『門前女神(前)』


も、もちろん不用意に大きく動いた私も悪かったとは思います。それは認めます。
でも全知全能さを如何なく発揮してしまうこの目と…それに何より間の悪さに問題があったと思うのです。
そう、壁の上をよくよく観察しようとぐっと覗き込んだ私は、
無数の兵隊さんが私に向かって矢を射かける瞬間をしっかりと目の当たりにしてしまったのです。
「ふ…ふぁ…!?」
気づいた時には自分でも気恥ずかしくなってしまうような変な声を零しつつ、
反射的に上半身を仰け反らせていました。それも思い切り、勢いよく。
でも、決して痛かったわけでもありませんし、そもそも本当のところどこに当たったのかも定かではありません。
にもかかわらず私はそんな大袈裟なリアクションを取ってしまい、
挙句、そんな自分の唐突な動作に私自身がついていけずにバランスを崩してしまうのですから、
我ながら本当に世話がありません。小学生の従姉妹にまで怖がりだと笑われたのを思い出します。
…もっとも名誉のために弁明しておきますと、決してそんなことはありません。
ただ、その…ちょっと不意の状況に弱いというか、些細なことでも大袈裟に驚いてしまう性質なだけなのです!
何はともあれ、わたわたとばたつかせた後、何とか後ろ手を着いて上体を支え、とりあえずは事なきを得ます。
あ、危ないところでした…。ただびっくりしたという理由だけで港一帯を壊滅しそうになるなんて。
けれども、こうしてまた小さな建物が手の下に幾つも潰してしまって…
「えっ…!?」
上半身をひねって掌近辺に視線を落とし、状況を確認したと次の瞬間、
私は乾いた声とともに凍りついてしまいました。
自分の顔から血の気が引く音が聞こえたような気がしました。
何と、たった今私が叩き潰してしまった界隈近くに人がいたのです。
それも一人や二人ではありません。そして、その恰好から察するに恐らく兵隊さんです。
武器を取り落しこちらを見上げて立ち尽くす人、何とか仲間と支え合って立っている人、
尻餅をついたまま立ち上がれずにいる人に、中には這ったまま手足をばたつかせている人など、
何だか誰も彼も散々な状態で、最早隊としての体をなしてはいませんでしたが、
それでも大きな怪我人は居ないようでしたので、この方達についてはひとまず無事…ということにさせて頂き、
私は精一杯そろりと向き直ると(それでもやっぱり何かしら壊してしまうのですが…)
手の下を含め、その他に人はいなかったのか、覗き込んで目視も兼ねつつ気配を探って確認してみます。
よかった…!誰も…巻き込んではいなさそう…!
それでも念のために今度は地についたままにしてある掌の中に、瓦礫の山と化してしまったその界隈を握り込み、
潰さないように、零さないように、目の前まで持っていって、
もう一方の手の指先でどかしたり、摘み上げたりして丹念に調べていきます。
人の気配も…その痕跡も…うん、無いみたいですね。
どうやら、大丈夫だったようです。私は長い長い溜息と共に胸を撫で下ろしました。
何はともあれ一安心です。と、目の前に持ってきていた掌を何気なく遠ざけ、
殆ど間を置くことなく聞こえてくる小さな悲鳴にぎくりとして再び凍りつきます。
うぅぅぅ…もう!今度は何なんですかぁ…
思わず泣き言を零しそうになるのをぐっとこらえて、
その悲鳴が聞こえてきた所、即ち私の掌の影になっているあたりを見てみますと、
