■ミサキ鼎談

 一度は足元から離れたものの、やはり建物の中の様子が気になった。
多分あの娘は無茶なことはしないだろうが、今尚優に100を超える人々が閉じ込められているのは
紛れも無い事実であり、やはりこのままにしておくというわけにはいかない。
そう思い立ち、振り返って仰ぎ見れば、聳え立つ少女は精一杯上体を捻り、
少々辛そうな格好で視線をその足元へと向けているところだった。
動きに伴ってエプロンの背中、大きな蝶結びがふわふわと揺れている。
先刻左足をこちらの通りに戻すと言っていたので、その為の確認作業であろう。
遥か高みから降り注ぐその眼差しは真剣そのものである。
 それにしても本当に大きい。これでも200mは離れた筈なのだが、
あの娘の感覚的には二、三歩程度の距離であろうか。
その顔を見ようとすれば、この位置でも首が痛くなるほど上を向かなければ叶わない。
まだまだ自身の命が彼女の手の届く所にあることを痛感してしまう。
もし、彼女が『その気』になったのならば自分の運命など彼女の思うがままであろう。
その口からは、決して乱暴な真似をしない旨を伝えられたが、
それでも現状は手放しで楽観できるものではないと考えるのが自然である。にもかかわらず、
(仕草や表情は結構可愛いと思うんだけどなぁ…)
口を真一文字に結び、一生懸命を絵にしたような表情で足元を見渡す少女の顔をしげしげと見上げながら、
再びそんなことを思う。弥生は何とも不思議な感覚に陥っていた。
自分は今、畏怖すらも覚える圧倒的な体躯や力と、好意を抱かずにはいられない愛らしい態度や気質、
明らかに相反すると思しき二つのモノが両立して存在するのを目の当たりにしている。
 そんな弥生には気付くことなく、巨人は彼女自身の足元だけを暫くの間注視し、
少しだけ困ったような顔を作っていた。が、やがて何がしかを思いついたらしく表情をぱっと明るくする。
それから彼女は一つ小さく頷くと、上体を引いて慎重に足を動かし始めたようだった。
きっとそのまま静かに足を下ろすのだろう。弥生は立ち止まって悠長にその様子を観察していたのだが、
緩やかだった動きに、突如として変化が生まれたのは、
左足がデパートの上空を通過して、こちらの通りに差し掛かった時だった。
「ふぇ…?」
不意に彼女がその表情に大きく驚きの色を浮かべ、戸惑いの声を上げる。
やがて顔つきが驚きから当惑、そして混乱へと変わると、程なく高々と掲げられた足が空を切り、
無遠慮に一気に地面へと突き刺さったのだった。
『ズダゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥン……………』
 辺りに響き渡る大轟音。
そしてその一瞬間の後、生み出された低く重い衝撃が大地を通じて伝わり、弥生の方にも襲い掛かってくる。
「ひゃっ!?」
情けない悲鳴を上げてよろめき、思わず手をついてうずくまる。
未だかつて体験したことがないほど大きく突発的な地震に見舞われ、
立っていることなどとても叶わなかったのである。
やっと地鳴りがおさまり、弥生が恐る恐る顔を持ち上げると、
すぐ鼻先の空間を、彼女の視界を完全に塞ぐ形で黒い何かが占拠していた。
「な…!?」
一瞬何が起こったのか理解できずに呆然とソレを見詰める弥生。ゆっくりと視線を左右へと這わせ、
やがて何であるか、どうしてそこにあるのかを把握すると、思わず渇いた口から上ずった呟きが零れた。
「こ、これって…!」
彼女の足元付近にあったパトカーが一台、勢いよく踏み下ろされた靴に弾き飛ばされる形で、
弥生のすぐ間近まで転がってきていたのだ。
日頃見慣れている車だったにも関わらず咄嗟に何だか分からなかったのは、
それがありえない体勢…即ち側面を下にし、弥生に対して車体裏を向けて、立っていたから。
もし、これがこちらに倒れてきていたのならば、
或いはもう少しだけ強く、彼女の靴がこの車にぶつかっていたならば…。
そう考えると背筋に冷たいものが走る。
 しかし当の巨人はと言えば、その感触から足元の状況を察したらしかったが、
敢えてそれを見ようとはせず、代わりに大きな溜息をついた。
その様子から察するに、やはり故意に足を振り下ろしたというわけでもないらしい。
ついでに言えばここまで車を弾き飛ばしたことについては気付いてすらいないのだろう。
『その気になる』こともなく自分を殺しかけた巨人は、当然こちらには目もくれること無く、
頬を染めて、屋上を睨み付ける様に見下ろすと、明らかに責めるような調子で言った。
「な、何で出てきたんですか…!」
(…っ!!)
