階段を降りたところから既にぴりぴりと伝わってきていた、殺気立ちざわめいている幾人もの気配。
訝しみつつ真っ直ぐその部屋に入り、沢山の背中の間から、一体これは何事かとその輪の中心を覗き込む。
「なっ…!」
で、そこに一つの小さな人影を見とめ、同時に開いた口はなかなかふさがらなかった。
出で立ちは質素でくたびれた着物、一見どこにでもいそうな何の変哲も無い村娘。
しかし、その顔はよく知っている。知ってはいたが…それにしても、一体どうしてこんなところに?
不意に取り囲んでいた男のうちの一人が荒々しい大声をあげた。
年端もいかぬ少女に対して本気でいきり立っているのがありありと分かる程の怒声。
「おい、テメェ!大概ににしねぇと…!」
「ひぇっ!」
肩辺りで髪を切り揃えたその娘は、怯えたような顔つきで小さく悲鳴を零した。
そう、正にそれは怯えた『ような』表情そのものだった。
そこにいる誰も気が付いていないようだが、本当のところその双眸はまるっきり恐れてなどいない。
それは、さながらのんびりと鉢の中の金魚でも見るかのような、余裕たっぷりで悠然としたもので。
それもその筈、もし彼女がその気になったとしたらここにいる人間達など
瞬く間にこの世から消滅してしまうに違いないのだから。何故なら彼女は——
ガタンッと言う大きな物音があり、いよいよ場の空気が険悪になってきたことに我に返り、慌ててその中に割って入る。
「お、おいおい、待てよ!お前ら。こりゃ一体どういう料簡なんだ?
 何でこんなとこにこんな女の子を連れ込んでるんだよ?」
一見は国外れの小さな町にある寂れた居酒屋。しかしそれはあくまでも表向きのカモフラージュであり、
その実、この地下空間は組織の隠れ家にして、『活動』の拠点の一つである。
その取り調べの間に連れ込んだということは、相応の理由があるはずだ。
「あ、先生!…ちょうど良かった。判断を仰ぎたいと思っていたところだったんです。
 実はこのガキ、今朝がたからずっとアジトの周囲をうろついていたんです。
 で、見慣れない面でしたし、妙に中の様子を窺おうとしている様な感じだったので、
 怪しく思って問い質してみたところ、色々と知った風な口を聞きまして。
 どうもただの小娘とは思えませんでしたのでこうして…」
そこまでの説明で事態を把握し、彼の言葉を遮る。
「あーあー…なるほどな。大体事情は分かった。けどなぁ、お前ら…今日が特別な日であることを忘れてやしないか?
 そんな日に事もあろうに確証も無く女の子を引きずり込んで、よってたかって拷問みたいな真似するなんてよ…?」
「そ、それは…その…!」
「俺達は大地に、山に、川に、森に…そこに宿る神様に生かしてもらっているんだ。
 それに感謝する気持ちは、決して忘れちゃならんものなんだぜ?
 それなのに…この『祀り日』を血や荒事で穢しちまったら、
 木花咲耶姫命と、そしてそれを奉る者たち全部を侮辱したことになっちまう。
 俺達はそりゃまぁ社会的に見りゃあ確かに逆賊にカテゴライズされるんだろうが、
 この国に根付いてきた慣習も、この国の民も、最も大切にすべきものであって、決して敵対する相手じゃない…そうだろ?」
そう、敵は土足でずかずか上がり込んできて妙な文化と教えを強要してきた外の連中と、
今では情けなくも政(まつりごと)にまで介入を許し、半ば傀儡化してしまった腑抜け共だ。
民草は一見迎合したようでもあるが、土着の神を捨て去ることなど決してなかった。
だからこうして非公式で密やかにだが、それでも確かに『祀り日』の習慣は続いているのだ。
「で、ですが…!このガキは…!」
しかし、余程頭に血が上っているのだろうか、珍しくそれでも反論しようとする男、
本来こういうやり方は好きではないのだが、仕方ない。
それほど今日という日は重きを置くべきものであり、そもそもそれ以前に、
いかなる理由があろうと彼女に危害を加えることは許されないのだ。
「………お前さ、聞こえなかったの?それとも聞いてなかったの…?」
低い声と共に威圧するように睨みつける。
