■性懲り無くも邪魔してみたら

『隊長…何か物っ凄く幸せそうなんですけど…』
「ああ、そうだな…」
通信機からある困惑したような部下の声に芝浦は短く、しかし心の底から同意してそう応える。
淡いピンク色、水玉模様の可愛らしいパジャマに身を包み、ゴルフコースを丸々一つ占拠し、
さながらデフォルメされたウサギっぽい何かをみょーんと引き伸ばしたような巨大な抱き枕に
しがみつくようにして、気持ち良さそう寝息を立てている巨大な少女。
暗視スコープを通して見るその表情は穏やかで、その口元には微かに笑みを浮かべている様でもあり、
どうしても攻撃することに躊躇いを覚えてしまう。
「………しかし、作戦は決行されなければならない」
それは部下に対してと言うよりは己の背を押すための言葉だったかもしれない。
『そう…ですよね…』
応じる部下の声もまたどうにも乗り気ではないと言った様子。
「なぁに、攻撃自体は全く効かないのだ。或いは寝ているうちに何もかも済むかも知れないさ」
軽い調子で続けるその言葉は彼自身の希望的観測でもあった。
『そう…ですか…、ええ、確かにそうですよね』
「さて…時間だ、それではこれより作戦遂行に移る」
 今回の作戦に充てられた兵力は戦闘機が五機に戦車が六台。
上空からの爆撃と、カントリークラブの最も近くを走る高架道路からの砲撃による同時攻撃。
当然のことながら巨人少女美咲を撃破することを至上目的としている。
…のが単なる建前でしかないのはもう毎度のことなので言うまでもない。
対して美咲はと言えば、攻撃を受けるたびにある程度の反撃をしてくる。これも体裁と言うやつだ。
この戦闘が八百長で無いことを上層部に示すための応戦…のフリ。
そのやり方や度合については時によって差異があり、状況や彼女の気分にも大きく左右される。

 そういえば一度運悪く流れ弾が岬の方へと飛んで行ったことがあり、その時の美咲は少し怖かった。
己の乗る戦闘機が捉えられた後、コックピットを覗き込んでくる笑みは微かに引き攣っており、
目は全く笑っていなかったのが、強く印象に残っている。
「ちゃんと気をつけて下さいって言いましたよ…ねっ!」
言葉と共に四方八方から幾つも上がる、金属の軋んで歪む耳障りな音。
もっともそれが彼女の五指が機体を圧壊してしまい兼ねない程に、食い込んだ音だったと知ったのは
その手から解放された後に、惨めに変わり果てた機体の外観を改めて見た時だったのだが。
それを目の当たりにした瞬間は、流石に背中に冷たいものを感じずにはいられなかった。
しかし、その後の美咲はと言えば、岬によってそのことを咎められ、こってり説教されていた。
散々絞られて、しゅんと小さくなっている彼女の姿は、傍から見ていて気の毒な程であり、
思わず当の芝浦がそれを宥めて、助け船を出してやったりもしたのだが。
実際、美咲は本気で握り潰そうなどとは微塵も考えていなかったはずだ。
芝浦とて美咲が心優しい気立ての良い娘であることくらいもうとっくに知っていたし、
そもそも、自分たちが駆る戦闘機など彼女からすれば紙飛行機同然の耐久性しか持たないのだから、
もし本当にその積りがあったなら、それこそ一瞬にして鉄団子になっていたはずだ。
敬愛するご主人様に危険が及んで、少しばかりカッとなってしまったのだろう。
そう、彼女にその気はまるでなかった。それなのに『弾み』でこれだけのことが出来てしまうのだ。
だからこそ、実のところあの日最も驚いたのは、自身が潰されかけたことよりも、岬の説教の方だった。
幾ら主従の関係を結んでいるとは言え、力も大きさも遥かに及ばない存在と相対して、
全く委縮することなく、よくもあれだけ思ったことをそのまま伝えることができるものだ、と。
その勇敢さには感服する他無い。が、彼にその旨を伝えたところ、返ってきた答えは意外なもので。
「あー…ここだけの話、これでも内心ではびくびくで、腰が抜けそうになっているんですよ。
 何しろあれだけの力を持っているんですからね。実際ふとした拍子に恐いと思うことも多々ありますし。
 まぁ、主人になっておきながら信じ切れていないんでしょうね、恥ずかしながら。
 けど、だからって…もし、ここで美咲を畏れて何も言わなかったんじゃ、
 彼女のことを『信じられない』じゃなくて、『信じようとしていない』ことになるのかな、と」
虚勢を張るでもなく、息巻く風でもなく。笑いながらあっさりそんな風に言うのだから、
なかなかどうして、本当に大した若者であると思う。
指先一つで潰せてしまう様なちっぽけな相手を主と認め、真摯に、ひたむきに尽し、守ろうとする少女と、
町一つを丸々廃墟とすることすら可能であろう相手を懸命に信じ、誠意を以て接しようとする青年。
何だかんだで二人は良い関係を築いているように思う。それに引き換え、
「我々は一体何をやっているのだかな…」
『…はい?』
部下の声訊き返されて、現実に引き戻される芝浦。
どうやら通信機に自嘲気味の呟きが拾われてしまったらしい。
「何でも無い。さて時間だ。始めるぞ」
作戦中の雑念は隊全体に影響を与えかねない。
芝浦は軍人の声ではっきりそう通達すると、ターゲットへと狙いを定めたのだった。


