(本作品は艦これの二次創作となっております。元のイメージを大事にしたい場合はお気を付けください。
直接的なシーンは少ないです)




旗風の記憶は、その出会いからして鮮烈だった。
秘書官が一人、見慣れない人影を伴い入室したあの日を、私は今でも覚えている。
「司令、新規着任艦、お連れしました」
書類から目を離せば、金木犀のような香りに気づかされた。
「お初にお目にかかります。神風型駆逐艦、旗風と申します」
落ち着いた、色気のある声。金木犀の香りによく似合う、柔らかく、甘く、気高い響き。それらの主は紛れもなく、美しい少女の姿をしていた。
私は立ち上がり、首肯する。
「ご苦労。遥々よく来てくれた」
旗風の姿が目に映る。
女学生のような出で立ち。いやらしくない上品な黄色の羽織に、レースアップブーツがハイカラだ。良家の子女のようで、艤装がひどく重そうに見える。
私に、娘がいたらこの年恰好だろう。……戦災未亡人、戦災孤児、それがどのようなものかを私は知っている。天涯孤独な身の上に、その少女の姿はあまりに可憐だった。
えも言われぬ新鮮な感慨を覚えて私は手を差し出す。
「戦果を期待しているよ」
「ありがとう存じます」
乳のような柔らかい色の手が、そっと私の掌に収まる。握れば折れてしまいそうで、唯曖昧に包むことしかできなかった。

新規着任艦との出会いはいつも嬉しく、そして重い。
私にとり、艦娘達は娘のような存在だ。失いなくない、失わせない。その思いだけで動いてきた。幸い、鎮守府に中央集権的な上位組織はなく、無能な司令部に煩わされることはないが、その分全ての責任は私にかかっている。全艦の命が、私の双肩に、だ。
欠けることなく、慎重に。それがわたしのモットーだった。
しかし、戦闘においてなぜ全てを掌握できよう。イレギュラーによる損傷は絶えず、常に死と隣り合わせ。戦争なのだ、目前で死ぬのが戦争だ。……軟弱だ、わかっている。陸戦で他人を斬り殺せる人間では全くなく、軍属としては不適格と言えた。が、それ故に努力は惜しまない。微に入り細にいった戦術研究を誇り、技術摂取には貪欲だった。
旗風が現れた時、私は強く願ったのだ。
この子を失わない力が欲しいと。
そして、生存率を大きくあげる研究を得た時。
私は小躍りせんばかりに喜んだ。
旗風着任の2日後のことである。
私は彼女を呼んだ。大人しげな、その娘を。
願いは叶ったのだ。幸か不幸か。




 数多くの資料を広げ、私は彼女に説明を施す。
「……知っての通り、君たちがなぜその姿なのかはまだ未解明だ。その大きさ、その姿、その艤装……どれを取っても不可解だ」
「……その通りにございます」
彼女はクスリと笑って頷く。落ちついた、しかし娘らしさの残る笑顔だ。
「この技術は、艤装ではなくこの未解明の領野に踏み込む。徐々にかつての力を取り戻すはずだ」
「力……」
「有り体に言えば、身体の大型化ということになる。本来の力を発揮できるだろう」
「そのような改装に、私を選んでくださったのですね。光栄です」
得心したらしく、彼女は一つ首肯する。
「ですが、なぜ旗風が?」
もっともな質問だった。
「これは画期的な技術だ。が、何分経験の蓄積がない。熟練度の高い艦に適応した結果扱いきれず、逆効果、ということもあるだろう。現状戦力の低下は絶対に避けなければならない。君なら、安全に一からこの技術とともに成長できると判断した」
「承知しました」
彼女は言う。そして初めて緊張の面持ちを解き、
「頑張ります。よぉーし!」と、その少女らしい笑みで微笑んだのだった。



 実際、効果のほどは強烈なまでに現れた。
 有体に言えば、強くなればなるほど旗風は大きくなる。それはそして、大きくなればなるほど、強くなるのだ。それは鎮守府のあり方を変えた。
