魔王軍の追っ手を振り切り、落ち延びた者たちの末裔が暮らす。私の生まれた村は、そんな隠れ里だった。
鬱蒼と茂る森の奥、大きな石壁に囲まれている。
高さはおとなの背の十倍くらいか。子供の私から見た壁は、まさしく山のようであった。
お陰様とでも言うべきか、集落は昼間も薄暗く、いつもじめじめと湿っている。
ただ、この石壁にはまじないが施されており、邪悪な意思を持つ侵入者を拒むのだと聞かされた。
毒虫、害獣、怪鳥、魔物の類。魔王軍の奴らさえ、例外ではない。
百年ほど前に、魔王軍と和睦を結んだようだが、ついに武力で制圧されることは無かった。
ただ、私はこの平和な村が嫌いだった。十五歳でふるさとを捨て、今の街に暮らし始めた。
仕事を覚え、技術を磨き、そのうち私は家庭を持った。
背丈が低く冴えない私を、妻は心底愛してくれた。
子供にこそ恵まれなかったが、二人で歩んだ半世紀は、かけがえの無い時間だった。幸福だった。
昨年、妻は眠りについた。風邪を拗らせ、あっけなく。
この街にはもう、暮らせない。妻も、街も、大好きだったから。
あの街角に、あの店に。思い出は消えず、いくつもこびりついている。
思い出に触れてしまうたび、涙は枯れることなく流れ、錆びた鉋が心を削る。
悲しみに浸り、耐えるには、私は歳を取りすぎた。病は気から。もう、長くはないらしい。
ならば最後に、心残りを済ませておこう。そのように考え始めた。故郷に残した、家族のことだ。
両親はあれから、どうしたのだろう。兄は元気だろうか。妹は息災だろうか。
折しも街に、旅芸人の一座がやってきた。渡りに船。彼らに頼み、同行させてもらう。
妻の遺骨を胸に抱き、片道切符の旅に出た。

私の足は衰えている。一座が移動する間、荷馬車の隅でじっと過ごした。
皆が休憩に入るたび、荷馬車や小道具の整備をしていた。木工細工で身を立てていた。手先は誰より器用だし、足ほど衰えてはいない。
いよいよ暇を持て余しだすと、手ごろな木屑を拾い集めて、小物作りに勤しんだ。
感謝の印に、ひとつずつ。一座の全員に加え、私の他に紛れていたもう一人のよそ者に。
老いて小柄な私とは違う。旅の楽師を名乗る、若く美しく生気に満ちた、驚くほど長身の女性。
これほど大きなニンゲンを、私は生まれて初めて目にした。2メートルを軽く越えているだろう。
黒く無機質な旅装を纏い、肩から小さな鞄を提げて、三日月型の竪琴を抱いている。
着飾ることに興味は無いのか、装飾品は左手の時計くらい。それも壊れているのか、時計の針が逆に進んでいる。
異様な巨躯と無骨な格好。みてくれこそ近寄りがたいが、性質は寧ろ人懐っこい。
明るく、陽気で、歌と楽器と物語が好きな、天性・天賦の盛り上げ上手。
気立ても良く、道中、私の体をよく労わり、気遣ってくれた。
誰とでも打ち解けられ、いくらでも仲良くなれる。少々、悪戯好きなのが玉に瑕か。
家出して、一年ほどだと聞いた。家族が心配しているから、早く帰るように勧めた。そんなこと言える立場ではないのだけれど。
彼女のために、太陽を模したペンダントを彫った。
時間も手間もかけられなかったが、随分気に入ってくれた。
首から提げた太陽と、朝日のように輝く笑顔が、旅の仲間を明るく照らしていた。

行く手の道は二股に避け、人々の群れは歩みを止める。
湖畔に寄り添う右の道は、北の都へ至る道。一座の目指す、亜人の都。
山へと伸びる左の道は、寂れた村へ続く道。私の目指す、隠れ里。

「道中世話になったね、御一緒できて光栄の至り。爺様、元気でな」

ズンズン、ズンズン、ズンズンと。沢山の足音を響かせて、一座は右の道を行く。
小さくなっていく彼らの背中を、私は暫く見つめ続けた。
気持ちの良い連中だった。きっと次の街でも、素晴らしい公演になるだろう。

「さ、行きましょうか。お爺ちゃんの故郷、楽しみにしてるんですよ」

若く美しい旅の楽師が、私を見下ろしそう告げる。
年老いた私を一人、放っておけないのだろう。彼女は私と共に、群れを離れた。
素直に甘えることにする。実際、この身で一人旅は厳しい。
しかし、本当に良いのだろうか。先は長い。私の足では、半年以上かかるかもしれない。
旅の楽師はくすりと笑い、長い太腿をぴしりと叩く。

