目が覚める。手のひらを見る。 そんなことをしたって、自分の状態なんてわかりやしない。 普段意識なんてするだろうか? 自分の身長がいまどれぐらいになっているかだなんて。 ぼくは悪くなり続けているらしい、という実感だけがある。 心も身体も。 起き上がって、しつらえられた家具と、自分の背丈を比べてみる。 また、小さくなっている気がする。 このまま小さくなり続けるのだとしたら、最終的にはどうなってしまうのだろうか? ああ、また、ぼくを卑小なものに貶めるあの地響きが近づいてくる。 緊張と恍惚が、ぼくの全身を包む。 * 時は遡る。 * ちとせに呼びつけられるのにはすっかり慣れていた。 ぼくは彼女にとって、随分と都合のいい男であるらしい。 健康で、多少雑に扱っても問題なくて、ちとせの頼みを断らない男。 それに甘えられてばかりでも、困るのだけど…… 「先輩、ほんじつはお越しいただいてありがとうございます」 「その言い方やめろよ。背中がむずがゆくなる」 「でも、せんぱいはせんぱいでしょう?」 首をかしげるちとせに続いて、部屋に入っていく。 製薬会社の社長一家の邸宅だけあり、家はとにかくでかい。 庭付きの一戸建てですら贅沢な時代だというのに。 ちとせは一応ぼくと同じ高校生のはずなのだが、いささか小柄で、げっ歯類的なかわいさがある。室内履きのスリッパで飛び跳ねるように歩くさまは、ぴょんぴょこと言った擬音が似合う。 机の上に置いてあるなにやら白い箱のようなものを開いて見せる。それはどうやらミニチュアの建物らしい。二階建てになっていて、きちんと上り下りできそうな階段も備え付けられている。小さなテーブルや椅子、ベッド、タンス……そういった、指先でつまめそうなスケールの家具が一通り揃っている。シルバニアのおもちゃよりも小さく精緻なものだった。 指でつまめるほどの小型カメラが各部屋に設置されていて、それだけが非現実的なドールハウスの中で違和感を放っている。 「それ、おもちゃ?」 「いいえ」 ちとせはそれを閉じると、そっと床に下ろす。 それからぼくに向き直って、にっこりと笑む。 ふわふわとした髪質、薄くて小さな身体、広いおでこ。 「せんぱいが最終的に過ごしてもらうことになる場所ですよ」 今回の実験の目的は、「薬物投与によって人類を縮小化すれば福祉は効率化され、全体の幸福につながるのではないか」──という考えの検証だった。 * 施術者はちとせその人らしい。 多分非合法なのだが、ぼくは何度もむちゃくちゃな実験につきあわされてきたので、慣れっこになってしまっていた。 「それにしても先輩も奇特ですよね」 とは彼女の弁である。 言いたいことはわかる。謝礼が出るとは言え、危険な実験に振り回されるのは確かに大変だ。 とはいえなんだかんだいって最終的には、元に戻れるだろう、という信頼がある。色々な目に遭ってきたが、それは彼女に悪意があってやっていたわけではない。 ……ちとせと仲良くなれるのではないか、という下心もあった。 今回と似たような実験は実は前にもあって、『平面存在になれば住居スペースを節約できるのではないか』というものだった。その時は確かポスターのように丸められて、満足に息ができずに窒息死しかけ、ポスターのまま生涯を終えるところだった。 結局はお蔵入りになり、「もし死んでいたら責任を持って我が家の壁にせんぱいを飾ります」と涙ながらに言ってくれた。ぼくはそういう責任の取られ方は嬉しいのか、真面目に考えてしまった。 ちとせは生き物に優しい女の子だった、という印象が強い。 それこそ、虫も殺せないほどにというべきなのか。 お互いが小学生のころ、ダンゴムシを水槽で飼っていたことを覚えている。 それが死ぬ最後まで大事に大事に世話をしていたから、本当にぼくがそういうことになっても同じことをしてくれるのかもしれない…… ダンゴムシと比べるのもどうかと思うが。 気の毒になるような落ち込み方をしていたが、結局懲りずに似たような実験に踏み出しているので、ほんとうの意味での反省があるのかどうかは怪しい。 優しさとはひとりよがりなものなのだ。 * この投薬実験に参加した結果起こるあらゆることの責任は自分にある、といった旨の契約書にサインをして、施術を受ける。 上着をはだけて、背中に注射をしてもらう。おーとかへーとか言いながら、ちとせが背中をぺたぺた触ってくる。こそばゆい。 「注射して終わりじゃないのか?」 「そこから操作する必要があります。先輩の生体電気で活動して、縮小物質も先輩の血中物質から生成するんですが、これをそのタブレットで操作する必要があります」 「それじゃ、行きますよ~」 注射が行われる。