『来襲女神』


「わぁ…!」
悶々と抱き続けてきたこの上なく憂鬱な気分も、その一瞬だけはすっきり吹き飛んでいました。
気がつけば水は膝下から向こう臑、向こう臑から踝と、随分と浅くなっており、
遥か彼方だとばかり思っていた港の町並みは、いつの間にかもうすぐ眼下に広がっていました。
足元、即ち港の周辺にはやや無骨な、灰色の四角い建物ばかりが並んでいるのですが、
視線を向こう、内陸のほうへと向けますと、ある一線を境にしてがらりと変わっており、
町の雰囲気が華やかで洒落たものになっているのが一目瞭然でした。
一際背高のっぽでとんがり屋根の教会、都の中央に鎮座し、優雅な佇まいを見せる白亜の王宮。
更にもっと向こうにまで視線を向けると、青緑色が美しい山々の稜線。
まるで中世ヨーロッパの町並みを一番高い教会の鐘楼の一番上から、
或いは飛行機かヘリコプターに乗って上空から見渡しているような、さながらそんな気分です。
いえ、それ以上ですね。何しろ揺れも、エンジン音も無く、窓枠に制限されることも無く、
こんなにも素晴らしい眺望を独り占めに出来てしまうっているのですから。
けれども、私はすぐに小さく頭を振ると、緩みかけた頬と気持ちを引き締め直しました。
一見どんなに素敵な国に見えても、ここは強力な兵器を開発して、
一方的に戦争を仕掛けてこようとしている乱暴者の国家なのであり、
私もまた遊びに来ているわけではないのですから。
ということで、いよいよ上陸すべく一度は足を持ち上げたのですが、
はたりと動きを止め、元の場所から殆ど前進させること無く再びすごすごと海中にそれを下ろすと、
おもむろにしゃがみ込みました。手近にある建物を、ちょっと観察してみようと考えたからです。
というのも大変困ったことに足を下ろせるほどのスペースがどこにもないのです。
ですから、上陸するとなればまず間違いなく、これらの上を歩くことになってしまいます。
幾ら悪魔のような国とはいえ、問答無用でいきなり文字通り足蹴にするのは失礼と言いますか、
やはり躊躇いを禁じ得ませんし、何より踏んでも痛くないのかというのも、とても重要なことです。
………何しろ今、私は何も履いていないのですから。
この世界に落とされた時、私の格好は元々のそれとは大きく異なるものになっていました。
薄地のドレス然り、全身を飾るアクセサリー然り、解かれ下ろされた髪然り、
そして本来ならば決して手放すことが出来ないはずの眼鏡然り。
それらと同じく、いつの間にか靴も靴下も脱がされ、裸足になっていたのです。
幸いなことに海の底はとりたててごつごつとした石も岩も無い砂地だったのか、
これまでのところ特に足を痛めたり、怪我をしたりすることもありませんでした。
ですが、この先もそうというわけにもいかないでしょう。
まだ小学生くらいだった頃の事ですが、弟が散らかしていたミニカーを誤って踏んでしまい、
ものすごく痛くて泣きそうになったことがあります…というか泣きました。あれは軽くトラウマです。
しかも、当のミニカーの方はと言えば、随分しっかりと丈夫に作られているのですね。
私の体重などものともせずに、無傷でケロっとしておりまして、正しく完敗の二文字でしたよ…。
いえ、決して壊したかったわけじゃないですし、勝ちとか負けとかもないのですが。
とりあえず、なるべく角ばった屋根の建物は避けて、丸みを帯びたものや平べったいものを選んで歩こう。
そんなことをぼんやりと考えながら、何気なく人差し指で建物を少し突いてみます。
「わ?あわわ…!」
予期せぬ事態発生。思わず間の抜けた悲鳴を上げてしまいます。
何と軽い感触を指先に伝えて天井がぼろぼろと崩れ落ちてしまったのです。
完全に想定外。あ、私は全然怪力じゃないんですよ?むしろ非力なほうです。…本当ですよ?
建物の方が規格外に脆すぎたのです、うん。私はたぶん悪くありません…よね?…ね?
