このお話は発端、行脚に続くお話で、一応第三話的なモノです。
ので、そちらから読んで頂いた方が、話や登場人物が分かり易い…かもしれません。

大まかなあらすじとか登場人物紹介とか………は、まぁいい…よね…?



第三話『逆鱗』


■ささやかにして大いなる至福の時を

 本世界における生理的活動は一切不要とする。
「…なるほど。と言うことはつまり…だ、食事は勿論のこと、例えば睡眠なんかも必要無いわけだよな?」
何気なくそう訊いてみると、美咲はとても困ったような、それでいて何とも切なげな顔をし、
随分と長い間を置いてから、か細い声で絞り出すように答えた。
「……………………ええ………まぁ、一応は…」
「そうか」
「………はい…」
「………」
「………」
「…あ、あの…でも…ですね…」
一度はそう答えたものの、やや間を置いてからおずおずと切り出してきたわけである、
出来れば眠る場所だけはどうにかならないものか、と。そう言う彼女の表情は正に真剣そのものであり、
懇願する様相が容易に見て取れるその直向きな眼差しに思わず苦笑がこぼれてしまう。
察するにどうやら彼女は心底眠ることが好きらしかった。
そんな異世界から単身勉強に来た少女の、笑ってしまう様なささやかな希望、
出来ることならば二つ返事で許可を出してやりたいところなのだが、なかなかどうしてそうもいかない。
何しろ彼女は身長200mを軽く超え、体重も相応にある大巨人なのである。
そんな巨躯を誰にも迷惑をかけることなく横たえることが出来るような、
広大かつ比較的平らなスペースなどそうそう簡単に見つかるものではない。
そこで半ばダメ元で久木に相談してみたわけなのだが、
意外にも彼はかなりあっさりとこう提案してきたのだった。
「ああ…それだったら、ゴルフ場で良いんじゃない?」
「………なるほど!しかし、アテはあるのか?」
確かに空間的には申し分ないのだろうが、問題はどこのお人好しが、
己の財産をそのような用途に使うことを承諾してくれるのか、と言うことである。
しかし、久木はまるで心配無いと言わんばかりに片手で髪をかきあげながら少し笑って答える。
「おいおい…こんなコト自分で言いたくないけどさ、これでもウチは国内屈指の財閥なんだよ?」
「…!そうか、つまりお前の所で経営しているのを一つ貸してくれる、と…そう言うわけだな?」
岬が確信を持って問い返すも、久木は首を横に振る。
「いいや、ウチはそっち系のモノには一切手を出していないよ」
「………駄目じゃないか」
「だけど、財界には顔が利くからね」
「何か頼りになるような、ならないような…微妙な感じだな」
「そんなことないよ。と言うのも実はね…既に一つ、候補があるんだよ」
「…候…補…?」
想定外の言葉に思わず眉をひそめる岬。正しく渡りに船と言うやつだが、流石に展開が出来すぎている。
大体何故今日の今日でそんな美味しい話があるのだろう。
「そう…あのコの生活スペースにどうかってね。えっと…ああ、これこれ。ココなんだけどさ」
言いながら久木が引っ張り出してきたのは紛れも無くカントリークラブのパンフレット。
「どう?良いところでしょ?自由に使ってくれて構わないってさ」
「…あ、ああ……しかし…だな…確実に最低でも丸々一つコースが使い物にならなくなると思うんだが…。
 やはりそんなこと、見ず知らずの他人に頼むわけにはいかないだろう、普通…」
もしこれが完全な善意なら大変失礼な物言いだと思うが、ここはあえてはっきりと懸念を顕わにしておく。
「………変な風に見返りを期待されても困るしな」
「ああ、大丈夫。無条件にだと思うよ?
