砂漠の出会い

ギョチギョチと顎がなり、その牙と思しき突起の隙間からは緑色の粘液が零れ出していた。
もう一つのギリギリという、実に耳に心地悪いその音は、
高く振り上げられた毒針つきの尾の関節が鳴る音だろうか。
大サソリは最早勝利を、というより獲物の獲得を確信しているようで、
その獰猛な顔面には表情などありもしないはずなのに、まるでほくそ笑んでいるようでもあった。
少年は肩を落としてぜぇぜぇと大きく息を吐きながら、それでも虚ろな眼差しで敵を睨みつけ、
震える手でナイフの柄を握りしめる。と言っても、彼は既に戦意を喪失し、心は折れかけていた。
何しろそいつはパワーでもスピードでも圧倒的に少年に勝っていた。
それでもやや大ぶりな攻撃に最後の希望を見出し、懸命にそれをかいくぐって、
力一杯振り下ろしたナイフはその硬い皮膚にあっさりと弾かれてしまったのだ。最早勝ち目はない。
かと言って逃げることも叶いそうになかった。八本の太く逞しい足を器用に動かしての走行は、
全力疾走の少年には僅かに及ばないもののなかなかに速く、そして持久力には天と地ほどの差がある。
周囲に身を隠せるような場所など皆目見当たらないし、そもそも走る体力ももう残っていない。
こんな絶望的な状況で、唯一彼に助かる道があるとするならば、それこそ奇跡が起こることくらいか。
不意に耳障りな音がぴたりと止んだ。それがトドメの意志であることは少年にも本能的に分かった。
次の瞬間、一際高く掲げられた太く鋭い針が、彼の心の臓をめがけて真っ直ぐに振り下ろされる。
万事休す。少年は思わず反射的に目をつぶっていた。
『ヒュッ!!』
不意に鋭く風を切る音が間近にあり、刹那、右の耳にチリリと鋭い痛みが走ったような気がした。
『ヒギョアアアァァァァァアアアッッ!!!』
次の瞬間、身の毛もよだつ様なおぞましい絶叫が響き渡り、空気をぴりぴりと震わせた。
「……………!」
そして、少年を今にも貫くであろうと思われていた必殺の一撃は、いつまでたっても来なかったのである。
恐る恐る目を開けてみると、そこには尾をふりあげたままの大サソリの姿があった。
が、その格好こそ先程と変わらなかったものの、様子は明らかに異なっていた。
その残忍な目には既に光が無く、もうぴくりとも動かない。
その脳天に二本の矢が突き立っているのに気がつくのに些か時間がかかってしまったのは、
それらが余りに深々と、根元まで突き刺さっていたからだ。
少年の力では傷一つつけられなかったあの鋼の様に固い皮膚を貫き、
一瞬にして脳まで破壊する一撃、いや正確には二撃なのだが、果たして一体誰がこんなことを?
背後からざむざむという砂を踏む音が耳に届くのと、少年が振り向いたのはほぼ同時だった。
左手に大きな弓を携えて、やや早足に大股で歩いてきたのはハンターの男だった。
「………?」
その姿を見た瞬間、微かにではあるが少年は不可解な違和感を覚えて、小さく眉を潜める。
何か、何かがおかしい気がする。けれども、それが何なのかはわからない。
それに、何にしても自身を助けてくれたのはこの人に違いない。
その感謝の意と共に、ずっと魔物蠢く広大な砂漠に独りだったという心細さ、人恋しさもあって、
彼は心を弾ませて声をかけようとした。当然相手もまたそれに応じてくれるだろうと思っていた。
「あ、あの…」
ところが、そのハンターはまるっきり少年のことなど見えていないかのように、
無表情のまま彼の横をすり抜けて、サソリのすぐ横に転がっていた真っ黒の石を掴みあげると、
空にかき消えるように姿を消してしまったのだった。さながら風の如く。
それはあっという間の出来ごとで、残された少年は、暫し呆然と立ち尽くしていた。
そう言えば一目見た時のあの違和感の正体は、おそらくだが『鷹』だったのかもしれないと今更思う。
通常ハンターというジョブは索敵や戦闘のサポート役に鷹を一羽、相棒として連れ歩くものなのだが、
今にして思えば男の周りにその姿は無かったのだ。
とはいえ、彼が故郷の町で見てきたほぼ全てのハンターがそうであったというだけで、
別にそうでなければいけないということはない。
それに、あの時抱いた言い知れぬ感情は、そんな単純で表面的なことではなく、
もっと根本的なことだったようにも思われるのだが。
どちらにしろ、今となってはそれはとても些末な、どうでもいいことだった。