硬く目をつむるが、我慢できないほどの痛みではなかった。 タブレットとは別にハンディカメラが回され、ちとせは器用に片手でタブレットを操作し始めた。 「そのカメラは?」 「ええ。被験者の一挙手一投足を記録する必要がありますから」 「でもちょっと恥ずかしいな……」 「それに、もう縮小は始まっているはずですよ」 ちとせの言葉がすぐには飲み込めなかった。 じんわりと、身体が熱っぽくなるのを感じた。風邪を引いた時のものに近い。よろめく。同じく立っているはずのちとせに、見下されはじめているのを感じていた。視界が陽炎のようにゆらめいている。 ズボンが落ちそうになって、慌てて手で掴んで引っ張る。そのズボンの重さも、少しずつ増していた。シャツも膨らんで、肩から落ちそうになる。 「あ、これ……」 「そこに椅子あるので、つらかったら座ってもいいですよ」 促されるまま、背もたれのある良さそうな椅子に、しがみつくようにして座った。大きな椅子だった。いや、ぼくが小さくなりはじめているだけで、そんなに大きな椅子ではないのかもしれない。 数分かかっただろうか。ようやく視界の歪みが収まって、世界が静かなものに戻っていく。 「わあ。ずいぶん小さくなりましたね。成功ですよ」 ちとせがハンディカメラを構えたまま、かがみ込んでいる。胸を強調するようなポーズだが別に強調されるほどのものはなかった。などというと彼女は怒るだろうか。ぼくはすっかりちとせの影に隠れてしまっているようだった。彼女がかがみ込んでいてさえ、目線が遥かに上だ。 随分と広くなってしまった椅子の上で立ち上がると、ようやくそれでかがむちとせとの目線があう。半分ぐらいの大きさになっているようだ。 「えーと、着替えたほうがいいですね~」 「着替え……」 「とりあえず、一旦こっちに来てくれます? ほんとは、先にするべきだったんですけど」 ちとせが一歩下がる。服がぶかぶかになっていて、大きく高くなってしまった椅子からは、降りるのも一苦労だ。もたもたとしていると再びちとせが近づいてきてぼくを抱え上げる。 ぼくの腰にまとわりつく布と化していたズボンが降ろされ、シャツが降ろされる。やめてくれ、と抵抗しても無駄だった。 渡されたのは、全身タイツのようなすべやかな素材の衣服だ。袖を通してみると、奇妙なまでにぴったりとフィットしている。まるで縮んだ自分のために設えられているように。詳しい仕組みはわからないが、この服はぼくの縮小と同期する特別なものらしい。 「子供服とかじゃなくてよかった……」 「あ。着ます? うちにまだあるんですよ。私が幼稚園児だった頃のお洋服が」 「イヤだよ!」 ちょっと着せたがっているそぶりすら表情や声に感じた。危ないところだったのかも知れない。 それから、ぼくは半分に縮んだ人間の生活能力を確かめる、という名目で、あちこち家の中を歩かされたり、日常生活をともにされたりした。 やってみると、半分に小さくなるというのは、大変な話だった。まず扉のノブに手がギリギリ届かないのである。いやがんばれば届くのかも知れないが、そのまま開けるというのは困難である。どうしようもないので、後ろでカメラを回しているちとせに開けてもらうしかなかった。階段も、のぼれないわけではないが、二階に上がるだけで青息吐息だし、逆に下るときは転落の可能性があって恐ろしい。トイレは、なんとかギリギリ自力でできた。 それから、お風呂にも入れさせられた。 水没や転倒の危険があるから、ということらしい。さすがに断りたかったが、これも実験の一貫と押されて断れなかった。 「ていうか、さすがに男と女が裸でさあ……それはないでしょ!」 「なに言ってるんですか先輩。わたしはちゃんと水着着ますよ」 「そーいう問題かなあ……っていうかぼくは結局裸じゃないか!」 「まあまあ、介助なんですから恥ずかしがらずに」 「無茶苦茶だよ……」 ちとせは水着であったことが幸いではあった。ぼくはやはり全裸なので、恥ずかしいというレベルではなかった。 後ろからぼくを抱きながら、ちとせもお風呂に入る。小さなぼくが溺れないようにとなると、自然この体勢になる、のだとか。 「あれ? タブレットに反応がありますね」 防水加工の施されたタブレットに視線をくれて、ちとせはそんなことを言う。タブレットは、インプラントされた物質を通じてぼくのバイタルや精神を大まかにモニタリングし、その結果を表示しているらしい。 温かいお湯の中で、やわらかいものが後頭部に当たっている。それだけじゃない。両腕も背中も両脚も、ちとせの大きな体に包まれている。安心感と、背徳感。抱いているちとせには想像できないような、なにかしてはいけないことをしているような気分が湧き上がってくる。 