六、ゆかりの邁進

 
「んんー…さて…と…」
 最後の一人が出て行くのを見送ってから、ゆかりは大きく一つ伸びをしつつ立ち上がり、すっかり人気(ひとけ)の無くなった園内を見渡す。結局北沢は見つからなかった。となればまだどこかに潜んでいる可能性も考えられるわけで。
「とりあえず…一通り歩いてみようかな…。」
 ファン・ポート内の地面は橙や朱色、桃色と言った赤系統で統一されていて、レンガを敷き詰めたようなデザインであり、上から見ると結構綺麗だったりする。尤も、北沢の捜索、発見を唯一にして至高の目的に掲げている今のゆかりにとっては、余り興味のないことらしく、そのレンガ道を踏み砕き、陥没させながら己の気の赴くままに歩みを進める。そこここにはベンチや照明、小さな露店、ゴミ箱などといったものが設置されていたりするのだが、それらもまるで邪魔をすることなく、気づかれることすらなく、彼女の何気ない歩行の巻き添えとなって、元が何であったかが分からないほどに破壊され、彼方に吹き飛び、或いは地中の奥深くへとめり込んでいった。最早ゆかりにとって北沢を除く全ての存在が眼中に入っていないのだった。
「ぁ…。」
 と思いきや、敷地内のちょうど真ん中辺りで、彼女は小さな声と共にぴたりと足を止めた。そこからは地面の雰囲気が変わっており、辺りと比べても一段鮮やかで多彩なものだった。これまでの頓着無い動きから一転、そっと腰を屈めてそれをよくよく観察するゆかり。広さ形は彼女の感覚で一辺1メートル前後のおおよそ正方形。深緑色の剪定された低木の囲いの中に赤、黄、紫、橙、白と色とりどりの無数の花が秩序立てて植えられており、その合間を縫って小道が走っている。そしてその中心には噴水があり、随所には小さなあずまやらしきものが点在しているのも目に付いた。ファン・ポートが誇る、幾つもの花壇をその内に有する広大な庭園である。それが自身が思っていた通りのものであることを確認したゆかりは小さく微笑んで再び立ち上がると、おもむろに真剣な表情を作る。その次の瞬間、これまでになく大きな地響きが二つ、辺りに轟いたのだった。即ち、踏み切りと着地。
「わ…っとと…」
しかし、やはり普段し慣れぬことはあまりするものではない。花々を踏み潰すことなく跳ねる様に跨ぎ越したまでは良かったが、勢い余って片足がその正面にある三階建ての土産物屋兼レストランへと突っ込んでしまったのである。と言ってもこちらに関してはそう気になることでもないのだが。
「あららぁ…。」
あっさり半壊してしまった建物に左足を突き立てたまま、人差し指で頬をかきつつ軽い調子で呟く。大きさと言う点で多少の違いこそあれど、彼女にとっては土産物屋もベンチも、どうでもいいものに変わりないのである。とりあえず振り返って庭園が無事であることだけは再確認し、安堵の表情を浮かべる。それから再び視線を足下付近の建物に向けたところで彼女は目を丸くした。大学生くらいだろうか、男女五人が建物から出てきたではないか。
「…って…あなた達…そんなところで何をしてるの?」
ゆかりが見下ろして咎めるように言う。
「さっきあれ程言ったのに…。聞こえてなかったの?それとも——」
