■婦警とメイド

 さて、これで不安要素は無くなった。後は腰を据えて徹底的に説得してみるしかない。
何にしても建物を跨いだままだなんて何だか恥ずかしいし、とりあえず早く足を戻そう。
「あ、あれ?」
と、その時美咲は些か右の足元が騒がしいことに気が付いた。
建物の中の人達がこの隙に出てきてしまったのだろうか。
もしそうであるのならば何とも間抜けな話だ。何しろ美咲は確認が終わるまでは誰も逃がさない、
もとい誰も出ることが出来ないようにするという目的で、裏口を見つけてこの対策を施したのだ。
というのに、その最中に正面から堂々と出て行かれたのでは全くもって本末転倒と言うやつである。
焦る気持ちを抑え、足が決して動かないよう細心の注意を払いつつ、
美咲は建物を跨いだまま上半身だけを捻り右足の付近を見回し状況を確認する。
(ぁ…)
とりあえず杞憂だったらしい。そこに居たのは彼女が思っていたものとはまったく別のものだった。
車がざっと十数台…上から見ているので少々分かりづらいが、
どれもみな一様に白地に黒い模様の車体で赤色のライトをその天井に乗っけて点灯させている。
(これって…パトカー…?)
更に目を凝らすと紺色の服を着た人が多数、足元をちまちまと動き回っているのがわかった。
車達がパトカーということは彼らが警察官であることはまず間違いないだろう。
ちなみに彼女の世界にも警察は存在している。その仕事は非常に多岐に渡るが、
一言でまとめるのならば『市民の生活の安全を守ること』である。
ではここで疑問。彼らは一体何をしに出てきたのだろうか。
立った状態の視点からはまるで米粒のような警官達の様子を見守りながら、美咲は思案を巡らせる。
(建物の中に居る人々を救出する…ため…?)
まずい、それはまずい。勝手な願いであることは重々承知しているが、それでももう少しだけ待って欲しい。
終わったら必ず解放するから。そう頼んだら彼らは大人しく引き下がってくれるだろうか。
しかし今まで一人とて自分の話に対して聞く耳を持ってくれた人が居ただろうか。
今回もその可能性は十分ありうる。となれば最悪力ずくで撃退するしかない。美咲は憂鬱になる。
だが、どうやら彼らの目的は彼女の思ったものは異なっていたようだった。
彼らは建物には近づくことなく、編隊を組んで左右から美咲を包囲しているらしかった。
いや正確には彼女の右足を、か。
(わ…わたしが目的?)
少しだけパニックになる。そう、考えてみればこれまで彼女はそれ相応に色々なものを壊してきた。
踏み潰した車や信号機、解体したバスにデパートの一階のガラス、あとは——
とは言え、どれもこれも決して望んでやったことではない。
所謂(いわゆる)過失や不可抗力というやつなのだ、きっと。
(あ、でも…最後に握り潰したのはちょっとワザとぽかったかも…)
単に裏口を塞ぐ為というだけならば、もっと他に方法があった気もする。もう遅いが。
(…た、逮捕とかされちゃうのかなぁ…?)