「この反応は……恐怖、それとも、興奮? 先輩は、小さくなって女の子に後ろから抱っこされてお風呂に入って、怖がったり興奮したりするんですか?」 「……いや、なんというか……小さくなってようがなかろうが、女の子と密着してお風呂に入ったら」 「でも、怖がったりはしないですよね。……あ、そうだ。先輩、ちょっと暴れてみてくれませんか?」 「なんで?」 「小さくなった身体で、どれぐらいの力があるか……そして大きい……普通の人間は、それを取り押さえることができるのか。ということを確かめたいんです。データだけ見ててもこれはわかりませんからね」 うーん。確かにいろいろなテストをする、というのは聞かされてはいたけども。 「といっても……あんまり気が進まないなあ」 とにかく、お風呂から出て、ぼくたちはテストをすることにした。浴槽からはひとりでは出られないので、ちとせの手を貸してもらう。着替えも手伝ってもらった。 「脱走とか、反抗とかするかもしれませんからね。小人側が」 「なんだか不穏な単語だな……」 「病院と同じですよ。逃げ出すのって本人のためにならないんです」 ひとまず納得したことにした。 居間のテーブル……もうぼくの背丈を超えているそれを、ちとせにどけてもらって、広いスペースを作り、そこで対峙する。 身構えるぼくとは反対に、ちとせはボーッとした様子で棒立ちしている。彼女は湯上がりにゆったりとしたスウェットに、室内用のもこもこした質感のスリッパを履いていた。 「きみは構えないの?」 「条件は揃えないほうがいいです。小人側が不意打ちするというシチュエーションのほうがテストの目的に合致しているかなと」 「なるほど……」 「というわけで、いつでもどうぞ」 いくら小さく非力になっているからとはいえ、女の子と取っ組み合いを演じることになるというのは、さすがに抵抗がある。理屈ではなく、感情や本能、深層心理に根ざしたものだ。それも不意打ちとなればなおさらだ。 まあ、不意打ちといっても、来ることはわかっているので、完全な不意打ちを再現することはできないのだけど…… 「まだですか?」 「ちょっと待ってて……」 数十秒のためらいののち、ええいままよと床を蹴って飛び出す。アニメに出てくる小柄なキャラクターの活躍を思い出す。脚に突進して、転ばせることができれば……と思ったんだけど。 「え?」 ちとせはまるで動かない。倒れる気配すらない。ぶつかった脚は、まるで大木を相手にしているかのようにぼくの力を跳ね返す。元の大きさだったときは、それこそ手で握り込めるほどに細く頼りなく、折れてしまいそうな枝だったのに。 どれだけ顔を赤くして踏ん張って力を込めてみても。結果は同じ。 「わ、先輩、本気出してます?」 どこかあっけにとられたような声が上から降ってきても、数十秒ぼくは頑張ってみたが、結局は力尽きて脱力した。 「ちっちゃくなると、予想以上に弱くなっちゃうんですね……。ふふ。よくがんばりましたね、先輩」 へたりこむぼくのもとに、ちとせはしゃがみこむ。頭に乗せられる手。ぼくのことを撫でている。何か開いてはいけない扉が音を立てていた。 恐ろしいと感じていた。 もちろん、この一部始終も、設置されたカメラに、すべて録画されているし、タブレットはぼくの精神状態を記録し続けていた。 * それから。 ぼくは真っ暗な世界で目を覚ます。 縮小が進行する際にはめまいや昏睡などの症状が起こって、人事不省に陥るらしい。 一通りのテストが終わって、寝床に入ろう、となったところで、意識を失ったんだった。 ちとせの香りがする。温かい。 ぼくは布団の中で、ちとせの腕に包まれて眠っていたのだと、わかった 「30センチメートル、ってところですかねえ」 メジャーを取り出して、ぼくを床に立たせて、身長を測りながらちとせはそう言った。 同じ床に並んで立つと、すでにちとせの膝に目線が合っていた。 普段の1/6といったところだろうか。 「でかいな、……」 「いつもは小さい小さいってからかってたくせに」 ふふ、と、ぼくを見下ろして笑うちとせ。 今の彼女はぼくの六倍近い大きさ……つまり体感にして10メートル近くはある。これはちょっとしたビルのようなものだ。それに見下されて、語りかけられている。いくら大きさが赤子と同じだからと言って、赤子のように目に入るもの感じるものすべてをありのまま受け入れられたりするわけではない。先輩と後輩、男子と女子という若者の価値観や関係性を保ったまま、物理的な格差だけが劇的についてしまったのだから。 ここまで小さくなるとベッドから降りるのも一苦労だし、椅子に登るのも危険が伴う。 