今や少年の中にある、先のハンターに対する思いは、ひとえに感謝の心であり、
その旨を伝えられなかったこと、しっかりと礼を述べられなかったことに対する心残りだけだったのだ。
と、そこでふと右の耳に痛みを覚え、少年は我に返った。
驚いてそっと触れてみると、いつの間に耳たぶが裂けていて、血が出ていた。
他にも左腕に痣(あざ)、それと右膝の少し上あたりに擦り傷が出来ている。
とは言え、どの傷に関しても多少の痛みを覚えるものの、
幸い普通に歩く分には支障が出ることは全く無いようだった。正しく九死に一生。
しかしながらまだまだ危機的状況にあるのもまた事実である。
元々苛烈な環境で疲弊していた上に、襲われて無我夢中で動き回ったものだから、消耗は大きい。
それに今の大サソリの悲鳴が仲間を呼び寄せでもしたら、今度こそ一巻の終わりだ。
少年は少々無鉄砲な直情型気質で、考えるよりも先に体が動いてしまうこともままあったが、
それでもこの広大な砂漠で二度も人が通りかかるラッキーを期待するような、無根拠の楽天家では無かった。
何にしても、もし、次に会うことが出来たら必ずまず謝意を伝えよう。
彼はそう心に決めると、前方を見据えて、しっかりと一歩足を踏み出す。
もう疲れ果てているはずなのに、その足取りはほんの少しだけ軽くなっていた、ような気がした。


慢性的に削られていく体力、それに魔物に対する不安といつ終わるともなく続く同じような光景。
そんな状況にあったからこそ、ほぼ同時に少年にもたらされた二つの喜びは、無上のものとなった。
一つは向こうの方に見えたオアシスの存在。水は正しく命の源である。
加えて木々や茂みで直射日光は避けることが出来るし、魔物からも身を隠すことも出来る。
しかも砂漠に生息する魔物は熱に強い一方で、水を苦手とするものが少なくないのだそうで、
最悪襲われたとしても泉に飛び込んでしまえば追ってこられないのだという話も聞いたことがある。
疲れ果てた体を一時的に休めるにはもってこいの場所だ。
そして、もう一つの喜び、それは、オアシスよりも手前に人影があったことだった。
近づいていくにつれて、少年の顔が綻んだのも無理からぬこと、何とそれは先程の彼のようなである。
よもやこんなにも早く再会できるとは思ってもいなかったことだ。
けれども、ぼさっとしていたら、またすぐにどこかにいってしまうかもしれない。
早く、早く声をかけなければ。少年はなかなか縮まらない距離に僅かばかりやきもきしながらも、
可能な限り早足にて彼を目指して進んでいく。
ところがその時、何の脈絡もなく、唐突に辺りが薄暗くなった。
これまでずっと後頭部に照りつけていた太陽が、とても大きな何かに遮られたのだ。
「え…?」
小さな声と共に反射的に振り返って見上げる少年。
「なっ………!」
そして、それっきりその開いた口は塞がらなくなってしまった。
そこに広がっていたのは砂漠の青空ではなく、赤色がかった黒の布状の何かだった。
いや、それよりも驚かされたのは、いつの間にか自身の両サイドに一本ずつそそり立っていたものの存在。
半ば砂に埋もれ、尚も重みによってか少しずつ沈みこんでいっている深いえんじ色の土台らしきものの上に、
天を衝くかのような白色の柱、いや、その大きさは塔と呼んだ方が正しいかもしれない巨大な物体。
どうやら二柱は互いにもたれかかるかのように少し傾いているようで、
少年のちょうど真上辺りにて交わっているようにも思われるのだが、
幾ら視線を上へと向けて目を凝らしてみても、そのてっぺんは余りに高く、遠く、
また、あの赤色の布が包むようにして作る影が深く、濃くなっていることもあって、
どうなっているかはっきりとはわからなかった。
それにしても解せないのは、これほど巨大な存在に自分がつい今の今まで全く気がつかなかったことだ。
幾ら消耗していたとはいえ、このような視界の開けた砂漠の真ん中で、
その間を通り抜けるまで、その存在が目に入りすらしなかったなど、どう考えても、
(ありえない…)
そのうちの一本を見上げながら、思わず少年は小さく首を振る。
しかし、だとしたらこの現状をどう説明すればいい?
その問いに対する至極単純明快な回答は、すぐに彼の頭に浮かんできた。
即ちこの途方もなく巨大な物体が、自ら動いて、たった今ここに現れたということ。
(いや、幾ら何でもこんな大きなものが移動するなんてやっぱりありえ…………な…!)
