■始契

— サイド岬 —

「…で、その課題内容が『異世界で勉強してくる』ってことなんだな?」
 その巨大さとあまりにアンバランスな彼女の事情に男は呆れ半分、少々脱力した声で再確認をする。
「はい、そうです。あの、ところで…」
美咲は応えてからおずおずと切り出した。
「うん?」
「本当に協力して頂けるのでしょうか?」
「あ?ああ、俺に出来ることがあれば、だが」
「あります!是非お願いします!」
美咲は熱のこもった口調で間髪入れずにそう言うと、そこで少し言葉に詰まって尋ねてくる。
「……っと…えーと…それでは…とりあえずお名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
「………岬…という」
彼…岬は少しだけ間をおいてから若干複雑な面持ちをして短く応えた。
「ミサキ…さん?…私と…同じ…?」
「ああ、そうだ。まぁ俺の場合は苗字だけど、な」
「…苗…字…!?」
対して美咲は驚いたような顔をした。
「苗字…って…言いますと…」
そういえば先程名を問うた際、彼女は『美咲』としか答えなかった。
もしかして彼女の世界には『苗字』という概念が無いのだろうか。訝り(いぶかり)つつ説明する。
「姓…要は家の名前ってところなんだが…それがどうかしたのか?」
「わ、わかってますよ、それくらい。でも、その…初対面なのに…いいんですか?」
「いいって…何がだ?」
「苗字ですよ」
「…だから、何がまずいんだ?…そんなに驚くことじゃないぞ、この世界では。
 というかむしろ、この国だと名前よりも苗字で名乗る方が一般的なくらいだ」
「あ、そうなんですか…」
それを聞いて心なしか美咲の声のトーンが沈んだようだった。
「わたし達は…『特別な相手や状況』にしか家名を用いないものでして…。
 例えば婚約者とか…式典の時…とか」
聞けば彼女の国では家名は非常に尊厳あるものとされており、
おいそれと口にしてはいけないという風潮があるらしい。
ちょっとしたカルチャーショックか。
「む…まぁ…岬と呼ばれ慣れているんでな。岬でいい」
ちなみに岬は岬で、極力フルネームを明かすまいとする傾向があった。
もっともこちらは酷く個人的な理由だったが。それを聞いた美咲は難しい顔をして少しだけ唸る。
が、すぐに表情を元に戻し、頷いて言った。
「んー…わかりました。ちょっと抵抗はありますけれども…ひとまずそうすることにします。
 …まぁどうせすぐに——…」
「ん?ひとまず…?すぐに…?」
「ぇ?あ、いえいえ、何でもありませんよ、何でも…」
また何か誤魔化した。岬は直感する。余りに分かり易い。
しかしそんな彼の内心など気付くはずもなく、美咲は話を進めていく。
「では早速ですけれども…岬さん、とりあえず、こちらに来て頂けますか?」
「…?こうか…?」
「もうちょっと。出来れば建物の縁(へり)までお願いします。…そう、そんな感じですね。
 それから左手の甲を上に向けて掲げて、可能な限り斜め前にお願いします。
 …あ、顔は上げて頂かなくても構いません。
 正面か少し下にでも向けていて下さい。あ、あと…出来れば目を閉じて頂きたいのですが…」
随分と注文が多いものである。ところでこの屋上、元々日常的に誰かが出てくるようには設計されていない。
したがって当然柵など存在してはいないわけで、
「…落ちそうで怖いんだがな?」
一度は言われるままに軽く俯き目を閉じようとした岬だったが、再び彼女の顔を見上げやんわりと抗議する。
「あ、す、すみません。すぐ下に手を添えますので、心配なさらないで下さい」
と、少々慌てた声と同時にちょっとした公園程のサイズがありそうな、
広大な掌が建物の壁面へと横付けされた。
(…すぐ下、ね…)
彼女の感覚では『すぐ』なのだろうが、岬からすればそうでもない。優に2m程度の落差はあるだろうか。
とは言え、この高さなら落ちても大事に至るということは無いだろうし、
何より余計なことを言って新たに厄介ごとを引き起こされても敵わない。
と言うのも本人が気ついているかどうかは定かでないが、押し当てられた彼女の手は、
壁を凹ませて、若干建物にめり込んでいるのだ。恐らく隙間を作らぬよう気を遣ってくれているのだろうが、
しかし、本当に一挙手一投足で尽くその力を見せつけてくれるもので。
とにかく自分が足を踏み外さないよう気をつければいいだけのことなのだから。
「これでいいか?」
「…はい」