とにかく、壊してやろうなどという心積もりは微塵も無く、そんな不測の事態に慌てふためく私でしたが、
ぽっかり空いたその穴(というより天井の半分が抜け落ちたと表現する方が正しいかもしれません……)のお陰で、
かなりしっちゃかめっちゃかになってしまっているものの、中の様子を窺い知ることができました。
察するに、この建物は一般的なお家ではなく、どうやら倉庫か保管庫の様です。
さしあたって人の姿は見当たらないことに、私は心底ほっとして胸を撫で下ろしました。
屋内には小さな棚があって、そこに更に小さな小さな何かが陳列、収納されていたり、
竹箒の穂のような極細の木材が数本ずつ、髪の毛の様なロープで束ねられていたり、
ビーズのような樽やサイコロのような木箱が幾つも並び、或いは積み上げられていたりしました。
何もかもがこうもちんまりしていて可愛らしいと、見ていて何だか心くすぐられてしまいます。
というのも実は私、この手の小物は結構好きだったりするのです。
本当に余談なのですが、現に携帯電話のストラップは『みにみにわふ〜シリーズ』なるもので、
小さな座布団とどら焼き、それと緑茶(湯呑)を数珠つなぎにしたものだったりしますし。
私はそっと人差し指と親指を屋内に侵入させると、極小の樽の一つへと伸ばしました。
とは言ってもその大きさからして指の腹で摘まむことすら難しいので、
爪先で挟み込むようにそっと捉え、手を微かに震わせながらもそろそろと目の前まで持って行きます。
「………!」
うん、本当にすごいですね。こんなにも小さいのにとてもリアル、まるきり本物ですよ。
ほら、何て言いましたっけ。樽の板を留める鉄製の輪っか…えっと…そう箍(たが)!
文字通り、吹けば遥か彼方に飛んでいってしまいそうなくらいの大きさだというのに、
箍は勿論のこと、じっと目を凝らすと、木の継ぎ目まで確認することができます。
…と言うか正に本物そのもなんですけれどもね。私はまた溜息を零します。
もし、この極小世界が精巧に作られたただのジオラマだったりしたならば。
私は素直にこれらを称賛し、魅了され、感動していたことでしょうに…。
と、そんなことを考えていると不意にすぐ近くで『クチッ』という軽い音がし、
「あ……!」
我に帰ってすぐ目の前に焦点を合わせると、爪が樽へと沈み込み、めこりと歪な形に拉げてしまいました。
全くそのつもりは無かったのですが、どうやら無意識のうちに力をかけ過ぎてしまったようです。
しかも慌てて反射的に指先の力を緩めたのが更にまずかったです。
今度は開き過ぎてしまったらしく、指先よりすり抜けてしまいます。
咄嗟に掌で受け止めようとしたのですが、そんな器用な真似など、私にはどだい無理な話なのでした。
小さな樽は差し出した手に救われるどころか弾かれ、その衝撃でバラバラに崩れて、
鮮やかな赤色の何かをまき散らしながら、哀れ真っ逆さまに地面へと落下していきました。
「………」
いや、本当…これでもかなり慎重に行動しているつもりなんですけれどね…。
一体中身は何だったのか気になるところです。大したものでなければ良いのですが…。
そう言えば人差し指と親指の先にも微かな湿り気と共に、あの例の赤いものが何粒も付着しています。
試しにすんすんと匂いを嗅いでみますが、良く分かりません。
無臭…ではないような気はするのですが、どうにも小さすぎて…。
そこで今度は躊躇いながらも恐る恐るちろりと舐めてみました。すると、
「………あ……リン…ゴ…?」
極々微弱ながらも、舌の上に感じるその柔らかく甘い風味は、よく知っているものでした。
と言うより何を隠そう大好きだったりします。愛してます、リンゴ。
小さな小さな樽に詰まった、これまたありえないほど小さく砂粒の様な、けれどもちゃんと味のあるそれら。
それが改めてこの世界が小さいながらも作り物ではないことを雄弁に物語っています。
…ところで、一体今の私の何気ない所作でどれくらいのリンゴをダメにしてしまったのでしょうか。
十や二十ではありませんよね、きっと。ああ…我ながら何と言うことを…。
だって考えてもみて下さい。ある日突然どこからとも無く現れた巨人が、
事もあろうについうっかりでリンゴをいっぱい台無しにしちゃうんですよ?
そのせいで、リンゴの価格が暴騰しちゃったりなんかしたりして、店頭に並ばなくなっちゃったりしたら!
