■始契−完遂−

「じゃあ、じゃあ…本当に良いんですか!?」
「…ああ」
 若干渋い顔を作りながら、しかしはっきりと応える岬。
「快諾してくれたようだよ、美咲君」
「良かったね、美咲ちゃん」
(……快諾って…)
聡明で慎重、基本的に物腰穏やかな芝浦と、直情的で浅慮でガサツな弥生。
最初はこの二人に血の繋がりがあると俄かには信じられなかったのだが、
やはりどこか通じるところがあるような気がする。
「はい、ありがとうございます!…で、では早速………
 あっ…えーと…とりあえず乗って頂いて良いですか?すぐに『契約の書』を準備しますから!」
一方の美咲はと言えば、もうこみ上げる喜びを抑えきれないといった様子であり、
一気にそこまで言葉を並べてからいそいそと左手を差し出してくる。
そして、その中央辺りまで三人が移動するのを少しだけもどかしそうにしつつも、
しっかりと待ってからそれをゆっくりと持ち上げた。
それからもう片方の手でポケットの中をまさぐって、やがて紙を一枚引っ張り出した。
「………なるほど、これは…何と言うか…また随分と簡素なものなんだな…?」
余りの大きさに収まり切らず、一部が屋上からはみ出てしまうそれを見下ろしながら、
岬は思わず率直な感想を零す。
確かに書類での形式的な契約と先に聞いていたが、それにしてもこれ程とは。
何しろ広大さとは裏腹に契約書はその殆どが余白であり、
下の方にたった一行こう書いてあるだけだったのである。
『以て、此処に主従の契りを絆す(ほだす)もの也。』
ついでに、字の端々に些細な違いが見受けられるものの、
岬自身その行を問題なく読めたことについても少なからず驚きを覚える。
が、考えてみれば不自由なく言葉が通じるわけであるし、それほど不思議なことでもないのかも知れない。
「ええ。ずっとずっと昔は契約の際に主人と従者が何度も何度も話し合い、
 取り決めた内容を書き連ねて、必ず最後にこう結んだそうです」
説明しながら再び三人を再び屋上の縁へと近づけていく美咲。
「…でも、昨今では契約が多様化、複雑化してきまして。
 その内容も始契の儀よりも前にしっかり話し合って決めて、互いに把握しておくのが通例になりまして、
 今となっては過去の伝統を形式的に踏襲するだけと言う感じなんですよ」
「まぁ…俺は何一つ説明を受けなかったけどな?」
「ぅ…」
途端に綺麗に凍りつく美咲。手の動きもぴたりと止まる。
「固まらなくていいから」
「すみません…」
「まぁ、とにかく名前を書けば良いんだろ?さっさと済ませてしまおうか…俺が気変りしないうちに」
言葉は自身に対する軽い叱咤でもあった。
「は、はい」
それを聞いた美咲もまたその顔に僅かに焦りを滲ませながら掌を屋上へと横付けする。
「…土足で良いの?」
必然的に広げられた紙の上に乗ってしまうことに一瞬戸惑いを覚えたのか、
振り返って尋ねる弥生に小さく頷く美咲。
三人が降りたのを確認すると今度はポケットから羽ペンの形を模した小洒落たデザインのペンを摘み出し、
「危ないですから右手やペンには余り近づかないで下さいね」
一言注意を喚起してから、表情に僅かながら緊張の色を浮かべて丁寧に名前を書いていく。
流石にこのような場合はフルネームでなければならないらしい。意外にも達筆。
添えた左手には建物に対して力を込めすぎないように気遣っているのか、指先を残して微かに浮かせていた。
書き終えると、今度はポケットから朱肉と思しきものを引っ張り出して、
左手の親指に押し付け、名前の横にぽんと下ろす。
綺麗に指紋判が浮き上がったのを見て満足そうに一つ息をついた後、赤色に染まった親指を丁寧に拭き取る。
「へぇ…神近美咲ちゃんって言うんだぁ」
そう言えば弥生は今まで美咲の苗字を知らなかったのか。
同じく岬の横に立ってそれを見詰めていた弥生がぽつりと呟く、
