別れ、無いであろう再会を願って

そんな反則的と言っていいほど快適快速安全な道程の後、
辿り着いたオアシスは少年が想像していたよりもずっと大きく、緑も豊かに覆い茂っていた。
彼女はそんなオアシスをゆっくり周回した後、余り木の立っていないところを選んで座ったのだった。
そこは、彼女の感覚ならば問題なく泉のほとりなのだろうが、少年からすれば水はまだ些か遠い。曰く、
「ごめんね、なるべく木を潰したくないから」
とは言っても、せいぜい片道十メートルそこそこ。問題になる距離でも無い。
早速下ろしてもらって水分の補給を。そう考える少年を余所に、
掌は彼を載せたま、わざわざ泉の上、水面すれすれへと移動してくれる。
何だか至れり尽くせりで些か過保護な扱いと思うが、目前に迫った水への魅力に勝てる筈もなく、
また折角の彼女の厚意を断ってまで歩くのも、それはそれでおかしいわけで。
「あ、落ちないように気をつけて」
大きく身を乗り出して水に手を伸ばそうとすれば、すかさず背後からあるそんな注意は、何とも彼女らしい。
覗きこめば、涼しげな水面は陽の光を映してさらさらと輝いている。
飛び込みたい誘惑に駆られるものの、そんなことをすれば、
彼女を大いに慌てふためかせてしまうのが目に見えているような気がして、そこはぐっと堪える。
それから、少年はまるで犬か何かがするように顔を近づけ、暫く一心不乱に水を喉へと流し込んだ。
やがて少年が満足し、持っていた空の水筒も一杯に満たして顧みると、
青色の瞳が少し驚いたように、見開かれているのに気が付き、彼は思わず尋ねた。
「え?な、何?」
「ううん、何でも」
そうは言いつつも、続いて今度は何だかものすごく楽しそうな微笑みを見せるものだから、
つい疑惑の眼差しを向けてしまう。すると、彼女は笑顔のままで今度はあっさりと白状した。
「本当に大したことじゃないのよ?ただ…随分と一生懸命飲んでいたなって。よっぽど喉が渇いていたのね」
流石に、その様子がおかしかったとまでは言わなかったが、要するにそういうことなのだろう。
『そんな行儀の悪い、オークみたいな食べ方をするナイト様がいるかい』
同時に耳にたこができるほど聞かされてきた、家での母親の説教の常套句が少年の頭を過る。
瞬間的に自分の頬がカッとなったのは、決して照りつける直射日光のせいではないだろう。
これまでは煩わしくて、ただただ邪険にしてきたわけだが、
同じような物言いでも、相手、声調、言い方が変わるだけで、こんなにも威力が変わるものか。
幾ら喉がカラカラだったとはいえ、流石にはしたなさすぎただろうか。呆れられただろうか。
しかし、そんな少年の動揺を余所に、彼女は尋ねてくる。
「もういいの?」
「う、うん」
答えると掌が静かに引き戻され、先程と同じく腿の上に下ろされる。
続いて今度は彼女が僅かに前傾姿勢になって、水を飲み始める。
片手で垂れる金色の髪を軽くかきあげ、押さえながら、もう片方の手でそっと水をすくう。
きっとあの一回一回が自分ならば水浴びが出来てしまうくらいの量なのだろうが、
なるほど、その所作には品があり、自分のそれとは比べ物にならない。
というか、もしも彼女が自分と似たような粗暴な動作で飲食をしていたら、この大きさ故
圧倒されるのはいうまでもないことだが、それ以前に何だかすごくがっかりな気がする。
こくんこくんと慎ましく規則的に動く白い喉をぼんやりと見上げながら、
生まれて初めて、自発的に自分の食事に気を配ろうとこっそり心に秘めた少年だった。

それから二人は改めて互いに自己紹介をし合った後、大いに話に花を咲かせたのだった。
とは言っても殆ど専ら少年が喋り役、ハイプリーストの巨人が聞き役。
少年は自分がここから西にある砂漠の町モロクの出身であることや、
騎士に憧れるようになったキッカケ、その夢の第一歩として半ば家出同然に家を飛び出し、
王立の剣士ギルドの門を叩くべく、王都プロンテラの衛星都市である
イズルードを目指す道中であったこと等を彼女に話して聞かせた。
自分ばかりが喋りすぎている上に、こんな大した経験もしてきていないノービスの話など
聞いていても面白くないのではなかろうか、最初こそそんな心配をしていたものの、
彼女は嫌な顔一つしないで、それどころか本当に楽しそうに、うんうんと話を聞いてくれるものだから、
ついつい、少年としても口をついて次から次へと言葉が出てしまう。
