■決心

 相変わらず窮屈そうに少し体を斜めにして座る美咲。
その手の内から現れた長身の男性を目にし、最初に声を上げたのは弥生だった。
「おじ…さん…?……やっぱり!シバのおじさんっ!」
小走りに駆け寄る。
「……弥生か?」
40台半ばと思われるその男性も驚きの表情を浮かべつつそれに応えた。
「弥生、知り合いなのか?」
それを見た岬もまた信じられない気持ちで弥生に問い掛ける。
「あ、はい。私の伯父…母の兄で…」
つい今耳にした弥生の彼に対する呼び方と、岬自身の遠い記憶の中にある面影が重なり合う。
まだ自身が小学校に通っていた頃、家族ぐるみで付き合っていたお隣の格好良いおじさん。
父親は職業柄長期的に家を空けることが多かった。
そんな岬にとって、その人は第二の父のような存在であり、
幼少時代にはよく遊んで貰ったし、時にはきつく叱られたこともあった。
いつも優しく、時々厳しく、そんな彼は少年岬にとって憧れの大人であり、
おじさんの引っ越しが突然決まった時には懸命に涙を堪えた記憶がある。
「芝浦…さん…?」
岬の口から零れた呼び掛けに顔を向ける男。弥生もまた振り返って首をかしげる。
「あ、あれ?何で知ってるんですか?私、話したことありましたっけ?」
「ああ。いや、もっと昔にな…」
曖昧に答えつつ、背筋を伸ばして前に出ると岬は芝浦に挨拶する。
「お久し振りです。こちらに帰っていらしたんですね」
「…うん?」
「岬です」
「ミサキ…?」
訝しげな表情で思わず弥生の方に視線を向ける芝浦に、すかさず彼女が釘を刺す。
「『いつの間に婿養子』とか言わないでよね?」
「いや、誰もそんなこと思ってはいないが…」
苦笑を浮かべる芝浦だが、やはりどうにも合点は行かないらしい。
「まぁ、もう覚えていらっしゃらないかも知れません。
 何分10…いえ、15年近くになりますからね…。気になさらないで下さい」
その様子に些かがっかりする岬だったが、同時に無理のないこととも思う。
何しろその時彼自身まだ声変わりをしていたかどうかすら怪しい小学生だった。
面影だってきっと残ってはいないのかもしれない。
しかし、それでも芝浦はどうにか当時のことを思い出そうとしてくれているらしく、
小さく呟きながら思案を巡らせているようだった。
「15年前…と言うと…私はその頃もこの近くに住んではいたが…岬……岬………」
やがて顔を上げてもう一度岬の顔を見詰めてから、思い至るものがあったらしく小さく目を見開く。
「あ…!もしかしてミー君か!?」
「……え…ああ…はい、そうです。お変わりないですね。お元気そうで何よりです」
もう随分長いこと耳にしていなかった、余りに懐かしいその愛称に目を丸くし、
ワンテンポばかり反応が遅れてしまうも、すぐに笑顔を作って返す岬。
「そうかそうか、あのミー君か…。随分と逞しくなったな」
「ええ、もう随分経ちますから。
 自分が小学五年かそこらだったと思います、芝浦さんが引っ越してしまわれたのは」
「確かにそれくらいだった…本当に久しぶりだ。ところでミー君は今何をやっている?大学生かね?」
「いえ、大学は…っと…その前にすみませんが…」
「…?」
「出来ればミー君は止めて貰えませんか?流石にこの年でそれはちょっと…」
連呼される内に照れ臭くなってきて、思わず断りを入れる岬。
ふと気が付いて弥生の方に目を向ければ、明らかにイタチ目になっているのが分かる。
「…何だよ?」
「いえいえ、別に」
軽く睨み付けてやるもニヤニヤは止まらない。
それがおかしかったのか芝浦も少し笑みを浮かべながら頷き改めた。
「ああ、そうか。それもそうだな。……岬君…でいいかね?」
「ええ。………あ、それで…大学は一昨年に卒業しまして…今は警察官やっています」
気を取り直して岬がそう答えると、芝浦は驚嘆と感心、
それに加えて喜びも混ぜ合わせたような、そんな表情を見せた。
「ほう…そうか、本当になったか…!」
「…?『本当に』…ですか?」
その物言いと様子が気にかかって鸚鵡返しにすると、芝浦は意外そうに尋ね返してくる。
「おや、覚えてないのかね?一度君に訊いたことがあったじゃないか。」
「?」
岬の胸中にぼやけて去来する過去の像。
「ほら、君はお祖父さんもお父さんも、ああ言う方面に進んだろう?
