ふわりと鼻腔をくすぐったフローラルな香りで目が覚めた。
手の甲で寝ぼけ眼をこすりながら、周囲を見渡す。

「どこだ、ここ……」

そこはロッカーの中のように狭く薄暗い場所だった。
けれど、イメージとしては広々としたベッドと掛け布団の間にいるような感じだ。
片方の壁は押せば手が沈み込むほど柔らかく、かつ押し返さんとする弾力が素晴らしいベッドのよう。
もう片方は押せば手が沈み込むけど、押し返してくる弾力感は皆無に等しかった。
部屋の隅には、埃と糸くずが身を寄せるように集まっている。

そんな中だったが、息苦しいとは感じなかった。
むしろ、不思議と心落ち着く香りが俺の肺を満たしていた。
アロマキャンドルを焚いたときのような花の芳しい香り。
それに合わせて、バニラのような甘い匂いが鼻腔をくすぐっていた。
この芳香を嗅ぎ続けていたら、外に出たくなくなるだろう。
別のいい香りも多々あるが、それ以上に悪臭が漂っているのだから。

また、この匂いが香り続けている一端はこの部屋のせいだろう。
驚くべきことに部屋全体がゆらゆらと揺れていたのだ。
まるで吊り橋……否、揺りかごみたいだった。

揺れていたら即飛び起きるのが普通なんだろう。
しかし、この程度の些細な揺れを俺は危険だと感じなかった。
きっと普段から優香のように本気で踏み潰そうとしてくる巨大娘を相手にしているせいだろう。
これは……元のサイズに戻ったときに震度5の地震でも眠りこけているんじゃないか。

周辺の確認をしても結局ここがどこか思い出せなかった俺は、途方に暮れて天井を見上げた。
この部屋に差し込む光はブラインドの隙間からこぼれるくらい微かだ。
それが馬の蹄みたいに大きな弧を描いている。
どうして皆既日食みたいになっているんだろう。
そう考えながら、光を遮っている物体の輪郭を眺める。
するとふとそれが何か、そしてここがどこかをようやく思い出した。

「そうか、千春の胸ポケットの中か」

取っ掛かりとなる記憶の扉が一つ開くと、湧き水の如く記憶が蘇ってきた。
いつも通り千春の部屋に行って、ジュラシックタウンに行かないかと誘われ、デー……出掛けてきたのだ。
千春に声をかけられていない、ということはまだ帰り道の途中なのだろう。

現状を把握した俺は全身を横たえる。
移動中はすることが何もないから、二度寝しようと思ってのことだった。

以前に二度、ずっと待ち続けているのは暇だったので景色を見ようとしたことがある。
当然、千春の胸をロッククライミング……否、バストクライミングして。
だが両方とも、そびえる山の主に阻止されてしまったのだ。
一度目はあともう少しで頂上に至ろうとした俺を、危ないからと吐息で吹き飛ばした。
二度目はくすぐったいからと、中腹まで登り詰めていたの俺を叩き落とした。
それ以降、千春から大人しくしているよう厳命されたのである。

腕を枕にしてそっと目を閉じた。
すると、視覚以外からの情報が鮮烈に伝わってくる。

バニラのような、アーモンドのような甘い臭い。
柔軟剤に隠れていたそれがより一層強くなった気がした。
その香りを肺いっぱいに収めると不思議と心が和らぐ。
……戦争大好きな人たちを全員小さくして胸ポケットに収容すれば、戦争なんて起きないのではないだろうか。
ちなみに、優香は絶対に候補に入れてはいけない。
あいつの場合、下手したら戦場ごと縮小して踏み潰す虐殺行為を決行しそうだ。
いやするな、あいつは、絶対。

『縮小兵士たちVS巨大娘優香』
如何にもB級映画にありそうな企画とその内容が想像できてしまった俺は寝直す。

顔に当たる千春の胸は柔らかく、埋まった分を押し返そうとする弾力もあった。
ヨ〇ギーや〇印の「人をダメにするソファ」に高反発枕を足したようだった。
性能はそのビーズクッションに劣らない……否、むしろあれ以上だと断言しよう。
冬、布団から抜け出したくなくなるあのぬくぬくとした温かさがクッションにはないのだから。