ちなみにその間、遠く彼方からあの狼達のものと思われる遠吠えこそ小さく聞こえたものの、
少年の目視できる範囲に魔物が現れることは、とうとう一度も無かった。
もっとも現れたところで、その牙が彼まで届くことは決してなかったことであろうが。
「それにしても…何だか不思議な感じだな。まだ、信じられないや…」
一回潤した喉が渇くまで喋りに喋り、つい先程満タンにしたばかりの水筒の中から水を、
一口、二口と流し込んで一息ついたところで、少年は改めて今しみじみと感じていることを、
半ば無意識的に声に出して呟いてしまったのだった。
「ん?ああ、まぁ…そうだよね…こんな化け物みたいな巨人がいるなんて…」
「え?あ、えっと、そういうことじゃないよ」
それは思うだけで、口には出すつもりはなかったので、少年は些か焦ってしまう。
「?…じゃあ、さっきの人形のこと?」
「ううん」
「じゃあ、何?」
「僕が…その…こんな風におねえさんと…話していること」
少しもじもじと迷ってから、結局小さな声で正直に答えたものの、
どうにも彼女はまだ合点がいかないのか、小さく目を見開いて微かに小首を傾げる。
先程から度々見せるその仕草、恐らくは何か分からないことがある時に無意識にしてしまう
彼女のクセなのだろうが、自分よりも年上の、それもハイプリーストという上位職の女性に対して、
失礼なことと思いながらも、何だかとっても可愛らしく感じてしまう。
「…どういうこと?」
「だって…僕みたいなノービスなんかが、おねえさんみたいなハイプリースト様に
 治癒術を施してもらって、しかもこんな風に話をしているなんて…。何だか夢みたいだよ」
彼にとってそれは素直な気持ちだった。とは言っても、何も彼女が巨人だから、などということはない。
それはかねてからの、彼が抱いてきた上位職と呼ばれる人々に対する憧憬と尊敬の念の表れだったのだ。
ちなみに、問われて言い淀んだのは、幾ら嬉しかったとは言え、
それを臆面もなく前面に出し、浮かれていたのでは格好がつかないかと思ったから。
けれども、そう答えながら見上げたところで、彼女が露骨に顔をむすっとさせているのが分かり、
少年は内心大いに慌てふためいた。一体どうして?
はしゃいでいるのがはっきり傍目にも分かってしまい、やはりそれがみっともなかったのか、
或いは、もしかして、彼女に対して失礼なことを考えているのが、分かってしまったのか、と。
「ダメよ、そんなこと言っちゃ。変に自分を卑下しないの」
けれども怒られた理由はそんな意外なものだった。
「え…?で、でも…僕なんて…」
途端に眉をしかめ、嗜めるように彼女が口を差し挟む。
「コラ、また。誰だって最初は皆ノービスなのよ?」
「じゃあ、おねえさんも?」
「勿論」
「………本当?」
「あら、それってどういう意味?私みたいなおばさんにはノービスは似合わないって言いたいのかしら?」
「え…?あ、いや、別にそう言うわけじゃ…」
とは言え、彼女の言葉は半分くらい的を射ていたので、返す言葉に困ってしまう。
実際ノービスというのは、やはり若年層が圧倒的に多くを占めているわけで、
見目麗しい二十過ぎの美しい女性がノービスの格好をしていたら、流石にそれは少々絵にならない。
少年は反射的にそんな、少し滑稽な彼女を想像してしまったわけである。
とは言え、そこに悪意など全く存在しないし、
おばさんなどという単語だって彼女の容姿からはおよそ思いもつかない。
「じゃ、どういうわけ?」
「それは…えっと…その…」
けれども、上から降ってくるジト目に気圧されて口ごもってしまう少年。
対して彼女は、そこで小さなため息と共に相好を崩しつつ、口を尖らせて言う。
「ああ、やっぱり!言っておきますけど、こんな私にだって初々しいっていうか、瑞々しいっていうか…
 …そんな時代もあったんですからね?…自分で言うのもアレだけど…」
そっぽを向くとように反らせた視線と、むくれたような声の調子。
些か年不相応に思われるのは、やはりふざけて、自分をからかっているからなのだろうか。
「それとも、こんな大きなノービスなんて想像つかないってことなのかしら?」
続いて何だか意味ありげな流し目と共に、更に問うてくる彼女に、
「あ…!そっか…そう言えば…!」
言われてみればその通りだった。少年自身も目の当たりにし、また実際に体験してきた圧倒的な体躯と力、