直感的にまずいと感じる。彼女が怒っている理由は容易に察することが出来た。
それはきっと大したことではないのだろう。
それこそ、先の事態…即ち警官隊によって一斉射撃を受けたことと比べれば、
お話にならないほどの些末なこと。
しかし、それはあくまでも各々の価値観の問題であり、
考えようによってはある意味先程よりも悪い状況にすら思える。
その顔から見て取れる明らかな『怒り』の感情と、
たった今見せつけられた『力』が直結し、最悪な事態が頭に浮かぶ。
 弥生はすぐに意を決すると、デパートの入り口へ向けて全力疾走を開始した。
それが無謀なことであり、ともすれば自殺行為にすら近しいことも重々わかっていた。
てんでばらばらに散乱するパトカーの間をすり抜け、大きな黒靴の脇を駆け抜ける。
今、巨人が無意識にほんの少し足を動かせば、それだけで自分は死んでしまうかもしれない。
或いは屋上に辿り着く前に彼女が感情に任せて何らかの行動を取ってしまうかもしれない。
たとえ間に合ったとしても、自分如きが彼女に対して何を出来るというのだろう。
それでも、一方的に撃ってしまった自分達をも許してくれた優しい彼女ならば。
そんな不確定で無根拠だが強い気持ちが弥生を駆り立てる。
幸い彼女が屋内へと飛び込むまでの間、その巨大な足が動くことはなかった。

 屋内はかなり騒然としてはいるものの、弥生が危惧したような大きなパニック状態にはないようだ。
人々の殆どは家電コーナーのテレビの周囲に群がり、誰もが食い入るように臨時ニュースを見入っていた。
が、そのうちの一人が弥生の存在に気付いて声を上げると、みるみる内に周りに大きな、
そして分厚い人の輪が出来上がっていく。一刻の猶予もならないかもしれないというのに。
しかし無理矢理強行突破をするには、流石に数が多すぎる。
彼女は仕方なく歩調を緩め、こうなれば少しでも屋上の状況を知ろうと尋ねてみた。
「今屋上に人が出て行きませんでしたか?どんな人だったか、何人位だったか、どなたか分かりませんか?」
が、答えは返ってはこなかった。
「今、どうなっているんですか?」
「助けに来てくれたのよね!?」
「これから警察はどうするの!?」
「どうやってこの建物に入ったんだ!?」
「もう外に出ても大丈夫なんですか!?」
「警察は何故おめおめ撤退なんてしたんだ!」
「そうだ!相手はたった一人じゃないか!」
「死んでも戦えよ、公僕!!」
代わりに四方八方から津波のように押し寄せてくる言葉達。
全ての内容を正確に聞き取ることは叶わなかったが、
彼らの言わんとすることは大筋で理解することが出来た。
状況が逼迫しているとは言え、余りにも身勝手な言い分に苛立ちを覚える。
そうでなくてもこの足止めは、彼女に焦りを募らせていく。
「巨人はまだこの建物の入り口にいます!
 今のところ目立った動きは見せてはいませんが、突然何かしらの行動を取る可能性も十分にあります!
 ですから絶対に勝手に外に出たりはしないでください!
 今から私は屋上に出て、皆さんを解放するよう直接話をしてきます!