「す、すみません…」
途端に顔を青ざめさせ、勢いを無くして頭を下げる男に対し、
今度は軽く一つこんとわざとらしく咳をして髪をくしゃりとかきあげると、
一転表情を緩めて諭すように言葉を続ける。
「それにな、こんな小娘ちゃん一人に大の大人がよってたかって…
 なんてことが世間に知られたら、それこそ良い笑いもんだ。本当に悪逆非道の小物集団になり下がっちまうよ」
それから少女の方へと視線を向けると、彼女は『小娘』呼ばわりされたことに、
些かむっとしたようだったが、顔に出したのはほんの一瞬だけで、すぐにまた怯えて見せる。
「ま、そーいうことだからお嬢さん、ここはひとつどうか俺達の非礼、許してもらえないかな?」
「………ゆ、許すも何も……わ、私は…ただ怖くて怖くて…もう、何が何だか…」
声を小さく震わせているのは恐怖による涙の演出だろうか。
しかし、ともすればまるで笑いをこらえているように聞こえてきてしまうから困る。
いけしゃあしゃあとよく言えたものだ。内心薄ら笑いすら込み上げてきそうになって、
それを懸命に噛み殺し、今はただただか弱い少女をあやすという役に徹する。
「本当に悪かったよ。家まで送るからもう帰ろう、な?」
「……………うん…」
しおらしく頷く少女。何が『うん…』だ、この野郎。などと思っても決して表には出さない。
しかし、それでも彼女が言葉少なく、素直に応じてくれたのは意外だったし、ありがたかった。
その性格なら或いはこの場を更に混ぜ返すような発言でもするかとも思っていたから。
と言うか、もう既にこうして十分面倒事を引き起こしてくれているわけだし。
「よし」頷き返して彼女に向って手を差し出すと、小さな柔らかい掌がきゅっと握り返してくる。
「済まないな、俺一人の我を通しちまって。けど、こいつは本当に大丈夫だから」
「い、いえ…あの…お知り合いだったんですか?」
「ああ、まぁな。ここよりもうちょい奥地に住んでいる、見ての通りのただの娘だ」
「………まぁ、先生がそう言うのでしたら。俺達は何処までもあなたについていきますから」
「おう、ありがとな」


 町を出て森の中の方へとどんどん入り、真っ白の濃霧の中を暫く手をひかれるままに歩き、
山を二つも越えると、突然何の脈絡もなく視界が開けて、広大な原っぱが現れる。
そこは本来人の身ではなかなか辿り着くことの叶わない秘境、或いは神域とも呼べる場所だった。
と、そこでおもむろに少女はその手を振りほどくと、
ととっと前に歩み出て、こちらの顔を覗き込む様に見上げてきた。
「あはは、なかなか良い部下さん達だね、せーんせい?」
その無邪気な所作には思わず苦い顔を作るしかない。
つい今しがた自身を取り囲んで敵意をむき出しにしてきた者達をそんな風に評されれば、
「………皮肉のつもりか…?」
「え?ううん、そんなことないよ。だってさ、あの人たちがあんな風に怒っていたのって
 あなたのことをけっちょんけちょんに悪く言ったからなんだもん。
 『憂国の士なんて口ばっかり、ろくに力も無くて結局何にも出来ないんだから笑っちゃうっ!』ってね」
彼女はそう言って白い歯を見せて笑う。
「ったく!…こりゃあいつらには悪いことしたかね…」
「えへへ…何なら今から戻って謝ってきてあげようか?」
「やめてくれ…火に油を注ぐだけだ…」
「ふーん、そう?」
不意にぶわりと一陣の風が逆巻き上がって、刹那彼女の姿が視界から消える。
いや、実際には今も変わらず、すぐそこに居続けているのだが。
正確には一瞬認識できなくなっただけだ。今の…元に戻った彼女は余りに尊大過ぎて。
「この姿でなら、あながちそうでもないんじゃないかな?」
その声量は一転してこれまでのものとは比べ物にならないほどに大きく、
そして遥か上から、空気をびりびりと震わせて、まるで雷鳴のように降り注いでくる。
もっとも口調の方は相変わらず無邪気な、むしろ悪戯っぽい感じであり、
本当はそんなつもりなど微塵もないことを容易に窺わせている。
彼女のプライドは高い。決して人に対して詫びたりするようなことはしない。
