『派遣女神』


「きゃぅっ…!」
ダッパーン。
我ながら思わず間抜けな声を上げてしまったのは、強く打ち付けた腰が結構痛かったからでした。
しかも、いきなり水の中に放り出されるだなんて想定外です。
もっとも水深はお尻をついた状態で腰より少し上程度なので溺れるということは無く、
いつの間にか着せられていた真っ白な丈長のスカートが、
きらきらと輝く水面に遊ばれて水母のようにふわふわと揺れています。
日差しは燦々(さんさん)として温かく、水も透き通ってそこまで冷たくもなく、心地良いくらいです。
「うえぇ…幾らなんでもいきなりすぎですよ…」
けれど、それでも派手に水浸しになった私は、涙目になりながら小さくぼやきました。
一体ここはどこなのでしょう?見渡す限り紺碧一色。そして鼻をくすぐる微かな潮の香り。
遠く彼方を見やってみても、何一つ目につく影はありません。これはまるで、
「………海…?」
誰にともなく一人呟きます。そう、それは浅いながらもあたかも大海原の真ん中のようでした。
360度、全方位に広がる見事なまでに澄み切った美しいコバルト色の世界です。
私は思考も言葉も忘れ、暫しそれに心奪われて、何を見るともなしにぼんやり遠く眺めていました。
けれども、ずっとこうしているわけにもいきません。
ふと我に帰ると、とにかく立ち上がろうと私は何気なく手をつきました。
と、その途端に何か小さな悲鳴のようなものが手元から幾つも聞こえてきたような気がして、
私は反射的にその辺りへと視線を落としました。
「………え」
と同時に視界に飛び込んできたそれに驚き、目を丸く見開いて、思わず絶句してしまったのです。
そこには、まるでボトルシップを彷彿とさせる帆つきの船が幾つも幾つも浮かんでいました。
しかもよくよく見れば、甲板には米粒大にも及ばない小さな何かが沢山蠢いています。
(む、虫…?)
脊髄反射的に思わず眉間に皺が寄ります。正直言って私はこの手の生き物さんが大の苦手なのです。
船の模型にうじゃらうじゃらとたかる小型の節足動物門昆虫網の皆々様。
嗚呼、何だか考えただけで首の後ろの辺りがぞわぞわしてきましたよ。
ここは一つ、遠くの方からささやかに水でもかけて、向こうの方に追いやってしまいましょうか。
そんなことを一度はわりかし本気で考えてしまうものの、一瞬遅れてすぐに、
その船がどうやらおもちゃでないこと、それとほぼ同時にその小さな何かが人であることにも気が付きます。
直前に与えられていた甚く(いたく)不親切で、断片的な情報、
それが目の前の現実と照らし合わされ、私の中で補われ、一つの結論に到達します。
(なるほど…そういうこと…ですか…)
私は沈痛な溜息と共に心の中で呟き、納得したのでした。
船達は私の水面の上下に伴って、ちゃぷちゃぷと気持ち良さそうに揺れていました。
………と言うのはあくまでも私の一方的かつ主観的な見解であり、
そこに乗っている当の方々からすれば、きっとただならない状況なのでしょう。
何しろ自分達が乗っている船と比べて何倍もの大きさがあろうかという何かが、
いきなりすぐ間近に勢いよく降ってきて、海底に突き立ったのですからね。
私にとっては軽く引き起こした、というより無意識の所作によって勝手に立ってしまった小波ですらも、
彼らにとっては突発局所的な大時化(おおしけ)だったのです。
現に、目を凝らし、耳を澄ませば、小さな人々が振り落とされないように、
船の縁やマストに必死にしがみついて、か細い叫び声を上げているのが分かりました。
そんなパニックを目の当たりにし、何とかしなければと咄嗟に手を引き抜こうとします。
けれども、そうしようと少し動いただけでも水面が軽く盛り上がってしまいます。
勿論その『軽く』にしても、あくまでも私からすればのことであって、
そんな些細な水流の変化にも、船達は気の毒なほど翻弄されて、大きく揺らぎます。