 皆さんは引き続きこのまま待機していてください!すみませんが、通して下さい!通して下さい!!」
それぞれの質問に対する別個の回答を即座に諦め、とりあえず必要と思しきことだけを、
一文ごとにきっちりと区切りつつ大声で発する弥生。
しかしなかなか道は開かず、代わりに辺りから小さなどよめきが生まれる。
「話?…まともに通じるの…?」
「…正気なのか?」
「あんな化け物と…!?」
「正気なのか?ヤツは人間じゃないんだぞ?」
「そんなことせずに始末する方法を考えるべきだろっ!?」
「そうだ!さっさとぶっ殺せ!!」
その中から聞き取ることのできた言葉が弥生を尚一層不快にさせる。
(あなた達は実際にあの少女を見たんですか?あの少女と直接話をしたんですか!?)
思わずそんなことを大声で叫びそうになる。
が、彼女がそうするよりも先に、絶妙のタイミングで突然反駁の声が上がった、それも建物の外から。
『そ、そんなことありません!!』
フロアどころか建物全体を震わせる声に弥生も客達も暫し唖然とし、一瞬にして辺りが静まり返る。
桁外れの大音量、その声の主が誰なのかは誰にでも容易に察することが出来た。
「ま、まさか…あの巨人…俺達の声が聞こえているのか…!?」
やがてたっぷりと沈黙を置いた後、弥生を取り巻いていた内の一人が上ずった声でぽつりと呟く。
勿論そんなはずはない。普通に考えればすぐ分かる。
恐らくその言葉は屋上にいる誰かに向けられたものに違いないだろう。
「…っ!?」
しかし途端に不安と恐怖に満ちたどよめきがそちこちで起こり、見る見るうちに広がっていく。
「お、お前が殺せなんて言うから化け物が怒ったんだ!」
「何だと!?お前だって始末しろって…!」
やがて苛烈化していく罵声の浴びせ合い。何だか醜い。
もしあの心優しい巨人がこの光景を見たら、さぞかし傷つくことだろう。
何だか彼らを庇うのが馬鹿馬鹿しく思えてすらきた。
いっそのことこんな心無い連中なんてこの建物諸共に、踏み潰されてしまった方が良いのではなかろうか。
そんなことまで一瞬考えてしまう。が、弥生はすぐに気を取り直すと再び声を張り上げる。
「とにかく…!落ち着いて!皆さんはここで待機していて下さい!きっと説得してきますから!
 だから…お願いです、道を開けて下さい!!」
確かに彼らの態度はどうにも釈然としなかったが、
あの娘の絶大さを考えるとこの反応も理解できないわけでは無い。
弥生は初めて巨人に直面し、彼女を足下から見上げた時の感覚を思い返す。
相手の圧倒的な存在感と共に己の矮小感が直接本能に焼き付けられるような感覚。
そのファーストインプレッションは到底これまでに経験したことのないものであり、
確かに弥生自身もほんの一時ながら少女のことを、
その大きさという観点から怪物扱いしかけたりもしたのだから。
勿論今は決してそうではないと思っている。それなのにもしあの娘が暴挙に出てしまったら、
それこそ本当に恐怖の対象以外の何者でもなくなってしまう。
「道を開けて下さい!きっと大丈夫ですから!もう少しだけ建物の中で待機していて下さい!」

 動揺に満ちた人々を押しのけ、かき分け、やっとのことで家電売り場を抜けると、
再び足を速めて階段を一気に駆け上り、いよいよ屋上へと続く最後の階段に到達する。
と、その時、その脇に立つ二つの人影が目についた。どうやら階段の下より屋上の様子を窺っているらしい。
恐らく親子であろうその二人もまた弥生に気付いたのかこちらに振り返る。
母親と思しき女性は暗い顔をし、女の子の方は何故か刺すような視線を真っ直ぐに弥生に向けてきた。
二人とも何か物言いたげな様子だったが弥生としても時間が惜しい。
思っていたよりもここまで来るのに手間取ってしまった。
敢えて止まることなくそのままやり過ごそうとするも、
「あの…私達はどうなってしまうんでしょうか…?」
横を通りかかると同時に母親らしき女性の方がぽつりと口を開く。
「……わかりません。最善は尽くす積もりです」
やはり我が身の心配か。仕方なく立ち止まり、軽く天を仰ぐとやや早口でそれだけを返す。
「屋上へ行かれるのですか?」
母親の問いに黙って頷く弥生。こうしている間にもあの娘が何かをするのではないか、
そう思うと気が気ではない。最後に見た、巨人の表情が脳裏にフラッシュバックし、思わず身震いをする。
「どうか…宜しくお願いします。ほら、あなたもお姉ちゃんにお願いしますしなさい」
女性は深々と頭を下げ、それから側に控える娘のほうへと視線を向けて言う。
それに促される形で一歩前に出る女の子は、しかし相変わらず睨む様な上目遣いで、
暫く黙って弥生の顔を見据えた後、おもむろに口を開いた。
「………また…うつの…?」
「ぇ…?」
「おねえちゃん…何で…?」
非を強く責め立てるようなその声色。
「こら、ちょっと…!」
慌てて制止しようとする母親の手を振りほどくようにして、女の子は言葉を続ける。
「ねぇ、何でうったの?鉄砲でうたれるってすっごく痛いんじゃないの!?