どうも無意識に傾けた手の中から土砂がこぼれ落ち、運悪くたまたまそこに人がいたのです。
こちらもどうやら兵隊さんの様で、今掌で叩き潰しかけてしまった方々とはまた別の一隊です。
ちなみにですが、私は腕力も握力も間違いなく強い方ではありません。
残念なことにジャムの瓶の蓋に全身全霊で挑んでしばしば敗北する人です。
そんな私が決して深くえぐり取ったつもりもなく、大して重さも感じなかった程度の量の砂土です。
それに、幸いにもすぐに悲鳴に気が付くことが出来ましたので、
その殆どは手の中に残っており、彼らに降り注いだのはほんの極一部だけ、だったのですが…。
それでも彼らに与えてしまった影響はとても大きかったらしく。
私が言葉をかけるよりも先に、彼らの間に見る見るうちに恐怖の気配が膨れ上がり、
臨界点に達したかと思うと、統率無く散り散りに走り出します。
もっとも私としては離れてもらう分には一向に構わない…というよりそちらの方が好都合でした。
と、そこで改めて周囲に注意を向ければ、他にも結構沢山の兵士さん達が居ることに気が付きます。
いつの間にか背後から遠巻きにくるりと囲まれるような形になっており、
中にはこちらへと矢を射かけている人たちも少なからずいます。それもよくよく見れば火矢。
…とは言え一生懸命な彼等には大変申し訳ないのですが、痛くもかゆくもないどころか、
やっぱり当たっていることすらわからなかったですし、
衣もまた純白を保ち、穴はおろか焦げ目すらついていないわけなのですが。
けれども私はこの状況に困ってしまいます。つまるところ、彼らをどうしたものか、ということです。
きっとやっつけることはできると思います。というより本当に簡単なことでしょう。
例えば今みたいに砂遊びの要領で辺りの土を街ごと掌の上に掬って、彼らの上にかぶせるだけで。
例えば握りこぶしを作って彼らの上に適当に打ち下ろすだけで。
例えば立ち上がって彼らの上を静かに歩き回るだけでも。
ですが、幾ら悪逆非道国家の住民であっても、私なんかが独断で断じるということには、やっぱり大きな抵抗があります。
何より、この小さく綺麗な町並みを小さな人々が悲鳴を上げて必死に逃げ惑っているのを見て、
阿鼻叫喚とも言えるこの様子に、恐怖や絶望を少なからず感じ取ってしまった今となっては、
申し訳なさや後ろめたさばかりが大きく膨らんでしまい、
いよいよもって彼等をどうこうする気持ちになど到底なれるはずもありません。
…まぁ、既に船を幾つも沈め、無数の建物を踏み潰してしまっている時点で、
もう充分酷いことをしてしまっているに違いないのですが…。
それでも、何とか穏便に、出来うる限り平和的に対処したいところです。
それでは、皆さんを拾い集めて、安全なところまでお運びする、というのはどうでしょうか。
けれども私はすぐにその閃きを自ら却下します。
ダメです…というよりたぶん無理ですよね。
そうするには、彼等は余りにも小さすぎました。
一人一人を余すことなく、そして潰すことなく摘み上げられる自信など毛頭ありません。
…だったら周りの町並みごと…などと考えるもすぐにこちらも廃案に。
そんなことをすれば、今はまだ無事である建物まで壊してしまうことになりますし、
加えて、そもそも私運送案は、総じて歩行による更なる壊滅が絶対条件になってしまうのです。
うううううぅぅぅ……あぁああぁぁ…もうっ…もうっ!
