第一話『発端』


■メイド大降臨

(…やるしかないのよ。美咲【みさき】ファイト!)
 少女は心の中で自分自身を叱咤してからゆっくりと瞳を開けた。
目の前には事前に説明されたとおりの景色が広がっている。自分達のそれととてもよく似ている世界。
木も生えているし、人も居る。家があり、ビルがあり、道があり、車があり。それらが街を作り出している。
細部に些末な違いはあれども、基本的には何ら変わらない。そう、たった一つそのサイズを除いては何も。
立ったままの彼女の目線に並ぶものは何も無かった。
彼女を取り囲むように並んでいる直方体や円柱の物体は、
大体膝から太腿程度の背丈であり、どんなに高くとも腰に届くものがせいぜいだ。
美咲はすぐ脇に建っているビルに視線を落とす。
ざっと数えて窓は10かそこら。この高さで大体10階建てといったところか。
左手少し向こうの建物の合間を見れば、遥か下、
踝(くるぶし)程度の高さを走る高架と赤い電車が目に入る。
「ほ、本当に…すごく小さい…!」
改めて感嘆の溜め息とともに率直な感想が小さく零れる。それよりも狭い…。そちらの方が問題か。
とは言え、このまま戸惑って立ち尽くしているわけにもいかない。
彼女は然るべき重大な用事があって此処にいるのだから。
「よ、よぉし…!」
美咲は緊張した面持ちで一つ小さ呟くと記念すべき一歩を踏み出したのだった…わりと無意識で——。


『メイドさんが聳え立っている!』
 その余りにも受け入れ難い光景に駅前は騒然となっていた。
黒色の靴に真っ白のソックス、深い濃紺の長めのスカートと同色の洋服、
その上にやたらひらひらしたエプロンを着け、胸元には大き目のリボン。
僅かに青がかった長い黒髪の上にこれまたひらひらのカチューシャを乗っけている。
その出で立ちは確かに所謂メイドさんそのものだった。
顔貌(かおかたち)から察するに、年の頃は中学生から高校生といったところか。
大きめの瞳をぱちくりと見開き、微かに驚いているかのようなその表情はとても愛らしく、
少しだけ垂れた目尻からはどことなく優しそうな印象を受ける。
確かに今日日メイド姿をしている少女なんて珍しい。
非常に珍しいが、それは所詮些細なことでしかなかった。
非常識なのはその格好よりも大きさである。
何の脈絡も無く、何の因果も無く、世の道理など完全に無視して突如出現したその少女は、
駅前で一番高い建物にでさえ難なく腰掛けることが出来そうなほどの巨躯の持ち主だった。
30mを優に超えるであろう二つの巨大な靴は、駅前の幅広の道路全部と歩道の一部を占拠し、
地面をかなり陥没させている。ついさっきそこにあった筈の電話ボックス3つ、ゴミ箱、
道路と歩道を区切っていた低木、更には駅前に並べられていた、無数の違法駐輪車は
一瞬にして踏み均されてペシャンコになり、今や地面よりもずっと低い位置にめり込んでいた。
 一瞬の静寂の後あちこちから悲鳴と怒号があがった。
誰も彼も我先にと思い思いの方向に走り出すものだから、
そこらじゅうで人と人が衝突し、それが更に大きな混乱を生む。
ただ、幸いだったのは偶然にも彼女の着地地点に誰も居なかったこと、
付近の自動車用信号がこれまた偶然赤だったこと、
そして何よりその少女がすぐには動き出さなかったことが大きかった。
お陰で軽いけが人は出るも、とりあえずは深刻な人的被害は無く、
その巨大な影に覆われて暫しの間呆気に取られていたドライバー達も
すぐさま車を乗り捨てて、最寄りの建物に無事避難することが出来たのである。
もっとも近くの建物に逃げ込んだところで、『難を逃れた』ことになっているのかは甚だ疑問であったが。
 と、ふいにその巨大な靴に動きが生まれた。
高々と振り上げられた靴の裏から最早原形を留めていない鉄屑やらガラスやらが、
霰(あられ)のごとくバラバラと降り注いで派手な音を立てる。
しかし当の本人はといえば、そんな恐ろしい音にも、
それどころか周囲で起こっているパニックすらも全く気になっていないと言った様相だった。
恐らく特別足を高く持ち上げている積もりもないのだろう。きっとただ普通に歩こうとしているだけ。