 だから君もてっきりそうなのかと思ってね」
「……」
それは少しずつ鮮明になっていき、
「でも君は首を横に振って…それから胸を張って『ボクはいつも近くで大す…』」
「!!」
思い当たる。と、同時に反射的に声を上げてしまう。
「あー…あーあーあー!…待って下さい!思い出しました、今!」
急激に鼓動が早くなるのを感じる。これ程までに強い気恥ずかしさを覚えたのはいつ以来だろう。
少なくともここ五年は無かったような気がする。
証拠に弥生がもの珍しそうな、とても楽しそうな視線をこちらに向けつつ、興味津々に尋ねてくる。
「え?何?何ですか?」
「………何でも無い…」
対して努めて短く素っ気なく平静を装ってそれに答えてから、
岬は少しばかり苦い顔を作って芝浦に抗議をする。
「芝浦さん…そんな子供の頃に言ったことなんて…もう忘れて下さいよ」
「でも、良い顔していたぞ?そしてあの時の宣言通り君はこうして警察官となったじゃないか」
「本当に勘弁して下さいよ。別に初志貫徹だとか、全然そんな大それたものじゃないんですって。
 ただ、何となく…ですよ」
すかさず口を挟んでくる弥生。
「ね、おじさん、ミー君はその時何て言ったの?」
「ん…?そうだな…」
岬の方へとちらりと視線を向けてくる芝浦。
その目が暗に訊いてくるのが分かった、『言って良いものかね?』と。
「絶対に教えないで下さい!」
即座に力一杯それを拒むと、弥生はいかにも不服と言った様子で噛み付いてくる。
「えー!何でですかっ!?」
「いいだろ、そんな大昔の話!もう今の俺とは関係ないんだし」
「関係ないなら良いじゃないですか。大丈夫、何を聞いたって笑ったりしませんよ!」
「嘘だ!ていうかお前既に顔が半笑いだぞ?」
「そんなことないですって」
「と、とにかくこの話はこれで終わりだ」
「えーっ!!」
隠し切れない動揺を無理矢理抑え込みつつ話題を変えてみる。
「…そ、それにしても!お前が芝浦さんの姪っ子だったとはな」
「あ、誤魔化した…」
ぽそりと突っ込む弥生。
「……」
が、意外にも彼女はそれ以上は言及せずに同意して頷く。
「ええ、でも本当ですね。私も先輩とおじさんがお知り合いだったのにはちょっとびっくりです。
 案外世間って狭いものなんですねぇ」
「それは私もだ。それに…まさかこんなところで君達と出会うとは夢にも思わなかったよ」
と芝浦。
「ええ、そりゃそうでしょう。出来れば一刻も早く帰りたい所なんですがね」
と若干おどけて見せる、と同時に上空から間髪入れずに声が降ってきた。
「そ、そんなこと言わないで下さいよぅ…」
三人が同時に顔を上げれば、一様にその視界に入ってくる不安げな少女の顔。
再会を邪魔しないようにと黙っていたのか、はたまた他に何か意図があったのか、
これまでまるで大人しかった彼女だが、しっかり話は聞いていたらしい。
気が付けばいつの間にかその右手は屋上に降りてきており、
「………何さりげなく塞いでいるんだよ」
屋上の出入り口がしっかりその人差し指で蓋(ふた)されている。
「あ、あはは…分かりました?」
笑って誤魔化す美咲だったが、手を退ける気配は無い。
「一目瞭然だっての…」
「だって…」
微かに口を尖らせる美咲。
「…まぁ半分近くは冗談だから。とりあえず手は退けてくれ」
「はい…」
その言葉に幾分安心した顔付きを見せゆっくりと人差し指を引き上げていく美咲。
「あ、でも先輩、それって『半分以上は本気』ってことになりませんか?」
弥生、余計な事を。
「…!!」
『ドン…』
一瞬にして美咲の表情が強張った後、かなり勢い良く再臨する指。今度は屋上の床に減り込んでいる。
「うぅ…」
小さく唸る声に抗議とも哀願ともつかないその眼差し。