と、頭上から物凄い突風が吹き下ろしてきて、全身が地面に押し付けられそうになり、
次の瞬間、自身の左と右に一つずつ、途方も無く巨大な赤色の何かが、轟音と共に落ちてきた。
その衝撃が大きく激しく大地が踊らせ、暫く突っ伏したまま身動きもままならず、何とか懸命にそれを堪える。
と言っても、この空気圧や地鳴りは決して直接自分へと何かしら力が行使されているわけではない。
あくまでも彼女の無意識的な動作が生み出した余波の一端でしかない。
ついでに言えば、例の赤いそれが着地したのだって、ここからはずっと遠く、
一つは大きな泉の反対岸だし、もう一方など連なる山々の更に向こう側。
それなのに余裕で目視出来る、それほどまでに巨大なのだ。
「あ、でもこれじゃあ気付かずに街ごと皆を踏み潰しちゃうかもね…ふふ」
相変わらず楽しそうな声が、先程よりも近く、格段に大きく轟き、恐ろしいことをさらりと告げてくる。
「あのなぁ…そんな生意気なことばっか言ってると、仕舞にゃ愛想尽かされちまうぜ、咲耶様?」
そう、この少女こそが、かつてこの国の人間達が畏れ、敬い、信仰してきた神そのものなのだ。
「…!」
その軽口が気に障ったのだろうか、上空から微かにムッとしたような気配が伝わってきたかと思うと、
今度こそ己の周囲に、と言ってもぎりぎり差支えないだろう、
太くて長い、しかし女性らしい特有の丸みと柔らかさを帯びた、白い柱が次々に何本も降りてきて、
そこいらにある大岩や、木々なんかをお構いなしにすり潰しつつ
あっという間に大地の奥深くまでめり込んだかと思うと、間を開けずに足元の地面がどんどん上昇し始める。
地に足をつけながらも、遥か天高く、真っ白な雲の中を猛スピードで突き抜け、
全方位深い群青色、空の真ん中、白い眩い陽光に曝け出されたところでやっと止まる。
「………だ、だから…こんな高さまで一気に持ち上げるなっての…それも地面ごと…」
急激に薄くなった酸素に視界がちかつき、痛む頭と軽い吐き気に苛まれながら、弱々しく抗議する。
視線の遥か先には、つい先程まで自身の肩にも届いてなかった少女の上半身が見えた。
その格好は村娘の粗悪な着物から一変、白衣(びゃくえ)に緋袴という彼女本来の巫女装束となっていて、
顔かたちこそ変わらないものの、いつの間にか大きな一輪花を模した髪飾りをのせている黒髪は色艶が深く、
肌も透き通るようにその白さが増し、唇と目元に薄く差された桜色の紅も伴って、
ぐっと大人っぽくなり、どこか神秘的で、妖美な雰囲気すら醸し出している。
ただし、それはあくまでもこのまま喋らなければ、大人しく無表情でいれば、の話なのだが。
目が合うと同時に彼女はすぐに愛らしいむくれ顔を作ると、逆に畳みかけるような反論が始まる。
「…あのねぇ?…首を曲げてずーっと下を向いて喋るのって結構疲れるんだからね?
 こっちだってたかが人間一人の為にわざわざ膝をついて屈んであげたんだよ?
 それに、持ち上げるのだって欠伸が出ちゃうほどゆっくり、ちょっとずつやってあげたんだし」
と言ってもそれはあくまでも彼女の尺度であって、こちらの体への負担は凄まじい。
が、やや釣り上がってこちらを睨みつけていた目からすぐに力が失せてなくなり、
彼女は一転して顔を曇らせると、すっと目を伏せる。
それから少し間をおいて、不意に弱々しくぽつりと呟いた。
「………いつまで…」
「…ん?」
「いつまで、こんな辺境の神様なんかを馬鹿みたいに信仰して、尊んで、戦い続けるの?」
「は…?」
「………さっきそう言ってやったのよ、あの人達に…」
「…はぁ?…何で突然そんなこと…。………まさか…!…自虐趣味でもあったのか…?」
「ないよ!あるわけないでしょ!………だけど…」
そこまで言って口を閉ざし、悲しげに目を反らす神様の、少女の表情から何となく察する。
何のつもりで彼女があんなところに紛れ込んでいたのか。
「………不安だった?」
「そ、そんなわけないでしょ!…た、試したの!そう、これは抜き打ちの試験だったのよ!