思わず心の中で頭を抱えて、悶え唸ってしまう私。
もう!一応全知全能の女神様である筈なのに、どうしてこんなにも不便なのでしょう。
結局兵士さん達の自主性にお任せするより他なく、私はおずおずと声をかけます。
「あのー、皆さん…?危ないですよー…?」
………効果は、ほぼ無いに等しいものでした。
一部離れていく人もいたにはいたのですが、その殆どがどこ吹く風。
声が届かなかったのか、はたまた私の言わんとしていることが伝わらなかったのか。
大半の兵士さん達はその場に留まり、全く効果が無いというのに、ひたすら攻撃を続けております。
そう言えば、別に実害はないのですから、このまま気の済むまで待って、
一切が無駄であることをしっかりその身を以てご理解頂いたうえで、
改めて撤退を促すという方法も一つなのかも知れません。
…でも、それでも退いてくれなかったら、その時はどうしましようか…。
こちらとしても時間には限りがありますから、あまりのんびりしているわけにもいきません。
あっちの国の人達が到着してしまうまでに何とか事態の収拾をつけなければなりませんから。
ですが、このままの状況で私が行動を再開すれば…
幸いにして今のところそれなりに距離がとられてはいるのですが、
それでも広がったドレスより少し外側という程度であり、身を乗り出し手を伸ばせば、十分に手が届く距離です。
ですから、立ち上がったり、歩いたりすれば、意図せず踏んでしまう可能性は容易に想像できましたし、
兵士さんの中にはドレスの裾の端っこに群がるようにして何かをやっている人達も少なからずいましたので、
ふとした拍子に巻き込んでしまう、吹き飛ばしてしまうなどといったことも十分考えられます。
「あ、あの!いい加減にしないと、本当に潰してしまいますよ!」
半ばダメもとの心持ちで、それでも何とかしなければ、と、
私はもう一度、少し強めの口調で、大きめの声で、心に抱いた危惧を言葉にしてみます。
結論から言いますと、先程のものとは一転、幸いにもこの注意喚起は驚くほどに効果が見て取れました!
何と見る見るうちに攻撃が中止されたかと思うと、皆さんゆっくりとではあるものの一斉に離れていきます。
どうやら、具体性が無かったせいで伝わりにくかったようですね。
…果たして本当にそうなのでしょうか………?
な、何はともあれ、です。これで私も心置きなく行動を再開できるというもので…
と、そこで私はふと思い立ち、一部隊のすぐ前に手を立てて振り下ろします。
目的はただの通せん坊。ですから少なくとも乱暴にそうしたつもりは無かったのですが、
それでも、逃がさないようにという焦りの気持ちが、ほんの僅かながらも出てしまったのか、
少しばかり勢いがついてしまい、結果掌のふちによって幾つかの建物を崩してしまうだけに留まらず、
そのまま磨り潰されて、手の下で地面にずぶりと埋め込まれていくのを感じます。
今にして思えば彼らの動きは私からすれば決して敏捷ではないのですし、
行き道、即ち通り一本を塞ぐことを目的とするのであれば、
指二本程度を立ててそっと下すだけでも十二分だった様な気がしないでもないです。
どうやら彼等は私の衣に直接火を放とうとしていた一隊の様であり、
今は私の掌に行く手を阻まれ、それをどうにかしようと懸命に剣や槍を振っているようです。
「無駄…だと思いますよ?」
そんな彼等を覗き込んで声をかけるだけで、その動きは一斉に止まり、
皆さん恐る恐ると言った様子でこちらを見上げて来るのが分かります。
「そんなことより、お尋ねしたいことがあります」
勿論私は彼らの行為について質す気など微塵もありませんでした。聞きたいことはただ一つです。
「『どなたか空飛ぶ船』というものをご存知ありませんか?」
互いに顔を見合わせた後、全員がぶんぶんと首を横に大きく振りました。
これは…ノーということなのでしょうね、きっと。
けれども私は念のため、少しだけ眉をひそめて今一度確認します。
「本当に?」
こくこくこく。今度は首の激しい上下動作。
嘘はどうやらついていないようですね。本当に知らないようです。
根拠は…特にありませんが、そんな気がします、何となく。
たぶん女神である私には嘘を看破できる能力くらいあるのでしょう。
もうそれで納得してしまうことにします。
「そうですか。どうもありがとうございます」
私は掌を持ち上げることでその兵士さん達を解放します。
けれども、その彼らは何故かその場から動こうとしませんでした。首を傾げる私。
「もう行って頂いて構わないのですよ?」
もう一度促してみるものの、やはり右往左往するばかり。はて。
彼らの様子を上から観察し、考慮し、まさかとは思いつつも、一つの推論をひとりごちます。
「…もしかして、通れない…とか…?」
そんな…まさか…私が何気なく下ろした掌の跡の窪みに阻まれて?