 何しろココの親会社の上のほうの人がね、あのコに凄く好意的だからさ」
「好意的…ねぇ…」
さらりとそんな風に言われてもそうそう納得出来はしない。
「ふーん…ま、そんなに心配だったらオマエが直接話をしてみる?…通じるかはわからないけど」
言うが早いが、岬の同意も待たずに久木は彼自身の携帯を引っ張り出す。
「アドレス帳…アドレス帳…と…。ああ、そうそう…ちなみにこのゴルフ場ね、
 オマエ達が…もといあのコが完膚なきまでに壊しちゃった例の銀行と同系列が経営してるんだよ」
そこで電話のディスプレイからちらりと視線をこちらに向けて言う。
「…!そ、そうなのか…?」
流石に少しばかり驚いてしまう。
「………怒ってないのか?…その…あんな風にしちまったのに…」
「だから好意的なんだって。全然平気。にしても…まさかあんな風にしちゃうとはね。
 ………ああ、あったあった」
何だか楽しそうに思い出し笑いをしながら通話ボタンを押して耳に当てる久木。
一方の岬は苦い顔を作るしかない。あの時、美咲はご丁寧に銀行に蓋をしようとしたらしかった。
しかしながら天井は彼女の握力やら衝撃やらによって、
その時既にかなり傷んでいて、端の方からバラバラと崩れていたのだ。
で、やっと美咲もそれに気づいたものの、大いに動揺してしまったらしく、
力加減を誤って天井をその両手で完全に拉げ潰し、おまけにそれを取り落としてしまったのである。
そして、どうにか空中で受け止めようと懸命に手をばたつかせたものの、
そんな器用な真似など出来るはずも無く、それどころか膝立ちで作業をしていた彼女は
慌てた拍子にバランスを崩してしまい、結局最後は顔からつんのめって、
あえなく銀行は跡形もなくなってしまいましたとさ、と。
「…はい、残念。やっぱり圏外でした」
そんな回想が済むのと同じタイミングで久木が軽い調子でそう言って携帯を仕舞う。
「おいおい、やっぱりって…」
「まぁ、そういう人なんだよ。天職はジプシーってとこかな」
「ジ、ジプシー…」
「でも、彼の人間性なら僕が保証するよ?
 もっともオマエが僕を信用できないとどうしようもないんだけど、ね?」
「………」
考え込むこと暫し。
「さて、どうする?」
薄く笑みを浮かべつつ、まるでこちらの心中など既に見透かしているかの様に結論を迫ってくる久木。
確かに他に良案は思い付きそうに無い。
「………じゃあ、折角だからお言葉に甘えるとしようか」
結局そういうことになったのだった。

 カントリークラブに着いた美咲は本当に嬉しそうだった。
「ありがとうございました。それではまた明朝、おうちにお伺い致しますね?」
それから微笑んでそう言ってくる彼女だったが、その案を断って岬は自ら迎えに来ることを申し出た。
確かに時間や岬自身の労力を考えれば、それが一番なのかもしれないが、
如何せん彼女を一人で歩かせることには大きな不安を禁じえなかったからだ。
「あ…えと…」
すると美咲は途端にぎくりとしたような顔を見せた。
「ん…?どうした…?何か問題でもあるのか…?」
「あ、いえ…そんなことはありません………はい…」
明らかに『何かある』と分かるその口調と態度。
「…まぁ…遠慮しなくていいから、とりあえず思うところがあるのなら言ってみるといい」
証拠に軽い調子でそう岬が促してやると、
美咲は暫し少し俯いて両の手の人差し指を合わせて困り顔を作った後に、
やがて意を決したように、実に恥ずかしそうにとつとつと説明し始める。
「………うぅ…えと…実は………ですね————」



 と言うわけで、美咲を件のカントリークラブまで送り届け、ローカル線に揺られる長い長い帰り道。
彼女にとって徒歩で十分程度の距離なのに、一時間以上かけて帰っているというこの現状…
些か不条理を感じずにはいられないが、しかし、美咲の歩行速度は時速にしておよそ500km、
もし温かくも強固な彼女の掌の庇護が無ければ、簡単に吹き飛ばされてしまうことだろう。
しかも、それでも当の美咲からすれば、手の中の岬や足元に細心の注意を払い、
相当ゆっくりの歩調を意識していると言うのだから、
改めて見せつけられるこの大きさ、…もとい存在そのものの差には驚嘆するより他ない。
もっとも、そんなことはもうしょっちゅうなので、岬自身この感覚にもだいぶ慣れてきてはいたのだが。
とにもかくにも明日については岬が迎えに行くことで話はついた。
但し、少々ワケあって、岬が美咲の元に向かうのは、彼女からの一報があってからということで。