それもそれで相当困る。今ここを離れるわけにはいかないし、
その後に関しても彼女には『重大な目的』が控えているのだ。
この世界のルールに反するのは大変申し訳ないことだと思うが、
しかしそれでも長期間に渡る裁判や服役(収容できる刑務所などあるはずないのだが)
なんかは絶対に御免こうむりたい。
とすれば、どちらにしても結局『力ずくで撃退』の線が濃厚になってくる。
良い方法を考える必要がある。課題は『いかにして彼らをやっつけるか』ではなくて、
『可能な限り優しく彼らを追い返すにはどうすればいいか』か。
何にしても、とりあえず今の体勢は結構疲れてきた。
絶対に動かすまいと変に力の入っている脹脛(ふくらはぎ)と、
足元を見るために強く捻り続けたままの腰が少々苦しい。
出来れば早急に足を下ろす場所を空けてもらいたい。
勿論美咲にとって警官隊を避けて左足を下ろすこともそう難しいことではなかった。
その場合パトカーと彼らを跨いで立つことになる。
簡単に言えば普通に立つよりも少々足を開けばいいだけである。
が、それには幾つも問題があった。第一に彼らが完全に死角に入ってしまうこと。大問題である。
見えないというのはとにかく恐ろしい。ふとした拍子に足を少し動かしただけで、
怪我人…下手すると死人すら出てしまう、そんな状況だけは何としても避けたいところである。
第二に美咲はこれから更なる説得に移るにあたり、建物の観察や入り口の封鎖などの便宜を考えて、
再びこの場で座り込むつもりでいたのである。ところがそんな状況にあっては、それも叶いそうに無い。
何となしに美咲は自分の尻と警官達がいる範囲を見比べてみたりした。
「………」
とりあえず左か右、どちらかの編隊をパトカーごとまとめて完全に覆い潰すくらいことは出来そうだ。
そういえば小尻美人なんて言葉もありましたっけ。なんだか少しだけ切なくなってくる。
そして、差し当たりで思いつく、最後にして最大の(?)問題。
先ほどデパートの中にいる人に対して一時的にだが絶対に屋上に出ないよう念を押したその理由が、
これにもそのまま当てはまっていた。


 遡ること一時間と十五分前。
突然入ってきた出動要請はあまりにも突拍子の無いものであり、誰もが一瞬耳を疑った。
もし入った通報が一件だけだったのならば確実にいたずらか妄言として片付けられたことだろう。
しかし同じ内容の通報が次から次へひっきりなしに続き、
そのどれもが鬼気迫っているものだったことから緊急出動要請が出たわけである。
とは言え出された方も相当対応に困った。
とりあえず現状斥候という形で巡回中のパトカーをその地点に向かわせることにした。
そして、突然始まったテレビの臨時ニュースと現場に着いたパトカーからの素っ頓狂な声の無線報告は
ちょうど同時に署に届いたのだった。署内全体は異様な緊張感に包まれて騒然となった。
急遽総動員体制で事態の打開する方針で決定される。建物全体が上を下への大騒ぎとなっている中、
一人の婦警、弥生(やよい)は、かからない携帯を手に唸るように呟いた。
「あんにゃろう…こんな日に限って非番だなんて絶対許せない…」
あの野郎。先輩に対してこんな言い草は本来良くないのだろうが、
これは悪意からではなく懇意から出る言葉に他ならない。
彼は入署した時から何かと世話になった人…気さくな人柄と面倒見のよさ、
そしていい加減な気質と適度な馬鹿さ(一応褒め言葉)が非常に親しみやすく、
当時『警察』という堅固なイメージに緊張して身動きの取れなくなっていた彼女の心をほぐし、
この組織の中でやっていく自信とやりがいを与えてくれた人だった。
「ダンナのことです?」
不意に後ろから飛んでくる質問。
「断じて違う!」
振り向きざまに思いっきり否定する。
仕事の相棒として認めているが、しかしそれ以上でもそれ以下でもない。
周りにも自分にもよくそう言い聞かせている…
筈なのにこうしてからかわれるのはしょっちゅうだ。それも最近ではこんな後輩にまでも。
「しょうがないっすよ、あの人だって別に狙って休みをとったわけじゃないでしょうし」
彼は軽く笑ってからそう続けた。しかし、その笑いも普段と比べると心無し力ないように思われる。
「電話、出ないんですか?」
「ええ…というより回線が混雑しているみたいで全く繋がらないの」
弥生は一つ溜息をついて頷く。
「まぁ、そうでしょうね…。どちらにしても一人や二人増えたって、この状況じゃ変わらないっすよ…。
 それともアレですか?一緒に居るだけで心強いとか?」