その声が徐々に低くなる。理由は言わずもがな、折角の提言を無視されたことに対する怒りから。途方もない巨躯を間近で目の当たりにして圧倒されている上に、彼女が発する不機嫌な気配をまともに受けて、五人は一歩も動けずにいるようだったが、そこでふとゆかりは『もっと大変なこと』に気づいた。彼等がいるのは自分の足のほぼ真下だということ。その五人の内三人は男性だということ。見上げるその視界には当然の如く…。何となしにスカートの裾を押さえてみるも、位置的にどう考えても無駄であり、
「もう…!言うこと聞けない悪い子にはおしおきしちゃおうかなっ?」
少し顔を赤らめつつ、左足を建物に突っ込んだままで右足を少々高めに持ち上げて、五人のすぐ近くに思いっきり振り下ろしてやる。それまであまり意識していなかったのだが、踵から足裏全体へと靴がかなり深く沈み込む感覚があり、それが引き起こした衝撃ゆえか、はたまた恐怖からか、全員が吹き飛んで尻餅を付く。かなり堪えたのだろうか女性二人は泣き出してしまい、男性陣の顔も皆一様に真っ青だった。しかもゆかりの一撃の威力はそれだけに留まらない。背後の轟音に五人が慌てて振り向くと、今まで自分達が潜んでいた建物が完全に瓦礫と化していたのである。どうやら最初の一歩目で建物にかなりガタが来ていたらしい。今の彼女の足音が突発的な大地震となって直撃し、それによって建物が完全に倒壊してしまったようだ。
「ぁー…。」
その考えていなかった事態に、ゆかりもまた目を点にして暫し建物の残骸を見つめていたが、再び視線を下に向けると、未だに足腰立たないでいる五人に向かって些かバツが悪そうに尋ねる。
「…んと…一つ正直に答えて欲しいことがあるんだけど…中にまだ人とかいた?」
「い、いないです、僕達だけです。」
すぐに答えは返って来るも、ゆかりは真っ直ぐ視線を据えて尚も問う。
「本当にいなかった?例えば、少しやせ気味の…優しそうな目をした高校生位の男の人とか…」
そこで少し躊躇ってから幾らか小さめの声で続ける。
「…わたしと同じ位の年の、後ろで髪を束ねた活発そうな女の子と…もしかしたら一緒かも…なんだけど…」
「いえ、確かにこの建物には他に誰も…。」
「…本当に?」
真剣な表情で念を押すように再三訊いてくるゆかりに対して、その執拗さの真意など知る由もないながらも必死の様相でとにかくコクコクと頷く五人。
「ん…そっか…。じゃ、まぁいいや。」
それを聞いたゆかりはやがて表情を明るいものにすると、崩れた土産物屋…と言うより廃材の山に埋まってしまった左足を引き上げて靴に乗っている瓦礫を振り払う。それから足元の五人に向かって、まるで子供に諭し聞かす様に言った。
「あなた達も今回だけは許してあげるから、もう行っていいよ。だから、今度こそちゃんと駐車場に避難するんだよ?」
それを聞いた彼らは弾かれたように立ち上がると、五人してもつれ合うように、転がるようにゆかりの靴の脇を駆け抜けていった。ゆかりは少しの間肩越しにそれを見守っていたが、移動方向から五人が入り口に向かっていると判断し、何処かほっとしたような顔をしつつ、視線を前に戻した。が、
「え…?あ…あれ…?」
ふと違和感に気づき、慌てて振り返って今一度そちらのほうに目を向ける。何故か五人が八人になっているではないか。と思っているうちに、あれよあれよと人の数は増えていく。どうやら、園内に潜んでやり過ごそうという者が他にも随分と居たようで。今の一連のやり取りを見て恐れをなしたのだろう、どこからともなく水でも湧くかのように人の塊が出来、一様にゲートの方へと向かっていく。
(まったくもう…!)
