■6月18日


『ゴゴゴゴゴゴゴゴドッシャアアアアアアアアァァァァ…』

季節特有の長い雨は昨日の夜中で一旦上がり、一転して今日は朝から空が青く澄み切って白い雲がちらほらと。
正しく梅雨の中休み。夏はまだ少し遠く、暑すぎない爽やかな陽光と吹き抜ける風も心地良いある日曜日の昼下がり。
その平穏を見事にぶち壊すがごとく、その非日常的な大きな音、恐らく破壊音は、
くぐもりながらもしっかりと此処、即ち駅ビル内にある6階の本屋の中にまで伝わってきた。
それは結構遠くで起こった事件なのだろうが、与えてくる影響力たるやなかなかのものであるらしく、
すぐにあちこちからどよめきが上がり、あっという間に建物全体が浮足立つかのような異様な雰囲気に包まれた。
きっと周辺一帯どこもかしこも、等しくこんな状況に陥っていることだろう。
「……ああ……もしかして…」
そんな中、腕時計に目をやった俺は容易く事態を察することが出来てしまい、思わず苦い顔を作った。
気をつけようと思ってはいたのだが、何気なく本屋に寄ってしまうとついこうなってしまう。
後ろ髪を引かれるような思いを殺しつつ、買うか否か迷いながら
何だかんだでもう三分の一も読み進めてしまった新刊を元の棚へと戻すと、
小脇に抱えていた大きな包み、配達ピザ特大サイズの箱を三枚ほど重ねた様な形のそれを一瞥して暫し考える。
さて、どうしたものだろう。
本日の真の目的であるブツはこうして手に入っているわけだし、一刻も早く帰還すべきだろうか、
それともとりあえず状況を確認してみようか。
少しだけ迷ってからひとまず窓の方へ行ってみることにした。



駅前から向こうの住宅街に至るまで。
この町を一通り展望できる大きな窓には、既に黒山の人だかりが出来ており、
誰もが皆一様に駅から遠く離れて佇む少女を、その動向を、固唾を飲んで見守っていた。
いや…佇むと言うより『聳え立っている』と言った方が正しいかも知れない。
それでも外観はあくまでもただの少女であり、その出で立ちは初夏らしく爽やかだ。
フリルのあしらわれた淡い桜色のノースリーブタイプのシフォンブラウスに、
薄手で真っ白の五分袖のカーディガンを羽衣の様にふんわりと羽織り、
蝶をモチーフにした模様のあしらわれた淡い淡い青系紫色のフレアスカート、
足元には若干踵がある網上げ風の小洒落たサンダルは、
しかし、当人からすれば控えめであるそのヒールでも、多分二階建ての一軒家なんかよりもきっと高い。
それ程に少女は途方もない大きさをしていた。
そして、俺はアイツのことをよく知っていた。
いや、勿論この町に今のアイツを知らぬ者などいないのだが、
そうではなくて個人的に、アイツがこうなってしまう前から付き合いがあったのである。
小学校入学時前…確か幼稚園からの幼馴染みでたぶん所謂腐れ縁。
齢は数えで17歳、緩やかなウェーブのかかった光沢のある深めの亜麻色の髪に、色白で整った綺麗系の顔立ち、
やや目尻が吊り上っており、またその立ち格好や表情からも気が強そうな印象を受ける。と言うか実際強い。
しかも少々短気にして、相当意地っ張りで負けず嫌い。
「…やっぱり、か…」
ある程度想定していた通りの状況を、改めて確認して溜め息混じりに一人呟く。
ある意味アイツの大きさを最も雄弁に表すもの、市内で一番背の高い建物となる予定だった
完成間近のツイン高層マンションの片方が明らかに低くなっている。
おまけにそのてっぺんは不格好に吹き飛んでいて、その周辺からは煙が幾つも朦々と立ち上がっていた。
「何よ!あたしに指図しようって言うの!?そんな小さいくせに!!」
露骨に腹立たしげなその声は空気を裂いてここまでしっかりと聞こえてくる、
かなり分厚く丈夫な筈のガラスをピリピリと震わせて。
とは言えそれはこちらへと向けられた言葉ではない。
腕を組んで、やや見下すような双眸は、その足元を睨みつけていた。
「いい?あたしがその気になったらあんた達なんて簡単に蹴散らしちゃうんだから!…こんな風に——」
言いながらスカートの裾を摘みつつ足を高く持ち上げる。
結構ギリギリ、ここからはかろうじて見え…はしないか。
が、折角品のある大人しめの格好をしていると言うのに、何ともはしたなく台無しである。
「——ねっ!」
が、当のアイツは気づいていないのか、はたまた気にしていないのか、まるで意に介する様子も見せずに、
上層部が吹き飛んで膝下くらいの高さになったマンションの残り部分を、躊躇うことなく一気に踏み潰してしまう。
崩れ落ちて行くコンクリート壁、粉々に砕けてキラキラと輝くガラス片、爆ぜるように飛ぶ瓦礫、広がる土煙。
まるで映画のワンシーンだが、しかし視覚情報から遅れること数瞬、低く重い倒壊音と共に襲ってくる地鳴りが、
現実の出来事であることをこれでもかと言うくらいに全身を通じて知らしめてくる。
この威力からしても踏み下ろした足はマンションの土台までも貫通、粉砕して、
地盤にまで大きな陥没を作ったであろうことは想像に難くない。
「ふふん、どう?次はあんた達がこうなりたい?