人間としての本能なのか、男としての欲望なのかはわからないが、もうこのままずっと身を任せておきたい気分だ。
甘い香りと至福の感触、そして仄かなむくもりを備えたそれは、老若男女問わず虜にできるだろう。

そんな胸の奥からは、どくんっどくんっと心音が響いていた。
まるでライブ中のスピーカーから流れる爆音。
そのような音が本当に同じ人間のものかと疑わしく思った時もあった。
けれど、もう慣れてしまった今では安らかな子守歌のように感じる。
大きく力強いその律動に守られている。
心の底から湧き溢れてくるこの安心感は、もしかしたら母の子宮にいた赤ん坊時代に植え付けられた記憶なのかもしれない。

………………………………………………
………………………………
………………

「…………ぃ? ……ーい? おーい、ねぇってばー!」
「んっ……?」

降り注いでくる光と大きな声、それと僅かな肌寒さで目が覚めた。
ああっ到着したのかなと思いつつ見上げてみると、枠の向こうに巨大な瞳があった。
前や上を見れば、その目は光できらきらと輝いて見えるだろう。
しかし、今は胸ポケットを覗き込んでいるからか、その瞳は薄暗かった。
ぎょろっと俺を捉えるその動きも合わさって……軽くホラーだよ。

入ってくるそよ風は千春はしゃべっていたからだろう。
微かに生臭がったが、それも嫌とは感じなかった。
あくびをしながら目を擦った俺は頭上の千春に問いかける。

「もう着いたのか?」

そう問うたが、千春は何も言わなかった。
ただじっと俺を凝視している。
こちらの内面まで見透かすようなその鋭い目つきに、俺の肩甲骨あたりからは冷や汗が噴き出た。

「な、なに?」
「……もしかしなくても、寝てたでしょ」

普段より少し低いその声音に、俺は言葉を詰まらせた。
千春が苛立っていると気づいてしまったから。
もしかしたら本当にただの質問だったのかもしれないが、そう思い込んでしまうともはや怒っているようにしか見えなかった。
まるで抜き身の刃みたいな視線も、少ししわが寄った眉間も。
……思い込みじゃなく、こりゃ間違いなく怒ってますね。

「いや温かかったし、何もすることがなくて暇だったからさ」
「ふ~ん……」

飛んできたのは、より熱い眼光と冷たい声音の生返事。
対照的なそれらを俺に浴びせると、千春はぱっと摘まんでいた布を手放した。
潰れたホームベースみたいな五角形が、瞬く間に三日月になっていく。
その光景を見ていた俺ははっとして、慌てて声をかけた。

「おい、ちょっ……着いたんなら出してくれよ?!」

そう訴えかけている間に、出口は閉じてしまった。
一度目覚めたときと同様、僅かな光しか入ってこない薄暗さに戻る。
千春は無言だった。それだけ怒ってるのだろう。
ついでに反省しなさい、ってところか。

諦め風主人公のようにやれやれと嘆息しながら俺は胸の反対側、ただの布に背中を預ける。
体重をかけたからか、千春の胸と距離が開く。
といっても、手を伸ばせばあっさり届いてしまうけれど。

後悔はすぐさま訪れた。
なんで素直に謝れなかったのかと。
どうして浮気を疑われたサラリーマンみたいに言い訳してしまったのかと。
ただ一言謝れば、すんなり許してもらえたかもしれないのに。
……いつになったら出してもらえるんだろう。

そんなことを考えていると、唐突に俺の体がふわっと浮いた。

「はっ? ……うぐぉっ!!?」

後ろから強風に煽られたかのような感じがした瞬間、俺の視界は一瞬で真っ黒に染まった。
何が起こったんだと突然の事態に頭が混乱する。
とにかく体を起こそうと腕に力を込めてもビクともしない動かない。
顔だけでも起こそうとしても同様だった。
全身が余すところなく千春の胸に触れていた。
そこへ、声が響いてきた。

「仮にも彼女が歩き続けてる間、のんびり寝てたんだよね? この彼氏さんは。
 さっき声をかけたときなんてまだ寝ぼけてたみたいだし、
 私がちゃ~んと、目を覚まさせてあげるよ。お仕置きのついでにね!」
「ぁがっ…………ぅくはっ……」