 美咲はもうとっくに寝たのだろうか?時計を一瞥してそんなことをふと思う。
やっとのことで『不毛な片づけ』を終えた頃には、もう日が変わりそうな時間になっていた。
というのも帰ってきたら、見違えるほどに部屋が散らかっていたのだ。
綺麗に本棚に収まっていた筈の本は残らず飛び出して散乱し、
その上に並べておいた置物や、壁にかけておいた時計も、軒並み床に転がっていた。
それどころかベッドの位置や冷蔵庫なんかまで少なからず移動していたり、
テレビも危うくテレビ台から落ちかけていたり、と部屋は結構大変なことになっていたのである。
原因は言わずもがな、美咲…と言っても当人が悪いわけではなくて、所謂一つの不可抗力。
無駄だと言うのにかなりしつこく家に案内するよう食い下がってきたのを思い出す。
全く近くを通りかかっただけだと言うのに大した威力である。
きっとこのようなことが島中で起こっているのだろう。
「やれやれ…地震対策を馬鹿にしてちゃダメだな…」
人知を大きく逸脱した、言わば自然災害的とも言える大きな力を持つ巨大少女。
しかし、そんな彼女が遠慮がちに口ごもりながら、おずおずとしてきた申し入れが
今になってふと頭を過り、岬は一人複雑な表情を浮かべたのだった。