と一度は答えた美咲だったが、すぐにおずおずと言ってくる。
「…まぁ…えーと…その…もうちょっと左手、上がりませんか?」
「…無茶言うな。一杯一杯だ。一応軽く背伸びしているんだぞ、これでも…」
「そ、そうですか、それじゃあいいです。そのまま軽く下を向いて、動かないで下さいね」
彼女に促される形で再び下を向く岬。
その視界の片隅に最後に映ったのは、大きく深呼吸を一つし、
これまでになく真剣な眼差しをこちらへと向ける美咲。
そして彼が視界を完全に閉ざさすと同時に、彼女はおもむろに『歌』のようなモノを歌い始めた。

 『ショウヨウ カミチカ ノ ミサキ 

   ササゲン ワガク フサラン ワガシン
   タクサン ワガコウ ユダネン ワガライ
   ツネ イカドキモ ワレ ミマシト トモニ 
   ツネ イカドキモ ワレ ミマシノ ユキ ツムガン
   ミマシノ ケイヲ ワガ ヨロコビト ミマシノ アイヲ ワガ ウレイト
   ミイシノ ママニ ワレハ アユミテ ミココロニ ソイテ ワレハ イトナミ
   スベテヲ モッテ シンジ アイシ ウヤマイ イツクシミ 
   ソシテ ツクスト ワレ イマ ココニ キセイスモノナリ 

                                    リョウ』

 声はそれまでのただ愛らしいだけのものとは異なって麗しく澄み渡り、
朗々と響き、それでいて優しく、どこか神秘的な雰囲気を纏った不思議なものであった。
その『歌』が済むと瞼(まぶた)越しに辺りが暗くなるのが分かった。同時に漂う柔らかい柑橘系の香り。
指示された体勢を維持するように心がけながらも薄目を開けて状況を確認してみると、
確かに何かが覆いかぶさり包む様に彼の視界を全方向から遮っていた。
こっそりと首だけを右に左に動かして更に観察してみる。
周囲には麗らかな漆黒の滝がカーテンのように幾総(いくふさ)も垂れており、
若干の後、岬はそれが髪であることを理解した。とするとこのオレンジの香りはシャンプーだろうか。
斜め上、わりとすぐ近くに迫ってきている肌色のそれは顔の一部、恐らくは顎辺りだと思われる。
目的は定かではないものの、どうやら彼女は覗き込む様にしてかなり顔を近づけてきているらしい。
そこからゆっくりと視線を下げていけば、ちょうど真正面に流石16歳と言うべきか、
滑らかそうな頸部が壁の様に広がっていて…と、そこでふと岬の目にそれが留まる。
見上げていた時には大きな二つの膨らみに遮られていたこともあって分からなかったが、
彼女はチョーカーをつけているらしかった。
目測で自身の身長分以上の幅のありそうな黒い帯がくるりとその首を周回しており、
これまた大きな雫の形をした淡い青色の宝石らしきものが一つ、そこから釣り下げられている。
と言ってもそれはあくまでも岬の感覚から言うことであって、
着けている美咲当人の大きさを考えればむしろ控え目で簡素なものと称する方が正しい。
どうにも目が行ってしまうのは、それが見たことのないような非常に不可思議な光沢を放っているから、
であろうか。彼女の体躯が作った薄暗い影の中にあっても、それは輝きを失うことが無く、
まるでたゆたう水面の如く、絶えず微妙に明度や彩度が変化しているようなのである。
ついでにもう一つ、ふと浮かんでくるわりとどうでも良い疑問。
『何故、彼女はこれを着けているのだろうか?』ということ。
決してセンスが悪いと言うわけではないし、似合わないと言うことも無い。
無いのだが、このチョーカーは今こうして美咲が前屈みになっているからこそ見えるのであり、
もし再び彼女が身を起したら、たとえ下からでなく、真正面から見たとしても
襟の奥に隠れてしまい、せいぜい隙間から垣間見える程度にしかならないように思えたのである。
大きなお世話なのだろうが、比較的襟のしっかりした今の彼女の服装に
チョーカーと言うのは些か合わない、と言うより不要なものである気がしたのである。
勿論そのようなことを声に出して指摘する気などさらさらありはしないが。
その時自分の左手の甲に何かが触れたことに岬は気付いて彼の思考は遮られた。
一体何だろう、と視線をそっとそちらへと向けてみる。
(…………これは………く…唇…?)
程なくそれが彼女の下唇だと気がつく。薄紅色の、大きいけれどもとても柔らかく温かいそれが、
何故か掲げた手の甲にふんわりと覆いかぶさり、僅かに圧し掛かっていたのだ。
(…い、一体…何を…!?)