心の中で半ば呆れつつも、仕方なくゆかりはきびすを返すと、やや大股で入り口の方へと歩み戻る。距離的にはそこそこのハンディがあったが、競走(歩?)は圧倒的な差でゆかりに軍配が上がった。彼女の動向に気づいて誰もが必死に走ったわけだが、やっとのことでゲート前に辿り着いた時には、ゆかりは息一つ切らすことなく座り込んで待ち伏せていて、そこにいる全員に恐怖と絶望を与えたのだった。特にあの五人に関しては一度は助かったと思っただけに、そのショックは相当のものだったらしく、流石にそんな彼らを気の毒に思い、ゆかりは軽い調子で言う。
「あ、君達は出て良いから。他の人達もすぐ終わるから、ちょっとだけ付き合ってね。」
多いとは言っても先程と比べれば数はかなり少なく、ゆかりの検問は程なく終わった。こうして今度こそ五人を含むゆかりを無視した不届きな輩達は無事に開放されたのだったのだが、やはりそこでも北沢の姿は見当たらなかったのである。

 その後、たった半時間足らずで園内一帯は惨憺(さんたん)たるものになっていた。天井のはぎとられたメリーゴーラウンドに、蹴り散らされたコーヒーカープ、完全に更地となったお化け屋敷や、吹き飛ばされた見せ物テントや、壁の大半が地面より低くなってしまった大迷路等等。勿論破壊されたのはアトラクションだけに限らず、ゲームコーナーや土産物屋などの建物も例外ではない。最早原形を留めている物など数えるほどしか残っていない園内に悠然と佇み、ゆかりはほんの少しだけ反省する。
(や…やっぱり…ちょっと怪獣っぽいかも…)
流石に調子に乗り過ぎたかもしれない。もし北沢が見ているのなら、今の自分の姿は彼の目にどう映っているのだろう。そう考えると途端に気恥ずかしくなる。何もかもが余りに弱く、脆く、思うがまま、為すがままに崩れていくと言う状況。それは少なからずゆかりに快い優越感をもたらしていた。しかし、破壊…もとい捜索活動そのものを楽しむ余り一時的に忘れかけたりしたのは内緒であるが、あくまでも彼女の本懐は北沢の発見にあるのである。
「おかしいなぁ…。」
些か予想外の事態にゆかりは困り顔で呟く。もしかして此処にはいないのだろうか、一瞬そんな疑念が頭を過ぎるも彼女はすぐにそれを打ち消して、一週間前を思い出す。あの時二人は確かに『ファン・ポート』の話をしていたのだ。それに自身の直感も北沢がここに居ることを告げている気がした。根拠はないものの妙な自信があった。ゆかりは今一度ゆっくりと辺りを見渡す。
 そしてついにその目に留まるこの遊園地で一番の高さを持つ円形の建造物、即ち大観覧車。いや、本当は真っ先に目に付いていた。むしろ大きさからしても、形状からしても気付かぬはずがないと言ってもいい。にもかかわらず、これまで敢えてそれに手を出さなかったのは、出来ればそこにだけは居て欲しくないという願望の現れだったのかもしれない。何しろそれは余りにもカップルにとって定番過ぎる密室であるのだから。とは言え彼女の物色を受けた今となっては、無事に存在を維持しているものなど、この観覧車を除けば、明らかに人が居ないことが見て取れるウルトラなジェットコースターと、唯一ゆかり自身が踏まぬ様に細心の注意を払っていた芝や花壇のみとなっていたのである。
「んー…やっぱり…あそこなのかな…。」
それまで嬉々としていた彼女の表情が微かに翳り、呟く声も小さく震える。一瞬にして膨れ上がる不安。しかしそれは本当に僅かの間だけで、次の瞬間には綺麗さっぱり消え失せていた。ありとあらゆるものを超絶、圧倒する力を持つ自分が、何かに対して恐れを抱くこと自体おかしいことのように思えたのである。もし、そこに望まぬ状況が待っていたとしても、今の自分ならば容易にどうにでも出来るのではないか。力の象徴とも言える破壊の痕跡に満ちた園内を一望して心が落ち着くと、ゆかり真っ直ぐに観覧車を見据えて、穏やかな面持ちでゆっくりと足を踏み出したのだった。