 旗風との日々は出撃と帰艦を主題にして、少しずつ変奏していった。旗風の体は大きくなっていく。勝利は容易になる。資材消費は増えていったが、同時に戦果も躍進し、心配には及ばなかった。もとより誰かを妬む僚艦はいない。純粋に彼女をたたえ、彼女を愛した。
 そして、この数ヶ月のうちに、鎮守府は完全に旗風を中心に回り始めたのである。

「というわけで」
私は言う。
「君の活躍には感謝してもし尽くせない。なんでもいい、何か、礼をさせてくれないか」
「お礼、ですか?」
旗風がキョトンとして私を見下ろす。立ってはいない、座ったままだ。天井の高い提督室さえ手狭になって、正座になってようやく収まっている状況だった。
悩んだように首をかしげる。そして窺うようにこちらを見やると一言
「なんでも、よろしいのでしょうか?」
「出来ることなら、な」
「では……」
旗風は俯き、遠慮がちに
「抱きとうございます」
「は?」
「司令を、腕に抱かせてください」
求めるようにその腕を広げた。

「いいのか? こんなことで」
「はい、嬉しいです」
大きな腕が私を抱く。袴に隠された太ももの上に座らされ、胸を背に、唯抱かれていた。それはちょうど……
「ふふっ、司令、まるで」
「言うな」
抱かれたぬいぐるみのようだった。顔が熱い。軍帽を目深に深る。
「……申し訳ないです、司令にこのような無礼を」
「いいんだ。畏まられるのにはうんざりしている」
金木犀のような芳しい香りに全身が浸る。その紗のような亜麻色の髪が頬に触れ、こそばゆい。
「しばらく、こうしてていいですか?」
「ああ。気がすむまで」
ありがとう存じます、と、いつもの一言。その水仙のような黄色の羽織で私を包み、愛おしげに腹を撫でる。
気恥ずかしい。娘のような年頃の少女に、すっぽりと抱かれているのだ。
生来の色気に、母性さえ加わり、その体は強烈な存在感を醸し出す。
私は自重するように首を振り、問う。
「その後調子はどうだ?」
「おかげさまで艤装にも、体にも、問題ありません。ただ……」
「ん?」
妙な間が空く。言いにくそうに、言葉を探すように、旗風は少し体を揺らした。布越しに、秘めたその肉体が動くのを感じる。力強い、腿や腹、胸の弾力。
「……。いえ、ただ迷惑をかけてはいまいかと。その、大きいですし、海防艦の子達が怖がっていたらかわいそうですから」
その落ち着いた声音で、微笑みながら話す。
「……? むしろ愛されていると思うがね」
少々引っかかるが、それ以上は何も掘り下げなかった。無論、旗風を怖がるものなどいない。私たちにはもっと恐れるものがいたし、その中で大きく優しく守ってくれる彼女には、皆が暖かな気持ちを抱いていた。
「あっ、それは嬉しい、です」
少し照れたように、その色っぽい声がぽそぽそと囁く。暖かく、柔らかく、艶めいて。不思議な気持ちだった。これまで初めて感じる、奇妙な温もり……。
(ああ、これは、すごく、落ち着く)
巨大な彼女の、ドキドキするような香りが、蕩けるような体温が、背筋を撫でる、その声音が。一体となり、混ざり合い、総体となって、私を溶かしこむ。
(ああ……)
なんて暖かいんだろう。
瞼が重くなる。そして腕に抱かれたまま、深い眠りに落ちてしまう。
「司令、……司令? ……あはっ、眠ってしまったんですね」
安心してくれたのですね、と囁く声を、私は知らない。



思えばこの時、私の心には隙が生まれていたのだ。まず、その腕に抱かれたこと。そしてそのために、旗風に安らぎを覚えてしまったこと。旗風に安心しきっていた。可愛らしい笑みに全てを包んでしまう彼女に、私は甘えてしまった。
そのツケは、更に数ヶ月後に回ってきた。
「艦隊、帰投、しました……」
苦しげな声に私は立ち上がり、彼女の姿を探す。そこには、およそ五十メートルはくだらない少女が、満身創痍で立っていた。
あまりに痛ましい姿に私は慌てふためき、
「は、旗風!」
駆け寄る。その場で外傷の手当は済ませていたようだった。が、爆風による炎症、打撲など、内部に様々な痛みを抱えているようだった。