特に深い意味は無く、何となく声に出したといった感じに。
「ひぇ!?」
が、美咲はまるで返ってきたテストの点数でもひた隠すかのように
突然小さな悲鳴を上げると、両手で勢い良く名を覆う。
と、同時に建物全体がその動作の煽りを受けて大きく震えて音を立てた。
「え!?ど、どうしたの、美咲ちゃん!?」
突然の豹変ぶりに唖然とする弥生。
「へ…?……あ…い、いえ何でもないんです…何でも…あはは…」
何故かバツの悪そうな、そしてどこか恥ずかしそうな表情
力ない笑みを浮かべる美咲の様子を暫く怪訝そうに見上げる弥生だったが、
「あ…そっか、ごめんね…そう言えば苗字は口にしちゃ駄目なんだっけ…?」
やがてそのことを思い出したのか声も小さく謝る。
「いえ、わたしの方こそすみません…。
 こちらの世界では普通のことと窺ったのですが…その…やっぱりどうしても慣れませんで…」
首を振ってしおらしく詫び返す美咲には、もう特別不自然な様子は見えない。
しかし一瞬見せたその表情には、何かしら只ならぬ雰囲気を醸していた様な、そんな気がした。
慣習的に呼ばれていない苗字を使われたことに対する焦りや驚きだけに留まらず、
そう、例えばまるで名前…いや家名を知られるのがまずいことであるかのような…。
「じゃあ、岬さんもお願いしますね?」
「ん?あ、ああ」
と、不意に美咲に声をかけられて岬は我に返り、思考を取り止める。
美咲の今の態度は些か気になったが、しかし考えて分かるはずもなく、
別段問い詰めるほどのことでもないと思ったから。
彼女の言葉に従って美咲の人差し指の元まで歩いて行き、
己の胸ポケットから引っ張り出したペンで紙に這い蹲る(はいつくばる)ようにして名前を書く。
「これで良いか?」
しかし美咲はすぐに応えることはなく、少しばかりの間を置いた後、素直な反応を見せた。
「………えと…その…よく…見えませんね…」
一応意識して大きめに書いてはみた積もりだったが、それでも美咲の操るペンとは比べ物になるわけがない。
現に美咲の『美』の字の一角目の『点』よりも、岬の自署の方が小さかったりするのである。
「んー…」
尚も契約書に目を凝らして唸っていた美咲だったが、
やがて小さく嘆息すると、すまなさそうに申し出てくる。
「…折角書いて頂いて恐縮なんですけれども…代筆しても構いませんか?」
「ああ、いいよ、ていうかもう良きに計らってくれ」
「はい、ではでは」
若干やけっぱち状態になっている岬を他所に彼女は実に嬉しそうに頷いてから、
彼が退くのを待ってペンを構え…そして、またすぐに視線を持ち上げる。
「あの…そう言えば字は…?どのミサキなんでしょうか…?」
「ん?…ああ…海の岬、一文字のヤツ…で分かるか?」
「はい、大丈夫です。み、さ、き…と…」
小さく確認するように呟きながら書いていく美咲。やはり字の上手さはかなりのもので、
(俺も見習いたいくらいだな…)
などと密かに考えつつ眺めていると、そこでまた手を止め、
三度顔を上げた美咲が困った様な目をするのが分かった。
「…今度は何だ?」
「すみませんがフルネーム、お願いしてもいいですか?」
「駄目だ」
一瞬しかめ顔を作り、拒否してみる。
「えっ!?」
予想外の返答だったのか顔を強張らせる美咲。
「…駄目だ 」
「そんなぁ…。下の名前も頂かないといけないんです…」
心底困惑した表情を見せて懇願してくる美咲に苦笑を浮かべる岬。今更こんな風にごねてみても仕方ないか。
「まぁ冗談だよ。………翼…だ。岬…翼…」
「あ、ありがとうございます。岬翼さん、ですね?」
確認するように復唱してくる美咲に短く応える。
「ああ…」
「『一人ゴールデンコンビ』!…ですねっ?」
すかさずからかう様に口を挟んだのは弥生。
「弥生、ウルサイ」
「いやぁ…ホントサッカーが上手そうな名前だなって…」
「言うな…」
実はそうなのである。幼少の頃より自身の名前に関して薄々思い当たる節があったものの、