 血も出るし、もしかすると死んじゃうかもしれないって!」
「…!」
その意外な言葉に目を見開き唖然とする弥生。質問攻めは止まらない。
「大きなおねえちゃんは何か悪いことをしたの?ママの車を壊しちゃったから?」
「それは…」
弥生が答えに困って言葉に詰まると、女の子はやや視線を下に向けて言う。
「でも…でも先生言ってたよ…。物を壊すことはいけないことだけれども、
 生き物を傷つけることはもっといけないことだって。先生言ってたよ!」
思わず感心する弥生。子供はよく見ているものだ。
恐らくこの子もまたテレビを通じて外の状況を知ったのだろう。
そして、その純粋な目に警察の対応が不条理なものに映ったに違いない。
「だから…まゆ…謝らなくっちゃって思って…」
自身をまゆと称する女の子は俯いて小さく呟く。なるほど、だからこんなところにいたのか。
「そっか…ありがとうね」
弥生は身を屈めて自らの視線を女の子のそれに合わせてそっとその肩に手を置く。
「……うん…そうだよね…」
責められているにも関わらず、何だかだか嬉しくなる弥生。
その猜疑に満ちた瞳の奥を真っ直ぐに見詰めながら言う。
「確かにおねえさん達、酷いことしちゃったよね」
「……」
「怖かったから…なのかな。うん…きっとそう」
「……」
「でも…本当はいけないことだよね」
「……」
「怪我はしなかったみたいだけど…傷つけてしまったんだもの」
「……」
「だから…ちゃんとおねえさんが謝らなくちゃ。ちゃんと謝ってくるから、ね?」
「…………うん」
その言葉に女の子は漸く破顔すると、満足そうに頷いた。
「じゃ、もう少しの間だけママと一緒に我慢して建物の中にいてね?」
確認するように、言い聞かせるように告げるも、
「あ、まゆも行く!」
返ってきたのは予想外の答えであり、弥生は一瞬驚きに目を見開く。
「ぇ?」
「だってまゆとママ、呼ばれているから…」
「……?呼ばれて…いる…?」
言葉の真意を理解しかねて鸚鵡返しにする弥生。
「ま、まゆ!!」
不意に激しく叱責する母の言葉に思わず首を竦める少女。弥生はその様子にただならぬものを感じ取る。
或いはあの巨人と何かしら因果があるのだろうか。
しかし、敢えて深く問い質すことはしないことは止めることにした。
時間が惜しかったし、それにどちらにしても、一般人が屋上に出て行くことは望ましいことではない。
「お願い。今はおねえさんを信じて、まゆちゃんはここに居て?ママについていてあげて?ね?」
「んー…うん…分かった」
少しの間納得の行かぬ表情を見せていたが、やがて少女は素直に頷く。
「よし」
その頭を笑顔で撫でてから立ち上がり、弥生は緩んだ表情と共に改めて気を引き締める。
「あ…あの…どうか…宜しくお願いします…。…屋上の方も、何とか助けてあげてください…」
その様子には何かを秘めているような響きを感じるものの、
彼女が屋上の人間を心底案じていることは感じ取ることができて、それをまた弥生嬉しく思う。
「はい。どうにかそうする積もりです」
力強くはっきりと応える。不思議と気分は晴れて使命感が湧いてきた。
この優しく純粋な女の子と母親を死なせてはならない。それにあの娘を単なる化け物にだってさせはしない。
その為に早く、一刻も早く、屋上に出て行かなくては——。

「ああああああああああああああああああああっ!?」
 そんな紆余曲折の果てに大きな覚悟を抱き、やっとのことで辿り着いたものだから、
予想に反して余りにも平和なその屋上の状態を目の当たりにした時には、
