……轟音、足音、話し声。
 それらが耳の奥底までを震わせ、僕の肩もわずかに震えた。
 街には人一人いない。いや、人はいた。けれど、普通の人間は一人もいなかった。
「ねえ本当にいるの―? 全然見つからないよ?」
 声が響く。
「逃げてくの見てたでしょ? いるはずよ」
 声が響く。
「さっきそこらへんで見かけたよ」
 声が響く。
 面白がるような少女の声が三つ広がった。僕を探しているのだ。
「さっきこのあたりでみかけたもの、いるわよ。それに……」
 声がだんだん近づいてくる。身を固くする。街のガソリンスタンド、その奥で固まっていた僕の体が、地響きでわずかに揺れるのが分かった。
 ふいにガソリンスタンドの天井が消える。
「ずっと隠れてても見つかっちゃうのよ。私たち、耳も鼻もいいからね」
 天を覆うように少女の顔がぬっと現れる。それもまともな大きさではない。優に5メートル以上は超えるその巨人の顔には、濡れ羽色の髪が揺れ、猫のものに似た耳がついていた。メイド服なのだろうか、頭上にはフリルのついた胸元が広がっている。
「よっと」
 彼女は僕に向けて手を伸ばす。つかまる訳にはいかない。するりとかわして脱兎のごとく逃げ出す。
「こら、待ちなさいって」
「どこから入ってきたんだろうねー」そう言って残りの二人ものそりと近づいてくる。
 どこから来たかなんて、僕の方が知りたいくらいだ。最初は間違いなく、街から岡の住宅街へ帰る途中だった。いつもなら林がちな道を抜ければ帰宅と相成ったはずだ。けれど、林は深まるばかりで、見慣れた道が山道へ、けもの道へと変わっていく。おかしいと思って引き返してみれば、そこは無人の町。「へんなのが入ってきたよ」という声が響き、見れば目前に巨大な猫娘。彼女たちは虫を見つけた猫のように追いかけてきて、僕はこうして無様に逃げ回っている。
 困惑する僕の背後に、猫娘の膝が降ろされた。膝立ちしている彼女の、タンクローリーのような脛。その間を通って逃げ出した。
「見つけたよ」
 瞬間、遠くでかすんでいた山のような一人の少女も、僕を追い動き出した。走って近寄ってくる。褐色の肌に、亜麻色の髪をしていて、やはりメイドのような恰好をしている。
「ちょっと、そんなに走って踏みつぶしたらどうするの!」
 栗色の少女が新たに現れて、褐色の娘を窘める。が、タイミングが悪い。目の前に、褐色の塊が踏み下ろされた。彼女の素足のようだ。立ち止まるついでに踏みつぶされかけた僕は、すでに涙目になっていた。
「どっち行ったのー?」
 褐色の彼女はのどかに言うが僕はここだ。君の足元だ。数十倍はある躯体に僕の姿など見えないのかもしれないが、気づかれずに踏み殺されるのはごめんだった。
「ちょうどその辺りだね」
「隠れちゃったかな?」
 長く大きな脚を折って、黒髪の少女がその場に座り込む。僕の目の前には大きな臀部が現れ、スカートにうっすら下着の形が浮き出ていた。もう少しで絶景が拝めそうだ。けれど、誘われるわけにはいかない。捕まれば何をされるか分かったものではないのだ。
「あ、見つけちゃった!」
 褐色娘が快活に言う。 
 黒髪の足の間から逃げようとする。すると、「無駄だよ」といってその場に座り込む。ずどんっと勢いよくお尻が降ってきて、僕の目前をふさいだ。ストッキングに包まれた太ももと股間で完全に退路がない。振り返ると、残りの二人も同様。互いに膝をくっつけて、太ももで三角形の檻を作る様に僕を囲んでいる。それぞれの胸が影を落として僕からはよく見えないが、僕を見下ろし笑っているのだろう。が、僕はとてもじゃないが笑えない。
 未練たらしく太ももをよじ登って逃げることを考えていると、栗色の少女が白い手袋に包まれた指で僕を摘み上げた。そのまま立ち上がる。すべすべとした指からふるい落とされないように、僕は必死にしがみついた。すると、
「もう終わりかい?」と、上空に四つ目の影が現れた。それらは三人をはるかに見下ろし、銀髪を大瀑布のように垂らしながらそう言ったのだ。びりびりと響くその声に、町全体が震えた。おそらくは一キロほどもあるだろうその巨体に、僕は思わず震える。
「うん、ミカゲ様。捕まえたよ」と栗色の少女がそれを”見上げて”言う。
 もう、逃げ場はないようだった。

 絹の手袋に包まれた手の上で、僕はなすすべもなく辺りを見回した。眼下には街が見えた。けれど四方は壁に囲まれ、洋室をなしている。頭上には、栗色と黒髪、そして褐色肌の猫娘が一人ずつ、向き合う形で僕を見下ろし、更にその上に、銀髪をした少女がまさに山のようにそびえて僕らを見下ろしていた。ミカゲと呼ばれた彼女が椅子に腰かけているのはわかった。けれど、仔細は三人の巨躯と霞に阻まれて、よく見えない。