いざ実際に親の口からそれを聞かされた時には流石に驚いたものだ。
『父さんも母さんもサッカーが大好きだったのよ。で、あなたが生まれた頃に
『あの漫画』が大流行でね…苗字も苗字だったし、ちょうど良いかなって』
何がちょうど良いのかよくは分からないが、母はあっさりそう答えたのだった。その後
『ああ、勿論世界に大きく羽ばたくようにっていう願いが篭もってもいるのよ』
とも言われたのだが、如何せんそれが余りにもとってつけた様だったため、
反って名前の由縁が『あの漫画』であったことを克明に物語っている様な気がしてならなかった。
「…でも実際は絶望的にヘタなんですってね?」
実はそうなのである。運動神経は決して悪くなかった。
むしろ良い方で、どんなスポーツでもそつ無くこなし、皆の注目を集めることもままあった。
にもかかわらずサッカーの腕だけはどうにも今ひとつだったのである。
いや、そんな生温いものではなかった。はっきり言って目も当てられないほどにド下手くそだったのだ。
とにかく蹴るボール蹴るボール、まるで思うように飛ばない。
毎回同じ風に蹴っている積もりなのに、距離にも角度にも、
何かの冗談かというほどに凄まじい誤差が生じる。
『ボールは怨敵』『ロシアンルーレットキッカー』『希代のゲームブレイカー』
『三歩も進めた奇跡のドリブル』『味方につくと恐ろしいが、敵に回すと面白い』
もう違う意味で大注目の的である。しかも名前が名前だけに余計にそれが目立ってしまい、
まだ年端の行かなかった少年時代の自分には軽いトラウマにすらなったほどだ。
成長するに従ってそれは大分和らいだものの、やはり未だにサッカーは好きになれず、
と言うよりまるで興味が湧かず、一世を風靡したほどの『あの漫画』も結局まともに読むことはなかった。
現在フルネームを自ら進んで名乗らないのも、偏(ひとえ)に名前を知った相手に
サッカーや『あの漫画』についての話題を振られるのが、鬱陶しいからに他ならない。
「だから言うな。そして笑うな」
それにしても、この逸話については遥か昔に封印した筈であり、
自身のサッカーの実力の程を知る者は小学校時代の同級生位の筈なのだが、
弥生は一体全体どうやって知ったのだろうか。
「あ…あの…えっと…?」
戸惑いの声に気が付けば、当然のことながら二人の会話にまるでついていけない美咲が
目をぱちくりとさせて見下してきている。
「あ、そっか。美咲ちゃんはこの世界の漫画の話なんてわからないもんね。じゃあ後で説明…」
「しなくて良い」
ぴしゃりと言い放った上で岬は続きを求める。
「で、後は?どうすればいいんだ?」
「あ、はい。拇印をお願いします」
「はいはい、拇印ね…」
言いながら差し出される巨大な朱肉は、まるで微かに盛り上がった真っ赤な砂場のようだが、
朱肉入れと言うべきかその縁の部分は己の首辺りまで高さがある。
それを懸命によじ登り、狭く滑らかな足元に注意しながら屈み込んで親指を当てれば、
日頃自身が使うそれと全く変わらぬ柔らかい感覚と共にじわりと赤色に染まる。それから飛び降りる。
美咲の書いた己の名前の脇にまで歩いていく。屈み込んで押し付ける。拇印一つにも大した重労働である。
だと言うのに美咲の表情には再び小さく不満が浮かんでいた。
「…やっぱり…よく見えませんね…」
それはそうだろう。岬の親指の腹など美咲からすれば、まるで針の先のような小さな小さな点でしかない。
それに、美咲が書いた美咲自身の名前、その横に置かれたちょっとしたボート程もありそうな大きな親指型、
そして美咲が代筆した岬の名前ときて、そこで岬自身の拇印となれば、
否が応にもその小ささは際立ってしまう。
「何か問題でもあるのか…?これでもちゃんと押してあるんだぞ?」
「あ、いえ、信じていないわけじゃないんですよ?それに形式上は何ら問題ありません。