私はすぐさま動くのを止め、状況が沈静化するまでは、大人しく静観しておくことに決めました。
確かに船達はどれも皆一様に激しく揺れていましたが、
さしあたって沈没の危機に瀕していそうなものはありません。
そうして思惑通りに、暫く時間が経って水面は静かになると、船上も落ち着きを取り戻したのでした。
と思いきや、何と今度はいきなり攻撃が始まったではありませんか。
もっとも、その事実に気がつくのにも、かなりの時間を要したのですけれども。
何しろ痛みはおろか、僅かな感触すらすらなかったのです。
幾重にも重なり、連なった号令混じりの雄叫びに耳を傾け、忙しなく動き回る彼らの動向を
つぶさに観察したことでやっと攻撃されていることを理解できた、というくらいです。
どうやら彼らの武器は、主に火矢混じりの弓矢のようで、ある程度の大きさがある船には、
投石機や、数人がかりで引く大型の弩なども備え付けられてはいるのですが、
そのいずれもが、私にとっては例外無く余りに小さく、脆弱すぎました。
しかも海に突き立てた私の右腕だけを一生懸命に狙っているのが、上から見ていて一目瞭然で。
それが何だかおかしくて、ついつい笑みが零れてしまいます。
きっと彼らは一生懸命なのでしょう。ですからそれを笑うというのは失礼なことなのかもしれませんが、
どうしてもその様子が滑稽であり、微笑ましくなってしまうのです。
しかし、このままでは埒が明かないと悟ったのか、いよいよ白兵戦に切り替えるべく船を近づけ、
槍や剣を手に飛び移って来ようとする気配を察すると、流石に身の危険を感じ、
水底についていた手を水中で軽く、本当に小さく揺らしてやりました。
勿論危ないと思われたのは私ではなく、彼らの方です。
たったそれだけのことなのですが、寄ってきた船達はその何倍もの速さで一気に押し戻され、
同時にその細波は計らずも隊全体に大きな影響を与えてしまったらしく、
また数え切れないほどの小さな悲鳴や狼狽があります。結果、攻撃はあっさり中断されたのでした。

そんな少々情けない彼らですが、それでもこれだけ咄嗟に戦闘を開始できたこと、
そしてこれほどの人数が大挙して航行していることから、その正体と目的に自ずと想像がついてしまいます。
私は表情を曇らせました。もし、この推測が当たっているのならば、その時は…
何と言いますか、彼らに『然るべき対応』をとらなくてはならなくなります。
と、そこまで考えたところで私は小さく首を振って、それを打ち消しました。
ダメ、ダメです。勝手に決めつけてはいけません。
まだそうとは限らないのですから、ちゃんと確認してみなくては。
「あの…落ち着いて下さい。まだ何もしませんから…」
言ってからついうっかり『まだ』と口を滑らせてしまったことに、しまったと思いました。
が、小さな人々は突然どこからか声が投げかけられたこと自体に、驚き、対応に苦慮しているらしく、
キョロキョロと辺りを見渡しているようで、特に大きな問題にはならなかったようでした。
私はそれに内心安堵しつつ、更に言葉を続けます。
「もしかして…ですが、皆さんは兵隊さん、ではありませんか?」
答えはありませんでした。甲板上にはもう先程の様なパニックこそ見えませんでしたが、
それでもどうしていいのか分からないと言った様相でお互いに顔を見合わせ、何か言い合ったりしています。
困りました。言葉が通じないということは無いはずなのですが、このままでは話が前に進みません。
と、不意に一際大きな声での叱責があり、人々の間に緊張が走り、しんと静かになりました。
声の主は格別大きな船に乗っていて、格別立派な服を着た、見るからに偉そうな恰幅の良いおじさんでした。
顔面には太くて逞しい、わしゃわしゃの毛虫が左右対象で目の上と口元に二匹ずつ。
すごい強面で、表情も険しく、見るからに高圧的な雰囲気で、絶対私のニガテなタイプです。