その状況を理解したと同時に、流石の岬も動揺せざるを得なかった。
けれども、余りにも近すぎて彼女の表情までを窺い知ることは叶わないし、
目を閉じるよう言われた手前、それを悟られるのもまずいと考える。
彼は無理矢理心を落ち着けて再び目を閉じると、とりあえず暫く成り行きに身を任せることにした。

「もう…いいですよ」
「ん、いいのか?」
 長かったようにも短かったようにも感じられる。
目を開くと、美咲は先程とほぼ同じ格好で座って自身を見下ろしていた。
彼女の言に背いて密かに目を開けたことには気付かれていないようだ。
岬はそれを安堵しつつも、まだ感触の残る左手の甲を見詰めながら尋ねた。
「…今のは…歌…なのか?」
「えっと『誓いの唱謡』です。…どこかおかしかったですか?」
逆に問い返されるも岬にはその良し悪しなど分かるはずも無く。
ただ決して悪い気分はしなかったので、率直にその辺りのことは伝えておくことにした。
「いや…良かった…と思うぞ?」
すると美咲はほっとしたような微笑を浮かべて言った。
「そうですかぁ、授業では何度も練習してきたんですけれども、
 実践は初めてだったのですごく緊張しました。でも上手くいったみたいで良かったです」
どうやら彼女自身は満足いったらしい。ならばそれでいいか。
「そうか、まぁ何にしてもこれで留年は免れる…のか?」
「え?いえ、それはまだまだこれから次第…なんですけれどね」
途端に表情を曇らせる美咲。
(まぁ…そりゃそうか。よその世界に飛ばされるくらいの補習だし、
 流石にこれだけで万事解決というわけにはいかないよなぁ…やっぱ)
今後彼女がどうするかについては『一応』知るよしもないが、
「とりあえず、もう戻ってもいいよな?」
足元に視線を落とし、改めて自身が建物の縁ぎりぎりに立っていることを思い出した岬は、
そう美咲に一言断り、彼女が頷いたのを確認した上できびすを返して歩き出す。
と、すぐに後ろから声があった。
「あ、あの…じゃあ、よろしくお願い致します………旦那様」
「ああ、足元に気をつけてしっかりがんば……………………………………………」
振り返ることなく激励で返すも、それが最後まで言葉になることはなかった。
代わりにまるで時が止まってしまったかと思うほどの長い沈黙が生じる。
岬は右足を出したまま完全に凍り付いていた。漫画のワンシーンにでもありそうな、そんな間抜けた絵。
まるで壊れた人形のように、ぎこちない動作でキリキリと振り向いて美咲の顔を見上げる。
「………………………………………………………………は?」
やっとのことでその状況を破ったのは、彼の余りにも間抜けな一言、というより一文字だった。
耳はきっと悪くない、彼女の声はしっかり聞こえた。
頭もたぶん悪くない、きっちり理解できた。
しかしそれでもこう返すより他はなかったのである。
「これからよろしくお願い致しますね、旦 那 様」
美咲は、はにかむようにして少し俯き、しかし口調は先程よりもはっきりとしたものにして、
もう一度その意志を伝えてくる。しかも最後の一語は殊更強調されていたように思う。
「…………待て…」
唸るように制止する岬。
「はい?」
「何だ、その『旦那様』と言うのは…」
その抗議に美咲は一瞬きょとんとするも、すぐに合点が行ったのか納得顔をすると、口を開いた。
「あ、御気に召しませんでしたか?とすると…やっぱりここはオーソドックスに『ご主人様』です?
 『坊ちゃま』というのもありますけど…流石にそれはアレですよね?その…御年の方から考えて…」
全然合点行ってなかった。
「いや、あのな…?」
「んー…じゃあ『閣下』とかっ!…はもっとダメですよね…。
 あ、あとあと、少々特殊どころですが『お兄ちゃん』なんて言うのも…」
「そうじゃなくって…」
「うぅ、じゃあ何が良いって仰るんですか…。わたしそんなに語彙にバリエーション…」
ズレた論点の上で心底困った様子を見せている巨大なメイド志願少女に岬は溜息混じりの苦笑を漏らしつつ、
自分の意図するところを率直に伝える。
「そもそもだ、俺は君の主人になるつもりはないよってことをだな…」
「え…えぇ!?そんな…だって今『始契の儀』を執り行ったじゃないですか」
「いやいや、そんな話聞いてないから…」
言いつつも、岬は密かに抱いていた嫌な予感が的中したことに、頭を痛めていたのだった。
(まぁ…『唱謡』とやらの内容…何となく分かったからな…)

「意外に思われるかもしれませんけれども、こう見えてわたし、お料理結構得意なんですよ?」
「意外だ」
「掃除も洗濯も」
「自称だろ?」
「それに実は買い物上手だったりします!」
「この世界なら、その気になれば何でもタダで手に入れられるんじゃないか?」
