大な影に覆われていて。

「魔力、が……感じた、から……」

 見上げれば──おれを見下ろす、ライセと目が合った。

「何やってる、の?」

 違う。これは。
 そう言い訳しようとして、できなかった。
 ライセのおれを見る目が、昏く、陰鬱なものになっていたから。
 人間を見下ろすものではないその眼差しそのものが、非人間的な冷たさを伴っている。それが妙に美しく感じられた。安堵があった。もうきっと、優しくなんてしてくれないという、嬉しさが。
 恋をしてしまったものだけが堕ちる地獄の底から見上げる、ライセという空は、絶望という色をしていた。
 おれはもう戻れないのだとわかった。

 おれを挟む指の力が緩む。ぼと、とシーツの上に、おれの身体が落ちる。
 立ち上がろうとすると、ず、とライセのつま先がおれの目の前に向けられて、身動きできなくなる。息もできない。ライセのきれいな爪が、大鎌のように鈍く光るのが見えた。こんなことですら、鼓動が早まってしまう。どうしようもない。

「なんだろう……タイミングが悪かったよね」

 ライセはどこか他人事のようにそう言った。
 抽象的な言い回しだったけれど、おれもたしかにそうだなとしか、思えなかった。
 別に、この瞬間に限ったことではなくて、おれとライセに関する、すべてのタイミングが。

“もう──顔も見たくないな”

 そう、ライセが言うのが、唇の動きだけでわかった。
 次の瞬間、おれの世界が、きしみを上げて歪んでいく。
 一度体験したことのある。懐かしい感じ。

 これが“相応な報い”。

 *

 暗闇にいる。
 休みなくおれは、自分を慰めていた。
 この牢獄は布でできていて、覆いかぶさる布は重くて、ろくに身動きが取れない。
 でも、うれしい香りがする。安心する暖かさだった。
 それはお世辞にも良い匂いとは言えないものだったけど、もうこれを嗅がないことには、どうやって生きていけばわからない。
 何度も何度も吸って、こすりつけて、出す。
 サルのように。

「サルはもっと上等な生き物だよ」

 心を読んだような、ご主人さまの声。
 ご主人さまが、おれに話しかけてくれている。
 それがどうしようもなく喜ばしくて、声だけで追加の絶頂をしてしまう。

「虫くんのために用意した靴下だよ。
 虫っていうのも、虫に失礼か……今のキミは、ホコリみたいに小さいもんね……
 今度から、ホコリくんって呼ぶよ」

 おれにはちゃんとした名前がある、なんて口答えはもうできないし、するつもりもない。
 ご主人さまの──靴下に住むことを許されたホコリ。
 ご主人さまとおれ以外、踏み入ることができない場所。
 そう保証してもらえたことが、何よりうれしかったから。

「こんなことの何がうれしいんだろ」

 心の底から呆れた、といった声。
 再び、世界が反転する。
 ごろごろと無力に転がって、別の底に、おれは移動させられていた。

 *

 ライセは二足の靴下を見比べている。
 片方が、かつて友達だったものの入っている靴下だった。
 小さくなっても魔力の量というのが変わらないらしい。
 もっと小さくしてやってもいいかなと思ったが、そうなると靴下の繊維の間から外に出てしまいそうだなと思ったので、やめた。

「……わかる? そこ、ボクの靴下じゃないんだ」

 ………………

「フランから借りたんだ。靴下」

 ………………

「きみにとっては、どっちでもいいんだろうけど……」

 ………………

「やっぱ気持ち悪いから、ボクの靴下を使わせるのなんてやだな、って思って……ま、これも、特別扱いってことになるのかな? どう、うれしい?」

 ………………

 *
 
 タイミングが違っていれば。
 おれが小さくされて捕らえられる前に、自分の気持ちに素直になっていれば。
 なにか変わったのだろうか。

 もう確かめようがなく、そして、おれにとってはどうでもいいことだった。

 ライセにとっては、わからないけど。

(了)