 ただ…何て言いますか…実感が湧きませんで…」
とは言っても流石にこれは代わりにと言うわけにもいかないだろう。
暫しの間困り顔で契約書を見詰めていた美咲だったが、また何か閃いたらしく不意に表情を明るくすると、
ポケットに朱肉とペンを収めた上で、今度は『それら』を取り出したのだった。
「…………何だ、それは…?」
たっぷり間を置いてから唸る様に尋ねる岬、聞くまでも無く分かったが一応念のため。
「見ての通り赤いインクと筆です」
「…………………それで…?」
何故だろう、とても嫌な予感がする。
「えーっと拇印なんですけれどね、実は左手の親指さえ入っていれば、問題ないんです」
「……………………………だから…?」
まさか、いやまさかね。
「だから…見やすいように…その…いいですか…?」
「………」
本当にそのまさかなのか?いやいや、そんなそんな…。
懸命にそれを認めまいとする岬の背後から、それをあっさり打ち砕く冷静且つ穏やかな一言が。
「ふむ…どうやら…魚拓ならぬ『人拓』といったところだな。」
振り向けば芝浦が手を顎にのんびりとした様相で成り行きを見守っている。
「………芝浦さん…何か笑っていませんか…?」
「…気のせいだ、岬君」
「弥生…」
「気のせいですよ、先輩」
「お前は確実に笑い堪えてるだろ」
「そんなことないですって。あ、先輩、後ろ後ろ、美咲ちゃんが待っていますよ」
「ん?…げ…!」
視線を戻すと同時に硬直する。既に滴り落ちそうなほどの赤インクをたっぷり纏った極太の筆先、
それこそモップを5つ6つ束ねた様なそれがかなり間近に迫ってきている。
その向こうには目線をこの高さに合わせるかのようにぐっと下げられた美少女の顔。
目が合うと同時に美咲は小さく微笑みを浮かべる。
「じゃあ失礼しますね?息を止めていて下さい」
「ば、馬鹿…ちょ…ま…」
思わず後ずさりするもすぐに背中に柔らかい何物かがぶつかり、退路はあっさりと断たれる。
「!?」
慌てて肩越しに見れば、いつの間にかすぐ背後に滑り込まされているもう片方の手の人差し指。
「待…せ、せめて服…ていうか魚拓って直接墨をつけるもんじゃ…わぶ…」
問答無用。巨大な筆が撫で付けるインクに視界が一瞬にして真っ赤になる。
「大丈夫ですよ。お召し物は後でちゃんとお洗濯致しますから」
まるでそれを初仕事として歓迎するかのように弾んだ声が聞こえてくる。何、そのマッチポンプ。
(いや、これ絶対落ちないだろ!?)
大声でそう突っ込みたいのはやまやまだったが、もうそれどころではなかった。
文字通り筆圧によって後ろへと押し倒されそうになるのを堪えることに全力を注がねばならならず、
それでも結局耐え切ることは叶わず、じきにあてがわれた背後の指へと押し付けられてしまう岬。
こんなに必死になっていると言うのに、美咲はロクに力も入れていないのだろう。
それどころか、至極優しく、それこそ撫でるような筆遣いであるに違いない。嗚呼無力。
そうしてたっぷり一分程かけて化け物筆にされるがままに揉まれた後、
ヨロヨロになりながらやっと解放される。
が、すぐに今度は肩から膝辺りに掛けてまで、
両側から柔らかい何かに挟まれ締め上げられるような感覚があり、
続いて足が地から離れてふらふらと体が持ち上げられるのが分かった。
試しに自由の効かない両腕両足で必死に藻掻いてみるもこれまたまるでビクともしない。
そうこうしているうちに体の向きは地に対して垂直から水平に。
と同時にやっと少し回復した視界にまず飛び込んできたのは白一色の世界。
遅れてそれが広大な紙面であることを理解する。
自由に動かすことが出来る数少ない箇所である首を可能な限り左右に回し、
自分を挟み上げているモノが彼女の指であることを把握する。
もうこうなれば何をしようとしているかは嫌でも分かる。
(けど、まさかこの高さからってことは無いよな…?)