 観覧車のすぐ前には軽食を取り扱うような小さな売店とちょっとした広場とがあり、カラフルなパラソルつきの白い丸テーブルと椅子が所狭しと並べられていた。が、ゆかりはまるでそれらが存在していないかのように、踏み散らしながら足を運び、躊躇うことなく観覧車と向かい合ってぺたりと座り込んだ。尻の下から小さなものが脆く潰れるような軽い感覚が伝わってくるも、まるで気にはならなかった。大観覧車は彼女が腰を下ろすと、ちょうど目線と同じくらいの高さに一番高いところが来る。ゆかりは少しの間それをじっと見詰めていたが、不意に『ちょっとしたこと』を思いついて小さく口元に笑みを浮かべた。それから、ゆっくりと回る観覧車のゴンドラの一つへとおもむろに手を伸ばすと、まるで問いかけるような口調で呟きながら、ゆかりは摘んだゴンドラを力任せに引っ張ってみた。
「北沢さんは…ゆかりのことが…好き…?」
観覧車全体が不快な音を立てて微かに歪み、やがて彼女の力に抗うことなど叶わず、ゴンドラの鉄製の接続部が簡単に捻じ切れた。そのままゴンドラを瞳のそばへと運び、中を覗き込む。空っぽだった。ゆかりはそれを少々詰まらなさそうに投げ捨てる。
「嫌い…?」
続いてもう一つ。中を確認しすぐに手を離す。
「好き…嫌い…好き…嫌い…?」
さながら花びら占いでもするかのように観覧車のゴンドラを一つずつ捥ぎ取っては中を覗き込み放り投げていくゆかり。彼女の片手にすっぽりと収まる小箱は、無作為にその手から放り出されると、巨大な体積と重量を有した非常識な落下物へと戻り、轟音と共に地面へと叩きつけられ、鉄板や砕けたガラスがその周囲へと散らばる。
 そんなことなど全くお構いなしのゆかりの瞳が、ゴンドラの中二つの人影を捉えたのは、ちょうどその四分の一を引きちぎった時だった。
「あー、見ーつけたぁ。」
まるでかくれんぼをしている子供のような調子でゆかりは節をつけて言うと、力任せにゴンドラの天井をはがし取り、それをひっくり返して掌の上へと彼らを放り出す。そして二人が自分の手の中に入ったことをしっかり確認すると、ゆかりは軽く指先に力を込めてゴンドラを捻り潰し、これまでと同じく適当にその辺に放り投げた。そんないつもとは何処か違う彼女の強引な振る舞いと、明らかに異なる巨躯に呆気に取られるばかりの二人に向かって、彼女はたった今ゴンドラを鉄クズにしたばかりの指先を近づけていく。その状況から身の危険を感じたのか二人は表情を強張らせて身構えるも、逃げ場も為す術もあるはずがなかった。それでも咄嗟にユキを庇おうとする北沢を、ゆかりはまるで問題にすることなく指一本であっさりと押しのけ、掌からユキだけをやや乱暴に摘み上げると自分の顔の高さまで持って行ったのだった。


七、ゆかりの告白

「やっぱりここにいたんですね。もう…随分探したんですよー?」
 そう明るい調子で言いながら微笑みかけるも、無理に作ったその笑顔はすぐにどこか曇ったものとなり、ゆかりは自分だけにしか聞こえない小さな声で噛みしめるように呟く。
「…やっぱり…一緒に居たんだね…。」
 今、ゆかりの胸中には大きな感情が渦巻いていた。北沢を見つけたことへの喜びと、覚悟していたこととは言え北沢と共にユキが居たことに対する悲しみ、そして憤り。それらがまぜこぜになって自身でも説明できないような、何とも言い難い、しかし強い強い気持ちが胸一杯に広がっていた。そして、その感情の助けを借りて、今まで心の内にずっとためてきたモノが溢れ出た。
「わた…しは…わたしは…北沢さんが…好き……好きなんです…。…大好き………本当に好き……すごい好き…!寝ても好き!覚めても好き!どうにかなっちゃいそうなくらい好き!食べちゃいたいくらい好き!!殺したいくらい好き!!!」