と、この可能性もまた否定しようとした、正にその瞬間だった。
まるでそんな少年の考察を見透かしでもするかのように、不意に見詰めていた塔が殊更深く、
砂へずぶりと沈み込んだ。同時に背後からは何か大きなものが空気を押し流してくる気配を感じる。
はっとして振り返ると、何とそこにあった筈のあのもう一方の塔が無くなっているではないか。
ほんの僅かの時しかたっていないというのに、一体どこへ?
信じられない面持ちで慌ててそれを探す少年の耳に届く、さらさらさらという微かな音。
それが砂の零れおちる音だと気が付き、見上げた彼はそれをついに発見する。
「そ、そんな…!」
圧巻な光景だった。あんなにも巨大なものが、あんなにも高く高く、持ちあがっていっているのだ。
少年はただ呆然と、その動きを目で追い続けるしか出来ずにいた。
そんな視線の先で、柱の土台がある程度の距離を進んだかと思うと、次の瞬間、
『ズドオオオォォォォォォォォォォォッ!!!』
それはこれまでに少年が体験したことのない、ものすごい轟音と大爆発だった。
「う、うわあぁっ!?」
穏やかな動きから一転、急スピードでそれが落下し、砂地へと叩きつけられたのだ。
少年は咄嗟に両手で顔を庇って足を踏ん張ってみたものの、
すぐに吹き飛ばされそうになってうずくまってしまう。
舞い上がった砂がぱらぱらと降り注ぐのを感じながら、頭を抱えること暫く。
『ズズズズズズズズズ………』
尚もその唸り声の様な余韻が地面を小さく震わせる中、少年がやっと顔を上げると、
あの白い巨塔が砂煙の向こうに、悠然と聳え立っていたのだった。
そう、つい先程まであのハンターが立っていた、正にその場所に…。

少年は余りの事態に、全身が麻痺でもしてしまったかのようにまったく動くことが出来なかった。
言葉も出なかったし、目の前の光景を理解することも叶わない。
(どうして……何の……一体……そんな……!?)
思考もまたちっとも働かず、頭の中に散発的な単語ばかりが浮かぶばかり。
そんな少年の見ている前で、深く抉られた砂地から、引き上げられる。
「!?」
慌てて立った今できたばかりのクレーターの中心を覗きこもうと、立ち上がる少年。
けれどまるで少年にそれを見せまいと蓋でもするかのように、あの塔がすぐに再臨する。
『ドズン…』
先程よりも低い所から、勢いも小さく、ハンターが居たであろう場所に大人しく下りてきたそれは、
しかし、接地すると同時に小さく捻るような動作を何度も繰り返し始めた。
今度はより力強く、より重々しく。まるで擂り潰すように、再び土台が沈み込んでいく。
そんな動きが、少年に自分を取り戻させた。
その余りの巨大さ、強大さ故に、彼は今の今まで諦観の念を抱き、半ば放心状態にあったのだ。
少年はそれを、人間の力ではどうしようもなく、またどんなに恐ろしい魔物でも遠く及ばないような、
言うなれば天災のような、万物を圧倒的に超越した存在なのだと考えていた。
けれども、今の無慈悲な駄目押しには、明らかに意思めいたものがあり、生き物臭さを感じさせたのだ。
「………こ、この…!…やめろぉ…!」
同時に次の瞬間彼はナイフ鞘から引き抜くと、その化け物柱の元へと向けて砂を蹴っていた。
そびえ立つそれに比べると、手にした刃は、そして何より自身は余り頼りなく小さい。
自分は大サソリに手も足も出なかった。そんな大サソリを一瞬二撃で葬り去ったハンター。
そしてそんなハンターを抵抗する隙すら与えず、下敷きにしてしまった圧倒的に巨大な化け物。
それは、さながらたった一人で城でも突き崩そうとしているかのような、無謀な行為なのかもしれない。
けれども彼にとってそんなことは二の次だった。自分の命を救ってくれた人が殺されたかもしれない、
そう考えるだけで頭に血が上って、矢も楯もたまらなかったのだ。
一方当の白い塔はと言えば、今はもう動きを止め、暫くそこに沈黙を守って立ち続けていた。
が、やがてハンターにのしかかった時を逆回しにする様に、三度持ちあがると、
今度は少年のすぐ目の前に下りてきたのだ。
『ズゥン…』
静かに、しかし重々しい地響きが先よりもずっと間近で発生し、
それに足を取られ、全力疾走していた少年は、その惰性にも背を押されて前のめりになり、