あの宝珠のような、いえ、それどころか太陽の権化と言っても過言ではない
大自然の神秘と、雄大さと、厳しさと、優しさと、農家のおじさんの頑張りがぎゅっと詰まったあの真紅の果実が、
青果店の一角からを一斉に姿を消してしまうんです。これはもう一大事ですよ!
たぶん、きっと、確実に、お店の雰囲気だって10%くらい暗くなってしまうに違いありません、私見ですが。
勿論お菓子屋さんからは、アップルパイも、アップルシュトゥルーデルも、リンゴジャムも消えちゃって!
ファミリーレストランのドリンクバーでは100%ジュースのポジションをオレンジに席巻、占拠されちゃって!
ふと思い立って焼きリンゴを作ることもできないし…風邪を引いてもすりリンゴを頂けない。
何て悲しくも残酷な世界…!何と言う理不尽!許すまじき暴挙!滅すべき悪徳の極みですよ!
………あー…こほん。
とにかく改めて慎重に行動するよう切に心に誓うと、私は膝を伸ばして立ち上がろうとしました。
が、その矢先にふとおかしなものに目を引かれ、私は再び動きを止めます。
折った膝から向こう脛の辺り下で、死角になっていたために気がつくのが遅れたのですが、
「………?…陸なのに…船…?」
私は小さく身を退いてそれらを見詰め、思わず小さく首をかしげます。
そう、不思議なことに沿岸一帯に渡って何隻もの船が陸上に乗り上げているのです。
「………あ、もしかして…!」
一呼吸置いてから私の頭に提督さんの言葉が過り、ピンときました。
これが件の非人道的兵器『空飛ぶ船』というものなのではないのでしょうか!
空を飛ぶのでしたら水に浮かんでいなくても、問題はないわけですしね!
「………う、うーん…」
と、自分で閃いていおいて何なのですが、私は眉をひそめて唸ってしまいます。
というのも、どうにも頼りなさすぎるのです。勿論とても小さいからというのもあるのですが、
側面を上に向けていたり、船の先端があさっての方向を向いていたりして、
何と言うか、まるで陸に打ち上げられて息も絶え絶えになっているお魚さんを彷彿とさせまして。
私はその中から一番大きくて丈夫そうなものを選んで摘み上げてみました。
大きさは先のシャハティカ皇国の提督さんが乗っていた船とほぼ同じくらいの大きさ、
長さが私の手首から中指の先っぽまでくらい、幅は指三本分くらいで、
第一印象はとりあえず軽かった、です。それと軟いです。
先の建物やタルのこともありましたので、今度はかなり力加減を慎重にしたのですが、
それにもかかわらず、指先に何か軋むようなみしりという感覚が伝わってきて内心どきりとします。
それでもどうにか大破させることはなく掌の上に乗せ、目の前に持ってきて、しげしげと観察してみます。
こうして改めてみると、とても豪華なのにちんまりとしていて、本当に可愛いらしく、
何だか幼い頃にドールハウスで遊んでいたころを思い出します。
ただ強度に関して言えば、やはりどうしようもなく脆く、とても玩具にはなりそうもありません。
これでも相当そっと扱っているつもりなのですが、指先で撫でたり、突いたり、倒したりしている内に、
マストの一本が折れ、帆が引っぺがされ、船底に歪みが出来て、といった具合にどんどん摩耗していき、
今ではすっかり情けない、気の毒な姿になってしまっています。
……勿論わざとやっているわけではないんですけどね。
こうして見る限りではやっぱり何の変哲もないただの帆船にしか見えません。
プロペラだとか、翼らしきものも特に見当たりませんし……。
とすると、後出来ることと言えば、もう割って中を調べてみる、くらいしかないでしょうか。
と言っても正直なところ、私の船に対する知識など皆無と言って間違いなく、
内部構造を見たところで、それが普通の船か否かなど判断がつくとは思えないのですが…。
いえいえ、そうとは限りません。何事もやってみなければわかりません。
そうです、もしかしたら何か分かるかもしれません。根拠は微塵もありませんでしたが、
そんな風に思い直して、船の前後を両手の人差し指、中指、親指でそれぞれ捉えるように持ち、
さながら卵でも割るような要領で、力を込めてやります。
『ギシ…ギシギシ…メリミリ…』
程なく親指の爪先が容易く船底の板を容易く突き立ち、船全体が軋み、そしてあっさりと真っ二つ………
……になろうかというところで、ふと私の指は動きを止めました。
「あ…!」
と、同時に私の口から零れる小さく短い声。
思いの外船の強度があって、私の力が及ばなかった、などということはありません。
私が手を止めたのは、その時になって今更ながら、ふとある疑念が湧いてきたからでした。
即ち、…ところで…人が乗っていたりはしないのでしょうか?