 …それともいっそのこと本当にこんな町、壊滅させちゃおうかしら?」
少しだけ気を良くしたのか意地の悪い表情を浮かべてクスクスと笑うアイツ。
改めて注意深くその周囲を見れば、アイツを中央に置いて四方八方へと離れて行く人の群れが見える。
声や詳しい様子などこの距離では分かる筈もないが、きっと相当逼迫していることなのだろう。
それに、今のアイツの発言を耳にして、こちらでも人々が恐怖や動揺を増大させていくのを感じる。
何しろもしそんなことになれば、この辺り、当然このビルだってターゲットになるのだろうから。しかし、
(ったく…どうせ出来もしないクセに、またそんなことを…)
俺は大して驚きも焦りもしなかった。確かに純粋な大きさ、力と言う観点から言えば文句なしだ。
銃弾、砲弾、それにミサイルも、現存するあらゆる武器がアイツには通じない…
と言うかかすり傷一つ負わせることすら叶わないのは、もう既に実証されていることだったりする。
当然足止めも出来はしないだろう。勿論攻撃力面に関してだって申し分ない。
現に今だって、きっと最新技術の粋を集めた、最上級レベルの耐震性を誇るであろう高層建築物をあっという間に、
いとも簡単に瓦礫の山へと帰してしまったのだから。
そもそも別に特別な悪意など無くとも、アイツが気分に任せて好き勝手に歩き回るだけでも、
町は壊滅的な被害に見舞われるに違いない。
だが、それでも俺ははっきりと確信することができた、アイツはにそんなことは絶対出来ないと。
「………めんどくさい女(ヤツ)…」



そんな今のアイツにとって人間とは極めて矮小な存在であり、どうしても取るに足らないモノにしか思えないらしい。
だから、遥かに大きくて力のある自分の方が彼らに対して気を遣い、
顔色を窺わなければいけないなんて絶対におかしい、そうに違いない。
変にプライドが高い気質のせいなのか、アイツは実に分かりやすいそんな固定観念を以て、
無理に自身を縛りつけているようなところがあった。実際、こうなったばかりの頃には、
「何であたしが小さくて、弱くて、つまらない虫けらみたいなあんた達に合わせてあげなきゃいけないのよ。
 あたしの歩くところに居るのが悪いんだからね!」
なんて物騒なことを高らかに宣言して人々を震撼させたりもした。
ただ、実際のところアイツは余りにも大き過ぎる為に、足を下しても問題が生じないようなスペース自体、
そうそう存在しないというのもまた事実であり、その破壊には不可抗力も多分に含まれていたりするのだ。
しかし、その一方で、厄介なことだが実はアイツ当人としても、己の持つ絶対的な力に優越感を抱き、
心酔している一面が無いわけではなく、ちょっとした悪戯感覚でそれを行使して町を散々引っかき回したり、
それを見せつけたりするのが結構…と言うか大好きだったりする。
ただ、そのくせやりすぎてしまったり思わぬ被害が出してしまったりすると、すぐにこっそり落ち込んでしまう。
それに、それこそまるで口癖のように『人間なんて…!』などと散々こき下ろし、
見下すような態度ばかりとって見せるのに、その実命を奪おうとするような真似をしたことは、ただの一度とて無い。
それでも持前の強情さから、いつでも表向きは刺々しく、攻撃的で高慢な態度は崩さないものだから、
アイツのことをその巨躯や力だけでなく、心の面においてまでも
完全に恐ろしい化物だと見なす人間も決して少なくはない。
そんな現状を俺は少し口惜しく、残念に思っている。
と言っても、皆に分かって欲しいなんてとてもとても言えっこない。
どう考えてもアイツの方が悪い。不器用…と言うより、タダのガキなのである、要するに。



あれはいつのことだっただろうか。
以前アイツが五階建て程の集合住宅を踏み潰そうとしたことがあった。
いきさつについてはよく分からない。
どうせアイツの独断とかワガママとか勝手な思いつきとか、
そういったロクなものじゃなかったことだけは、おそらく間違いない。
とにかく、何の前置きも脈絡もなくアイツはその建物を破壊することを一方的に言い放ったのだ。
当然の如く、そこに住んでいる人々は元より、広くその周囲一帯を巻き込んで大パニック。
避難のために足元に溢れ返る小さな人間達を、アイツは悠然と見下ろしながら、
まるでおちょくるように爪先で建物をつんつくと小突いたり、自分の一挙手一投足にいちいち動揺し、
悲鳴を上げて逃げ惑う人々を、しゃがみこんで楽しげな表情で観察したりしていた。
そうして、誰も見当たらなくなったのを確認すると、いよいよアイツは高々と足を掲げた。
アイツからすればその団地の高さはせいぜい踝かそこらであり、
普通に歩くような感覚で足を乗せるだけでも容易く破壊できてしまえたことだろう。
と言うのに、わざわざそんな風にしたのは、ひとえに何かと力を誇示したがる性分ゆえだ。
最早その建物の命運は尽きたも同然、一分と待たずに粉微塵に砕けて消え去ってしまうに違いない。
アイツの暴挙に居合わせた誰もが例外なくそう考えていた。
ところが足を振り上げ、狙いを定めるように一度ぴたりと動きを止めたアイツの表情が突如として、
優越から戸惑い、そして焦燥へと変化し、次の瞬間その巨体がバランスを崩したのか大きくぐらりと傾いた。
遥か上空でスカートを花の様に大きく広げはためかせながら、柔らかそうな丸みを帯びた途方も無く巨大な、
そして当然それに相応しい質量を備えたアイツの尻が落ちてきて、
近くに並立する別の四棟の団地にまとめてのしかかる。
勿論その凄まじい圧力に耐え切れず、次の瞬間にはガラスと言うガラス全てが割れ飛び、
建物全体にひしゃげる様にあっという間に亀裂が走ったかと思うと、
次の瞬間にはそれらはスカートの下へと呑み込まれて消滅してしまっていた。壮大な尻もち。
それから遅れること数瞬、着いた右手は滑りながら幾つもの民家を無造作に次々と薙ぎ払い、
一方の左手は公園へと突っ込んで、掌でコンクリート製のヘリごと砂場をふっ飛ばして、
その指先でブランコを引っこ抜き、滑り台をひん曲げて、そこに大きな手形のクレーターを作る。
上がっていた足はターゲットの団地から大きく外れ、近所のスーパーマーケットへと振り下ろされ、
そのついでに隣接する駐車場の一部も巨大な皮靴の直撃を被り、
何台かの車は瞬く間に砕けたアスファルトの下へと姿を消した。
かろうじて直撃を免れたもの達も、動作の煽りを受けてくるくると軽く弾き飛ばされ、跳ね上がり、
派手な音を立ててあちらにこちらに衝突する。
そうして町の方々で次々と起こる倒壊と轟音はどれも正しく天変地異のようだった。
が、それでもアイツが全体重を乗せて、勢い良く打ちつけた尻もちによる凄まじい衝撃はそれら全てを凌駕し、
霞ませ、飲み込んで、町全体を激しく震わせた。
当然に懸命なる避難の最中だった住民達は誰ひとりとして立っていることは叶わず、
あちこちで悲鳴をあげて屈み込み、両手をついてただただそれをじっと堪えることしか出来ない。
そうして暫く続いていた重々しい地鳴と揺れがやっと収まると、今度は一転して痛いほどの静寂が辺りに訪れた。
人々は恐る恐ると言った感じに顔を上げ、皆同じくにそちらの方を見詰める。
即ち震源地、たとえああして地面に腰を下していたとしても、
町の何処からでも目視することが可能な、巨大なアイツの小さく歪んだその表情と、次なる行動を。
