■完全敗北

「いかん!退避しろ!」
 ただ、おろおろとしているだけだった瞳の奥に
突如として強い意志のようなものが見え、芝浦は直観的にまずいと感じた。
と、同時に巨人がおもむろに引っ張り出したものは大きな竹箒らしきものだった。
それも己の目がおかしくなっていないのであれば、ポケットからである。
それから巨人は身の丈程もあるそれを上下逆にして両手で持ち、
体を半身分ずらし、真剣な面持ちで正面を見据える。
すらりと背筋を伸ばして立つその姿は優美な雰囲気をも醸し出しており、どことなく薙刀を髣髴とさせる。
その格好はあくまでも洋風のメイド姿であり、手にしているのはあくまでも箒なのだが。
 そして巨大メイドは考えていたよりもずっと俊敏な動きで、距離を詰め攻撃を仕掛けてきたのである。
と言うよりも意表を突かれたその動きに対処し切れなかったと言うべきなのかもしれない。
何しろ建物を障害物として挟むことで距離を取っている積もりだったわけなのだが、
それが全く対象の行動を遮蔽することにはならなかったのである。
「やああああああっ!」
 裂帛(れっぱく)の、しかしそれでも愛嬌を失わない気合いが大気をぴりぴりと震わせ、
その眼前にある高層駅ビルなどまるで見えていないかのように、
巨人は味方のうちの一機へと襲い掛かったのだ。
黒い靴が振り上げられて鈍く陽光に煌いた(きらめいた)かと思った次の瞬間には、
それが遠慮無くビルの高層部へと突貫し、粉々になった建材やガラスなどを辺りに撒き散らしていた。
芝浦の機体は巨人の視線の先にはいなかった為にとりあえず撃墜は免れたものの、
急速に移動する巨体が巻き起こした気流に煽られて、一時的に操作が不能となり危うく失速しかかる。
しかしそんな芝浦の危機的状況など当然巨人が意に介することはなく、
彼の視界一杯に少女の横顔が通過していく。
それは、まるで映画の巨大なスクリーンをすぐ間近で見ているような、そんな気分だった。
やや童顔ではあるものの整った顔立ち、色白だが健康的できめ細かな肌、
柔らかそうな頬は少しだけ紅潮している。
そして、真っ直ぐ前だけを見詰める凛として澄んだ眼差しとその動きに伴って麗らかに流れる長い黒髪。
圧倒的な大きさであるにも関わらず、それは紛れもなく美しく、
本当に僅かな間であったが、思わず芝浦はそれに見入ってしまっていた。
が、その直後に下方より足音思しき壮大な衝撃音が否応なく耳に届き、すぐに危機的な現実へと引き戻される。
 慌ててその足元を見れば、その美麗さとは正しく対照的に界隈は滅茶苦茶に踏み蹴散らされ、
見るも無残な事態になっている。
(ま、まずい…!)