「冗談、冗談だって。これもひっくるめて全部冗談だから。ほら、弥生も謝れ」
「え、何で私…?私はただ美咲ちゃんが先輩に騙されないように忍ばせた本音を教えてあげようと…」
「本…音…!」
ますます眉をひそめる美咲。同時にギシギシと音を立てる指先。
何だか亀裂が広がってきているような気がする。
これ以上弥生に何か喋らせると反って厄介なことになりそうだ。
もっともその顔付きから見て故意にそうやっていることは言うまでも無いのだが。
「いやな、本当に——」
結局美咲が再びその指を持ち上げるまでに要した時間は、
美咲が軍部を撃退するのにかかったそれよりもずっと長かったのだった。

 岬とのしつこい程の問答の末に、応じてやっと手を持ち上げた美咲だったが、
その後尚も何か言いたげな顔で少しの間もじもじとしていた。
「何だ?まだ信用出来ないのか?」
結局一人で説得し切った岬は少々ぐったりとしつつ尋ねる。
すると意外にも美咲は小さく首を振って芝浦の方へと視線を送りながら問い返してきた。
「いえ、そうじゃなくて…お知り合いの方…だったんですか…?」
何かを気にしているような表情と声色。一体何を。
「ん、ああ…まぁな。うちの昔のご近所さんで…」
「私の伯父さん」
「芝浦と言う。先程の非礼、誠に申し訳なかった」
二人の紹介を受けて芝浦は名乗ると、それから姿勢を正し、頭を下げた。
「あ、いえ、そんな…わたしの方こそ。ちょっとやりすぎちゃったかなって…」
慌ててそう返す美咲、それに対して芝浦は表情も穏やかに言葉を続ける。
「しかし…君が優しい娘で本当に良かったよ。
 もしそうでなかったら…決して負傷者だけでは済まなかっただろうからな」
「…やっぱり怪我…させてしまったんですね…」
明らかに落ち込む様子を見せる美咲、芝浦は一瞬しまったと言う表情を浮かべる。
死者が出なかったことに対する喜びと感謝の意を伝えたかったのだろうが、
彼女が受け取った部分は自分のせいで怪我人が出てしまったと言う事実だった。
「ああ、気にすることはない。それもせいぜいちょっとした骨折程度
 …命に係わる者は一人も居ないのだからな」
「で、でも…!…骨折…って大怪我なんじゃ…」
ますます表情を暗くする美咲。
「何、よくあることさ。本当に案ずることはない。
 大体、この程度で泣き言を零す人間など、端から今回の作戦の部隊には入れていないしな」
芝浦は事も無げにそう説明してやるのだが、なかなか美咲の憂いは晴れないらしい。
「………あの…後日お見舞いに伺っても宜しいでしょうか?」
黙したままで暫く俯いていた美咲は、やがてまっすぐに芝浦を見詰めてそう切り出した。
「…ん?見舞い…かね…?…それは………」
一瞬言葉に詰まる芝浦。
「う…や、やっぱり駄目ですよね…わたし…あんな酷いことしたのに…」
「あ、いやそうじゃないんだ。ただ…攻撃を仕掛けたのはこちらなわけだし、
 君は充分こちらを気遣ってくれたわけだし…そこまで責任を感じる必要も無いと思ったんだが…ね…?」
勿論それも本音であることには間違いないようだが、
どちらかと言うとやはり彼女の口から出た『後日』や『見舞い』という単語に戸惑ってしまったのだろう。
「………」
取り繕うようだったその口調を敏感に感じ取ったのか、また悲しそうに下を向いてしまう美咲に、
芝浦は苦笑いを浮かべて『参ったな』とでも言いたげに頭をかく。きっと持て余しているのだろう。
それから彼は一瞬間何がしかを考えていたようだが、やがて一つ深く息を吐く。
「ああ、分かったよ。…そうだな、君がそうしたいと言うのであれば構わないと思う。
 後で私からも伝えておくから都合がついたら是非見舞ってやってくれ。
 日頃女気の無い所で居る連中だからな、君みたいな若くて可愛い子が来てくれたら、さぞ喜ぶだろう」