目測で70〜80㎝はありそうなものだ。が、よくよく見れば自身を挟んでいる指先は紙に接地している。
つまり彼女にとっては、これでも精一杯の低さであると言うこと。
そして、次の瞬間不意にかかっていた力が消えたのだった。
『びたん』
…かなり痛かった。受け身一つまともに取ることも叶わず、面白いほど無様に正面から激突する。
「ふぅ…」
同時にとてもとても満足げな吐息が上空より聞こえ、
「おめでとう!」
「おめでとう!」
続いて耳に届く二人の祝福と拍手。
「ありがとうございます」
本当に嬉しそうな声で答えたのは美咲だけで、
岬の方は突っ伏したままでふらふらと手を上げるだけで一杯一杯だった。

「あの…大丈夫…ですか…?」
 それから暫く岬は紙にうつ伏せたその体勢のままで動かなかった。
叩きつけられた際の衝撃に一瞬だけ呼吸が止まり、一時的に四肢に痺れを覚えたものの、
今はもう何と言うことも無く、感覚は戻ってきている。
ただ、鼻頭をしこたま打ちつけたせいか、目の前は未だに少々ちかついているようだ。
それにしても今日というのはまったく何という日なのだろう。
思いつく限りに起こった良くないと思われることを片っ端から列挙してみる。
車は鉄板にされる、デパートには閉じ込められる、後輩の身を案じてやきもきする、
デパートの連中に屋上に放り出される、軍部の攻撃に巻き込まれそうになる、
赤いインクを全身に塗りたくられる、1メートル弱もの高さから落とされる…
しっかり考えればもっともっと出てきそうだが、既にかつて無いほど散々なので、もうここらで止めておく。
とにかく折角の休みは台無しだ。
「………も、もしかして…今のでお怪我を…!?」
上ずった声を聞き流しながらも、尚も静かに思考を続ける。
しかし、当初の予定だって何か特別なものがあったわけでもない。
むしろ何事も無く、何の心象も残ることなく今日という日が終わるだけ。
もし今から暫く目を閉じ、次に目を開けた時にベッドの中だったりしたら、
何もかもが夢であったりしたのならば、ほっとするより残念に思うような気がしてきた。
『何も無いことが一番良い』なんてしょっちゅう口にするくせに、
心の何処かではこういう無茶苦茶もありかもしれないとか思っているらしい。それが自分でもおかしかった。
「た、大変…!すぐにお医者様の所へ!」
と、そこで一段と焦燥に満ちた声と共に、覆いかぶさってくる大きな影の気配を感じ取る。
どれ、そろそろ起き上がって心配性な大娘の声に応えてやろうか。
両手に力を込める。が、彼がそうするより先に美咲のそれとは対照的にのんびりとした声が、それを制した。
「あぁ、心配ないって、美咲ちゃん。どうせそんな重傷じゃないんだし」
薄情鬼後輩弥生。
「で、でも…!」
「美咲ちゃんは心配性だなぁ、それに優しいし。きっと将来良いお嫁さんになれるよ」
「そ、そうでしょうか?…ぁ、いえ…わたしはお嫁さんじゃなくて立派なメイドに…」
「あ、そっかそっか、そうだったね。んー…とりあえず…そうだ、絆創膏なんか持ってないかな?」
「それは…勿論ありますけど…」
「さすが美咲ちゃん。じゃ、それ貼っといて上げれば大丈夫だと思うよ?」
「そう…ですか?」
「うんうん」
「………あ、あの…でも…どこを怪我されているのか…その…小さくてよく分からないんですが…」
「平気平気、美咲ちゃんの絆創膏だったら問題ないって。
 大は小を兼ねるし、下手な鉄砲は数を打てば当たるんだからさ。
 こう、適当にぐるぐるっとやっておけば…ね?」
「はい…」
弥生のとんでも理論にも従順に応じる美咲の素直さに命の危機を感じ、一気に体を起こす岬。
「って、おいこら弥生!お前は俺を簀巻き(すまき)にでもしたいのか!」
「あ、起きた。ほら、やっぱり元気じゃないですか」
「元気なわけあるかっ!ったくお前ってヤツは…」
「先輩、その格好で凄まれても大して迫力無い…ていうか、反っておもしろおかしいって言うか…」
まるで悪びれた様子を見せない弥生の言葉に、急激に力が抜け心も冷めてくる。
と、そこでふと気付いて視線を移せば、このデパートの半分程もありそうな救急箱を膝の上に載せて、
真剣な眼差しでそこから絆創膏やら消毒液やらを取り出し、せっせと準備している美咲の姿が目に入る。
「…あ、いや、美咲、治療はいらないから、普通に元気だから!」