いや、もう、何て言いますか本当に今更過ぎですけれども。嫌な汗がじわりと額に滲みます。
つい今しがた、丁重な動作を心がけよう、そう決心したばかりなのに。
辛うじて原形は留めていると言えなくもないのの、船底には突き立った親指によって三日月型の傷が深々と刻まれ、
全体的に歪にへし曲がってしまった手の中のそれを見下ろし、自身の軽率さを呪わずにはいられません。
とりあえず、今のところ人の姿は見ていませんし、声も聞いてはいないわけですが、
だからと言ってこの船に一切人がいないということにはなりません。何しろ彼らはとても小さいのですから。
この規模の大きさの船ならば100人、いいえ、それ以上の人達が船内に潜んでいても不思議はないのです。
甲板の中央部、やや後方には四角い小屋の様な部分があり、小さな扉があるわけですが、
無論小さすぎて、とてもではありませんが中の様子は窺い知ることができません。
そうだ、振ってみる!………とかは、ダメに決まっていますね、はい。当然の如く一瞬で却下します。
もしも本当に人が潜んでいたら、それこそ大惨事になってしまいかねません。
と言うか既に一言の断りも無しに勝手に持ち上げて、さんざんひっくり返したり、つついたりと、
思う存分弄りまわしたわけなのですから、もしかしたらもう充分大変なことになっているかもしれません。
そう思うと、ますます中の状況が気になってきて、
「………どうにか調べる方法、ないかな…」
そんなことをしてもどうにもならないのですが、食い入る様にじっと見詰めてしまいます。
【中に誰もいませんよー?】
突然、答えがあって私はびくりとしました。
しかも、そのやたらにのんびりとした声は、何とすぐ耳元であったように思われたのです。
けれども慌てて辺りを見回してみたものの、眼下には小さな街並み、頭上には空、
そして振り返ってみても、美しい大海原が広がっているだけで、
声の主と思しきものはどこにも見当たりません。聞き間違えでしょうか。
しかし、それにしてはかなりはっきりと、しかも、すぐ近くで聞こえたような気がします。
そして今、私の最も近くに存在するものと言えば…
あちこちに巡らされた視線が、再び哀れにも私の手によって慰みものになっている船へと据えられます。
この船にはやはり誰かが乗っていて、その人が私の問いに受け答えてくれた、
そんな可能性が頭を過りますが、何だかそれは違う気がします。
確かに私の声を船の中へと伝えることは可能だと思います。
けれども先程提督さんとのやりとりから考えても、小人さんのか細い声が船内から届くとは考えにくいのです。
それに、私はこれまで断り一つなく船を高々と釣り上げて、好き勝手に傾けたり、
ひっくり返してきたりしていたわけでして。乱暴に扱ったつもりはありませんが、
それでも船内はただならぬ状況にあったと推測できるのは難くありません。
にも関わらず、声の調子はこの上なく鷹揚であり、言葉は悪いですが、
やや呑気すぎるといいますか、何だか間延びした感すらありました。
それに中に人がいて返事をするなら、『いますよー?』でないとおかしいわけですし。
ということで、その可能性を完全に否定した私の思考に、次候補が思い浮かんだわけなのですが、
「え…でも…それは流石に無いよね…」
即自問自答で否定します。実際違うと思います。とっても非現実的です。
勿論本気でそんな馬鹿馬鹿しいことを考えているわけではありません。
…ありませんが、既に私は常識ハズレな状況に置かれているのもまた事実です。
ですから、それだって絶対に絶対にありえない、とは言いきれないわけでして…。
うん、そう、だから、やっぱりここは念の為に一つ確かめてみなければ、と。
「答えたのは……あなた……なのですか?……その……船……さん…?」
とうとう思い切って小声で囁くように呼びかけてみます。言っててかなり恥ずかしいです。
ちなみに余談ですが、無くした眼鏡はおでこにもありませんでしたけれど。
『手の中にある模型かおもちゃの様な船に向かってぶつぶつと話しかける女』
客観的観点から絵にするとかなりアブナイヒトなのではないでしょうか。しかも答えてくれませんし…。
「………ほ、本当に…誰も乗ってはいないのでしょうかね…?」