不思議だ。調子にそこまで大きな変化は無い。若干茶目っ気を見せたくらいだろうか。
しかし、何故だか妙に親しみ易さを感じさせる芝浦の声色。気のせい…ではないならしい。
証拠にと言うべきか、今にも溢れ出しそうだった悲しみが美咲の表情から引いていくのが分かる。
相変わらず素敵な人だ。
「それで…?」
と、そこでふと気に掛かり尋ねてみる岬。
「はい?何がですか?」
「俺が芝浦さんと知り合いだと、何かまずいことでもあるのか?」
「…ぇ!?」
「いやな…少し気になったんだ。今、随分困ったような顔をしていただろう?」
「そ、そうですか?そそ…そんなことないとは無いと思いますですよ?」
本当に分り易過ぎる。
「………そうか?てっきり俺はまた、警察官であることを隠していた上に
 軍部の者とも知り合いだった人間なんて、やっぱり信用出来ないとか…そういうことだと思ったんだがな」
「そんなことありませんよ!」
見当をつけて言ってみるも、対する返答は思いの外強く真に迫るものがあって、
岬はその推測が的外れであったことを察する。ではあの表情は一体何だったのだろう。
「…芝浦さんはどうです?何か思い当たることとかありません?」
「ん?うーん…そうだな…」
不意に話を振られた芝浦は少し驚いたような顔をして考え込む。
「ありません、ありませんよね?」
慌てて割って入り、芝浦へ同意を求める美咲。何かあることは火を見るよりも明らかだ。
或いは芝浦はそのことについて何か知っているのだろうか。
「ふむ…無いと言えば無い…」
ほっとした表情を見せてコクコクと小さく頷く美咲だったが、
「が…あると言えばあり過ぎて困るな」
「あぅ…」
すぐに悪戯めいた口調でそう付け加える彼に、バツが悪そうにする。
しかしそのような顔も先程と比べても目に見えて柔らかく、
この短時間で少なからず芝浦が彼女の心を解いた(ほどいた)様な、そんな印象を受ける。
 岬は心底感心せずにはいられなかった。
芝浦がつい今しがた、それも嫌と言うほどに美咲の力を体感したに違いない。
それは岬にしても弥生にしても等しいことであるのだが、
如何せん行使された力の規模には圧倒的な差があった。
何より決定的に違ったのは美咲の『意識』である。
遥かに巨大で強大な彼女によって『敵』として認識され、明確な攻撃意志を向けられたと言うこと。
それがどれ程に恐ろしいものであったかは、想像に難くは無い。
それこそ絶対の死を覚悟せざるを得なかったかもしれない。
だと言うのに目の前の彼にはたじろいだり、恐れたりする様子が見えないのだ。それに引き替え自分は…
「と、とにかく…そんなことより、さっきのお話の続きを…」
ふと気が付けば美咲は視線をこちらに向け、未だに狼狽の様相を残しながらも切り出してくる。
先の話…それが『本契約』を示していることはすぐに理解できた。が、どうしても気乗りがしない。
彼は不意に真面目な顔を作ると、静かな口調でその言葉を遮って言った。
「………。美咲、ちょっと立ち上がって一歩左にずれてみてくれないか…?」
「は…はい?こう…ですか?」
突然のことだったからか驚いた表情を見せつつも、素直に従って言葉通りの動きをとる美咲。
「こ、これは………………!」
同時に息を呑み、暫く二の句は続かなかった。
「……………凄いな」
やっと出た短い言葉と共に思わず嘆息してしまう岬。
目にするであろう光景は分かっていたし、腹も決まっていた積もりだったのだが。
「……ええ、そうですね…」
同じものを視線の先に据え、少し間があった後に神妙な面持ちで小さく同意するは弥生。
さしもの彼女も圧倒されずにはいられなかったのだろう。
二人の態度の意味が理解できないのか、一人美咲だけがきょとんとしつつ小首を傾げる。