崩れるように彼女は膝をついた。
「ご、ごめんなさい。なるべく早く、戻るようにします」
「そんなこと言ってる場合ではないだろう!」
尚も立とうとする旗風を叱責する。既に私よりロングブーツの方が大きい、が、それでも私の部下だ。工廠から人を集める。
着物ははだけて艶っぽい肩が露出し、蝋のように滑らかな背中を覗かせている。疲労に乱れる息は切なく、顔は赤くなっていた。袴が脚を隠していない。へたり込んだ彼女は、わらわらと集まる仲間に目もくれず、ただ座り尽くすだけだ。
当座巻かれた包帯を外し、入渠の前準備に薬剤を塗布する。
「恐れ入ります、司令……」
「まだ言うか」
「いえ、自分のことをあまり理解していなかった私がいけないんです」
「というと?」
「……その、私、大きくて目立つようで、攻撃が集中して……」
敵からしてみれば、火力もあり巨大な彼女は最優先の標的であったに違いない。随伴艦の損傷が極々軽微であることを勘案すると、寧ろその損傷で済んだことが驚異だった。
僚艦たちが励ましながら彼女を手当てする。中には涙ぐみながら感謝する者もいた。わらわらと妖精のように旗風を囲う少女たちを、私はどこかホッとして見守る。多くの人間が、彼女によって救われているのがわかったからだ。
(……難儀してるな)
山のようにへたり込んでいる彼女の体に、僚艦達の姿はあまりに小さい。総出での甲斐甲斐しい働きも、その巨躯では人手不足と見えた。
「私にも何かさせてくれ」
「お、お手を煩わせるわけには!」
「動かなくていい」
こちらに向き直ろうとする彼女を、手渡された塗り薬を受け取りながら制止する。
うら若い少女の肌に触れるというのは、とも思ったが、苦しむ姿を見たくなかった。
そのふくらはぎに薬剤を塗ってやる。白くきめ細かな肌にクリームは滑らかに広がり、瑞々しく照り輝いた。
「ひゃっ!」
こちらを注視していた旗風が飛び上がる。気になってしまったのだろう。その大人しい顔にパッと驚きが広がるのは、新鮮だった。
そうして脚にすっかり薬を塗り終えた頃、それぞれの作業も終わったようだった。
彼女に合わせて柔らかいマットと掛け布を敷くと、旗風をその場に寝かせる。その巨躯が寝そべると、足の先の方は小さく霞んでいるかのようだ。
「みんなご苦労。あとは私がなんとかする」
そうして艦娘達を寮に帰らせる。
去る僚艦に彼女は礼を言い、私に頭を下げると
「ありがとう存じます。ただ、これ以上お時間を取るわけには……」
「気にしなくていい。ここにいるから、寝てなさい」
しばらく迷うそぶりを見せたが、しばらくして、
「このような格好ですが、失礼します」
と体を倒した。
そしてしばらく布の中で具合を確かめると、そのまま緩やかに眠りに落ちていった。
その透けるような頰を眺める。寝息は健やかで、血色も良くなった。かなり回復したようだ。
そして書類をめくりながら、何時間だろうか、経った時。
「……ん」
もぞもぞと黄色い羽織が揺れる。その薄紗のような髪が揺れ、こちらを向くと、その亜麻色の髪の間から瞳が輝いている。
「司令。いてくれたのですね」
首肯する。
安心したように向き直る。
「ありがとう存じます。大分よくなりました」
「何か欲しいものはないか?」
「いえ、何も」
「何かあれば、遠慮せず言ってくれ」
なんでも? とその瞳が聞く。
私は頷いてその額に触れた。
暫し思案して、彼女は心細そうな目で
「すみません、抱きしめていいですか?」
囁くようにいう。
私は苦笑して、
「君のしたいようにしてくれ」
「失礼します」
どうしようもなく大きな手がこちらに伸びてくる。大蛇に呑まれるように、私は摘まれ、
「やっぱり、安心します」
その袴の上に降ろされた。
「何よりだ」
静かに上下する地面。そして目の前の丘。はだけているせいで、普段締め付けられている乳房が溢れ、顔が見えない。