もし、同じ大きさであったとしたら、その鋭い眼光でぎょろりと睨み付けられでもしようものならば…。
気が小さく、あがり症の私のことです、きっと目を合わせることすらままならないでしょう。
彼は浮足立っていた船隊を一喝の元に鎮めた後、これほど小さくとも充分分かるほどに背を伸ばして、
不自然なほどに大きく胸を張ると、いかにも『らしい』態度と調子で答えたのでした。
「いかにも!我々はシャハティカ皇国の海軍、そして我が提督のリンゲン=シャハティカである!」
やっぱり…。その答えを聞いて私は思わず心の中で呟きました。悪い予感、見事に的中です。
しかし、だからと言ってこれだけではまだ十分ではありません。
もしかしたら『そうではない』可能性もあるのです。
ですから、私は胸が高鳴るのを感じながら、どこか一縷の望みにでも縋る様な気分で、
いよいよ核心である、その重要な問いかけをしようとしました。
「で、では、次の質問です。あなたたちはこれから一体——」
「そういう貴様は何者か?」
「へ?あ…わ、私ですか?」
「然り!名乗る口を持ち合わせながら、それをせぬとは不届き千万!」
「あ、その…」
ところがこちらの言葉は強引に遮られ、唐突に尋ね返された上に、
一方的なお説教までついてきたものですから、思わず言葉に詰まってしまいます。
何て言うか、遥か下の方からすごく上から目線の口調ですよ。
「よもや貴様、伝説の海獣レヴィハタンではあるまいか?」
「か、かいじゅうって…」
思わず脱力。それは幾ら何でも酷くありませんか…。
「ではベヒモットか?或いはタンニンか?」
「そ、そんなのではありません!…たぶん…」
彼の口にする単語の意味はよく分からなかったので少々自信は無かったものの、
何だかロクでもないものと間違えられているような気がしてならないので、一応否定しておくことにします。
「では一体…?さながら天を支えて立つ柱のような、手も足も持たない巨体…
 やはり、化け蛇か海竜といった類のもの…なのか…?いや、しかし…
 それにしては鱗もなく、白く滑らかで………それに何より言葉が通じるとはけったいな…」
肌が綺麗だと褒められてしまいました。ちょっと嬉しいです…ってそうじゃないですね。
どうやら彼らの目には未だに私の腕しか入っていないようです。
「違いますよ。もっと全体を見て下さい。それは私の右腕です」
「う、腕…とな?」
偉そうなおじさん、もとい提督さんの顔がゆっくりと持ちあがり、肩越しに見下ろす私の目が合います。
「何…と…!」
流石に驚きを禁じ得なかったのか、大きく目を見開いたのが分かりました。
「き、貴殿は…一体…?」
そして今一度尋ねてくるその姿勢、雰囲気は心なしか結構丁寧なものになっていました。
「あ、は、はじめまして。私はさと…」
改めて投げかけられる問いに、無意識で答えそうになって私は慌てて口を噤みます。
それは正しいけれども正しくないのです。体の大きさ的には言うに及ばず、課せられた役割的にも。
「……じゃなくて、ですね。…えっと…その…まぁ…何と言いますか…」
言葉はなかなか出てきません。いえ、次に言うべき、明確な答えはちゃんとあるのです。
けれどもそれを口にするのはやはりとても恥ずかしくて、ほっぺは言うにあらず耳まで熱くなってきます。
きっと今、私の顔はみっともなく見事に真っ赤になっていることでしょう。
しかも、下から私へと一点集中されている無数の視線がそれに更なる拍車をかけます。
けれど、だからといって俯き口をごにょごにょさせていても、事態は決して進展しません。
「わ、私は…ですね……な、何と…め、女神…様…だったりするのです、はい………」
やっとのことで私の口からへなへなと絞り出されたそれは、内容とは裏腹に、
実に頼りない響きであり、全く、少しも、これぽっちも威厳を有してはいませんでした…。