【はい、いませんねー】
けれども、自身の言動を気まずく、居たたまれなく思って、誤魔化すようにひとり呟きますと、
再び答えてくれる何かがありました。やはり錯覚ではないようです。
そこで私は、さっき以上に大いに迷いましたが、今度は天を仰いで問いかけてみました。
「もしかして…『神様』…なのですか…?」
しーん。
はい、アブナイヒトその2。『空を見上げて一人ぶつぶつと呟く女』めでたくここに完成です。
もとい、ちっともめでたくないのですけれども。
視界一杯に広がる、抜けるような清々しい晴天が、何だか大変目に沁みました。
ちなみにここでの神様と言うのは、私のようなものではなくて本物の神様のことです、きっと、たぶん。
しかし、考えてみれば意地の悪そうな『あの方』が、そんな親切律儀な対応をしてくれるわけがありませんね。
むしろ、今頃こんな私の醜態を見て、お腹を抱えて笑っているに違いありません。
けれども、だとすると、本当に一体全体どちら様なのでしょう?そして果たしてその言を信じて良いのでしょうか?
【だからいませんってばぁー】
三度答えがありました。しかも今回は私は疑問を口に出していなかったのに、です。と言うことはもしかして、
「応えていたのは…私自身?」
その結論に行きついた時、まるでかちりとパズルのピースがはめ込まれたような、そんな感覚がありました。
【はぁーい】
ついでに、あの知的で聡明で利発で鋭敏そうな少女の声も!………自分で言っててちょっと空しいです…。
自分の声って客観的に聞く機会って余りないので、今初めて知ったことなのですが、
私ってあんなにぽんやりとした感じだったのですね…。
さておき、相手…と言うか自分なのですが、とにもかくにも声の正体は分かりました。
答えてくれていたのは他ならぬ私だったのです。ただ、二重人格というのとはまた違うようでして、
『私の疑問に受け答えてくる私さん』には意思や思考は無いらしく、事実を淡々と伝えてくるだけのようです。
で、何故『私さん』にそんなことが分かってしまうのかというと…えっと…それは…きっと…女神様だからですね。
【そうでーす】
…本当にそうらしいです。かなりあてずっぽうと言いますか、苦し紛れといいますか、
ご都合主義な解釈だと思ったのですが、見事に正解ど真ん中だった模様です。
まるで他者の様に受け答えをしてくるのは、元来の私には無かった感覚であるが故に、
まだ私自身、きっちり自分のものとして意識、把握、使役できずにいる、たぶんそんな感じでしょう。
とにかくこのままではやはり何かと不自由な気がします。声に出さなくても疑問には答えてくれるようですが、
『自分との対話に逐一動きを止める女』というのもまた、充分アブナイヒトだと思いますし。
何より、この感覚をより上手く自由に使いこなせるようになるために、
発見したばかりのこの感覚をより私のモノとするべく、言葉による説明と咀嚼を開始します。まぐまぐ。
透視…とはちょっと違うような気がします。『小人さんの気配を察知する能力』とする方がしっくり来ますかね。
「えっと…んっと…こんな…感じ…でいいのかな…?」
そして理解と実践のピントが何となく合ったかなと思ったところで、それを行使してみます。
改めて掌の上の船をチェック。意識をこらす、という感じでしょうか。
「………」
確認終了。うん、やっぱり中に誰もいないらしいです。
それでは改めて、安心して、今度こそとばかりに指先に力を込めました。
爪が突き立ち、柔らかい木製の船体にあちこちからメリメリと沈み込んでいくのを感じます。
『ミシ…グシャアアア…』
あ、ふと思ったんですが、何だかトーストを裂く様な感触に通じるものがありますね、これ。
生まれた裂け目からぽろぽろと零れていく樽や壷にテーブル、それに木片なんかもパン屑みたいですし。
「え…!」
哀れ真っ二つになる軍艦。と、不意に私は小さく声を上げ、表情を強張らせました。
かなり間近から強い怯えの気配を感じた様な気がしたからです、それも極めて瞬発的な。
そう、例えば正に今、その身に大きな危険を感じ、堪え切れずに反射的に悲鳴を上げてしまったかのような。
もしかして自身の中に認めた能力は実は私の単なる勘違いだったのでしょうか?
