■最悪な災厄

「なんて…こった…」
 男は自分の不運を大いに嘆いていた。いやむしろ愚かさを、だろうか。

 突然背後に巨大な何かが出現して自分の車に影を落とした時、
それが何なのかは分からなかったが直感的に『とにかくまずい』と思った。
周りの連中も同じことを考えたのだろう。皆一様に車を捨てて走り出す。
彼もまた迷うことなく、開け放った扉もそのままに車から飛び降りると、
すぐさま影とは逆の方向に走り出そうとした。
が、その時にどうしてもその正体が気になってしまい、振り向いて天を仰ぎ見てしまったのだ。
(な…!)
そして絶対的に『ありえないもの』であったにも関わらず、
それが何なのかを瞬時に、そして的確に把握することが出来てしまった。
何故ならそこに居たのは未知の物体でもなければ、筆舌に尽くし難い様な化け物でもなく、
(…お、女の…子…?…メイド…ってやつ…なのか…?)
ただし、出鱈目に大きかった。何しろそこいらにあるどの建物と比べてもまるで勝負にならないのだ。
そうしてかなりあっさりと理解こそしたものの、その圧倒的な存在を受け入れることは叶わず、
声一つ上げることも、目をそらすことすらも出来なくなって、男はただただ呆然と見入っていた。
「バカヤロウ、ボサっと突っ立ってんじゃねぇよ!!」
ふいに誰かが肩にぶつかり、それと同時に浴びせられた罵声で彼は我に返った。
ともかく逃げなければ。頭ではそう考え、足を動かそうとしたが、
余りの動揺からかまるで全身が麻痺したように巧いこと機能してくれない。
見るべきではなかった。が、正しく後悔先に立たずというやつである。
今はただ抜けそうになる腰を懸命に支えながら、
とにかく一番近くにある建物であるデパートへ可能な限りの全力疾走を試みる。
他にも何人もの人が自分の目指す建物へと駆け込んでいくのが彼の目に入った。
最早周りには誰もおらず、最後の彼が建物の入り口に足を踏み入れた、ちょうどその時だった、
そう遠くないところで大きな落下音があり、間髪入れずに激しい縦揺れが襲いかかってきたのは。
彼はその衝撃に押されて前のめりに吹き飛び、文字通り建物の中へと文字通り転がり込む形となった。
「ぐ…っつぅ…!」
全身を激しく打ちつけ、思わず呻き声を漏らしながら顔を上げる。
目の前は惨憺たるものになっていた。棚と言う棚は横倒し、床には商品が滅茶苦茶に散乱しており、
今の衝撃がいかに凄まじいものだったかを物語っている。
はっとして慌てて振り向けばガラス戸の外ではもうもうと土煙が立ち込めており、
やがてそれが晴れるとその向こうに黒い巨大な物体が姿を現した。
あの辺りに確かエンジンをかけっぱなしで愛車を置いてきたはずだが、今やどこにも見当たらなかった。
目の前の道路に横たわっているそれが靴であるということ、即ち『アレ』が足を動かしたのだと言うこと。
メイド姿の巨人少女を確認していたからこそであろうか、この状況を察するのにそう時間はかからなかった。
そして、そこに考えが至ると同時に背筋が冷たくなる。何しろ危うく踏み殺されそうになったのだから。
しかし、その一方で男の心境は不思議と平静で落ち着いたものだった。
突如町の真ん中に出現した『アレ』にどんな目的があるのか、それは皆目分からない。
しかし、今車を踏み潰したことに関して言えば、悪意からではないような気がしたのである。
そう、それどころか故意ですらない、ただの偶然。『アレ』はただ歩いただけだったのではないだろうか。
今の天地を引っ繰り返すほどの地響きも、所詮はただの足音に過ぎないのだ。
だとすれば、何の意識もない、ちょっとした行為でこれほどの被害を引き起こしたということになる。
しかしだからこそ逆に言えば、もしかしたらこのままやり過ごせるのかもしれないとも思えたのだ。
例えば人が歩いている際に、落ちていた紙くずを気付かずに踏みつけてしまうような、
『アレ』にとってこれはそんな些細なことでしかなく、このまま歩いていっても不思議では無い、と。
そう、何事も無かったかのように、今と同じ様に今度はもう一方の足でちょっとした大災害を起こしつつ。
(どれ、『アレ』の足がどいたら無残にプレスされた愛車でも見て、
 去り行く背中に向かって思い切り毒づいてやるかな。
 どうせ『アレ』にとって自分達人間は取るに足らないちっぽけな存在だろうから、