「え…?でも…」
「いや、本当に大丈夫だから!ほら、心身壮健!」
実のところ生温かいとろりとした感触と、鼻の奥から喉へと流れ込んでくる塩っぽいものから、
鼻血が出ていることはすぐに分かったが、
幸いにも…と言うべきか、今の状態では美咲には分からないのだろう。
知られたらまた面倒なことになりそうなので当然黙っておくことにする。他に特に異変は無い。
少しだけ両肩が痛むも、これも大したことは無さそうだ。
「ですが、岬さんのお身体にもしものことがありましたら…わたし…」
(だったらこんな無茶するなよな…)
心密かに突っ込みつつも、不思議と怒りの感情は湧いてこなかった。
「ま…本当に何とも無いから」
行為自体は無意味であることを知りつつも、よれよれになった服を直すようにしながら、岬は続ける。
「何にしても契約は完了したんだよな?」
「え?ええ、そうです」
こくりと頷く美咲。
「そうか。それじゃあ、これから暫く宜しく頼む」
その言葉は抵抗無くすんなり出た。ここまで来るともうすっかり心は決まってしまい、
と言うより諦めがついてしまっただけなのかもしれないが、
何故か心持ちは前向きで晴れ晴れとして悪くない。
この先、待っているのは全く想像しようのない、未知の生活。
彼女の途方もない力に対しての不安は相変わらず大きいままだが、
自分の小さな頭でうだうだ考えてみたところでどうにもならない気がする。
案ずるより産むが易いと言うものか、いやこの場合は下手の考え休むに似たり、だろうか。
ついでに言えば『ご主人様』なる者がどうあるべきなのかなど、岬には知る由もない。
結局自分の考える最良最善を選んでいくしかないだろう。
ただ、美咲と言う少女を見る限り、それほど気負うこともないのかも知れない。
そのひたむきさを、真面目さを、優しさを見る限りでは、
何だかんだでどうにかこうにか上手くいきそうな気もする。
「はい!何かと不束(ふつつか)で至らぬ者ではありますが、
 御心に添うことが出来ますよう、一生懸命精進していく所存ですので、どうか宜しくお願い致します」
そこで一区切りし、同時に美咲の顔に躊躇いと緊張の色が一瞬だけ浮かんだ。
が、すぐにしっかりと岬を見据えると、深い信念と決意が籠められた静かな口調で
ゆっくり、そしてはっきりと続ける。
「宜しくお願い致します……『旦那様』…!」
人生で初めて出来た、それも特大のメイドの言葉に岬は笑って大きく一つ頷いて見せたのだった。











「………とは言え…実際どうしますかね?」
「…さぁ」
「さ、さぁって…芝浦さんだって『きっと上手くいく』って…」
「いや…確かにそうは言ったが…特に確固たる論拠があったわけではないんだ」
「そんな…てっきり何かしら考えでもあるものかと…」
「そうだな…では、無人島でも探してそこに一緒に住んではどうかね…?」
「…なるほど。まぁ確かに無難に良案だとは思いますけど…美咲、構わないか?」
「わたしは旦那様とでしたらどこにでもご一緒致しますよっ」
「………ああ、そう」
「そんなに照れなくてもいいじゃないか、岬君」
「………」
「あ、私内海の方だったら幾つか知っています、無人島」
「何でそんなこと知ってるんだよ…というか、内海はまずいだろ、やっぱり。
 本島に近づくというのは、あまり好ましくない気がする」
「それは私も同意だ」
「そっか、それもそうですね。じゃ、南の方面で?」
「そうだな…海部の者にでも調べてもらうとしよか。
 しかし、美咲君が生活可能な大きさの島となると近海では難しそうだな。結構遠洋の方になると思うが…」
「……ま、大丈夫でしょう。遠いと言っても美咲の感覚ならそうでもないでしょうし」
「……………あ…あのぉ…」
「うん?何かね?美咲君」
「実は……わたし…泳ぎは苦手でして…その…あんまり…」
「………どれくらいなら泳げるんだ?」
「こ、これくらい…?」
「……」
「……」
「……」
「美咲ちゃん…カナヅチさん?」
「……………はい。すみません…」
「流石にそれじゃ無理だろうな。…ですよね?芝浦さん」
「…ああ、些か難しいな」
「んー…あ!じゃあさ、じゃあさ、運んであげるって言うのはどうです?」
「阿呆か」
「…っ!何でですか!?」
「どうやってだよ…?」
「タンカーとか貨物船とか…あ、あと空母…でしたっけ?