「あと、歌って踊れますっ!」
「で、転ぶんだろ?」
「う…。あ、実はピアノも弾けたりします」
「弾けるピアノがあると思うか?」
「あとは…そうだ、祓えますし呪えますよ?」
「…生憎厄年は去年終わった…と言うかそんなもん要らない」
(特大の後厄になら、たった今憑かれているような気もするけどな…)
「そうだ、耳掻きとかどうですか?実は結構腕に自信あり、なんですよ。
 あ、ち、ちょっと恥ずかしいですけれども、もちろん膝枕ですよ?」
「何が『もちろん』なんだ…」
一瞬、広大な太腿の上にちょこんと乗せられて、孫の手ならぬ『熊の手』とでも言えるかのような
巨大な木製の棒に追い掛け回される自身の姿が脳裏に頭を過り、岬はこめかみを押さえてそれをかき消す。
これは絶対に『膝枕で耳掻き』とは呼べはしまい。
「えーと…あと…あとは…」
そんな彼をよそに尚も何かしらを一生懸命アピールしようとする美咲。
とりあえず彼女が真剣であることは岬にも十分伝わってきた。
伝わってきたが、それを受け入れるわけにはいかない。
「まぁ、聞くんだ」
彼は一旦口調を落ち着けてそれを遮り、静かに言った。
「…悪いけど、君を雇えるほど大きな屋敷に住んでいるわけではないし…
 それに…俺自身も君を使えるような人間じゃないんだ。俺は…」
そこで押し黙る岬。
(…怖いんだよ)
流石にそれを口にすることは憚れる(はばかれる)気がした。
言えば傷つけてしまうかもしれない。彼女の気質がとても優しいものであることは認める。
しかしそれでも彼女が圧倒的に強大な力を持っていることは疑う余地も無いことだった。
事実彼女は警官隊を一蹴したばかりだ。ただ、『怖い』のは彼女の力そのものだけではなかった。
過ぎた力はえてして人を狂わせるものだ。岬には妙な自信があった。
その気になればきっとこの純朴な巨人少女を望む通りに動かすことができるだろうという。
そう自らの意のままに、自由に。だからこそ、彼女をメイドとし、従えることに大きな抵抗を覚える。
彼の雰囲気からただならぬものを感じとったのか、美咲もまた暫く黙って岬を見詰めていた。
が、おもむろに手を一つぽんと打つと言った。
「…………お屋敷が…小さいって…あ、ナルホド!そういうことですか。
 だったら大丈夫ですよ、心配なさらないで下さい。私が無理言ってお勉強させて頂くんですから」
「…ん?大丈夫って…?」
美咲の言わんとすることを理解しかね、問い返す岬。
「えっと…お給金のことを気にしているんですよね?」
(いやいや、賃金じゃなくて文字通りの意味だから)
それを聞いた彼は思わず笑いそうになる。屈託のない笑顔、狂わされる調子、間違いなく天然。
しかし、同時にそれはたった今抱いたばかりの恐れの払拭をも意味していた。
果たしてこの娘を騙せるほど悪党になれるだろうか、自分は。
「大体…食事とかどうすんだよ…?」
それでもどうにか諦めさせようと言ってみる。
が、緩みかけた頬を無理やり引き締めて問うたものだから、声が震えて妙なものになってしまった。
おまけに明らかに、とってつけたという感じであり、彼は言った後で思わず自嘲的な笑みを浮かべる。
「あ、それも問題ありませんよ」
が、彼女はそんな質問にもしっかりと答える。
「問題…無い…?」
「はい、この世界に居る間、わたしの生理的活動は基本的にはカットされるようになっているんです」
「…そんなことができるのか?」
結構驚きはするも、考えてみれば、異世界に行くことが出来る技術を有しているのである。
それくらいのことは当然なのかもしれない。
「ええ、だってわたしがこの世界で私の体を維持するだけの食糧を求めたら、
 それこそ大変なことになっちゃうじゃないですか?」
「ああ、それは確かに…まぁそうだろうな…」
納得して頷くその様子に、美咲は満足そうに笑みを浮かべて尋ねてくる。
「どうです?これで安心しましたか?」
安心できるはずがなかった。と言うのも今の彼女の物言いから察するに、
「…つかぬことを訊くが、君は一体いつまでこっちにいるつもりなんだ?」
嫌な予感を覚えつつ恐る恐る問う岬に、彼女はにこにこと微笑んだままで答える。
「えっと、課題に期限ありませんから、いつまでだって居られます。
 ちゃんと着替えとか、日用品とか、家事の道具とか、色々と必要なもの一通り持ってきていますから。
 ぬかりはありません、御心配には及びませんよ!」
(いや…そういう心配をしているわけでは、断じてないんだが…)
あえてそれを口に出すことはしない。
というより、何だか言うだけ無駄なように思われてきた、という方が正しいか。
どうあっても、彼女は目的を果たすまで帰りそうにない気がした。