試すまでもなくちとせに介助してもらわなければ無理なのだが、ちとせによれば、まずは自分でやってもらわないと困るらしい。 意を決して、体感では二メートル近い高さになるベッドから飛び降りさせられたり、ジャンプして椅子に登らされたりする。結局食卓につくことは自力では無理……というよりも危険に過ぎたので、ちとせの手を借りることになった。 もうカトラリーもモップぐらいのサイズ感になっていたので、自分でシチューやらパンやらを持ち上げて食するのは無理だった。ちとせの膝の上に乗せてもらって、ちぎってもらったパンやスープを口元に運んでもらう必要があった。 「赤ちゃんになった気分だな……」 「ミルク飲んでみます?」 「え!?」 目を見開いて驚いていると、ちょっと待っててくださいと、ちとせが言い残してどこかに去っていく。戻ってきた彼女が手にしていたのは、哺乳瓶だった。白い液体が入っている……牛乳だろう。 「もう普通のグラスやカップは先輩には大きいじゃないですか。これなら飲み物も飲みやすいと思うんですけど」 なあんだ、と胸をなでおろす。いったいぼくは何を想像していたというのだろうか? 流されるままに頷くと、ちとせはぼくを胸に抱き寄せる。自分の体重が、すべて後輩の少女に預けられる、なんとも言い難い不安感。同時に感じる、ちとせの力強さへの安堵。 「え……待って、本当にやるの?」 「これも実験のうちです。どういったやりかたが最も効率的に小人さんをお世話できるか、っていう……なんでもするって、同意してくれましたよね?」 「え? ああ、まあ、うん……」 まっすぐに視線を合わせられながらそう言われると、断りづらい。ちとせのそういう有無の言わせなさに、ぼくは心地よさを感じているのかもしれない……あまりよくないことだとは思う。 抱えられそうな程の大きな哺乳瓶をちとせは片手に握って、ぼくに近づけてくる。意を決して、吸口に口をつける。生暖かいミルクが、口の中に流れ込んでくる……ミルクを飲まされている。ちとせに抱かれて、見下されて…… 「お~よちよちよち……」 大きな手が覆いかぶさって、ぼくの背中や手を撫でる。うっとりとした様子だった。言いたいことがありすぎたが、ミルクを飲むのに忙しすぎて、何もできなかった。 「あ、もう先輩おねむ、ですか……?」 ゆさゆさと揺らされているうちに、まぶたが降りてくる…… * 目が覚める。 いつかのようにぬいぐるみのようにちとせに抱きしめられながら、というわけでもなく。 きちんと自分の大きさにあったベッドに眠っていた。 たった数日で、見守られていないことに、不安を覚えるようになってしまった。 「元の大きさに戻ったの、かな……?」 白を基調とした、知らない部屋だった。寝ている間に運ばれたのだろうか。自分の大きさに合った、ベッド、カーテン、扉、タンス……その中に、異彩を放つものがあった。 黒いテレビのような物体。 ぼくがなんとかギリギリ抱え上げられそうな存在感のある立方体だった。右下の隅に赤いランプが点灯しているが、何かを映す気配がない。コードが伸びていて、壁に埋め込まれて消えている。 「ちとせ……? ここ、どこ……?」」 カーテンを開いて窓の外を見渡そうとするが、窓の外は薄暗くてよくわからない。 途方に暮れていると、みし、みしみしと家全体が揺れ始めた。 「え? 何? 地震?」 地震の揺れにしてはなにかおかしい。一定の周期を持った揺れが、だんだん大きくなって近づいてくる。これではまるで…… ふいに揺れが止む。 「せーんぱい。もう起きましたよね? 出てきてください」」 ちとせの声だった。間違えようがない。奇妙なのは、拡声器に何重にも通したように響いていることだった。この部屋全体を包み込むように。 ちとせ、今の揺れは何? そっちはなんともなかったの? へたりこんだままそう呼びかけても、こちらの声は届いていないようだった。 「はーやーくー」 重く響くちとせの声に、びくりと震える。声そのものに、従わなければならない魔力が含まれているかのように感じた。 「あ、ひょっとして、小さくなりすぎて、人間の言葉わからなくなったりしちゃってますか? 脳に影響が? どうしようかな……」 「小さくなりすぎて……?」 周囲を見渡す。ぼくは元の大きさに戻ったわけではないのか? そこでようやく、既視感の正体に気づいた。 さっきの黒い立方体は、テレビではなく、カメラなのだと気づいた。 今も、ぼくの姿を録画し続けている。 「……」 ちとせの声に従って、外に出て、今自分がどうなっているのかを確認しなければならない。でも、それが怖い。 それでも、急かすような声と、見えないながらも感じる気配に、おぼつかない足取りで、階段を降りていく。