そんなものを持ったノービスなど、それこそとんでもないちぐはぐ、正しくありえっこないデタラメな存在だ。
ということは、やはりその頃は、体は大きいけれども弱々しかったということなのか
けれども幾ら相手が魔物であるとはいえ、虫のような小さな敵に打ち負かされる人の姿なんて想像出来ない。
それに、もし元々大きなノービスだったのなら、今の彼女、即ち大きなハイプリーストになるために
勤勉に色々なこと学び、また、同時に数多の魔物とも戦い、修練を積んできたことになるのだろう。
が、そんな誰しも必ず通るであろう、当たり前の行程にしたって、
やはりこの大きさでは上手く思い描くことが出来ない。
精進の為ならばという一心で、真剣まんけんな眼差しで逃げ惑う魔物達を追い回し、
片っ端から容赦なく踏み蹴散らす巨大ノービスや、
一つ一つの刃がさながら大風車の羽根か何かの様な特大のソードメイスを振り回し、打ち下ろし、
周囲の木々や大地諸共、魔物を叩き潰し、砕いていく巨大なアコライトの少女。
そんなとんでもなく無茶苦茶な、さながら悪夢の様な光景が思い浮かび、
慌てて小さく首を振り、少年はそれを頭の中から追い出した。
これではどちらが魔物だか分かったものではない。いや、ここまでくると最早魔王だろうか。
となると、やはり彼女は人とは完全に異質のものであり、
ノービス時代などという言葉もまた自分を励ますためについてくれた優しい嘘で、
やはり本当は始めから圧倒的な力を有した存在だったのだろうと考えるのが妥当だろうか。
めくるめく思考の果てに、そんな想像に勝手に行き着く少年であったが、
対して彼女はと言えば、そんな彼の様子を半ばぽかんとしたように、見下ろしていたので、少しばかり驚く。
「え…?どうしたの…?」
どうやら彼女としては、それこそが少年が言葉に詰まった本当の理由だと半ば確信めいていたらしく、
そんな彼の反応に大いに予想外だったようで、そうして暫し目をぱちくりとさせ後、
呆れたような、それでいてどこか安心したような顔を見せたのだった。
「………あなたは…こんな私でも人外の存在としてではなく、あくまでも一聖職者として見ていたのね」
「あ、ご、ごめんなさい…。僕、余り頭良くないから世界の話とか正直よくわからなくて…。
 ただ、おねえさんが人を踏み潰したわけじゃないってことは分かったし、僕を治してくれたから…」
慌てて詫びた後、ごにょごにょと言い訳をしてしまうものの、
「謝らないで。何だかすごく嬉しい」
「へ?うれ…しい…?」
「ええ。それに本当はね、キミがこうしてお話に付き合ってくれるとも思ってなかったし…」
「そうなの?」
少年としては彼女からのと申し出が心より嬉しく、また実際楽しかったので、
その意味がさっぱり理解できずにきょとんとしてしまう。
「ええ、だってこんなに大きいのよ?それに…あんな酷いことをして…
 絶対に怖がられていれると思ったから………」
小さく先細りになる声。
「あ、なるほど」
確かにそれももっともだ。他意もなく納得して実に軽い調子で頷く少年の反応は、
強張りかけていた彼女の表情を瞬時に解いた。
「なるほどって…キミのことなのに。悠長な人」
クスリと笑いながらの言葉に、少年もまた少し照れて頭をかく。
「ちなみにだけど、私も最初は極々普通のノービスだったのよ。
 一人でも多くの人の力になりたい。そんな思いだけを胸に日々頑張っていたわ」
「そう…なんだ…」
変なところで一瞬言葉が区切れてしまったのは、昔を懐かしむように真っ直ぐ遠くを見る彼女の瞳が、
憂愁を帯びて儚げであり、しかし、それが息を呑むほどに美しく感じられたから。
「ええ、そうよ。もし…もし、私がこんな風になっていなかったら、
 君ともどこかで一緒に戦えたかもしれないのにね。何だかちょっと残念だな…」
そう言って笑いながら天を仰いだ彼女の瞳は澄んでいて、まるで蒼穹をそのまま映し込んだようだった。


彼女との他愛の語らいは本当に楽しく、飽くこともなかった。
ともすれば時間を忘れて、いつまででもこうしていたい誘惑に駆られてしまう。
けれども、やはりそういうわけにはいかない。自分にもすべきことが、目指すものが、夢があるのだから。
「さてっと、僕、そろそろ行かなくちゃ」
後ろ髪を引かれる思いで、それでも自ら踏ん切りをつけてそう切り出す少年に、
「ん、そっか。そうだね」