殊に見慣れた顔が目に飛び込んできたときには、
思わず素っ頓狂な声が上がってしまった。この非常時に計ったように非番だった、
いくら電話をかけても繋がらなかった先輩、岬とまさかこのような所で出会うことになろうとは。
「……弥生…?」
「あ、あなたはさっきの…!」
同時に向けられる大小二つの視線。巨人の少女はいつの間にか再び座り込んでいて、
そこから見上げる彼女の愛らしい顔は先程よりもずっと近く、大きい。
「お前…避難したんじゃなかったのか?」
岬もまた驚きの表情を浮かべて弥生に問いかけてきた。
「あれ…?何で知っているんですか?」
「ああ、そりゃ今さっきまでテレビでお前ら警察の無能ぶりをじっくり拝見していたからな」
その言葉にカチンとくる弥生。
「お前らって…先輩だって立派な警察官じゃないですか!」
「け、警察の方だったんですか!?」
言い返してやると上のほうから戸惑いに満ちた声が割って入ってくる。
「へぇー…やっぱり言ってなかったんですねぇ…。相変わらず狡猾な人です」
「べ、別にそういう話にならなかっただけで、深い意味はない。嫌らしい言い方するな。何だ、その目は…」
「ふぅーん…私はまた警察を代表して非礼をお詫びしてくれているのかと思ったんですけどね?」
ジト目を向けつつも弥生は少しだけ罪悪感を覚える。もし自分達があれほどの非礼を働かなければ、
或いは彼だって自らが警察である旨を明かすことをしたかもしれないのだから。
「何で非番の俺がお前らのやらかしたことに対してフォローしなきゃならないんだ」
そっぽを向く岬に弥生は問う。
「…じゃあ、何でこんなところに居るんですか?」
それは純粋な疑問だった。彼女の知る限り、
彼は面白半分や興味本位でこのような事態に首を突っ込む人ではないのだ。
と、すれば巨人をどうにかできるという目算があったという可能性が一番妥当なのだが。
しかし、それにしては軽率すぎる気がする。
少なくとも先に彼女を怒らせたのがこの人であることは恐らく間違いない。
「あ、それは…ですね…」
その答えは違う方から返ってきた。
「わたしが…車を…不注意で踏んで壊しちゃったんです…。
 それで…どうしても乗っていた方の安否が気になってしまって
 …無理を言って出てきて頂いた次第でして…」
沈んだ口調で説明がある。
見るからにしょんぼりと肩を落とし、伏し目がちに呟くその様子、弥生には何とも気の毒に思えてしまい、
彼女はやや大袈裟に手をパタパタと振りながら軽い調子で言ってやる。
「あーあー、気にしなくていいんだよ、そんなの。そんなところにいた先輩が悪いんだから。
 それにどうせ先輩の車なんて、中古オブ中古のおんぼろ車に違いないですから…
 風が吹くだけで壊れちゃうような…痛っ!…って何するんですか!?」
後頭部に痛みを感じて振り向けば拳を握って立っている岬。
「黙って聞いていれば…随分な言い様をしてくれるじゃないか。
 こっちは馬鹿が一人足元に残ったのを見て、かなり肝を冷やしたってのによ…」
「あ、もしかして心配してくれたんですか?」
「ああ、そうだとも」
不覚にも嬉しくなる。
「…二階級特進で俺の上になって、挙句に香典まで持っていかれるんじゃ溜まったもんじゃないからな」
やはりそういう憎まれ口が続くのか。
「…お陰さまでこの通り、ピンピンしておりますよ!」
「チッ…」
舌打ちしたよこの人。
「何が『チッ』なんですか…」
「気にするな、脊髄反射ってやつだ」
「意味が分かりません…」
と、その時大きな声量とは裏腹に最も遠慮がちな声が。
「あ、あの…ところで…お取り込み中大変申し訳ないんですけれども…」