「私の大きな足ならば、二日と半日で着きますよ」

彼女はわたしをひょいと持ち上げ、鼻歌交じりに歩き出す。
山越え、谷越え、川越えて。ズンズン、ズンズン、ズンズンと。

あっという間に時は経ち、きっかり二日と半日後、私は故郷に辿り着いた。
寂れた村は、大騒ぎ。旅の者など滅多に来ない、のどかで静かな村だから。
夜深くにもかかわらず、いつしか宴が始まっていた。
記憶の中のふるさとは、もっと閉鎖的で息苦しかった。よそ者を歓迎するなど、無いと思っていたが。
時を経て、村は変わったのだろうか。それとも、あの旅の楽師が変えてしまったのか。
楽師に皆が群がっている。異郷の歌と演奏と、旅の話が珍しいのだ。
子供のように輝く顔を、じっくり観察して回る。五十年の時を経て、見知った顔は殆どいない。
石壁は手入れを施され、変わらぬ姿で私を出迎えたというのに。
おとなになって、背は伸びた。それでも短躯な私にとって、石壁はやはり山のままだ。
かつての友が私のことを、ぼんやり覚えてくれていた。今夜一晩、部屋を借りることにした。
今夜はゆっくりと、旅の疲れを癒したい。空き家があれば、明日にでも移ろう。
妻の遺骨を胸に抱き、小さな体を丸めて眠る。
生家は潰れ、更地であった。家族は一人も、いなかった。

日が暮れて、月が出る。月は沈んで、また日は昇る。朝日が村を優しく照らす。
別れの挨拶をしなければいけない。私は手早く支度を済ませ、旅の楽師に会いに行く。
石壁の向こう、大きな木の下。毛虫と木の葉を頭にのせて、根っこに腰掛け座っている。
私に気づくとにこりと笑い、大きな手を振ってみせた。

「おはようございます。とっても素敵な村でした。みんないい人たちばかりで」

一晩中、外で夜を明かしたのだろうか。

「私の体が納まるベッドは、この村には無いみたいなので」

寂しそうに、恨めしそうに、己の巨体を睨み呟く。

「もう行きますね。あまり長居しては、迷惑をかけてしまいますから」

気まずそうに視線をそらす。宴のことだ。確かに、彼女は羽目を外し過ぎた。
自分の体が、容易に物を壊し、人を傷つけてしまうことを良く理解しているのだろう。だからこそ、昨夜の行いを恥じているのだ。
彼女はゆっくりと立ち上がる。眠たげな顔が、ぐんぐん空高くへ登る。
ニンゲン離れした長躯。手足の長さも、並ではない。それにしても、と思った。
昨夜の宴では、目を見張ったものだ。村を出て五十年、多くのニンゲンを目にしてきたが、


あの石壁をまたげるニンゲンがいるとは、思わなかった。


「本当にあったんですね。小人さんの隠れ里。噂は聞いていましたが」

石壁の高さは、精々1メートル程度。普通のニンゲンなら無理でも、彼女の常人離れした長い脚なら、充分跨ぎ越せるのだ。

「やはり、魔王の呪いのせいで?」

そう、伝え聞いている。千年前、世界をその手におさめた魔王。
この偉大なる少女は魔法を使えた。『大きさを変える』という、それだけの魔法だ。
私たちの祖先は魔王に敗れ、およそ20分の1に縮められた。10センチにも満たぬ、小さな体。
詳細は残っていないが、魔王のもとを逃げ延び、この山へ逃げ込んだらしい。
以来、つい最近に至るまで、密かに生き永らえてきたのだ。

「恨んでいますか?小さくされたこと」

ちっとも。この体だからこそ、誰にも負けない仕事ができた。精密作業に適していた。
何より、妻と結ばれた。普通の体でも愛していたと、妻なら言ってくれるだろうが。
妻の遺骨を優しく撫でる。小指の先のひとかけら。それでも、私にとっては大きなものだ。
一人では、ここまで来ることはできなかっただろう。
ああ、そうだ。嘘を吐いた、少々恨んでいる。この体はまことに不便だ。
魔王だか何だか知らねぇが、余計なことをしやがって。スットコドッコイ。
旅の楽師はケラケラと、腹を抱えて大笑いする。何かがツボに嵌ったようだ。

「解りました。旅先で顔を会わせたら、そのように伝えておきますね」

大きな体が朝日を隠す。黒い旅装も相まって、夜の帳が降りたようだ。
踵を返し、彼女は村をあとにした。ズンズン、ズンズン、ズンズンと、足音を村に響かせながら。
胸元を彩るペンダントだけが、朝の光を柔らかく跳ね返していた。