彼女もまたにこりと微笑んで頷く。とはいえここは三階建ての建物くらいの高さはあるのだ。
残念ながら自力で降りることは叶わない。だから、きっと掌に乗せて地面にまで運んでくれるのだろう。
近づいてくるその指先にてっきりそう思っていた少年にとって、それは完全な不意打ちとなった。
もっとも、仮にそうでなかったとしても、抗えるはずもなかったであろうが。
胸にずしりという重い一撃があり、一瞬息が詰まり、そのまま仰向けに倒される。
「………え…?お…ねえ…さん…?」
空を正面に、彼女の太腿という柔らかい地面を背に。とはいえ、声が途切れ途切れになってしまったのは、
決して苦しかったからではなく、単純に彼女の行動が予想外だったからだった。
今も尚、胸の上には自身の胴よりも太い彼女の人差し指がのしかかっているのだが、重みは殆ど無い。
それは言うまでもなく、彼女の絶妙な力加減の賜物なのだろう。
加えて気がつけば、全身は光の衣に覆われていて、それもまた自分を優しく守ってくれているようだった。
彼女は自分を潰そうとしているのではなく、ただ制しようとしているだけ。
それが分かったから、そこまで恐怖心は湧いてこなかったが、
しかしだからと言って、どうしてこんなことをされるのか、その理由は分からなかったし、
自力で退けようと、それを両手でもって押し返そうともがいてみても、びくともしない。
「ごめんね、苦しい?どこか痛めてない?でも、心配しないで。ちゃんと治すから。ただ…その前に…」
青い空に映える金色の髪を揺らして見下ろしくる彼女の瞳は悲しそう、
「あの…ね…私の存在を知った人はね…消されなくちゃいけないの…」
いや、寂しそうだった。
「え…!」
思わず顔を引きつらせる少年。すると、彼女は少し焦ったように言葉を続ける。
「あ、あーあーあー…ち、違うの。そうじゃないのよ?消すって言っても何も命を奪おうとか、
 そういうことじゃないの。だって消すのは別に記憶だけでも構わないんだから。
 あなたが無くすのは私の存在に関することだけだから」
『記憶だけでも』という言い草が若干引っかかったものの、
少年はすぐにそんなことはどうでも良くなり、可能な限りの声を張り上げる。
「わ、分かってるよ!そんなこと!」
そう、彼女がそんな酷いことをする人ではないことは、もう分かりきっていることなのだ。
だから、少年のショックは純粋に記憶を失ってしまうことに対するものだった。
「でも…どうして…そんな…?」
ふと頭を過るは先程彼女の口にした『フタ』という言葉と、
続いて、切断された人形に脅えていた自分が、包まれた掌の下で覚えた心地よい安息と、
その代わりに根底から消えかけた彼女に対する恐怖や不安のことを思い出す。
つまりあれはそういうことだったのだったのだろうか。
「キミ、言ってたよね?故郷のモロクにも沢山の冒険者がきて、時には話をしたこともあるって。
 でも、その中に一人でも私みたいな巨人のことを口にした人がいたかしら?」
「え…?そ、それは…」
陥落し、そのまま魔物の要塞となった古の巨城のこと、紺碧の海底にひっそりと佇む海底神殿のこと、
北の国境に位置する中空に浮かぶ城のこと、密林に暮らす部族に伝わる度胸試しと魔界の入口の噂、
少年は色々な人に出会い、本当に様々な、それこそ世界各地の話を聞いて心を躍らせてきた。
けれども、確かに誰一人として彼女の様な巨人の話をした者はいなかった。
もしかすると、彼女と遭遇すること自体、元々希有なこともしれない。
しかし、これほど巨大で衝撃的な存在なのである。一度遭遇すれば決して忘れる筈はないであろうし、
目撃談だとか、或いはせめて噂話の一つくらいはあっても良い様な気がする。
「そういうことなのよ。私のような存在が人に広く知られると…色々と困るから…」
有無を言わさず、理屈抜きでそういう決まりになっている、彼女の口調は暗にそう告げていた。
「…それに、キミだって無くしてしまいたいでしょう?潰されかけた恐い記憶なんて」
その言葉に、彼の脳裏にも遥かな高みより彼女に冷たく見下ろされ、巨大な足に踏み潰されそうになり、
また摘み上げられて容赦なく締め締め付けられた時の恐怖心が瞬間的に蘇ってくる。
思わず強張らせる少年。けれども、半ば無理矢理に一度ごくり唾を飲み込むと、
「それは…!確かにあの時は怖かったりもしたけれども…でも…やっぱりそんなの嫌だよ!