退屈さも手伝って、珍しく用も無いのに携帯を引っ張り出しては弄ってみる。
目に留まるのは最近アドレス帳に登録された、明らかに異常な桁数の数字の羅列。
気がつけば当たり前の様に美咲の持つ携帯電話と通話することが可能となっていた。
と言っても岬自身が何かをやったわけではない。
「色々と便利でしょうから、こちらの世界のものに合わせてみたんです」
美咲は事もなげにそう言っていたが、そのシステムの詳細については当然分かる由もなく、
ただ本当に彼女の世界の技術が遥かに進んでいることだけを、漠然と理解出来ただけだった。
と、不意に手の中で携帯が振動を始めて、微かにぴくっと小さく肩を揺らしてディスプレイを覗きこむ。
「………久木、か…」
本来ならば電車内であるし、面倒ということもあって無視するところなのだが、
幸いこの車両に他の乗客は…と言うよりこの二両編の列車そのものが貸し切り状態。
加えて彼からの電話となれば、ほぼ間違いなく美咲関係の用件であろう。
窓の外の景色は流れていない。随分長いこと客どころか駅員すら見当たらない無人のホームに止まっている。
どうやら単線故にすれ違うための待ち合わせをしているらしい。
まだまだ先は長そうだ。ということで、やや迷ったものの出てみることにする。
「…はい」
「やぁ」
久木の声は先程とまるで変わらなかった。
「どうした?…もしかして、あのゴルフ場…やっぱり無理になったのか?」
眠ることが出来る場所がある、それを知った美咲が素直に見せた喜びの顔を思い返して
些か不安に駆られる岬。今更やっぱり駄目でしたとあっては流石に気の毒だ。
「ああ、いやそれは問題ないよ。先方に改めて使わせて頂く旨を伝えたら快諾してくれたからね」
「そうか、そりゃ良かった。じゃあ何だ?」
「うん、さっき上層部がね、第五次巨大生命体駆逐作戦を起案、発令したよ」
「………………はぁ…またかよ…」
言葉と大きな溜め息はほぼ同時に口から零れた。
実際この国の軍部…とりわけ上層部は本当に融通が利かない。
はっきり言って頭が悪いのではないかとすら思う。
確かに美咲が人に対して無害であるかと問われれば、それは断じてあり得ない。
首都の中心部に群立するような超高層ビルにも引けをとらないであろう巨体とそれに伴う質量と力、
おまけに大ドジとくれば、たとえ彼女が意図せずとも、破壊や弊害は起こってしまうこともある。
と言うか、忌々しきことだが日常茶飯事だったりする。しかし、当人はそのことを重々承知しているし、
どうにかそれを減らそうと、己の所作に関して細心の注意を払ってくれているのだ。
もういい加減、美咲という存在は武力攻撃一辺倒で何としても排除しなければならない程危険なものなのか、
といった意見、疑問を提唱する者が現れても良いものだと思うのだが。
ついでに言えば、もしそれが彼女の怒りに触れでもしてしまったら、本気にさせてしまったら、
恐らく自分達人には成す術が無いと思うのだが。
上に立つ者には相応の責任があるのだから、その点も考慮しもっと柔軟にあって欲しいものだ。
「…それで、今回の作戦は…?」
うんざりした様子を全く隠すことなく、むしろ前面に押し出して尋ねる。
「人間誰しも寝ている時は無防備だからねぇ…」
「………」
それだけでもう何となく予想がついてしまった。
「『睡眠時を叩く!』…だーってさ」
説明する久木の言葉の端々からも半ば嘲りとも思われる笑い声が聞き取れた気がした。
「………………………嗚呼…」
推測見事的中。しかしこの国の国防は本当に大丈夫なのだろうか、心底心配になってくる。
これまでの兵器という兵器が尽く無力だったというのに、今更寝込み襲って一体どうなるというのだろう。
根本的、そして絶対的に決定力に欠けているのだ。しかし、それでも彼女をどうにか倒そうとする、
その一途さ、不屈の心意気…もとい諦めの悪さだけは見上げたもの、と賞賛すべきだろうか。
ちなみに一方美咲の方はと言えば、これまた度を越したお人好しの対応をしてくれている。
「大丈夫です。全然痛くありませんし気にしてもいませんよ」
穏やかな微笑みと共にそう答えてくれた時には心底安堵したものだった。
彼女の身も勿論のことながら、この世界に住む自分達人間の命や安全についても。
「…と言うわけですから、あなたのお立場もあるでしょうし…
 もし、またわたしを攻撃しなければならないことがありましたら、
 その時は遠慮せずにやってしまって下さいね。…あ、でも、他の方巻き込んじゃダメですからね?