「はい…?」
巨躯の退いて開けた視界には見る影も無く倒壊して背の低くなってしまったボロボロの駅ビルと、
そのお陰で見晴らしの良くなった彼方に広く荒地と成り果てた『元』街並みが広がっていた。
「………これ程とは…な。随分…派手に…やったもんだ」
「ええ…。何ていうか…戦争直後とかってこんな感じだったんですかね?」
「……さてな」
その言葉にやっと気付いたのか、美咲は隠すように再び目の前に立ち塞がり
わたわたと手を振りながら言い訳する。
「あ、ああああの…こ、これはアレですよ。ほら、反れたミサイルの流れ弾がですね…って…あ、あれ…?」
それを冷ややかな視線で打ち切って、重々しく返す岬。
「………美咲…念のために言っておくと、テレビ中継で事の一部始終は見ていたんだが…」
周囲に出た避難勧告により、確かに間近より美咲の様子を捉えるカメラは無かった。
が、並外れたその体躯である、遠方からでも彼女の『大活躍』の様子は、
しっかり中継されていたわけだ、それもアナウンサーの半狂乱な実況つきで。
だから岬や弥生は屋内に居ながらにして状況はある程度知ることが出来たのである。
「…っ!!そ…それは…!!」
途端に顔を真っ赤にして言葉に詰まる美咲。
「………美咲、大暴れだったな…」
「………」
「確かミサイルの誤爆で駅ビルの一部が損壊したんでしたっけ?
 あれ…でも上半分が残らず吹っ飛んでいるのはおかしいですねぇ」
容赦無く追撃をかける弥生。しかし、その声調は岬のそれとは対照的で一変して軽いものになっている。
まるでちょっとからかっているだけ、と言う感じの。
「………」
「街も見る影もない…」
岬の口調は変わらず低く重い。
「………」
美咲は最早ぐうの音も出ないらしく、ただただ俯くばかりで、よく見れば小刻みに肩が震えている。
「………美咲、それは何だ?」
「…ぅ…え…はい?」
びくりとして顔を上げ、岬の指先へと視線を向ける美咲。
「ほら、スカートの…そこ。弛んで(たゆんで)いる所に…」
「あ、えーと…ピアノ…ですかね…」
消え入りそうな声で答える美咲。転んだ時に巻き込んで、そのまま今の今まで気付かなかったらしい。
と言っても、ピアノって200キロはあるだろうに。
軽々とそれを摘み上げ少し観察した後、目の前に下ろしてくる美咲。
そんな一つ一つの動作が彼女の力を雄弁に語る。
が、当の彼女はと言えば、すっかり落胆した様子で黙りこくっているのであるが。
「………」
「………」
「先輩…もう可愛そうですよ」
重苦しい沈黙を破ったのは弥生だった。
「何だよ、お前だって………」
(…見ただろう?あの惨状を。恐れただろう?あの力を)
反論しようとする岬だったが、それが言葉になることはなかった。
滅多に見せない弥生のその瞳は静かだったが真っ直ぐ、何かを訴えるようであったから。
それから彼女はすぐに笑顔を作ると、ぐっと口調を和らげてこう答えた。
「え?えへへ…それは……そう!…美咲ちゃんがあんまり可愛いもので…。
 何だかついつい、突っついてみたくなっちゃうんですよ。
 でも、これ以上はダメです。泣いちゃいそうですよ」
嘘だ。弥生も確かに最初は美咲の力を直視し愕然としていた。それは間違いなく分かった。
ただ、弥生は程なくこれまで見てきた美咲の『気質』の方に焦点を戻し、
一瞬でも覚えてしまった恐怖を咄嗟に隠した。
それを耳にした美咲は救われたような、ほっとしたような表情を浮かべる。が、まだ完全ではない。
「………先輩…」
促す弥生。何を言わんとしているかは分かる。美咲が待っているのだ、自身の言葉を。
それは分かっているのだが、これ程の力を見せ付けられてしまった今、
彼女を前にして何と声を掛ければ良いのかが岬には思いつかない。