 折角会えたのに…忘れなくちゃいけないなんて…そんな…!」
訴えるように叫ぶ。
「そんな目で、わがまま言わないで」
対して彼女はと言えば怒るでもなく、問答無用に無理矢理記憶を消してしまうでもなく、
そんな困り顔で懇願するように言ってくるものだから、少年としても二の句が続かなくなる。
「それにね、この記憶は…キミにとって必ず枷になる、重荷になる」
「な、何で?何でそんなこと言い切れるのさ!?僕は本当にもう気にしてなんか…」
しかし彼女はそれを最後まで聞かずに遮って口を開いた。
「これからキミはたくさんの人と出会い、一緒に闘うことにもなるでしょう。
 そして、きっと信頼できる、かけがえのない仲間も出来るわ。
 でも…キミはそんな彼らに常に隠し事をしなければならなくなることになるのよ?
 キミはたとえ何があっても、誰が相手であっても決して喋らないって約束できる?
 秘密を絶対に守り切れると誓える?」
そこで、彼女の顔からすっと表情が消えた。
「もしも…もしも、それを破ったら、私はそれを絶対に許せない。
 だから、その時キミは…ううん、キミだけじゃない、知ってしまったキミの周りの人達も
 一人残らず私に踏み潰されることになるんだよ?」
対して少年の頬が思わず不自然に強張ってしまったのは、
恐怖からでも何でも無く、それが緩みそうになるのを懸命に堪える為だった。
何しろそれが嘘であることが一目で分かってしまったから。どんなに冷たく装い、すごんできたところで、
その瞳の見せる気配は、人形と勘違いされた際に向けられたそれとはあまりにも異なっていた。
攻撃性も嗜虐性も一切無い、こちらをただ配慮し、案じ、しかしそれをひた隠しにしようとする目。
「……大丈夫だよ。だって、そんなこと………」
そんなことは起こりえない。心優しいおねえさんにそんなことが出来る筈がない。そう信じている。
そう言いかけて少年は言葉を飲み込んだ。それは本心から思うことだったが、
ここで言うべきことはそうではない。彼女の優しさに甘えるところではないのだ。
「うん。もし万が一にでも僕が約束を破ったら、その時は…この命を差し出します」
「………」
そんな言葉に目に見えて顔を曇らせるハイプリーストに、
「でも、大丈夫だよ」
少年はもう一度その言葉を繰り返す。
「どうして?」
「だって、僕は絶対に口外したりはしないもの」
「………ずいぶんと自信満々に言い切るのね」
「だって、おねえさんは優しいハイプリースト様なんだよ?そりゃ、まぁ凛として厳かなのも、
 格好いいとは思うけど……でも、やっぱりそんな人が誰かを殺すだなんて絶対似合わないし…
 何より僕自身がそんなおねえさん、見たくないもの。僕としても、やっぱりおねえさんには
 笑顔の方が似合うと思うって言うか、そっちの方が好きっていうか………」
そこで彼は一度黙り込み、それから意を決して言葉を継ぐ。
「でも…だからさ、もし、おねえさんが笑うために僕の記憶が邪魔だって言うなら…
 それなら、僕のわがままなんて気にしないで、おねえさんの好きにしてしまってよ」
「………わかった。もう、キミには叶わないな、ホント。
 純朴な真顔でそんな風に言われたら、その言葉に甘えたくなるじゃない」
対して少年は自分の記憶がいよいよ消えてしまうであろうことを察し、
所詮そんなものは無駄な抵抗かもしれないと思いながらも、
精一杯目に映る、美しく、優しい彼女の顔を焼きつけようとする。
ところが、そんな少年の思いに反しておもむろに人差し指が退かされ、
「あれ…何か僕、おねえさんのこと、まだ忘れてない…みたいなんだけど…」
一瞬迷ってから、それでも正直に白状すると、
「まぁ…世界のどこかに一人や二人くらい、私のことを知ってくれる人がいるのも悪くないなって」
彼女は視線を少し外し、くすぐったそうに小さくはにかみながら口を開く。
「じ、じゃあ………!」
「小さなナイトさん、私はキミを信じます」
「………う、うん!」
「ごめんね、立てる?痛くなかった?」
「全然大丈夫!」
喜びも相まって、元気よく立ち上がる少年に、いかにも微笑ましいという目を向けてくる彼女。
同時に自分の方へと再び突き出されたそれに一瞬身構えるものの、
今度のそれは眼前でぴたりと止まり、また先程よりも一回り小さいことに気が付く。
「…小…指?」
とは言えそれが分かったからとて、彼女の真意は分からない。
「あ、これね、海を越えた東方のアマツって国出身の友達が教えてくれたおまじない。
 こうやって小指同士を絡めて、約束するんだって」
言われて少年は同じように小指を差し出そうとしたものの、
彼女の大樹の幹の様なそれに対して、自分のそれは余りに小さい。
これでは果たして彼女に自身が触れている感触があるのだろうか、そんな風に考え直し、
掌全体をぴとりと合わせることにする。すると彼女は節をつけて歌う様に言う。