「………な、何よ…!?違うわよ!…こ、こんなおんぼろで小汚い団地なんて、
 踏み潰したらあたしの靴が汚れちゃうでしょ。…そ、そうよ…だから止めただけよ!何か文句あるわけ!?」
そんな数多の視線を感じたのだろうか。豪快に舞い上げた粉塵で埃だらけになって、スカートも派手にめくり上がり、滑稽と言うか無様と言うか、何とも情けない格好のままで、
それでもアイツは呆然と見上げる人々をキッと睨み付けると、大声で凄んで見せた。
その剣幕と迫力に気圧されて、異を唱える勇者は流石にいなかったが、
その時のアイツが大いに慌てふためいていたのが誰の目から見ても明白だったことは言うまでもない。
「………ふ、ふん…もういいわよ!…興、醒めちゃったし…」
それから、アイツは頬を赤らめつつ、少しよろめきながら立ち上がって瓦礫を払い落とし、服を直すと、そっぽを向いて急に大人しくなった。結果その団地は、一度はターゲットに選ばれたにもかかわらず奇跡的に破壊を免れたのだ。
…周囲の被害は惨憺たるものだったが。
さて、実に異例で不可解なその事件、
『考えもせずに足を上げすぎてバランスを崩して転び、それが恥ずかしくて誤魔化したのだろう』
と言うのが多くの人々の間での有力な見解だったが、実は事の真相は違う。
今にも足を下ろそうとしたその時、一人の女が建物へと駆け込んだことにアイツは気付いたのだ。
昔からのよしみやら何やらで好意的見ているわけではない。
その時、どうにかアイツを踏み止まらせようと、人々の流れに逆らって現場へと向かっていた為に、
比較的近くにて偶然俺もそれを目撃したのだ。
事実、その後アイツはまるでその建物になんかもう全然興味が無いと言わんばかりの素っ気無い態度を取りながらも、
なかなかその場を離れようとはせず、やがて女が赤ん坊を抱いて出てくるのを確認すると、
小さな溜息とともに本当に申し訳なさそうな表情を密かに作っていた。

「何なら俺が代わりに謝ってやってもいいぞ…?」
だからこそ大人の俺が察して折角そう提言してやったというのに、
「っ!!」
それを聞いたアイツは、地面ごと問答無用に俺を目線の高さへ浚い上げて、
手が届きそうなくらいに顔を近づけてくると、
「ななな、何よ…何で私が…!」
声を押し殺して反論しつつ、物凄い目をして睨みつけてきた。
「…い、いや…まぁ…お前がいいなら別にいいんだけど…」
無理強いする積もりはない。むしろ出来るはずもない。
「………」
「………」
互いに暫く無言。恐ろしい。雰囲気がどうのとかそう言うことではなく、
この沈黙の中ですぐ足下よりはっきりと耳に届いてくるひび割れのような音が。
「………わ、悪い。俺が悪かったよ。お前の気持ちは分かった、分かったから。
 とりあえず落ち着けって…。それから、とにかく下に降ろしてもらえないか?」
俺は慌ててアイツを宥める。一緒に鷲掴みにされ抉り取られて持ち上げられたアスファルト、
即ち足場がアイツの握力に耐えかねて悲鳴を上げているのだ。
怒りからだろうか、恐らく無意識の内に力が入っていると思われる。
そう、アイツとて幾らなんでも本気で俺を握りつぶそうとは考えているわけではない、たぶん。
そんなことはこれまでに一度も無かったし、何よりもし本気だったら、もうとっくにそうなっている筈だから。
その点では俺はアイツを信用していた。が、はっきり言って全く楽観はできない。
勢い余ってついうっかり、なんてことは普通にありそうだし。
「お、おーい?」
「………」
全く呼びかけに応えないアイツ。
それどころかいつの間にかその視線は俺から外れており、
しかし相変わらず険しい表情のままで虚空をじっと睨みつけている。
それほど俺の申し出がと癪に障ったのだろうか。確かに我ながらやや偉そうだったことは認めるが。
「………」
相変わらず黙したままのアイツ。
「…も、もしもーし?聞こえてますかぁ?」
冷や汗を一杯かきながら、一転して控え目な少し震えた声で、か弱い小動物っぽさをアピールしつつ呼び掛ける俺。
情けなくも最早へっぴり腰、完全に下手一択だ、今だけ。
「………」
しかし尚もアイツは完全無視。まずい。もしかしたら本当に駄目かも知れない。
と、俺の中で一瞬覚悟が決まりかかったその時、不意にアイツの射るような視線が、再び俺の方にギンと向けられた。
釣り上がった目尻、真一文字に結ばれた唇、その凛然とした表情からは、
何か強い決意が秘められたような、そんな緊迫した空気がひしひしと伝わってくる。
真剣な顔つきを崩さぬまま、いよいよアイツが何かを言おうとすっと息を吸い込む気配を察し、
思わず全身を硬直させる俺。
「………」
が、予想に反してアイツは何も言わない。
「……な、何だよ…?」
構えていたのに何だか肩透かしを食らったような気分で、少しだけ気が楽になり続きを促してみる。
と、その途端にアイツの表情は想定外の変化を見せた。
「……………え、えと………その………だ、だから!…だから…ね…」
どう見ても困り顔。一瞬だけ怒ったように眉を吊り上げて声を大きく荒げたりするのだが、
すぐにそれは勢いを失い、弱々しくなってしまう。
「………あの…や、やっぱり……お願い…してもいい…?」
そうしてアイツは意を決したように口を開いたわりに、
散々視線を泳がせ、おずおず、もじもじ、そわそわした挙げ句に、
やっとのことでおおよそ巨躯にはそぐわない小さな小さな声でそう頼んできたのだった。

ところでこの母親、なかなかどうして大きな肝っ玉と寛大な気質を併せ持つ大した人格者で、
俺を通してのアイツの謝罪を聞くと、少し離れて佇むアイツの方を見上げて
分かったという具合に微笑み返してやっていた。
アイツはどこかあさっての方を見遣りながら前髪をちょいちょいと弄りつつ、
それでも気になるのかチラチラとこちらの様子をうかがっていて、絶妙のタイミングで目が合ってしまったらしく、
バツが悪そうにすぐにそっぽを向いてしまった。
が、その目は本当に安心したようであり、嬉しそうでもあり、そして微かに揺れていたようにも思われた。
母親はその様子を少しおかしそうに見詰めていたが、やがて俺の方に向き直り、再び笑みを浮かべた。
外観は決して豪胆だとか屈強だとかいう感じではない。
その顔立ちは若々しく、まだ少女のような部分をどこか残している。
けれどもその内には一本芯の通ったしなやかな強さと、大きな優しさを有していることを
その瞳が印象的なそんな素敵な女性だった。
「あなた、あの子とお友達なの?」
「ええ、まぁ…」
曖昧に答える俺。実際アイツと俺の関係って何なのだろう。
「照れ屋さんなのね、あの子。それとたぶん寂しがり屋さん。だから…あなたがしっかり支えてあげてね。
 それと、あの子に伝えておいて頂戴。気持ちは分からないでもないけれど、もう少しだけ慎重になった方がいいわ。
 軽率な行動を取って結局傷つき悲しむのは優しいあなた自身なんだからって」
そんなことをアイツに伝えたら間違いなく、絶対に、確実に怒られるのは目に見えていたが、
これほど多大な迷惑を掛けてしまったにも関わらず許してくれた人の言葉であるわけだし、
覚悟を決めてそのまま伝えたところ、意外にもアイツはいつになく殊勝な態度で素直に聞き入れ、
黙って微かに頷いただけだった。
そして、その一件以来、アイツは悪戯に力を揮うことを慎むようになり、
人々の声にもある程度耳を傾け、移動をする際にも大通りを選んでなるべくそっと足を運んだり、