完全に想定外。いや、単に目算が甘かっただけなのかもしれない。
あれだけ攻撃すれば巨人とて黙ってはいないのも当然と言うことか。
あっという間に自機を除く味方の全ては打ち払われ、気がつけば、
吸い込まれそうなほどに深く大きな漆黒の双眸はぴたりとこちらを捉えていた。
急上昇によってどうにか攻撃回避を試みようと考えるも、
それがタイミング的に間に合いそうもないことは明らかだった。
もう駄目か。そう覚悟を決めるも、
「あ——!!」
 が、次に上がったその悲鳴は意外にも芝浦のものでは無かった。
彼の機体が攻撃の射程内に入るか否かと言うそのギリギリ一歩外で、不意に巨人がバランスを崩したのだ。
ぐらりと大きく傾いた巨躯が、やがてゆっくりと倒れ込み、膝から腿、腿から腰と、
家、車、道、木、そこにあるありとあらゆる物に覆い被さり、飲み込んでいく。
やがて先の足音とは比較にならない程の、轟然たる衝撃が辺りを襲い、
巨人は見事なまでに大地へと突っ伏したのだった。少女の感覚的にはただ転倒しただけ、なのだろうか。
しかし芝浦にとってそれは凄絶としか言い様がない光景であり、
同時に直接本能に絶望を焼き付けられたような、そんな感覚にすら陥っていた。
何しろ目の前で広大な町並みが消失してしまったのだから、それも一瞬にして。
 ヒトの業を遥かに凌駕するその力に暫し茫然自失状態だった芝浦だが、
不意に鳴り響く通信機の通知音に我に返ると、慌てて機体を上昇させて、
とりあえず手が届かないと思しき高さまで逃れる。部下の一人からだった。
先の攻撃によって機器の一部が損傷し、操縦不能となったために近くの空港に緊急で不時着を試みたのこと。
接地の際の衝撃で肋(あばら)の骨が折れたものの、とりあえず命に支障を無いらしい。
その報告にひとまずは安堵し心からそれを喜ぶ芝浦。しかし、それも一瞬の後には色褪せて消え去っていく。
もし巨人が彼を仕損じたことを知って、空港に向かいでもしようものならそれを止める手立てはない。
それどころか巨人がこれから何をしようとも、それをヒトの力で制することは出来ないのではなかろうか。
抗うことの一切叶わぬ強大な力、或いはそれは人智を越えた自然災害に近しいようなものなのかもしれない。
…と思った矢先であった。
「あううぅ……………」
眼下より聞こえてくる情けない呻き声に気付いて、
見遣れば巨人が頭を持ち上げて小さく振っているのが目に入る。
後方からであるため、その表情を見ることは叶わなかったものの、
何となく想像はついてしまい、それがまた複雑な思いを誘う。
それでもやはり容姿や態度はただの少女でしかない。途方も無く大きい、ただそれだけのことだ。
しかし、その差異こそが圧倒的であり、絶対的であることもまた事実である。
 これからどうすべきなのだろうか。それは芝浦の一存では決め兼ねる重大な、
それこそヒトの命運を左右するかもしれない問題だった。
まだ手遅れではないことを願い、二度と楯突かないと言う意思表示を以って安全の保障を乞うか、
それとも人類の誇りと存亡を賭けて、あくまでも徹底抗戦に踏み切るのか。
いや、先ずは巨人の目的を知ることが肝要であるか。何にしても、現時点においてこれ以上
無闇に相手を刺激することが得策でないことだけははっきりとしている。
(…!あれは…!)
と言うのに何と間が悪いことだろうか。
事もあろうに待機を命じていた戦車隊と巨人が鉢合わせしているではないか。
寝そべった巨体のすぐ目と鼻の先にいることもあって、
どう贔屓目(ひいきめ)に見ても戦車達は余りに小さく、
こうして客観的に見ることで、改めて勝機が皆無であることを突きつけられている様な気分になる。
とにかく一刻も早く撤退するべきだ。が、巨人とて、視線の先の彼らが
今の今まで自身を攻撃してきた敵の仲間であることくらいはすぐに察しが付くだろう。
果たして大人しく見逃してくれるのだろうか。とは言え他に選択肢は、ありはしない。とにかく命令を。
 しかし、芝浦がその意を伝えるよりも早く耳に届くは砲声。
それはこれまで巨人の所作によって引き起こされてきた一連の轟音と比べれば、
圧倒的に弱弱しく頼りないものだった。が、それでも芝浦の一縷の望みを断ち切るには充分なものだった。
見下ろせば巨人の頭辺りより煙が立ち昇っているのがはっきりと分かった。