「ん、ゆびきりげんまん、嘘ついたら…」
「…嘘ついたら…?」
「そうね、サボテンの針を千本くらい飲んでもらおうかな」
彼女は悪戯っぽく笑ったのだった。


「さてっと、ここからもう少し行くと、イズルード…なんだけど…
 『少し』はあくまでも私の感覚であって、実際にはまだまだまだ距離はあるわけで、
 また獰猛なモンスターと出あうかもしれないし、旅慣れない小さなノービス君にはちょっと大変かもね」
改めて下ろされた少年は、やや緊張気味に、彼女が指さす方へと視線を向けていた。
当然のことながら目的地はまだ遥かに遠く、視界には相変わらず広大な黄色い砂漠がずっと広がっているだけ。
久方ぶりに地に着いた足、ブーツにまとわりついてくる砂の感触。
それはつまるところ、自身が彼女の絶対の庇護から放たれたことに他ならなかった。
しかし、元はと言えばこれで普通の状況なのだ。魔物の巣窟となっている灼熱の砂漠、
そんな過酷な環境に安全などというものを求める方がおかしいことなのだ。
「だ、大丈夫だよ!僕はいつか立派な騎士になるんだ、それくらい…!」
けど、もし、またあの大サソリが、或いは狼が襲ってきたら、
一体どうすればいいのだろう。果たして無事に切り抜けられるのだろうか。
そんなことを考え、不安を覚えていた、正に絶妙なタイミングでそんなことを言われたものだから、
少年はつい気色ばんだ声を上げてしまう。あげてしまってから、
何だかどうしようもなく自分が小物に思えてきて、恥じ入り、小さく頭を垂れた。
「うん、その調子、その調子。夢に向かって一直線。男の子はそれくらいじゃないとね」
「も、もしかして…馬鹿にしてる…?」
思わずそんな言葉が出てしまったのは、彼女がにこにこと笑いながらその人差し指で頭を撫でてきたから。
頭上をさわさわとくすぐるその感触に心地よさを覚えながらも、その口調と行為に、
何だかまるっきり子供扱いされているような気がして、つい恨めしげな目を向けてしまう。
「あら、そんなことはないわ。そんな風に感じてしまったらごめんなさいね」
それから彼女は思わぬ提言をしてきたのだった。
「よし、じゃあ特別サービス。おねえさんがイズルードまで送ってあげましょう」
「え…!」
と、思わず反射的に顔に出そうになってしまいそうになる喜びを、懸命に噛みしめ、堪えつつ、尋ねる。
「で、でも、誰かに見られたらまずいんじゃ…?」
今までの話の流れから察するに、どう考えても人の沢山いる街に彼女が近づくのは
決して望ましいことではないはずだ。
「そうね。だから一緒に行くことはできないけど………あ、動かないようにね?」
と、そこで彼女は一旦言葉を区切って注意を促してから、おもむろに膝を浮かせたのだ。
「…!」
突然の彼女の行動に驚き、慌てて身構える少年だったが、
こちらを気遣ってくれているのか、はたまたこれが聖職者である彼女本来の立ち居振る舞いなのか。
潜り込んだ服から放り出されたり、踏み潰されかけたりした時とは一転して、
こんなにも間近にいるというのに、殆ど彼に影響を及ぼすことなく立ち上がり、
服の裾を大きく揺らすこともなく、しとやかな動作で膝頭を静かに払う様はとても優雅で気品に溢れている。
もっとも、それでも巨躯が生み出すエネルギーは途方も無く、またどうしようもないらしく。
かき混ぜられた空気の流れが不自然な風を生み出したことは少年にもはっきりと分かったし、
踏み下ろされた靴は眼前で重々しく砂へと沈み込み、押しのけられた砂の量は、
果たして屈強な人夫達が何人集まれば運べるのだろうというほど膨大だ。
こうしてその足元から立ち上がった彼女を見上げるのは二回目だけれども、やっぱり本当に大きい。
泉の周囲に林立するナツメヤシの木々など、彼女の向こう臑にも届いていない。
我ながらよくもこれほど圧倒的な存在に挑んだものである。
ついぞ先程の自身の無謀さ呆れながら、半ば唖然として見上げる少年が気になったのだろうか、
「あ…出来ればあんまりジロジロ見上げないで欲しい…かな…?」
「ご、ごめんなさい!」
少し頬を赤らめながら太腿辺りを抑える彼女の言わんとしていることを察し、慌てて下を向く。
スカートというよりは前掛けという方が正しいその服の構造上、
どうしても脚がかなり際どいところまで露出してしまうことがままあるわけで。
ましてや足元から見上げられていることを意識すると、余計気になってしまうのも致し方ないことだろう。
「あ、でも大丈夫、本当は見えていなかったから!」
俯いたままで一応フォローしてみるものの、
「見えてないって、何が?」
「な、何も…!」
「………」
「………」
少しだけきまずい沈黙。
「………キミがその誠を天に誓えるというのならば、私もまた御神に仕える身。
 天に捧げられしその言葉、私も信じましょう」
「う、うん」