それとも息を殺して忍んでいた気配までは察知しきれなかった?
私は頬がカッとなって、一瞬何も考えられなくなってしまいます。けれども、心をどうにか落ち着けた後、
幾ら再確認をしてみても、やっぱりどうしても船内に人がいるという気がしないのです。
では、一体どこから…?忙しなくキョロキョロと辺りを見回す私の瞳がやがてある一点、
先ほど私が大穴を開けてしまった倉庫内のある一つの樽に目が据えられます。
瞬間的に抱いた根拠無き直感はすぐに確信に変わりました。確かにそこに気配を感じます。
そしてその付近には私の手から落ちた船の破片、その中でも殊更大きなものの一つである、
マストが横たわっていたのです。はっきり言ってかなりニアミスでした。
私の感覚であと数ミリずれていたならば、その樽を叩き潰すか、或いは突き刺さっていたかもしれません。
恐らく突発的に気配が伝わってきたのは、目と鼻の先にそんなものが落ちてきた衝撃に
樽の中にいた方が大いにびっくりしてしまったからに違いありません。
もし、私が最初から…即ち建物を指で突っつくよりも前にこの感覚を会得していれば、
その小人さんの存在にも気づけていたかも知れません。
或いは少し機転を利かせて船を何もない海の上で解体すれば良かったのです。
そんな風に後悔する一方で、マストが直撃しなくて、それから、
さっき何気なく摘み上げた樽の中身がリンゴで本当に良かったと心の底から思います。
もし、こちらの方を選んでいたら、あの時潰れた樽の中から溢れ出た赤色は、
全く違うものになっていたということなのですから。
私は一つぶるりと身震いをし、そのおぞましい想像を頭から追い出します。
とりあえず、とっても戦々恐々だというのが伝わってきてしまい、お気の毒ではありますが、
それでも変わらずちゃんと気配も感じられているので、大丈夫だとは思うのです。
けれども、一応自身の感覚が正しさを再確認する意味を込めて、
樽の中に小人さんが無事でいることを、この目で確かめておきたいと私は考えました。
ということで、早速囁きかけるように、出てくることを促してみます。
「あの…そんなところにいると…危ないですよ…?」






—急ごしらえの次回予告っぽいもの—

群がって逃げるなんて、愚の骨頂だと思った。
そんなもの見つけて下さい、狙って下さい、そう言っているようなものじゃないか。
だから、出陣式に来ていた少年は途中から人の流れを離れ、一人倉庫の中に忍び込んだのだ。
普段ならば日に焼けた屈強な男達が力仕事に勤み、野太い声や粗暴な物音に満ちているその空間は、
今は人っ子一人見当たらず、ひっそりと静まり返っていて少しだけ新鮮だった。
扉を閉めると、背後から喧騒もその大半が遮断され、
自分だけが危険から隔離され、助かったような、そんな気分になってくる。
『ドズーン』
建物の外壁に何かが勢いよくぶつかるかのようなくぐもった音と震動も、一撃目こそ彼の心臓を鷲掴みにしたが、
二度、三度、四度と繰り返されるうちに、彼から不安を洗い流し、代わりに安心を彼にもたらしていった。
これはきっとあの化け物による攻撃に違いない。それは確かに由々しきことに違いなかった。
しかし、逆に言えばあの化け物でもこの石造りの倉庫を壊すことは出来ないんだ。
彼は自らの利かせた機転が的確であったことを、自画自賛し、ほくそ笑んだ。
それからあえてその石壁にもたれかかり、それが受ける衝撃と、
それでも揺るがない強固さを肌で感じながら、つい先程目にしたモノを思い返してみた。
今回の戦争に赴く家族は居ない。何故なら兄も父も、以前の戦いで亡くしてしまっているから。
だから出陣式に参加していたと言っても特定の見送る相手はおらず、
出立する兵士に未来の自分の姿を重ねたりしていた。自分もいずれこんな風に送り出されるに違いない。
それはこの国に男として生まれた者の宿命、もう既に決まってしまっている、どうしようもない事なのだ。
