…夜空に浮かぶ月の下、水面に浮かぶ船の上。若い男は舵を取り、老いた男は夢を見る。

二人の紡ぐ航跡は、二つの街を繋ぐ糸。東の浜で絹を積み、西の港に夢を売る。

朝日を待たず船出して、沈む夕日の後を追う。長き旅路の束の間に、短き夢の旅に出る。

舳先は闇を切り裂いて、星の光に磨かれる。西の岸辺に届くころ、月は静かに目を瞑る…

 
彼女の透き通る歌声は、竪琴の音色に包まれて、夜空の向こうへ溶けて消えた。
小さなボロ船の水夫は、俺と、仮眠を取る爺さんの二人だけ。
東の村で絹を積み、沖へ出たのは夜明け前。半日以上船を走らせ、夜も半ばを過ぎたころ。
西の街に辿り着くのも、やはり夜明け前だろう。おおよそ歌のとおり…彼女の存在を別にして。

人を乗せるのは珍しくないが、どうも妙な客ばかり来る。
怪しい緑色の髪の男、両足の欠けた逃亡奴隷、笑い続ける亜人の商人…今宵の客も妙である。
旅の楽師を自称する、若く美しい女。旅人だというのに、荷物は肩から提げた小さな鞄と、三日月型の竪琴一つ。
左手に巻いた玩具の時計は、さかさに時を刻んでいる。黒ずくめの旅装は色気に乏しく、男物にしか見えない。
 
そして何より、その体躯。見上げんばかりの巨人である。大の男を比べても、ゆうに頭二つ半。
上背の割に細身であり、女性らしい膨らみに欠けていたが、それでも常人以上の質量を備えていることは、甲板の軋みで見当がつく。
魔王がこの世に現れ千年。亜人や魔人は何処にでもいる。失礼を承知で尋ねたが、混じり気なしのニンゲンだという。
旅の発端も、家族に身長をからかわれ、言い争う勢いのままに飛び出したのだとか。
すこぶるノッポの家出娘は、一年余り各地を彷徨い、いまだ自分より大きなニンゲンを見たことがない。
その上、成長は続いている。聞けばまだ十代。難儀な体質である。

港を離れ暫くすると、彼女は巨躯を器用に折り曲げ、船の端に小さく座り、ぽつり、ぽつりと歌い始めた。
外見からは予想もつかぬ、涼やかで繊細な魔性の歌声が、すぐさま俺達を虜にした。人を惹きつけ魅了する、天性の華に満ちている。
いずれこの道で名を上げる、自然とそれを予感させた。
未来の巨星は歌う。この一年余り、歩んできた偉大なる足跡を。
旅先で起きた不思議な出来事、各地に伝わる御伽噺、異種族を結ぶ恋の歌…長い航行の気晴らしに、多くを語り、多くを歌い、多くを奏でてみせた。
船は貸切の会場で、俺達は贅沢な観客だ。瞬く間に時は流れて、いつしか日は没していた。
 
夜空に浮かぶ月の下、水面に浮かぶ船の上。旅の楽師は甲板に寝転び、月を見上げて呟いた。

「本当に大きな湖ですね。この目で見ても、まだ信じられない」

これでも、東西の最も狭い航路だ。南北に至っては、更に倍以上の広がりを持つ。
確かに大きな湖だが、この湖畔に生まれ育った身としては、彼女の語る『海』とかいう、もっとずっと広大で、しかも塩辛い水溜りこそ信じられない。

「旅先で幾度も耳にしました、呪われた死の湖。かつてこの地に版図を広げた、今は亡きニンゲンの王国。
 魔王の逆鱗に触れ、湖底深くに沈められ、忘れ去られた滅びの都。怨念はいまなお渦を巻き、人々を水底へ引き擦り込む…」

彼女は続けて呟いた。ただの子供騙しだ。溺れて危ないから近寄るなと、親が子に言い聞かせるための方便。
湖は呆れるほど広く、そして恐ろしく深い。昔から命を失うものが後を絶たないのだろう。