「………」
「ほら、何か言ってあげてください。あんな良い子をこれ以上苛めるなんて絶対ダメですよ」
小声で畳み掛ける弥生に目を向け、続いて少し外れて腕を組み、事態を静観している芝浦を見遣り、
そして最後に上空からの潤んだ美咲の眼差しに自身の視線を合わせる。
(……何か、俺が一番みっともないな…)
不意に自嘲気味な笑みが漏れた。それから心を静めるように目を閉じ、そのままで美咲に向かって言う。
「とりあえずもう座っていい。首疲れるし」
「はい…すみません…」
元気の無い声と同時に彼女が動かしたであろう、穏やかな空気の流れが全身を撫でるのを感じる。
ゆっくりと目を開くと美咲の顔は近くにあって、
尚も深い黒い瞳は微かに揺れながら、こちらの動向をじっと窺っている。
これでは本当にこちらが苛めているみたいではないか。断じて恐怖が払拭されたわけではない。
つい今、瞳を閉じている間にもあの強烈な光景は否応無くちらついた。
が、こんな顔をされてしまっては罪悪感の方がより大きく膨らんできてしまい、
気の毒で仕方なくなってくる。そして次に出た声は、
自分でも思っていなかった程に、大きく、軽いものになった。
「…そうだな。まぁ俺達を守るために一生懸命だったんだろうし…もうよしとするか」
同時に思った通りと言うべきか、しょげかえっていたその顔がぱっと輝く。
 何とも気分は複雑だった。別に悪い気がしているわけではない。
ただ、どうしても解せないのだ。何故こんなちっぽけな自分の顔色をここまで気にする必要があるのだろう。
幾ら優しいと言っても、助けた相手にこんな態度を取られれば腹だって立つだろう。
或いは自身を主候補と見定めているからなのかもしれないが、
しかし、彼女の物言いからするにそれが絶対に岬である必要は無い筈だ。人間なんてごまんといる。
もっと美咲の思い通りに動いてくれる者だって探せば沢山いるに違いない。
(それなのに…どうして…?)
とその時、自身に向けられたいじらしい態度と、
間近から素直に見せてくるとても嬉しそうな愛らしい表情に気付き、
岬は思わずどぎまぎしてしまう。思考もすっぱり寸断された。ただ、やはり決して悪い気はしない。
「だけど…隠そうとしたのはいけないよな?」
説教っぽく取って付けたようにそうは言ってみたものの、
それが照れ隠しでしかないことは言うまでもなかった。

「ところで…君達は彼女と随分親しいようだが…一体何者なんだね?悪い娘でないことは分かるが…」
 ちょうど話に一区切りがついた雰囲気があり、それを機と見たのか、今度は芝浦が口を開いた。
幾ら美咲と打ち解けてきたとは言え、彼にとってそれは大きな疑問であり、気がかりであったに違いない。
どうしてこの巨大な少女がここに居るのか、彼女は何をしようとしているのか。
「あ、申し訳御座いません。自己紹介を頂いたのに…。申し遅れました、わたしは美咲と申します」
その言葉に弾かれたように居住まいを正し、丁寧に自己紹介をする美咲はやはり名字は名乗らなかった。
「それで実は…——」

「はっは、成る程なぁ」
全てのいきさつを聞き終えた芝浦は先ず大層おかしそうに笑った。
「笑い事じゃないですよ、もう…」
「そうです、とっても重大なことなんですから」
思わず反論する岬と美咲に彼は尚もおかしそうにしながらも謝る。
「いやはや、これはすまない。思いの外平和な話だったものでな」
そして一呼吸置いてから言葉を続ける。
「それで、どうすれば良いのかね?」
「どう…って何がです?」
「勿論、その本契約とやらだよ。当然受けるのだろう?」
「な…当然って…!待ってください、芝浦さんまで何言っているんですか!?」
思わず声も大きく反駁する岬に顔を曇らせる美咲。
「あ、あの…わたしは…」