北沢を真っ直ぐに見詰めて、始めはぽつりぽつり呟くように、絞り出すように。やがて口調は勢いと激しさを増していき、最後にはそれは叫びにも近しいものとなる。
「あ…浅倉…君?」
普段学校では目にすることのない、後輩の様相と悲壮感すら孕んだその鬼気迫る告白に、暫し呆然と見上げることしか出来ないでいる北沢だったが、すぐに我に返り叫ぶ。
「き、急にどうしたんだ!?…ユキをどうするつもりなんだ!?朝倉君!!」
ゆかりは北沢がユキを呼び捨てにしていたことを聞き逃さなかった。恐らく気が動転して自然と出てしまったのだろう。そう、やはり北沢にとってはユキを呼び捨てにする方が自然なのだ。
「…でも…北沢さんはユキちゃんが好き……なんですよね…。」
その現実に改めて打ちひしがれるゆかり。伏し目がちに呟きつつ、今度は左手の人差し指と親指の間に捉えた友へと視線を向ける。
「…!?何を言っているんだ、朝倉君!?」
右手の上で叫ぶ北沢をよそにゆかりは言葉を続ける。
「ゴメンね、ユキちゃん…わたし…ユキちゃん大好きだけど、北沢さんはもっと好き…だから…」
「ゆ、ゆかりちゃん…?」
不安そうな表情を浮かべて見上げるユキに、ゆかりは微笑んで言う。
「だから……だからね、ユキちゃん…お願い…消えて…?」
ほんの少しだけ指に力を入れる。
「く…ぁ……」
同時に歪むユキの表情。ずっと妬ましかった。いつも明るく快活でどこでも人気者であったユキと、引っ込み思案で影が薄い自分。比較してはずっとコンプレックスを抱き続けてきた。いつも悔しくて、辛くて、惨めで…。でも、今なら自分の方が圧倒的に勝っている。ユキは指二本の間で藻掻いてる、まるで無力で哀れな虫けら同然の存在。気持ち次第でいつだって彼女を殺すことができる。
「や…めて…ゆかりちゃん…く…るしい…。」
なのに…嬉しいはずなのに…。ユキの苦しげな表情が、声が、心に刺さる。ユキが自ら輝く太陽ならば、自分はその光をなくしては誰にも気づいてもらうことも出来ない哀れな月…。でも…そう、いつでもユキはゆかりと一緒にいて、気にかけてくれていた。それは決して同情や、蔑みなんかではなく、ユキはいつでも純粋に優しかった。そんなユキが大好きだった。自分もそうなりたいと心から憧れた。そんなユキに今、何をしようとしている?どうしても力が入らない。
「そんな目で見ないで、ね?わたしは強いの…何でも…出来るの…。」
震える声で、ユキに…というよりは自分自身に言い聞かせるように呟くゆかり。笑っているはずの顔がとっくに崩れていることは自分でも分かっていた。あともう僅か指を閉じればいいだけなのに、それだけで終わるのに…!
「お…願い…ゆ…かり…ちゃん…助…けて……お…にい…ちゃ…ん…」
「ユキーっ!!やめてくれ、朝倉君!ユキを…妹を助けてくれぇぇぇっ!」
二人の言葉に悲しく、消え入りそうな声で小さく首を振るゆかり。
「ダメ…ダメだよ…今のわたしはもう…誰にも止められないんだから…。たとえ北沢さんのお願いでもきけないよ…。だってユキちゃんがいる限り北沢さんは…って……ぇ?……おにい…ちゃん…?…いも…うと…!?」
ユキを摘み上げていたゆかりの手から急激に力が抜けていった。
「あ、ちょ…ゆかりちゃ…きゃあああああぁぁぁぁっ!?」
それは勿論当のユキにも伝わったのだろう。慌てた口調でゆかりに呼びかけつつ懸命に人差し指に取り付こうとするも時既に遅し。ユキは悲鳴と共に指の間から滑り落ちた。が、すぐに右手に受け止められ、ほっと息をつく。それから少しの間、彼女はゆかりの掌の上でへたり込んでいたが、
「…あぁ…苦しかったぁ、流石に死ぬかと思ったよ…。もう、ひどいよ、ゆかりちゃん!」
やがて顔を上げるとやや強い口調で抗議をしてきた。あれだけのことをしたにもかかわらず、ユキの様子は普段遅刻してまった自分に、ちょっと怒って見せるそれとまるで同じであり、思わずゆかりは泣きそうになる。自分のしたことへの悔恨と、変わらぬ友の態度への感喜と謝意。