響いた声が途切れた瞬間、背中にかかる圧力が一層強くなった。
ピンと張った針金が指で容易く折り曲げられるように、俺の背骨も反っていく。
頭と足を固定されてるわけじゃないから、ぼきっと逝ってしまうことはないけれど。
それでも凄まじい圧迫感で肺の中の空気が全部押し出されてしまった。

さっき起き上がろうとしても無理だったのは、千春の丸太のような指に押さえ付けられていたからか。
お仕置き開始前はせいぜい、巨大マシュマロに体を預けるくらいだった。
それと比べて今は感触も痛苦も段違い、まさに雲泥の差だ。
天界から魔界へと追放された堕天使ルシファーもこんな気分だったのだろうか……。
いや、自ら堕天したんだっけ? ルシファーは。

閑話休題。

いくらか余裕を取り戻そうと吸気すれば、香るのはこれまで以上に濃密な千春の匂い。
千春が使ってる柔軟剤の香りも、千春自身の甘い体臭や汗の臭いも、そしておそらく無味無臭のフェロモンも。
それらすべてが鼻腔を駆け巡り、肺を独占する。
彼女の芳香で満たされたせいか、体の芯が発火したように熱くなる。
熱中症に罹ったかのごとく、頭がぼーっとしていく。

なんとか抜け出そうと網目状の繊維を掴んで引っ張ってみるものの……。
全身をくまなく押さえつけられてるせいか、腕を曲げることすら出来なかった。
だがしかし、この苦痛から解放されたい俺は肘の角度を変えたりと試行錯誤を繰り返す。
すると――。

「うふふっ……。手の内側でぴくっぴくって動いてるのがわかるよ。
 目が覚めたのかな? でもまだダ~メっ!
 二度寝する気が起きないようにしないとね♪」
(いや、二度目は既に…………ぅごふっ!!?)

内心でツッコんでいたら、背後から押し寄せる重圧がまたさらにきつくなった。
体内の空気をすべて出してしまわないよう懸命に堪える。
出したが最期、それを合図に潰れてしまいそうな気がした。

俺を押し潰そうとしている前壁――千春の胸。
世界中の男性が愛して止まないおっぱい。
縮小人間になって全身で抱き締めても余るその大きさと沈むこむような柔らかさなど。
普通では絶対に感じられないその包容感を堪能してきたけど……。
ここまで埋まると、もはや凶器以外の何物でもなかった。

呼吸はしにくいことこの上ないし、本来の状態に戻ろうとする反発力が半端ない。
さらには、これ以上は近づくなと言わんばかりに心臓の鼓動がばくんっばくんっと響いてくる。
女性の心音は母の子守歌のよう、とかなんとか表現されていたこともあるが……今の俺はまったくそうは思わない。
むしろ否定したかった。まるで全身を一定の間隔で殴られているみたいだったから。

男の夢と断言してもいい乳房が、柔らかいを通り越して苦痛に変わっていく。
それが嫌で逃れたくても、後ろにある千春の手はもっと埋まれと言うかのように圧してくる。
画鋲か俺は。

視界が明滅する。
目蓋を固く閉じているから差し込む光なんて無いはずなのに。
濃い赤色がちかちかとハザードランプみたいに光っていた。

鋭敏になった聴覚からはどこからか吹く風とか細い呼吸音が聞こえる。
しかし特に響いてくるのは、俺自身の骨が軋む音。
ぎりぎりぴしぴしという雑音がダイレクトに鼓膜を震わせていた。

前門の胸、後門の手。
巨大なそれらに挟まれた俺の体が危険だと警鐘を鳴らし続ける。
手足の感覚はなく、たまにぴりぴりと痺れが走る程度。
この短時間で痛覚がマヒしてしまったらしい。

不意にこれまで優香や千春を始め、巨大娘たちに潰された縮小人間たちの死体が脳裏をよぎった。
骨は粉々に砕け散り、全身の肉はぐちゃぐちゃになるまで踏みにじられ原形を留めず。
それらが血だまりに浮かぶ光景。
彼らのように俺もなるのだろうか。彼らは何を思って死んだのだろうか。

湧き上がる死への恐怖心と込み上げる吐き気。
それらを必死に抑え込む。
脳みそまでイカれてしまいそうな気分になりながら、早く終われと切に願った。
このままじゃ本当にここで永眠してしまいそうだった。