 何を言っても聞こえやしないだろ。それどころか言語が通じるかどうかだって怪しいわけだしな…)

 つい今しがたまで自分自身でも呆れてしまうほど楽観的にそんな下らないことを考えていた。
しかし、そんな彼の予想は大ハズレだったわけである、
本当に『アレ』がついうっかり車を潰してしまったらしいということを除いては。
こともあろうに今『アレ』はこのデパートのすぐ近くに座り込んで、
理解できる言葉でハッキリと、この建物に…自分に向かってとんでもない申し入れをしているのだ。
とても柔らかくて優しげな口調に感じられたが、だからと言って楽観はできそうもなかった。
『踏み潰された車の持ち主は出て来て欲しい』それは一体何を意味しているのだろう。
そのせいで靴が汚れてしまったとでもいうのだろうか?そしてその償いをさせるべく——。
そんな暗い想像が男の頭の中を駆け巡る。
折角踏み潰されずに済んだというのに…死なずに済んだというのに。
何故自分はこんなところで逃げもしないで悠長に巨人観察なんぞしていたのだろう。
この建物に注意が向けられる前にさっさと非常口でも探して逃げ出すべきだったのだ。男は心底後悔した。
もっとも逃げ切れたかどうかはまた別の話であるが。
 その時ふと彼は視界の隅に、女の人が娘と思しき女の子を抱いて震えているのに気が付いた。
その顔には見覚えがあった。さっきの信号待ちで一つ前に止まっていた車から走り出していった女性だ。
ここに逃げ込んでいたのか。恐らく彼女もまた『アレ』に呼びかけられている人の中の一人なのだろう。
再び『アレ』からの申し入れがある。先程よりはやや小さな目の声だ。
「決して捕って食べたりはしませんから」
安心させるつもりで言ったのだろうか。が、仮にそうだとしても、
『食べる』という言葉を持ち出すのは果てしなく逆効果な気がする。
事実、彼自身その言葉を聞いて、
巨大な歯に噛み潰されて飲み込まれる自分を想像してしまい、慌ててそれを振り払う。
同じくその言葉を耳にしたあの母親もますます強く子供を抱きしめて真っ青になって震えている。
 先程からデパートのアナウンスは心当たりのある者は速やかに『アレ』の要求に応えるべし、
という旨のメッセージを流し始め、それに伴って少しずつ建物内の雰囲気は浮き足立ってくる。
外の様子を知らない彼らもただならぬ気配を感じ取っているのだろう。
実際もし外にいる『アレ』が痺れを切らして、この建物ごと…などといった考えを起こせば、
買い物客や従業員も巻き込んで多くの死傷者が出ることになる可能性も低くない気がする。
何となくではあるが『アレ』がその気になれば、
ビルを瓦礫の山に変えることくらい雑作も無いことのように思えた。

 と、不意に男は背を向けていたガラス扉の外に異様な気配を感じた。
同時に辺りにいた人々が一斉に悲鳴を上げて走り出す。
おそるおそる振り向けばいつの間にか何か巨大なものが横たわって影を作り薄暗かった。
そしてそれが何なのかは、押し潰されるほどに強い威圧感を全身に浴びることで簡単に理解する事が出来た。
視線。ガラス一杯に広がりキョロキョロと動き回るその黒く澄んだものは恐らく『アレ』の瞳か。
「あぁ…」
と次の瞬間、柔らかい溜息まじりの声が窓ガラスを微かに震わせてフロア内に響き渡る。
辺りを見れば自分一人取り残された形で既に誰もいない。
(『また』…逃げ遅れた…か…)
これで二度目。結構機敏なほうだと自負していたのだが。
一体全体いつからこんなにどんくさくなってしまったのだろうか。
(やれやれ…ガキの頃から危険察知能力と逃げ足には自信があったつもりなんだがな…。
 これでも雷オヤジの大目玉回避率は悪ガキ仲間内でトップだったわけだし…)
そんなどうでもいいことを思い返し、思わず失笑してしまう。
今はそんなしょうもない懐古に浸っている場合ではないというのに。
本来ならば一刻も早く逃げるべき状況だったのに。
もしかするとあまりの事態に頭がまともに働いてないのかもしれない。
そして結果、こともあろうに『アレ』はたった今自分に気付いてしまったのだ。最悪だった。
「そこに誰か居るんですか?」
こちら…自分に向かって問いかけているのは火を見るよりも明らかだ。
何しろ周りには誰も見当たらないのだから。
(いない、いない、いない、いない、いない、ここには誰もいないぞ…!)