「だから、そんなんじゃないったらっ!…ただ、こんな非常事態だっていうのに
 あの人がのうのうと休みを満喫しているかと思うとちょっと腹が立っただけ!」
「…へぇ」
まだからかわれている…。
弥生はその話を打ち切る目的も兼ねて、努めて神妙な顔を作りながら視線を落とすと、
手にした一枚紙を見詰めて静かに息を吐いた。
「それにしても…どうしたものかしらね…こんなの…」
実際弥生が心底感じていることだった。

 ◆対象に関する考察
  ・対象は人に酷似した巨大な生物である。
  ・対象は駅前大通り百貨店付近に出現、現在もその地点に留滞している。
 ◆対策
  ・人員を二つに分割し、左右より挟撃の態勢をとる。
  ・前線を車両と機動部隊員を用いてバリケードを築き、包囲する。
  ・人と酷似していることより、指揮官は対象への説得を一度試みる。
  ・但し説得は失敗することを前提とし、各員指揮官の合図を以って速やかに発砲、
   対象を制圧することができるよう心がける。場合によっては射殺することもよしとする。

 ※尚、万一不測の事態には各自で適宜対応するべし。
 ※本作戦は本署総動員にて実行されるものである。

 たった今配られたばかりの明らかにやっつけの作戦書である。
その弥生の言葉に呼応して後輩もまた小さく頷き、同意して言った。
「ですよね。やっぱり先輩もそう思いますか」
それから彼は深刻な面持ちこう続けた。
「誰が考えたのか知りませんが、こんな作戦、絶対失敗するに決まっていますよね。
 先輩はテレビ見ました?相手はビルのような…いや、その辺のビルなんかよりも遥かに大きな怪物です。
 僕の目算では200mはあると思います。200mですよ?どんな武装や戦闘力があるかはまだ分かりませんが、
 少なくともこんなちゃちな拳銃でどうこうできるなんて僕にはとても思えません。
 本来ならこれは警察ではなく軍部の役割じゃないですか。まぁじきに動き出すとは思いますけどね。
 でも先に警察が、しかも直接現地に赴くことになるなんて…。
 これじゃまるで軍部に情報提供をするための犠牲みたいじゃないですか。
 僕達警察官は確かに市民の安全を守るのが責務ですけれど、しかしその前に一人の人間です。
 それなのにこんないい加減で無謀な作戦で無駄死にを強いられるなんて、あんまりですよ!ね?先輩?」
「ぇ…?え、ええ、そうね。そうよね」
憤慨した様子で早口で一気に捲くし立てた後、ふいに同意を求めてきた後輩に、
慌てて弥生は真剣な面持ちで頷く。
しかし本当のところ、弥生は彼が言ったこととは全く違うところに問題を見ていたのだった。
この作戦が完全に対象を人ではないものとしたやり方であること、
彼女はそこが気にかかって仕方なかったのである。
相手が動物、特にそれが猛獣や害獣である場合、人間はそれらを殺害することを厭(いと)わない。
動物には誠に勝手な話だとは思う、申し訳ないとも思う。しかし人間は特別なのだ。
人間に害をなす人間に以外の生命に対して生殺与奪の権利を持っている…ことになっている。
その一方でどんなに凶悪犯であっても相手が人であるのならば、やむをえない場合を除き、
基本的に逮捕…即ち生きたままの捕獲を目指す。では今回はどちらのケースに当てはまるのだろう。
果たしてこんな対処の仕方で本当にいいのだろうか。何だか『可哀想』な気がしてならない。
こんなことを考えてしまうのは、彼女もまた先ほどニュースで
件(くだん)の『化け物』の姿を見たからなのかもしれない。
弥生にはそれが可愛いらしい娘だと極自然に思えた。容姿も勿論そうなのだが、
何というか、こう、『素直で優しくていいコであるに違いない』
と言う印象を受けずにはいられなかったのである。
理由は簡単だった。一人っ子である弥生が実は高校時代に羨み、欲しっていた妹の存在。
奇しくもテレビに映しだされたその巨人の表情や雰囲気は、
当時弥生の無い物ねだりが生み出した『理想の妹像』をほぼそのまま形にしたような感じだったのである。
(…あともうちょっと胸が小振りなら完璧よね)
流石に姉の自分よりもスタイルが良いというのは少々いただけない。
と、そこまで考えて弥生は自分の危機感の無さに思わず閉口せざるをえなかった。
こんなことを口にでもしたら一体どんな顔をさせるだろう。
あきれ果てられるだろうか、怒られるだろうか、それとも馬鹿にされるだろうか。
「僕達、全員二階級特進…ですかね…」
後輩が沈鬱な表情でぽつりとそう呟く。
そうだ、相手は座っていても尚百貨店を見下ろすことが可能なほどの超巨大生物なのだ。