 ほら、何か大きな船があるじゃないですか?あれならきっと…」
「…弥生、さっきテレビでの専門家の話聞いてなかったのか?」
「へ…?」
「体重」
「あ、えっと…推定で13万トン…でしたっけ?」
「ああ。13万トンだ」
「13万トン…は厳しいところだな…。
 弥生、残念だが世界中探しても13万トンを積載できる船なんてそうそうありはしないよ」
「うーん…そっかぁ…13万トンはムリなんだ…」
「そりゃそうだろ…流石に13万トンはな…」
「あ…あの!お言葉を返すようですけど…!」
「ん?」
「さっきから13万トン、13万トンって、もしかしてわたしのこと…ですか?」
「当たり前だ。他に何があるってんだ…」
「ち…違いますよっ!」
「違うって…?」
「体重ですよ。…わたし、そんなにありませんから………」
「そうなのか?…じゃあ一体どれくらいなんだ?」
「えっ…それは………!」
「ちょっと先輩!女の子に体重訊くなんて…!」
「けど、大事なことだろ?」
「あ、いいんです、弥生さん。…そうですよね、ご主人様の中には
 メイドの身長とか、体重とか………スリーサイズとか気にする方もいらっしゃるって言いますし…」
「………今はそういう話でもないと思うんだが…まぁいい。それで…?」
「えぇ!?…ス、スリーサイズですか?…えと…上から…ひゃくさ…」
「いや訊いてない、全然訊いてないから。体重だよ、体重」
「あ。あはは…そうでした。えっと…………その………
 ………………じ、12万9800トン…くらいです、ハイ」
「………殆ど変わらなくないか?」
「ぜ、全然違いますよ!13に乗るか乗らないかって結構重大な…」
「いや、どっちにしろ船には到底乗らないから」
「あぅ………」
「……どうやら無理らしいな…」
「ええ…弱ったものです」
「………わかりました!!」
「ん?どうしたの?美咲ちゃん、そんな真剣な顔して」
「じゃあ今から一生懸命ダイエットします!」
「…どう考えても焼け石に水だろ。
 というか、生理現象完全カットだったら体重の増減も無いんじゃないのか?」
「あぁ…!そ、そうでした…」
「何で素直に泳げるようになろうって発想は湧かないかね…」
「いや、どちらにしても一朝一夕には行かないと思うよ、岬君」
「んー…美咲ちゃん…もうちょっと小さかったら良かったにねぇ…」
「もう『かなり』…だがな」
「それは無理です、これで精一杯なんです…」
「!?」
「ぇ…?精…一杯…?」
「ぁ…!いえ…えーと、ほら、体型を維持するのが大変で、結構気を使っているんです…ってお話ですよ」
「あ、なるほど。美咲ちゃんも苦労してるんだね」
「弥生…お前って奴は…」
「………岬君、私の耳と想像力が普通のものだとしたなら、
 たった今彼女は空恐ろしい事を口走ったようにも思うのだが…?」
「芝浦さん、お願いですからそんな目で俺を問い詰めないで下さい。」
「う…うむ、それもそうか。………まぁ…何にしてもどうにかこの島で暮らす他ないようだな」
「………そうですね…」
「あ、わたしはこの島でも全然平気ですよ。旦那様とでしたらどこにでも…」
「分かったから」



                                 『発端』おしまい
                                    『行脚』につづく