質問に対する答えを心の中で何度も何度も念じながら、
一刻も早く『アレ』の注意が他に向いてくれることを柱の影で願い続ける。しかしそれは届かない。
『ビキャリ、メキャリ…』
日常ではまず聞くことができないような、形容し難い鈍く不快な音が辺りに響く。
柱の影から恐る恐る覗けば、男の身の丈ほどありそうな幅と高さを持った肌色の壁が並んで二つ、
入り口付近の窓を鉄製の枠ごと押し倒し、轢き潰しながら店内へと侵入してくるところだった。
その迫力たるやこれまでに体験してきたどんな事柄とも比較のしようがなく、
ただ一語『恐怖』と表現するより他無い。
『アレ』が今何をしようとしているのかは分からないが、
少なくともその行動は『アレ』の意志によるものであり、
その目的が他ならぬ自分を対象としていることに間違いはない。
(頼むから、悪い夢ならいい加減覚めてくれよ…!)
最早入り口を直視することは叶わず、柱の影で息を潜めてじっとしていることしかできない。
と、突然生ぬるい突風が吹き荒れ、ありとあらゆるものが
フロアの奥に向かって舞い転がっていくのが男の目に映った。
商品…日用雑貨、インテリア、化粧品、衣服、傘、そしてそれを陳列していた木製の棚やショーケース、
今しがた破壊された窓ガラスも、へし折れた鉄の棒も、何もかも。
その猛烈な風の前では等しく、紙屑の如く、みんなまとめて吹き飛び、
あちこちで互いにぶつかったり床に叩き付けられたりしてはけたたましい音を立てる。
恐怖のあまりその柱を離れることができなかったのはある意味不幸中の幸いかもしれない。
もし柱の影から出ていたら、遮るものもなく、荒れ狂う暴風に煽られて、
彼もまたそれらと同じように軽々と吹き飛ばされていたことだろう。
打ち所によっては怪我では済まなかったかも知れない。
しかしだからとて喜びの気持ちなど全く湧いてはこない。
たとえ入り口を見まいと目を逸らしても、懸命に耳を塞いでみても、決して逃れることのできない現実。
一瞬の静寂の後、背中越しに地面をこするような耳障りな音と共に
何か巨大な質量を持ったものがこちらに向かって迫ってくるのが分かる。
それが何のかはわからない、確認する気力も起こらない。しかしじわじわと向かってきていることは確かだ。
ふと手近に鉄の棒切れが転がっているのが目に付く。
(……どうにもならないのなら、せめて最期に一矢…)
彼はそれが無意味であろうことを半ば理解しながらも、棒を手に取り強く握り締めていた。
ところが、いよいよそこまで気配が迫ったところで、
まるでその覚悟に肩透かしでも食らわすかのように、次の瞬間突然音がピタリと止んだ。
けれども気配がいなくなったわけではない。
近づいてきた巨大な何かは、確かに柱を挟んですぐそこにあり続けている。

 男は息を殺して暫く様子を窺っていたが、そいつに動く気配はなかった。
一体どうしたことだろう?彼は逡巡したものの、やがて意を決すると、
とうとう自分を奮い立たせる意も込めて、思い切って柱の影から大きく飛び出した。
そして目視する、やはり彼の思い描いていた通りあと3m位のところまでソレが迫っていたことを。
(指……?…手…なのか…これが…?)