こうして改めて兵士さんと比較すると、確かにそれは大きく、深い…ですかね…?
とは言え、何だかその事実を無性に滑稽に感じてしまい、うっかり頬が緩みそうになってしまいます。
いえ、実際にそうであるとしたら、笑っている場合ではありませんでした。思い直して手を伸ばします。
「お待ち下さいね。今、どうにかしますから。
あ、私が手をどかすまでは決して動かないようにお願いしますね」
早速自ら生み出してしまったそれを埋める作業に取り掛かります。
それは決して大変な作業ではありませんでしたが、思いの外時間がかかるものでした。
というのも少しばかり力加減を失敗してしまうだけで、もっと深い穴を穿ってしまうことになるからです。
その結果、更に大量の砂や土が必要となってしまいまして…。
周囲から土を寄せてきて、或いは既に倒壊してしまった家の瓦礫を、
(幸か不幸かそれはそこらじゅうに幾らでもあり、全く事欠きませんでした…。
ね、念のためですが、まだ壊れていないお家には勿論手を付けておりません。本当ですよ!)
磨り潰しつつ窪地に注ぎ込んで、指先でそっとなでたり、ぽんぽんと軽く叩いたり。
ちまちまちと試行錯誤に没頭すること暫く、…とは言いましても、実際はものの数分とかかってはいなかったでしょうが、
漸く作業が完了すると、私は思わず満足して息を一つつきます。
けれども…そうして改めて上から見てみますと、何だか…こう…
「………」
溝を埋めたというより、辺り一帯を更地にして均してしまったと表現する方が正しいかもしれません…。
…けど………まぁ…とりあえず、道は出来たので良しとしましょうか。
「さ、さあどうぞ」
少しだけ上ずった声で促す私。
「………」
「………」
けれども、尚も動こうとしない兵士さん達。
気配を読み取るまでも無く、呆気にとられたかのような、唖然としているかのような、
何とも言えない様相で立ち尽くしているのが、ありありと分かってしまいます。
…お願いします、良しとして下さい。
「…どうぞ!」
バツの悪さ、照れ隠しも入り混じったことがあって、私の語調は少しばかり強くなってしまいました。
そうして、それがびっくりさせてしまったのでしょうか、
兵士さん達は途端に弾かれたように一斉に駆け出すと、
まるで転がるように…実際時折転びながら、脱兎の如く去っていったのでした。
何だか驚かしたと言うよりも、脅…いいえ、きっと気のせいですね。
私は彼等がしっかり離れたことを確認すると、
もう…これで何度目でしょうか…また一つ大きく息をついたのでした。

まぁ…何はともあれ、です…こうして全兵士さん達は撤退し、
周囲から無事に人がいなくなったのですから、これでひとまずは安心です。
さて、都の方はどうなったでしょうか?そろそろ収拾がついていると良いのですが…
と、改めて壁の方へと向き直ったところで、
「あ、そう言えば…」
門の前に締め出しを食ってしまって取り残された人達がいたことをふと思い出し、
私は何気なく視線を落とします。…とは言っても、あれからそれなりに時間も経っていますからね、
流石に今もあのまま…ということは、もう無いか…と……あら…?
私が思わず目を丸くしてしまったのは、何と群集の姿が、先程と全く変わらずそこにあったからでした。
と言うことは、門も相変わらず閉ざされたまま、なのでしょうか?
もう、兵士さん達は一体何をしていたのでしょう?
