追想、一期二会

一人の若き青年が空を仰いで佇んでいた。
その顔はまだあどけなさを残すものの、凛々しくあり、眼差しはその生き様を現すように真っ直ぐだ。

今日は彼にとって記念すべき日だった。かねてからの悲願であった騎士団入りがとうとう認められ、
王都プロンテラにて正式にその加入の儀がなされたのである。
仲間達の元に帰ってその旨を報告したところ、早速沢山の祝福と賛辞の言葉をもらい、
半ば予想できていたことだが、即座に酒場を借り切っての夜通し祝賀会の開催が決定した。
まだ真っ昼間だというのに、今すぐにでも酒盛りが始まりそうな、お祭りムードに沸き立つ仲間達。
そんな彼等に対して青年がおずおずと言葉を割って入れると、
日頃は酒が苦手で、基本的に付き合いで口を湿らす程度にしか飲んでこなかったからなのだろう。
「お、おいおい、まさかお前…!参加しないなんて言うつもりじゃないだろうな!?」
途端に仲間の一人が、恫喝とも落胆とも懇願ともつかない調子で尋ねてくる。
そして、それは他のメンバー達の総意でもあるのだろう。
青年は自身の次の発言に注目が集まるのを感じながら、
屈託なく笑って即座に横に首を振り、実にあっさりと答えたのだった。
「いや、まさか」
今日ばかりは自分が主役、絶対にそうはいかないであろうことくらい当然分かっている。
それに、自身の転職を我がことのように心から喜び、祝ってくれようとしているという、
その嬉しい厚意に水を差すような、無粋な真似をするつもりも端から無かった。
むしろ、今日だけはしこたま、それこそ倒れるまで飲んでやろうと思っているくらいだ。
猛烈な頭痛と吐き気に苦しみ、ベッドの上でうんうんと唸る明日の自分も容易に目に浮かぶ。
きっと満足に起き上がることすら困難に違いない。そう、それもあって今の内に、と考えたのである。
「ちょっと野暮用が…どうしても行っておきたいところがあるんです。
 酒場はいつもの所でいいんですよね?遅くとも夕方には戻りますから」
挨拶すると、彼は人々の往来と露店で賑わう首都の中央通りを早足で通り抜け、
そのまま南門をくぐったのだった。目的の場所は王都の外にあった。

事あるごとに、こうしてここに来るのは以前からの習慣であった。
言うなれば報告みたいなものだろうか。
修練を積み、世界を知り、見聞を広めた今だからこそ、はっきり断言できる。
あの人は紛れもなく自分の命の恩人だったのだ、と。
確かにあの人の早とちりで死にかけたりもした。
あれは今のところ人生の中で最も恐ろしく、また痛かった出来事だ。
けれど、もしあの人に出会っていなければ。
そしてあの人が優しく手を差し伸べてくれていなかったならば。
それこそ未熟で無知な自分は、きっとあのゾクラド砂漠の真ん中で、骨になって朽ちていたに違いない。
そして、ここは…この町はそんなあの人と最後に言葉を交わした場所だったのである。
物流と交通の拠点、プロンテラの南東に位置する王都の玄関口、衛星都市イズルート。
あの日、この港町を襲ったのは前代未聞の大珍事件だった。
何の前触れもなく、脈絡もなく、唐突にもたらされた凄まじい轟音と衝撃、そして破壊。
街のいたるところで地面が陥没し、崩れる建物達。
ところが、それほどの惨状であったにも関わらず死者の報告はなく、
それどころか、けが人すら一切出なかったのである。
しかも更に不可解なことには、それ以前から病を患っていた者や、負傷していた者達、
その重度を問わず、そこにいた怪我人、病人が、何と残らず全快していたのだ。
正に悪夢のような奇跡、まるで魔王と神が同時に押し寄せたような、そんな空前絶後の大事件。
ところが、極めつけに奇怪だったのは、町の住民や冒険者等、
数え切れないほどの人々が居合わせたにもかかわらず、誰一人としてそれを覚えていないのだ。