脅威だ、化け物だ。彼女が勝手に想像したイメージ通りの性格である保障なんてどこにもない。
むしろ残忍で凶暴な人食い巨人だったりするかもしれない。気を引き締めなければ、排除しなければ。
しかし頭ではそう思い込んでみたものの、どうしてもそれを実感することはこの時の弥生にはできなかった。

 しかし今、彼女は自らのおめでたい発想を心底悔いていた。
200m…ただ数字で聞くのと実際に目の当たりにするのとでは、こうも存在感が違うのか。
可愛らしい?妹にしたい?とてもではないがそんな悠長なことを考える気にはなれそうもなかった。
いつも人通りに満ち溢れた駅前は、当然ながら今日はひっそりと静まり返って動くものはない。
遠目からそれを確認した時には、まだ余裕があった。多少煽る様な視点で見上げたメイド服の愛らしい巨人。
出動前、テレビの中で座っていた筈の巨大な少女は、何を思ったか今は立ち上がっており、
建物を軽々と跨ぎながらも、何を思ってか真剣な表情を作って建物の裏側を覗きこんでいた。
その仕草というか表情は、やはりどこか愛嬌がある、弥生は素直にそう思った。
が、いざこうしてその足元に(それでも30m程度の距離は開けているはず)着いてみると、
その途方も無い大きさゆえに、もう巨人が何をしているのかは全く分からなかった。
とりあえずまだこちらには気付いていないのか、何かをしてくる気配は無かったが、
その圧倒的な巨躯がそこに聳え立っている、その事実だけで、
弥生は言い知れぬ恐怖と切迫感を感じずにはいられなかった。
早速当初の作戦通りに速やかに展開する警官達。弥生もまたそれに倣ってすぐさま行動を開始する。
壁代わりに止めた車両に等身大の盾を持った機動部隊がその隙間を埋めて前線でバリケードを作る。
後ろから残りの署員達が取り囲んで一斉に拳銃を構える。
完全な総動員…それ故に本来ならば前線に立つことなどないはずの経理課の女の子まで駆り出されていた。
気の毒に顔色を真っ青にし、手はがくがくと震えている。
もっともどんなに場数を踏んだ刑事であっても、平常心など保てる状況ではないのだが。
弥生もまた同じく銃口の狙いを定めながら、つきつけられた現実を半ば放心状態で見据えていた。
目の前でアスファルトに沈み込んでいる漆黒の塊は、優にそこいらのアパートほどの大きさがあり、
そこから視界を上げれば、そそり立つ純白の巨柱とそれを覆う濃紺のカーテンが目に入る。
見回せばそこら中のアスファルトがひび割れて、大きく陥没、或いは隆起しており、
辛うじて何だったか分かるものから全く原型を留めていないものまで、
大小様々の残骸らしき物体がそこここに転がっている。巨人の仕業であることは間違いないだろう。
しかし、そんな蹂躙されてぐちゃぐちゃに乱れている周囲の状況とは裏腹に、
傷一つ無く、まるで下ろしたてのような光沢を放つ黒靴と清潔感溢れる真っ白のソックス。
それが巨人の絶大さ、強大さをどうしようもなく引き立たせているようにも思えた。
そういえば巨人の足の向こう側には挟み撃ちにするべく仲間が同様に部隊を作っているはずなのだが、
視界は完全に遮られて見ることは叶わない。大きすぎる的。
弥生はどちらかといえば射撃が苦手なほうだったが、これなら外す心配は全くなさそうだった。
その代わりに(と言うのもおかしな話だが)弾丸が通じるかという問題に関してはかなり絶望的だが。
その時、ふいに周囲の空気が変わった。色めき立つ仲間達。
つられる形で弥生もまた遥か上空、ほぼ真上を見る具合にゆっくりと視界を持ち上げていく。
「…っ!!」
刹那その大きな二つの瞳が弥生の視線とぶつかった。
一瞬まるで自分自身だけが見られているような感覚に陥る。全身が緊張で強張り、口の中が渇く。
(そんなこと…あるはずが無い…!)
自らその錯覚を打ち消して自分に言い聞かせる弥生。
その巨大さゆえ視界が広く、結果まるで自分が見られていたように錯覚しただけだ。きっとそうに違いない。
巨人にとっては自分など足元に群がる数多の小さな人間の一人に過ぎないのだ。
特別な感情など抱きはしないに決まっている。いや、そもそも人間と思ってくれているのだろうか。
取るに足らないちっぽけなムシケラ程度にしか思われていないのではなかろうか。
何故ならたった今弥生自身もまたその威圧感に恐怖した。人からはかけ離れたものを感じた。
だからこそ拳銃を向けた。そして今も向けている。
それでも弥生は目を逸らすことが出来ずに、弥生は吸い込まれそうな漆黒の瞳に見入っていた。
心の中には迷いが燻り続けている。
(でも…でも、本当に…?)