「着替えったって…生理的活動が全部なくなるのなら、汗だってかかないだろ…?」
「ああ、それは旦那様の好みに合わせてどんな服装でも出来るように、ですよ。
 あと一応私服も。わたしだって女の子なんですから」
そう言ってからさりげなくしっかり付け加えてくる。
「この格好はお気に召しませんでしたか?」
「……いや、俺は君の旦那様じゃないからなんとも…」
「…ぐ…なかなかやりますね…」
それを聞いた美咲は大いに残念そうにそう呟いた。
もしかして誘導尋問か何かのつもりだったのだろうか。
例えばここで好みを答えてしまうと、即ちそれが彼女の主人となることを
認めたことになってしまうといった類の。
些か小癪であるが、余りに甘い。それはさておくとして、
「ところで…どこに?」
それは至極どうでもいいことなのだが、彼にとって素朴な、そして大きな疑問だった。
何しろどう見ても彼女は何も持っていないのだから。
「はい…?」
「いや、ただの興味本位だからどうでも良いことといえばそれまでなんだが、
 見たところ君は手ブラだからな。どこにそんな荷物を持っているのかな、と」
「ああ、それはポケットの中です」
答える美咲。なるほど、やたら作りの凝ったフリルの白いエプロン、
その脇のほうを見ると確かに口にこれまたフリルのついた小さなポケット
(あくまでも彼女を基準として相対的に見た上で、であるが)がくっついていた。
左と右に一つずつ。しかし、
「…どう見ても普通のポケットだな?」
すると美咲は少しだけ得意げな顔になった。
「それが、それがっ!なんとこれ、見た目は小さなポケットでも中は亜空間になっていて、
 物凄い量を収容することが出来ちゃうんですよっ!」
「へぇ…そりゃ凄いな…」
素直に思ったことを言ってやると、美咲の顔が嬉しそうに綻ぶ。
「でしょ?でしょ?ずっと実験段階だったんですけれどもいよいよ実用の目処が立ちまして、
 今回わたしが勉強するにあたり、
 最終チェックを兼ねたモニターという形で試供品を貸して頂いたのですよ」
と、説明されても彼女の世界事情はよく分からない。
ただ、昔似たような話を何かのマンガで見たような気がした。確か丸くて青いロボットが出てくるものだ。
「でもな…そんなことまで出来るんだったら
 体を縮小させる装置なんかも用意してくれれば良かったのになぁ…」
そのマンガにそういう効能のある懐中電灯のようなものが登場したことをおぼろげに思い出し、
岬は独り言のように呟く。するとそれを聞いた美咲は少し意外そうな顔を作った。
「ええ、それは勿論…と言うか見ての通り既に——…」
そこまで言いかけて彼女は慌てて口に手をあてて、自らの言葉を遮る。
「既に…?」
どう『見ての通り』なのかはちっとも理解できなかったが、
彼女が今口走りそうになっていた、物凄く不吉なことは容易に推測することが出来た。
「あ、あはははははー、な、何でもありません、ホントに全然ちっとも何でもありませんからぁー」
更に乾いた笑いと間延びした美咲の弁明が駄目押しとなって、
明らかに『なんでもある』ことを告げていたが、岬はどうしてもそれ以上突っ込む気にはなれなかった。


— サイド美咲 —

 『唱謡・神近美咲

   捧げん 吾が躰 附さらん 吾が心
   託さん 吾が行 委ねん 吾が来。 
  常 如何刻も 吾 汝と共に。
   常 如何刻も 吾 汝の幸紡がん。
  汝の慶を吾が喜びと 汝の哀を吾が憂ひと。
  御意志のままに 吾は歩みて 御心に沿ひて 吾は営み
  総てを以つて 信じ 愛し 敬ひ 慈しみ そして尽くすと
   吾 今此処に 祈誓すもの也。
                               了』

 『唱謡』とは、特別な式典がある際に必ずといっていいほど唱えられる、神聖視された歌である。
『唱謡』には非常に多くの種類が存在し、用途によって用いられるものが異なってくるのであるが、
それらは一つの例外も無く、これから述べることに嘘偽りが無いことを明確にする意を込めて、
自分の姓を名と共に明かすことで始め、『了』の一言(いちげん)を以って締めとする。
学院の授業では最後のそれをうっかり忘れてしょっちゅう減点されたりもしたのだが、
今回は何の不備も無い筈である。しっかり気持ちも込めた。
まさか初めて仕える相手がこんなに小さいとは思いもしなかったので、
左手に口付けをするときには本当に緊張したが、それもどうにか上手くいった。
本来ならばこの儀は、体を主人となるべき相手のほうに真っ直ぐに向け、
膝を立てて傅いた状態で執り行うものなのだが、
相手の小ささやこの場所の狭さを考慮すると、どうしてもその体勢を取るのは困難だった。