――それから程なくして、千春の声が届いた。

「んっ……これくらいにしとこうかな」

背部にあった手の感触がふっと消える。
まるで始めから存在しなかったかのように。
圧迫感が無くなったことに安堵した俺は反射的にほっと息をつく。

だが、それがいけなかった。
我慢していたのは俺だけじゃなかったのだ。
ずっと元の形に戻りたがっていた千春のおっぱいもまた、邪魔者が消えたことに歓声をあげたのである。


前方から凄まじい勢いで襲いかかってきた。
まるで乳房の中で小規模の爆発があったかのような推進力。
その巻き添えを食らった俺は、電車の進行方向とは逆に流れる景色みたいに、さらに千春のおっぱいに体が埋もれていく。

その驚異的な速度の中、俺はちらっと周囲を確認した。
周囲は千春の胸肉(衣服で覆われてるけど)でいっぱいだった。
状況からすれば当たり前なんだが、俺は一種の感動を覚えていた。
いつもだったら、蹴り飛ばされた瞬間すぐに部屋や廊下の景色を確認して、受け身を取る準備に入るからな。

後ろには何もないのに、肉壁に埋もれたまま外へ押し出される。
普段からは想像できないその現実に特別性を見出す。
まあ……縮小してないと味わえないから異常なんだけど。

着々と周囲の胸肉がその厚みを減らしていく。
それは元の形に戻りつつあることを暗に示していた。
これでようやく解放される。もうこれ以上、苦しい思いをしなずに済む。
そう思った俺の気はどうしても緩んでしまう。

――だが、俺はこの後すぐに後悔することになる。
これまでの経験上、一難去ってまた一難なんて当然じゃないかと。

おっぱいに押し戻された俺はそのまま勢いよく吹き飛ばされた。
エースストライカーに蹴られたサッカーボールのように、千春の胸ポケットの内側に突き刺さる。
ここで問題が発生した。
千春が着ている制服の生地は伸縮性がそんなになかったのだ。

繊維が少しは伸びたので、いくらかは緩和された。
しかし、おっぱいから受け継いだ運動エネルギーを完全に吸収することはできなかったのだ。
てっきり胸ポケット(布)が優しく受け止めてくれるものだと思っていた俺はずどんっと腹部を中心に強い衝撃を受ける。
油断大敵、勝って兜の緒を締めよ……そんな言葉が脳裏に過ぎった。

不意打ちに等しかったそれに、肺にあった空気が再び吐き出される。
ひどい船酔いにでも遭ったかのように、胃液が込み上げた。
なんとか吐出することは免れたものの酸っぱい感じがした。

やっとの思いでそれからも解放されると、俺は力尽きたように倒れ込んだ。
サッカーボール……お前もこんな痛みを味わってたんだな、毎回……。
無機物にそんな共感を覚えながら、腹を抱えて丸くなる。

縮小人間にされてから結構修羅場を潜り抜けてきた。
なので、ある程度は他の奴らよりも頑丈な体になっているはずだったが。
体の内側に直接響いてくるような衝撃には堪え切れられなかった。

「痛ぇ……めちゃくちゃ痛ぇ……」

じぃんっと残る痛みをさすりながら仰向けに寝転がる。
荒い呼吸を繰り返していると、また千春の香りで肺が満たされていくのを感じた。
どこかつんとした酸っぱい臭いもしたが、それは全力で無視した。
というか必死に上書きした。千春ので。
せっかくのいい匂いを胃液の臭いで穢されたくはなかったのだ。

それにしても……まさか最後の最後になってあんなトラップがあるとは思いもしなかった。
女性の胸を天然エアバックだと、始めに表現した人は偉大だと思う。
徐々に膨らんでいく様子も、その包み込むような柔らかさも。
そして……一歩間違えば人を殺してしまえるあの衝撃の強さも。
天然性エアバックに相応しいと言えるだろう。

「どぉ? これで目が覚めたよね?」
「…………あぁ」

苦痛の元凶の声がする。
始まりのときみたいに、三日月の天井がちょっとへこんだ半月になっていく。
そこから差し込む光を覆い隠すような位置に、千春の顔があった。
こちらを覗き込んでくる彼女に俺は片手を上げて応える。
危うく死にかけたよ!
そう言うと、また理不尽にキレられそうだったので短く返事した。

その後、俺は千春に摘ままれて胸ポケットから出たのだった。