幼児や赤ん坊サイズのときではまともに登れなかった階段が今は上り下りできる。その事実すら恐ろしい。 数分もかけて玄関扉にたどり着いて、きぃ、と外に開く。 そうして飛び込んできたのは、等間隔に溝が走る茶褐色の大地。 そして目の前にそびえる、何かふわふわもこもことした白い壁。 「これ、なんだ……?」 触ってみると見た目通りにふかふかとしていた。 飛び込んで全身で埋もれたらきっと気持ちいいのだろう。 もちろん、そんなことをしている場合ではない。 「こっちですよー、こっち、こっち」 そこでようやく、声は上から振ってきてたものだとわかった。 ふかふかとした白い構造物から伸びている柱。 ふたつあるそれは天井で合流し…… 「あ、明かりつけますね」 薄暗かった周囲が白い光で満たされてぼくの目を灼く。 瞬きしながらそれに慣れると── そびえる、キャラクターがプリントされた柔らかそうなショートパンツ。袖がふんわりと広がったスウェット。 はるか真上で、ぼくを見下ろしているちとせらしき人物の顔があった。 表情は陰になっていてうまく伺えない。 「やっぱり小さくなりすぎると、認識能力が落ちちゃうんですね。せんぱいが触ってたそれ、なんだと思います? わたしのスリッパですよ」 スリッパ。 この学校校舎のように巨大な構造物が? 見上げているちとせと、目の前のスリッパらしい何かが、うまく一致してくれない。 できの悪いコラージュの中に放り込まれてしまったらこんな気持になるのだろうか? 一方でちとせは、興味深いなあ、とひとりごちながら、タブレットでメモを綴っていた。 ぼくの小ささがどれぐらいになったのかを、頭の中で計算する。 背後にある、ぼくの大きさに合っている家というのは、やはり、最初に見せられた── 「疑ってます?」 眼の前でゆっくりとスリッパがせり上がる。そうして、ぼくにその底を見せた。 ホコリで黒く汚れた靴底がぼくの真上で、天井のように広がっている。教室のような面積を持つそれは、ぼくをまとめて数十人潰せてしまいそうだ。……潰せる? 「ひっ、あ、ああっ」 声は言葉にならない。ぼくは足をもつれさせながら後ろへと逃げた。 「あっ、ちょっと、逃げないでください」 天井がぼくを追尾して追いかけてくる。 どれだけ全力で走っても、スリッパの作り出す影の外側に行けない。 「うーん、やっぱりこれだけ小さくなると、判断能力も低下するし、人間のちょっとした挙動でも恐慌状態になってしまうんですね……昨日までと違って、全然言うこと聞いてくれないし……」 狂ったように走るぼくとは対照的に、落ち着き払ったちとせの声。きっとあのタブレットを見ながら、ぼくの状態を観察し分析しているのだろう。 やがて、ぼくは転ぶ。溝に足をひっかけたのだ。溝──フローリングの。 「あ。追いかけっこは先輩の負けですね。じゃあ、罰ゲームですね」 立ち上がれないぼくの上から、スリッパの天井は動こうとしない。それどころか、少しずつ近づいているようにすら思う。 「ひ、いや、待って、待って、っ」 驚くほど情けない声が出て、自分でもびっくりしてしまった。 命乞いをしている。潰さないでと、虫の擬人化のように。 「え~? 声が小さくて、よく聞こえませんねえ」 「そ、そんなっ」 「はい、ずーん♪」 風が吹く。凄まじい轟音と震動。 最初何が起こったのか、すぐには理解ができなかった。 ちとせの足が、ぼくのすぐ数メートル横に落とされたのだと、あとで知った。 ぼくはその衝撃と風圧に吹き飛ばされて、フローリングの床を転がっていた。 全身が痛む。 ぴょんぴょこなんて、のんきな擬音はつけられない。 「あはは……。ほんきでせんぱいのこと踏み潰すわけがないじゃないですか。さすがにそういう実験はしませんよ……でも、小人の感じる恐怖としては良いサンプルでした。 って……あれ、先輩……」 ちとせはぼくをつまみ上げて、匂いを嗅ぐ。下半身の。 「うわっ、漏らしてるじゃないですか……」 「あ……」 濡れている。あたたかく。 ちとせもぼくも、信じられない、といった表情をしていた。 「わたしみたいに小さい女の子に、踏まれる~って本気でびびってるんですか? ちょっと……」 愕然とする。 ちとせの表情が、笑いをこらえられない、といったものになっていたから。 * 「ちょうど30ミリメートルですね」 前段階の1/10の数値。 テーブルの上に乗せられて、身長を測られる。 今回使われたのはメジャーではなく立てかけられたアクリル定規だった。 かつては、アクリル定規よりも背が高かった……どころか、アクリル定規を手に持って使っていたはずなのに。 今ではそれに見下される立場だ。 定規に刻まれたメモリはこんなに大きいはずがないのに。 