「———実は………ですね…………………」
 たっぷりと間を置いた後、決意を固めたように深刻な面持ちで口を開いた美咲。
「わたし………朝、弱いみたいなんです…」
その口からどんな言葉が出てくるかと思いきや、その内容はまるで大したことではなくて
岬は思わず間抜けた声で問い返してしまったのだった。
「…はぁ?」
「………だ、だからその…!…朝が…苦手でして…」
繰り返す美咲。そう言えばこの補習の原因も確か…。
「…それでですね…明日のことなんですけれども………。
 旦那様に迎えに来て頂くと言うだけでも申し訳ないのですが、
 わたしの準備が出来て、電話を差し上げてから、と言うことにしては頂けないでしょうか…?
 その…ちょっと…寝ていなかったわけですから…どうしてもちゃんと起きられるか自信が無くて…
 寝間着姿をお見せするのは、やっぱり…心苦しいし…恥ずかしいですし…」
「なるほど、そう言うことか」
納得する岬だったが、美咲の方からそれを撤回してくる。
「あ、いえ…申し訳ありません…。こんな厚かましいお願い…メイドがしていい筈ないですよね…」
「いや、いい。じゃあそれでいくか」
「…やっぱり…そうですよね………って…へ?いいんですか?本当に!?
 …で、でも…旦那様にもお仕事とか、ご都合があるのでは…?」
丸い目を大きく見開く美咲。
「都合、ね…」
既に岬は全島圏局長様こと久木より直々に『しっかり巨人のお守りをするように』との特命を受けている。
故に彼の生活は基本的に美咲に合わせることが最優先になっており、
即ちそれが彼の今の仕事のようなものだった。
「いや、本当に全然構わない」
だからその言葉もまた決して嘘ではないのだが、
「そうですか…じゃあ…お言葉に甘えて…。本当に申し訳ありません…」
やはり美咲は元気無く肩を落として首を垂れる。
「まぁそんな顔するなよ。慣れない世界…気疲れも大きかっただろうしな、ゆっくり休むと良い。
 ああ、何なら明日は丸一日寝ていても良いんだぞ?」
冗談めかして付け加える。実際彼女が動かなければ、それだけ事故や危険の可能性が減るのは事実なのだから
密かに本心が混じっていたりもするのだが。しかし、流石にそれに応じる彼女ではなく、
「………!…え、あ……いえ……そ、そんなことしませんよ!ちゃんとお仕え致しますから!」
と慌てた様子で首を大きく横に振ってそう反論してくる。
とは言えその直前、一瞬ではあるものの、ものすごく幸せそうな顔をしたのを岬は見逃さなかった。
分かりやすい彼女の反応に、思わず唇の端が緩む。
「あっ、ちょっと…!な、何で笑っているんですか!?」
「ん?気のせいだ、気のせい」
「…そうですか?………そうですかぁ…」
納得いかぬと言う顔でむくれる美咲。しかしその表情はだいぶ明るいものになっている。
「にしても…やっぱりお前も目覚まし時計をいくつ使っても全然起きられなかったりするクチなのか?」
基本的に早起きが全く苦にならない岬にとってはイマイチ信じられない感覚なのだが、
世の中にはそういう人間もいるらしい。
すると人差し指を頬に当てて、少しばかり考えを巡らせる風を見せてから、馬鹿に深刻な顔で口を開いた。
「んー…それが…ですね…。何度かセットしてみたりしたんですけれども…
 不思議なことに一夜の内に必ず故障しているんですよ…
 それも時には向こうの方に転がっていたり、バラバラになっていたりして…!」
「………」
「不良品、だったんでしょうか…?」
「………きっと違うと思うけど…。ああ、じゃあ家族の人に起こしてもらうとかは?」
「あ、わたし今は家を出て寮に入っています」
「だったら寮生とか友達とか…」
「…それが…ですね…結局誰も起こしてくれないんですよ…。それどころか何故か大抵怒られるんです…
 『もう二度と美咲起こさないから!』って…。あ、そう言えば頼む子、頼む子、
 何故か次の日には皆して顔に青あざを作っていたりするんですよね…」
「………」
「何があったんでしょうね…?」
「…………………さぁ」
「って…そうですよね。わたしの部屋で何が起こっているかなんて、
 旦那様がご存じのはずありませんよね。でも、とにかく本当に不思議なんです…」
一人呟くその表情は真剣そのものだが、はっきり言って容易に見当はつく。
ある意味自分自身の安全のためにも、寝ている美咲に近づかないのは結構賢明な選択なのかもしれない。
「寝ている……美咲に……」
思わず独り言が零れる。思い至るは勿論今日の作戦。
「芝浦さんなら大丈夫、だよな…」
彼のことは勿論信用している。美咲のことも結構信用している。
しかし、考え始めるとどうしても胸騒ぎは収まらなかった。