それでも何か訴えようとする彼女を静かに手で制したのは芝浦だった。
「ぇ…?」
驚きの表情で見詰める美咲に、まるで任せておけとでも言うかのように黙って穏やかな視線を返し、
芝浦は岬の方へと向き直る。
「嫌なのかね?」
「………」
「…嫌ではないんだろう?素直そうな良い娘じゃないか」
「………だからですよ。彼女を従えると言うことがどういうことなのか…
 直接相対した芝浦さんならお分かりになるでしょう?」
それに芝浦は知る由もないが、幾ら苦渋の選択であったとは言え、それが主の言いつけであるのならば、
他の多くの人間を手に掛けることすら辞さないと言う、恐ろしい一面を美咲は先に垣間見せたのだ。
『従うしか…ないと思います…』
彼女は苦しそうに、しかしはっきりとそう言い切った。
その瞳に宿していた悲壮な決意の色を思い出し、岬は胸が痛くなるのを感じる。
彼女が心優しい性格であると言うこと、それは確かだ。
しかし、同時に『メイド』と言うものに対する想いは真剣そのものであり、
それに臨む覚悟がただならぬものであることもまた、紛れもない事実なのだ。
もし、悪意を以てその気持ちにつけ込み、徹底的に逆手にとったとしたら…。
「…なるほど、そうだな。しかし私は君ならば大丈夫だとも思うのだが?」
岬の言わんとする大意を察っして一つ頷く芝浦。
「買いかぶりですよ…。それに…貴方が知っている俺はガキの頃の俺です。確かにあの時なら今よりは…」
視線を落とす岬。
「それは分別がついただけさ。だからと言って人の本質が変わる訳ではない。
 いや、実際君は変わっていないと思うよ。現にこうやって警官になっているわけだしな」
「だから…それは…単なる成り行きですって。少なくとも俺は決して善人なんてものじゃありません。
 そりゃ日常的に特別何かやらかそうなんて思いはしませんけどね。それは起こすと面倒だからです。
 でも、欲望や打算、嫉妬に優越感…単に見せていないだけで、汚いものも沢山持っているんです」
「それが君の本質とは言えないだろう?勿論そういう部分もあるかもしれない。
 そも、誰だってそうではないかね?胸の内に欲や邪さを全く持たない善人…と言うより聖人か。
 それが彼女を任せるに値する人間だとして、一体どこに行けばそんな人間に会える?」
「それは…」
言葉に詰まってしまう岬に芝浦は次の問を持ち出す。
「では、逆に仮に君が『所謂』欲望のままに彼女を駆って独裁者にでもなったとして、
 君の望むものは手に入るのかね?」
「だって…そうでしょう?何人にも逆らうことの出来ない、止めることの出来ない強大な力です。
 揮えば何もかもが思いのままに…」
「なるほど、確かに言うとおりだ。力は人をおかしくする…か」
芝浦は肩で一つ息をして小さく頭を振ると、岬の言葉を途中で遮った。
「彼女の力にばかり囚われて、君の思考は少しばかり地についていないらしい」
「は…?」
「もっと素直に考えてみるといい。これは一般的な人間論などではなく『君自身』のことだ。
 君の思いのままとはどういうことを言う?君にとって『その世界』はどれ程魅力的なものなのかね?」
それは理不尽な破壊と殺戮に圧せられた阿鼻叫喚の地獄絵図か。
悲嘆、恐怖、怨嗟、絶望が逆巻き、それら全てが美咲に…いや自身へと向けられる。
弥生も、芝浦も、同僚も、家族も、友人も、きっと誰もが皆自身の元を離れ、
近づく者がいるとすれば、己に取り入ろうとする者か、己を殺そうとする者か。
それは純粋に寒気がするほど殺伐としていて耐え難いものだった。
「…そして彼女も…確実に泣き続ける」
まるで岬の想像しているものが見えているかのように、芝浦はそう付け足して美咲の方を一瞥する。