 ふと影が差し、見ると褐色の娘がそのサファイアのような瞳でこちらを凝視していた。面白がるように瞬きもせず僕を見つめる。
 ……いくら美少女といえど、小窓のような目で見られると少し怖い。すこし怯えるそぶりを見せると、クスリと笑った。そして、ふーっと息を吹きかける。すべすべとした手袋の上を転がる僕を、愉快に眺めて笑った。
 そして、そのまま僕を押さえつけると、髪の毛を一本抜き、それで僕の腕を後ろ手に縛る。髪の毛一本、だけれどそれを僕は千切れない。
「スズ、アキ、ムギ、もう戻っていいよ」ミカゲが言う。二つの山が動き出し、彼女の方へ寄っていった。
「お疲れ様」と三人の頭を撫でる。
 そして、そのまま手をかざすと、ぼんやりと三人の体に光が差し、大巨人と同じスケールに膨らんでいった。山ほどもある少女四人が、僕の周りに聳え立つ。
「ミカゲ様、この子はどうするの?」スズと呼ばれた銀髪の少女が言う。体に、彼女の声が響く。
 少し悩んで、ミカゲは言った。
「じゃあ、私に貸してちょうだい」ミカゲがスズに両手を差し出す。スズが手を傾けると、埃のような僕は転がって、平原のような肌色の中に落ちていく。
「お話ししましょ」
 立ち上がった小さな虫に、ミカゲはにっこりと微笑む。


 ミカゲがどこの誰かは知らない。けれど、面妖な術を使うのは確かなようで、目の前に突然金の林檎を出して現したり、指先から炎を迸らせたりして大いに僕を驚かし、それを見てミカゲは楽しんでいるようだった。それほどの力があれば、飼い猫を人の形にしていたり、空間を歪めたりといったことも簡単だったろう。が、強大な力を持つせいか世間をきらい、目下人里離れた場所に住んでいるのだそうだ。根っからの探求者のようで、この能力で何かをしようというつもりはなく、ひたすら好きなことを研究している、とのことだった。もしかしたら、利用されるのが嫌で交わりを経っているのかもしれない。が、さすがに一人は寂しいので三人の猫とともに暮らしている。
 今日も色々と研究していたのだそうだ。現実のモデル化をしていたのだと、眼下のパノラマを指してミカゲは言う。まあ、縛られ掌に跪く自分には、何も見えなかったけれど。
「なぜか変に現実とつながってしまったらしい。ここはボクの落ち度だ。申し訳ない」
 そう言って銀髪を垂らし、頭を下げる。僕は抗議した。困るじゃないかと。
 困るか、困らせたね、とミカゲは笑う。
 だけどね、と彼女は続けた。
「けどね、よっぽどのことがない限り、こっちには来れないんだよ」
「……どういうこと?」
「帰らない方が良い人間じゃないと、あの門は通れないようにしておいたんだ。万一迷い込んでも、喜んでもらえるようにってね」
 不思議な考え方をする人のようだ。そんな彼女が、すこし眉をひそめてこういった。
 キミ、悪い人にでも巻き込まれてないかい? 彼女は気づかわし気に表情を陰らせた。掌の僕を、労わるように見下ろす。
「……」
 僕は蒼穹のように広がる彼女の顔に困惑した。なんでこんなに慈悲深い表情をするのだろう? 優しくされるのには慣れていなかった。
「僕は……」
 正直に言ったものか逡巡する。彼女の意図が読めない。
 けれど、それで全て見抜かれてしまったようだ。彼女は曖昧に微笑んで言う。
「もし嫌じゃ無ければ、だけど。ここで暮らしてもいい。ヒトの一人くらいどうにでもなるし、悪いようにはしないさ」
 僕は何も言わなかった。悪い魔女の甘言、とも限らなかったからだ。
 しかし、わずかに僕の目に期待が光るのを、彼女は見逃さなかった。キミはそれを望むかい? と再度聞く。
 彼女の見立ては全く正しかった。……暗くなるから言わないけれど、本当に僕は不幸で八方塞がりだったのだ。
 僕は再び、彼女を見上げる。その瞳は僕をジッと眼差していた。
 僅かに潤むその瞳は、あまりに純粋で、美しかった。
 彼女に他意があるようには思えない。
「いいの……?」おずおずと僕は尋ねる。
「もちろん」
 ミカゲは微笑んでうなずいた。じゃあ、といって僕を床に下ろし、手をかざしてみせる。
 体が戻っていく。頃合いを見て床に下ろされると、徐々に徐々に世界が小さくなっていき、遂には人間大に戻っていく。
 白黒茶色に亜麻色の四人が、僕を囲むように立っていた。