えんじ色の壁にまともに顔から突っ込んで、強打してしまう。瞬間的に真っ白になる視界。
「う…痛っ…」
けれどもその動きは先のそれと比べれば勢いも威力も無いに等しく、
また受けたダメージにしても、半ば自滅とも呼べるようなものによる軽い脳震盪のみ。
次のターゲットは自分、ということなのか、或いは『行かせない』という意思表示なのか、
単にもて遊ばれているだけなのか、それとも半人前の自分などそもそも相手にしていないのか。
一変してあまり攻撃的ではないそんな挙動に意図が測り切れず、少年は少しだけ混乱してしまう。
が、すぐに気を取り直して、落としたナイフの柄を握りしめて立ちあがると、
一度回れ右をして距離を取り直すべく数メートル程駆け戻り、
土台だけでも自分の身の丈より高さがある柱をぐっと睨みつけて油断なく武器を構え直す。
「ん、よし…」
不意にそんな彼の耳に聞こえてきたのは、そんな満足げな人の声…と思しきものだったのだ。
出所ははっきりとは分からない。何となく真上、つまり今も尚彼の上空を占拠している
あの二本の柱の合流地点と思しき方向からだと思うのだが、
体感的にはもっともっと遠く、即ち高い所から聞こえてきたようにも思う。
ということは、もしかすると、それはこの柱を操っている何者かの声なのかもしれない。
けれども、その声質はこの途方も無い巨大さ、残酷な獰猛な振る舞いを見せつけた柱とも、
そして、この灼熱砂漠という熾烈な環境ともおよそ結びつかない、可憐で、透き通った、
まるで若い女性を思わせるものだったのである。もう少年にはわけがわからなかった。
いっそ極限状態で自分がおかしくなってしまったのではないか、とでも考えた方が筋が通りそうな状況。
けれども幻覚でも無ければ悪夢でも無い。まるで、それを主張でもするかのように、
ズズリという砂を擦る重い音が斜め後ろから聞こえてきて、少年がはっとして振り返る。
すると、これまでまったく動きを見せていなかったもう一方の柱の土台が斜めに傾き、
半分ほどが地から離れた状態で、地を滑る様に移動し始めたのである。
音は地についたままの土台の砂が、砂をかきわけ、押し退けていくものだった。
真っ直ぐに砂に刻まれたその軌跡は深く、広く、一直線に砂漠をえぐり、まるで干上がった堀か何かのようだ。
そんな壮大で圧倒的な光景は否が応にも彼の視線を釘付けにしてしまう。
が、のんびりとそんなものを眺めている場合ではなかったのだ。
ここにきて彼は自分の上に日陰を生み出していた巨大な影が、更に大きく広がり出し、
同時に周囲の明度が徐々に絞られ(しぼられ)てきていることに気がついたのだ。
驚いて見上げれば、何と件の白い柱が途中から折れ曲がりながら傾いてきていたのである。
それに伴ってあの赤色の布地もまた、まるで夜の帳を落とすかの様に地面に届き、光を遮る。
『ズズン』
程なくそれは、くの字に曲がりながら地面に横たわり、鈍重な振動と音を生み出す。
続いて、やはり二本の柱は頭の上で繋がっていたことを示唆するように、
今度は少年が対峙していた方の柱が動き出そうとする気配を見せる。
ここにいてはまずい。咄嗟にそう判断し、少年は横っ跳びになる。
もし、そのまま突っ立っていたら、確実に轢き潰されて、砂に埋もれていたことだろう。
案の定、間一髪で一本目のそれと全く似たような動きで彼の元居た場所を土台が通過して行き、そして、
(か、囲まれた…!?)
巨大な柱の動きの巻き添えこそ辛うじて逃れたものの、
両サイドを横倒しになった白い柱に挟まれてしまった格好となり、その薄暗い空間に少年は焦る。
「…!」
しかも、続いて今度は、これまで遠く影の中にあって見えなかった柱のてっぺん部分、
二本の塔の合流部分がおぼろげながら姿を現したのだ。
それは件の柱の土台なんかよりもずっと大きく、丸みを帯びていて、
高価なドレスか何かを彷彿とさせるレースを施された布らしきものに包まれているようだった。
と、こんな薄暗闇の中でもそんな風にしっかり認識できるようになっていたのは、
言うまでも無く、それが近くに迫ってきているからだ。それも今も尚、現在進行形で。
(押しつぶす気?)