私のような何の変哲も無いただの小娘がこんな突拍子も無いことを、しかも弱々しく呟いたって、
せいぜい一笑に付されるか、聞き流されるか、もしかしたら正気を疑われてすらしまうかもしれません。
ですが、いかんせんこの大きさが大きさです。説得力は十二分にあったようでした。
「う…うおおぉぉおおおぉぉっ!」
寸刻の沈黙の後、小さな船達から男の人たちの歓喜の声がどっと上がります。
「女神様だ!女神様が助けに来て下さったぞ!」
「やはり天は我々の味方をして下さるのだ!」
「女神様が力を貸して下さるなら勝てる、絶対勝てるぞ!」
「国は…これで国は救われるんだ!」
「あ、あぅ…ちょちょ…ちょっと待って下さい」
予想以上の反響に戸惑い、慌てて言葉を差し挟みます。勝手に話を進められても困るのです。というのも、
「……ご期待に添えなくて申し訳ないんですが、私は…その…確かに一応女神は女神なんですけれども…
 たぶん皆さんが思っているような女神じゃなくて…ですね…
 ここに来たのだって…実は…その…助ける為というわけではないんですが…」
大きな声で話しているわけではなく、むしろおずおずといった感じなのですが、
それでも彼らの歓声を打ち消し、尚かつ彼ら全員に容易に声が届けられるのはありがたいことです。
なにぶん元来声を張り上げるのも、大勢の人前で話すのも、大層苦手な性分ですから。
「そ、そんな…!」
「我々をお見捨てになるというのですか?」
「どうか、どうか御慈愛を!御力を!」
途端にすがるような響きの哀願が押し寄せてきて、
「えと…えっと…どうしましょう…」
どう応えていいものかと困り果ててしまいます。
何しろ本当のところを言えば、たぶん私は、彼等が期待するものからはおよそかけ離れた、
正に『真逆ともいえる存在』であるかもしれないのですから。
しかし、こうやって頼み込まれると無碍に突っぱねるのはどうしても気が引けてしまいます。
「と、とりあえずですね、皆さんがこれから何をしようとしていたのか、教えてもらえませんか?」
とにかく彼らの言い分くらいは聞いておこう、そう思って尋ねると、
皆さんを代表して答えたのはやはり先のおじ…提督さんでした。
「我々シャハティカ皇国は長きに渡り隣国のジクスという帝国と戦争状態にあるのだ!」
「シャハティカ…ジク…ス…」
私がぽつりと呟きますと、それに応じて提督さんの口調に熱が籠り始めます。
「ジクスとはな…老若男女例外なく!一人残らず!粗野で!短気で!好戦的で!横暴で!強欲で!
 許すまじき蛮行、暴挙を永年繰り返し続けてきた野蛮人どもの国家なのだっ!!」
「そ、そうなんですか…」
余程酷い隣国なのでしょうか。怒涛の罵倒。思わずたじたじです。
が、そんな私の反応などお構いなしに提督さんはますますヒートアップしていきます。
「だが!シャハティカの偉大なる先人達は怯むことなく、誇りと正義を以てずっと戦い続けてきた!
 そしてぇっ!そんな勇猛なる彼らの血と志を引き継いだ我等もまた、
 幾度となくジクスと戦い、そして勝利を収めてきたのだっ!!」
けれど、雄々しく誇らしげだった提督さんの顔にふと陰りが生まれました。
「だが今日、国はかつてない危機に直面しているのである。
 先日、優秀なる我が国の工作員によって一つの情報がもたらされたのだ。
 ジクスにて恐るべき非人道的兵器『空飛ぶ船』がいよいよ完成間際だ、と…!」
「え?船…ですか?………船…なのに、空を飛ぶのですか?」
飛行機、ではないのですね。確かにこのような、銃器すらないらしい世界において、
いきなり戦闘機に登場されても、不釣り合いと言いますか、浮いてしまうだけでしょうが。
とするとそれは気球とか飛行船とか、そういった感じのものになるのでしょうか。
うーん、どうにもピンときませんね…。だって気球にしても飛行船にしても、
あのぷっくりしていて、カラフルで、のんびり気持ちよさそうに空を飛んでいく…あれですよね?