 こうしてみると、四人とも僕よりだいぶ背が低い。
 そのうえ、四人が19世紀のヨーロッパから切り抜いてきたような出で立ちをしている中で、僕の格好は少し異質だった。
 しかし、些事を気にかける性質ではないのだろう。彼女は寛大に僕とハグをして、言った。
「あらためて自己紹介をして、それで契約に代えよう。ボクはミカゲ。色々と研究をしている。まあ強いて言うなら、世捨て人、かな」
 スカートの端をつまみ、挨拶して見せる。
 涼しく揺れる銀髪が、黒いドレスに映えて輝いた。
 それはまったくの美少女であったから、僕は正面から直視する彼女のまなざしを眩しく思った。
 その美しさに負けたのか、呟くように僕は自分の名前を言い、深く、お辞儀をする。
 よろしく、と彼女は笑んで握手した。
 二つ、決めておこう。そう彼女は言った。
「帰りたくなってもボク達はキミを止めない」
 ボクは悪い魔女じゃないからね、とおどけるように言って見せる。
「逆にもし俗世から完全に離れたいなら、新しい名前をキミに与えよう。その時は言うと良い」
「わりかし、自由なんだね」
「自由だとも。そのかわり、僕たちも自由にさせてもらうから、怖くなったら逃げるんだね」
 クスクスと、意味ありげに彼女は付け加えた。
「契約はこれでおしまい。さて、次は家族の紹介だね」
ずっと彼女のそばに控えていた三人を、彼女は手を広げて示して見せる。
「右から、スズ、アキ、ムギ。僕の飼い猫だ」
 黒髪の、利発そうな少女、栗色の髪をした、快活な娘、そして先ほど僕を踏みかけた、栗色の少女がそれぞれ名指される。
「まあ先は長いし、ここであれこれ言わなくてもいいかな。もう僕たちは、家族なんだしね」
 どうも家族ということばがくすぐったくて、僕はやや赤面気味に頷く。
それに、一日にいろんなことがありすぎて、正直これ以上はパンクしてしまいそうだった。
「……」
 それにしても。
 僕は訝し気に三人を見る。
 先ほどからどうもスズたちとの距離が遠い気がする。
 三人はミカゲの後ろに隠れて、やや不安げにこちらを見ていた。
「どうしたんだい? 人見知りするキミたちじゃあないはずだけど」
 ミカゲも気づいたらしい。
 スズとアキが、少し顔を見合わせる。
 僕を見上げながらアキが言った。
「ミカゲ様、この子男の子だけど大丈夫?」
 ちょっと怖いんだけど、と付け加える。
 猫なので、どうも本能的に自分より大きい生き物には警戒してしまうらしかった。
 そのうえ、異物のように混入したこの男という生き物に、彼女たちには慣れていない。
 それは僕も同じだ。
 狼藉を働くつもりは毛頭ない。けれど、僕自身女性に囲まれるのはあまり慣れていなかった。立ち居振る舞いがまだわからない。
 それに、怖がられているということが少しショックでもあった。これではなおさら、身の置き所がない。
 お互いに、これではちょっと気まずいのだ。
 僕と三人を見比べてミカゲは少し唸った。
「じゃあこうしましょ」
 パチン、と指を鳴らしてミカゲが言った。
「……!」
 再び、体が縮んでいく。
「ちょっと!」
 慌てて僕は彼女に近づく。けれど、一歩踏み出すころには彼女たちのひざ丈辺りまで小さくされた。
 ミカゲがしゃがみ込んで、僕に聞く。
「慣れたら戻してあげるから、ね?」
 僕を見下ろして、けれど目を合わせて彼女は囁く。
 こう優しくされると、弱い。渋々頷いた。
 いい子ねと頭を撫でられる。気恥ずかしいけれど、慣れない優しさに悪い気はしなかった。それに、さっきも言ったように、ここに留まるも離れるも僕次第なのだ。
 もし本当にいやなら、そう言えばいい。そうしないのは、ひとえに僕の選択なのだ。
「これでいいかい?」
 スズとアキはようやく緊張を解いたようだった。
 僕に近づいて、確かめるように頷く。
「うん、大丈夫そうだね」
 ミカゲも安心したようだ。ぽん、と手を合わせて
「じゃあ、二人とも、ボクの片づけを手伝ってくれるかい?」
 仕舞に入る。
 アキはもちろん! と言ってミカゲの手を取った。
 ムギは、残された僕の手を取って、
「じゃあ私はこの子、お屋敷案内してあげるよ」
 とミカゲに伝える。
「そうだね。それがいい」
 じゃあいってらっしゃいねと、アキとスズがそれぞれ僕の頭を撫でた。
 そんな僕の様子を横で見ていたムギは、
「ふふふ、これじゃあ、ムギたちのペットみたいだね」
 その一言で、なんとなく僕の趨勢が決まったような気がした。