 絶対絶対ダメですからね?きちんと注意して下さいね?」
芝浦に対してはそんなことを言っていたのも思い出す。
自分への攻撃を許可する人間と言うのも大層珍しいものだが、
周囲への配慮をする辺りが如何にも彼女らしい。
その圧倒的力故の余裕からか、はたまた彼女の気質がそうさせるのか。
とにかく結果として、上の人間をある程度満足させるための形式的な攻防が、
美咲と軍部の間では時折勃発した。
「この間、パイロットさんが攻撃前に手を振ってくれたんですよー」
一度にこやかにそんな報告をしてきたこともあったっけか。
攻撃する側とされる側、両者合意の上での、端から結果も見えている戦闘。
それは実に馬鹿馬鹿しく茶番と称するより他ないものだったが、
とりあえずの現状を維持するために必要と言うのであればそれもやむなしか。
余談ではあるが、その容姿と性格のお陰だろうか、
十四師団内に彼女のファンクラブなるものも発足したとの冗談みたいな話も、芝浦から聞いた。
しかも、彼女に対して如何なる攻撃をもするべきではないと言う『穏健親和派』と、
その大きな胸を借りて徹底的にぶつかっていくことこそ彼女の気持ちを酌んでいるのだと言う『積極派』
二派閥に分かれ、日夜鎬を削っているとかいないとか。真どうでもいいことだが。
「で、指揮は…?」
「当然芝浦さんに」
「じゃ、とりあえず安心だな。あの人なら上手くやってくれるだろ」
「まぁね」


 そんなことなどつゆ知らぬ美咲は広がる緑の中に一人佇み、辺りを見渡していた。静かだった。
時折風に乗って遥か遠くから微かに列車の警笛と思しき音が運ばれてはくるものの、
その他に人為的な音は全くない。実際岬からも周りには誰も住んでいないと聞かされている。
ふっと一つ息をつくと、彼女はおもむろに髪を束ねていたリボンをぱっと解いた。
長い黒髪は一度ふわりと舞って波打った後、全く結い跡を残すことなく、真っ直ぐに背の中程まで届く。
同時に、彼女の心もまた、小さく儚い異世界での緊張の連続の一日を無事に乗り切った充足感と、
それと共に今この一時、それより解放されたという安息感に満たされていく。
が、美咲はふと明日のこと——先の主とのやりとりを振り返って顔を曇らせた。
完全に勝手なこちらの都合、しかもしょうもない理由で、電話で呼びつける様な形になってしまったこと、
それが何とも心苦しかった。しかしそれでも、岬は嫌な顔一つせずにそれを了承してくれたのだ。
それに報いる為にも明日も精一杯小さな主に仕えよう。
その為にも先ずは頑張って、少しでも早起きをしなければ。そう考えて気を取り直すと、
美咲は例のポケットから寝巻きと共に、身の丈程もある抱き枕をいそいそと引っ張り出す。
『至高にして究極の幸せ、それ即ち快眠である!』
それは十六年の歳月の中で彼女が行きついた、決して揺らぐことのない持論の一つである。
愛用の枕はその為の超重要必須アイテムで、この世界を訪れると決まった時も、
何よりもまず真っ先に絶対持っていこうと決めたモノだ。
先生には『遊びに行くのではないのですよ』と軽く窘め(たしなめ)られたが、
やはりこれ無くしてはやっていけない。それ故、この世界の細々しさ、狭苦しさを目の当たりにした時には
正直なところ、諦めの気持ちと共に、大きな落胆を覚えずにはいられなかった。
だから、こうして気兼ねなく眠れる環境を用意してもらえたのは本当に嬉しい。
一応念の為にともう一度周囲を見渡した上で、上機嫌で小さく鼻歌混じりにもそもそもと着替えを始める。
先ずはブーツと腿まで届く長い靴下を若干まどろっこしく思いながら脱ぎ捨て、続いてリボンカフスを外す。
それからエプロンドレスの結び目をほどき、するするとシャツブラウスとスカートを脱いでいく。
最後にほんの少しだけおたおたと手こずりつつ、後ろ手でブラジャーのホックを外し、
微かに淡く水色がかったそれを手にぶら下げたところで、ふと動きを止め、まじまじと見詰め込んだ。
そういえば生理的な現象がないのだったら、つまるところ汗をかかないわけだから、
衛生面から考えれば、別に下着を変えなくても何ら問題はない、と言うことになる。
(うーん…でも、気分的にはちょっとイヤかも…)
勿論衣服同様に替えの下着も、例のポケットにそれなりに入ってはいるのだが、
この補習が無期限である以上、そうぽんぽんとり代えていたのでは、
足りなくなってしまう可能性もないわけではない。もっともそうなったらそうなったで、
衛生的には何ら問題ないのでまた同じモノをつければいいだけなのだが、
はて、さしあたって、明日はどうしたものだろう?