こうしてその巨大さには圧倒されたものの、
それが巨人の性質をそのまま示しているとは、どうしても思えない。
目は口ほどに物を言うとよく言ったものだが、少なくともその瞳には敵意はない…気がする。
どちらかと言えば困惑だろうか。人間なのか怪物なのか、割り切れない弥生。
勿論作戦の中止など進言できるはずもない。
そんなに偉くはないし、巨人が敵ではないと言える確信も根拠もありはしない。しかし…それでも——
おもむろに弥生の肩から力が抜けた。手は下に垂れ、銃口は地面を向く。
巨人は暫く視線をこちらに留めていたが、ふいにそれを外すと今度は足の向こう側を覗き込んだ。
同時に向こう側の部隊から包囲が完了した旨の無線が指揮官である署長の元に届いたのだった。


 ハンドマイクを通して無駄に拡大された呼びかけが辺りに響く。
勿論それは美咲の耳にも痛いほどしっかりと届いた…が、内容のほうは今ひとつ分からなかった。
言語自体が理解不能だった、というわけではない。
その声がしょっちゅう聞き苦しく裏返る上に、『キーン』と言う耳障りな音が
何度と無く入っていたからである。とりあえず端々で聞き取れた単語はといえば、
『お前は』『包囲』『抵抗』『無駄』『降服』といったところか。
いきなりの『お前』呼ばわりにはさすがの美咲もむっとした。
しかもその口調からは高圧的な雰囲気と露骨な敵意が感じ取られる。
しかし美咲のほうはと言えば、彼らに対して害意など決して持ってはいなかった。
それなのに呼びかけの内容もろくに確認できないでいるうちに、一斉に発砲が始まった。
左足を囲んで、左右あちらこちらから乾いた音が連続で響く。
「わわ…!…あ、あの…ちょっと…?」
慌てて呼びかける美咲。別に痛くはなかった。ちっとも痛くはないが、しかし拳銃が相手を傷つけるため、
或いは殺すために用いられる道具であることを知っている以上、攻撃されていることは容易に理解出来た。
当然ながらいい気はしない。美咲自身は彼らを傷つけないよう細心の注意を払ってきたつもりだ。
それなのに対する彼らの態度はどうだろう。銃声は止まない。
「あのっ!!」
思わず出てしまった声はかなり大きく、美咲はしまったと思った。
同時に銃撃はぴたりと止み、耳を抑えてうずくまる者や放心状態になって呆然と見上げる者、
婦警の中には驚いたのか泣き出してしまった者なども見て取れる。
途端に何だか申し訳ない気持ちになってくる美咲だったが、しかし彼女としてもいきなり撃たれたのだ。
多少文句を言うくらいはしてもいいだろう。流石に左右両方を同時に見ることは叶わないので、
マイクを使って呼びかけてきた警官の辺りを軽く睨み付けて言う。
「酷いです、いきなり何をするんですか」
とは言え徐々にではあるが自らの力を自覚し始めてきた美咲である。
相手の思惑はどうあれ、結果としてこちらは全くの無傷、何の害も被ってはいないのだ。
(あんまり強く責めたりしたら、やっぱり可哀想だよね…)
しかし、頭でそうは思っていても、ついつい口調はトゲのあるものになってしまう。
基本的におおらかな気質を持つ美咲だったが今は車の一件があって精神的に少々参っていた。

「…これからわたしは足をこちらの通りに戻します」
暫く警官達と無言で見詰めていた美咲は、低めの声でそうおもむろに伝えた。
「…!?」
美咲の醸し出す不穏な気配が彼らに動揺を与えているのが明らかに分かる。
しかし美咲はそれに対してあまり気遣うことなく、
独り言のように、しかし彼らにしっかり聞こえるように続ける。
「んー…でも、どこに下ろそうかなぁ…足…」
少しだけ考える風をして見せる美咲。と、そこで思い出したように足元に向かって平然と言ってやる。
「あ…もし踏んづけちゃったらごめんなさい。
 でも、たぶんわざとじゃないですから。…許してくれますよね…?」
撃たれたと言う大義名分もあって、少々乱暴な発言も比較的自然に口をついて出てくる。