「けど…それは今の俺だから言えることで…もし実際にそうなってしまったら…」
「……力が人を狂わせるなんて言うのは…嘘だ。ただ、選択肢が増えるだけ、出来ることが増えるだけ。
 結局人は己の望む様にしか生きられないものだ。
 その根源にある『生きる上での指針』とでもいうべきものは
 力があろうが無かろうがそんなに変わることはない。…もっともこれは私の持論だがね」
「でも…」
「確かに、君の言にも一理ある。恐れるのも分からないでもない。
 反ってそれくらい慎重である方がいいのかもしれない。…ただ、結局は至極簡単な話なんだ」
そこで芝浦は言葉を切り、一言一言をしっかり言い聞かせるように、
確かめるようにゆっくりと問い掛けてきた。
「君は…人が泣くところを見るよりも、笑っているところを見る方が、好きだろう?」
「………」
岬はじっくり考えを巡らせる。何度も何度も芝浦の言葉を反芻し、自問し、それから一つ素直に深く頷いた。
それを見て芝浦は満足そうに表情を和らげると、少しだけ口調を軽く、
しかしどこか確信めいたものを端々に醸しながら続ける。
「ならば心配は無用だ。きっと上手くいく。及ばずながら私も弥生も可能な限り協力するから。な?」
同時に真剣な面持ちで小さく頷く弥生。
「ああ、そうそう、それに…彼女がこれから主人を探して勝手気ままに歩こうものなら、
 それこそ大変なことになるんじゃないかね?」
思い出したようにもう一つ付け加える芝浦。彼の言うことは何もかももっともだと思えた。
それに二人が力を貸してくれると言う意思表示をしてくれたことも本当に心強く感じる。
しかし、それでも、どうしても後一歩のところで決心がつかず、弱々しく尋ね返す岬。
「で、でも………じゃあ…芝浦さんが…もし仮に芝浦さんが僕と同じ立場だったなら、どうしますか?
 彼女の申し入れを受けるんですか?」
「ああ、勿論受け入れるさ」
即答。あまりにあっけなく答えを出した芝浦に岬は驚きを隠せなかった。
「軽率だと思うかね?」
「いえ、そんなことは………。でも…だったら芝浦さんが美咲の主になってやれば…!」
「残念ながらそれは駄目だよ」
軽く肩を竦めてあっさり首を振る芝浦。
「ど、どうしてですか!?軍部の人間だからですか?…でも結局は同じことでしょう?
 芝浦さんが俺を信じてくれたように、俺も芝浦さんになら任せてもいいと思えます。
 俺だって芝浦さんのことなら信用できます」
尚も食い下がる岬。それは本心だった。
決して、ただ美咲から逃れる為だけのその場凌ぎの詭弁などではない。
芝浦の度量や才知、度胸、そして何よりも美咲に対する一連の接し方を見てきた上で、
自身なんかよりも彼の方が余程それに相応しいように思えたのである。
「そりゃ彼女が選んだのは君だから、さ。『同じ』だったら彼女の思いを尊重してあげるべきだろう?
 我々は彼女に命を救われたんだしな…。それに報いるためにも可能な限り願いは聞いてあげたいところだ」
それは、岬もまた同じことだった。警官隊の借りも勿論忘れていない。
「だからこれは私からの進言であると同時に…頼みでもある」
「って…ちょっと芝浦さん…!?」
岬が慌てる。芝浦は深々と頭を下げていた。
「や、止めて下さいよ、そんな…頭を上げて下さい」
しかし芝浦は微動だにしない。狼狽して泳がせた視線が、その先で弥生のそれと合う。
そうだ、弥生にも言って止めさせてもらおう。
「やよ…!!」
しかし、そうするよりも早く弥生もまた芝浦に倣って頭を下げてしまう。
「……………………………………」
長い長い沈黙の後、岬がとうとう上げたそれは白旗宣言だった。
「あぁぁあ、もう…!…恨みますよ?芝浦さん」
それを聞いた伯父と姪は同時に頭を上げると、互いに見合って小さく笑みを浮かべたのだった。