ついでに近すぎて少々恥ずかしいという理由から、下を向いて目を閉じてもらったりもした。
そういった具合に些かの美咲独自のアドリブは組み込まれていたのであるが、
これにて『始契の儀』は無事に完了、一応仮ではあるが、
それでも晴れて主従の関係が結ばれることになる…はずだった。
ところが彼女が『主人』と見定めた自分と同じ名の男、岬の口から出たのは想定外な言葉であり、
そしてすっかりそれに困り果ててしまっていた。事もあろうに、彼は自分の主となることを拒んだのである。
懸命に自己アピールをしてみるも、にべもなく返されてすっかり意気消沈する美咲。
何故受け入れてもらえないのだろうか。焦燥半分失意半分状態に美咲は考えを巡らせる。
 考えられる理由第一候補。やはりドジは駄目なのだろうか。自覚はあまりないのだけれども、
故国で『おっちょこちょいだ』の『天然』だの散々言われていたのは確かだった。
実は学院の実習授業時に物を壊した数の年間記録は、
他の生徒の追随を許さないなどという不名誉極まりない噂もあったりする。
(…でも、こっちの世界ではまだそんなに壊していないはずなのに…)
そう思うも次の瞬間にはすぐにそれを打ち消さざるを得ない事実が頭を過る。
(そ、そうでもないかも…)
そもそも事の発端は自分がうっかり彼の車を踏み潰してしまったことにあることを思い出し、
美咲は少なからず切なくなる。とは言え岬当人を見た感じでは、
そのことに対して怒りを顕にしている様子はない。
とすると、これはハズレなのかもしれない。美咲は次の仮説へと思考を移す。
 では『服装がイマイチお好みではなかった説』とかどうだろう。
ちなみに今の美咲の服装は『スタンダード』なるもので、学院の制服の中で最もオーソドックスなものだ。
美咲自身は『正しくメイド』という感じのこの格好を結構気に入っているのだが、
地味だの、普通すぎるだの、面白みがないだのと、一部で不評を買っていたりもするらしい。
ちなみにそれ故…なのかどうかは分からないが、学院の制服にはかなりの多様性があった。
例えば随所に花をあしらい、比較的はんなりした出で立ちの『フローラル』や、
白を基調に袖口や裾を紺のラインで飾ったシンプルで爽やかな『セーラー』、
より学生服らしいブレザーのようなデザインをベースにした『スクールウェア』に、
しっとりとした着物テイストの簡易振袖の『梅香』等、数え上げれば本当にきりがなく、
実は美咲も全部で何種類あるのか、知らなかったりする。
中には、三角形の動物の耳を模したものを頭に載せ、
大きな鈴を真ん中にあしらったリボンを首元に着け、御尻の辺りからは尻尾を生やし、
明らかに家事に不向き且つ不要だと思われるモコモコの手袋を装着するものや、
やたら裾の広がったピンクのひらひらスカートに、大きく胸元の開いた同色のノースリーブ、
長めのブーツも手袋も全てピンク系でまとめて、やたら派手なティアラと
これまた邪魔でしかないと思われる羽根のような飾りがついた杖を常備すると言う、
着ている者は勿論のこと、見ている方まで恥ずかしくないってしまうようなものまであったりする。
前者が『キューティキティ』後者が『みらくる☆まじかる』だったか。
当然ながら美咲は双方とも袖を通したことなどなく、
願わくはこの先自分の主人となる人間に妙な趣味がないことを祈るばかりである。
…勿論岬が望むのであれば着ることも辞さない覚悟ではあるが。
それでも今この場で着替えるのはやはり恥ずかしいし、嗜好云々の話は後ででもゆっくりすればいいだろう。
何にしても服装にかなりの幅があることは岬には伝えてあるのだからこの点も問題ないはずである。
 或いは危うく出かかった『あのこと』がまずかったのかもしれない。
「見ての通り、既に——」
それは彼女の世界でも極一部の人間しか知らない、そして決して知られてはならない秘め事であった。
そんな大事なことを初対面の相手についうっかり明かしてしまいそうになるのだから、
やっぱり『少しは』抜けていることを自認せざるをえないのかもしれない。
とは言え彼女の世界では『そのこと』について言及されるという状況自体皆無に等しいのだから、
確かに秘密ではあるのだが自分自身そのことを秘密にし慣れていないのだから仕方なかったのだ。
それにちゃんと誤魔化せたはずだ。証拠に追求されてはいないではないか。

 と、ここで彼女の中で考えられる、原因は全て出尽くしてしまい、美咲はすっかり途方に暮れてしまった。
何が問題なのかさっぱり分からない。
「そんなぁ…お願いしますよぉ…。私を助けると思って…ねっ?ねっ?」
情けない声で哀願する美咲に困り顔をする岬。
「確かに…協力きることはするとは言ったがな…何で俺なんだ…?