「ご…ごめんね…ごめんね、ユキちゃん。」
それらの気持ちを精一杯込めて、何度も何度も必死に詫びる。しかし、その一方でゆかりにはどうしても、どうしても聞かずにはいられないことがあった。
「ほんとにごめんね…。で、でも…妹って?お兄ちゃん…って?」
「…。」
すると北沢とユキは困ったような顔をして互いに顔を見合わせた。
「………ふぅ…。どうもこうも…コイツと僕とは兄妹なんだよ。」
それから少々の沈黙の後、一つ溜息をついてそれに応えたのは北沢の方だった。
「え…えぇっ!?そ、そんな見え透いた嘘…」
「本当なんだ。」
慌てて否定しようとするも、穏やかに、しかしはっきりと北沢は言葉を次ぐ。
「だ…だって苗字が…!」
「まぁ…つまり…離婚したってことさ。母さんの旧姓が新城、父さんは北沢。」
「うん。」
北沢の言葉にユキも頷く。
「そんな…そんな…!!」
ゆかりは急激に顔が熱を帯びていくのが分かった。目も少し潤んでくる。
「じ、じゃあ…ユキちゃんが北沢さんに対して敬語を使わないのも、北沢さんがユキちゃんを呼び捨てにするのも、音楽やスポーツの話題が合うのも、昔話で凄く盛り上がったりしていたのも、その…つまり…全部…全部……?」
最後の方はもう消え入りそうな声で確認するゆかり。それを聞いたユキは驚きを顔一杯に浮かべて答えた。
「あ、見られてたんだ。出歯亀なんてなかなかやるねぇ、ゆかりちゃんも。」
彼女はそう悪戯っぽく笑ってから順を追って答えていく。
「うん、その通り。私の趣味趣向って結構お兄ちゃんの影響受けているみたいでさ。ほら、英文学が好きなところとかもだけどね。昔話は…そりゃ、まぁ…同じ家に住んでいたわけだから。でも…やっぱり両親が離婚したなんて後ろめたいし、うちの場合はちょっと『特殊な事情』があったからね。色々と勘繰られたりしたくなかいのもあって…」
「学校…ていうより基本的に人前では他人を装おうって二人で決めていたわけだね。」
(——つまり全部わたしが勝手に勘違いして兄妹に嫉妬を—!!)
激動の半日がフラッシュバックする。思い込みと勢いに任せた今までの行動と、そしてその果てにとうとう面と向かって思いっ切りぶつけてしまった自分の想い。その全てが一気に羞恥心となってゆかりを襲う。鼓動の音が急激に大きくなり、すぐにそれしか聞こえなくなった。頭は真っ白、顔は真っ赤。
「まぁ…そういうわけだからさ、ゆかりちゃんもこのことは内緒にしておい……って、あれ?ゆかりちゃん?おーい?」
ユキが何か呼びかけてきているようだが、ショート寸前の頭にはまるで入ってこない。
「…………きゅぅ。」
どがっしゃああああぁぁぁぁん
そしてゆかりは轟音とともに後ろに倒れ込んだのだった。巻き込まれる形で、園内で唯一無事だったアトラクション(ウルトラ)ジェットコースターのレールがガラガラと派手な音を立てて崩れ落ちた。


終、勘違いの果てに

「あぁ、びっくりしたぁ。ジェットコースターより迫力あったよね。」
「あのな…。」
 その呑気な台詞には北沢も言葉が出てこない。本当に血を繋がっているのか疑いたくなってくる。ゆかりが恥ずかしさの余り、耳まで真っ赤にしているのはすぐに見て取れた。それこそ『ぼん』という音と共に煙でも出そうなくらいに、モノの見事に顔を染めたかと思うと、程なく彼女後ろへと卒倒し、二人は空中に投げ出されたのだった。で、今ちょうど、二人は仰向けになって気を失っているゆかりの胸の上辺りにいた。
「とりあえず…落ちたところが柔らかくて助かったな…。」
「……お兄ちゃん、セクハラ。」
「不可抗力だよ。にしても…なんていうか…本当に…凄い…の一言に尽きるな…。」