そして次にその左足が着地する場所として選んだのは、ちょうど今しがた乗り捨てられた車の上だった。
大きな足の大きな影がたちまち広がって数台を飲み込み、次の瞬間には凄まじい轟音と地響きが起こる。
その足元付近にあったもので無事だったものは何一つ無かった。


『くしゃり…』
 ふいに感じた左足の嫌な感覚に美咲はびくりとした。何かを踏んだ、確かに踏んだ、間違いなく踏んだ…。
不用意に動けばこうなってしまうことくらい簡単に予想出来たことだし、
当然防ぐことだって可能だったはずだ。それなのに、こともあろうに
そんな大事な、基本中の基本であることをすっかり忘れてしまっていたなんて…。
まるでよくできた精密なジオラマの様な小さな町並みを、遥かな高みから見下ろして
少なからず良い気分になっていた自分に気付く。舞い上がってしまっていたのだ。
彼女は今更ながら軽率さに歯噛みした。
とにかく急いで長めのスカートの裾を両手で摘み、後ろに引っ張って左の足元が見えるようにする。
小さな車が何台か、あさっての方向を向いたり、歩道に乗り上げたり、
ひっくり返ったりしているのが目に入った。横転しているバスもあった。
足を下ろした時の衝撃で吹き飛ばされたと考えてまず間違い無いだろう。
(運良く直撃を避けた子たちね…)
そう心の中で呟いて美咲はほっと胸を撫で下ろしたものの、それも束の間、
すぐに自分の足の真下にあるであろう車たちのことを思って憂鬱になる。
元々これらは車道を一直線に並んでいたはずである。
それが、ただ近くに足を下ろしただけで、これ程までに影響を与えてしまったのだ。
とすると恐らく直下は…。考えて彼女の表情は更に暗くなった。何にしても確認しなければ。
美咲はゆっくり左足を持ち上げて、何も無い場所を選び極力そっと下ろす。
今度は神経を集中させていたので、足の裏で何かがビキビキと音を立てているのがすぐに分かった。
アスファルトが割れて陥没していく感触である。
とは言えこればっかりは流石(さすが)にどうしようもない、不可抗力というやつだ。
衝撃だけを最小限に抑えることを注意して足を退かし終えると、恐る恐る自分の靴跡を覗き込んでみる。
すると案の定彼女の恐れた…そして想像通りのモノがそこにはあった。色から識別するに恐らく二台。
その上に折り重なるように潰れている紐状のものは多分信号機。
最早掴み上げることすらままならない程にぺらぺらになってしまった元車たちに、
それでも震える声でとりあえず問いかけてみる。
「あ、あの…大丈夫…ですか?」
勿論返事は無い。
「…えと…もしかして…言葉…通じないのかな?」
たぶんそういう問題ではない。
「あの…その…わたし…」
声は小刻みに震え、今にも消え入りそうな弱々しいものになっていく。
そこに車があるということは容易にドライバーの存在にも結びつく。
そしてその車がこんな風になってしまったと言うことは、即ちその中にいたドライバーは…。
美咲は胸を締め付けられるような感覚を覚えずにいられなかった。

 その時、少し向こうの方からこちらへと走ってくる車が視界に入った。
それは二つ向こうの交差点手前で突然ブレーキをかけて急停車すると、
同時に中から人が一人転がるように出てきて、一目散に元きた道を走って戻り始めた。
恐らくそれは巨人である自分の存在に驚いての行動なのだろう。
もっとも今の彼女にとって、そんなことは至極どうでもいいことであり、
美咲はただただ悲嘆に暮れながらその一部始終を見るともなしにぼんやりと眺めていたのだが、
(………あ…!)
ふとあることを思いついて再びその場にしゃがみ込むと、歩道に突っ込んでいた車を摘み上げた。
途端に大して力は込めていないにも関わらず小さな車は軋むような鈍い音を立てる。
が、彼女はそれをさして気にせず、しかし誤って潰してしまうことだけは絶対にないよう注意しながら、
目の高さまで持ち上げて中を覗き込んでみる。
(誰も…乗ってない…!?)
確認するとその車を道の端っこ下ろし、続いて別の車を拾いあげる。
(やっぱり…乗ってない…!)