また、以前に自らが通って作った『道』がある場合には極力それを辿る様になったりと、
大分大人しくなった…筈だったのだが。



不意に周囲から大きなどよめきが上がり我に帰ると、
その時ちょうどアイツはすらり通った華奢で一見白魚の様な、
しかし実際はカジキでも遠く及ばないであろう指先で、大型トラックを包み込み、
今にも叩きつけるべく高々と振り上げているところだった。
「ほらほら、分かったらさっさと逃げなさいよっ!」
その瞳は少し意地悪く、嬉々として何だかキラキラ輝いているようで、どう見てもいじめっ子といった様相だ。
ところが、アイツはそこでふと何かに気付いたような素振りを見せると、
それをゆっくりと目の前まで下してきて覗き込んだ。
それから神妙な面持ちで少しの間それをまじまじと見詰めた後、
無事に残っている方の高層マンションの上にやや乱暴に置いたのだった。
一体何事だろう?などと考えるまでもない。
大方停車しているトラックが目についたものだから、
敵視する足元のターゲットに投げつけて脅してでもやろうと考えて、勢いで掴み上げたのだろう。
ところが、一応念のためにと中を確認したところ、
予想に反して運転手でも乗っていたからやっぱり止めたってところか。
余りにも分りやすすぎて思わず苦笑してしまう。
それでもその脅しだけで十分強力だったらしく、
「ふん、最初からそうやって大人しく媚びていればよかったのよ!」
分かれば良い言わんばかりの顔で偉そうに小さく鼻を鳴らしてそう言い放つアイツ。
どうやらとりあえず事態は沈静化したらしい。が、その表情あまり晴れていない。
まだ苛つきが治まっていない模様。それも当然と言えば当然か。
何しろアイツを苛立たせている根源的な原因はたぶん此処にいる俺なのだから。
そろそろ…と言うかむしろ可及的速やかに戻るべき、と事態の深刻さを再認識する。

アイツの所へ帰り着いた俺は、迷わず例のマンションの残った片割れの屋上へと駆け上った。
それでも腿の中程辺りにしか達しないのだが、状況が状況だけに少しでもアイツに近づこうと考えたわけだ。
ちなみに走っている間にもアイツの方からは大きな衝撃音だとか、
小刻みな地揺れなんかが伝わってきたりしたわけで。否が応にもどんどん不安は募っていく。
そうして逸る気持ちを持て余しながらやっと屋上に飛び出す。
と、すぐ目に入ったのは意外にも薄汚れた銀色の壁だった。
「あ………?……………あぁ…」
思わず言葉を失ってしまってから、それが横転したトラックだと気付くのに要すること数秒。
改めて考えると、こんな所にこんなものがあるっていうのはかなりシュールだ。
相変わらず事もなげにえらいことをやってくれる。
呆れながらもそれを迂回して進めば、遠目に眺めていたアイツの姿が今度こそ目の前現れた、視界一杯に。
やや興奮状態と言うこともあって心配だったのだが、
アイツは俺の呼びかけにすぐに気付いて、こちらへと視線を落としてきた。
「おいおい、怪獣ごっこもほどほどにしとけよ?」
「べ、別にやってないわよ、そんなこと!」
「じゃあ何でこんなことになっているんだよ…」
流石にアイツの視線の高さには遠く及ばないものの、此処に上ったことで周囲の状況は一目で理解することが出来た。
アイツが見下ろしていたであろうと思しきその場所は、
今や長距離広範囲に渡って深く地面が抉れており、黒い土が剥き出しになっている。
勿論、それがアイツの仕業であることは言わずもがな、だ。
何しろその幅はアイツのサンダルのそれと丁度同じくらいだし。
更によく見れば、赤色灯つき白黒の車がその窪みの中に圧縮されて埋没していたり、
或いは反対に土壌の様に盛り上った所にひっくり返って乗り上げていたり、
果ては大量の土砂や瓦礫諸共に吹き飛ばされて、向こうのほうで多大な二次災害を巻き起こしているのが分かる。
あくまでもこの攻撃のターゲットは警官隊、延いては彼らが退避して残された警察車両達だったのだろうが、
残念ながらアイツの足はそこまで小さくないし、器用でもない。
大きくはみ出して…と言うか周囲のものを完全に無視して、
道路とか、電柱とか、街路樹とか、塀とか、建物とか、小さな川とか、そこに掛っていた橋とか、空地とか…
要するにその辺りの町並みごと一蹴したと言うわけだ。
「そ、それは…!……その…ここに居たら…あたしのせいで洗濯物が乾かないとか文句言われて…。
 それで…しゃがんでみたりもしたんだけど…やっぱり邪魔だからどっかいけって…。
 そんなに言うんだったら、こんなマンションだって無きゃ良いじゃないって勢いで壊しちゃって。
 …でも…そしたら警官隊まで来て、もっと大袈裟に騒ぎ立てるから、あたしもますますイライラしちゃって…」
むくれた様子で、少しだけ言葉に詰まりながらもその尋常ではない被害の次第を説明するアイツ。
「………へぇ…」
二の句が続かない俺。
つまり『ついカッとなってやった』ってことだろ?………洒落になってないっての…。
とは思いつつも一方で俺はほんの少しだけほっとしてもいた。
一応、あくまでも一応であるが、のっけから相手の主張を無碍にあしらうことはせず、
一度はアイツなりに譲歩しようとしたと言うことなのだから。
「だ、大体!あんたがいつまで経っても全然帰ってこないからいけないのよ!」
…まぁ、そうなんだろうな。口には出すことなく心の中だけで思う。
どうせ、なかなか戻らない俺にやきもきしてムシの居所が悪かったってところなのだろう。
そんな時にタイミング悪く邪魔扱いされたものだから…。事のいきさつを察する。
しかしである、一度はそれに素直に耳を貸して座ってやったくらいなのだから、
「ああ…確かにそれは悪かった…。
 けどさ…考えてみたら別にちょっと移動してあげれば、それで済んだ話なんじゃないか?」
「…え?………だ…だって…それは………」
「それは…?」
「………その……あんたが…『ここで待ってろ』って言うから…」
「………」
「な、何よ!その顔!?」
ああ、言った。確かに言ったとも。
駅前まで来られたりしたら確実に大変なことになるだろうと考えたから。
…いや、現状も十分大変なんだけど。けど、だからとて一歩たりとも此処を動くなってことはない。
変なところで従順、そしてちょっとだけお馬鹿さん。
だったらいっそ待たせず帰してしまえば良かったか。
いや、それについては聞き入れさせる自信は無い。
大体今日だって別に着いて来て欲しいと頼んだわけではないのだから。
「べ、別にあんたの買い物なんかに付き合ってあげたいわけじゃないけどね、
 折角歩いて行けるのに交通費がかかるなんて勿体無いでしょ!?だから送ってあげるの。
 それだけのことなんだからねっ!」
アイツの言い分である。それでも負けず嫌いでやや単純なその性格をどうにか上手いこと刺激し、利用すれば、
追い返すことも出来ないことは無いと思うのだが、正直その後が物凄く怖い。
自分の身の安全も、この町の存亡に関しても。
八つ当たりで町が消失してしまうとか、普通にありそうだから本当に恐ろしいことこの上ない。
「とにかくすまなかった、ごめん、この通りだ」
何にしても少なからず責任は感じているので、ここは素直に反省して、極力しおらしい態度で頭を下げて見せる。
「………もういいわよ…ちゃんと帰ってきてくれたんだし。………じ、じゃなくて!