北沢は辺りを見渡して感慨深く呟く。右も左も下もゆかり。片膝を立てて倒れたのか、遥か向こうにはチェック柄の小山が見えるわけだが、その高さでも恐らく学校の本館くらいはあるのではなかろうか。
「結構強く倒れこんだみたいだけど、大丈夫かな…?」
案ずる北沢の言葉にユキがそろそろとゆかりの肩辺りまで歩いていき、下を覗き込んで心底ほっとした様子で答える。
「うん、全然大丈夫みたい。あ…ジェットコースターのほうは完全に再起不能っぽいけど…。」
その一方で言葉の後半からは実に残念そうな響きがありありと聞き取れ、思わず北沢は苦笑する。ユキはそこで一呼吸置いてからやや乾いた声で言葉を続けた。
「……そう言えば…『真っ直ぐ』ココまで歩いてきたみたいだったよね…。」
「……………そうか。街のほうはどうなっているかな…?」
その意味を理解し、北沢もまた若干顔を引きつらせて言う。
「…まぁ…大丈夫じゃないと思う。ていうか、遠目からだけど、かなーり駄目に見えたよ…。」
ユキは再び北沢の近くまで戻ってくる。
「そうなのか?」
「あれ?見てなかったの?観覧車から結構良く見えてたんだよ?って、ああ…そっか、お兄ちゃんの目はゆかりちゃんに釘付けだったもんねぇ。」
からかうような調子でにやつきながら言うユキ。
「妙な言い方をするな…。」
「んー?特に深い意味はないよ?」
「…。」
明らかに含蓄のある物言いに北沢は思わず一瞬閉口するも、すぐに気を取り直して尋ねる。
「で、お前の方はどうなんだ?」
「うん?」
「体だよ。大丈夫なのか?」
「ああ、うん、平気平気。ちょっと痛かったけどね。きっと全然力入れてなかったんだと思うよ、手は震えていたしね。だってさ、もしゆかりちゃんがその気になっていたなら…ほら。」
彼女の指差す先には、見るも哀れに歪み潰れた鉄の箱が転がっている。
「…なるほどな。」
即ち自分たちが乗っていたゴンドラ。天井を引きちぎられた後に一瞬でぺしゃんこに圧壊されたその残骸を目にして、妙に納得してしまう。

「とりあえず…良かった…ね?」
おもむろにぽつりと呟くユキ。
「……あ、ああ…良かった…のかな?」
彼女の言わんとすることはすぐに理解できたものの、何と答えて良いか分からず、北沢は些か複雑な表情を浮かべる。
「…あ、もしかして照れてる…?」
「…。」
何故このような状況でそんな気楽な発想が出てくるのか。しかし、呆れる北沢の内心に構うことなく、ゆかりはとても嬉しそうに続ける。
「うん、良かったと思うよ。それでこそ私も協力した甲斐があったって感じかなっ。」
「…って…何どさくさに紛れてさらりと図々しいこと言ってるんだ…。お前は結局何もやってないだろう…?」
思わず突っ込む北沢に舌を出して笑うユキ。
「あ、バレた?あはは、まぁ、ほら、結果オーライってことで!細かいことは気にしない、気にしない!ね?」
「まったく…。」
思わず口元が緩む。先程、観覧車内にてユキに冷静であることを指摘されたわけだが、真に動じていないのは自分ではなくむしろ彼女の方ではないか。そして、そんないつもと変わらぬ様子のユキが傍にいるからこそ、自分もまたこの尋常でない状況を受け入れることが出来ているのかもしれない。全く大した妹である。
 始まりは何気なく出てしまった北沢の一言だった。『朝倉君ってどういう子なんだ?』その普段の兄らしからぬ発言は少なからずユキに衝撃を与え、同時に彼女はその言葉の真意をすぐに察したようだった。後はもう弄られ、突っつかれ、鎌をかけられて。白状させられるまでに時間はそうかからなかった。