………たった一人、彼を除いて。



初めての町。逸る気持ちを抑えきれず、早速案内要員に剣士ギルドの場所を尋ねた彼が、
礼を言ってそちらへと歩き出そうとした、正にその時だった。
突然これまでの活気に満ちた町の気配が一変したのだ。
驚いて周囲を見渡すと、誰もが皆、一様に足を止めて同じ方向を見上げている。
聞こえてくる不安げなどよめき声。きっと今、町中で同じ現象の起こっていることだろう。
この町のあらゆる建物と並べてみても、比較にならないくらいに途方もなく巨大な女性。
そんなありえない存在が、どこからともなく姿を現し、町の中心に聳え立っていたのである。
あまりにも受け入れ難い状況に、男も、女も、老いも、若きも、戦士も、市民も、呆然としていた。
それは、言うなれば溢れそうなほどなみなみと水を注いだコップの様な状態だった。
思考停止と現実拒否が生み出した、極々一時的な、仮初の、脆く、儚い安定。
「い…!いやあああああああああああああああああああああああああああっ!?」
不意に上がったそれは若い女のやたらに甲高い金切り声だった。
限界ぎりぎりにまで高まった戸惑いの気配が、恐怖となって弾けるのに充分な威力があった。
途端に共鳴するように、あちこちに悲鳴や怒号が相次ぎ、
町全体がひっくり返ったような大混乱が襲われたのだった。
「あ…えっと…す、すみません…!」
自らが引き起こしてしまった事態にたじろぎ、大いに困り果てた声で、弱々しく謝るあの人。
けれどもそんなことで収拾がつくはずもない。
そして、ますます大騒ぎになり、逼迫する町の様子にうろたえる余り、
半ば無意識的に半歩ほど後じさりをしてしまったのだろう。
次に町に伝わったズドンという振動と音は、あの人の足元間近に設置され、
食材品市が催されていた大テントに、家よりも大きなあの人の靴がのしかかる音だった。
幸いにもそこにいた果物商人のおねえさん、肉商人のおっさん、それに牛乳屋のおにいさんは、
いち早くその場を離れていた為、その一歩が人に危害を加えることはなかったのだが、
ジャガイモやニンジンの詰まった木箱や、牛乳瓶の並んだケース、それに陳列されていたハムと
店頭に釣るし売りにされていた燻製等が、まとめて屋台ごと踏み潰され、一瞬の内に消え去る。
そして、被害はそれだけに留まらなかった。
「すみませ…!…ふひゃっ…!」
短い悲鳴。そのテントに足を取られ、滑らせ、あの人の上体が後ろに大きく傾く。
驚きに見開かれた青い瞳、大きく広がる金色の髪、辺りにぶわりと突風を巻き起こす服、捲れあがる前掛け、
『ズドゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ』
そして町全体を揺るがす特大の尻餅。その拍子についた一方の手が、
手近にあった二階建ての建物へとのしかかり、そのまま勢いで反射的に握り潰してしまう。
高く振り上げられた足は、一度激しく叩きつけられて着地した後、
そのまま惰性で石畳ごと地面を踵で抉りながら突き進み、家を三軒蹴飛ばし、砕いたところでやっと止まった。
更にあの人が引き起こした瞬間的な縦揺れは、最早地響きなどと呼べる代物ではなかった。
大地震。そこここで、家屋が倒壊し、街の出入り口である石橋の一部も崩落し、人々のパニックを加速させる。
「あ…あわわ…」
おそらくは申し訳なさや、羞恥心、それにいたたまれなさで、頬を真っ赤に紅潮させるあの人。
けれども、少し遅れて自分があられの無い格好であることに気づいたらしく、
次の瞬間、恥じらいの比重が一気に跳ね上がったようだった。
咄嗟に裏返っていた前掛けを両手に掴み、露わになっていたその太腿と、
その付け根を覆う純白のそれを、がばりと庇うと同時に、
あの人は主に両足の間で、呆気に取られて見上げていた者達に恨めしげな目を向ける。
立ち竦んでいた人々は弾かれた様に悲鳴をあげて、散り散りになり、一目散に逃げていく。
それを尚も赤く上気したままの顔で、「まったく」とでも言わんばかりに、憤然として見送るあの人。
とは言え、彼らにはあの人が思う様な下心などきっと無かったに違いない。
ただ、突然来襲した巨人とその力に圧倒され、恐れおののき、
その動向を固唾を飲んで見守っていただけのことなのだろう。
多くの人々が右往左往するばかりの一方で、勇猛にも戦いを挑む者達も結構見受けられる。
四方八方から乱れ飛ぶ魔法や矢、それに各々武器を手に、彼女の手や靴に次々と斬りかかる戦士達。
しかし、当のあの人は、それらを全く気にする風も見せず、完全に無視し、
まるで探し物でもしているかの様に、立ち上がろうともせず忙しなくキョロキョロと辺りを見渡す。
こちらの方にも向く青色の瞳。そしてそれは一度自分を行き過ぎたところで止まり、
一瞬双眸が小さく見開かれたのが分かった。
それからすぐに視線は戻ってきたかと思うと、今度はぴたりと自身に据えられ、
まるで、確認、観察されているように、少しの間まじまじと見詰められる。
そして、次の瞬間、不意にその巨躯に大きな動きが生まれた。
あちこちにたかる人々をこれ以上巻き込まないように注意しているのか、ゆっくりと引き戻される足。
出来たての特大のクレーターからはズズ…という低い音と共にその尻が持ち上あがる。
そのまま立ち上がるのだろうと思いきや、あの人は今度は掌を体の前の方へとつくと、
さながら子供がはいはいをするようにこちらへとにじり寄ってきたのだった。
掌が地面に下ろされるたびに、まるで薄氷の様に舗装された地面は砕けて凹み、
膝が地を擦る音は重々しく響く。伴って自分の上へと落ちる影はどんどん大きくなっていく。
周囲で彼女に挑んでいた者達は、その動きに恐れをなし、一人、また一人と戦線を離脱して、
ついには自分一人だけがぽつんと取り残される形となった。
相変わらず頬は朱色、口はへの字に結ばれ、微かに涙を端に浮かべているようであり、
あの人は怒りながら、泣きながら、それでいてどこかほっとしたような、複雑な顔をしていた。
「あ、あれ?さっきぶり。どうかしたの?」
ずいっと視界一杯に迫ってくる彼女のむくれ顔、その迫力にたじろぎながらも、極力平然と尋ねてみる。
「もうっ…!どうしたもこうしたもないわよっ!全くキミって人は…!」