彼女は周りに散らばっていた車を片っ端から持ち上げて次々と中を覗いていき、
最後に横転していたバスに手を伸ばした。先ずドアが開けっぱなしになっていることを確認し、
それからこれまでと同様に車内へと視線を送ろうとする。
が、そこで初めて、窓ガラスと言う窓ガラスがひび割れ真っ白になっており、
中の様子を窺い知ることができなくなっていることに気がついた。
どうやら気持ちがはやる余り、掴む際に力が入りすぎてしまったらしい。
美咲は少し迷ったものの、すぐにバスの行き先の表示部分辺りに爪をかけると
引っかくようにして天井を剥ぎ取った。この作業にも大して力は要らなかった。
そして中を覗き込むと同時に俄かに彼女の表情が明るくなっていく。
(…だとしたら私が潰してしまった車の持ち主さんも避難した後だったのかも…!)
胸の内から湧いてくる希望に反射的にぐっと拳を握ってしまうも、
途端に『ミシャリ』と言う変な感覚が伝わってきて、ぎくりとする美咲。
一瞬の間の後、未だにバスを持ったままであったことを思い出す。
改めて手の中を覗き込めば、全てのガラスがことごとく砕け散り、天井がすっきり無くなってしまったそれは
よく見る…までもなく明らかにぐんにゃりと歪んでいた。
「あー…」
その何とも無残な姿に美咲は心苦しく、何だか申し訳ない気持ちになるも、
しかしお陰でとても嬉しいコトが分かりかけているのだ。
(ありがとう。あなたの犠牲はきっと無駄にはしません…)
心の中でそんなことを呟くと彼女は残骸をそっと地面に開放してやったのだった。

 とは言え、これはまだまだ希望的推測でしかない。
もし、車に乗っていた人達が本当に無事であるのならば、
やはりどうにかしてそれを自身の目で確認しておきたい。
美咲はそのまま立ち上がろうとはせずに、改めてもう一度先程自分が足を踏み下ろした辺りを見回してみた。
もしかしたらまだ近くに居るのではないか、と。
しかし、そんな期待も虚しく結局人っ子一人発見することも叶わないどころか、
完膚なきまでにぺったんこになってしまった鉄板ばかりが否応無く目につく。
折角少し元気が出かけたというのに、こんなものを見ていたのではどうしても気が滅入ってきてしまう。
(………はぁ…もういいかな…。べ、別に見つからないからって、
 まだ車の中に居るとは限らないもん…うん…)
そんな言い訳がましいことを考えて意識的に瞳を反らす美咲。
それに、そもそも足の裏の嫌な感触に気づいてすぐ、
確認した時には既に人の姿はなかったのだ。と言うことは、
(…も、もしかしたら、この世界の人達は…本当は車よりもずっと走るのが速かったりして、
 もうとっくにどこか遠くに行っちゃった………とかは無いよね、流石に…。
 でも…でもきっと、『何か』…とにかくすごい『何か』のお陰で…姿を消して、
 ………それとか後は実は建物の中に………あ…!)
と、そこにきてそんな単純なことにやっと思い至る美咲。
同時にすぐ斜め前方にあるデパートと思しきベージュ色の建物にぴたりと視線が留まる。
踏みつけてしまった車から見て一番近い建物だ。
「………」
それを無言でじいっと見詰めていた美咲だったが、
程なくおもむろに体の向きもゆっくりとそちらの方に向けた。
本当ならばデパートの真ん前で移動して建物と向かい合う形で座り込みたいところだったのだが、
そうするには些かその空間は狭すぎたのだ。実際に今、斜めを向いただけでも、
横に建つビルに当たりそうなほど膝が迫っている。
(これ以上はちょっと危ない…かな…?)