落下してくる巨大な物体によって生み出され、吹き下ろしてくる空気の塊の圧迫感を
全身で感じながら為す術も無く見上げる少年。
『ズドゴオオオオオオン』
「うわっぷ…」
飛ばされ、転がり、呑まれ、埋まり。少年の視界は暗く閉ざされてしまったのだった。


闇と沈黙、陽の光も、空気の流れも、動くものの気配も無い、そんな空間。
「う…あ……あれ…?」
てっきり自分もまたあの巨大の化け物によって押し潰されるものとばかり思っていた。
が、意外にも彼は無事だったのだ。かぶった砂が入ったのか
何だか口の中がじゃりじゃりとして気持ち悪いものの、特別痛む所も無い。
恐る恐る身を起こそうとして、少年は自分の上に何か柔らかいものがのしかかっているのに気がついた。
ある程度の重量こそあるものの、さしあたってそれに潰されるということはなさそうだ。
けれども、自分はほぼ間違いなく、あの巨大な化け物に囚われの身となっているのであり、
次に何が起こるのかも、まるで想像もつかない。とにかく一刻も早くここから脱出するべきだ。
自身の上に覆いかぶさっているそれが、どうやら広大な布のようなものであることを全身で感じ、
同時に恐らくそれが二本の塔を包むように垂れ下がっていた、あの赤いカーテンらしきものであると
推測した少年は、手探りでナイフを抜き放つと、力いっぱいそれを突き立ててみた。
もしその想像が正しいのであるのならば、外に逃れる最短の道はそれを突き破ることだと考えたのだ。
手応えは、あり。けれども、そこから引き裂こうと両手で柄を握るものの、ぴくりとも動いてくれない。
小さく肩で息を吐きながら、仕方なくそれを引き抜くと、注意深くその部分を調べてみる。
が、それには全く変化は見られず、もうどこに刃を立てたのかすら、分からなくってしまっている。
突き刺さったと思ったこと自体気のせいだったのか、それとも瞬時に穴が塞がってしまったのか。
どちらにしても、どうやら上への突破は叶わないらしい。とすると、残る道は横。
ただ問題なのはどちらへ進めばいいのか分からない、ということだ。
景気良く吹き飛ばされて何度も転がった上に、前も後も等しく薄暗闇というこの状況。
とは言え、勿論このままこの場に留まって考えていたところで正解が分かるということも無いだろう。
となると、結局最後は自身の運次第、ということになるか。
「………」
少年は小さく首を横に振る。それは13年と半年の人生経験から、正直最も自信のない分野の一つだった。
そこで、運では無く勘を頼りにするのだと自分に言い聞かせ、思い直してみたりする。
はっきり言ってどちらにしても同じようなものなのだが、そこはそれ、要は気持ちの問題だ。
そうしてとった方法はと言えば、結局短剣を砂の上に立てて倒し、柄が向いた方向へ進む
………と見せかけて、やっぱりその逆へ向かう、という何だかややひねくれたもので。
どうにか両手で布をかきわけ、くぐり抜けながら暗中を模索して進むこと暫く。
自分を取り巻く環境に小さな変化が現れ始めたことに少年はふと気がついた。
これまで砂地に接していた布が持ち上がり、徐々に高くなってきたのだ。
四つん這いから中腰、やがて普通に立ちあがっても、頭が届かなくなり、
これは正解の兆し、いよいよ出口に近付いてきたと思っていいのだろうか。
しかしながら、そんな小さな期待に胸が膨らみ始めた矢先に、
「あぁ…」
思わず落胆の吐息と共に声が零れたのは、何かに行き当たり、道は塞がれてしまったからだった。
それは圧倒的な存在感を放つ巨大な壁で、試しに力一杯押してみたがびくともしない。
感触から察するに、壁は木目細やかで滑らかな布に覆われているようであり、
微かな温もりや弾力、それに湿り気を掌に伝えてくる。
恐らくはつい先程自分を押しつぶそうと上から迫ってきたあの丸みを帯びたものなのだろう。
とりあえずきっとルートは不正解。回れ右をして真っ直ぐ引き返すのが今取ることの出来る、最善の選択か。
自分の運だの勘だのなどというものは所詮こんなものなのだろう。
そう分かっていながらも、それでもついつい未練がましく手探りでそれを調べ回ってしまう少年。
「ん…?これは…」
そんな彼が動きを止めたのは、突然手に伝わってくる感触に大きな変化があったからだ。
ぷにぷにという殊更柔らかい感触で、変わらずその表面は滑らかなのだが、質感がかなり異なる。
仮にこれまで触れていた個所が布によって守られていたとするならば、対するそこは、