私の印象的には兵器と言うよりはむしろ平和の象徴みたいな気がするのですが。
しかし、私の小さな戸惑いを余所に、提督さんは神妙な面持ちで『いかにも』と一つ深々ときます。
「強力にして無慈悲。正に悪魔的兵器の究極最強最悪最終形よ…」
「は、はぁ…最強…ですか…」
対しての相槌は余りに大仰なもの言い草に呆れたこともあって、些か気の抜けたものになってしまい、
一瞬気を悪くしてしまったのではないかと心配しましたが、
幸いにも当人さんはまるで気にならなかったようで、そのまま喋り続けます。
「そして、そのような恐ろしきものが人非人である彼奴等帝国の手に落ちれば、
 さしものシャハティカとて勝利することは難しい。
 屈辱的な敗北と惨めな滅亡が待っているに違いないのだ…!」
「そ、そんな——」
気球くらいで大袈裟な…。再び反射的にそんな言葉が出そうになってしまったものの、
考えてみればそもそもその『空飛ぶ船』が原始的なものであるということ自体私の憶測でしかありません。
そして仮にそれが的中していたとしても、もしこの世界に他の飛行機関がないのであれば、
それは一切反撃の余地を与えず、一方的に攻撃可能という絶対的な存在になるわけです。
となると、滅亡云々はともかくとしても確かに大きな脅威であるのも頷けます。
ちなみに、途中で止めた『そんな』は、どうやらショックの絶句と判断されたらしく、
提督さんはとても満足げな表情を見せると、
「うむ…!なればこそ、そうなる前に!何としてもそれを阻止するべく!
 愛国の心と決死の覚悟を以てこの大海原を往くのであぁるっ!!」
そんな勇ましい言葉を以て、演説は締めくくったのでした。
「な、なるほど…そういうことだったんですかぁ…」
一度は納得しそうになるものの、はっと我に返って、おずおずと反論してみます。
「あ、で…でも、ですね…やっぱり…戦争は良くない…と思うんです…けど…。
 話し合いとかでどうにか解決できないものなのでしょうか…?」
しかし、
「甘い!甘いですぞ!我々とて決し戦争など望んではいるわけではないのです!
 最初から話の分かるような血の通った連中なら、決してこんなことには…!」
提督さんは即座に声を張り上げて、それを遮ってきます。
「な、なるほど…確かにそう…ですよね…」
「そうですとも!ですから女神様、どうかそのお力を!」
「………」
「女神様…!」
「………」
「何卒…!」
「………」
「どうか…!」
「……………わ、分かりました」
その熱意に押し負け、とうとう私はこくりと頷いてしまいました。
「お、おお……おおおっ!聞いたか、皆もの者!
 女神様が悪逆非道の彼奴らに大いなる鉄槌を下してくださるそうだぞ!」
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
途端に大いに盛り上がる軍隊に当然私は大いに慌てます。
「え?あ、でも…そんな大それたものではなくて、私なりにですね……あのぅ…」
急いで訂正しようとしましたが、それは歓喜の渦の中にある彼らには届かず、
私自身もまた、何だかそれが不要なことのように思えて、途中で言葉を飲み込むことにしました。
こんな風に喜ばれ、頼りにされますと、私としても照れ臭いながらも、やはり嬉しいわけですし、
何より感極まって泣いている人までいることに気がつくと、
何とかしてあげたいという気持ちが強くなります。
「と、とにかくですね!それでは早速行ってきますから………急いで錨を下ろして下さい。ね?」
「は…?」
しかし、今にも意気軒昂で共に進軍しようとしていたらしい艦隊には、
その真意がすぐには伝わらなかったようです。
「あ、えっと…とりあえずそろそろ立ち上がりたいと思うのですが…
 その際にものすごく揺れるんじゃないかな、と……」
控え目にそう付け足すと、弾かれた様にめいめい動き出す小さな兵士さん達。
余程先の揺れが堪えたのでしょうか、その様子は上空から見ていて
やけにテキパキしているように感じられて、気の毒な反面、何だか少しだけおかしくもなります。
そうして動かないように気をつけながら更に待つこともう暫く、
やがて全部の船の準備が出来たらしく、提督さんの船の甲板にて旗のようなものがばたばたと翻ります。
それを合図と判断した私はこくんと一つ頷き、満を持してゆっくりと立ち上がります。
これまでと比べて一際多量の水がざばりとうねりを作り、大きく踊る船達。
伴って再び足元から聞こえてくる幾つもの声。図らずもまた被害をもたらしてしまったのでしょうか。