と、壁の上に視線をやりますと、これまた驚いたことに、こちらもお変わりなく、
未だ私に向かって矢を射かけているではありませんか。
…何と言いますか…こう…ものすごく健気な頑張り屋さんですね…
などと称賛する気持ちなど毛頭湧いてくるはずもなく、私は微かに眉を顰めてしまいます。
だって、いい加減全く効果が無いことくらい、彼等の目から見ても明明白白と思いますので。
こんなことをしている暇があるのなら、門扉を開いて皆さんを中に入れてあげれば良いのに…
そんな私の視線に気がついたのでしょうか、兵士さん達の攻撃が目に見えてどんどん減っていき、
代わりに壁の上に動揺が広がり、狼狽する気配が伝播していくのがよくわかります。
「そんなっ!」
「何故!?」
「さっきは効いたのに!」
いえいえ、元々効いていませんって。単にびっくりしただけなのですよ?
「あの、ですね…よろしければ門を開けてあげて頂きたいのですけれども…」
心中で彼等の疑問にお応えしつつ、そう言葉をかけながらぐっと覗き込んでみますと、
壁の上は私の生み出した陰りにすっぽり飲み込まれる形となります。
一瞬の間があった後、兵士さん達は大いに慌てふためき、武器を放り出す人もいたかと思うと、
たちまち押し合いへし合いしながら、残らず壁の出入り口と思しき塔風の建物の中に引っ込みました。
あ、あらあら…別にそこまで急いで頂かずとも大丈夫だったのですが…。
ともあれ、どうやら今度は私の言をすんなりと聞き入れて下さったようですね、よかった。
と、今に開くでありましょう門に期待の眼差しを向けて、暫く注視しつつ待っていたのですが、
「………あれ?」
一向に動きが見られません。
「ええと………」
これはもしかして、いえ、もしかしなくても、ですけれども…
「あー………か、帰っちゃいました、かね…?」
結局見捨てられて取り残された形となってしまった人達に対して、苦笑交じりに言葉をかけてみる私。
…とは言っても、そこに何かしらこれと言った意図があったわけではありません。
ただ、お互いに身を寄せ合って震えながら、悲壮感たっぷりに固唾を飲んでこちらを窺ってくるこの状況、
張りつめたその空気を何とか少しでも和らげることができれば、と思っただけだったのですが。
結局その言葉は何の効果も無かったどころか、私が声をかけたことで
より一層の緊張が走ったのが目に見えて分かってしまい、こちらも居た堪れなくなります。
えーん…本当にやり辛いですよ、もう…。とりあえず咄嗟に目を逸らしながら心中託つ私。
今後も変わらずこうして固まっていて下さるのであれば、いっそ放っておいても良いのかも…
一瞬はそうも考えたのですが、ただ、そうしますと都に立ち入るに当たり、必然的に彼等を跨ぐことになります。
それは勿論気分の良いことではありませんでしたし、
何より、私が立ち上がった後も、この人達が絶対に動かないという保証もありません。
加えて、当然足を下す場所には細心の注意を払い、極力大人しく行動するつもりですが、
私がこの小さな世界に及ぼしてきた影響(…有体に言ってしまうともたらしてしまうと被害、なのですが)
を思い返してみますに、それはもう切なくなるくらいに、私が考えるところを常に上回ってきました。
まして何らかの不測の事態があったりしたら…?例えば、そう、さっきみたいに突然転んでしまうとか…
あの時は幸いにして海の真ん中で、周りに何もなかったから良かったものの、
もし、同じことをこの状況でやらかしてしまったとしたら…!
ああ、もう、目も当てられません。それは、それは想像するだに恐ろしいことです。
幾ら悪徳国家の人達とは言えど、私のうっかりなんかに巻き込まれて…
などと言うことになれば、お気の毒どころのお話ではありません。
となりますと、やはりこのままと言うわけにはいかないでしょう。
そこでまず、私は座したままで気持ち伸び上がると、都の内側、壁付近辺りを覗き込み、
目視と気配探知によって、そこに人が居ないことをしっかり確認します。
それから再びやや体勢を低め、視線を下げると、門の方へと向けておもむろに右の手を差し出しました。
そうして中指の先を小さなその門扉にとん、とあてがうと、そのまま少しずつ、少しずつ慎重に力をかけていきます。
程なく押し当てた指の腹越しに、何かが歪むような、裂けていくかのような極軽い感触が伝わってきて、
殆ど何の抵抗を見せることもなく、門扉が押し退けられていこうとするのが分かります。
もう少し、あとほんのちょっとだけ押し出せば…!