勿論それが彼らを退かすための方便であり、本気でそのようなことをするつもりなどさらさらないのは
言うまでもないことだったが、その一方で彼女の中に、
少々脅かすという形で仕返しをしてやろうという気持ちが働いていないわけでもなかった。
「それにですね、きっと踏まれるようなところに居る方が悪いんです。
 そう思いませんか?そう思いますよね?」
美咲は自分の一言一言が警官達に伝わり、
彼らの表情を動揺から恐怖、恐怖から絶望へと変化させていくのが見て取れた。
これだけやればもう十分か。
美咲は少しばかりであるが、これまでよりも声の調子を軽くして言い聞かすように告げる。
「じゃ、今から五つだけ数えます。だからその間に出来るだけ離れた方がいいと思いますよ。
 わたしもわざわざ追いかけてまでどうこうするつもりはありませんし。
 いいですね?五つだけですよ?それ以上は待ちませんからね?」
数を数える必要は無かった。
一瞬の間があり、警官達は文字通り蜘蛛の子を散らすように方々に逃げ去っていった。
「ふぅ…」
それを見送って美咲は一つ息をつく。やや乱暴なやり方になってしまったが、
その辺は一応彼らにも非があったということで勘弁してもらおう。
何にしても、これでやっと美咲の望むとおり、足元には何もなくなっ………………てはいなかった…。
「あ、あ、帰るならちゃんとパトカーを退かしていってくださいよぉ」
一転して声色も情けなく呼びかける美咲。しかし彼女の懇願に聞く耳を持つものなど誰も居はしなかった。


 狂ったように鳴り続ける銃声と立ち込める硝煙の中で、弥生だけはとうとう引き金を引くことはなかった。
結局総攻撃は銃声を遥かに凌駕する音量の澄んだ声の一喝によってあっさり一蹴された。
ターゲットは倒れなかった。その気配すら見せなかった。
同じ人間が相手ならば、絶対的な切り札にもなりうる凶器もこの人外の巨大メイドの前では全くの無力。
やはり後輩の目算は正しかったということか。瞬間的な大声量をまともに受けて、
くらくらする頭で弥生はつい先程署内でした会話の内容をぼんたりと思い返す。
やがて晴れた硝煙の向こうに先程と変わらぬ圧倒的な姿が現れた。
いや、その表情は先程とは明らかに異なる、憤然としたものになっていた。
「酷いです、いきなり何をするんですか」
その抗議に答える者はいない。
その雰囲気に圧されて言葉を発することができる者が一人もいなかったというべきか。
先程までスピーカーを手に騒音をギャンギャン吐き出していた作戦指揮官殿は、
すっかり腰を抜かしてしまったらしく、今や完全にへたり込んで足腰が立たないでいる。
しかし巨人はそんな警官隊の状況を知ってか知らずか、
今度は声の調子を低め、抑揚も小さく更に言葉を続けてきた。
『撃たれた報復として踏み潰す』と。
それは『人の言葉』による『人の理屈』それも至極当たり前で分かり易いものだった。
ここにきて弥生はこれまで自分の抱いてきた迷い、思いを確信していた。
後輩の言うことも正しかったが、自分の考えもまた誤りではなかった。
この巨人…彼女は人の心を持った紛れもない『少女』だったのだ。
今彼女が自分達に向けている怒の感情は、この攻撃によって痛みや怪我を負ったからなどではなく、
いきなり撃たれたという理不尽な事実に対してのものであるに違いない。
もし、もっと違った方法で、彼女を人として扱って接していれば、
或いはこんなことにならなかったもしれない。
当然巨人の言葉の意図するところは弥生を始め、その言葉を向けられた全ての者に理解することが出来た。
明らかに絶体絶命。しかしそこにいる誰もが動こうともしなかった。
蛇に睨まれた蛙と言うのはこのような気分なのだろうか。足が竦みあがってまるで動いてくれない。
もっとも単純に体躯の差だけで考えるのならば、とても蛇と蛙どころの話ではないわけだが。
(もうダメだ…殺される…!)