外が見えないほどの幅で、そして床から天井までを完全に占拠してしまっている、化け物じみたその物体。
試しに自分の手を目の前に持って行ってアングルを変えたりしながら見比べてみると、
なるほど似ているような気がしないでもない。更に手にした鉄の棒ともソレをまじまじと見比べて溜息一つ。
(こりゃ…無理だな…ハハ…)
なんとなく自分のしていることが滑稽に思えてきた。
それにしても天井もつっかえて動けなくなったのだろうか。
だとしたら些か間抜けな話だ。…ちょっとつっついてみようか…。
「ひ、ひぁぁっ…」
そう思って近づこうとした刹那、彼の口から反射的に間抜けな悲鳴が漏れた。
手にした獲物をとり落としそうになるのを懸命にこらえて、なんとかそれを構え直すも、
足のほうは無意識のうちに後ずさりをしてついにはしりもちをつく。
止まったと思っていたソレが活動を突如として再開したのだ。
『ズ…ズズズ…』
『アレ』の手、恐らくは手の甲が天井とこすれて音を立てる。
視界全体に横たわり、途方もなく大きいものだから分かり辛いのだが、
どうやら再び前進してきているようである。
証拠に先程まで点灯していた天井の照明が、化物手の影の中に飲み込まれて、潰れていくのが確かに見えた。
「…う、うわあああああああっ!!」
いよいよ眼前に迫ってくる巨大な爪先に、固く目を瞑ると、覚悟を決めたのだった。

 結論から言うと彼は助かった。
もうすぐそこまできていたそれは、ある意味文字通りに彼の目と鼻の先で再び動きを止め、
そのまま暫く、何か考え事でもするかのように静止していた後、ゆっくりと帰っていったのだった。
「とりあえず一人でもいいから出てきてもらえないでしょうか?」
今再び外から聞こえてくる呼びかけの口調は決して高圧的なものではない。
それどころかどちらかと言えば懇願している風にも感じられた。
もしかすると『アレ』は危害を加える気などないのかもしれない。
だが、その途方も無い大きさや何気ない一挙手一投足の威力を嫌と言うほど見せつけられた今となっては、
その可能性を手放しに信じることはどうしても難しかった。
しかし、その一方で何故か分からないが『アレ』が
自分へのアプローチを寸でのところで取り止めたのもまた事実である。
諦めつつあるのだろうか?知らん振りをしてここに紛れ込んでいれば、まだ望みはあるのだろうか。
何だか事態が最悪を脱したように思えて、目の前が少しだけ明るくなったような気がした。
…と思っていたら次の瞬間デパートの入り口付近の地面で『ドン』という鈍い音が響き、外が暗くなった。
何が起こったかハッキリとは分からないがどうやら入り口が『アレ』によって封鎖されたようだ。
『諦めてくれるかもしれない』たった今彼が抱いたその希望的観測は一瞬にして崩れ去ったわけである。
『アレ』はどうあっても自分を逃がさないつもりらしい。状況はやっぱり好転しそうになかった。

 その頃になって漸くデパート館内全体に外の状況が正確に伝わり出した。
『とんでもなく巨大なメイド姿の少女が、今自分達の居る建物を覗き込んで何かを要求している』
どうやら八階家電売り場のテレビが臨時ニュースを流し始めたらしい。
デパートの店員達にもそれは伝わったのか、今では一変、
アナウンスは巨人の要求に該当する人間は一刻も早く屋上への階段前に現れるよう、
鬼気迫る勢いで訴えている。その言葉の端々には
『自分さえよければそれでいいのか?』とか『自分の行動一つに責任が取れないのか』とか、
何やらそんな非難めいた言葉が散りばめられているのも聞き取れてしまい、
「やれやれ…俺が悪いのか…?」
思わず彼は苦笑して一つ溜息をついた。『責任』などと言われても困る。
何しろ彼自身には何の落ち度も無い。