一瞬どきっとしたものの、しかし、どうやら今回は違うようでした。
小さな皆さんにとってはただでさえ圧倒的に大きい私が、
更に立ち上がって聳える様はきっとさぞかし大迫力だったのでしょう。
それは驚嘆とも畏敬ともつかないどよめき、或いは歓声のようなもので。
「えっと…じ、じゃあ、ちょっといってきますね」
何とも恥ずかしく、そしてほんの少しだけくすぐったく感じるその視線に、
私は軽く肩をすぼめて、はにかみながらそう挨拶すると彼等が指示した方向へと歩み始めたのでした。
…恐らく、両の足で天変地異級凄まじい大波大渦をざぶんかざぶんかと引き起こしながら…。



「…よ、よかった…やっと着いた………」
小さな艦隊に教えられた方向へと歩むこと暫く。
遠く彼方に陸地が、そして微かに町並みが見えてきたことに気がつくと、
私の唇からは思わず安堵と共に疲労の入り混じった大きな溜息が零れたのでした。
と言っても別にそんなに遠くはありませんでしたし、水深だって深くてもせいぜい膝より少し高い位。
多少は水の抵抗もあるものの、スカートの裾をちょっと摘まみ上げてさえおけば、
その先っぽを少し湿らす程度で済みそうな、何てことのない浅瀬です。
幾ら運動が不得手であるとは言っても、本来ならば決して疲弊する様な道のりではありません…。
その筈なのですが…にもかかわらず私は再びずぶ濡れになって、
大いに疲れ切った、情けのない顔をしていました。
というのも実はつい先ほどのことなのですが、何かに足をとられて転んでしまったのです、たぶん。
「………向いてない…絶対向いてないよ、私…」
幸い怪我こそしなかったものの、全身から雫をぽたぽた滴らせ、
よろよろと身を起こした私の口からは、そんな弱音が零れてしまいます。
もしかして船か何かを踏んづけたり、蹴飛ばしたりしてしまったのかもしれない。
そんなことを考えては一瞬ひやりとしたりもしたのですが、幸いそれは杞憂だったらしく、
ひとまずそのことに関してはほっと胸を撫で下ろしたわけです。
けれども、改めてその辺りを調べてみても、特にこれといったものは見当たらず、
水面は凪いでいて流れに足を取られたなどということもどうやらありそうになく、
逆に転ぶ要素自体全く何も無いのだから、それはそれで落ち込んでしまいます。
『先輩って何も無い所でよく転びますよね。何か可愛いなぁ』
ふと学校でのある後輩とのやりとりが脳裏を過ります。
あの時はもう痛いやら恥ずかしいやらで、あの子が差し伸べてくれた手も取れず、
梅雨空さながらのいじけオーラを発しながら、恨めげな涙目を向けてしまったことを未だに覚えています。
『あ、あれ?褒めているんですよ?親しみやすいといいますか、
 母性本能をくすぐられるといいますか…。私は好きですよ?先輩のそういうところ』
対してあの子はと言えば太陽のように朗らかにそう笑っていました。…けど、本当なのでしょうか?
『転ぶ』と『可愛い』って、どう考えても結びつきませんよね…?
というかこれでも上級生、実際身長だって私の方が高いわけですし…。
いえ、勿論あの子がこんな至らぬふつつか者の先輩を慕ってくれているのは分かっているのです。
それに、そうでなくとも元々表裏がなく、からりとした気持ちのいい性格で、
皮肉は勿論のこと、他人を悪く言ったりすることもしない好い子なのです。
ですから本当に他意はなく、率直にそう思い、それをそのまま口にしたというのが
紛れもない事実なのでしょう。ですが、たとえそうだとしても、この上なく嬉しくない褒められ方です…。
何にしても周囲に誰もいなかったのは本当に不幸中の幸いでした。
もしもこんな醜態を人々に見られてでもいたら恥もいいところ、
女神の威厳も何もあったものではありませんから…。
いえ、あながちそうとも言えませんか。むしろ女神の素行呆れる前に、
残らず海の藻屑となってしまっていた可能性も捨てきれません、というか大です。
私のうっかりな行動一つが、大惨事を引き起こしてしまいかねないこの状況。
冗談にしたってまるで笑えません。勿論冗談でもありません。本当に頭を抱えたくなるような現実です。
それに加えて、私の気疲れや戸惑いを大いに倍増させている要因がもう一つありました。
それが慣れない格好です。さながら神話か、或いはファンタジー女神をイメージしたような出で立ちは、
生まれも育ちも凡庸そのものである私にとって、当然のことながら初めてのことでした。
いつの間にか不可欠必需品である筈の眼鏡は外され(なのに不思議と視界はくっきり良好です!)