「けれど、東の村の口伝は違いました。湖は魔王様が御創りになられた。
 人々の渇きを癒し、恵みを齎し、命を育む神聖な水源。みだりに近寄り穢してはならない、と」

それもやはり、水辺に無闇に近付くなという教訓であろう。実際に、規制は厳しい。魚釣りひとつ、許可が要る。
俺達交易目的の船など、二週間に一度の往復しか認められない。
監視の目をかわすことも含め、相乗りできる旅人は運が良い。

「不思議ですね。片や崇め奉られる、信仰の対象。片や恐れ忌避される、恐怖の対象。
 どちらも同じ湖なのに、二つの顔を持っている…あ、おはようございます」

爺さんが目を醒ました。舵を引き継ぎ、今度は俺が休む番。
湖の話は苦手だ、心がざわついてしまう。彼女には悪いが、話の腰が折れてよかった。
どっかりと腰を下ろし、疲れた体を解きほぐす。凝り固まった肩を回し、胡坐をかいて一息つくと、巨大な女が傍に座った。
健康的に日焼けした顔に、幼子の笑顔を貼り付けて。新しい玩具を見つけたような、面白い悪戯を思いついたような。
無邪気で、少し残酷な笑顔。


「あなたは気づいていますよね」


ぞくり。
妖しく光る、黒い瞳に突き刺された。圧倒的な体格差と、心を見透かす視線に見下ろされ、金縛りの如く動けない。
有無を言わさぬ迫力に気圧され、蛇の前の蛙のようだ。
何に気づいているというのか。
俺が何を知ったというのか。
とぼけてしまいたかった。
知らないふりをしたかった。

「ただ伝説を盲信するわけでもなく、頭ごなしに否定するわけでもない。
 誰よりも近くで湖に触れ、遠く異国の話を聞ける。
 あなたは物事を客観的に捉え、ることができる人。いくつかの欠片をもとに、全体を想像できる人。
 だから、気づいていますよね」

気づいてしまった。気づいてしまったのだ。
湖と共に生きる内に、旅人達の話を聞く内に、違和感が拭えなくなってしまった。
調べて、聞いて、考えて、そして一つの仮説に行き当たった。
誰にも話せない。話せるわけがなかった。

「この湖の不自然さ。深すぎますよね。一説によれば、海よりも。
 それも、湖岸からすぐ急激に、殆ど垂直に深くなる。
 魚も少ない。浅瀬がないから、餌になる生き物や隠れ場所が少ないんです。
 それと、形状。私たちの身近なものに、瓜二つです。
 その上、はるか西の地に、同じ大きさ、形の湖がもう一つ…鏡に映したように、左右対称ですが。
 旅人の間では、結構有名な話です。聞いたことありませんか?」

何が言いたいのか。
搾り出すように、弱弱しい言葉を吐いた。確認しなくとも、解っていることなのに。
怖い。
湖が怖いのではない。
湖を通して、世界の真実に触れてしまった。
それが何より怖かったのだ…

ああ、ただの伝説なら良かったのに。
 
「伝説は、本当なのですよ。魔王が創った、大都市を沈めた。どちらも正しい。
 魔王…千年も昔、世界を掴み我が物とした、あの恐るべき偉大な少女は、都をまるごと押し潰した。
 出来上がった窪地に水が溜まった。それがこの湖の正体です」
 
どうやって、そんなことを。どんな手を使ったのか。
とっくに答えは出ているのに、間抜けな言葉が口から飛び出した。
旅の楽師はクスクス笑う。逆の立場なら、きっと俺も笑っただろう。
こんな間抜けな返事があるか。できの悪い言葉遊びではないか。
 
「手は使っていませんよ」

大きな大きな足の裏を、ぽん、と叩いてこちらに見せた。


「右足で、踏み潰したんです」