さすがにスカートの裾を擦り付けたくらいでビルがどうにかなるとは思えないが、
しかしだからといって無理をしてまた何かやらかしてもつまらない。
とにかく自分の言葉がその屋内に伝わりさえすればいいのだ。
美咲はそれ以上動かないように、特に膝が絶対に前に出ないよう気をつけながら上半身だけを乗り出し、
上から覗き込むようにしてその建物に声を掛けてみる。
「えっと…今しがた私が踏み潰してしまった自動車に乗っていた方々、
 いらっしゃりましたら屋上に出てきて下さい」
そこまで大きな声を出した積もりはなかったが、心なしか建物全体がぴりぴり震えたような気がして、
美咲は慌てて口元を押さえる。とにかく何事も慎重に、そう心に決めたばかりなのにこれではいけない。
そう自身に言い聞かせ反省した後、改めてその屋上をじっくりと観察してみる。
味気無く薄汚れた灰色で、特にこれと言ったものはないので、日常において使用されることは無さそうだ。
が、とりあえず扉は目についたので、屋上に出てくることは可能なはずだ。
それなのに、扉を注視して待ってみたものの誰も出てくる気配はない。
(………ひょっとして…わたしのことが怖い…のかな…?)
そうして、やっとそんな疑問が頭に浮かんできたのは、
僅かに小首を傾げつつ更にずいぶんと待った後だった。
普通ならば周りにある物の小ささや脆さ、それに反応から、己の存在の強大さを悟り、
同時にそれが恐怖を与えても不思議ではないことに当然であることにも気付きそうなものである。
が、生憎(あいにく)美咲は思考のスピードが少々遅めな上にあちこち抜けていたりもした。
『もしかしたら自分はこの世界ではちょっぴり力持ちなのかもしれない。
 しかし、たとえそうであったとしても自分はこの世界の人々対して敵意などは毛頭ないのだから、
 恐れられる理由も全くない!………よね?』
これが美咲的見解であった。勿論車を踏み潰したのは攻撃ではなく事故なのである。
そして彼女はそれを『行為』として、大変なことをしてしまったことは十分に理解し、自覚していたのだが、
『感覚』としてはあくまでも足の下で『くしゃりという軽い感触があった』ということでしかない。
彼女にとってのその『ちょっとした感覚の事故』が、足元を逃げ惑う人々にとっては、
凄まじい質量と衝撃を伴った、人知を越えた破壊行為であり、
そしてそれがどれほどの脅威であったかまでには、考えを巡らせることが出来なかったのである。
「んー」
それでも美咲は『突然目の前に自分よりも遥かに巨大な人間が出現する』というシチュエーションを
どうにか想像しようとしていた。
「んー…」
考え始めて若干秒。美咲の眉間に微かにしわが寄る。イメージはなかなか湧かない。
美咲が深く考えることを苦手とするというのも勿論あるのだが、
何よりもそれは余りに現実離れしすぎていたのが大きかった。
もっともそんな現実離れした状況を他ならぬ彼女自身がたった今作り出しているのだが。
「ん…」
しかし、代わりにと言うわけではないが巨人繋がりで、
幼い頃に読んだ童話の中に出てきた『残忍で凶暴な人食い巨人』のことを思い出す。
最終的には勇敢な子供によって退治され物語は大団円となるのだが、
次々と人を捕えては容赦無く食らっていく巨人は子供心にかなり怖かった。
特に恐ろしい形相が一面に描かれた挿絵は彼女的にはかなり強烈で、夜な夜な布団の中で思い出しては、
なかなか寝付けないなんてことまであったりもした。でも…
(…でも…わたしはそんなんじゃないのに…)
心の中で少しむくれる。しかし、不本意ながらその様に思われている可能性だって
絶対に無いとは言い切れない。何しろこの世界の人々が見上げる自分という存在は、
お話に出てきたあの恐ろしい巨人よりもずっとずっと大きいのだから。
となればここは一つ、そう言った誤解もきっちり解いておいたほうがいいのかもしれない。
「お願いします…決して捕って食べたりはしませんから」
彼女は先程よりも声を小さくしてもう一度話し掛ける。
ちなみに『言葉が通じないのではないか』という疑念に関しては、ある程度解消されていた。
目の前にかかっているデパートの垂れ幕や、建物についている看板を読み、
概ね理解することができたからである。
だが、彼女の的確な(?) フォローにも関わらず、屋上に人影が現れることは無かった。

(…もしかしてわたしの声、聞こえていないのかな…?中は…どうなってるんだろ…?)