 幾ら世界でも屈指の機動力とは言え、所詮それは『戦車として』でしかない。
当然のことながら最高時速70kmなど戦闘機に比べれば足元にも及ばないし、
加えて地を往く以上一直線とはいかないどころか広い道を選んで走行せねばならない。
結果必然的に目的地到達時間には、文字通り天と地ほどの差が出てしまう。
それでもやっと戦線に辿り着いて、逸る(はやる)気持ちを抑えて指示を仰いでみたところ、
作戦本部を介して伝えられた命令は待機だったのである。
「……何でここまで来て御預けなんだよ、クソッ」
本作戦の陸部戦車隊の統率を任じられた男は小さく舌打ちして言う。
既に空部はターゲットと接触し戦闘を開始しているのだろうか。
先程より時に大きく、時に小さく、地鳴りは間断無く続き、くぐもった音を車内へと届けてくる。
きっと空部が戦っているに違いないが、それならばどうして自分達は参戦を許されないのだろうか。
「仕方ないでしょう?そういう命令なんだから………芝浦さんの」
「…まぁ…な」
それを言われると弱い。と言うのも彼はずっと、それこそ学生時代より
士官学校で臨時講師として時折教鞭を振るう芝浦に強い憧れを抱いていた。
入隊した暁にはどうにかしてきっと芝浦の下につこうとまで考えていた。
ところが、いざその時になって芝浦は実は陸士ではなく
空士であったと言う笑えないオチが待っていたのである。
俄かには信じられなかった。しかも聞けば階級もそれ程高くはない。二重のショックである。
何しろ芝浦の陸戦に関する知識や技術は決して半可なものでは無く、
それこそこれまでに見てきたどの上官達などよりもずっと優れているように思われるのだ。
「ったく…何で芝浦さんは空部になんざに所属しているんだかね…」
「…またその話ですか?」
呆れ声が返ってくるのも仕方の無いことだった。
本当に何度そう思ったことか、そして何度同じ愚痴を周りにこぼしたことか分からない。
大変未練がましいことと自覚してはいる積もりだ。しかし、どうしても納得が行かないのだから仕方が無い。
逆に言えば、彼が芝浦を慕う気持ちは今も尚それほど強いと言うことだった。
だからこそ今回の直々の指名には何よりも先ず喜びを感じた。自分のことを覚えていてくれたということ、
そしてこの超非常事態とも言える重大な局面で、信用し登用してくれたのだということ。
敵が何者であるか、どれほどの力を持っているのか、この任務の危険性が如何ほどのものなのか。
そんなことは彼にとってはわりとどうでも良いことであり、だからこそこの『何もするな』と言う命令は、
ある意味『命を捨てて戦え』と命じられるよりも尚不本意なものだったのである。
 と、不意にこれまでに無く巨大な衝撃と地響きが、横殴りに襲い掛かってきて、
彼の回顧と不満は吹き飛ばされた。
「な、何だ!?」
まるで戦車ごと浮き上がったような、そんな感覚に戸惑いつつも慌てて通信機に叫ぶ。
「お、おい、各車状況は!無事か!?」
『分かりません!分かりませんが…どうやら…車両自体が引っくり返ってしまったようで…!』
その返答に驚き、展望窓から状況を確認してみると、
確かに正面に常識的にはありえない格好で横たわる戦車の姿がある。
(馬鹿な…こんな…!)
錯覚ではなかったということか。しかし彼の驚嘆はそれだけに留まらない。
通りの脇にあった建物達はいつの間にか一様に跡形も無く倒壊してしまっており、
やがて晴れた煙の向こうから現れたのはそれに勝るとも劣らない巨大な顔だった。
目の端に微かに涙を浮かべた、その苦悶とも言える様な表情は
空部が善戦していると証拠と考えていいのだろうか。しかし、その割に外傷は見当たらない。
余りの事態に気後れして一時言葉を失うも、士気は徐々に高まっていく。
優勢であるのならば一気に畳み掛けない手はないし、劣勢であるのならば尚のこと芝浦を援護すべきだ。
「砲撃の用意を!目標は巨人の頭部だ!」
同乗する砲手と、隊全体には無線を介して同時にその意を伝え、砲門がターゲットの方へと向くのを待つ。
迷いは無かった。覚悟ならば出撃をした時より既に決まっていたから。
「撃てぇっ!!」
男は高らかに叫んだ。砲弾は大きすぎる標的を容易く捉え、そのど真ん中へと命中したのだった。

(よし、効いている…!)