 芝浦の放ったミサイルを攻撃開始の号令代わりに、ついに始まる地と空からの一斉砲火。
横たわるその巨躯は的として申し分ない大きさであった。
全ての攻撃は余すことなく、彼女の背や尻、それに首筋や頬とあちこちに命中、炸裂し、
巨大な爆発音と共に辺りを昼間のように煌々と照らし出す。
続いてもくもくと広がっていく煙に呑まれて、見えなくなるピンクの水玉模様。しかし、
「やったか!?」
などいったベタなことは冗談でも誰一人思わない。
案の定煙が晴れたその向こうには案の定傷一つなく、そして変わらぬ大勢の彼女の姿がある。
どうやら、こちらの破壊兵器など彼女からすれば目覚ましにもならないらしい。
ほっとする反面つくづく無力さを見せつけられて、何とも複雑な表情を作っている自分に気がつくも、
すぐに気を取り直して作戦に集中、続行することにする。
とりあえず彼女の反撃を期待できなさそうなので、決着は『こちらの弾切れによる撤退』
という筋書きが一番自然なものであろう。と、再び照準を合わせようとしたところで、
「ん…んん…」
ふいに吐息めいた声が彼女の唇から零れた。何だか妙に色っぽい。
同時に彼女の眉間に微かに皺がより、表情が不快そうなものに変化することを確認する。
「起こしてしまったか…?」
どうやらそうらしかった。程なく美咲がむくりと半身を起こす。
出来れば何事もなかったかのように、済ませてやりたかったと言う気持ちもあったので、
申し訳ない気分になる。が、次に彼女へと視線を落とした時、芝浦は言い様のない違和感を覚えた。
と言っても、勿論その姿かたちに何らかの変化があったわけではない。
こちらに背を向け、顔は俯き、垂れ下がる艶やかな黒髪に覆われて、その表情こそよく分からないが、
スコープに暴かれて闇の中にぼんやり浮かぶその肢体の影は、大きさこそ常識外れでありながらも
華奢で柔らかそうな丸みを有し、いつも通りの少女らしいそれに違いない。
にもかかわらず、そんな彼女の後姿から醸し出されている気がする、得体の知れない異様な雰囲気。
芝浦が訝しんでその動向を見守る中、彼女は暫くの間、項垂れて座ったままぴくりとも動かなかった。
「…んぅー…………さいよぉ………」
が、ふいにその口から、いつもと異なる小さく低い呟き声が零れた。
「え…?」
すぐ背後で唸るエンジン音に阻まれて、よく聞きとれず反射的に聞き返してしまう芝浦。と、次の瞬間、
「うぅう…うるさいよぉっ!!」
機体越しにすらびりびりと空気が震えているのが分かりそうなほどの大声量が、
エンジン音など容易く突き抜けて、耳を衝いてきて、彼は驚きのあまり思わず目を見張った。
その視線の先で、少しおぼつかない足取りでふらりふらりと立ち上がる美咲。
「むー…!」
続いてその顔の向きと、何がしかに気づいたような様相から、
展開している戦車隊の存在を確認したらしいことを、察する芝浦。既に攻撃を行っていない。
恐らくまだ砲弾は残っているのだろうが、彼らもまた美咲を取り巻く異様な空気を感じ取り、
戸惑っているのだろう。再び沈黙の間があった後、ふいに彼女に動いた。それも、とても急激かつ高速に。
と言っても実際はただの歩行でしかなく、しかも心なしよたよた歩きなのだが。
しかし、全く足元を気遣っていないかのような、彼女の突発的な歩行には凄まじい威力があった。
素足だと言うのに全く何も感じないのだろうか。一歩ごとに木々をまとめて何本も擂り潰し、或いは蹴散らし、
芝を深々と抉り、バンカーと池をまとめて深く大きな足跡の窪地に変えながら、
美咲はコースをどんどん突っ切って、真っ直ぐ彼らの方へ距離を詰めていく。
挙動に少し遅れて重々しくここまで響いてくるのは、そんな彼女の足音か。
普段と明らかに異なる、ぞんざいな歩調で、ずんずん近づいてくる寝巻き姿の巨人に、
彼らもまたただならぬ身の危険を感じたのだろう。戦車達はこぞって退避を開始したようだったが、
残念ながら彼女の方が遥かに速い。あっという間に道のすぐ脇の低木に勢いよく足が踏み下ろされ、
「な…!」
そして本来ならば、一度は絶対にそこで止まるはずの彼女の動きが止まらなかった。
まるで当たり前のようにその足を持ち上げ、よどみなく戦車達の真上へ運ぼうとする美咲。
もし、このままの勢いで足が踏み下ろされれば、きっとそれらは道路もろとも粉砕、圧縮され、
まとめて薄っぺらい鉄板になり果てて、地面に沈み込むに違いない。勿論、搭乗する兵士達も諸共に。
裸足なのだからたぶん大丈夫だろうだとか、実はこれも彼女が普段通りの形だけの反撃の演技なのだろうだとか、
そんな淡すぎる希望的観測など、彼女から醸し出される雰囲気と、乱暴な所作から一瞬で切り捨てて、
芝浦は全ての兵士達に対して大声で即時撤退の命令を出す。
と、同時に自らは咄嗟に残っていたありったけのミサイルを美咲のうなじ辺りへと叩きこんだ。
それらは的確に彼女の後頭部で爆音と共に弾け、長い髪をさらりと揺らす。
当然の如く倒すことはおろか、傷つけることすら叶わないものの、気を引くぐらいのことは出来る。