 で、事実を知った上でこのお節介さんは今度は協力を申し出てきたのである、半ば強引に。北沢も最初は乗り気でなかったものの、なかなか『取っ掛かり』が見当たらないことや、日頃のユキの言動からして、ゆかりに対して悪いようにはしないだろうということ、ついでに『もう、じれったいなぁ。何なら私からゆかりちゃんに伝えようか?』と言うある意味脅しに近しい一言にも背中を押され、ついに頼んだわけである、ゆかりの好きな人、或いは付き合っている人の有無や、北沢に対する心情などの探りを。つまり、言うなれば今日のファン・ポートはその『報酬兼口止め料』といったところだったのである。そう、奇しくも北沢もまた密かにゆかりに想いを寄せていた。メールで済むようなことでわざわざユキの元を訪れていたのも、実はそれにかこつけてゆかりに会いに行っていたのに他ならなかったのだ。
「じゃ、目が覚めたらちゃんと応えてあげないとね、気持ちに。ゆかりちゃん、きっと精一杯頑張ったんだからさ。」
これまでになく真剣な顔を見せるユキ。
「ああ…。」
頷きつつ答える北沢。とは言えその表情は冴えない。やはりその大きさ、そして今しがた見せ付けられたその力を考慮すると、どうしても懸念がぬぐい切れないのである。そんな北沢にユキはまるで彼の内心を全て見透かしているかのように、的確なフォローを入れる。
「大丈夫だよ。大きくなってもゆかりちゃんはゆかりちゃん、何も変わってないよ。ほら、『生き証人』が言うんだから間違いないって。現になんだかんだ言って結局皆を逃がしてあげてたじゃない?…ま…まぁ…確かに多少際どいところはあったけど…あれは事故だし。後は…急に大きくなってちょっぴり暴走しちゃったりもしたみたいだけど…ね。」
なるほど確かに。あくまでも見る限りではあるが、彼女は誰も傷つけてはいなかったと思われる。それに、
「何も変わってない…か…。」
北沢は密かに笑みを浮かべて一人呟く。初めてゆかりに心惹かれたあの日、彼女は黄色のスイセンが一面に咲き乱れる花壇で、大きめの如雨露(じょうろ)を抱えるようにしてせっせと水をやっていた。陽光を水滴に映してキラキラと輝き、揺れるスイセン達が揺れる中で、彼女が花々に向けていた慈しみの目は、今日植物庭園を前に屈み込んでそれを見詰めていたその表情と全く同じであったことを思い出したのである。
「ん?何?」
独り言が聞こえてしまったのか、問いかけてくるユキ。ちなみにこの『キッカケ』については今のところ妹の質問攻めにも屈っすることなく守秘している数少ない秘密だったりするわけで。内心どぎまぎしつつも、北沢はどうにか平静を装って適当に誤魔化す。
「ん?ああ、そうだな…。もし、これがお前だったら、今頃首都圏位は軽く壊滅しているだろうしな。」
それを聞いたユキは少々むくれて見せた。
「あぁー!可愛い妹に向かってそういうこと言うんだ。じゃ、もしそうなったらお望み通り、真っ先に踏み潰してあげるからね?」
「…望んでない。」
「またまたぁ、そんな遠慮しないでよ。」
「拒否だ。」
「えーっ。…って言っても、そんなのゆかりちゃんが絶対許さないと思うけどね。私だってゆかりちゃんと喧嘩するのはイヤだし…。うん、しょうがない、ゆかりちゃんに免じて見逃してあげることにするよ。」
「……って何、馬鹿なことを言っているんだ。」
不覚にもその言葉で、巨大な妹とゆかりが街中で対峙している絵を想像してしまい、慌ててそれを打ち消すように言う。怪獣映画じゃあるまいに。
「あ、そうだ。それからもう一つ、凄く重大なことが…」
と、そこでユキは更に何か思いついたらしく人差し指を立てて口を開く。表情はとびっきりの良い笑顔。但しそれは至極意地悪く、悪戯っぽいもので、
「…まだ何かあるのかよ…?」
その不吉な妹の顔つきに思わず身構える北沢。ユキは少しだけ勿体付けつつも楽しそうに言ったのだった。
「うん。ほら、さっきお兄ちゃんはああ言っていたけどさぁ…やっぱり絶対治さないと駄目だよねぇ?」
「…?」
「高所恐怖症。これからは観覧車なんてメじゃないような刺激が日常茶飯事にあるかも、だしねっ。」


                                            おしまい