三つ編みも解かれ。そしてその代わりにというわけではないでしょうが、
私の全身を彩る色とりどりの宝石を鏤めた、繊細かつ絢爛な黄金細工の装飾具達。
ティアラ、イヤリング、ネックレス、ブレスレット、アンクレット、
それにベルト(…と呼んで良いのでしょうか?)と、何から何まで揃っていて、正にフルセットです。
それは私だって女の子なのですから、こういったものには素直に憧れを感じますし、
身に圧し掛かるこの適度な質感は心地良くあり、高貴で上質な輝きに、胸が小さく踊ります。
ですが、この服は…このドレスだけはどうにかならなかったのでしょうか…。
肩から背中、背中から腰へと大きく肌を曝け出しており、
しかも、横から覗き込まれたら、見えてしまったりしないのでしょうか、
というくらいにその露出は左右にも広く、スースーしてどうにも落ち着きません。
それにスカートに関しても、丈の長さこそ日頃着ているそれと変わらないのですが、
何故か脇の方に深いスリットが入っていて、単なる歩行の様な大人しい動作であっても、
伴って否応無く太腿をかなり上の方まで晒すことになってしまい、これがまたとても恥ずかしいのです。
その上極めつけに、布はかなり薄地でそれも純白色であり、
水を吸ってしまった今はぴったりと体に貼りつき、結構肌の色を通してしまっているではないですか…。
先程は自身が巨人であると言うことにばかりに気がいっていたわけなのですが、
更にこのような出で立ちで聳え立つ自分という絵を思い描きますと、
もう恥ずかしさの余りどうにかなってしまいそうです。
本当に何なのでしょうね、これ?絶対イジメです。新手の罰ゲームにしか思えません、本当に。
出来ることなら、もう今すぐにでも逃げ帰りたいです、正直。
もっともそんな泣き言が叶う筈もないことだというのは重々承知しています。
何故ならこんな私でも、今は重要な使命を担った特別な存在、『女神様』なのですから。
私は三度情けなく吐きかけた溜息を無理矢理深呼吸に変えて気分を切り替えると、
彼方に見える小さな町並みを見据えて、足を踏み出したのでした。






—次回予告的な何か—

それは特別ではあるけれども、これまでにも何度となく繰り返されてきたことだった。
決意の日。宣戦布告をしてきた隣国の迎撃へと向かう、誇り高き出発の式。
見送る者は喪失の恐怖と不安を抱きながら、それでも発つ者の帰還をただひたすらに信じ、
往く者は残る者の顔をその目に焼き付け、奮起し、死地へと赴いていく。
大切な家族と永久の別れになってしまうかもしれない。
もう二度とこの地を踏むことは出来ないかもしれない。
港全体は悲壮な覚悟で満たされ、張りつめた空気に包まれていた、つい先ほどまでは。
それを台無しにしたのは血相を変えて転がり込んできた一人の男、灯台守。
普段の彼からは考えられないほどの恐るべき力と形相で群衆も兵士達もかきわけて、
将校に掴みかからんばかりに詰め寄ると、訳の分からないことを喚き散らす。
式自体は決して格式張ってはいなかったが、それでもしめやかに、厳かに執り行われなければならない。
ましてや兵士の士気を下げるような真似など言語道断であった。
当然男は張り倒され、多くの者達に取り押さえられ、引きずられるようにして退場することと相成る。
やがて男の喚き声がフェイドアウトし、ひとまず騒動は収束を見せた。
だが、人々はまだ互いに顔を見合せ、晴れない気持ちを抱えたままどよめき合っていた。
それは完膚無きまでにぶち壊されてしまった雰囲気、その余韻。