「露出…?」
という感じであり、もしその推察が正しいのだとすれば、つまるところそれは…
「…弱…点…?」
だったりするのではなかろうか。
そう告げているのは、たった今幻滅したばかりの、全くアテにならない自身の勘なのだが。
いや、果たして本当にそうだろうか。根拠も何もない当てずっぽうだと片づけてしまっていいのだろうか。
少年は今一度自問し直す。今目の前に横たわっている巨大な壁が、二柱を統べるものであったことは
実際に自分自身で目視し、確認したのだから多分間違いない。
そして、それを化け物の中核、或いは中心とイコールで結ぶことは、決して突飛な発想ではないのだ。
そうであるのならば、自分はそんな化け物の懐に潜り込んでいるとも言えるのではなかろうか。
つまりあの化け物に対して大きなダメージを与えることが出来る千載一遇のチャンスの可能性。
とは言っても、結局何だかんだ言っても推測の域を脱すことは出来ない。
最後は自分をここまで導いてきた勘を、運を信じるべきか、信じざるべきか、ということになってしまう。
迷ったのは一瞬だけで、少年は覚悟を決めてすぐに三度ナイフを抜き放つ。
そして、三歩ほどの距離を開けたところから、助走と共に渾身の力をこめて、一気にそれを突き立てたのだった。

「ひゃうっ…!」
大きな振動と共にそれがびくんと震えたかと思うと、間髪入れずに短い悲鳴のようなものがあった。
やはり、それは人の声のようであり、先程のそれと同じ女性のものだったように思われた。
けれども、今、そんなことを悠長に分析している暇などありはしなかった。予想以上の反応あり。
ずずずと辺りの布が押し寄せてきて、それに巻き上げられてしまうかと思えば、
今度はばたばたとそれが激しく振られて放り出され、打ちつけた胸に一瞬呼吸が止まる。
「う…ぐ…!」
けれども、そこが砂漠、柔らかい砂であったことが幸いし、それほどのダメージはない。
それよりもきつかったのは急激な光の量の変化だった。
思わず顔をしかめ、両目を庇い、それでも懸命に周囲に視線を配る。
あいつは、あの化け物はどこにいったのだろう。あれほど巨大なのだ。
幾ら目がぼやけていても、すぐにわかりそうなものなのだが、不思議とどこにも見当たらない。
「灯台元暗し…とはよく言ったものだけど…」
不意にまた遥か上空から声があり、少年はびくりとした。今度こそ、聞き間違いなどでは無い。
確かに人の、しかも若い女の、意味のある、言葉だった。
と同時にただならぬ攻撃的な、刺すような気配を背中全面に感じ、少年は顧みる。
目の前に聳え立つのは正体不明の、山の様な存在。おそらくはあの化け物。
上へ、上へ。視線を這わせるように、ゆっくり、ゆっくりと声が聞こえてきた方へと持ち上げていく。
布地の隙間から覗く、あの柱。陰の中で見ていたので微かに桃色がかっていることに初めて気がつく。
その垂れ下がった赤色の布には大きく白色で十字架の模様が施されていた。
そして、二柱が一つに合流しているであろう辺りに幾重にも巻かれた白い帯状のもの、
更に上へ、上へ。それはもう、首が痛くなるくらいに顔を上げて。
その先には再びあの赤の布地と、その真ん中に通った一本の白のラインが、
なだらかな曲面に押し上げられて膨らみを作りながら遥か高みへと続き、そして…
「………!」
言葉はおろか、声すら出すことは叶わなかった。
彼の視線がついに行きついたのは、間違いなく人間の、それも妙齢の女性の顔であり、
そして、まるで虫けらでも見下ろすかのような、一対の蔑みの瞳が自分へと据えられていたのだった。
少年はこれまでずっとこの化け物について、少なからずあれこれと想像を巡らせていた。
何しろこれほど巨大な存在なのである。その全体像は一体どれほど人外でおぞましいものなのだろうと。
それこそ自身の故郷に伝わる伝説、封印されし邪悪なる魔王にまで思いを馳せながら。
けれども、陽の光を受けて神々しいほどにさらさらと輝くたんぽぽ色の髪に、
澄み渡った泉の様な青色の瞳、砂漠の町生まれにはない色白の肌に聡明そうで端正な顔立ち。
今、彼が目の当たりにしているのは、大きさこそデタラメではあるものの、
紛れも無く20歳前後の、年頃の女性以外の何物でも無かった。それも息を飲むほどの美人。
しかも、少年はその格好、服装について心当たりがあったのである。
故郷で何度か見かけたことのある、少年にとっては遥か彼方の、遠くから眺めるだけの高嶺の花。