「司令、そこにいますよね……?」
「いるよ」
傍に置かれた指にそっと触れる。
「すみません、その、見えなくて……」
恥ずかしそうに言う。大人しい彼女にとっては、かなり大胆なことなのだろう。
手は腹の上に寝かすように私を撫で、私はその手に敷かれて全てを委ねた。
「司令は、私に甘えさせてくれるのですね」
「当然だ。君たちは、私の娘のようなものだからな」
言ってみせる。自分も甘えていることには、目を瞑った。
嬉しい、と彼女は呟く。
「何がだ?」
「他の子と同じに接してくださります」
「特別扱いが過ぎると思うがな」
「違うんです」
私を撫でる手が止まる。
「他の子は……。なんというか、私を守り神のように見ていて……」
畏敬。敵を倒し自ら攻撃の矢面に立つ彼女は、僚艦にとっては守り神そのものだ。
その足元から戦う彼女を見上げれば、その美しくも強い姿は、さぞ神々しいだろう。
「司令しかいないんです。他の皆さんとは違ってしまいました」
私を胸元に抱きとめる。あまりに大きく優しい膨らみが、私を求め、離すまいとそこにうずめる。
「私、みんなのお役に立てて嬉しいんです。司令もお心にかけてくださって。でも、やっぱり辛いし、痛いのは嫌ですね」
満足したのだろう、私を胸元から掬い出し、手に優しく乗せる。
そして指の腹で私の頭に触れると、
「皆さま、小さくて、可愛らしくて。仲の良さそうなその姿を見ていると愛しくなります。守らなきゃって」
でも、と、旗風は微笑んだまま言葉をつなぐ。
「時々、なんで私なのかなって、思ってしまって」
話しているうちに一筋、目尻から光が垂れた。
「……あれ、す、すいません、なんで、私……」
そして拭ううちから涙は零れ出し、大粒の涙が掌に林檎大の雫を作る。
泣きじゃくり出した彼女を、私は手の中から黙って見上げることしかできない。
「……君に重責を担わせたのは私だ。その責任を負うためなら、なんでもする」
「違うんですっ」
そうじゃないんです、と言葉が滲む。
「いいんです、これは私の仕事で、私の役割ですから。唯、ただ……、なんでわたしなんですかっ!? 私、姉さん達ともなんだか遠い気がして、いつも一人で、戦ってる時も、話してる時も、なんだか、なんだか、通じていないんです……。大きすぎるんです、私。もう同じ場所に立てない。一人っきりで、時々……」
何もかも壊したくなる、と彼女は呟く。そしてはっと我に返って、自分の言葉に驚いたように目を見張った。
「……い、いえっ!そういう事ではっ! ちっ、違うんです! 別にそんなつもりじゃ……。……すみません、除隊でも、解体でも、ご命令ください」
深窓の令嬢然とした、おっとりと優雅な表情は影を潜め、翳のある、潤んだ瞳がこちらを覗いていた。
「……全て私の責任だ。なんでも、思ってることを言ってごらん」
彼女はしばし当惑したようにこちらを見つめ、そして言葉を探した。
「……戻してください」
「……調べてはいる」
「姉さんたちに会わせて」
「……会っているはずだ」
「そうじゃないとお分かりのはずです!」
パシッ、と鋭い音を立てて床を叩く。
「嫌です、大き過ぎてもう寮にも入れないんです。そのうち鎮守府さえこの手に収まってしまいそうで……」
普段の彼女は僚艦達を手に乗せ、ニコニコと微笑えむばかりだ。が、今はわなわなと震えるその手を見つめ、涙ぐむばかりだった。
満足いく答えを与えられず、己の不甲斐なさを感じる。いや、旗風ももとよりそれは分かっているのだろう。ただ、感情を爆発させたいように見えた。
「そんなことは起こらないよ」
私はただそう答えるほかない。
「嘘です! だってもう司令はそんなに小さいじゃないですか!」
そして私に手を伸ばすと、
「知ってますか? もう私、司令を一掴みにできてしまうんです。確かめますか? 怖くても知りませんよ?」
徐々に視界を埋め尽くす手。そして、白魚のような手に私を収める。両手で私を包み込み、身じろぎひとつ能わない。