と、その時不意に一際強い風に吹きつけられて、回想は中断され、青年は我に返った。
相変わらず空は穏やかな晴天で、雲ものんびりゆったりとと、実に緩慢な動きで流れている。
それなのにこの突風。それは余りに瞬発的で、しかも強烈であり、
何だか無性に人為的、或いは作為的なものを感じてしまう。
例えばそれは自分の思考を邪魔しようとしたあの人の吐息か何かであるかのように。
勿論そんな筈はない。視線を何気なく彷徨わせて見ても、当然あの人の姿などどこにもなく、
そこにはいつも通りの街並みが、活気に満ちた人々の往来があるだけだ。
あの時、あの人は忘れずにいることを特別に認め、許してくれた。
但し、この街での醜態についてはすぐにでも忘れて、絶対に、絶対に、絶っ対にっ、思い出さないこと、
それをかなりしつこく念を押され、しかと誓わされ、言質を取られたことが頭を過る。
もっとも、あれはどう考えても、容易に忘れられるような、インパクトの薄い事件ではないのだが…。
しかし、誓いを破り、約束を違うはナイトとして、人としてあるまじき行為。これ以上はやめておこうか。
あれから既に三年余り、街はもうすっかり元通りで、最早あの人の痕跡を見出すことは出来ない。
当然のことながら、人々の間であの人のことが話題になることなど一度たりともなかったし、
勿論青年もまた、あの人の言を守って、口にすることもなかった。
そして、あれほど大きいのだし、あちこち旅をしていれば、いつかどこかでぱったり遭遇するのではないか、
抱いていたそんな淡い期待と裏腹に、彼自身もまた、あれ以来あの人とは出会うことはなかった。
それどころか、青年は世界を知ることによって、逆にあの人の存在の非常識さ、ありえなさを実感した。
けれど、それでも…あの時あの人と出会ったことは、決して夢でも幻覚でも無く、紛れもない現実。
青年騎士はポケットから黄色い小石を引っ張り出すと、それをしげしげと見詰めた。
イエロージェムストーン。青のそれと同じく、特定の魔術における魔力の媒介となるものだ。
流通量はやや少ないものの決して貴重ということはなく、自分が有効に活用出来ることもないだろう。
しかし、彼はそれを常にポケットの中に入れ、片時も離すことなく、大切に持ち続けてきた。
それは大志を抱いて旅に出たあの日の記念であり、いつかあの人に返すべきものでもあった。
転送魔法に対するささやかな謝礼。ノービスからは一切金品を受け取らないというあの人に、
ちゃんと騎士になった自分の姿を見せ、今度こそ受け取ってもらわなければならない。
もっとも、そんな日はたぶん来ないであろうことは彼にも薄々分かっていた。
ただ、だからと言って、もう絶対に会えないかといえば、そうも思っていなかったりする。
何しろ、あの時だって、二度と会うことはないであろう、
そう思っていたそばから、再会することになったのだから。
いや、あれを再会と呼ぶのは少し違う気がしないでもないが。
ただ、いつだって先のことは分からない。
そういえば二度あることは三度ある、なんて言葉もこの世の中にはあるらしい。
神でも化け物でも無く、ただ少し…結構大きいだけの、素敵な素敵なハイプリースト。
威厳があって、壮麗で、神々しくて、けれどもそそっかしいところや可愛らしいところもあって、
慈愛に満ちていて、優しくて、真摯で、親切で、律儀な人。
「………いや、律儀って言うよりは…頑固…かな…」
苦笑いでそう呟きながらポケットの中に黄色の石をしまうと、生まれたての新米騎士は
まだ慣れないマントを大きく翻して、大切な仲間達の待つ酒場へと歩き出したのだった。