 例えば、君の主人探しを手伝うという方法だってある」
「え?それは…えーと…」
問われた美咲は言葉に詰まってしまう。確かに彼の言うことももっともだった。
実際彼女としても、絶対にこの人でなければならない、ということはない。
ないのだが、彼女の心は、かなり強固に決しつつあった。
出会ってからもののニ、三十分。相手の本質など分かるはずもないのだが、
それでも確かに美咲は真剣に彼が自らの主となってくれることを望んでいた。
しかし、いざはっきりとした理由を問われると、彼女自身も困ってしまう。
「何となくっ!…とかどうですか?」
とりあえず力強く言ってからおずおずと尋ねてみる。
就職試験の面接で志望動機として述べたら蹴られそうな答えである。
学院でも、リクルートの際には具体的に、明確に、
そして理論的に自分の意見や意志を主張することが効果的であり、
採用へと繋がる旨を説明された記憶がある。
「……」
如何ともし難い表情を作る岬。慌てる美咲。
「じ、じゃあ…これも何かのご縁で!とか…」
「………」
相変わらず岬は無言のままだったかが、その表情に変化があった。
本当に微かなものだったが、美咲は敏感にそれを見て取る。やはりこの回答はまずかったのか。
心なしか怒っているようにも見えるその顔つきにますます焦りは募っていく。
「あー…んー…そ、そうだ。アレですよ、どうしても聞き入れて頂けないと仰るのでしたらですね…」
「…だったら何だ?」
「えと…その…アバレチャウゾ?エヘッ…ナンチャッテ」
試しにちょっと品を作って、色っぽく言ってみた。完全にただの苦し紛れ。
「…………」
そして恐ろしいほどに寒い間が。
「ああああ、冗談、ほんの冗談ですってば。そんな顔なさらないで下さいよぉ。
 なんか恥ずかしくなってきちゃったじゃないですか」
「あのな…洒落になってないっての…」
しかし、心底疲れ切った声と調子で抗議する岬に、
美咲もまた彼が絶句した真の理由を初めて察すると、少しだけ口を尖らせて慌てて言う。
「あ、暴れませんよ。そんなことするわけないじゃないですか」
それからも彼女は暫くの間、すがるように岬を見詰めていたが、
それでも頑として態度を曲げない彼に、やがて肩で大きく一つ息を吐くと少々拗ねた調子で愚痴を零した。
「あーあぁ…勢いで押せば了承してくれると思ったのになぁ…。
 先生だって『押して駄目でも押し倒せ』ってよく言っていたし…」
そんな彼女に岬は半ば呆れた様子で言う。
「…あのなぁ…俺のこと馬鹿にしてないか…?事は重大なんだ、まずはしっかり説明しろ、詳しくな。
 まだ話してないこと、幾つもあるんだろう?」
図星だった。図星だったが何となく納得行かず美咲は弱々しく抗議する。
「ば、馬鹿にするだなんてとんでもありません…。
 それに…重大って…ただメイドを一人家に入れるだけのことじゃないですかぁ…」
「いや、普通に入らないから」
答えは間髪入れられることなく返ってきたのだった。

「…わたしの補習の課題内容は、
 『この世界で主を定め、その方に満足して頂くよう尽くす』ということなんです」
 とうとう美咲は根負けして渋々ながら説明を始める。
「さっきの『始契の儀』は、わたしの世界でメイドが主に仕える際に、最初に行う儀礼でして…
 従者となる者がその誓いを謡います。それを主が受け入れるのであれば、左手に接吻を許し、
 これによって仮にではありますが主従関係が結ばれたことになるんです。
 と言っても…この状態はあくまでも『仮』のものですから
 主従どちらからでも容易に契りを破棄することができます…」
特に最後の部分に関しては知られたくなかった。
「そういうのは先に言えっての…。ていうか、『接吻を許し』って、
 さっきの一連の所作に俺の意志は一切介在していなかったように思うが…?」
的確な指摘にぎくりとしつつも適当にはぐらかす。
「…ま、まぁ細かいこといいじゃないですか。ほら、形式儀礼ってやつですよ」
「あのな…そもそも形式ってのは…それに携わる人間全てが
 納得、同意している時じゃないと成り立たないと思うぞ…?」
なかなか手厳しい。
「た、確かに。でも、安心してください。本契約には岬さんの合意も不可欠となります。
 こちらは形式的な手続きのようなものでして、紙面での契約書の署名と拇印で完了致します」
「なるほど、結婚式と婚姻届みたいなものか。…で、そうなると、どうなるんだ?」
岬が一つ頷く。その物言いは美咲には理解できなかったが、
相手が納得した上で話を進めているのなら多分問題ないのだろう。彼女は問いに答える。
「正式に仕える身となります。
 主の方からそれを破棄する場合にも、従者が納得の行く相応の理由が必要となり、
 わたし達メイドは自身と主の身に危険を課す場合を例外とし、原則的に主の命令には絶対服従となります」
「絶対…?…じゃあ、仮にそれを破ったら?」
「え?あ…それは…まぁ…そういうことになっているというだけで、
 実際には拒むことも出来るでしょうが…でも指針として、そう易々と命令拒否は致しません。
 主としてお見初めした以上、あくまでも従う覚悟はある所存です!」
少し胸を張ってしっかりとした口調でそう告げると、岬は念を押すように訊き返してきた。
「どんな命令にでも、か?」
「はい」
即答。
「ふん…」
それを聞くと彼は少しの間何かを考えるような様子を見せた。
が、すぐに顔を上げて美咲の目を見据え、ゆっくりとした口調で告げてきた。
「じゃあ…たとえば俺が君と本契約を交わしたとして、だ…」
「はい」
「…掃除を…頼んでみては…どうだろう…?」
何がしかを深慮しつつ探るような口調で彼は言葉を続ける。
「お掃除…ですか…?それはもう、喜んで…お引き受け致します…けれども」
何となく歯切れが悪くなってしまうのは、岬のその様子に違和感を覚えたから。
それを聞いた彼は目を細めた。その表情は笑っているようにも見えるが、
どこか冷たく、嫌な雰囲気を感じて、美咲は思わず身構える。
若干の沈黙があった後、彼はその不気味な笑みのようなものを浮かべたままで足元を指差し、
静かな口調で美咲に告げた。
「そうか…。では…片付けて欲しいのはこの建物だ。
 踏み砕くなり、蹴り崩すなり、叩き潰すなり、方法は好きにしろ。
 とにかく完全に破壊してくれ。勿論、今すぐやって貰いたい」
それを聞いて美咲は一瞬にして血の気を引くのが分かった。
「な…!何でそんなこと…!?だって…この中にはまだ人が…いるのでは…!?」
上ずった声で抗議をするも、その視線は真っ直ぐに美咲を捉えたまま、
彼は驚くほど冷徹な調子であっさりと答える。
「だからこそだよ。この中に居る人間たちは…『汚い』からな。
 汚いものは綺麗にする必要がある。そうだろ?