「うん?」
弥生が応えて見上げると酷く困惑した少女の顔が空を覆い隠してある。
「えと、一体何処から入ってきたんですか?」
「何処って…入り口からだけど?」
「で、でも…入り口は確かに封鎖しておいたはず…!」
「ん…まぁ普通に隙間あったから」
「えっ!?」
途端に青ざめ、自身の周りをきょろきょろと見回す美咲に、弥生は再び手を振って伝える。
「あ、大丈夫、大丈夫。心配しないで。あなたが不用意に動くことも考えられるから、
 まだ外には出ないように、中の人達にはよく言い聞かせてきたから」
「あ、すみません、色々とお心遣い頂きまして…」
ぺこりと頭を下げる巨人。やっぱり可愛い。
彼女に対してというよりは、建物の中にいる人達の身の安全に対する気遣いなのだが。
「…で、お前のほうは何しにきたんだ?」
と、そこで『可愛い』などという言葉とは微塵の縁もないであろう先輩が、
心底鬱陶しそうな口調で割り込んでくる。
「あ、えーっとそれは…直談判をしようと」
「……美咲と、か?」
「え…?ああ、美咲ちゃんって言うんですね?あの子」
弥生は彼の言葉に少し驚きつつもすぐに納得して頷き、悪戯っぽく付け加える。
「会って間もないのに、名前を呼び捨てにするなんてやるじゃないですか、先輩」
「変な勘繰りすんな。単純に彼女の世界では
 苗字を軽々しく口にするってのがNGってだけのことだ。…で、用件は?」
「デパートの中に監禁されている人達を無事に解放してもらうように。
 ああ、それとついでに…スカートの中であったにもかかわらず、
 屋上に出てきたデリカシーの欠片も無い何処かの誰かさんをどうにか許してあげて欲しいと。」
その言葉に途端に顔を赤くする巨人少女とバツの悪そうな顔をする先輩。
「……それも知っていたのか…」
いかにも物言いたげな様子で、しかし多くは語ることなくそれだけ言う岬。
そんな二人の反応を楽しみつつ、弥生は安堵の溜息を零しながら言う。
「けど、まぁこの様子なら、別にそう心配することもなかったみたいですね?」
すると美咲は大きな体を縮めて、再び申し訳なさそうな弱々しいしい口調で弁明を始める。
「あ、す…すみません…ご迷惑をおかけしまして。わたし…監禁とかそんなつもりはなかったんです。
 ただ、ちょっと岬さんに『お願い』がありまして…そのことに頭がいっぱいになっちゃいまして…
 中の方々のことをすっかり忘れて…自分のことばっかり…」
「…?お願い…って何ですか?」
振り向いて岬の方を見遣りつつ問う。
「お前には関係ない」
にべもない。
「…説明が面倒なんですね?」
絶対そうに違いない。
「えっと…実はですね——…」
何も喋らないものぐさな先輩に代わり、美咲の口から丁寧にその説明があった。
要約するに、彼女はこの世界で主を見つけなければならないということらしい。
そして何故かその白羽の矢が岬に立ったと。
「なるほど、そういうことだったんですか…」
岬に視線を投げかけつつ呟くように言う。
「ま、そういうことだな。全くやれやれだ」
自分では一言の説明もしてないくせに偉そうに締める岬。
「何言っているんですか、こんないい娘を困らせて」
「あのなぁ…困っているのはこっち…あ、そうだ…お前が彼女を…」
「私は結構です。誰かさんと違って掃除も洗濯もきっちりやっておりますので」
「さいで。…っていうか俺だってやってるっての…」
「かなり適当に、いい加減に」
「いちいちうるさい」
「あ、それとも私があの娘の主になって、先輩に尽くすように命じてみましょうか?