確かにそれはあった。だが、決してそれだけではなかった。
静粛を求める将校の大声を以て、漸く表面的にこそ場は落ち着きを取り戻したものの、
そこには尚、言いようの無い何かが、ぬぐい切れずに残り続けていた。
本能的にかき立てられる不安。何かとてつもないものが、
隠しきれない気配を忍ばせてにじりよってくるようなそんな感覚。
けれども海も空もいつもと何も変わらない。静か、正に平穏そのものだった。
否。ふと誰かが気がついた。余りにも辺りが静かすぎることに。
ウミドリの姿がどこにも見当たらない。鳴き声も全く聞こえない。
『ズン…』
その時、ついにそれがはっきりとした形で姿を示した。
それは微細な揺らぎ、だった。それこそ気のせいとしか思えないような本当に小さな震え。
事実全員がそうだと思った。…そう、そこにいた全員が微かなそれを確かに感じとったのだ。

程なく、見る見るうちに海はその表情を変化させ、まるで混ぜ返されるかのようにうねり始める。
伴って国が誇る大型の戦艦達が良いように翻弄され、
さながらヘラジカのオスがメスを巡ってぶつかり合いでもするかのように、
互いにひしめき合ってぎしぎしと軋み、悲鳴の様な音を響かせる。
艦隊出港の為に湾の隅の方に停泊していた小さな漁船や貨物船などはもう荒波に弄ばれて、
残らずひっくり返っていく。かつてどんな大嵐にあっても、こんなことは無かった。
とうとう海から溢れ出した水が、集まっていた人々の足首より上に届いた時、
突然男が一人、素っ頓狂な声と共に空を指差した。
そこには信じ難い、信じたくもない光景があった。
外敵から国を、自分達を守ってくれる存在、全幅の信頼を寄せる屈強な戦艦達が、
ぐらりとこちらへ傾き、まるで押し潰さんばかりに、迫ってきているのだ。
けれども、彼が本当に気がついたものは、そしてそこにいた誰もの目を釘付けにしたのは、
その更に向こう、踊り狂う戦艦達の背後から姿を現した、丸みを帯びた黒い存在だった。
やがて、青空を背に陽光に晒し出されたそれは、途方もなく大きな人間の顔だった。
それもどこかあどけなさの残る少女のものだが、この国では珍しい深い鳶色の髪と瞳を有し、
その双眸をやや忙しなく、ああちこちに配ったり、しばたかせたりしている。
そうしている間にも、それは更に際限無く大きく、高く、広がって行き、
頭部だけではなく、首、肩、胸とその下に続く上半身が現れてくる。
純白のドレスをまとい、黄金のアクセサリーで身を飾るという、
『美麗』『高潔』といった言葉を思わせるその出で立ちと、
それとは対照的でやや落ち着きがなく戸惑ったような表情。
そのちぐはぐさが、より一層彼女の愛嬌を引き立たせているようにもを思われた。
が、それもあくまでも彼女がただの少女であったならば、だ。
少女はもうとっくにそこらの戦艦なんかよりずっと大きかった。
いや、それどころかこの国で最も大きな建造物、即ち力と権威の象徴である閣下の居城すらも超えようとしている。
「馬鹿な!」
「そんな…!嘘だろ?」
「もういい、もう止めてくれ!」
けれども、そんな祈りにも近い心の声を無視して、少女は当然の如くまだまだ大きくなっていく。
そこにいた全ての者達は悪い夢でも見ているかのように、ただただ呆然と立ちすくみ、それを見上げていた。
が、一際大きく響いた衝撃音と、それと共に落ちてくる大きな陰りが、人々を我に帰した。
次の瞬間そこにいた者達は老いも若きも、男も女も、貴族も兵士も平民も、
弾かれた様に口々に悲鳴を上げると、一目散に走り出したのだった。