 もし、神様を忘れた不届きな愚民が居たら神罰を下してやろうと思っただけ!」
すると途端にむきになってそんなことを言ってくる少女。
そういうところは、本当にそこらにいる人の娘と変わらない。
「…んで?結果は?」
「………うん…すごく怒られた…。さくやはこの地を司る神様だから。
 …だから…そうやってさくやを罵り嘲るということは、
 即ちその自然に育まれて生きる獣も虫も木も花も、勿論人間達もみんなみんな含めて、
 世界そのものを愚弄する行為なんだ、て。だから、絶対に許せないんだ、て」
少し照れくさそうに言って笑う少女の顔は、微かに紅潮しており、とても嬉しそうだった。

「あー!それはそうと!約束の期限、もう過ぎているんだけど…例の計画とやらはどうなってるわけ?」
それから思い出したように、彼女が上げた大きな声は、何だか照れ隠しの様でもあった。
「もぉ…君達ってなーんか頼りないし…やっぱりさくやが直々に大都に出向いて粛清しちゃおうかなぁ」
ぷっと頬を膨らませて、如何にも何でも無いような口調でそら恐ろしい事を口走る。
凄惨な光景が一瞬頭を過る。大都を雲上の遥かな高みから見下ろし、巨大な草履で容赦なく踏み躙っていく美少女。
どんなに足掻こうとも踝にも届かない、蚊の一刺しに及ばない必死の攻撃を蔑みながら、
逃げ惑う民衆をもついでに巻き込んで、無慈悲に下ろされる、
正に大地の一部をそのまま具現化したかのような大きな御御足。
怒れる大いなる神、その前では抵抗する兵士も無抵抗な民も、老いも幼きも、男も女も関係ない。
その一踏みでどれだけの建物が圧し潰されて粉塵に帰し、どれだけの人の命が儚く消えることか。
恐らく都は一刻と経たずに潰滅、そこに住む人々の実に九割九分は死ぬことになるだろう。
「まぁ待てって。実は昨晩、同士から連絡が入ったんだ。随分時間がかかったが、
 首尾良く政殿の中枢に入り込めたらしい。だからもうすぐ吉報を届けられると…」
「むー…もうすぐもうすぐって…また?今度はいつなの?…明日?明後日?」
しかし間髪入れずに眉をひそめたその表情と返ってくる言い草は、外観相応の少女らしいもの。
いや、この艶姿からすると、もう少し落ち着いた振る舞いをした方が合っているようにも思われる。
「そうさなぁ…とりあえず、『稲穂の祀り日』まで…」
「えええええ!?それじゃまだあと半年もあるじゃない…!」
皆まで聞かずに不機嫌全開な顔と共に大きな声で大気を揺るがす彼女に、頭を下げて懇願する。
「頼むよ、状況は良くなってきているんだ。だから、もう少しだけ時間を…な?」
もう何度こうして頭を下げたか分からない。何度彼女の渋る顔を見たかもわからない。
しかし実際、これは嘘や気休めではなく、着実に計画は進んでいた。最近では同志もどんどん増えている。
この地に生きる人だけに生まれ、育まれてきた、半ば本能的な独特の信仰心。
神は何処とも分からぬ天の楽園より人々を見下しているのはなく、
また確かに強き力を有しているけれども、決して完璧万能な存在などでもなく。
自分達と同じようにこの世界に宿って、笑ったり、怒ったり、
そして時には泣いたりもしながら、一緒に暮らしているのだということ。
結果人々が神に対して抱くのは畏敬の念だけではなく、それに勝るとも劣らない強い親愛の情だった。
そして長きに渡って培われてきたその気持ち、その絆は、そうそう容易く枯れ果てるものではないのだ。
流石に今日明日に激変するということはないだろうが、いずれきっと国は元の姿に戻る。
「うん、わかったよ…。じゃあ、とりあえずもうちょっとだけ待ってあげる…
 い、言っとくけど、さくやのことを忘れた愚かで矮小な人間共なんて、どうでもいいんだからね!
 だけど…だからって一生懸命頑張ってる工作員君まで踏み潰しちゃったら可哀想だし…
 小さすぎて、どの人がそうなのかもきっと区別出来ないだろうから…」
いかにも不服そう頷く彼女だったが、その表情は明らかにほっとしたようなものになっている。
そう、彼女が真に恐れているのは、自らの手で自らの民を滅ぼしてしまうことなのだ。
たとえどんなことがあろうと、彼女は決して心から人を嫌いにはなれない。本当に大好きなのだ。
けれども、それでも自分が忘れ去られ、ただ風化して消えていくことを許せないのだろう。難儀なものだ。
そんなワガママで、気位が高く、そのくせ寂しがり屋で、そして何より本当は慈悲深くて、
この国が興ったその時より、いや、それよりもずっと昔から、この地に生きる万物を寵愛し、抱き、守り導いてきた大神。
「大丈夫、俺達はあなたを決して忘れたりしない。見捨てたりしない。必ず戦い抜いて国をあなたの元に還す。
 何しろ俺達は…この国が、あなたと共にあるこの国が好きなんだからな」

 尊大なる神、彼女は決して頭を垂れたりはしない。
それでも、その言葉に彼女が見せた晴れやかなその微笑みは、まるで『ありがとう』と言っているようだった。