「怖いですか? 怖いですよね。だって少し力を入れれば、そのまま潰れてしまうのですもの。ほんと、なんでこんなに大きくなってしまったんでしょう?」
パン生地をこねるように私をこねくり回す。もはや自由はない。私は指に縛りつけられ、絡め取られ、はりつけられる。
「この手で毎日敵をへし折ったり、握りつぶしたりしてるんです。もっと硬くて重い艦をです。化け物みたいですよね?」
突然の反抗に驚き、その力に声も出ない。ただ首を振るばかりだ。
「だったら、この手でもっと人間的なことをさせてください。壊すんじゃなくて、癒したり、愛したり……」
そして、涙ながらに私を見つめる。涙の溢れる目を閉じると、その麗しい顔をこちらに寄せた。手の中の花の香りをかぐように、掌に顔を埋め。
私に接吻する。
「愛しうございます。心から、食べてしまいたいくらい、好きです。こんな私でも、こんな体でも、私、これだけは誰とも変わりません。ああ、どうしよう……」
そして抗い難く私を貪る。肉厚の花弁のような、瑞々しい唇が私を食む。普段は薄く閉ざされた唇が、私を押し倒し、吸い付き、その蕩けるような肉感で私を包み込んだ。
そして、その隙間から悩ましい吐息が漏れると
「ごめんなさい、司令」
爛熟した苺のような舌先が覗く。そしてネロリと現れると、私の首筋を舐め上げた。
「許してください、今だけ、今だけは」
そしてタガが外れたように私に食いつくと、その舌を私に押し付け、愛撫する。
普段決して大きく広げられることのない、貞淑な口。それが淫靡な洞穴を見せつける。
「旗風に、口付けしてくれませんか」
恍惚と彼女が呟く。
私は溶けたクッションのようなそれに寝そべり、抱きつき、舌を這わす。媚薬のようなその粘液は、口に広がり、脳を溶かし、身体の隅々まで広がって、私を彼女の一部に変えてしまった。
トロトロと流れる唾液に浸され、飲まれ、飲み込んだ。
そしてばさりと彼女が倒れ、糸引く私を口から引き出す頃には、私は全く彼女のものとなっていたのである。


私の魂に彼女が刻み付けられて、爾後。
私は少しずつおかしくなっていった。鼻には金木犀の香りが消えなかった。耳には常に色気ある声が囁きかけ、肌はその温もりを感じている。
その手で壊されたいと思ったし、その口に含まれ、飲み込まれたいとさえ思った。その小さな喉をすり抜けるのは、どんなに深い快楽であろうか。そんなことばかりを考えていた。
気が狂いそうだった。
いや、狂っていたのだろう。
平生は不動心を装い、その表情には何も浮かばない。仕事はこなす。きっちり。しかし、一度手元が狂って仕舞えば、何をしでかすかわからなかった。
そんな日々が一月は続いたある日。
諸用から私は旗風の元を訪れた。正直気が進まない。自分が怖かったのだ。
旗風の居室を訪れる。簡易ではあるが、特別に作らせた巨大な部屋だ。彼女のために、一部には畳を敷き詰めた。彼女はたいそう喜んだ。その顔を見るために、作らせた。
部屋に入る。出撃から帰ってはいたようだが、生憎奥に引っ込んでしまったか、席を外しているのか、姿は見当たらない。
(中に入って待とう)
そう思い、飛行機の倉庫より大きなそこへ入っていく。
そこにはうっすら旗風の香りが漂っていて、脳髄が痺れだした。
と、傍にあるものを見つける。
存在感とともに、一際濃い香りを放つ影。
旗風の姿を構成する、その一部。
私はそこへ近寄った。
レースアップブーツ。高い踵はそれだけで私の背丈ほどもある。普段はその持ち主の足にパンパンに広がり自立しているが、今はその口を床に垂らし折れていた。まだその体温に温もり、湿り気と汗が口から漏れてくる。
旗風のブーツ。私を優しく抱いた彼女の、私を握りつぶそうとした彼女の、脱ぎたての靴。
一度入ってしまえば、容易には出られない。
(何を馬鹿な)