けれども、次の瞬間、手元の方…ちょうど私の掌にすっぽり覆われた、その真下辺りから、
無数のただならぬ気配が伝わってきて、私はどきりとしました。
慌てて手を持ち上げてみますと、何故か皆さんの間にひときわ強烈な動揺や焦燥の気配が広がり、
群衆全体がパニック寸前にまでなりかけていたことを、容易に察することが出来ます。
え?どうして?私はただ皆さんを都の中にと考えただけ…なのですが、この尋常ならざるご様子は一体…?
小首を傾げつつ、私は彼等を見下ろし、自分の掌を見詰め、もう一度彼等を見下ろし…
あ………も、もしかして!叩き潰されると思ってしまいました…!?
「ち、違うんですよ?大丈夫、大丈夫です」
急いで弁明する私。勿論そんなことなどするはずがありません。そうではなくて私はただ…
「兵士さん達に代わって門を開くだけ、ですからね?」
これから自分がしようとしていたことを、極力柔らかい声調を意識しつつお伝えします。
そうですね、何の説明も無くいきなり手を出したのは、やっぱり軽率でしたよね…。
この国に来てからそれなりに時間が経っていることもあり、そろそろお隣の国の艦隊が着いてしまうのでは?
そういった危惧もあり、私の中に焦りがあったのかも知れません。
ということで反省しつつ、説明の後に改めて手をそろそろと近づけていったわけなのですが、
私の掌が生む影が門前の人々に迫っていくと同時に再びざわめきが生まれ、
恐怖と思しき気配が急速に膨れ上がっていくのが痛いほどに伝わってきてしまい、
どうしても手を出すに手を出せなくなって、困り果ててしまいます。
もしかして私の言葉、分からないのでしょうか?そんな疑念も一瞬は過りましたが、
まがりなりにも『空飛ぶ船』についてのやりとりが兵士さんと出来たことを思い出します。
じゃあ、信用されていない…?それとも他に理由が…?
いえ、今はそんなことより入り口を開いて避難してもらうことが先決です。
もうあと少し、何とかあとほんの少しだけどうにか我慢頂けないものでしょうか…。
差し出したこの掌がどんな風に感じられるのか、はっきりとは想像がつきませんが、
しかし、なるほど、確かに彼等の小ささを考えれば、
上空からそれが迫ってくることに、心中穏やかでいられないのも分からないでもないです。
ですが、私にとって門扉はせいぜい指一本通る程度の大きさしかありません。
そんな低い位置にある、そんな小さな門扉を開く、となりますと、どうしても掌を彼等の頭上、
しかもそれなりに近い位置にまで手を下ろしていかなくてはならないのです。
もう、このままでは埒が明きません。
ここは…少々乱暴かもしれませんが、いっそひと思いに強行…
と今一度思い切ろうとしたのですが…ああ、ダメです…どうしましょう…
変に意識してしまったせいか、手が小刻みに震えて、変な汗まで滲んできてしまいます。
このままではうっかり掌が地面に着いてしまったら、それこそ大事になりかねません。
それに、もし仮に彼等が耐えかねてパニックになり、私の周囲でばらばらに動き回る、などということになれば…!
収拾がつかなくなるばかりか、身動きが一切とれなくなる恐れすら出てきます。
まずいです、それはとてもまずいです。その様な事態だけは、何としても避けなくてはなりません。
私は少々焦りを感じつつ、これからすべきことを整理し、箇条書き風に頭の中で列挙してみることにします。
さしあたって……それから……うん、あとは……よし、大体こんな感じ…で、大丈夫でしょうか?