けれども、いつかは共に肩を並べて魔物たちと戦いたい、そんな風に心に秘めてきた憧れの存在。
慈悲深さと威厳を兼ね備えた、高潔にして敬虔なる神の申し子、ハイプリースト。
けれども、少年が呼吸すらも忘れていたのは、その美しさに見惚れていただとか、
憧れの存在と対峙している緊張や喜びからだとか、そんなことでは断じてなかった。
その相貌はまるで彫像のように冷たく整っており、そこから何かしらの表情を見てとることは出来ない。
けれども、そんな中でただ一点、涼やかな、マリンブルーの宝石を思わせる双眸の奥に、
静かに、しかし確かに怒りの炎が灯っていのがありありと分かったのである。
少年はその迫力と威圧感に気圧され、射竦められ、身動き一つとれなかったのだ。
「大人しくしていれば…そのままやり過ごせたかもしれないのにね?お人形さん?」
相変わらず表情は均整を保ったまま、その瞳は据わったまま。
その外観に相応しくたおやかな声色は、しかし平らかで、語末以外に殆ど抑揚がなく、
そして巨躯に相応しく、大気を微かに震わせて伝わってくる。
一方の少年は信じられない面持ちで、ただただ彼女を見上げる事しか出来なかった。
よもや、あの化け物がとてつもなく大きな聖職者の巨人だったなんて。
しかし、そんな受け入れ難い事実を知ってしまった今、
彼はこれまでに見てきた何もかもを残らず、しかもかなり容易に把握、説明することが出来た。
先程あのハンターを無慈悲にも押し潰した柱の土台は彼女の靴。
上空で揺れる広大な赤色のカーテンは彼女の服。
その隙間から覗く天高く聳える柱はその太腿まで長い靴下に包まれた彼女の足。
そして自身が闇の中、つまり座った彼女の服の中で、無遠慮に触ったり、思い切り刃で突いたりしたそれは…
よく見れば、彼女の右手は後ろに回り、尻の辺りにあてられている。
と、これまでじっと自分を見下ろしていた彼女に唐突に動きが生まれた。
「ま…!」
『待って』そう言葉が出るよりもずっと早く、自分の上に大きな影が生まれたことに気が付く。
反射的に見上げれば、視界にはどんどん大きくなっていく彼女の靴の裏。
少年は抜けそうな腰を懸命に叱咤して、必死に後じさりをするも、
足は己の意思に従わず、程なくもつれて、ついには尻もちをついてしまう。
『ズザアアアァァァァァン!!』
「う…あ………」
紙一重。辛うじて踏み潰されることは避けたものの、恐れの余り声が出なくなり、
へたり込んだまま震えながら少年は彼女を見上げることしかできない。慈悲を求めて縋る様に。
けれども彼女の表情にはまるで変化は見られなかった。
自分を、人を踏み潰そうとしておきながら彼女は眉一つ動かすことなく、
再び足を持ち上げ、迷いの無い動きで、自身の真上へと移動させてきたのだ。
殺される。このままでは確実に殺される。いやだ。死にたくない。
理屈ではなく、本能の根底から湧きでてくる絶対的な恐怖心。
少年はなかなか上手く立ちあがれず、両手も使って、まるで畜生のようにただただ必死に駆け出す。
けれどもものの数歩もいかないうちに、今度は自分のすぐ真横に唸りを上げて巨大な彼女の靴が着地し、
それに煽られて、少年は勢い良くごろごろと砂の上を転がる。五回転、六回転。
やっとそれが止まり、起き上がろうと顔だけあげた瞬間、
『ドオオオオオオ』
間髪入れずに、今度は足元の方向辺りからから衝撃があり、
それと共に、さながら砂洪水とでも言うべき夥しい量の砂に全身を攫われながら、
まるで毬のように軽々と後方に吹き飛ばされて、二度、三度とバウンドする。
「あらあら、無様。いつもの様に飛んで逃げたりはしないのかしら?お人形さん」
『飛ぶ…?』『逃げる…?』何を言っているのかさっぱりわからなかった。
『人形』というのは、彼女から見れば確かに自分は指人形にも満たない程の大きさしかなく、
つまるところ、その惨めな程のちっぽけさを嘲って、そのような言葉を使ったのだろうか。
けれども『いつものように』というのはおかしい。何しろ自分は今日初めてここにきたのだし、
何の伝手もコネもない一介の駆け出し冒険者にハイプリーストの知り合いだっているわけない。
ましてやこんな山の様に大きな人間など見たことも聞いたこともないのだ。
半ば砂に埋もれ、彼女の侮蔑とも嘲笑ともつかぬ冷たい声を背中に浴びながら、
少年は最後の試みをなそうと考えを巡らせていた。とは言っても、勿論戦おうというのではない。