しかし考えてしまう。娘のような部下のブーツの中を。虫のように這い入りたい。その蒸気を吸って、汗だくになって、安らいたい。
私には地位も責任もある。彼女は私の部下だ。万一そのようなことをすれば、どんなに失望され、軽蔑され、支障をきたすだろう。計り知れない。
しかし。
私と彼女は既に共犯者なのだ。お互いを気にかけ、愛し、利用している。
単純な上下関係はねじれ、歪み、つながっていた。
(旗風……)
ブーツの縁に手をかける。トンネルのような黒い口。その甘酸っぱい吐息に頬を撫でられ、気分が昂る。
(愛してる)
その内側に触れる。空気が甘く絡みつく。普段、彼女のふくらはぎを包んでいる生地。その側面をなぞり、一歩踏み入った。
ムッと重い大気。
(愛してるんだ)
一歩ずつ、その中へと進んでいく。もう後には戻れない。天井が低くなり、横に潰れていき、暗く、暗く、暗く……。
さながら胎内へ続く産道の如く。狭くなり、苦しくなり、腹ばいになって。そして折れ目の行き止まりに辿り着き。
(この先は……)
そのキュッとした隙間に指を滑り込ませる。飲み込まれていく体。とてつもない湿気に腕から汗をかき、ありえないほど濃い旗風の蒸気に抱かれて、理性が蒸発する。
顔が暗闇の中を覗き込む。何も見えない。それは旗風の中だ。体を沈み込ませる。深みにはまっていく。そしてすっかり中に潜り込んだ時。
「わっ!」
ヒールの斜面を転がり、私の体は鞠のように靴の中を跳ね回った。その度に、旗風の第二の皮膚にぶつかり合う。
(ここは……)
それは最奥、つま先の置かれている場所だった。その体重の集中するために、生地が平らになっている。わずかに黒ずみ、じゅっと汗の湿りが手を覆う。巨大な体表面から放射された熱や蒸気が、脱ぎたてのままに残されていたのだ。
暗い。暑い。息苦しい。
しかし、彼女の足の香りが、汗の香りが、例の金木犀と混じり合い、馥郁と立ち上る。
斜面にしなだれかかり、足裏の触れるところへ頬を寄せた。気持ちいい。快い。舌を出し、そこに押し付け、這わせる。皮の香りと共に、旗風の塩気が口の中を踊った。
まずいのはわかっていた。もうどうでもいい。疲れたのだ。子供になったって、馬鹿になったっていいじゃないか。
どうにも切なかった。旗風に会いたい。壊されたい。私が尚も彼女に出撃を命じ更なる膨大を招いているのは、きっと、その姿に焦がれているからだった。儚いほどに可憐であるのに、その巨躯は並び立つものなく、ひたすら強大だ。美しい。
罪深い私を罰してほしい。彼女が独りにすれば彼女を独り占めできると、そう思ってしまったのだ。
ブーツの隅っこに体を滑り込ませ、私はその湿潤な空気の中で息をした。
と、遠くから足音が聞こえてくる。
(……?)
鈍い地響きが起き、軽い衣摺れの音が響いた。着物と畳のこすれる音。そして徐々に震源がこちらに近づいてくる。
ブーツが揺れ、傾けられたせいで踵へ転がる。口が開かれ、光が靴底の虫を照らし出した。
口から見えたのは、白い塊、足袋の足先だ。具合を確かめるようにすこし指を開いたり閉じたりしてから、そっと中へと差し込まれていった 。
ふっと暗くなる。空気が止まる。やがて圧縮され、鼓膜を圧迫し、脛を通る空気の音が響いた。全てが足先に支配され、やがて、旗風の金木犀のような体臭が、あたり一面を濃く彩り始めた。
白い足袋が降りてくる。蓋をされれば、ぎっちりとふくらはぎで詰まったブーツを抜けることは不可能になる。
絶望の監獄。その脱出口を、旗風の足袋が塞いでいく。みちみちと皮音を立てて足はブーツを押し広げ、進み、そして私の上に覆いかぶさった。
その瞬間。
「きゃあっ!」
旗風は悲鳴をあげてブーツを投げ離した。私はシャッフルされながら皮の壁へと叩きつけられる。
「や、やだ、何?」
怯えたような彼女の声と共に、尚も自立していたブーツの穴から大きな顔が中を覗く。
「……え、司令? そんなところで何を……あの、まさか……?」