 ええ、そりゃもうみっちりと」
「……」
そこで一度言葉を切ると、弥生は表情を真剣なものにして、岬だけに聞こえる小声で言う。
「先輩…よく考えてみてください。彼女は凄い力を持っているんですよ?
 悪用されれば大変なことになると思うんです」
「だろうな」
言われなくても分かっていると言う顔をする岬に、弥生はさらに言葉を告ぐ。
「だったら、変な虫がつかないうちにキープしておいた方が良いじゃないですか?」
「キープって…あのな…。そんなの俺だってわからないだろ?
 心の奥で、密かに世界制服だかなんだかの野心を滾らせ(たぎらせ)ている可能性だって十分に…」
「え?あぁ、先輩なら大丈夫ですよ」
「何でそう言い切れるんだ…。いいか?どんなに善人面していたって人ってのは…」
「だって先輩、凄く面倒臭がりじゃないですか。
 きっと万が一つにそんなこと考えたとしても絶対実行はしませんって。
 ていうか先輩…まさか、それで善人らしく振舞っている積もり、あるんですか…!?」
「……いや……まぁ…………別にいいけどな…」
結構的確な観察眼の積もりである。きっと反論が無いのだってそれが図星であるからに違いない。
閑話休題、弥生は再び真っ直ぐ先輩の顔を見据えて言う。
「お願いします。もし変な風に力が揮われ(ふるわれ)てしまったらきっと傷つくと思うんです、あの娘。
 そんなの可哀想です。それに私達、助けられたんです。
 だから…なんとか…力になってあげてもらえませんか?」
「ん…うーん…」
何とも言い難い態度と返事を示す岬。弥生はそこで再び顔を持ち上げた。
突然二人の声が聞こえなくなったことを訝しく感じたのか、まるで細心の注意を払い、
耳を澄ますかのような様子で覗き込んでくる美咲の視線が弥生の視線とぴたりと合う。
「ぁ…!」
それに驚いたのか小さく声を漏らしつつ上体を退く美咲の様子がおかしい。
弥生は笑いながら、しかし心を込めて大きな声で彼女へと伝えた。
「美咲ちゃん、さっきはありがと、それと…本当にごめんなさい。
 そのお詫びに…って訳じゃないけれど、先輩には是が非でもあなたの頼みを聞いて貰うからねっ!」
「…!本当ですか!?」
真に嬉しそうな表情を見せ、弾んだ声を上げるその素直な態度を微笑ましく思いつつ、
Vサインを作って大きく頷いて見せる。
「うん、任せて!」
「ありがとうございますー」
「って、待て待て待て待て待て…。何勝手に話進めているんだ、お前は…」
岬がすぐに抗議の声を上げるもスルーすることに。
というより、これまでの彼との付き合いからの経験則から、弥生はある一つの確信を得ていた。
先の曖昧な返答、あれはイエスと捉えておおよそ間違いないのだ。
何だかんだと色々文句を言っている岬だが、決して無下に断る積もりはないのだろう。
彼もまた、美咲の力になることに関して肯定的な考えでいるのだ。
もっとももう一押しくらいは必要そうだが。
「あ、そう言えば自己紹介がまだだったよね。私は御崎(みさき)弥生。よろしくね、美咲ちゃん」
「こちらこそよろしくお願いします」
と、そこで彼女はぽんと手を合わせ、何かを発見した子供の様に顔を輝かせて言う。
「…あ…!『ミサキ』さん…ということはもしかして…!!」
「うん…?」
「奥様っ!!」
『断・じ・て・違・う・!』
絶妙なタイミングでの異口同音。不本意ながらイントネーションや見事にハモる声と声。
苗字が等しい上に、行動を共にすることが多く、何よりこういうことがしばしばあるものだから、
署内ではやたらにからかわれたりするのである。『息ぴったり』の『おしどり刑事』だの何だのと。
「あぅ、す、すみませんー」
が、この娘には些か強すぎたか。首をすくめて申し訳なさそうに詫びる美咲を眺めながら、
弥生は今まで再三思ってきたことを改めて深思したのであった。
(あぁ…ホント、可愛いなぁ…。何か…先輩には勿体無い気がしないでもないかも…)