何だか彼女のことを口外しないと約束したときよりも尚、荘厳な物言いをしてくるものだから
萎縮して更に肩をすくめる少年に、上の方から小さくクスクスと笑うような声が聞こえる。
「とにかく、顔を上げて」
「で、でも…」
「いいの。これじゃまともに会話できないでしょ?」
言われておずおずと顔を持ち上げる少年。実際本当に見えてはいないのだが、
こんなやりとりをしてしまうと、何だかどうしても目が一点に定まらずに泳いでしまう。
もっとも、そもそも振り返ってみれば、最初に尻で押し潰されそうになったあの時に既にはっきりと…
と、そこまで思い至ったところで、少年は慌てて考えるのを止め、それを頭から放り出す。
「ええと、あ、そうそう、イズルードだったわね」
幸いそんな彼を特に訝しがるような様子は見せず、
彼女はコホンと小さく一つ咳払いをしてから仕切り直すように言って、
目を閉じるとぶつぶつと何かを呟き始めた。
「え?」
内容は今一つよく分からない、何か随分と古い言い回し、小難しい単語の羅列のようであった。
少し遅れて彼女の周囲に淡い光が灯り、髪や服の裾が小さく揺れ始めたことで、少年はその正体に気がつく。
魔法の詠唱。それは彼女の大きさも相まって、神々しさと共に神秘的な美しさを有しており、
彼は変に意識してしまうあまりに目のやり場に困っていたことも、もうすっかり忘れて、
ただただその不思議な雰囲気に呑まれ、心を奪われてそんな彼女を見詰めていた。
やがて、祈るように合わせられたその掌の中に生まれた一際明るい光を解き放つ彼女。
手を離れた光の粒は雫の様に少年の頭上を越えて背後に落ち、黄色い砂の上に達すると、
さながら水面に生まれる波紋のように大きくぱっと広がり、
そして、彼女の大きさ相応の、天を衝くような巨大な光の柱が生まれた。
「こ、これって…!」
思わず見上げる少年に、
「衛星都市イズルード内中央広場、直通便でございー」
さながら商人か何かが呼び込みでもするような調子で、少しおどけて見せる彼女。
規模こそ比べ物にならないものの、少年にとってもまたその魔法をよく見知ったものだった。
主にアコライト系の人たちが得意とする、かなりポピュラーな空間転位の魔法、ワープポタル。
彼もまた故郷にてまだ見ぬ世界へと繋がるその神秘の扉を、憧憬と羨望の念を以て何度も見てきたのだ。
「で、でも、僕…何も…!」
けれども、だからこそよく知っていた。
その魔法の発動には魔力の媒介として青色の綺麗な石を必要とすることを。
そして、だからその魔法を頼む際には、代価として相応の金品を差し出すことが暗黙の了解になっていることも。
しかし、彼女は言わんとすることを汲んだのか、皆まで言葉になる前に遮られてしまう。
「いいの。その気持だけで充分。大体このポタルは私が勝手に出したものなんだから」
「だ、だけど、やっぱりタダで乗るなんて…」
とは言え咄嗟に何か差し出そうにも、旅立ったばかりの少年は悲しい位に何も持っていなかった。
やや歪な形に潰れてしまっているリュックの中身は見事なまでに空っぽで。
あるとすれば腰にさげたナイフくらいのものだけれども、
こんなものが二束三文にしかならないことは少年だって知っている。
「もう…キミはちょっと真面目すぎるかな。年長者の好意は素直に受け取っておきなさいな。
 仮にね、この術がキミの依頼だったとしても、そしてキミが大金持ちであったとしても、
 私は何も求めなかったわ。『ノービス君からはお代は一切頂きません』ってね。
 これは最初から…私がまだ普通のアコライトだった頃から心に決めていたポリシーなんだからね」
そんな言葉と共にふいに背中をぐっと押されるような感触があって慌てて振り向けば、
彼女が再びかがみ込み、にこやかな表情で、急かすように人差し指の腹で押してきているのを知る。
おそらくこちらが怪我をしないようにと、かなり力加減をしてくれていることなのだろう。
しかし、それでも力の差は圧倒的で、幾ら踏ん張ろうと両足に力を込めてみても、所詮無駄な抵抗でしかなく。
ずりずりと足は滑り、容赦なく光の柱との距離は縮んでいく。
「ほら、遠慮なんてしないで?キミと話が出来て本当に楽しかったんだから。そのお礼って意味もあるのよ?」
「わ、わかった、わかったから。ちょっと、押さないで!」
とりあえずこのまま無理矢理押し込められることだけは避けたい。もう一度しっかりと最後に挨拶をしたい。
そういった思いから、光の柱が目前となったところで、少年がとうとう観念して声を発すると、
それが彼女にも伝わったのか背後から加わっていた力がふっと消えた。
けれど、それでもどうしても諦めきれない気持ちが、顔に出てしまっていたらしい。
彼女は半ば呆れたような苦笑を浮かべて、仕方ないなぁと言わんばかりに小さく息を吐くと、
「もうっ、本当に気にしなくて良いのに…。あ、そうだ、だったら出世払いでいいよ?