ところが、誰もが観念した次の瞬間巨人の声色は柔らかいものになった。
それは本当に僅かな変化だったが、絶望の中にあった警官達は、
その差し込んだ微かな希望の光を敏感に感じ取る。一瞬だけ顔を見合わせる一同。
次の瞬間、命令無しの総員撤退が速やかになされたのだった。一人の婦人警官を除いて——。

 弥生は逃げなかった。決して動けなかったわけではない。彼女の意志であえて留まることを選んだのだ。
『五秒以内にここから離れるならば助ける』という折角の巨人の提言を無下にする形をとってまで。
理由は大きく二つあった。
確かに巨人は口では『許す』と言ってくれた。勿論弥生だってその言葉を信じたい。
しかし警官隊が巨人に対して与えてしまった、決して小さくはない不快感。
それを考えると、弥生にはどうにも巨人の言葉をそのまま真に受けることが出来なかったのである。
そして、もし彼女が心の内で既に『自分達』をどうにかすると決めてしまっているのであれば、
たとえどこに逃げたとしても、どうにもならないように思われた。
それならば、いっそのことこの場に残り、彼女の真意を確かめてみよう。
それで、もし仮に弥生の恐れた通りの事態がそこにあるのならば、説得…いや嘆願してみよう。
それが『自分達警官達が仕出かしてしまった事』へのせめてもの『償い』であると彼女は考えていた。
それからもう一つの理由。こちらは非常に個人的な弥生自身の心の問題であり、
彼女のポリシーに関わる事とでも言うべきものであろうか。
このような逼迫した状況で何を悠長な、と笑われてしまうかもしれないが、
たとえ巨人が本当に自分達を許すつもりであったとしても、いや、むしろ許してくれるのならば尚のこと、
あれだけのことをしておきながら一言も謝ることなくこの場を去るなど、
弥生はどうしてもしたくなかったのである。
ついに巨人が弥生に気付く。先程の『それらしい感覚』とは全く異なる、
明確に自分だけに向けられた巨大な注目。覚悟は出来ているとは言え、恐怖が無いと言えば勿論嘘になる。
しかしそれでもやらなければならない。もう後戻りは出来ない。
弥生はこれから伝えるべき言葉を慎重に頭の中で組み立てていった。


「はれ…?」
 先程よりは閑散とした足元を見直して気付く美咲。残ったのはどうやらパトカーだけではないようだ。
婦警が一人、逃げることなく未だにその場に留まっている。
(あ、この人…!)
美咲はその顔を見て少々驚く。
しかし、あえてそれを顔に出すことはせず、淡々とした調子で問いかけてみた。
「あなたは逃げないんですか?」
「……」
「…5つ、数えちゃいますよ?」
「………」
「………私の言うこと、わかりますか?」
「…………」
もしかして恐怖のあまり一歩も動けなくなってしまったのだろうか、一瞬そのような心配が頭を過ぎるも、
視線は真っ直ぐに自分へと向けられ、そこからは何かしら強い意志のようなものを感じることができた。
その様子から見てもどうやら前後不覚に陥ってしまったと言うわけではないらしい。
美咲は心の中で小さく安堵の溜息をつく。
しかしどちらにしても離れてもらわなければ埒が明かないことに変わりはない。
「あの…」
「………何で…?…あんなことされたのに…いいの…?」
美咲がもう一度注意を促そうと口を開きかけたその時、
それまで無言でじっと見上げきていたその婦警がおもむろにぽつりと問うてきた。
「え?あ、ええ…」
突然話しかけられたことに少しだけ戸惑いつつも、美咲はとりあえずそれだけ答える。
思い返せばやはり腹は立つものの、だからとてこれ以上責めても仕方のないことだった。
それに元々美咲自身としては足元を空けるということが何よりも重要であり、
それが叶った今は警官達にされた仕打ちよりも、建物の中に居ると思われる車所有者の安否確認の方が、
ずっと大切であり、優先すべきことだったのである。
「………」
再び間があった。婦警は次にいう言葉を決めあぐねているかのように、
何かを言おうとしたり、止めたりを繰り返している。
その様子を眺めながら、美咲もまた思案に暮れていた。即ち、彼女に退いてもらう方法。
なかなか良いアイディアは浮かばない。いっそのこともう少しだけ脅かしてみようか、
そんなことを考えてもみたが、『この人』が相手ではそれも些か気が引けた。
「…ごめんなさいね」
と、次にその婦警の口から出たのは謝罪の言葉だった。
「平気です、別に痛くは無かったですから」
美咲はその言葉に対しても短く言い放つように応える。
「……やっぱり…最低だね…、いきなり撃っておいて、敵わなかったからって謝るなんて。
 …そんなの…勝手すぎる…もんね…」
と、俄かに婦警の表情が暗くなり、苦しそうに歪んだ。
視線は美咲から外れて少し下を向き、その声は心なしか震えているように思われる。
「ぇ…?あ…そうじゃなくって…」
美咲はそれを見て慌てて取り繕おうとした。確かに美咲は彼女に対して素っ気無く接してしまった。
しかし、それは決して責める気持ちからではなく、ひとえに『一刻も早くここから離れてもらいたい』
という強い願望がそのまま出てしまった結果だったのである。
が、どうやらそれを『怒っている』と勘違いされてしまったらしい。配慮が足りな過ぎた。
「でも、でもね!…あんな酷いことを一方的にしておいて、
 ムシのいい頼みなのは百も承知なんだけど…皆を許してあげて欲しいの」
美咲の弁解を待つことなく彼女は再び顔を上げ、懇願するように続ける。
「…あ、えっと…皆さん…というと…あなたたち警察の方々のことですよね?」
「ええ、そっちも出来れば…なんだけどね…。
 …私たちはある意味自業自得だから、何をされても仕方ないかなって…。
 でも、そうじゃなくて関係のない他の一般の人達のこと」
言われた美咲はこれまでのことを思い返してみる。
とりあえず記憶にはないのだが、警官以外の誰かに何かされただろうか。
呼びかけに応じてくれないこと、とか?