そして自分が斃れれば、やがては弟も…いや、それでも…仕方ないことと分かりながら、
それでも出来れば弟だけは、平穏な暮らしが出来れば良かったのに、と思う。
何にしても、あの時彼は人の層の殆ど最後尾辺りにいたのだった。
それ故、その存在を目視出来たのは、混乱や焦燥の気配が群集全体に広がり、
周囲の雰囲気が浮き足立ってから、辛うじてその一部を大人たちの後頭部の間から、だった。
確かにとんでもなく大きくはあった。
彼の目測では、この国で最も雄大な帝王閣下の戦艦を、ベッドに出来てしまうくらい…
いや、もしかしたら都の真ん中にある王宮の尖塔と背比べ出来るんじゃなかろうか、とすら思えた。
彼は栗色の髪をくしゃりとやって唇の端を曲げる。笑うしかなかった。
勿論それは大きさのこともあったが、何よりもその『姿』の片鱗が彼の頭を過ぎったからだった。
それは正しく人の顔を有していた。どちらにしろ、化け物以外の何物でないことは変わりなかった。

突如、これまでとは全く質の違う衝撃があって、彼はみっともない悲鳴と共に肩をすくめた。
『ズドォォォォォォッ』
それも壁の外ではなくもっと上、頭上の方からだった。
ああ、盲点だった。壁は石造りで頑丈であったとしても、あの大きさだったら天井から…!
辛うじて平静さ理論展開を保てたのは、そこまでだった。
轟音と共に天井をバラバラと崩落させ、顔を見せたとてつもなく巨大な、丸みを帯びた何か。
化け物の一部であることは間違いないであろうそれを直視した瞬間、目に付いた樽の中に飛び込んでいた。
先程発揮した自称冷静な思考も、日頃から周囲に見せてきた戦死に対する諦観、達観したフリも、
この時ばかりは何の役にも立たなかった。そんなちっぽけなものなど、塵の如く、あっさり吹き散らされたのだ。
空の樽の中に潜んで耳を塞ぎ、目を硬く瞑っても、今見た光景はしっかりと焼きついていた。
もう随分時間が経ったんじゃないだろうか、あの化け物をやり過せただろうか?
暗闇の中で縮こまって、小刻みに震えながら、彼はただひたすらそれを待った。しかし、
『ズウウゥゥゥゥゥン』
腹の中、内臓の一番奥深くから揺さぶられるような衝撃があり、再び彼は堪え切れずに悲鳴を上げてしまう。
そしてそれが、更に信じられない、不測の事態を引き起こしたのだ。
悲鳴で気づかれた?そんな馬鹿なことがあっていいわけない…!こんなの嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ…!
けれども、樽を、そして強く抑えつけた両手をあっさりと貫いて、無情にもあの化け物の声が届いてくる。
その言葉は理解できるものだった。口調だけは優しげだったが、その声量は圧倒的で有無を言わせぬものがあった。
そして彼はついに言葉に屈っし、外に出て、はっきりと見てしまった。やはり少女だった。
けれども、たった一つ大きな、大きな勘違いをしていたことに、彼はその手元を見て気がついた。
もしかしたら王城くらいの大きさがあるかもしれない?帝王閣下の戦艦をベッドにするほどの巨人?
冗談ではない。無茶苦茶だ。あの遥か上空で、指の隙間から無残な姿を垣間見せたそれこそが、
無敵、最強と謳われた閣下の戦艦ではないか。
それをあんな風にしておいて、あの化け物は涼しげな顔で、まるで、そんなことは何でもないことのように、
それどころか手に持っていることすら忘れているかのように、こちらを覗き込んでいるのだ。
その瞳も、髪も、この国の人間とは似ても似つかない、夜の闇の色をしていた。
ああ、それなのに何であんなにも邪気の無い顔をしているんだろう。
それが反って少年の胸にざわめかせる。自分はこれからどうなるのだろう?
やはり、手にする船と同じく、捻り潰されてしまうのだろうか。
一つ確実に言えることはその漆黒の双眸が、間違いなく自分のことを捉えているということ。
彼が固唾を飲んで見守る中、いよいよ彼女が唇を薄く開いたのだった。