ただ交通法規にのっとり常識に従って極普通に車を走らせていたら、
突如『非常識』が出現して問答無用で自分の車を鉄板にしたのだ。
ついでに自分達が助かりたいがために化け物に他人を売ろうとしている彼等に
『自分さえよければ』などと言われるのは些か心外でもある。
とは言え、もし立場が逆であったならば自分も同じことをしたかもしれない。人間誰しも我が身が可愛い。
臨時ニュースで何を見たのかは知らないが、もしかすると相当切羽詰った状態になっているのかもしれない。
何故だか無性にテレビが見たくなってきた。
心持は『アレ』指先に対峙した時をピークに落ち着いてきて、不思議と穏やかなものだった。
もしかすると自身の中で諦めがついてしまったのかもしれない。
ついでに言えば、万が一に『自首』する気になった場合でも、
電化製品売り場からの方がここよりも遥かに屋上に近くて便利というものである。
それに入り口付近でこのまま突っ立っていても、たぶん良いことは何もなさそうだ。
潰された車の所有者であったことが誰かにバレてしまうかもしれないのだし。
彼がさっきの親子の顔を覚えていたように、彼自身が覚えられている可能性だって十分にあり得るのだ。
たとえどう転ぼうと絶望的なこんな状態でも、売り渡されるのだけは何となく癪(しゃく)だった。
(…ま、行ってみるかな)
結局彼はそう考えをまとめてフロアの奥へと歩き出すも、ふとあの親子が気になって足を止める。
辺りをざっと見回したものの二人の姿はもうどこにもなかった。
先の『アレ』の侵入からは巧いこと逃げおおせたようではあるが、はてさてトイレにでも隠れたのだろうか。
同じ境遇ゆえ若干は気にはなった。しかし、気にしだからとて彼が何かを出来るわけでは無かった。
あの親子を救えるわけではないし、かといって『アレ』に売るつもりもない。
勿論申し出るというのならばそれはそれで止めはしないし。要するにどうしようもないのだ、何もかも。
「ま…いいか…」
彼は力無く呟いて、安全装置のお陰でただの階段となってしまったエスカレーターをゆっくりと上り始めた。

 どの階も巨大なミキサーにでもかけられて混ぜ返されたかのように物の見事に散らかっている。
上に行くほど揺れは大きかったのかそれが酷くなっていった。
これで果たして無事なテレビがあるのだろうか。
彼の頭に一瞬そんな疑念すらかすめたが、どうやら幾つか生き残っているらしく、
テレビコーナーのあちこちで電源が点いており、その周りに大きな人だかりを作っていた。
その中でも一番人が少なさそうな一つを選び、かき分け押し分け前の方に歩み出てみる。
すると、大画面のテレビの中に長い黒髪の少女が座り込んでこの建物を覗き込んでいる映像が、
その顔と同じほぼ同じ高さの目線から映し出されているのが目に入った。
何処かかなり遠くの建物の屋上からズームや望遠レンズを駆使して映しているのだろうか。
こうして客観的に見せられると、改めてそのサイズの非常識さが浮き彫りになる。
そして同時にその可愛らしさ、可憐さも。
はっきり言って器量はいいほうだと思う。高校生くらいであろうか。
その顔立ちは『美しい』と言うよりは『愛らしい』と表現する方が合っているかもしれない。
何となくメイド服よりはセーラー服やブレザーのような学生服の方が似合いそうな印象を受ける。
ついでにこれは非常にどうでもいいことだが、胸の膨らみは結構大きめである。
いや勿論全体的に非常識に巨大なのだが。
何にしても、先程、車から逃げるときは下から、まるで蟻が人間を見上げるといった感じ、
尚且つ極めて間近から目の当たりにしたために恐怖しか湧かなかったのだが、
今こうしてその横顔を見ると、普通に優しそうな女の子である。
少なくとも恐ろしい化け物には全く見えない。