芝浦の思惑通り、寸でのところで美咲は動きを止め、ゆっくりとこちらの方へ向き直る。
そして彼は見た、その顔を。いつもと変わらぬ器量の良い愛らしい相貌は、
しかし、度を越して表情が薄く、むっつりとしている。
何より最も特徴的と言うか、際立って目を引くのが、彼女の黒い瞳。とろんとして完全に据わっていた。
「…ううぅ…美咲ちゃんの眠りを妨げる人はぁ………」
少しふらふらとしながらこちらを見上げ、
「誰であろうと許してあげないのですっ!!」
声を全くセーブすることなく、びしりと指までさして宣言してくる少女。
「さ、分かったら良いコだから降りてきましょうねー?美咲ちゃん、全然怒ってませんからー…うふふふふ」
かと思えば今度は一転、猫なで声で、不気味な程に優しげな微笑みを浮かべて、そう呼びかけてくる。
しかしその双眸は変わらず据わったままで、ちっとも笑っていない。断じて嘘だ。
これは絶対に聞き入れるべきではない。果てしなく危険だと本能が告げている。
「…うぅぁー!…こぉらぁっ!おりてきなさぁいーっ!」
芝浦が応じる気配を見せなかったことに腹を立てたのか、再び大きな声を上げる美咲。
それを聞き流しながら、芝浦は考える。一体彼女はどうしてしまったのだろうか、と。
起されたことに対して酷くご立腹なのはほぼ間違いないのだろうが、そうにしたって乱暴すぎる。
これまで見てきた穏やかな彼女からはおよそかけ離れた、まるで心のたがを外してしまったか様なその言行。
酩酊状態。彼の頭に真っ先に浮かんだその単語は今の彼女を最も的確表しているように思われた。
が、美咲がアルコールをはじめ、妙なものを摂取したなどと言う報告は入っていないので、
その線は先ず考えられない。とすると…このそら恐ろしい彼女の態度は状況から察するに、
「…寝ぼけて…いるのか…?」
渇いた唇から出たその推測は些か現実離れをしている気がしたが、しかしそれ以外に考えられなかった。
脳裏を過る本当に心地良さそうだった彼女の寝顔。
あの時やはり思い留まっていれば、などと考えども、後悔は先に立たず。
しかし、何にしても作戦はこれにて終了だ。
戦車隊はどうにか無事に逃げ果せ、身を隠せたよう様であるし、空の方も既に近くに部下の機影はない。
後は自身がここから離脱すれば、彼女の周りはじきに静かになることだろう。
「ううぅ…っ!」
美咲さっきからはまるで届かぬ所を飛ぶ虫でも見る猫のように、
常にこちらの動きにぴたりと目線を据え、限りなく不機嫌で不満げな唸り声を上げている。
そんな彼女を尻目に直ちにこの場を去るべく、大きく機体をくるりと旋回させる芝浦。
「うぅー!…うぅぅー!…う…」
背後からは尚もまるで絡みついてくるかのような、とことん恨みがましい抗議と怨嗟の声。
その後もそれは暫く続いていたが、突然それがぱたりと聞こえなくなった。
「やれやれ…漸く諦めてくれたか…」
どんどん高度を上げなら一人小さく呟いて、とりあえず胸をなでおろす芝浦だったが、
『ヴン…』
次の瞬間、空気が唸りを上げ、すぐ下を何かとてつもなく巨大な物体が、
凄まじいスピードで通過したのが分かった。
それに煽られてぐらぐらと激しく揺さぶられる機体。続いて下方から重々しい衝撃音。
「…!?」
更に上昇を続けながら、一体何事かと見下ろした彼の目に飛び込んできたのは何と塔…斜塔だった。
それもランドマークにでも成り得るほど程に、太く、大きく、
少なくともこの島内に並ぶものがないであろう程の高さを有した白いタワー状の物体、
しかし、そのてっぺんには長い耳を持った、ウサギとネコの相の子といった感じの動物の顔。
ついさっきまであったそこに筈のペンションを、恐らく土台ごと跡かたも無く吹き飛ばし、
それになり代ってそそり立ったその大きな物体はつぶらな二つの瞳で以て、こちらを見上げていた。
が、バランスを失ったのか、やがて土煙を上げ、メリメリと木々を薙ぎ倒しながら倒れ込んでいく巨塔。
『ズズーン…』
それに伴ってやっと我に返って思考が再起動し、状況を把握した芝浦は憔悴しきった掠れ声で呟いた。
「…まくら………か………」
もし、あと少し上昇を開始するのが遅れていたら、そう思うと背筋に冷たいものを感じる。
美咲が恐らく腹立ち紛れに投げつけてきたのであろうそれは、一見ふわふわして軽そうなイメージを受けるが
そうは言ってもざっと計算してその質量は3000トン程はありそうである。
そんなものがあの猛スピードで直撃していたら、機体ごと自らも確実に木っ端微塵になっていたに違いない。
長く、深く、溜息をつく芝浦。如何に経験豊富で百戦錬磨である彼であっても、
死とのニアミスをこれほど鮮明に感じれば、大きな疲労感にも襲われ、どっと全身が重くなるものだ。
とは言え、吐き出された吐息には、やはり安堵の意味合いが大きかった。
ここまで遠く、高く離れれば、さしもの彼女もどうしようもないだろう。
後は再び美咲が就寝し、そしてそのまま朝が来て、彼女が冷静になったら、改めて謝罪に赴くとしよう。
少し恐ろしくはあるが、彼女のことだから、話せば分きっとかってくれるに違いない。