 今度はそんなことを考えつくと、彼女は建物の中の様子を探るべく一度上体を引き戻し、
体勢を下げて壁に顔を近づけて窓を探してみることにした。
程なく一応それらしきものを発見することは出来たが、余りにも小さくて、とても中を覗けそうに無い。
無駄とは思いつつ建物の6階か7階辺りの壁にそっと耳を当ててみたが、
残念なことに…と言うか、やはりと言うべきか、中の音を聞き取ることは全く出来なかった。
では指を突き立てて穴を開けて覗いてみるのはどうか。
しかし壁のすぐそばに人がいる可能性だって往々にしてありうる。
離れるよう注意を促そうにも、それが届いているのかが定かでないからこそこうして試行錯誤しているのだ。
美咲はすぐに思い直して一度は壁に当てた人差し指を離す。
指を押し付けていた箇所が些か…わりと凹んでいるように見えるのはきっと気のせいだろう。
一瞬、思いっきり叫んでみようかとも思ったが、先程の声量と建物への影響を考えると、
そんなことをした日にはとても大変なことになりそうな気もする。
そう、普通に考えれば彼女の声が届いていないと言う可能性は限りなく低いのだ。
とは言え、なんとかして中の様子を少しでも知りたいという気持ちに変わりはない。
何か良い手はないものだろうか。
 そう言えばこの建物、一階だけは壁がなくガラス張りになっている。
そのことに気づいた美咲は更に体制を低くし、
顔を横向きにしてぐっと下げてどうにかこうにか覗き込んでみた。
中はごちゃごちゃと物が散乱しており、ざっと見渡した感じ、
彼女が考えていた以上に小さな人影は沢山あった。
「ぁ…」
しかし美咲が何か言い出そうとする前に彼女の存在に気付いた人影達は、
か細い悲鳴あげながら建物の奥や二階、或いは物陰等彼女の目線の届かないところへ逃げ散り、
あっという間に誰も見当たらなくなってしまう。
「あぁ…」
思わず溜息まじりの声が小さく漏れる。
その後も懸命に目を凝らして観察を続けてはみたものの、
動くものは一つも無く、美咲諦めて体を起こそうとした。
と、その時一番手近にある柱の影からこちらを窺っているような気配を感じた。
そちらの方に目を向けると同時に微かに何かが揺れた…気がする。
「…そこに誰かいるんですか?」
囁く様に問いかけてみるも応えるものはなかった。しかし、やはり何者か居るような気がしてならない。
勿論それが美咲の探す人間、つまり車の所有者であるとは限らないのだが、
事情を説明して頼み込めば或いは『協力者』になって建物内を探す手伝いをしてくれるかもしれない。
すぐに美咲は意を決すると、少しばかり顔を退き、建物との間に左手を持ってくる。
些か強引かとも思ったがとりあえず引っ張り出して直接話を聞いてもらおうと考えたのである。
ここから話しかけても多分声は届くのだろうが、やはり相手の反応を直に見なければ、
きちんと自分の言わんとしていることが伝わっているのかどうか、今ひとつ不安なのだ。
 ところで建物のすぐのところまで指を近づけて、
そこで美咲の頭に一つの疑問が湧いた、とても些細なものだが。
入り口は押し戸なのか引き戸なのか、はたまた自動扉なのか。いや、そもそもそれ以前に…
(入り口ってどれだろ…?)
美咲からすればどのガラスも同じに見える。
もっとも入り口が分かったところで指一本、二本程度の広さしかないのだが。
それでも美咲は律儀に、一応扉を奥に向かって押し開けるつもりで、
見当を付けて指先でそっとガラスに力をかけてみた。
…が、彼女の意志とは裏腹に指先はガラスを砕き、繊細な窓枠をひん曲げ、押しのけてしまう。
どうやら『普通に扉を開けて普通に屋内に進入する』ことは失敗に終わったらしたらしい。
彼女は再び深く溜息をつくしかなかった。
もうこうなってしまっては仕方ない。そう割り切って、そのままゆっくりと建物への潜行を続ける美咲。
中指、薬指に続いて人差し指と小指ともそれぞれガラスを突き破る。
やがて左手の半分が屋内へと侵入した頃にはぽっかりと穴が開き、
彼女の手の周りにはガラスやら変形して引き千切られた窓枠やらが散らばっていた。
それを見て彼女は思わず顔をしかめた。
手の動きが阻まれたり、怪我をしたりと言った心配は全くしていないが、