 このあたしが全然対等じゃない小さなあんたなんかに本気で怒ったりするとでも思ってるの!?」
明らかにご立腹だった様に見えたけど。
とは言え俺とて折角鎮火しかかったお怒りにガソリンをぶっかけるような発言をするほど馬鹿ではない。
慎み弁えるに決まっている。が、余りしつこく詫びると、
それはそれでアイツの機嫌は損ねることになるであろうことを、長い付き合いから体得している俺は、
もう一度だけ軽く詫びた上で、話題を変えることにする。確かに頼んで来て貰ったわけではなかったが、
今に限って言えばこのシチュエーションはわりと好都合で、ありがいものだったりするのだ。
「ところでさ…ちょっと屈んでみてくれよ。…ああ、いや、出来れば膝立ちがいいかな」
「…?何よ、いきなり?…しかも何か随分と偉そうじゃない…チビのくせに」
「………どうか、膝立ちになってはいただけないでしょうか?」
「………わかったわよ」
結局応じてくれるのだから最初から素直にそうすれば良いものを。
そう心の中で呟きつつも、もう慣れっこになっているそのお約束な反応に密かに笑みを零す俺。
アイツは下に敷かない様にと、軽く両手で裾を摘みつつ静かに膝を折り始める。
それに伴って視界全体に広がっていた青紫色のスカートに包まれた大腿部がゆっくりと下方へと沈んで行き、
代わりに今度は柔らかいピンク色が眼前を現れてくる。
と、同時に巨躯の起こす気流を受けて俺の服や前髪がふわふわそよぎ出す。
間近にて目の当たりにするアイツの所作は、こんな何気ないもの一つをとっても、
そして、それが俺に対する気遣いに満ち、極力穏やかに動くよう心掛けてくれていたとしても、
実に壮大なものであり何度見ても圧倒されてしまう。

それにしても、今日のこの色合いが淡く清純な雰囲気を持つ装いは、
本来のコイツの趣味からはやや外れている気がする。
本当はもう少しゴシック調の、飾り気の強いものを好む傾向があった筈なのだが。
かつて、まだアイツが俺よりも小さく、か弱い…ことは断じてないが、
それでもまぁ普通の少女であったった頃、荷物持ちとして買い物に強制連行されたことを思い出す。
何気なく交わしたやり取り、あれは両手に荷物を抱えてげんなりうっへりな俺が、
あるマネキンの前で何気なく足を止めて、それを見るともなしに眺めていた時のことだ。
「…ね、ねぇ…?あんたって、こういうのが好きなの?」
「ん?ああ、まぁ…そう……………………なのかな?」
「な、何よ、それ!はっきりしないわね」
「いや、実際あんまりよく分からないんだわ。…でもま、よさげだなぁ…とは思う」
「ふ、ふーん…そっか…そうなんだ……」
「何だ?それがどうかしたのか?」
「べ、別に何でもないわよ」
「…お前はこういうのは着ないのか?」
「え?あ、あたし?…イヤよ、そんな地味な服。全然好みじゃないもん!」
「そっか。そりゃ残念。結構似合いそうなのにな…」
「……ぇ…?」
「っと、もう充分だろ?そろそろ帰ろうぜ。これ以上は持てねーよ」
「………え、ええ………そうね………………………」
「…おーい、何やってんだ?置いてくぞ?」
「え?あ!ちょっと待ってよっ!」
いまいち記憶は曖昧なところだが大筋はこれで間違っていない筈。それなのに、今のコイツの格好ときたら、
あの時のマネキンのコーディネートと色調や雰囲気が非常に酷似しているように思う。
はてさて一体どういう風の吹き回しなのやら。
とは言え、元々器量、センス共に良しと言うこともあって見事に着こなされており、文句無し似合っている。
その上普段とのギャップが相乗効果となって魅力を倍加させているし、
何よりその出で立ちが俺の好みそのものであるときたらもう、
「流石に反則だろ、その可愛さは…」
離れて見た全身像には思わず嘆息混じりに小さく呟いて、暫しの間見惚れてしまったほどだ。
もしかするとみっともなく顔が緩んでいたかも。
これで大きさが普通だったならば…などと贅沢は言わないが、
せめてその外見に似合った大人しい振る舞いをしてくれればと本当に心から思う。
勿論思うだけで口には出来ない。きっと怒るに違いないのだし。

と、不意に遥か下の方から重々しい地響きがあって、
それに煽られてバランスを崩しそうになり、少しだけ足に力を込める。
どうやら言葉通りに膝をついてくれたらしい。
改めて真っ直ぐ前に注意を向ければ、大体目算通りの部位が俺の眼前に降りてきている。
「ち、ちょっと!?何ジロジロ見てるのよっ」
と同時に、少しだけ上ずって焦燥を孕んだ感じの声が降ってきた。
精一杯視線を持ち上げれば、きっと睨みつけるようにこちらを見下ろしてくる視線とぶつかる。
巨躯によって陽の光を遮り薄い影を帯びたその顔は、それでも赤らんでいるのが十分に分かり、
同時に何を言わんとしているのかを容易に察する。甚だ言いがかり。
「し、仕方無いだろ、丁度目の前にあるんだから」
胸の辺りが。ちなみに故意にそれを見まいとする場合、それこそ回れ右をするか、
真下でも向くか、或いは目を閉じるか、それくらいのことをしなければ到底視界から追い出すことは出来ないだろう。
「…ぅー………」
如何にも納得いかないと言いたげな顔つきを見せながらも訊いてくるアイツ。
「…で、何なのよ?」
「あー、うん…そうだな…」
高さについては大体見当通りだが、まだまだ距離は遠い。
「じゃあ今度はもう少し…近づいてくれないか?こう…胸を突き出すような感じで…」
手を伸ばしながら更に注文をつける。
「……………へ?」
一瞬きょとんとするアイツ、しかしすぐにその顔が今度は目に見えて真っ赤になった。
「えええええええっ!?…こっ!ここここここ、この変態っ!馬鹿っ!一体何するつもりなのよ!
 ……………あぁっ!…ま…まま…まさか!こここ、こんなところで、
 あた…あたしを押し倒して、あんなことやこんなことを…!?」
そんな町中に響き渡るような大声量で、恥ずかしいことを叫ばないでもらいたいものだ。
「あ…!あっほか、お前はっ!何考えてんだよ!