(…ま、謝ってくれるのならのこれまでのことは許してもいいかな。
 とりあえず『アレ』ではなく『彼女』と呼んでやることにしようか…)
ほんの少し憂いを帯びた、真剣な彼女の眼差しを見詰めながら、
彼はそんなことをぼんやりと考えたりしていた。
本当に一瞬の間だけだったが、彼はその体躯や力のことをすっかり忘れて、
彼女を普通の少女として意識し、見入ってしまっていたのである。

 その時不意に彼女の様子に変化があった。
テレビの画像は鮮明なものの、現場から相当距離があるのだろう。音声までは拾えていない。
しかしながら、この建物は正にその現場である。ちっとも喜ばしいことではないがしっかり声も届く。
テレビに映る彼女の口の動きに伴って、外から彼女の声がはっきりとき、
その言葉と同時にフロアのあちらこちらでざわめきが起こった。
そうして皆がテレビに食い入るように見詰める中、テレビの中の少女は立ち上がり始めた。
ゆっくりと片膝立ちになり、もう一方の足を踏みしめ、どんどん高く持ちあがっていく彼女の上半身。
その動きに合わせて外から聞こえる衣擦れや地響き、
それにスカートが巻き起こしているのであろう風の鳴る音が、
映像の効果音として寸分違うことなくぴったりのタイミングで聞こえてきて、
テレビの中の信じ難い状況が、現実の、それもすぐ側で起こっていることである、
ということを人々にはっきりと突きつける。悲鳴と恐怖が建物の中を伝染し徐々に満たしていく。
自分達の居る建物は立ち上がった彼女の膝までしか届いてはいなかった。


 そんな中の状況を知る筈もない美咲は立ち上がって考えを巡らせていた。
「車の所有者の方にどうしても用があるんです。だから是が非でも出て来て頂きます。
 それまでは絶対に諦めませんからね。…えーっと…もしかしたら手段だって選ばないかもしれませんよ?」
本気である。とはいえ、いざ力強くそんな思わせぶりなことを言ってみたものの、
実は具体的な方法など何一つ思いついてはなかったりする。
今彼女が立ったのは、少々気になる『穴』を封じておくために過ぎなかった。
そのために今しがた調達した自動車…先程蹴散らしてしまったもので
特に損傷が大きいと思われるものを三台選りすぐって、右の手の中に入れてある。
勿論人が乗っていないことは既に確認済みだった。
この世界で自分が何かを成そうとすれば、多少となりとも被害が出てしまう。
(…だからこれだって仕方のないこと…なのよね)
そう自分に言い聞かせてはみたものの、なんだかそれは結構ズルい言い訳のような気もする。
何にしてもそれはここにきて、彼女が初めて故意に行う破壊活動だった。
彼女は小さく心の中で謝ってから右手に持っていた自動車達に力を込める。
するとそれらは抵抗することなくゆっくりと軋み、ひしゃげ、へし合って簡単に一つの鉄の塊となった。
少々時間がかかったのはあくまでも潰し過ぎないように注意をしながら少しずつ力を加えたからに過ぎない。
胸の奥に小さな疼きを感じる。それは勿論罪悪感からくるものであったが、
同時に自分が揮う力の絶対さに対する優越感も僅かながらだが、密かに入り混じっていた。
それから彼女はもう片方の手で向こう脛ほどまであるスカートの裾を摘んで上げると、
そのまま左足を建物よりも高い位置に持ち上げる。
と、彼女はその状態でぴたりと一度動きを止め、少し大きめの声で注意を促した。
「あ、危険ですから外には絶対に出ないで下さいね。
 もし今駐車場にいる人が居ましたら速やかに建物の中に戻ってください。
 繰り返しますが、絶対に建物から外に出てはいけませんよ?絶対に、です」
何とも勝手な頼みをしているにも関わらず、
指図をするような物言いになってしまうことに些か抵抗を感じはしたが、