 顔を抑えて仰け反る様な仕草を見せる巨人に一度は確かな手ごたえを感じた筈だった。
が、次に車体を震わせて聞こえてくる巨人の声は、苦しみの悲鳴でもましてや断末魔の叫びでもなかった。
「もう…あんまりです!いきなり顔を撃つなんて!」
極普通の少女の、しかし幾分むっとしたような声色での抗議が
上空より鋼鉄の装甲を貫き、彼は思わずびくりとする。
己の目測からしても、巨人の言葉からしても頭部に砲撃を叩き込んだことは間違いない。
しかし、それが『あんまりです』の一言で片付けられてしまうのか?傷を負わせることは出来たのか?
上体を起こしてしまった巨人の顔は遥か上にあって窺い知ることは出来ない。
しかし、どうにもそこまで効いている様には思えない。
何しろその声は、まるで海で水を掛けられて少し怒っているような、
そんな調子にしか聞こえなかったのである。
「こ、攻撃の手を緩めるな!」
などと言わなくても一斉砲火は続けられている。しかし敵が斃れる(たおれる)気配はまるでない。
募っていく焦燥と、減っていく砲弾の数。
『ズン…』
不意にすぐ近くに何かが落下してきて、展望窓から見える景色は完全に遮断された。
それは相当大きいものらしく、証拠にそれまで目視出来ていた…
と言うより否応無く視界に広がっていた巨大なターゲットの姿が今はどうやっても捉えることが出来ない。
「な、何だ…?」
しかし、その疑問に答えられる者は当然居ない。
と、その時壁から分離した一本の柱が猛烈な勢いで戦車に体当たりを仕掛けてきた。たったの一撃だった。
未だかつて経験したことが無いほどの回転と重力が戦車全体に加わり、
背中を叩き付けられて一瞬息が止まり、意識も飛ぶ。
「…かはぁっ…!」
恐らく巨人の反撃であろう。そして、どんな武器を使ったのか、何をされたのかまでは分からないが、
この威力からして敵も本気を出してきたに違いない。
外からは当の巨人の声が響いて来るも今の衝撃で一時的に感覚が麻痺してしまったか、
その内容までは耳に届いてこない。
「み、皆…大丈夫か!?」
幸い車内に大きな怪我人は無かった。男もどうにか上体を引き起こして必死に呼びかけてみるが、
電信機からは耳障りな雑音があるばかりで返答は無い。今の一撃で少なからず破損してしまったのか。
現状を知ろうと狭い展望窓から外に向かって目を凝らすも、何故か全く把握できない。
ならば体勢を立て直すことを先決と考えて操縦士に指示を出すも、
彼が言うにはこの戦車は何処かに相当激しく叩き付けらてしまったらしく、
エンジンの機動が叶わないとのことだ。
やむを得ずそのまま次の衝撃に備えつつ、暫く外の様子に耳を傾けてみる。
意外にも追撃ちは無かった。が、だからとていつまでもこうしているわけにはいかない。戦況が気になる。
些か迷ったものの遂に覚悟を決めると、
男はおもむろに立ち上がり天蓋を薄く押し上げてそこから外を垣間見る。
「!?」
予想外の光景だった。その驚きの気配を察知したのか不安げに問うてくる部下。
「どうなっているんですか…?」
「わ、分からない…。ただ…」
自身の乗っていた車両は確かに外に居て巨人と戦っていた筈だ。
それなのに辺りは薄暗く、目に付くものと言えば、薙ぎ払われた幾つもの机や散乱する書類、
倒れている植木鉢に、砕けたガラスの破片。敵の姿も当然見当たらない。一体どうなっているのだろう。
「ただ…?」
「…このままでは埒が明かないな。俺が外に出て様子を見てくる」