旗風にはわかってしまったのだろう。驚きの表情は失せ、怒るでもなく軽蔑するでもなく、ただじっと汚れた私を見ていた。
「そんなとこにいると、潰されてしまいますよ? 戦に履いていく靴なのですよ? 汚いのに、そこが、好きなんですか?」
旗風は知っている。その上で私に言っているのだ。そしてしゃがみこんで覗いたブーツから顔を上げると、すっと立ち上がる。
「私、気づいたんです」
旗風が、かすかな音を立ててこちらに近づく。足袋が柔らかく畳を踏むのがわかる。
「もう誰とも会えないと思ってました。大き過ぎて、ううん、皆さんが小さ過ぎて、何も伝わらないと」
ブーツの中がさらに暗くなる。見上げれば、ぽっかり空いた穴の向こうから、旗風がこちらを覗いていた。
「でも、こうすれば、お互いを感じられるんです。安心して、嬉しくて、恥ずかしくて、愛おしくて」
すっと、その袴の裾を摘み、その脛を露わにする。普段はブーツに隠されている柔らかなふくらはぎが、その白さにこちらを照らす。
「それって、悪いことではありませんよね? 司令、なんでも受け止めてくださるって、おっしゃいましたよね?」
はしたなくも、その太腿までもちらりと覗かせる。乳白色の、秘められた甘い肉体……。貞淑に隠されてきた、肉感的な太ももの曲線美が、私を見下ろす。
「司令が悪いんです」
軽い仕草で、その脚を持ち上げる。膝を上げ、腿を横に、白い足袋を見せつけて。靴を履く、そのピンと伸ばした指先。それが、徐々にこちらに降りてくる。
「こんな旗風を、許してくださいね」
日食のようにあたりが暗くなる。僅かに漏れていた金環食は不意に途切れ、フッと、生暖かい風が巻き起こった。
「やめ、やめてくれ!」
「あはっ、嫌です」
足袋に包まれた素足が、私を探すように降りてくる。ヒールの斜面を転げ落ちて足先に向かう。無論逃げ道などどこにもない。振り返れば、白く輝く足先がその顔を覗かせ、ゆっくりと這い寄ってきた。怖がらせるように、僅かに足指が蠢く。
「ふふ、愛しゅうございます、司令殿」
クスクスとした笑いが外から聞こえる。そして素足は私に抱きついて、足袋の指の股に私を捕らえる。狂おしく愛おしげに抱きついたそれは、優しくも怖がらせるように私を締め付け、靴底に押し倒した。
「やだ、私、こんなこと……。上官を靴に入れて、嫌がるのに足で踏んで、その上指の間に……!」
絡みつくような体温は私を離さず、足袋ごしに抱いた素足はあまりに熱い。海の匂いがする、土の匂いもする。火薬の匂いも、汗の香りも、そして、金木犀の香りも……。
腕に抱かれた時の不思議な気持ちが蘇ってきた。その手を包まれた時の鼓動が聞こえる。その色気ある肩が、その声が、次々と現れては消えて。
そして、その感情の意味を知る。
「司令、罰してくれますか? また、普通の艦にするように、怒ってくれますか? 司令、司令……」
ぐりぐりとその足袋は重い布団のように私をつま先に捕らえ、もはや後戻りのできない私たちは、倒錯的に、お互いが存在していることを確認し合う。その不安も、喜びも、靴と可憐な顔に隠して。
あはっと、最後に一つ、彼女が笑った。


数日後、敵拠点掃討作戦発令につき、旗風以下五艦は海上に往った。
訳あって私も、追いかける形で海へと乗り出す。どうしても、直接彼女に伝えたいことがあった。
……結局旗風はさらに練度を上げ、その体は優に百メートルを突破しつつある。あの一件から彼女の態度はぎこちない。罪悪感は拭えない。
「提督、もうすぐ本隊と合流します」
秘書官が伝える。が、報告を受けるまでもなく、私には旗風が島影に乗り込むのが見えていた。
「上陸します」
そう言うと、旗風は一足飛びに本隊をまたぎ越して島へたどり着き、敵拠点近傍に足をつく。
「なんと言うべきか、島がおもちゃみたいだな」
大きな砂山に登っているようなアンバランスな光景に、思わず苦笑した。
旗風の足元には箱のように敵地があり、今のところ動きはない。