「一寸法師になった気分はどうです? せんぱい」 うつむいているぼくに、ずいっと巨大な顔が近づいてくる。 ぼくの気持ちなどまったくわかっていないのか、無視しているのか。 「あんまり顔を近づけないで……」 「どうして?」 「怖いからだよ」 「さっき踏み潰されかけたときよりは怖くないですよね?」 「……」 「どんな感じでした? 踏み潰されそうになるのって……あ、そうそう、最初何も言わずにあのドールハウスに放り込んだのは、」 こうしてデリカシーなく質問攻めにしてくるのは嗜虐的な趣味があるからではなく、単純に情報がほしいからだけなのだとぼくは知っているが、感情的に納得できるかはまた別の話だ。 「なんかめんどくさいですねえ」 「ええ……?」 「ちょっといたずらしたり、話しかけるために近づいたりするだけで、そんなに怖がらないでくださいよ」 「そう言われたって、怖いものは怖いんだよ」 言っててなんて情けないんだと思ったが、これは本当にどうしようもなかった。 * それから、何事もなかったかのように、日常が再開する。 とても歩いて移動できる大きさではなくなってしまったので、すべてつきっきりで世話をしてもらうことになった。 わかったのは、意外と小人を持ち運ぶのは、ちとせにとって厄介な仕事だということだった。 アニメの小動物キャラクターのように肩や頭の上に乗せて持ち運ぶのは、墜落が思ったより恐ろしかった。 髪を掴んで怖い怖いと叫ぶたびに、ちとせが面倒くさい気持ちを隠さない表情になっていた。 じゃあ、もう自分で歩いてくださいよ、と言われて、床に下ろされそうになったので、慌てて止めた。もう、踏み潰される恐怖は味わいたくない。 「うーん……一緒にお散歩に行くとかも、難しそうですねえ……」 食事の時間も大変だった。 なにしろ胡椒の瓶ですら、ぼくより背丈が高い。 頭上でカトラリーや皿が行き来するだけで、いつ落ちてきてぼくを潰すのではないかと、気が気でならなかった。 「やっぱり、無理があるかも。この計画……一応、最後までやりますけど」 「今そういうこと言う?」 「思ったより手間かかりますし……自分のこと自分でできない人をお世話するのって、大変ですね。普通の動物よりは、意思疎通できるぶん、楽かもですけど……でもペットと違って、余計なこと言うのがかわいげでもあり、やっかいでもあり……みたいな」 「ぼくをペットと比べるなよ……」 怒ってもいいところなのかもしれないが、まあこいつってこういうやつだからな。 「わたしが非力な女子供っていうのもポイントで、わたしでも複数人の小人を養えるなら、理論上は誰でもお世話できる、という目論見だったんですけども……あ、あんまりちょろちょろしないで。間違ってコップやお茶碗を先輩の上に置いちゃったらどうするの?」 だんだん、ちとせのぼくに対する態度が、しつけのなっていないペットか何かに向けるものになっている気がする。 それを強く実感したのは、入浴の時だった。 ぼくは疲れ果ててちとせのポケットの中で寝ていたのだけれど、急にドサドサという震動とともに服ごと落とされて目覚めさせられた。 「いてて……」 見上げれば、そこには一糸まとわない姿の、女神がそびえ立っていた。 ここは脱衣場……のマットの上。 ぼくがポケットの中にいることを忘れて、入浴のために脱衣していたらしい。 「あー……すいません。ちょうどよかったし入っちゃいましょうか、お風呂」 「えっ……」 否応なしに指でつまみ上げられると、そのまま浴室に連れ去られてしまう。 「いや! その、……水着、着ろ、って!」 「えー? だって面倒くさくて……」 とぷん、とお風呂に肩まで浸かるちとせ。 そしてその肩には、ぼくがへばりついている。 一緒のお風呂は、ぼくにとっては水深が深すぎる。 なにかの間違いで底まで沈んでしまえば、とうてい浮かび上がれないだろう。 「だって、今の先輩って、異性って思えなくて」 「男は男だろ……小さくなったって」 「っていうか、人間として見られないんですよ」 「え……」 「小さくなって、運動能力も一緒に落ちてるし。ちょっとした段差も登れなくて、一緒のお風呂に浸かろうとすると溺れちゃうし……踏み潰されかけても、逃げることも出来なくて……情けなくて」 「……」 「あ、すいません。でも、そうですよね?」 小さくなりすぎた被検体を、同じ尊厳のある生き物として見ることは不可能……と口で言いながら、タブレットにメモ書きをしていた。自分自身もモニタリング対象ということらしい。 ぼくは何も言い返せないでいた。 