ただでさえ散らかって手元が分かり辛いというのに、それが見事に悪化している。
そこで美咲は少し考えてから一度手を引っ込めると、その中に軽く息を吹き込んでみた。
それは彼女にとってまるで消しゴムのカスを吹き飛ばす程度の小さな労力だったが、
思惑通りに辺りに散乱していたものは残らず吹き飛び、目的の柱との間は綺麗さっぱりと片付く。
そう言えば、ここに来て初めて自分のとった行動が自分の望む結果に繋がったような気がした。
彼女はそれに少しだけ満足げな笑みを浮かべると、
すぐに真剣なまなざしで慎重に手を進めていったのだった。

 しかし結局最後の最後で美咲の思惑はやはりうまくはいかなかった。
ゆっくりと、しかし着実に進んでいた美咲の手は、目標までほんのあと少しというところで、
ぴたりと動きを止めてしまったのだった。何かが邪魔したからではない。
邪魔になりそうなものはさっきまとめて吹き飛ばしたし、仮に何かあったとしても
彼女の手の動きを物理的に阻めるほど強固なものなど何一つこの世界には存在しないのだから。
そう、逆にそれがこの上もなく脆かったからこそ彼女は手を止めざるを得なかったのだ。
何かがぶつかってビキビキと割れていくような感覚、彼女はすぐにそれが何なのかを察した。
手の甲が天井につっかえて負担をかけているのだ。柱までは本当にあと僅か、指の関節一つ分くらい。
試しにほんの少しだけ左手を前進させてみる。
『ギシ…ギシリ…』
先程よりもより大きな軋みを感じ、美咲はすぐに固まる。
このまま力ずくで手を押し込むことは恐らく不可能ではない、と言うより容易いだろう。
しかしそれをすれば確実に天井は崩落する。そうなれば中にいる人達は無事では済まないはずだ。
まったく…どうしてこの世界のものは、こう何かもここまで小さいのだろう、脆いのだろう、
どうしてこんなちっぽけ相手に対して、これほどまでに気を使ってやらなければならないのだろう、
それとついでにどうしてこのデパートは巨人が手を突っ込むことを想定して
もう少しだけ高い天井を作っておいてくれなかったのだろう。
「あぁ…もうっ!!…うぅぅぅうぅぅ…」
錯綜する様々な思い。尽く思い通りにならないことに対する
苛立ちとも不満とも困惑ともつかぬ嗚咽が美咲の口から漏れる。
(このまま向こうまで手を押し込んで、屋上まで一気に持ち上げたら、こんな建物崩れちゃうかな…?
 そしたら…小人さんを見つけるのだって多分困難…というか不可能になっちゃって…
 …案外諦めもついちゃったりして…なーんて…)
結構恐ろしいことをさらりと思いついてしまう自分に少なからず戸惑いを覚え、
(そ、そんなのダメに決まってるよね)
ゆっくり頭を振って急いでそれを打ち消す。本末転倒もいいところだ。
とは言え、あまりにも小さく、そして全くこちらの言葉に耳を傾けてくれない彼ら。
ともすれば相手にしているモノが本当に人間なのか疑わしくなってくるのも
ある意味仕方のないことなのかもしれない。
少しの間、彼女は建物の一階に手を突っ込んだままじっとしていたが、
やがて三度溜息をつくと仕方なくそろそろとそれを引っ込めた。
やはりバスの時の様に力でと言う訳には行かない。
中に人がいる以上こちらからのアプローチは、なかなかどうして難しそうである。
美咲は再び上体を起こし、相変わらず屋上に誰も出てきてないことを再確認してから、
もう何度目か分からない、しかし今までのなかで最も大きな溜息をついたのだった。

(わたし…ちょっと慌てすぎ…なのかなぁ…?)
自分が焦る余り相手の立場を考えなかったのはまずかったのかもしれない。
よくよく考えてみれば美咲にとっては小箱のようなものでも、それがビルであることに他ならない。
となれば、一階や二階にいる人間なら最上階に上ってくるまでにはそれ相応時間がかかって然りなのだ。
(少し落ち着いて待ってみよ…)
「えと…本当にちょっとお話したいだけなんですけど…。とりあえず一人でも構いません。
 車の持ち主の方…出てきて頂けないでしょうか?」
美咲は今一度、可能な限り優しく声をかけると、
自分が広げてしまった出入り口からは人が出ることができないよう通せん坊をする形で左手を置いた上で、
ひとまず黙って誰かが屋上に出てくるのを待ってみることにした。