 てか…んなこと出来るわけ…じゃなかった………するわけねぇだろ!」
こちらまで顔が熱くなってきて、思わず大声で言い返す。
「………ほら!」
それから持っていた紙の包みを乱暴に引きはがして、大皿のような楕円形のそれを両手で持って掲げて見せた。
「ん…?………何よ、それ?」
言葉と同時に今よりも体勢を下げ、顔をぐぐっと近付けて覗き込んでくるアイツ。
切れ長の、澄んだ深い栗色の大きな瞳が、俺ごとそれを映しこんでパチパチと二回瞬きをする。
これ程の大きさでもやはり一目では分からないか。
少なからず落胆しながらもアイツに説明する。
「…ブローチだよ。っても…こんな馬鹿でっかいモンでも、
 お前からすりゃビーズか何かみたいなもんだろうし…当然自分では着けられないだろ…」
つまるところはっきり言ってしまえば、アイツからすれば着けていてもいなくても何ら変わらない、
無意味なものだということにもなってしまうのだが。
「え…?ぁ…これを…あたし…に…?」
しかし、それを言った途端アイツの瞳が一杯に見開かれる。
「………じゃあ…今日の買い物って…!?」
「まぁ…な…ちょっと過ぎちまったけど誕生日おめでとう………ってこった」
ここでしっかり『おめでとう』と言いきれない自分。
些か情けないとは思うが、そこはそれ、こんな風に間近で見詰められたりしたら、
どうしても気圧されてしまうと言うか、何と言うか。
断じて恥ずかしかったり照れ臭かったりしているわけではない、たぶん。
すると、アイツは少しだけ申し訳なさそうな顔を作って、ややおずおずと尋ねてくる。
「……………じ、じゃあ…もしかして…遅かったのも…これを選んでいたから…なの…?」
勿論違う。と言うか普通に考えれば分かるだろう、
こんなお化けサイズのブローチが普通に幾つも店頭に並んでいるわけがない。特注に決まっている。
以前からアイツの誕生日の為にと頼んでおいたモノが、漸く完成したとの連絡が入ったので受け取りに行ったのだ。
余談だが店のおじさんは本当によくやってくれたと思う。
誕生日に間に合わなかったのは誤算だし確かに残念だったが、それでも
『この予算で可能な限り大きくて、洒落ていて、作りのしっかりしたブローチをお願いします』
あちこちの店で尽く門前払いを食らった、恐らく前代未聞であろうこの依頼を請け負って、
見事に形にしてくれたのだから。
「………あー…まぁ…な。………そんなところだ…」
至極曖昧に答える俺。確かに、
『(誕生日よりも)遅れてしまったのは、(プレゼントに)これ(無茶な特注のブローチ)を選んだから』
うん、間違ってはいない。…間違っていないよな…きっと。
「…そっか………そうだったんだ…」
しかしアイツはと言えば俺のその言葉をそのまま鵜呑みにしたらしく、
小さくそう呟いて嬉しそうな様子で軽く俯くばかり。
つい先ほどまでありありと見えていた攻撃的不機嫌オーラは、いつの間にかすっかり消え失せている。
そんなアイツの様子を見ていると、たぶん嘘は吐いていない筈なのに何だか罪悪感が湧いてくる。
とは言え『遅れたのはタダの立ち読みでした!』などと悪びれもせずに言おうものなら、
大変なことになるのは目に見えている。
つまりこれは話を円滑に進める為の方便、必要悪、いや正当防衛かも。
「ほ、ほら、分かったんなら、つけてやるからもうちょっと近づいてくれよ」
「……………うん…」
今度は一つこくんと頷くだけのとても素直な反応。
と同時に再び顔は遠ざかり、代わりに空を覆い尽くしてアイツの半身が遙か斜め上方向からどんどんと迫ってくる。
かなりの迫力と圧迫感。
一歩間違えれば建物の上層部もろとも潰され兼ねないようなそんな状況に思わず身構える俺。
「こ、こう?」
アイツもまた緊張しているのだろう。声からもそのことが分かる。
「ああ、そうだな。もうちょっと…!」
「え…大丈夫なの…?な、何か…当たっているみたい…なんだけど…」
言葉と同時にすぐ背後から金属が歪むような鈍い音が聞こえてきて、慌てて顧みれば
トラックの数倍あるであろう巨大な膨らみがずっしりとのしかかり、重そうに車体を軋ませている。
そう言えば確認していないが運転手は無事に避難したのだろうか。
いや、確かにその懸念も勿論だが、何よりトラックが圧縮されて鉄板になってしまった暁には、
当然ながら自分もまた同じ運命を辿ることになるに違い。
それでも結構柔らかいわけであるし、一瞬何だか助かりそうな気がするもの、
あくまでもそんなものは錯覚でしかなく、現実的に重さと大きさを考えれば、当り前に助かる要素は無い。
とにかくこれはまずい、直ちに制止し一旦上体を退く様に告げるべく息を吸い込む。
が、その時、まるでオーロラの様な真っ白のカーディガン、その端っこと思しき部分が垂れ下がってきて、
伸ばしていた俺の手をふんわりと撫でる。
「あ…」
出かかった言葉を咄嗟に飲み込む俺。やっと届いた。
「…ね、ねぇ…?」
返事が無かったことに不安を感じたのだろうか、再びアイツが声を上げる。
顔が見えずともはっきりとうろたえている表情が目に浮かぶ。
「あ、ああ…大丈夫だー!」
とにかく安心させるべく大声でそう応えてから、
「大丈夫だから、少しだけそのままじっとしていてくれ!」
手触りの心地良い純白のそれを思いっきり引っ張って手繰り寄せ、
しがみつく様にしてブローチを取り付ける作業にかかる。
それでも、たぶんアイツは重さなど微塵も感じていないのだろうな。
現に今俺はこうして全体重をかけて引っ張っていると言うのに、
カーディガンの弛みが気持ち程度張るばかりで、アイツ自体に至っては何の反応も見せはしない。
アイツにとって自分が、そして人と言うものがどのような存在であるかをまざまざと見せつけられている気分になる。
さながら服にたかるアリ、いやそれ以下かも知れない。
「…か、考えたら負け…かな…」
と、その時ふと頭上に広がるアイツの上半身が微かに震えていることに気付く。
この体勢はきついのだろうか。とりあえず手を動かすことだけに専念することにしよう。
そうして黙々と悪戦苦闘すること、一分と半程。
やっとのことで、銃刀法違反で捕まっても文句が言えない槍の如きピンを、
カーディガンに突き通して、渾身の力を込めて留め具に噛ませると、目的が完遂した旨を伝えてやる。
「よし、もういいぞー!」
「…え?う、うん、じゃあもう体起こすからね?」
案の定と言うべきか、アイツは俺がしがみついたのも、手を放したのもまるで分らなかったようだった、やれやれ。
声と同時にゆっくりと遠ざかって行く巨躯。やはり、姿勢に無理があったのだろうか。
アイツがぺたりと座り込んだことで生まれた下からの揺れと同時に、