「し…車長!?」
制止とも抗議ともつかぬ部下の声に対して彼は一方的に続ける。
「お前達はもう暫く此処を動くな、いいな?」
それから彼は天蓋を全開放して飛び出そうとした。が、途中でそれは突っかかって思うようにいかない。
仕方なく可能な限りに出入り口を広げた上で、無理矢理その間に体を捻り込んで通していく。
と、そこはやはり室内、何かの事務所のようなところだった。
這い出て分かったことだが、天蓋は天井に引っかかっていたのだ。
展望窓が機能しなかったのは衝突した際か何かに倒れ掛かってきた本棚から
溢れ出た資料に埋もれてしまっていたから。
そうやって全方位に視線を巡らすことでとにかく現状は概ね理解することが出来た。
要するに先の強力な一撃で建物の中に押し込まれたのだ。
一体どのような兵器だったのかは相変わらず見当もつかないが、
硝煙や熱を感知出来ない事から考えて或いは火器ではないのかも知れない。何にしても大した威力である。
もし、生身で食らっていたら、いや民間車であったとしても木っ端微塵になっていておかしくない。
振り向けばそれを雄弁に物語るかのように、壁をぶち抜いた大穴が広がっていて、
まるで戦車が栓のようにそれを塞いでおり、その隙間から光が差し込んでいる。
壁の向こうに居ると思われる他の隊員の安否が気にかかるが、どうにも通り抜けられそうなスペースはない。
更に脇に拉げて(ひしゃげて)転がっているドアの存在も確認し、
「くそ…!」
別の出口を探すことにする。やきもきしながら屋内を徘徊すること暫し、
やがて裏口を発見した男は裏路地を駆け抜け、
程無く自身の戦車が突っ込んだ建物のすぐ脇より元の大通りに戻ってくる。
焦る気持ちを無理矢理抑え付け、ひとまず建物の隙間に身を隠して様子を覗き見れば
既に戦闘は終了しているではないか。それもこちらの敗北によって。
戦車が三台。二台は引っくり返っており、もう一台に至っては側部を下にして、
まるで建物に壁にもたれかかる様な異様な体勢で取り残されている。
後の三台は退却したのか、はたまたやられてしまったのか影も形も見当たらない。
次にターゲットが居たと思しき方へとその目を向ける。
「………な…!!」
先ず飛び込んできたのは、空に掲げられた巨大な『何か』だった。
瞬時にその正体を理解することが叶わず、そのまま上方に視線を移していけば、
腹部、胸部、双肩と先程よりも遥かに大きく感じられる少女の巨体が聳えている。
そして悠然とこちらを見下ろす二つの瞳。いや、彼自身には焦点は合っていない。
見詰めているのは無様に転がっている戦車達の方だ。
と、見上げるばかりの彼にまるで不意打ちをかけるかのように足元から鳴動があって、
危うくバランスを崩しそうになる。
慌てて正面に視線を落とした男は、その時になってやっとそれが巨大な靴であったことを理解した。
いつの間にか降りてきた靴は土煙の中で瓦礫の山を踏みしめており、
それだけに留まる事無く、更に地へと沈み込む気配を見せる。と、同時にもう一方の足が振り上げられた。
そこで彼はやっと気付いた。この間隔で行けば次の一歩は
この戦車隊の真上となる可能性が濃厚だということに。
しかし時既に遅し。靴はその上空付近への移動を完了させており目に見えて落下が始まっている。
まるで自身をも共に飲み込んでしまいそうなほどに靴の裏面が視界にどんどん広がっていく。
(つ、潰されるのか…!?)