果たしてこれで上手くいくのか、一抹の不安がありましたが、いつまでも迷っているわけにもいきません。
時間も無限にあるというわけではないのですから。
意を決すると、私は先ず人差し指を立て、それを人々から少し離れた壁の間近に下ろします。
そうしてぐっと力を籠めますと、指先は難なく中ほどくらいまで沈み込みました。
それから、私は一度だけ躊躇った後、それを突き立てたまま、弧を描く様な軌道で移動させていきました。
途中私の指の行く手には、建物が幾つも並んでおりましたが…ごめんなさい…!
ある意味予想通りでしたが、一気に滑らせました指は、
それらに阻まれるどころか次々に突き崩し、敷き潰し、指が生み出した溝の下、地中深くにうずめてしまいます。
こうして壁から壁へ、町並みを分断しつつも、群衆をやや遠巻きにぐるりと囲めば、
先程は意図せず兵士さん達にやってしまった『通せん坊』を参考に、拡散防止用の即席お濠の完成です。
ん、でも…ちょっと細いかも?それにまだ浅いでしょうか?
飛び越えたりできないように…念の為に、先の人差し指の軌跡をなぞるように、
それでいて今度は先程よりもやや深々と抉ることを意識しつつ指をもう一往復させます。
うん、これで大丈夫でしょう…たぶん。
なるべく群集を刺激しないように、距離を取ることと、手早く済ませてしまうことを心がけたおかげでしょうか、
幸いにも人々は門の前に留まったまま、こぞって戦々恐々という様相で見上げてくるばかりで、
今のところ全くと言っていいほど変化は見取れません。先ずは恙なく、上手くいっていると考えて良いでしょう。
さて、次は…
「皆さん、お話があります」
そんな彼等に対して、極力友好的な…少なくとも害意は全然ありませんよーな口調を意識しつつ、
切り出した私でしたが、そこで一つ気になったことがあり、念のために確認をしておくことにします。
「と、その前にですね、一応お聞きしたいのですけれども、私の言葉、分かりますよね?」
けれども、それに対するはっきりとした反応をいまひとつ見て取ることが出来ませんでした。
うーん…それでしたら…
「えーと、お分かり頂けましたら挙手をお願いしたいのですけれども…」
するとおそるおそる、窺うような様子を見せながらですが、ぱらぱらと手が上がるのが分かり、私は安堵します。
「はい、どうもありがとうございます。それでは改めまして…」
そして実に軽い調子で、その提案…と呼んでいいのかも分からないそれを投げかけました。
「暫くお待ちしておりますので、どうぞ門を開けて、都の中に入ってしまって下さい」
そう、私が手を出すことが混乱を生んでしまうのであれば、彼等のお力を活用すれば良いのです!
などと力強く、胸を張って力説するほど大した発想でもなく、有体に言ってしまえば『何もしない』だけなのですが。
とにかく、確かにその門は彼らと比べると少々大きいかもしれませんが、
私が先程触れてみた感じでは、決して重厚、頑強と言うほどではありませんでした。
それこそ指先でちょこっと押すだけでも、もう開きそうな気配が感じられたのです。
そして、ここには小さいながらも本当に沢山の人が居るのです。
ですから、何も私がいらないお節介を焼かずとも、力を合わせて頂ければ、これくらいどうにかできるのでは?