「それに、ここまで実験に付き合っていただけている先輩に、ちょっとは良い思いをさせてあげたくて」 「いいおもい、って」 「さすがに普段はそんなこと出来ないですけど、小さい先輩は今なにもできないから、これぐらいのことしてもいいかな、って」 胸を反るような仕草。それで水面が波打って、さらわれないように必死にしがみつく。 その様子を見て、くすくすとちとせは笑った。 「ほら。見てもいいんですよ。わたしのおっぱい」 「痴女かよ……」 「わたしが痴女なら、先輩はえっちな虫さんですよ」 「だいたい、おまえみたいな幼児体型に、ありがたみなんて……」 「あれ~? 心拍数上がりまくってますけど?」 「…………」 意地はらなくていいのに、と、ちとせは再びぼくをつまみ上げて、二の腕から引きはがす。 そうして、胸の突起の前に運んで、ぐにぐにと全身を押し付けた。 「あ、ああ、あ、っ」 柔らかくてほのかに甘い香りがする肌色の壁面に、押し付けられて、埋め込まれて、全身で強引に感じさせられる。 動けない。息すらもままならない。口を開けば、それもみずみずしいちとせの肌が埋めてきて、ほのかな汗の味を舌に感じさせた。 「わ……すごい、先輩興奮してますね。もとからこういうことしたかったんですか? それとも虫さんみたいな小ささにされた特殊な状況からなんですかね……元の大きさのときにデータ取っとけばよかったです」 「あっ……ああ、あっ……!」 「あ」 ……出してしまっていた。後輩の胸におもちゃみたいに押し付けられて。 ゆっくりと引き剥がされて、今度はちとせの広大な手のひらの上にぽつりと置かれる。 もちろん、犯行の証拠はしっかりと残されている。隠滅する余裕などあるわけがない。 「え~、すごい。こんなことされて出しちゃうんだ……」 今までとは少し雰囲気が違う、ニヤついた、好奇の視線にさらされる。 変態男に向けるものというよりは、本当に珍しい虫かなにかを見ているかのような。 やめてくれ。これ以上ぼくのことを興味本位で暴かないでくれ。こんなことは、実験に必要なデータではないはずだ。 手のひらに顔を寄せる。ぼくの視界がちとせの顔で埋まる。 「ありがたみが、なんでしたっけ、ちび虫さん?」 「あ、ああぅ、あ……!」 ささやき声が、てのひらのなかに反響する。 ぼくの小さな世界が、ちとせに支配される。 まともに語も発せなくなる。 それだけで、元気になってしまう。 「もっと別のところでも興奮するかどうか試してみましょうか……」 これも先輩へのお礼の一環ですよとうそぶいて。 湯槽から上がったかと思えば、しゃがみこんで、ぼくを風呂場のタイルの上に置く。 そうして立ち上がり、腰に手を当てて、ぼくを見下ろす。 何かを隠したり恥じらったりする様子もなく、ただ堂々と、見せつけている。 まるで小さな生き物の欲情や好奇の視線など、意に介していない。 大きさだけではなく、存在としての格の違いが、可視化されたかのようだった。 (きれいだ) すとんと、シンプルにそう思っていた。 神の像を見出してしまう。ただの小さな女の子に。 本物の虫や微生物が人間を見上げるときも、このように感じているのだろうか。 ちとせは、ぼくがいなくては、駄目だと思っていた。ぼくがいてこそ、彼女の愛らしさは、映えるものだと、無意識のうちに信じていた。けれども、人間のぼく不在のままぼくが見る彼女は、ぼくの知らない崇高さを湛えていた。 どうしようもない話だった。なにもかもが。 「踏み潰されそうになったとき、ずっとスリッパの裏を見上げてたでしょ」 ちとせがゆっくりと、片足を上げる。 小さくかわいらしいはずなのに、簡単にぼくを潰しうる脚。 「今度は生足だよ。虫さん、うれしい?」 うっとりと微笑んで。 その足を落とす。 足の裏、ではなく──足の中指に、ぼくは押し倒される。 「舐めて」 ぐり、ぐり、ぐり、と力を入れられて。 泣き叫びながら、ぼくはちとせの指や、指の股、爪の先を舐める。 ほのかな汗を味わって。 死にかけた蛙のように、何度も何度も射精した。 女神様に、踏みつけにされるという恍惚の中で。 * それから何日経っても、ぼくは元の大きさには戻れなかった。 とっくに薬品の効き目は切れているはずなのに。 理由は、ちとせにもわからないようで、首をかしげていた。 そんなわけでぼくは、30ミリメートルという惨めな小ささのままで、日々を送る羽目になった。 どれだけ外の世界が恐ろしくて、用意されたミニチュアの家に引きこもっていても、ちとせによって開かれてしまえば、簡単につまみ出されてしまう。 開かれなくたって、家ごと逆さにしたり、脚で蹴ったりすれば、とても中にとどまる気にはなれない。 「いいから早く戻してくれよ!」 ちとせに乗せてもらった手のひらの上で、大声で叫ぶ。今日も、実験の続きをやろうとしていたらしい。 