そんな本当に至極どうでいいことをぼんやりと考えていた美咲だったが、
頬を撫でる風の感触に、はたと我に返る。そう、周りに誰もいないとは言え、ここは屋外なのだ。
そして幾ら木が茂っているといっても、所詮どんなに高くともせいぜい踝より少々上程度。
要するに彼女からすれば、遮蔽物など何も無い、だだっ広い原っぱみたいなものなのだ。
そんなところで、ほぼ全裸で佇んでいるという現状。どう考えても露出狂か痴女である。
途端に頬、そして耳までもが熱を持ってくるのが自分でも分かり、慌てて両腕で抱くように乳房をかばう。
実に忌々しきことに、押し返してくるその弾力は、何だかまた少し大きさを増しているような気がしたが、
今はそんなことはどうでも良かった。辺りをぶんぶんと見回して、
とりあえず動くものがないことを確認し、ほっと胸をなでおろす。
それから一転、猛スピードで一気にパジャマを着こむと、美咲はため息と共にへたりこんだ。
「ふぃ………ま、まぁ明日のことは明日考えればいいよね…」
答える者はいないと知りながら、いや、むしろ答えが返ってきた方が彼女としては大いに困るのだが、
とりあえず一人誤魔化すように小さく呟き、心を落ち着けようとする。まだ少し胸がドキドキしている。
とはいえ実際のところはと言えば、民家らしきものなど一軒も見当たらない。
唯一気がかりであるとすれば、向こうの方に若干離れて建つペンションだ。
勿論オーナーの計らいで無人なのだそうだが、玄関がこちら側にあるので、
もしかしたら防犯カメラが今の自分の醜態を捉えていた、なんてこともあるかもしれない。
「……」
恨めしげな視線をじっと向ける美咲。
とはいえ、流石にそれだけのことで踏み潰してしまったりしたのでは暴挙としか言い様がない。
(で、でも…事故を装えば…もしかして…)
そんな良からぬことまで、ほんの一瞬だけ、しかし本気で考えてしまう美咲だったが、
すぐにそれに大きなばってんをつけると、頭の中から追い出す。
もし岬に問い詰められたら、言い逃れできる自信は無い。ご主人様はとても鋭い人なのだ。
それに、何より折角この場を提供してくれた親切な人に対して、恩を仇で返すことになってしまう。
気がつけば食い入るように見詰めていたペンションから慌てて目を反らし、
美咲は気持ちを切り替えて、周囲に脱ぎ散らかした服に手を伸ばす。
よし、もう寝よう。うん、それがいい。こういう時は経験則上、寝てしまうに限る。
ぐっすりたっぷり眠れば、明日には身も心もすっきりに違いない。
…もっとも何事も無くても、もうすぐに寝てしまう心積もりだったのだが。
そうして服を丁寧に畳んで一つにまとめ、最後にブーツを揃えると、
彼女は一つ小さな欠伸をして、程なくぽてんと横になった。
日中初夏の日差しを浴び続けた芝は、柔らかな温もりを有しており、ふかふかしてなかなか心地良い。
徐々に夜の帳が下りて、空は臙脂(えんじ)から青紫、青紫から漆黒へと急激にその明度を絞っていく。
明日も良い日になりますように。

 そうして一度はその瞳を閉じた美咲だったのだが、すぐにそれは開かれ、
不快な色を孕んだ眼差しを、その発光する物体へと向けることになった。
辺りに誰も居ないということになると、自動で明滅する常夜灯と言ったところなのだろうか。
それは美咲からすればそれは極些細な、小指の爪先ほどにも及ばない本当に小さな光なのだが、
自身を取り囲むように周囲に幾つもあって、一度気になるとなかなか眠れない。
というのも従来美咲は真っ暗にして寝る派なのである。
「ぅー…」
横になった自身のちょうど目の高さにある電灯を見詰めて、憎らしげに小さく唸る美咲。
彼女はやおらむくりと再び起き上がると、後ろめたさからもう一度キョロキョロと視線を周囲に配る。
それからすっと手を伸ばし、その細かな白い明りを人差し指と親指の間に入れると、
心の中で謝ってから二本の指の腹を合わせた。指に伝わってくるぷちりと言う本当に微かな軽い感触。
それと共に明かりが消え、辺りの薄闇が一段と深くなる。
それを繰り返すこと何度か、かくして彼女は、程無く安らかな深い黒闇に包まれたのだった。