上からは生暖かい空気の塊が降ってきて俺の頭頂部辺りを撫で、アイツが一つ大きく息をついたのが分かる。

それからアイツはカーディガンの前裾を摘むとしげしげとそれを覗き込んだ。
俺もまた同様に遠目にブローチとアイツの顔を交互に眺めていたわけだが、何だかどんどん切なくなってくる。
やはりこうして距離が開くと小さすぎて殆ど点にしか見えないわけで、
これはもう似合っている、いないのレベルではない。
俺の手の中ではあんなに大きかったのにな…。
しかしこれでも今の俺には一杯一杯で。
これ以上のものは持ち運ぶのは大変だろうし、着けてやるのだって難しくなる、勿論経済面で考えても然りなのだ。
「…白くて…小さな…花…?」
ふいにぽつりと呟くアイツ。
「…!」
正直言ってかなり驚く。
確かにその巨大な体とは不似合いではないかというほどに視覚や聴覚が鋭く、繊細であることは知っていた。
知ってはいたが、しかし、かまさかこれほどのものとは。
若干報われたような、ほっとしたような気分になる。
「そう、ジャスミンだ」
デザインについては、それはもう迷いに迷った。
十字架やハート形といった感じの単純で分かり易いものが良いのではないかとか、
或いはもっと派手なもの、例えば花にしたって、バラやユリの様な艶やかなものの方が好みなのではないか、とか。
現に一度は真っ赤なバラの花でいこうと考えたのだが、
自分の中でどうしても気に入らなかった、と言うかしっくりこなかったと言うか。
そんな理由から結局それを止め、その後も何度と無く再考を重ね、その末にふと思い浮かんだのがこれだったのだ。
随分昔のこと、それこそ小学校かそこらの頃のおぼろげな記憶の断片。
その理由についても、どんな状況だったのかも、今となってはさっぱりなものだからイマイチ自信が持てないが、
それでもアイツは言っていた気がする、一番好きな花としてその植物の名前を。
それがジャスミン。
しかし、草花についての知識などからきしで、実物を見たこともなく、
お茶の材料か何か?程度の認識しか持っていなかった俺。
とりあえずインターネットで検索してみたのだが、予想に反して小さな花だったことにまず驚いた。
アイツが好きだと言っていた割には随分と控えめで、清楚で、星の様な形の可愛らしいものだ。
やはり己の記憶違いだったか、一度はそう考えてページを閉じようとしたものの、
しかし、その花自体は決して悪く無い気がした。
ついでにそのサイトによると、花言葉は『優美』『清純』そして『素直』とのことで、
…前の二つはともかく最後のはまるでアイツには合っていない気もしたが、
そこにはそれ俺の願望も含まれていると考えれば、そういう意味でも丁度良いというか何と言うか。
「………あー…もしかして…嫌い…だったり…?」
しかし、再び黙り込んでは、ただただブローチを見詰めるばかりのアイツにどうにも不安になってきて、
恐る恐る尋ねてみる。
「…え?う…ううん、そんなことないけど…。て言うかむしろあたし…ジャスミンってわりと好きだったりするし…」
『わりと』とはまた微妙な。やはり思い違いだったのかもしれない。
とは言え嫌いと言うわけでもないようなのでとりあえずは一安心…していいのだろうか。
「そうか…?…だったらまぁ…良いんだけどさ…」
「………うん………ありがと…ね…」
「!?」
らしくないとまでは言わないまでも、普段あまり見ること無いアイツの様子に調子を狂わされる。
正直なところ、よもやこんなに素直に、すんなりと礼を言ってくれるなどとは思っていなかったわけであるし。
「………あ、ああ…どういたしまして…」
とは言え、それはどうやら無意識的、反射的に出たもののようで、
アイツ当人は自身の零した言葉に気付いていないのかもしれない。
証拠に視線は相変わらずブローチに据え置かれたままで、こちらへと向けられてはいない。
それでも、こんなアイツを見るのも決して悪くない。心底そう思う。
「………」
「………」
「……………!!」
その後も再び口を閉ざし、尚も熱心な様子でじっとそれに見入っていたアイツ。
が、随分と経ってから、おもむろに何かに気付いたような表情を作って勢いよく顔を上げると、
急にこちらへと鋭い視線を向けて抗議してきた。
「………な、何よ!…こ、こんなの小さ過ぎて…着けているのかいないのかちっとも分からないじゃないっ」
おっと、やっと普段通りの反応が。
「そう?じゃ、いらないのか?」
「い、いいわよ!貰ってあげるわよ!
 だ、だって…こんなのでも…ちっぽけなあんた達にとっては大きすぎるわけだし?
 どうせ着けられる人なんて他に居ないんでしょっ!?」
即答しつつ胸元に添えられた大きな右手がブローチを覆い隠す。
確かに言っていることに違いないのだが、
仕方なくと言う割にはかなり一生懸命になってかばっているようであり、おかしくなってしまう。
「…そ、それに!大体一回プレゼントしたものを返せだなんて、それって男としての器に問題があるんじゃ…!
 って…な、何笑ってるのよ!?」
「いやいや、何でもない。勿論冗談に決まってるだろ。
 お前に合うものをって俺なりに結構頭絞ったわけだしな。
 そんな小さな物でも大事につけてくれるって言うなら、俺としてはそっちの方が断然嬉しいに決まってる」
「………!」
途端に黙り込むアイツ。相変わらず表情の変化が著しく、コロコロと忙しい。
それから、アイツは難しい顔で何か考えを巡らせた風を見せたのち、
ややあってからいつも見せている強気な感じの、でも気持ちどこか嬉しそうな、
それでいて困惑も入り混じったような、とても微妙な表情を浮かべて、些かぎこちなく言葉を次いできた。
「………う、うん…そうよ…分かればいいのよ…。………で、でも、勘違いしないでよね!?
 …あ、あたしは別にこんなブローチなんて…どうしても欲しいってわけじゃないんだから!
 そうじゃなくて………こうやって受け取るのも、大切にしようと思うのも、
 ただ…その…あんたが嬉しいって言うから………」
と、そこまで言ったところでアイツはハッと顔を強張らせ、
実に慌てた様子で自身の発言を打ち消すようにぶんぶんと大袈裟に首を横に振る。
「ち、ちが…!…そうでもなくて…えと…えっと…か、かわい…そう………そ、そうよ!
 突き返したりしたらあんたが可哀想だから!………だから、そうしてあげるだけ!…それだけなんだからね……」
「ふーん…?」
「ああああ、もう!う、うるさいわねっ!」
特に深い意味を込めたつもりは無かったのだが、何が気に入らなかったのか怒られる。
零れた相槌一つにうるさいは無いだろうに。しかしそんな反論の余地もまるで与えられることは無く、
「と、とにかく、そういうことだからっ!分かった!?分かったなら帰るわよ!