 思わず観念する男だったが、幸いにも巨人が足を踏み下ろしたのは戦車隊の上ではなく、
そのすぐ向こうだった。とは言え、その着地と共に激しく足元から衝き上げられる感覚と、
その移動が生み出したと思しき風圧に同時に襲われて、立っているだけで精一杯の男。
直に、それも間近で味わう巨人の迫力と恐怖は、これまで戦車内にて感じてきたそれの比ではなかった。
その靴一つにしても、片方だけで自分達が全幅の信頼を寄せてきた戦車と
比べ物にならないほど重厚で存在感があった。
最早完全に威圧され、立ち竦んでしまい、呆然と見上げることしか出来ない男。
食い縛った歯がカタカタと音を立てる。
それを知ってか知らずか、巨人は戦車隊のすぐ脇で両足を揃えて佇む。一体何をする積もりなのだろう。
幾ら顔を持ち上げてみても、視界には濃紺のカーテンが広がりオーロラ宛らに微かに揺れているばかりで、
その表情を窺い知ることは出来ない。それに分かったところで自分にはどうすることも出来ない。
戦って撃退することも、ひっくり返って動けずにいる戦車から味方を救出することも。
 何とも言えない重苦しい静寂があった後、とうとうその靴に動きがある。
と言っても、今回は先と異なりそれほど高さはなく、持ち上げられたのも一部分だけだ。
懸命に想像力を駆使して巨人の行動を思考するも、相手のスケールの大きさと自身のパニックが相まって、
ちっとも頭は働かない。そうこうしている間にも着いたままの箇所が地を抉り、
大きなコンクリート片を軽々と押しのけながらこちらへと向かってくる。
伴って徐々に迫ってくる靴の影。やはり踏み潰す気なのか。狙いはすぐ目の前に引っくり返っている一台。
再びそれが静止し、ゆっくりゆっくりと降下してくる、圧し掛かる。
次の瞬間、目に見えて凄まじい圧力が車体に対して容赦なく襲い始めた。
まるで悲鳴のように金属の軋む嫌な音が辺りに響き、下になった砲台部がアスファルトへと沈み出す。
細部は折れてキャタピラは千切れて落ち、見る見る内にボディは歪(いびつ)なものへと変形していく。
いとも簡単に圧縮されようとしている50トンの鉄の塊。
このままでは戦車が一枚の鉄板になって地面と一体化してしまうのは火を見るより明らかだ。
勿論、中にいる三人の仲間達諸共に。それは恐らく屍とすら呼べない、原型も留めぬ、
赤いドロドロの血溜りに粉々になった骨片が浮かぶだけの——。
嫌な物を想像してしまい思わず背筋が凍りつく。
(や…やめ……やめ……!!)
叫びたくとも声一つ出ず、目を逸らすことも、それどころか指一本動かすことすら叶わない。
ただ全身を震わせながら、それでも、渇き切った口を懸命にぱくぱく動かし、
見開いた目で祈るように眼前を睨みつける。
祈る…それは戦場においては実に非合理的なことではあるが、それでも男にはもうそれしかなかった。
たとえ無駄であると言うことを理解していたとしても。
「…………!?」
しかし、そんな彼の絶望的な予測に反して突然強圧は無くなった。
思いが通じた…と言うことは多分あるまい。
数台まとめてでも踏み潰してしまえそうな巨大な靴は、尚も戦車の上にあって退く気配はない。
が、よくよく見れば車体にもたれ掛かっていた筈の靴は今では宙に浮いているではないか。
戦車の硬度が巨人の力勝ったのか等とも考えたが、一瞬でそれを打ち消す男。
その圧倒的存在を直接体験した今となっては、
それは余りに理知的でないおめでたい見解にしか思えなかったのである。
しかし、何故巨人が足を浮かしているのかは分かる術もなく、
(……弄る(なぶる)気…なのか…!?)
混乱する男を他所に不意に大きな声が辺りに響く。
眼前の恐ろしい光景とはまるで似つかわしくない、少し控え目な少女の何かを乞う声。
「…ぇ…?…な…?…え…?」
男はそれが自分に向けられているものだと思い込み、必死にその意味を理解して応えようとした。
が、正体も失い思考回路も半ば麻痺してしまっている今の彼にはそれは叶わなかった。
どうして良いか分からず、立ち尽くすばかりの男を無視して言葉は続く。
「——戦車さんの安全は保証致しますから」
ただ、その部分だけはどうにか聞き取り、理解することが叶った。
やがてその言葉通りに戦車が圧砕から逃れた時、男は全身の力が抜けてその場にへたり込んだのだった。