いままでの無礼をずっと許してきたのは、ひとえに元に戻ることができる、という前提があったからだった。けれど、許せないからといって、何を要求できるというのだろうか? 今の非力なぼくに……。 「こんな、いちいちきみの行為に怯えなきゃいけない、虫みたいな身体なんて、やだよ」 「そんなこと言わないでくださいよ……ちゃんと、お世話してあげますし……」 「そういう問題じゃない!」 ちとせは困ったような顔をする。 「もとに戻せないならいっそ虫かごにでも入れてくれよ。ぼくってきみにとって人間とも思えない面倒な弱っちい生き物なんだろ! 丁寧に扱うそぶりなんて見せなくていいよ」 「そんなこと思ってませんから……。先輩を虫かごで飼うだなんて……できません、って」 頭ではわかっている。 ちとせだって、ぼくが小さい身体のままでいる間の戯れのつもりで、そう言ったのかもしれない。でも、事実として、ぼくが虫のように弱くはかない生き物になってしまうのは確かなのだ。だから彼女の言葉は、とうていなかったことにはできない。 そしてこの状況はどう言い繕っても、自立した人間からは程遠い、彼女に飼育されている小さな生き物だった。 もう引き返すことは出来ない。 ぼくも、ちとせも。 「とにかく、実験は続けてデータは取り続けます。それも、先輩をもとに戻すために必要ですから……」 ね? と、手のひらの上のぼくに微笑みかける。 聞き分けの悪い子供に対するように。 あなたの全部がわかったとき、きっと元に戻せると思います、とちとせは言った。 「それはそれとして、先輩が喜んでくれるよう、精一杯サービスしますから。責任を持って……」 「そういう問題でも、ないから……」 「そうなんですか?」 もう片方の手の指が近づいてくる。大きな大きな人差し指が、ぼくを押し倒して、ぎゅ、ぎゅ、と、潰しかねない力で、圧迫してくる。 「あ、あああっ、はああ、あああ……!」 「ほら、すごい興奮してる……。おっきな小さい女の子に虫扱いされて、嬉しいんですね、先輩は……」 にじむ視界の中、にこにこと色づいた表情のちとせが見える。 どこまでがぼくの願望で、どこまでが彼女の願望なんだろう。 被験体になり続ける限り、ぼくは彼女を独占できるし、彼女はぼくを独占できる。 ふたりの願いが永遠のものとしていびつに叶ってしまった結果が、これなのかもしれない。 「どんな気持ちですか?」 「え? あ? う……」 「ちゃんと喋って」 ご、と指がぶつかってくる。本人としては、軽く指で弾いたぐらいのつもりなのだろう。 ぼとりと、手のひらからテーブルの上に落ちる。ダンゴムシだって、もっと優しく扱っていたはずだ。 痛みを堪えて立ち上がる──前に、平手がぼくのすぐ目の前に振り下ろされる。 轟音。震動、衝撃。 立ち上がりかけていたぼくは、無様に再び転ぶ。 「意思疎通できないなら、ほんとに虫さんになっちゃうよ?」 大きく息を吐いて、吸って、呼吸を整える。目端から涙をこぼしながら。 「お、おまえが、そうさせてるんだろ、っ……」 「はい。わたしのせいです。ごめんなさい。でも、それと、あなたが情けない虫なのは、まったく別の問題です」 ぼくを潰せる指が、ぼくの頭に置かれる。それだけで、呼吸の仕方を、忘れてしまう。 優しい優しい手付きで、撫でられる。甘やかすように。 「それとも、虫さんにされたい? かわいいかわいい、虫さんに……」 「あ、い、いや」 なにか喋らなければ、と思い、無理矢理に口を動かして出た声は、乳児のようなそれだった。酷く蠱惑的な提案を、形だけでも拒まなければ、本当に元に戻れなくなってしまうという危機感があった。 「怖い、こわい……です、っ、やめて、ほしい……」 「何が怖いの? 踏みつけられること? 叩かれること……?」 「ぜんぶ……っ、ちとせの全部が、こわい……」 足音を聞かされることも。体温を共有することも。声を聞くことも。 大きさが違う。それだけで、すべての所作が恐ろしい。 「でも、こわいだけじゃ、ないでしょ」 「……うれしい。どきどき、する。大きいちとせは、かわいくて、きれい、だから……」 恐怖とは被支配。 支配される。彼女に。すべてを。世界のすべてが彼女になる。 それは恐ろしいと同時に、耐え難く甘美だった。 ちとせはうんうん、と頷く。 「先輩が小さくされて女の子に飼われることにコーフンしちゃうヘンタイで、良かったです」 これからきっと長い付き合いになるでしょうから、良い関係を築いていかないとね、とうそぶいて。 「どんなことで怖がるのか。どんなことで気持ちよくなってくれるのか。 一緒に、確かめていきましょうね、せんぱい」 笑顔でそう締めくくった。 (了) |