しかし誤って人の上に足を下ろしてしまったら、怪我どころでは絶対にすまない筈だ。
となれば、彼らの安全を考えてもここは強く言っておくべきだ。
(それはそれとして…)
それから彼女は少しだけ頬を赤らめて、
「それと…今から私が良いと言うまでは屋上にも誰も出てこないで下さい、男の人は特にです。
 約束ですよ?もし破る方が居ましたら…足を下ろす場所…間違えてしまうかもしれませんから…」
と少し声を低めて付け足しをした。その上で彼女はもう一度駐車場に誰も居ないことを確認した後、
左足をデパートの上を通過させて裏手にある買い物客専用駐車場へと慎重に踏み下ろした。
駐車場には買い物客の車が何台も止められている。
満車ではないにしろそれらを避けて足を下ろすほどスペースに余裕は無い。
出来るだけ車が無いところを選んだとはいえ何台かの車は彼女の足の下に消えた。
そうして彼女はデパートを跨いで立つという形をとると、
そのまま身を乗り出して大通りとは反対側の壁面を覗き込み、目的のものを探す。
非常時や店員の出入りに使われるであろう、小さな出入り口である。
実は先程から裏口から誰か出ていきはしないか、気が気ではなかったのだ。
美咲はそれを塞ぐべく右手に持っていた出来立ての鉄塊を扉の前に設置し、
「ふう…これでよしっと」
呟き小さく一つ頷いたのだった。


 その様子は勿論テレビを通じて建物内にも筒抜けであった。
特に巨大なメイドが高々と足を掲げた時には、フロア内のそこここで大きなどよめきが起こった。
まさかこの建物を踏み潰すつもりなのか、と。
しかしそれが分かったとから言って、どうにかすることができるわけでもなかった。
ただただ絶望感に苛まれながら固唾を飲んで、テレビ画面を見守ること、
無力な人々になせることはそれ以外に何一つ無かった。
しかし幸いにも、巨人が重々しい地響きと共に足を下ろした後も、彼らも建物も無事だった。
そして今、どうやら自分達の居るこの建物は上半分程が彼女のスカートにすっぽり包まれているらしい。
テレビを見ていた者の中の一人、即ち先程車を踏み潰された男は思わず笑ってしまった。
何故、彼女が今だけは屋上に出ることを禁じたのか納得いったから。
そしてその理由と言うのがあまりにも分かり易かったものだから。
(なるほど…そういうこと…)
もし今の状態で屋上に出て行ったならば、その眺めたるや結構壮観なのかもしれない。
何だか少しだけ、本当に少しだけだが『自首』したいような気分にも駆られてくる。
別に彼女のスカートの中を見たい、とかそういった邪ま(よこしま)な考えは
…まぁ正直全く無いわけではない。が、しかしそれ以上に彼が惹かれたのは彼女の人間臭さだった。
スケールこそ人外だが、その言動は見れば見るほどタダの女の子である、と思えるのだ。
つい先程までは彼女が何者か、何の目的があるのかなんてどうでもよく、
ただひたすら怯えていただけであったが、今は少しだけ興味が湧いてきた。
とは言え今車を三台ばかり片手で握って容易く鉄屑の団子にしたのもまた事実である。
テレビカメラも気を利かせたのだかなんだか知らないが、
握り潰す瞬間には彼女の右手をアップにして、その一部始終をしっかり見せてくれた。
しかも『瞬く間に潰されていく自動車三台』などとテロップを貼って、繰り返し何度も、
時にはスローで同じ映像を流してくれたものだから、お陰で車がじっくりと形を歪めて絡み合いながら
手の中に飲み込まれていくシーンが頭の中で忠実に再生できるほどしっかり焼きついてしまっている。
当然のことではあるが、とてもではないが気分のいい絵ではなかった。
そして、それはあくまでも彼女の力をもってすれば、男の命などその気持ち一つ、
それこそ指一本でどうにでもなってしまうということを示しているに他ならなかったのである。