 俺の命に危険が及ぶと言うのであれば、そちらの建物の屋上にでも運んでくれればいい。
 どうだ?出来ないことじゃないだろう?それとも断るか?」
確かに出来る自信はあった。むしろ容易いだろうと思った。
何しろ先ほど軽く手を押し当てただけで、その壁面が軋む感触を美咲は感じ取っていたのだから。
しかし、美咲は胸が苦しくなる。そんなことをすれば大惨事になることは目に見えている。
一体どれほどの人が傷つき、死ぬだろう。岬の述べた『汚い』とは如何なる意味があり、
建物の中で何かあったのか、美咲には知る由も無い。
しかし、主がそれを心底望むのであれば、それに応じなくてはならない。
もし、私情だけであっさりと主の言いつけを拒むというのであれば、
つい今し方示したばかりの『覚悟』が薄っぺらい偽りだったということになってしまう。
「…そ、それは……………………………従うしか…ないと思います…」
暫く俯き美咲は黙っていたが、やがて顔を上げると、岬の顔を睨めつけて搾り出すように答えた。
自分でも表情が強張っているのがわかった。いつの間にか硬く拳を握り、震わせていることに気付く。
胸の内に広がる怒りとも悲しみとも付かぬ感情。もしかすると悔しさなのかもしれない。
この人ならばきっと良い主になってくれるだろうと思ったのに。
とは言え裏切られたというわけでも騙されたというわけでもない。自分が勝手に見誤っただけなのか。
耐え難いほどの重苦しい雰囲気が辺りを支配する。
「…悪かった。あくまでも仮の話だ。本気にしないでもらいたい。
 ……というより、まだ本契約なんて結んでないだろうに」
と、そこで岬はふっと表情を柔らかくすると、口調も元のものに戻したのだった。
その変化に戸惑って美咲は一瞬目をぱちくりさせる。
それがおかしかったのか、彼は少し口元に笑みを浮かべつつ言葉を次いだ。
その顔つきにはもう先ほどのような気味の悪さは全く見えない。
「だが、分かっただろう?君はこの世界ではそれだけの力を持っている。それは本当に大きな力だ。
 そして君の話からするに、君がこれからやろうとしていることは、
 それを誰かの意思に委ねるということだ。そうだろ?」
その言葉に黙って頷く美咲。
「しかしその誰かの意思が、君の心にそぐわない可能性は多分にある。
 その強大な力とはうらはらに随分と優しい気質のようだからな、君は」
面と向かって優しいと告げられたことに、美咲は少し嬉しく、
そして大いに照れ臭く感じて、思わず岬から視線を逸らす。
「だからこの世界で安易に主人なんて決めてはいけない。
 それこそ『何となく』だとか『何かの縁』だなんて、そんないい加減な理由はもっての他なんだ」
同時に彼の意図するところを漸く理解すると、美咲は心底安堵し、それと共に胸の内から湧く喜びを覚えた。
この人は心底自分を案じて忠言してくれのだから。やはり自分の目に狂いはなかったのだ。
だからこそこの人に仕えたいと思うのだ。ただ、それをどう伝えたら良いか分からなくて。
「…いい加減だなんて…わたしそんな積もりじゃ…。わたしは本当に!…本当に……」
密かな喜びを噛みしめつつ美咲は真剣な面持ちで慌てて申し開きをする。
「…えと…笑わないで聞いてもらえますか?
 こんなことを言うとおかしな子だと思われるかもしれないんですけれども…」
「……」
「率直に言います。『匂い』…のようなものがするんです。あ、実際にじゃなくて、ですよ?
 …その…雰囲気と言いますか、良いご主人様になってくれるんじゃないかなっていう…。
 だから本当に『なんとなく』なんです。でも、いい加減に『なんとなく』じゃなくて
 真剣に『なんとなく』なんです」
精一杯真摯に自分の気持ちを伝えるも、それから少し肩を落として力無く続ける。
「でも…納得して…頂けませんよね…?だって訳が分からないですものね…。
 自分でも変なことを言っていると思います」
「……」
岬は笑わなかった。ただ黙って美咲の心の奥を推し量りでもするかのように、静かに彼女を見詰めていた。
それから彼は何かを言おうと、口を開いた。
その刹那だった、それを遮る形で勢いよく屋上の扉が開いたのは。
「ああああああああああああああああああああっ!?」
と、同時に大きな驚嘆の声が辺りにこだましたのだった。