 もう用事は済んだんでしょ!?ほらっ!」
言いながらすぐに乱暴に手を突き出してくるアイツ。
口調はしどろもどろ、言うことも滅裂で二転三転するものだから、
結局どういうことなのか、イマイチはっきりとは分からなかったのが正直なところだが、
アイツの視線は有無を言わさず乗れと言っているようで、
とてもではないが『そういうこと』についてのこれ以上の解説は頂けそうになかった。



それでも、帰り道、アイツは実に、誠に、本当に、明らかに、間違いなく、上機嫌だった。
「随分嬉しそうだな」
しかし、掌の上から見上げてそれを指摘してやれば、やはりと言うべきか、
如何にもわざとらしくむすっとした表情を作って、
「何言ってるのよ!?散々な一日だったわよっホントに!」
なんて悪態をついてくる。しかし、言っているそばからその表情は目に見えて緩んで楽しげなものになり、
どうやら頻りに自分の胸元を気にしてもいるようだった。バレバレ。
目は口ほどにモノを言うとはよく言ったものだが、
アイツの場合口よりも目の方が遥かに正直である。
つまるところ、あんなにも小さくてけし粒の様なものだったとしても、
アイツとしてはまんざらでもないと言うことか。
そう思うとやはりこちらとしても嬉しくなってくる。
それでこそ上げた甲斐があったというものだ。
後はそれを素直に態度や言葉に出してくれさえすれば、言うこと無いのだが。
と、そんなことを考えていると不意に自分の乗っている地面、
即ち広い掌がゆっくりと上昇していることに気がついた。
再びアイツの方を見やれば、俺の目線と同じ高さにアイツの顔があって。
「…どうした?」
一つ静かに深呼吸をしてから口を開くアイツ。
「………うん…で、でも…その…やっぱり…嬉しかった…かな。ホントに…ありがとう…」
そして言葉と共にアイツが見せた微笑みはまるで春の陽の如く、
嬉しそうで、人懐っこくて、可愛らしくて、それに優しくて。
見ているこちらまで思わず釣られて頬が緩んでしまいそうな、とても素敵なものだった。
「………え…?」
しっかり聞こえていたにも関わらず思わず目を丸くして訊き返してしまったのは、
単にもう一度聞きたかったから、と言うだけなのかもしれない。しかし、流石にそう上手い話は無いか。
「に、二度も言わないんだからね…!」
赤くなりながら小さく俯き、空いた方の手で頬をかくアイツ。
俺はそんなアイツを微笑ましい気持ちで眺めながら、ぼんやりと心地良い想像を膨らませ、思いを馳せていた。
もし、アイツがいつもこんな風だったら、きっと怖がる人はずっと減るだろうに。
この町に住むもっと多くの人々とより良い関係を築き、
そしていつかは接し合う人すべてと仲良くできるかもしれないだろうに。
勿論それは簡単なことではない。
アイツのプライド、巨体、性格、それに対する人々の誤解、恐怖、互いの力の差、
ハードルを数えていったらキリがない。しかし、それでも決して不可能ではないとも思う。
だって、これほど大きくなってもアイツはやっぱりアイツのままなのだから。変わらずに居てくれたのだから。
だから、俺もまた変わらずに接していこう、俺にはそんなことしか出来ないけれども、
だからこそ、それだけは絶対に続けていこう。
そうしていく中で、今日の様にアイツが、優しく穏やかな本心を素直に前面に出せるよう、
少しでも助けとなれるならば、俺としてもこれほど喜ばしいことはない。
そんなガラにも無い思いを胸に秘め、こっそり決意したりする。
とは言えそれは紛れもなく率直な俺の気持ちに他ならなかった。
俺自身もまたそういうアイツが、まぁ…たぶん…その…好き…なんだと思うから…。









………とか、珍しく素直なあいつを見て気をよくしていたもので、そんなことを思っていたのだが、
まったくもってその見解は甘かったらしく、そう単純に上手くいくとは限らないようだ。
と言うのも純粋に喜びからなのか、はたまた照れ隠しからなのか、
その後アイツは周囲への配慮がきれいさっぱりお留守になってしまったようで、
来る時に通った『道』も完全に踏み外し、片っ端から建物を蹴散らしてしまう始末、
それもこともあろうに微かながらも鼻歌を零しながら。
その目の余る行動に自衛隊までもが出動し、瞬く間に事態は一触即発緊張状態に。
「これ以上破壊活動を続けるのならば攻撃を仕掛ける」
との警告に、素直に一言謝って彼らに従っておけばいいものを、
「してないわよ!ただ歩いてただけじゃないの!」
露骨に反抗的な態度を見せるアイツ。思わず頭を抱える俺。
放たれる威嚇攻撃。当然アイツ自身を標的にしてはいないので当たらない。
それにどうせ当たったところ痛くも痒くも無い筈だ。
しかし、いつもは余裕綽々でそれを嘲笑うだけのアイツが珍しく焦燥を見せる。
「ちょっと此処で待ってて!」
すぐさま下ろされ、既に地域住民の避難が済み、
さながらゴーストタウン化して静まり返った町の一画の見知らぬ建物の上に一人ぽつんと取り残される俺。
それから再び戦闘機部隊の方へと鋭い視線を向けつつ、大地を揺るがしながら足を踏み出すアイツ。
ただならぬ気配に狼狽し、総攻撃を仕掛けることを決定する彼ら。
発射されるミサイル、それらを片手であっさりと払って凌いで見せ、立ち込める黒煙の中を更に距離を詰めるアイツ。
足下の町並みなどまるで意に介すること無く踏み均しながら、左手で胸元辺りを抑えつつ、
あいた右手を振りかざして、周囲を飛び回るミツバチ程度の大きさの戦闘機を、追っ払おうとしている。
いや、もしかすると叩き落そうとしていたのかもしれない、それも結構本気で。
要するに、今のアイツはただただブローチを守ることだけしか考えてないのだろう、たぶん。
とても複雑な気分。
確かにプレゼントした身としては、それはもう冥利に尽きることなのかもしれないが、
あくまでも一般的思考の持ち主である俺にとっては、そのせいで消えていく町の方を案じ、憂うに決まっている。
が、アイツはまるで気にしている様子がない。そうこうしている間にもどんどん拡大していく廃墟地帯。
編上げの涼しげな白い二足のサンダルが何度となく地を突き、
民家も、商店も、市の施設も、一軒家も、集合住宅も、鉄筋性のものも、木造のものも、
そこにあるありとあらゆる建造物を、難無く、無差別に、しかも恐らく無意識のうちに倒壊、圧壊、消滅させていく。
先程の高層マンションの件もあることだし、一日の総被害額は、
あの尻もちの日の記録を大きく更新して確実に過去最高、もとい最悪になりそうだ。
上がる轟音、爆音、火煙、アイツの抗議の声、それらの喧騒を彼方に呆然と眺めながら、
俺は額に手を当てて溜め息混じりに一人小さく呟いたのだった。
「ああ…ほんっとに…めんどくさい女(ヤツ)…」