「何をされても…って…。特に…何もするつもりは…ありませんけど…?」
警官達にも、無論それ以外の人々にも、である。
しかし、美咲のその言葉が聞こえていなかったのか、或いは信じてもらえなかったのか。
尚も婦警はすがるように訴えかけてくる。
「確かに私達はあなたを攻撃してしまったけど、
 だからって人間全部があなたに敵意を持っているわけじゃないと思うの。
 だから…その…あなたの目的が何なのかは分からないけど、どうか無益な破壊とか虐殺は…」
そこまで話を聞いて美咲は相手の言わんとすることをはっきりと理解した。
つまり、今のことで怒った美咲が『この世界の人間全体』に対し何かするのではないか、
どうやら彼女はそれを危惧しているようなのである。
美咲はそのことを把握し、納得すると、微かに眉をしかめて説明する。
「ああ…あのですね…わたしが…ここにきたのはとっても大事な用事があるからなんです…。
 でも、とりあえず今はちょっと立て込んでおりまして…」
そんな目で見られてしまったことに美咲は少なからず不満を抱いた。
しかし、つまるところは、彼女が小さな警官達に対して
それだけの大きな恐怖を与え、追い込んでしまったということ。
それでもこの小さな婦警は懸命に、それこそ決死の覚悟で自分と対話するために残ったのだ。
それを思うとあまり彼女を責める気持ちにはなれなかった。
「……やっぱり怖かった…ですよね?こちらこそ本当にごめんなさい…。
 わたしもちょっとやりすぎました…」
いや、本当のところ美咲は最初からその婦警に対して悪い感情など持ってはいなかったのだ。
と言うのも、気のせいかもしれないが包囲された際に、最初に彼女と目が合ったように思えた。
そのせいか撃たれている最中も自ずとそちらの方に目が行き、
そして、その婦警が自分に対して最初から最後まで攻撃してこなかったことも知っていたのである。
故に彼女に対して与えてしまった恐怖心には、罪悪感を抱かずにはいられない。
「とにかく…ひとまず離れてもらえませんか?」
美咲は一呼吸置いてから、今度はきちんと感情を込めて、可能な限り優しく諭す様に話しかけてみた。
続けて、彼女の真実の心積もりをそのまま言葉にする。
「ね?お願いします…あなた心配するようなことはきっとしませんから」
婦警はその眼差しは真っ直ぐに美咲へと向け、そして探るように暫くの間見据え続けていた。
(やっぱり…信じてもらえないのかな…)
辺りを長い沈黙が支配し、美咲がそう憂いかけたその時、おもむろに婦警が首を縦に振った。
心なしかその相好は先程と比べて柔らかいものへと変わっている。
その様子を見た美咲もまた、つられるように表情を少しだけ明るくする。
そして婦警はくるりと美咲に背を向けると、自身の言に従ってその場を離れようとする。
「あ…そうだ」
と、その背中に声をかける美咲。
「あの、ありがとうございました」
振り返って再び美咲を見上げる婦警。その顔には戸惑いと疑問が浮かんでいた。
恐らく突然の礼の言葉に対するものだろう。
「えっと、撃たないで頂いて。それと、話をきいて…信じて下さって。…嬉しかったです」
「…!」
それを聞いた婦警は少しの間非常に驚いた様子で美咲の顔を見上げていたが、
すぐに『大したことではない』とでも言うかのように軽く笑って手を上げると、
小走りに足元を離れていったのだった。