一箇所を除いて。
「……ん?」
拠点の一部が発光した。
「に、逃げっ……!」
旗風が叫ぶが時既に遅く。固定砲台からの一撃は艦隊に直撃していた。
遠目に見て数名は負傷している。
「なんてことっ……!」
怒りを露わにした旗風が、拠点に向かって大きく足を踏み出す。それだけで山体は地滑りを起こし対象を飲み込んだが、旗風は敵を許さない。
「生きては帰らせませんから」
怒気をはらんだ声で旗風は呟くと、袴の裾をつまみ、たくし上げた。袴からそのブーツが現れ、まばゆいほどのふくらはぎが、一瞬、そのほっそりした白さを垣間見せた時……。
旗風はそれをおおきく振り上げた。
あらん限りの力で、敵にそれをねじり込む。
うなりを上げてそれは振り下ろされ、巨大な足は一瞬にして非力な箱を真っ二つにした。その高いかかとを支点にグリグリと踏みにじり、もはや跡形もない。ボンっと大爆発が、その足元癇癪玉のように一度爆ぜると、少し驚いた素ぶりをした旗風は、しかし余裕の表情に戻り残りを平らに延ばして行った。わらわらとそこから虫のような敵機が這い出す。いつ見てもおぞましい、醜悪な生物。
しかし旗風は
「逃しはしません」
小さく呟く。そして徐ろに靴を横に滑らせると、山肌を削りながら数多の虫を土砂に沈める。
砂山を均すような気軽な素ぶり。しかし、それによる被害はあまりに大きく、土砂の中でピクピク蠢く深海棲艦は引きちぎられ、踏みにじられ、土砂とともに海に砂山をなしていた。
「もう、大丈夫ですか……?」
すっかり平らになった山肌を見下ろし、旗風は首を傾げる。
邪気のない声。
あまりに何気ないその蹂躙に、誰もが言葉を失う。あれほどの敵が、こんなに簡単に? それは一艦船、いや、一艦隊の攻撃力を遥かに越している。唯旗風だけが、あれ? あれ? としずけさに戸惑っていた。
と、思い出したように誰かが叫ぶ。
「旗風さん、そこ! そこです」
「あっ、ここ?」
残党だった。旗風のブーツの隙間、ヒールとつま先の間のアーチに1匹。
しかし自らの巨躯に隠されてしまい、旗風はまるで気づかない。
「え、違う?あれっ?」
不安げにたたらを踏む。敵の残骸に又しても鉄槌が下り、死に損ないの断末魔がかすかに響いた。
「どこでしょう? ここですか?」
島を跨ぎ越す旗風はすっぽりと影に敵地を包み隠し、ヒョイっとあたりを見回す度巨大な足跡を残していく。緑の山肌が茶色い足型に削り取られ、もはや見る影もなかった。
こちらまで砂煙が立ってくる。長い羽織を蝶のように巡らせ、しかしそこからは絶えず重低音が鳴り響いた。
「……旗風、足元だ」
「あはっ、そこですね! 司令、恐れ入ります」
旗風はゆったりと一礼する。そして足元の惨めな虫けらに目をやると、
「うんっ、よぉーし!」
いつも通りの声を響かせて足を振り上げ、その脛を陽光に晒した。
ズドッ、と、島から同心円に波が立つ。誰もが揺れた。震えた。そして鈍い衝撃とともに島は崩落し、その色っぽいブーツに消えた敵は……。確認するまでもない。
「旗風、撃破しました。指示を」
くるりと振り向いて、旗風は元の佇まいに戻る。一度も崩すことのなかった、女学生の気品を漂わせて。
「……総員、撤退準備。旗風は残ってくれ」
少女達が去っていく。旗風は、足元を駆けていく僚艦の姿を見下ろし、見送ると、私の方にやってきた。
「司令、いかがいたしましたか?」
「是非直接、と思ってね。見つけたよ、元の姿に戻す技術を。自由に大きさを変えられるようになったんだ」
旗風は一度ぱちくりと目を瞬かせると、莞爾として、
「ありがとう存じます。旗風、嬉しいです!」
「帰ったら早速取り掛かろう」
旗風は力強く頷く。ぺこりと頭を下げる。
そしていたずらっぽく微笑む。
「その前に」
私を摘まみ上げると優しく胸に抱き、
「この前の続き、しましょうね」
軽くブーツを覗かせる。
彼女は、あはっと笑った。