そんなことをしても無駄なことは、もうとっくにわかっていたから。
言葉による呼びかけ。確かに途方も無く大きい彼女だったが、それでも自身と同じ言語を喋っているのだ。
それに、恐らくではあるが、彼女は少なくとも今のところ手加減してくれている。
その理由は皆目見当がつかなかったが、もし彼女がその気があるのならば、
自身の命などそれこそ一瞬のうちに消し去ってしまうことができるだろう。
それくらいのことは少年にも理解できていたから。
だからこそ、ちゃんと事情を話せば分かってくれるかもしれない。
そんな一縷の望みにかけ、恐怖と絶望で今にも手放しそうになっていた理性を駆って、
少年は必死に頭の中で伝えるべき言葉を組み立てていく。
きっとあなたを勘違いしているのだ。確かに僕はあなたに失礼なことをしてしまったかもしれない。
だけどそれは何も知らなくて、ただ自分を助けてくれたハンターさんの身を案じる一心で…。
そう、もしかしたら気がついていないかもしれないけれども、あなたは人を踏み潰したんだ。
でも、今ならまだ、魂が黄泉の門をくぐってしまう前であれば、
それを呼び戻し、復活させる蘇生術が間に合うかもしれない。ハイプリースト様なら出来る筈です。
だから、こんなことをしていないで一刻も早く彼を助けて欲しい。
もし、それでも尚、自分を咎めるというのであれば、後でどんな罰でも受けるから…
発する言葉を決め、どうにか立ちあがるべく両手に力をこめようとした瞬間だった。
不意に下から胸部を、いやそれどころか胴全体を突き上げるようなドンッと言う
鈍重な衝撃があって、全身が突き上げられたかと思うと、
一瞬後に今度は背中からも重い何かがのしかかってきて、挟まれ、締めあげられる。
『…ビギ…メリ…グリャ…』
拉げて嫌な音を上げたのは、決して胸当てや背負った鞄だけではないだろう。
一瞬遅れてこれまで経験のしたことの無いとてつもない痛みが、彼の脳へと一斉に押し寄せた。
「ぐ…ぎ…あが…!」
その圧力にろくにも声も出なかったが、その大きな何かは決して少年を解き放とうとはせず、
それどころかますますギリギリと力を強めながら、乱暴に彼の体を砂から引きずり出して、
そのまま一気に遥か天高くへと釣り上げたのだ。
問答無用の急上昇。地はどんどん遠ざかり、やがて少年の目の前には大きな女性の顔が現れる。
改めて正面から見たその相貌は、やはりとても美しいものだった。
「あーあ、捕まっちゃったね?」
けれども微かに浮かべられた冷笑に、穏やかだが一片の温もりも感じられないその言葉、
そして何より、あたかもガラスか何かで作られた人形のそれの様に、全く揺らぐこともなく、
自身を正面から冷たく射抜いてくる青色の視線に、少年ははっきりと思い知らされる。
今まで彼女が見せていた力加減は、所詮自身を嬲るためだけのものだったということ。
そして、どんなに手を抜いていても、彼女は決して最終的に自分を助けるつもりは無いのだということを。
今も自分の前と後ろから、凄まじい力をかけてきているのは、どうやら彼女の指らしかった。
彼女からすれば、これもただ何気なく摘まんでいるだけ、なのだろうか。
けれども少年にとっては、全身を容赦無く、そして際限なく締め上げ続ける、さながら悪魔の拷問機であり、
息が吸えず、声も出せず、そうして全力で逃れようとしてもびくともしない。
胸が、脇腹が、肩が、ビキビキと軋み続ける中で、時にグシャリ、ボキリという生々しい音があり、
慢性的な苦痛を飲みこんで、狂ってしまいそうな激痛をもたらされる。
「う…うう…あ…」
最早身も心もぐしゃぐしゃに潰されて、それでも少年は最後の力を振り絞って
懸命にぱくぱくと口を動かそうとする。けれども、やはりとうとう声は出てこなかった。
代わりに大きく咳き込み、まるで絞り出されるような喀血が、
今にも自分の胴体を押し潰そうとしている白い指の上に赤くまき散らされた。
口一杯に溢れ出た真紅のそれと共に、急激に感覚が、即ち命が抜け出ていくのが自分でも分かった。
まさか自分の夢への挑戦がこんな風に幕を閉じるなんて思ってもみなかった。
旅立ったその日に、文字通り聖女のような巨人に捻り潰されて死ぬことになるなんて。
諦めと共にいよいよ霞んでいくその視界の中、彼が最後に目にしたものは、
意外にも一変して表情を宿し、ひどく強い戸惑いと驚きを湛えて、
まるであどけない少女をすら思わせるかのような、大きく、大きく見開かれたライトブルーの双眸だった。