そう、今日のところはこれで終わったのだ。





………はれ?…ここ…どこだろ…?とりあえず私の部屋じゃない…?…みたいだけど…
えーと…うーと……んー…まぁ…どうでもいいかな…そんなこと…
それにしても何だかとっても不愉快…もう大迷惑だよ…
ちっちゃいくせに、派手な音と光で人の眠りを妨げてきた…えっと…
…あれ…?何だったっけ?虫…?…じゃなかった気がするけど…
んー…とにかくあの生意気なちっちゃいの。…もう…いなくなったのかな?

見回してみたものの、特に何も見当たらず辺りはしんと静まり返っている。
けれども、そこでふと気がつく色とりどりの明かり達の存在。
反射的に手を伸ばしてみたけれども、思ったよりずっと遠くにあるらしく届かない。
その数は小さいながらもかなり多く、薄ぼんやりとして、星の光もかき消すほどそちらの空は白んでいる。

どうして?夜なのに…。良い子は寝なきゃいけない時間なのに…
きっと悪い子なんだ。うん…そうに違いないよ。だってこんな夜遅くまで起きているんだもん。
もしかして…さっきのちっちゃいのも…あそこから来たの…?
きっとそうだよね。こんな時間に、人に迷惑かけるなんて、人の眠りを妨げるなんて、絶対悪い子。


……
………

そうだ、懲らしめ…じゃなかった…お説教をしに行っちゃおう。
ちゃんと夜は寝ないとダメなんだよって教えてあげなくちゃ。
あ…でも、もしかしたら…単なる明かりの消し忘れ…だったりするのかな…?
………でも、それならそれでやっぱり問題だよね…。
そうだ、だったら消してあげればいいんだ。うん…とにかく、行ってみよう。



少女はゆらりと立ち上がると、夢見心地のままふらふらと歩き始めたのだった。
小さな人々が営む、脆く儚い夜の街へと向けて…。