そんな風に考えた次第なのですが…なかなか皆さんに動きが見られません。
はて、通じなかったのでしょうか?私の言葉には他意などありませんし、とても単純明快なお話だと思うのですが……
訝しみつつ微かに眉を顰めて、覗き込んでみますと、弾かれたように人々が動き出します。
特に男性陣を中心となって門に群がり、押したり、叩いたり、体当たりをしたり、色々試みているようです。
一致団結、一所懸命、小さな人達がちまちま頑張っているその様子を上から見ていると、
どうしてでしょうか、少しだけですが、どことなく微笑ましく感じてしまいます。
そうです、その調子。頑張って、頑張って。
そうして内心エールを送りつつ、体感で数分ほど静観してみたのですが……
「あの…やっぱり難しいですか…?」
私のお声掛けに皆さんの動きが一斉に止まり、こちらを見上げてきます。
このままお手伝いの必要なく、門が開かれるのであれば、勿論それに越したことはありませんでした。
ですがその一方で、もし彼等にはどうすることもできない、ということになれば、
それはそれで私が手を出すのも止む無しと納得してくれるのでは?と、そんな風にも考えていたのです。
「では、私がやってみますので、皆さんは離れていて下さい」
そう言いながら、改めて少しばかり身を乗り出しつつ、門へと右手を近づけようとしている風を見せれば、
門扉に取り付いた時とは雲泥の差に良い反応で、大きなどよめきと共に、あっという間に人々の輪が出来ます。
ただ、即席で作った溝は的確にその役割を果たしてくれているようで、
ちなみにですが、今回は門に対するアプローチそのものにつきましても多少変更することにしました。
先程の様に横から、彼等の直上に、覆いかぶせる様に手を出すのではなく、
私は再びお尻を浮かして膝立ちに近い恰好になり、少しだけ身を乗り出しますと、
門の辺りの壁を真上から覗き込んで、真っ直ぐ下へと右手を下していたのです。
その際には出来ればなるべく周りのお家を極力壊さないように注意はしたのですが、
どうしてもスペースは狭く、軽く爪先が当たってしまって、
内側壁に隣接した建物を幾つか突ついて崩してしまったり、潰してしまったりします。
ともあれ、どうにか壁の向こう側に人差し指と中指、それに薬指の三本を差し込み、
それぞれの指の腹が壁に当たった感触を確認したところで、動きをとめます。
続いて今度は親指のお腹の方をこちら側から同様に門扉の辺りにあてがいました。
これで第一段階完了。
手元では人々が私の動向を、固唾を飲んで見上げてきておりますが、
幸い今のところパニックには至らない模様であり、また不用意に近づいてくる様子もありません。
それから手元をじっと見据えて息を止めると、それぞれの指に慎重に力をかけていき、
門……とついでにその周辺の壁を挟み込むようにしながら、真上へと引き上げていきます。
流石は都市を取り囲む壁です。こつんと爪先をぶつけてしまっただけで壊れてしまう他のお家とは異なり、
大分丈夫にできていたようで、門扉と壁は指の間でぱらぱらと崩れだし、
今にも砕け散ってしまいそうな様相を見せておりましたが、幸いにも大破することなく、
門の形を保ったままで何とか釣り上げることに成功します。
わ!良い感じ、すごくいい感じです!このままそっと、そおっと…
緊張にじっとりと汗ばんできたのを感じながら、下ろした時以上に手をぷるぷると震わせつつ、
そして、思いの外うまくいったことに、内心ほんの少しだけはしゃぎつつ、
一定の高さまで持ち上げたら、後はすかさず左手をその下に差し込んで添えれば、もう一安心です。
と、ほっと安心て大きく息をついたと同時に、指先に力が加わってしまったのか、はたまた限界だったのか、
次の瞬間、壁は指の間でぐしゃりと崩れて零ればらばらの瓦礫の山となり果ててしまいました…
が、その全てを一欠片も逃すことなくきちんと掌で受け止め、
群衆さん達には迷惑をかけなかったことですし、良しとします。
それを今度はしっかりと適当な場所を選んで下ろして、おしまい。
どうでしょう?『開けた』というにはやや不格好で乱暴な形にはなってしまいましたが、
これで問題なく都に入れはするはずです。
私は少しだけ気を良くしつつ身を退きますと、そこから人々が都の中に入るのを待って、
時間を設け、再びしばらく静観することにしたのでした。