 次に会ったときに、ちゃんとノービスから転職して立派になっていたら、その時にでもきっちりと、ね?」
もっとも、それが彼女の方便であり、『次』がおそらく無いであろうことは、少年にも分かってしまう。
きっとこれは一期一会。けれども現実に渡せる物ないのだから、少年としてもどうしようもない。
最後にもう一度心からお礼を言って、別れを告げようと口を開きかけた、ちょうどその時だった、
ふと少年が自身のポケットの中に思い至ったのは。
それは色こそ違えども、形や大きさはあの青の石とそっくりのものだった。
町を出てすぐ、生まれて初めて倒したモンスターから手に入れた綺麗な黄色の石。
故郷では雑貨屋に並んでいるのは見たことがないものの、
行商が露店を出して商っていたことがあるのを、おぼろげに記憶している。確か値段はそこそこ。
これならばあの青色の石と価値が釣り合うかもしれない。
とは言っても、きっと普通に渡そうとしても断固受け取りを拒否されるのは彼女の態度からも目に見えている。
となれば、方法は一つ。密にポケットの中の固い感触を確かめながら、少年はくるりと向き直って見上げる。
視線の先には膝立ちになって、自身の出立に優しげな眼差しを送ってきてくれているハイプリーストの姿。
彼は彼女に対していかにも名残惜しそうな顔を見せると精一杯手を突き出した。
対して、最初は手を振っているのだと思ったらしく、始めはそれに応じて手を振り返してきた。
尚も手を差し出したまま、握手したいと言わんばかりに背伸びをしたり跳ねたりして見せると、
程なくその意を解してくれたのか、柔らかい笑みを浮かべて届くところまで手を差し伸べてきてくれる。
どうせ自分が思い切り力を込めたところで何ら問題はないのだからと、
勿論、名残惜しいのは本心だから、まずはその中指の先に半ばぎゅっと抱きつくように全身の体重をかける。
案の定とでも言うべきか、それでも彼女の美麗にして頑強な指はぴくりとも動かなかった。
握手、と呼んで良いのかは怪しいところだが、一応お別れの挨拶のつもりだ。
それから咄嗟に右手をポケットに突っ込んでそれを掴むと、ポーンと放ったのだった。
彼女の手はやや斜めに傾いていたものの、幸い掌は上を向けられており、
そしてこれだけ広ければ、そのスペースに小石を乗せるのは実に造作もないことだった。
「本当にありがとう!これ、大したものじゃないけれども感謝の気持ち!出来ることならまたどこかで!」
そう一気に叫ぶと、それと同時に、彼女の顔が「あっ」と言いたげに変化したのが分かった。
何だか最後の最後で初めて彼女を出し抜けたような気がして、ちょっとだけ気分が良い。
それからくるりと踵を返すと、少年は振り向くことなく一気に白い光の中へと飛び込んだのだった。
「こ、こらあっ、ちゃんと話聞いてたの!?
 私はノービス君からは何も受け取らないっていうスタンスで…!…ちょっとっ!?」
背中から聞こえる狼狽の声は一瞬にして遠く離れて聞こえなくなり、
代わりに沢山の人々の往来による無数の足音、威勢の良い商売の声、大きな笑い声、どよめきに包まれる。
少年は見たことの無い街の雑踏の中で佇んでいた。